2021年01月08日

中立なメデアはない (アメリカも日本も左右に分かれるートランプ大統領を攻撃するメデア)


中立なメデアはない

(アメリカも日本も左右に分かれるートランプ大統領を攻撃するメデア)

メデアは媒介するものとか中立とかの意味がある
でもメデアは中立ではない、明らかに意志をもった存在である
そのメデアの意志を通すために放送する
まずトップで会議を開くどういうふうに放送するか決める
意志決定するのである
それで原発事故でもまず原発避難者側についた発言をすることを決めていたのである
津波被害者もいたが原発避難者が注目されていたのでそうした
それで何か相馬市のトマト業者が飯館村の人を雇わないのは冷たいと言わせたのである
それはNHKの意図をもってそう放送したのである
いわき市の団地でも津波被害者が原発避難者を冷たく扱い仲間はずれにしていると暗に非難させていた
それは原発避難者が多額の補償金をもらっていたからである
津波被害者はもらっていないかったのである
ただそこを無視した、最初から津波被害者側につくことをNHKは決めていたのである
ただ後から両者が和解する方向に放送した

このようにまずNHKはメデアをもっている、放送することができる、そのことで第三の権力ともなった、放送は必ず偏るのである、でもNHKとか他でも何か中立のように見えるのである
だからたいだいは気づかない、ただ私が気づいたのは地元だったからその背景がわかっていたからである
原発避難者は多額の補償金をもらっていた、だから生活に困らない、でも津波被害者は相馬市でもいわき市でも何ももらっていなかったからだ
その差が大きかったのである
もちろん原発避難者にも言い分があり当然だともなり批判したらお前は地元なのに情がないのかとまでなる、NHKでもそう言っているのになぜそうなのだとなる
つまりNHKがお墨付きを与える力をもっていたのである
NHKに取り上げられればそれで知れ渡りそれが正しいとまでなるし人物でも社会が容認するとなる

そしてトランプ大統領でも選挙の時、メデアから聞こえるのはとんでもない奴だとかメデアでは報道しなかった、マスコミはメデアはトランプを常に批判していたのである
だから日本でもNHKでも全部がトランプを批判する立場になったのである
あんな人が大統領になるわけがないとなっていたのである
それはメデアによってそう見せられていたのである
なぜならメデアは民主党側についていたからである、つまりメデアによって常に報道は歪曲されるのである

日本のマスコミでもメデアでも偏っている、左派系がマスコミを支配している
それでインタ−ネットとかyoutubeが生れてそこで放送しているのは右系統が多いのである,マスコミはテレビは右系統を排除することが多いからである
それはネットを見ていたらそのことが明確に対照化されたのでわかった
つまり赤ばかり見ていると赤に染まる、黒ばかり見ていると黒に染まる
マスコミは特にテレビ系統は赤であり左派系統なのである
そこては在日団体系統の支配とか中国寄りにもなる
それはアメリカでも同じである、共和党はナショナリストであり右系統であり民主党はリベラルとかである、また中国よりでもある
この辺は日本と似ているのである

右系統はマスコミから常に排除されて無視される傾向があった、右系統はマスコミではテレビでは発言できないのである
それでyoutubeで発言しているのはつくづく右系統だなと見たのである
この傾向は何かアメリカとも似ている、共和党は右系統だからマスコミから排除される
そしてなぜトランプ大統領が選挙は不正だとして抗議していた
そしてトランプ派の過激派が暴徒化した、死者まで出た
その経緯は良くわからない、でもテレビだと暴徒化させたのはトランプでありトランプは悪い奴だという選挙前と同じようになっている
一斉に攻撃されてまた日本でも同じである、トランプは悪い奴だということしかなくなったのである

そして暴徒がなぜ国会議事堂に侵入できたのか?

そき疑問をyoutubeで説明しているのを見た、アメリカ在住の人である
簡単には侵入できない、それを侵入させたのが警官だったとしている
それはわざわざ侵入させた、それは意図があってそうさせた
何かそれで悪者とさせるために侵入させたとしている
これは日本の戦争でも真珠湾攻撃はアメリカによって日本がそうさせられたとしているのとにている
つまりアメリカは真珠湾攻撃を知っていたけどわざわざ止めなかったのである
それは日本を悪者にして戦争へ突入させるためだったとかの陰謀だったとも言われる
イラクでもそうだった、油まみれの海鳥の写真を世界中が見てイラクは悪い奴だとなってしまったからである
一枚の写真がそれだけの影響を世界に与えたのである

いづれにしろ報道は必ずかたよる、それはメデアが中立ではないからだ
それでトランプがフェスブックでツイッターで別に暴力はやめろと言うことに対しても
その発言をさせなかった、アカントをはく奪までしたのである
つまりメデアをもっている社長がそういうことができたのである
これは大きなも問題だった、IT関係は民主党よりだからそうなったのである

アメリカで何が起きているのか?

それは日本とも似ていたのである、日本でも起こっていることでありメデアは中立ではないから起きて来る問題だったのである
メデアは赤一色にもできる、黒一色にもできるということである
それで偏るのである、だからインタ−ネットで相対化できる?うになったことはいいことである、なぜなら赤一色になることは全体主義になることだからである
相対的に見れなくなるからである、私は右でも左でもない、中立である
どんな団体にも属していないからである
何かの利権団体に属していたら中立ではなくなる、でもメデアはマスコミ自体が巨大な利権団体なのである
宣伝費をもらい利権を得る団体でありそこに公平さはありえないのである
それは報道するのに莫大な金がかかっていたからである
そうなるとどうしても宣伝費に頼らざるを得ないからさ金を出す会社に忖度するようになる
インタ−ネットだと報道するにしてもほとんど無料なのである
ただ手間は省けない、手間がかかるので前はホームページば出していたがまたワードプレスでもしようとしたができないのである
手間がかかりすぎるのである、技術的にもおいつけなくなっいたのである
そこにどうしても非力さを感じてしまうのである

【ワシントン速報G】世界中のワニがどんどん沼から浮かび上がっている。
タイガーもリン木もまだ諦めてはいない!!

冬の鴨(写生俳句のことなどー新年短歌)


冬の鴨(写生俳句のことなどー新年短歌)


lilynewyear11.jpg
今は仲良く姉と母が映っている


                                                  
新年や雲間に光る星を見る

冬の鴨数羽寄り合う今日も見ゆ

一時に散る木の葉二枚や風荒れぬ


玄関に出でて立ちにき新年を迎えて一人家を背負いて

去年咲きし薔薇の花かな年明けて散りしもその花我は思ふも

我が家や黄と紫の菊映えてその間に咲きぬ白百合の花

ふるさとに老いてあわれも枯芒鴨の寄り合い陽は落ちにけり

河原の芒は枯れて陽は落ちぬ今日も数羽の鴨の寄り合ふ

陽は落ちて夕映え残る河原かな芒は枯れて鴨の寄り合う

fuyuyuyake1111.jpg


今年を象徴していたのが雲間に光る星だった、その星は雲に隠れて消えやすいのである
つまり何か今の世相と呼応している、つまり何か文芸とかでも時代を反映する
その時代を読むことが最高にむずかしいのである
その時代をどういう感覚で生きていたかは一時代が過ぎると理解ができなくなる
例えば戦争から70年過ぎた、その時生きた人でないとその時代の雰囲気がわからない
そしてなぜ戦争になったのかということも未だにわからないし不可解なのである
それだけのことがあったのだから70年もすぎたら明確にわかっていいはずだがなぜ戦争したのかも明確ではないしわからないというのも解せないのである
確かにいろいろなこという人がいるが何か明確ではないのが解せないのである

それで私は原発事故のことを地元だから否応なく追及して来た、それは複雑でもその原因が明らかになってきた、それは地元でその事故を経験したからである
これも複雑にしてもやはり地元であり見えるものがあった
でも戦争となるとわからないのである
だから私が原発事故でプログで書いてきたことは地元から見た証人の役割りを果たしていたのである、ただ地元でもマスコミでも真実を語らない、取材もしない
それで地元について悪いことも書いた、するとそれは受け入れられないともなった

ともかく新しい年がはじまった、玄関に一人立つときもう私には家族はいない、でもは一人家を背負うようになったのである、家というとき建物だけではなく死んだ家族も背後にいるのである
去年あったことは今年もある、継続している
500円で買った花は良かった、フラワーアレンジメントでも金と時間がかかる
何か一人ではいろいろなことができない、家事に追われてできない

俳句でも短歌でも自分は写生を基にしている、これは別に才能がなくても作れる
見たままに本当に真実があるからだ、ただ写生俳句は平凡になりやすい、だかか鑑賞するのがむずかしい、その背後の意味をくみ取らねばならないからである
「一時に散る木の葉二枚や風荒れぬ」というときどういうことかとなると死んだ人をイメージする、この年になると同じ年代でも死ぬ人がいる、一時に二人死んだということもある、するとそのことをイメージするのである
写生俳句はこうしてその背後を読み取ることで深く鑑賞できる
俳句は短いから鑑賞する方がむずかしいのである、ただ見たままだとそれで何か特別なものがあるかとなるからだ

だからこの写生俳句と相性がいいのが写真なのである、写真はとにかく見たままを映すからである、そこに嘘偽りがないのである、でも写真でもまた本当に目で見たものをそのまま映すとはならない、なぜならその辺りの雰囲気をすべて感じくことは不可能だからである、だから写真をみて俳句でも短歌でも作れないのである
そこに機械の限界がある、その場に立たない限り人間は感じられないのである
なぜならその場の雰囲気は一部を切り取った写真でもビデオでも感じられないからである
鴨というと秋の季語である、冬となると冬の鴨になる、その鴨を毎日見ている
買物に行くとき河原にいるから毎日見ている、ただそれだけのことだが心にしみる
それはふるさとに老いてゆく姿にも見えるのである
つまり写生からそういうものがイメージされるのである
なんか老人がよりあっている、あまり語ることもなく静かに寄り合っている
そういう風景がイメージされるのである