2021年04月02日

一人暮らしから考える、感謝なき社会 (自分が自分をサービスするしかないあとはロボットにさせる)


一人暮らしから考える、感謝なき社会

(自分が自分をサービスするしかないあとはロボットにさせる)


一人暮らしというのは何か、それも不思議だとなる、というのは私は何度も書いているように家族がしてくれた、食事の用意もしてくれた、でもそのことで感謝とかもしなかった何か当然のように思っていたのである
それが家族がみんな死んで一人暮らしになり全部家事からなにから自分一人ですることになり気持が変わった
確かに学生時代とか一人暮らししていたことがあった
でも食事つきなのでやはり提供されるだけだから一人暮らしとも違っていた

一人暮らしだと助けるのは自分自身しかないしサービスするのも自分自身がしないかぎり誰もしてくれない、つまり自助しかないのである
何かいたわる人もいないから病気なになったりしたら悲惨なのである
それで不思議だったのは食事を用意する、台所と居間が離れているのでトレーで運ぶ
これは何かレストランとか食堂でされことである
今は運ぶのが客がしているから多少違っていてもやはり他人にしてもらっている
他人にサービスしてもらっている

ではそうして食事の用意でも全部している、家事でも全部していることは何なのか?
それは自助でありそもそもサービスしてくれるのはもう自分しかないのである
何かうまい料理かが食べたいなといいうときそれもない、外で買うほかない
食堂やレストランに行くほかない、でもそれも飽きるのである
だからどうしても自分で料理をしないかぎりうまいものが食べられないのである
結局それがほとんどできないからできあいのものですましているだけである
もし料理にこったら時間がかかりすぎるからである

とにかく自分を愛するように他人を愛しなさいとキリストが言う時、そもそも人間はまず自分自身を愛すのであり他人は常に二の次である
他人のことを第一にして愛している人などいないしできないのである
そして一人暮らしとなると独り身となると家族がいないのだから愛する人は自分自身しかいなくなるのだ
だから毎日食事するでもなんでも家事でも自分を良くする愛することから始まっている
実際に自分自身が自分のために何かしなければもう食べることもできないからである

今日も食事の用意をしました、食卓まで運びました、どうぞ食べてください

それは自分自身がしなければ食事すらできないからそうなっている
でもなんかそうして食事の用意をしてありがとうという相手はいない、自分自身がサービスして自分自身が良かったとなる
でも自分自身に感謝するもの変なのである
ただ自分自身が自分にサービスしないかぎり食事も何もできないということである

では他人のサービスはどうなるのか?他人はただ金のためにサービスしているのである
まずその人のためにサービスするということはありえないのである
不特定多数の人にサービスして金をもらうことでそうしている
ただ常連客とかなると助かるので特別サービスするということはある
サービス=金なのである、でもいくら金をもらってもサービスする心はもていないのである、金もらえるから仕方がないなと嫌でもしているのである
嫌でも笑っているとかなる、心からサービスすることなどないのである
水商売の口先のサービスなど誰も信じないのである

ところが一人暮らしになるとサービスするのは自分自身だけであり自分自身を愛さないものはいない、だから心から自分にサービスするサービスしたいとなる
ただ料理などがめんどうであり手間でありできないともなる
そういいう心があっても今度はできないともなる
人間は自分を愛するように他人も愛しなさいというとき自分を愛することが先であり自分ならこうしてもらいたいということをする
でも他人はしない、ただ金によって強制されてしているだけである
それがわかるのは倍とか三倍の金を払う金持ちにはサービスをする
でも貧乏人にはサービスはしない、金によってすべて差別される
サービスが買いたいとしても金がなければ買えないのである
ただそうして金持ちにサービスするのもは心から自分を愛するようにするのではなく金のためにしているとなる

だから召使とか手伝さんとかいてもその人は粗末な風呂に入っている、一方で雇われてる家てユニットバスで大きな風呂に入っている、その時その風呂でも掃除する気になれのか?
もし自分もその風呂に入れるならきれい掃除しようかなる
でもそでないとした金で働きサービスするだけである、つまり掃除する動機がもてないである
ただそれは金の多寡で図られだけである

人間は実際他人のためには何もしたくないのである、箱一つも持ち上げたくない、それが経営している人を見てわかった、その人は借金しているからこともあったが自分が苦しくても何一つしたくなかった、ただ金をが欲しかっただけなのである
その人が経営者になったのも金が欲しいとか人に偉い能力ある人として認められたいしかなかったのである、会社を始めた動機がそうだったからである

要するに他人のためには何もしたくない、ただ金をくれ!

結局人間はみんな自分も含めてこれではないか、他人のために何もしたくないけど金がもらえるからいやいやながらしているとなる
そこでこうしてそもそも金が介在すること自体が人間を歪めるものとなっているのだ
人を雇ってみればわかる、ただ不満しかないだろう、なぜならその人は他人のために何もしたくないからである
すると雇い主が強制しないと本当に何もしない、雇われても働かなくても何もしない
ただ賃金だけは要求するとなる、これが人間なのである
他人のためには物一つも持ちあげることもしたくない、ただ金は欲しいとなるだけであるだからこの世は地獄だともなる、そこに愛など通わないのである

家族が出す食事は例え貧弱でもそこには愛がこもっているから違っている
ただそれでもそうした貧乏は嫌だとなることも確かである
愛では腹のたしにならないともなる、ただ人間は自助が先にあり共助とか公助は義務のようなものであり本来はない
家の中が汚れても命令しないかぎりしないのが雇われた人である
そこは自分の家ではないからである、自分の家だったら汚れた所に住んでいるのが嫌だからする、それは金とは関係ない、金もらったからするのではない
でも何か自分の家だったらそうだが一歩家から外に出るとそういう感覚がなくなる

要するに今働いている人は社畜だとか言ったり奴隷なんだよというときまさにただ金の力でサービスされているだけなのである、本来は他人のために箱一つでももちあげる気持がない、金をもらいたいということはあっても他人のために尽くすという気持ちはない
それが人間の社会を歪めているのである、つまり愛なき世界にしている
だから殺伐として弱肉強食の世界になる、他者を思いやるとかサービスするとかを心からしている人はいないからである
だから一見豊かな生活をしていても人間社会は不幸だとなる
人間は本質的に他人をおもいやることができない、エゴだからである
他人は自分のために利用するものであり金で使うものでありそれ意外の何ものでもないとなるからだ

だからキリストの使うより仕えないさいと弟子の足を洗うようなことは絶対にしない
その逆が人間の真実である、足を強制的に金の力であれ洗わされる
そして金をはらって感謝もしないのである、常に感謝しろというとき金を払っている方なのである、強い者が弱い者をそう強制させられる社会だから不幸だとなる
俺はお前に金を払って足を洗わせた、だから俺に感謝しろとなる
そういう社会であり人々の中に不満が鬱積している、そこに金持ちがいたとしてもその人たちへの怨嗟も大きいのである、そういう社会たからいつまでも平和はないのである
だから平和というとき戦争がないことではない、普通の日常の中に平和がないのである

結局なぜロボットなどがこれほど発達してくるのか?労働が機械に自動化されるのか?

それは誰も他人には心からサービスしない、気持がもてない、そうならばロボットに掃除でも料理でも何でもしてもらった方がいいとなる
雇う方でもロボットの方がいい、現実に雇っても自主的に何かサービスするということはない、ただ命令されてしかたなくしているからである
それならロボットの方がいい、不満も言わないからである
そして人間は働く場所がなくなる、でも金が必要だからベーシックインカムで生活するのがいいとかなる
それは誰も自主的に働きたくない、他人にサービスしたくないからそうなったのかと思うサービスしてもらいたいがサービスをしたくないからである

でも人間はお手伝いさんとか直接的に雇うというサービスでないにしろ複雑に他人からサービスを労働として与えられている
それは金を通してとか複雑でわからないが他人のサービスなしでは生きられないのである何か食べるもの一つでも苦労して作っているからである
ただそれでも金を払えばいいとしてその作った人に感謝などしないのである
心に感謝があっても金を媒介するときその気持ちは消失する、金払えばいいとだけなるからだ、何かそこで金というのが貨幣が発明されたときから社会を歪めるものとしてあったすべては金だということでギリシャでも嘆いていた、それもキリストが生まれる七〇〇年前とかにそうなっていたのである

posted by 天華 at 21:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年04月01日

桜満開ー相馬市へ行く(八幡神社ー相馬の城跡ー松川浦−写真で見る)


桜満開ー相馬市へ行く(八幡神社ー相馬の城跡ー松川浦−写真で見る)


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熊野神社


相馬の城跡

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田町通り

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相馬の街道


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パノラマ写真

きれいに見るにはクリック拡大

サイズが大きいのでクリックしない見映えしない





宮の池桜満開金の鯉

着物来て桜に映える少女かな

三々五々は花見の人や城の跡

初燕相馬の城下にぎわいぬ

新しき田町通りの柳かな

紫木蓮相馬へ行くや夕べかな

街道に残れる松に夕桜

走りつつ星の光るや桜かな


いづこへと我は行きなむ分れ道心気ままに春の浮雲

(八幡神社)

朝日さし桜は池に映り映え三匹ほどの錦鯉見ゆ

(熊野神社)

杉高くここに根付きて残りしも社はすたる春になれども

(相馬の城跡の桜)

城跡に咲きし桜や重なりて相馬の栄ここに築かる

城跡に花盛りかな相馬藩新たな栄ともに築かむ

相馬藩いたく傷つくさにあれど春はめぐりて新たな息吹

木蓮の真白く映えて桜咲き連なる山や陽は昇りけり

(松川浦)

松川浦春の光の水面にそはねてまぶしも霞む山かな

天地に海の展けて春日照り日本の国土うるわしきかな

大いなる旅路にあれや我が国土四海に臨み春の陽没りぬ

海広く視界開けて沖に船春日かがよひ海に没るかな

広々と暮れゆく海や春の陽の燃えつつかがよひゆらめき没りぬ

海鳴りの四方にひびきつ春の陽の山にかがよひ没りにけるかも

日本列島四海に望み輝かむ生きてこそあれ天地とともに

山に月没りけあかつき海明けて春陽かがよひ鴎飛びゆく

一二羽の鴎飛び来ぬ松川浦ここに休まむ春の夕ぐれ




相馬市へ桜を見に行った、風は吹いていたが快晴で気持ちよかった
何か今年はすでに木蓮も盛りとなり咲いている、梅が散って匂いが濃く充満していて
桜が満開となった、つまり一時に春の錦となったのである
木蓮は遅く咲いているからである
春が早めに来てすでに春爛漫になったのである

相馬市の入り口辺りで熊野神社があったがすたれていた、参る人もいないようだ
そういう神社も増えてくる、なぜなら農村の共同体の中心として神社があったからだ
それがなくなると神社もすたれる、共同体が喪失してゆくからである
あの熊野神社は杉が高いし相当古いともみる、その杉が古さを語っている

松川浦は見晴しが良くなった、前は松原があってこんなふうに見えなかった
ただ松原があったときはそれが景観を作っていた
松川浦は景観としては津波で消えてはいない、海辺の磯部村は消失した

ともかく春の松川浦は絵になり写真になる、この辺では浦とか入江がないからだ
それで八沢浦が本当に津波で入江になったときは驚嘆した
その入江に波がよせてきらきらと光っていたのである
松川浦ではあのように波はよせない、穏やかでありあのような波は寄せない
浅いこともある、あの時相当に海が入り深くなっていたから波が寄せたのかもしれない
もしあのような風景がもどっていたらここは名勝の地になっていた
今はそうした景観は変わり殺風景にもはなった

松川浦に夕日が没り一二羽鴎が海から飛んできた、松川浦に休むのだろう
休むにはいい場所だと見た
ともかく今は写真をとるにはいい季節である、絵になる風景が多いからである
桜の問題はすぐ散ることである、だから桜の名所が日本だといくらでもあるが実際は見るのは限られているのである
二週間くらいで散ってしまうからである、それで私は日本全国をこれだけ旅してもやはり桜を見たのは限られているのである

相馬市では初燕を見た、この初燕はどこで見るか年によって違っている
今回は相馬市で城下で見た