歌会始めが行われる
(桜咲く時期でそれも良かった―皇室は日本の文化の継承者)
この衣服は美が演出されている 橙色が映えるように演出されている?
天皇陛下
人々の願ひと努力が実を結び平(たひ)らけき世の到(いた)るを祈る
平けき世を願うと天皇の御歌ひびきぬ花も咲きしも
御殿(みあらかに)歌会始めうち集い新たな芽吹き年は変わりぬ
御殿(みあらか)に天皇言祝ぐ花の咲き紫の屏風映えにけるかな
休みしし御殿の内天皇の平和を願ふ花の影かな
「やすみしし わご大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤原がうへに 食(を)す国(くに)を 見(め)し給はむと 都宮(みあらか)は 高知らさむと 神(かむ)ながら 思ほすなべに
みあらかの意味はあらわれる、あきらかにするとかでありその場が御殿(みあらか)になった
天皇とはすべる統治る人であるスメラギその意味である
歌会始めは一月に行われる行事だったがコロナウィルスで三月になった
でも皇居に桜がはやくも咲いていた、今年は桜の咲くのが早い東京ではすでに満開である皇居の行事は一つの日本の文化の継承の場である
だから歌会始めの歴史も古いのである
天皇があって日本の歴史があるごとく古いとなる
何か天皇家というのは日本の文化の継承者でありそれを担っている
それで映された映像を見ると背後の紫の屏風はまさに高貴なるものの色である
それからもしかしたら天皇と后の服の色は演出されているのかもしれない
ただあの赤は真っ赤とも違うこれも高貴な赤なのか?
橙色の一種なのか、二人の赤は違っている
でも色彩的に絵のように映えている、美が演出されているとも見る
つまり御殿(みあらか)にふさわしいものとして演出されたとも見る
あの御召し物の色は何か違っているからだ
とにかく短歌は日本古来の伝統の文化であり皇室と密接に結びついている
短歌は朗々と歌うものだった、それが歌会始めで再現される
俳句だと歌うということはないからだ
新しい天皇が即位したときも皇居に秋の虹がかかった
それも不思議だったし皇居は一つの日本的な美的な場としてある
ただこれも京都の方が歴史があるし映える
もともと江戸城内はそういう場ではなかったからである
だから天皇は京都に住むのがふさわしいのである
政治的象徴としてもあるが日本の文化的象徴としてもあるからそうなると京都がふさわしいのである
今や天皇制がつづくのかどうかが言われる、時代にあわないともなる
明治維新で天皇をもちあげて薩摩長州が官軍となり明治政府を作ったことである
靖国神社にしても薩摩長州の官軍を祭っているのであり西郷隆盛は祀られていない
会津でも祀られていない、賊軍になったからである
それがまた継続していて太平洋戦争で死んだ英霊を祭っている
これも何かそぐわないのである、日本が世界史に参入したのが明治以降である
そうなると日本の神が天皇が世界の普遍性と合わなかったのである
また元号でも意味あるとしても世界化グローバル化すると合わなくなる
何事も世界史の中で位置づけられ価値づけられる時代になったからである
ただ短歌を作っているとその総元締めは天皇家だともなる
私自身も短歌を作っているからそれで文化の継承として日本の伝統を受け継ぐ者としてあることを自覚するのである
でも時代が変わるということはさけられない
これまで戦前までは農業が中心となっているからお題でも
田家煙
田家雪
田家朝
漁村曙
農村新年
農村のことをテーマにしていた、今ならそういうことはない、東京には第一田家など診ないからである、ビルと人家に埋め尽くされているからである
そこには田んぼも畑もないからである
天皇とはやがて日本の文化的象徴としては残るが政治的象徴としては消えてゆくのではないか?グロ−バル化したとき合わなくなったのである
元号だって何か合わない、元号の意味が何か現代に合わないのである
たた美的なものとしては伝統としては残る
何か日本の絵巻物のような歴史を再現しているからである
歌とは訴えるの意味であり歌を通じて庶民でも訴えていたのである、それは万葉集の時代までであった
平安時代になると貴族の歌にな庶民の歌は消えた、訴えることがなくなったともなる
だから万葉集の意義は大きいとなるが古今集は貴族の歌を集めたモでありもうそこには階級化して庶民は訴えることもできなくなったということになる