2021年04月08日

丸森の筆甫(ひっぼ)の桜 (宇多川をさかのぼり丸森町の筆甫を回る)


丸森の筆甫(ひっぼ)の桜   

(宇多川をさかのぼり丸森町の筆甫を回る)

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宇多川上流の滝

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山全体がソーラーパネルに

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古田口

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ここでばあちゃんに家の由来を聞いたーその桜


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筆甫の古い家

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この家は山に囲まれ閉ざされていた

ここも幽霊屋敷になる




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辛うじて御堂が残った




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台石

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朝静かこの道一人花の影

花また花において遠くへ走るかな

山桜高きに映えて朝の滝

朝桜映えてとどろく滝の音

(丸森の橋の台石)

散る花を台石とめて鎮まりぬ

台石に椿の赤く花の散る
                 


塩手にそ佐藤氏の由来我が聴きて霊山の方へ春に行くかも

(筆甫)

南朝のいわれを語る桜かな丸森の奥隠され咲きぬ

筆甫なるウバヒガン桜をたずねきし名古屋の人のほめて帰りぬ

筆甫なれ坂上り下り山桜高きに映えて家々のあり

あざやかに枝垂れ桜や五十年すぐと語りけるかな

古材を活かして建てぬ家なれや黒くもあれば古しと見しも

分け入りぬ古田口の一軒の家に桜やなお住みにけり

山深く誰か住みにし隠されて空家に咲きぬ枝垂桜かな

筆甫なに墓所をたずねてその姓やここの歴史の謂れを知らむ

山深く碑は何語る伊達の領春の日たずね由来しるべし

塩釜の碑の多しは伊達の領春の日めぐる丸森町を

筆甫なる道の高きに山桜映えて時にし風のゆすりぬ

山々に閉ざれ筆甫住む人や暮らしを思い春の日たずぬ

(橋のたもとの台石)

重々し台石ここに丸森や川はゆうゆうと春の日暮れぬ

阿武隈川流れゆるやかその岸に桜の映えて丸森暮れぬ

春の日や阿武隈川のかなたへと道はつづくや我は行きなむ


丸森町南西部、内川支流の流域にあたる。北で字不動・字石倉・字薄平・字四重麦五・字四重麦四・字四重麦三・字四重麦二・字四重踏石・字峠橋元・字峠野上・字峠向・字峠革踏石、東で字上滝西・字上滝東・大字大内および福島県相馬市山上、南で相馬市東玉野・玉野、西で福島県伊達市霊山町大石・梁川町白根・梁川町山舟生と接する

丸森に宇多川をさかのぼって松が房ダムから入った
途中工事していて自転車で行けないと思ったが工事している人が通したくれて助かった
今でも去年の台風の被害がありいたるところで被害があり道が壊れて通れないのである
まず車だともう通れない、自転車だとなんとか通れる場合がある
それでこういうときは自転車が便利だか前が突然陥没していたりして危険でもある
この工事は長くつづくから困るのである

松が房ダムを出て古田口とりパス停の表示がある、でもバスは通っていない、でもこのバス停の表示は地名がわかるので貴重なのである
古田とあれば新田ができて古田となる、古町も新町ができて古町ができる
だからそれなりに古いともなるがこの辺には家も見当たらないのである
その一軒だけが目立つ、なぜここに家が残っているのか感心したのは山村は過疎化になり空家化しているからだ、ここも山に閉ざされているから空家が目立ったのである

最初に逢ったのは道で何かしている、そこの枝垂れ桜がきれいだったので聞いてみた

「この桜は古いですね」
「これは50年前に植えたものですよ」
「そうですか、50年でこんなふうになりますか」
「私は古い家からその土地のことを調べているんです」
「それでこの家が古いかどうか聞いたんです」
「そうですか、私の家は古くありませんよ」
「でも家の柱とか何か黒くて古く見えます」
「これは古い家の木材をとりよせて使ってからです」
「そうですか2、もともと古いものだから余計に古く見えるですね」
「こちらは後から継ぎ足したんです」

何かこの家が建ってこの枝垂れ桜を植えたのは50年前というとき私の家と同じころである、オリンピックのことを言っていたから東京オリッピックの頃である
それも昔になってしまった、ここの家は別に古い家ではない、農家でもない、だから新しいのである、新しいと言っても50年過ぎるとやはりそれでも古くなるのである
50年過ぎればこのように枝垂れ桜でもきれいに咲くということである

ただこの家は古くないので歴史を知るのはむずかしい、すぐ近くに寺がありそこに行ってみた、というのは私は必ず墓地によりその土地の歴史を探っているからである
こういう辺鄙な所が姓が限られていて一族が住んでいることが多い
引地とかはそうである、なぜなら金山城にも引地館とかあったからだ
引地一族がかなり力をもった地域である

宮城県白石市沢端町では福島県の会津の塩ノ松にあった引地舘に戦国時代に居住して称したと伝える。福島県二本松市上長折・下長折付近(旧:塩松)が比定地。塩松はシオノマツ。南北朝時代に記録のある地名。地名は「四本松」とも呼称した。宮城県仙台市青葉区川内が藩庁の仙台藩士に江戸時代にあった。

丸森でもそうだが中通り方面とつながる歴史がある、第一霊山は中通りの豪族が集まった地域である、郡山の多田野村は有名である、それが只野氏の由来なのである
南朝が炎上したとき落ち延びた武士の一団が南相馬市の鹿島区の真野に逃れた
それで只野氏は鹿島区に只野という姓が50人くらいもいるのである
それから相馬市の山上の方の塩手山のあるところは実は古い家があった
佐藤一族が南北争いで逃れてここに住みついたらしい
その佐藤氏の由来は医王寺にある佐藤一族らしい、義経と深く関係した佐藤氏である
それから磯部館の佐藤氏であり今の相馬市の道の駅の鬼越館に移った佐藤氏である
この佐藤氏は伊達市が先に支配していた昔の中村、今の相馬市にも勢力があり相馬氏が進出したとき争ったのである
ただ佐藤氏はこれは多すぎるからまぎらわしいのである、ただ医王寺と関係していてそこの佐藤氏一族系統である

それでうばひがん桜の由来がその霊山の南北朝の争そいにも由来していたのだ

高さ約30m、根元の幹周り10mの古木で、樹齢500年以上と推定され、4月の下旬にはひがんざくら特有の淡く小さな花をひっそりと咲かせます。
丸森町指定文化財(天然記念物)。

近くには南北朝時代、北畠顕家が霊山城を築いた際、鬼門であるとして薬師如来を祀ったといわれている薬師堂の小祠があります。

これは親王桜とも言われているからだ、つまりこの筆甫の地名由来自体、筆のはじめというとき伊達政宗と関係して名付けられた、ここは伊達と相馬の境の玉野村に近い
そこに境の桜がある、

伊達と相馬の境の桜
花は相馬にみは伊達に

筆甫は相馬氏との境目でありそこで筆の始めというときここが伊達藩の領地と記したことになる、現実に金山城は相馬氏の井戸川将監が最初に城主となっていたからだ

 

歴史が交差する場所は注目すべきである
何かその土地のことを知るにはその土地の人と他愛のないことでもちょっとでも話すとわかることがある、でも古い家だからといって訪ねて聞くわけにもいかない
ただそこに住んでいる人はその土地のことをどんな人でも外から来た人よりは知っているのだ、第一道自体がわからないからである
たまたま塩手では旧家の人とあって話しできたから良かったのである
そういう人とはなかなか出会いないからである

それから四重麦(よえむぎ)という方向へ向かう案内板があった
この地名は気にかかっていた、ここから入るとそこに行くのかと見た
ただこの由来が良くわからない、麦と関係していることは確かである
麦を作っていたのかとみる、ただ麦といってもいろいろあるからむずかしい
それで子供の時麦御飯を食べていたから思い出す、その麦御飯がうまくなかったのであるでも麦には栄養があり江戸患い(えどわずらい)という脚気にかからない効用があったのだ、白米はうまいにしても栄養がかたより脚気になった
ビタミンB1欠乏症です。 胚芽部分に含まれるビタミンB1をそぎ落としてしまう白米中心の食事が原因だったからである
食べ物は何か偏ると良くないのである、いろいろなものをまぜるといいのである

ただここでどうして四重麦となっているのがわからない、南相馬市の片倉村の坂をおりる所に八重米坂とある、この米は長野県の八重米原と関係あるのかもしれない、なぜなら
そこに初発神社がありそれが長野県と由来しているみたいだからだ
ただこの地名の由来がわからない、こういうことはなぜわからなくなったのか?
それは山村であれ農村であれ何か昔からの暮らしが生活が消失しているからである
今山村でも昔の様な山の暮らしをしている人はいないからである
だから不思議に思うことはどうしてこんな山に閉ざされた所で生活できたのかということである

丸森で有名なのは木材資源を相馬藩と米沢藩と伊達藩で争ったことである
それだけ木材が今の石油のように大事なものだったからである
電気もガスもない時代だと燃料は炭であり炭すら高価なものでありそんなに使いなかったただ山村は炭を売っていたから豊かになった家もあった
丸森はそれだけ木材が豊富だから争いの地になったのである
それで迷って森を抜け出れない恐怖を経験したのである、それだけ森が深いのである
ただその山がソーラーパネルの山になっていたことには驚いた
結局森の木材が外材になったりして利用されないからソーラーパネルになってしまう
電気が昔の炭の燃料に変わったからである、それか景観を壊すしまた台風などきたら住民にも被害がでてくる、そして十年くらいしかもたないとか廃棄物が公害になるとかいろいろ負の部分がある、でも山の木材を利用できないことがそうする
収入がなければ暮らしていけていからである
だから狭い田畑はこの辺でも原発事故以後利用する人がいなくなりソーラーパネルにもなっている、土地を活かせない、小規模の田畑でも労力が相当にかかり老人がふえて跡継ぎもなく耕作放棄地が膨大になっているからだ
だからどうして山村で暮らしが成り立ち過疎化してきたかを知るべしだとなる

私の子どもの頃は水は近くの井戸水をもらっていたし燃料は炭でありまた風呂は外風呂であり鉄砲風呂で木材の端材をもらって新聞紙と一緒にして燃やしていたのである
それが自分の仕事だった
つまり今日本が貧困化しているとき必ず電気水道ガスを止められて困る人が多いのであるそこに具体的に貧困化が見えるものとなっているのだ
今着ているものを見ても貧乏なことはわからないからである
だからなぜそんな辺鄙な場所で生活できたのかという時、人間最低限その住んでいる場で食糧があり燃料がありとかして生活できていたのである
それがわからないということはイメージできないのはそういう生活があったことを経験していないからである

ただ空家が多いというのはまたそういう最低限の生活もしにくいということで住まなくなる
現実になぜ飯館村とかでも原発事故で多額の補償金をもらったときみんな一斉に流出したのか?それはもうそうした山村生活より便利な街へ移った方がいいとなったからである
それで筆甫とかでももし補償金をもらった飯館村のようになったとみる
なぜならやはり空家が多くなっているからだ、それは全国でそうなのである
山村とか過疎地域は暮らしにくくなったからだ
そういう場所で電気水道ガス代を払うことは負担になるからである

麦に関してはいろいろあり私の裏の畑は麦畑があり桑畑があった、桑は養蚕のために必要だった、麦畑もどこにでもあった、ただどういうわけか麦という地名はあまりにも少ないのは何故だろうかともなる、米が主食であり田の地名が多いのはそのためである

『会津農書』にみる麦の栽培と民俗  PDF  佐 々 木 長 生
https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp :  ...

この人は同じ町の出身だった、麦についてこれだけ調べるというとき学者だとなる
米については素人でも研究するが麦についてはわからない、ただ麦は米と同じく重要なものである、大陸では米より麦を生産してきたからである
それでエジプトは今でも麦畑でありビールを作っていたのである、ピラミッドの時代から麦を作りビールを作って飲んでいたのだ、だから米よりも歴史が古いともなる
でも麦の歴史については日本では麦御飯でも食べなくなりわからなくなったのである

丸森は多様な石がある、丸森の阿武隈川をわたる橋のたもとの石は大きい
うば石ではなく台石となっている、台となる石である、そこに盛んに桜が散っていた
そして帰る時は必ず丸森だと夕暮れになっているのだ
朝に出発して夕暮れになる、それで夕桜が心にしみるとなる

ともかく私が興味を持っているのは歴史もあるが自然景観なのである
その点丸森は自然景観が山もあり平地もあり阿武隈川もあり蔵王も身近に見えるから魅力がある
ただ自転車だと紫外線とかを受けたり暑くなると春でも熱中症になるようになったから
前のようには行けない、でも今回とそれほど暑くもないから行けた
筆甫に行ったのは初めてだったのである
それだけ山深いところだった、高い所の道を上り下りしたから疲れる、でも電動自転車だからとか行けたのである、何度も行っているけどヤマハのYPJ-XCは優れものだからである
次は「金山城」について書くのでご期待!