霞と海と桜花
(世の中は 地獄の上の 花見かな. 小林一茶)
亡き女(ひと)の霞の中に面影やなお消えずして愛は通いぬ
愛らしくむつむ山鳩や里は霞みぬなごみけるかな
梅散りてなおにおいこく桜咲き装いあらた錦なす里
苦しみを耐えてこそあれ春は来ぬ霞に映える桜花かな
苦しくも生きてあれこそ春めぐるその喜びに神の国見ゆ
日本にそ生きてあれこそいづこにも桜の咲きて装いにけり
船通ふ海の展けて桜咲く朝の光りに山より望む
敷島の大和に生きて海開け朝の光に桜咲き満つ
川の面の朝日に光り鶯の鳴きて桜咲き山は霞みぬ
ふるさとも春の錦やよみがえる悲しみこえてここに生きなむ
今年の春のテーマは霞である、その年により感じるものが違うのである
日本の詩歌とかみるともう俳句で表現するのは無理に思える、短かすぎるからである
ただ不思議なのは短歌はまだ活きる、それは長いから表現できるとなる
俳句だともう感情的なことは表現できない、だから写生になる
短歌も実は私はアララギ派であり写生を基本にしている
でもどうしても短歌は感情的なものが入ってくるし表現できるのである
春の霞のなかに何かほのぼのとして亡き女が浮かんでくるともなる
というのは自分はなにか特別家族に恵まれたからである
複雑でも二人の母親がいたともなるからだ
何か争っていても自分にとっては二人の母親に恵まれたともなる
それもなかなか他者には理解できないがそのことで私は特別な想いを親にもつようになった
ただそれが介護になり死んで地獄と化したのである
この世の非情と冷酷さを一身に浴びることになった
来たのは地獄人間だったのである、悪鬼のごとき人間だった、だから人間はつくづく恐ろしいと思った、人間は弱者化するとそれをいいことに責めてくる
そして他者の苦しみは蜜の味となる、田舎だと特にそうなるのである
ただ現代は金だけの世界となり全般的にそうである
地獄という時、それが人間が地獄を作りだしているのである
自然は地獄を作りだすというわではない、確かに自然災害があり津浪でも空恐ろしい地獄が現出した、だから自然も地獄を作りだすとなる
でも何か自然には悪意があってそうしているのではない
つまり科学的に見れば別に自然に悪意はない、自然の法則がありそうしているだけだとなる、人間を苦しめてやろうとなどしていないのである
でも人間は悪意があり欲があり人を苦しめる、地獄人間となる
そして人間の作りだした地獄の方が自然災害より怖い、戦争で三百万人死んだとか原爆だとか原発事故でもそうである
ただ自然災害でもウィルスとかなるペストがあり病気があり最悪になった
人間の地獄はまた病気にもあったのだ、どれだけ病気に苦しめられてきたかそれは今も継続している、老後はいくら金をもっていても病気になって寝たきりになったら何にもならないとなるからだ
いづれにしろ人間が地獄を作り出す、借金している人は地獄人間と化す、もう相手のことを人間とも見ない、借金が理由で犯罪者になるのは普通だからである
そんな人が来たのも最悪だった、こうして自分は最悪の苦しみを受けたのである
人間の欲とは本当は実に恐ろしいものなのである
人間は金によって欲によって変質するからである
そして平気で人を殺すともなるからだ
人間の恐ろしさはエゴにある、他人はもう人間でもない、ただ利用するだけのものにもなる、今なら金のために人間があるのであり金にならないならもう人として扱えないとなる非情の世の中である、そういう地獄がこの世の現実だとなる
人間は非情化して外道化して獣化している
それこそ地獄化している、そういう人の中に生きているこそ地獄なのである
ただ救われているのはそういう世界でも春が来れば自然が装い美がありそこが今度は逆に神の国を想わるのである
そういう美がなかったらただ獣が徘徊する地獄に住むことになる
そんな世界に耐えられなくなる
ともかく本当にここ十年くらいは地獄を見た、その前にも見たが人間の恐ろしさは人の皮をかぶった獣だということである
その中身はただ欲でありエゴなのである、だからこの世が滅ぼされても不思議ではない
それで霞の中に隠された村があるということが平和なのである
人間の暮らしは隠されるべきだったということである
それは人間自体が醜いし人間が作るものも醜いからである、それは大都会とか東京を見ればわかる、そこに自然がないから美がないのである
世の中は 地獄の上の 花見かな. 小林一茶
この世はまさにこうである、地獄の中にも桜が咲いているということである
地獄に美があるから救われているのだ、だから生きることもてきるのである
その美があふれているのが春だとなる
日本は今桜によそわれてどこも美しいのである、それを見れば日本に生れて良かったなとなる