2021年01月31日

すべて金で計算してもうまくいかない (旅でも親切にされたことで後で効果がでてくる―安宿旅行の回想)


すべて金で計算してもうまくいかない

(旅でも親切にされたことで後で効果がでてくる―安宿旅行の回想)
この世の中すべて金で計算している、金をどれだけとれるかを計算して仕事する
すると一番優遇するのは金持ちだとなる
それで旅館でもホテルでも金持ちは優遇する、特等の部屋に案内して泊まらせる
そこで収入が増えれば商売として成功したとなる
それは当たり前のことである、貧乏人はそもそも金がないのだから宿にとまるなともなる自転車で来るような奴は野宿しろとなる、それが似合っているとなる

それもそうなのだけど本当にそうなのだろうか?

すべて金で計算して商売になるのだろうか?

そこが疑問なのである、私は旅をしてもいかに安上りにするかが問題だった
それで安宿を探すのにいつも困っていた、最低でも5000円はかかっていたからだ
それで3000円の宿があったときはうれしかった

春の月安宿見つけうれしかな

こんなふうになっていたのである、私は金はいつもなかった、働きもしないからなかったでも旅はしていたのである、だから安宿を探していたのである
それが外国まで行って安宿を探すとは思わなかった
でも貧乏旅行者は安宿を探し回っていたから自分と同じだと思った
それはパリだったのである、そして東駅の方でも安宿探していた
そこには安宿があった、でも満員だった

東駅安宿探し落葉かな

意外とヨ−ロッパはホテルが多く安く泊まれる、高級なホテルもあるが安宿も多いから旅行しやすいと思った
そしてユースホステルが多い、そこでは千円とかで泊まれる
そこは別に老人でも泊まっていたのである
だからヨ−ロッパは旅行しやすい、ただ高級ホテルとなると馬鹿高くなるから泊まれないただヨ−ロッパなら城のホテルとか高級ホテルでも泊まる価値がある
つまりヨ−ロッパでは何でも歴史があるから違っているのである
そのホテルにしてもそうである、日本のホテルは新しいがヨ−ロッパは古いからである
ただそういうホテルとかに泊まったことはなかった
私はバックパッカーだったからである

でも旅となると別に貧乏旅行でもバックパッカーでもそれも旅であり価値がある
高級ホテルに泊まりグルメとなるのもいいが別に貧乏旅行でも安宿でもユースホステルでも旅の経験の価値としては平等に思える
本当は高級ホテルに泊まりまた貧乏旅行するのもいいとなる、その価値は別々であり経験の価値としては違った価値であり金持ちだから特別の経験するということはない
おそらく人生でもそうかもしれない、人間が経験することは限られている
だから貧乏の経験でも貴重だとなる、もちろん金持ちとしての経験も貴重である
でもどちららにも経験として価値がある

人間は経験するにしても結局時間が限られているから何か経験することでは平等に思えたただ金持ちだと留学とか習いものとかいろいろ金をかけてやれるので違っている
でも人間が生きる時間は限られている、金持ちでも時間だけは多く持つことができない
だから経験することでは平等の感じもした
バックパッカーでも海外旅行すれば安かったからである
ただ日本が貧乏になると海外旅行はぜいたくだとなる

私が旅で親切にされたのは覚えているのは二三回だけである
一番親切にされたのは鮫川辺りでまだ山の中に万(よろず)屋がありそこでご飯と味噌汁を御馳走になったことである、今時そんなことをどこでもしない
されたこともなかった、そういうことが今はしにくい時代である、便利だからコンビニで買いとかなるからである
もう一回は山形県の田麦俣から入った湯殿山ホテルだったと思う、そこはそれなりの大きなホテルだった
なぜそんな山の中にホテルがあるのが不思議だった、湯殿山の参拝のために利用するホテルなのか?
団体旅行用のホテルでありそれが自転車で行ったら泊めてくれたのである
それも確か無料でいいともいってきた、女将がそう言ったのである
そういう小部屋がありそこにとまっていいと言ったのである
そんなことをしてくれるホテルがあるのかとなる
それは全く例外的でありありえないことだったのである


yudonohotel33.jpg


でも旅をするときそういうことが心に残る、そういう親切はあとでも忘れないのである
するとどうなるかというと全体に影響する、あそこの市町村は親切な人がいるなと
その市町村自体の評価が高まるのである
そういう親切を人は忘れないからである
ただ現実は貧乏な人は来るな、そんなもの来ても商売にならないというのが普通である
でもそこに何か問題がある、金持ちしか優遇されないのだとなり悪い印象をもつともなるでもそういう親切は覚えていてあそこちいい人がいるとなるとき観光でも影響するかもしれない、そういう親切を覚えているからである
あそこは冷たい場所だった、人は親切ではない、道をまともに教える人もいなかったとかなんとかなる、現代はすべて金で計算する時どうしてもそうなりやすいのである

貧乏人だけ相手にしていると豊かになれない、でもそういう親切は長く心にととまりいつかその土地に恩恵があるかもしれない、ここで親切にされたからまた行ってみようとかなるかもしれない、それはわからないにしても金だけ計算して商売してもうまくいかないことがある
実際に私が介護で苦しんでいたときでも事業をはじめた人は借金して荷物一つもつもの嫌がっていた、金にならないことは一切したくなかったのである
でも百万をやったし金がないわけではなかった
ただその人はその時金にならないことはしたくなかったのである
そういう人がはたして事業とかなると成功するものだろうか?
それで損して得しろという諺が生まれたのである

ただそういう自分も事業のようなことをして同じ失敗しているから責められないとはなるやはり利益をまず得たいとなるからどうしようもないとはなる
それで事業はじめるなら資金的にも余裕がないとうまくいかない気がする
また長い目で見ないとうまくいかない、、だから資金的にも余裕がないとうまくいかないすぐに見返りが入ると限らないからである、でもそうなるとなかなか事業でもやれないとなる、それで自分自身も駄目だったからである
現代は変化が激しいし目先のことに追われる、長い目で仕事でも事業でもできないのである、競争も激しいから追われるように仕事をしなければならない
それで現代は国家百年の計などができない、変化のスピードが早すぎるからだ
中国の変化をみればわかる、十数年であんなに発展したのは驚いたからである

いづれにしろコロナウィルスで観光業は打撃になった、するとこれから観光業はどうなるのか、どうするのかが問題になる、近間を大事にして近間の人にサービスする
近間の人のくつろぎの場とするとかなる
でも金で計算するとどうしても東京とかの大都会の人を呼ばないかぎり経営は成り立たない、だから東京からの観光客が来ないことは大打撃になったのである
ただこれも時代の変化でそれに対応しないと生き残れないともなる
観光もオーバーツーリズムになっていた、京都などもう外国人とかで混んで異常だった
それがぱったり来なくななっというのも驚きだったのである
京都のような所は貧乏な人は相手にしない、粗末に扱われる
それは観光客があふれていて来ないことがないからである
でもそうなると人を粗末にする、それで観光客来ないとなり新しい手をうたねばならなくなる、人を呼ぶために観光客に貧乏な人でも親切にするとか変わる
それは希望だがそういうふうに観光も変わることは悪いことではないのである

もともとホテルはホステルとか旅人をねぎらう病院とも関係していた、ホステルとかかがホスピタルになったからである、そういう起源があるということはそこに本来の役割を感じて商売するということにもなる、そこが原点だからである
金持ちのためにだけ優遇してサービスするのとは違っていたからである
なんでもただ金だけを計算してしていると本来の役目とかも見えなくなる
それがかえって人も離れてゆくともなりかねない、ただまず利益だとなるから本当にむずかしいのである


親鸞の千人殺せの意味 (凶悪犯罪者でも罪の意識がないー受刑者のリアル)


親鸞の千人殺せの意味

(凶悪犯罪者でも罪の意識がないー受刑者のリアル)


刑務所で無期懲役とかなった人を取材していた、それで意外だったのは残酷な犯罪でも
その本人は罪の意識がない、たまたま運が悪かったとその場に居合わせたのが悪かったとか言っている、そして30年の刑務所に入っていても出所することを願っている
それだけの犯罪を犯したのだから何か罪の意識をもち反省しているのかと思うとしていない
でも犯罪者でもみんな罪の意識をもっていない、自分が悪いと思っていない
むしろ相手が他者が悪いと思っている

つかまったのが失敗だった!

それが余りにも残酷な犯罪を犯してもそうだったのかと意外だったのである
人間は人を殺しても罪の意識を持たない、罪の意識を持てないのである
ほとんどの人もみんな善人だと思っている、何か自分等もそうである
悪人と思っている人はほとんどいないのである
それが残酷な犯罪を犯していた人でもそうだったとすると軽犯罪になると全然罪の意識はない、盗みでも強盗犯罪でも罪の意識がないことに驚いたからである
そしたら軽犯罪で罪の意識を持っている人はいない、たまたま捕まったのが運が悪かったと思うだけである

ただそれにしても30年も刑務所に入っていたら反省するのかとみるがしない、それが理不尽だとも思っている、だから人間は必ずしも刑罰を与えても罪の意識を持たない
だから宗教で不思議なのは全然罪も犯していないのに私は罪の頭だとかいう宗教者であるパウロなどがそうだし優れた宗教者はそうである

親鸞が千人殺せ!

こういったのは人間はそれほど残酷な犯罪を犯しても罪の意識をもたないからだとなる
なぜなら一人殺してももたない、ては千人殺してみろということでとはないか?
そうすればその残酷さで罪の意識を持つともなるからそう言ったとなる

ただ人間は最後に俺は悪いことしてないと言って死ぬ人が多い
何かそういうのは後ろめたいことが誰でもあるから最後に罪の意識がでてきてまた何か悔いてそういうとなる

継母で子供を残酷にいじめた人が最後に「悪かったな」とその子供に言って死んだ
それはもうずいぶん年になってからである、でもそうなったのは眼が悪くなったりひどい状態になり助けもなくてそう言ったともなる
でもなにか人間は最後に悪いことをしたことを恐れるということはある
でも終身刑になるような人が罪の意識をもたない、むしろ運が悪かったとかなり自分の責任にしていないのである

こういうのを見ると人間で自分が悪人だと自覚している人はすでに罪の意識があり優れた人だとなる、自分が善人だとしている人は実は悪人だとなってしまう
でもほとんどの人は善人だと思っている
でも世の中で地位をもっていたり金持ちだったりする人は何か悪人であるかもしれない
でもそれだって悪人だと思わない、弁護士も意外ともめごとにかかわっているから
法外な金を得たりする、相談しただけで百万もとった弁護士がいた
これも悪人なのだけど責められない本人も罪の意識もないのである

だからなんであれ罪の意識をもっている人は人間として優れているともなる
俺は善人だとか言う人は実は悪人でありそういう人がほとんどなのである
それは自分にも言える、とにかく罪の意識をもつ人はまれなのである
だからそれだけでその人は救われているともなる
それで親鸞が千人殺せといったともなる
ただこれを理解することはむずかしい、それだけ人間は罪の意識だとか自分は悪人だと思わないのである

人間は何か苦しむ時なぜ苦しむのだろうと考える、でも苦しまないと全然考えない
何か苦しむ時、罰だとか何に原因があるのかと考える
それはカルマだと認識する、苦しむ時カルマを意識する
それは自分自身が家族の介護の苦しみで意識したからである

家には必ずなにかしらのカルマをどこの家でも背負っている、それが苦しみとなって現れると思ったのである、なぜこんな苦しみにあうのかとなる家でもカルマがありそのために苦しみを背負わされたとなる
ただ刑務所に入っている人が終身刑の人でもそうした罪の意識がない、カルマを感じないというのもわからないのである
刑務所の生活は不自由でもそんなに苦しみを感じないからなのかともみる
ただ30年刑務所に入っていてもいつか出たいというのが希望なのである
でも別に罪の意識はもっていないとなる

人間の逆説として(俺は悪人なんだ)と思っている人は実際は善人だということになる
ボランティアなどでも何か経験してみると俺は善人なんだ、だからほめられるべきだとなる、そういう意識が前面に出やすいのである,ボランティアしているから善人として認めろということである
でも人間がもし悪人だとすると俺は悪いやつなんだ、だからいいことは何もできない
ただ罪を悔いるだけだとなる
でもたいがい人間は俺は善人なんだとしかないのである
何か団体で行動するにしてもそうである、カルト教団で何か俺は悪人なんだなどと懺悔する人なと一人もいない、ただ御利益御利益しかないのである
それで何か苦しいこと損することがあると罰当たるとかしかないのである
その教祖も大善人であり悪人だなとと思いもしないのである
だからこの世の大善人は実際は大悪人であり悪人と思っている人は実は善人だという逆説になるのである