2021年05月31日

丸森に見るソーラーパネルの危険 (山ごとソーラーパネルになっていた)


丸森に見るソーラーパネルの危険

(山ごとソーラーパネルになっていた)

solorpanel2223.jpg
山が全部ソーラーパネルになっていた
これは危険である

丸森のメガソーラー建設計画 山林開発に広がる反対論
https://kahoku.news/articles/20210117khn000020.html



鉛などの有害物質を含んだゴミがそれとは知らずに近所に捨てられている――。
総務省は9月、少しぞっとする内容の報告書を公表しました。名指しされたのは太陽光発電用のパネルです。

太陽光パネルは電極やシリコンを何層も強固に接着してできています。分離してリサイクルするのが難しく、20〜30年の寿命を迎えると産業廃棄物の処分場に埋め立てられるのが現状です。
総務省によると、パネルに含まれる鉛やセレンなどの有害物質の情報を処分場に提供していない業者は調査対象の8割に上ったそうです。
https://plaza.rakuten.co.jp/guidedog/diary/201712260001/

平野部に建設するのが理想ですが、日本では土地が限られてしまっているので、そういった場合には森林を伐採して、そこにソーラーパネルを設置する事も多々あります。

人工的に斜面を作ったエリアを法面(のりめん)と呼びますが、「雨が降った際の水路の設計」「植生マットの貼り付け」「根まで伐採しない」等を通常行います。

これらをしないと土砂災害の原因となります。
対策をしていても土砂崩れのリスクは高いものとなってしまいますし。

実は、斜面の草や木の根っこが雨を吸い取り、また 根っこ大きくなるので、地盤が安定するのです。

ソーラーパネルを設置する場合には、どうしても伐採しないといけないので、地盤が緩くなるリスクが高まってしまうのです。

排水溝も作らなければ、土が流されてさらに崩壊します。
https://taiyoukouhatudenrogu.com/dosyakuzure/



丸森で相馬市の宇多川をさかのぼって入ってきた所の山がまるごとソーラーパネルになっていた
山で斜面とか一部なのだが山がまるごとソーラーパネルになっている
そういうものはあまり見たことがない、丸森はソーラーパネルが多いのかもしれない
人間が人工的に作るものは人間の営みはもともと自然破壊なくしてありえなかった
焼畑なども神鳴りなどで発火して森が燃える、するとその灰が肥料になり作物が育ちやすくなる
そういう自然の作用を見て焼畑が最初の農業として広がった
飯館村の佐須は焼畑の意味であり全国にそうした地名が多い
これも大規模になれば森を破壊するのだから自然破壊につながる
農業すら自然破壊だった、森を破壊して田んぼにしたからである
それでこの辺で津波の時、松原が根こそぎ失われた、それは江戸時代からあったもので
幹が太いものだったのである、だからもったいないと見た
でも松原が純粋自然のものではなく人工的な人為的なものとして作られていた
稲作のために塩害から防ぐものとして松原が作られていた

そして自然ではないということは不自然だから松原は津波で全部流されたとなる
なぜなら自然林となると混合林であり一種類の木だけがある森はないからだ
それで津波の後で松原は実際は津波に弱いことがわかった
根を強く張らないからである、また砂地のような所だと地盤が弱いということもある
松原は人工林であり自然林ではなかった
また杉林も人工林であり自然林ではない、木材として利用するためにいいから人工的に植林して作りだしたものである
それでもともと自然林であったものが破壊された
何かこの辺の森でもぶな坂とかありブナの木があった

ブナの果実は多くの哺乳類の餌として重要であり、中世ヨーロッパではブナ林で養豚が行われていた[6]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%8A

bunaki1122.jpg
ブナは腐りやすく分のない木の意味

ぶなは分の無い木、役に立たない木の意味で和製漢字

ブナは木材としては役に立たないから人間側で無駄なものとされてこの漢字が生まれた
でも自然で無駄なものはありえないのである
それはあくまでも人間側からの見方でしかなかった
現実に果実は熊でも他のものでも役に立っている
ただ木材としては用途がないので無駄なものとされたのである
そういうふうに人間側からの見方だけになると自然の連環を生態系を壊すことになり
危険なものとなる
それが津波で松原が根こそぎ全部破壊されたりする、つまりもし混成林だったら津波を多少防げたとうこともある
津浪に強かったのは竹だった、なぜなら竹は根が強く張るから根こそぎ流れることがないからである、それで助かったという所もあった

とにかくあのように山ごとソーラーパネルにすることは危険である
木がないことは保水能力もなくなる、木は根を張り山に水を貯える
それで雨がなく乾燥していたとき山に入ったらきれいな水が山の奥で流れていたとき感動した、山にはいくら雨が降らず干ばつのようになっても水が流れていたことに感動した
山には保水能力がある、それを山ごとソーラーパネルにしたら保水能力もなくなり
なんらか田んぼとか農業にも影響してくる

ただなぜこれほど全国的にソーラーパネル化しているのか?
それは農業が田んぼなどが耕作放棄地になっているからである
零細な農業などが後継ぎがないとして継続されず放置される
この辺では原発事故以後耕作放棄地が多くなった、もともと跡継ぎなどがいなとか割にあわないとかで放置されるようになっていた、そしてそれに原発事故が拍車をかけたのである
そして田んぼは耕地整理で広くしている、すると余計に小さい田んぼは放置される
そこかソーラーパネルになりやすいのである

丸森でもソーラーパネルが増えたのは木材として利用されないからである
江戸時代などは米沢藩と伊達藩と相馬藩で三つ巴で木材をめぐって熾烈な争いがあった場として知られている、それだけ森が広く木材が豊富にとれる場所だったからである
今でも森が深いのである、それで森に迷い入り出れなくなった恐怖を経験した
ただ最近ウッドショックとかなり外材が入らなくなり家が建てられないとか騒いでいる
そして日本の木材が高騰しているとかなる
そうなると丸森とかでもまた他でも日本の森が見直されるとなる
つまりグロ−バル経済の危険は何かあると輸入できなくなることなのである
だから経済の基本は地産地消なのである、もちろん全部とはならないけど基本はそうしないと何かあると外部から入ってこなくなる、特に外国が相手だとそうなりやすいのであるだから過度なグロ−バル化は見直すべきなのである
何かコロナウィルスとかはそういう過度なグロ−バル経済による自然破壊とも影響している、生態系に反するものとして人間が暴力的に機械でも熱帯の森でも破壊する
そうしてそういう生態系の破壊からコロナウィルスのようなものが出て来る
それでそうした自然破壊に歯止をかけるためにコロナウィルスが神がばらまいたのかともみるのである



posted by 老鶯 at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年05月30日

分去や追分の地名を偲ぶ(丸森ー大張村の詩) (機械化すると人間の情が失われる)


分去や追分の地名を偲ぶ(丸森ー大張村の詩)

(機械化すると人間の情が失われる)


街道の分岐点をいう。そこまでは一本であった道が二つに分かれ,それぞれ異なる方向に進みはじめるところである。追ってきた牛や馬を,どちらか一方の道に〈追い分ける〉ことから生じた名称と言われている。〈追分〉という地名は今も各地に残されている。その代表例として著名なのは長野県北佐久郡軽井沢町の追分で,中山道と北国街道の分岐点であった

わかさ(逆引き)

ことに昔の本陣だつたままの家作りの牡丹屋や桝形の茶屋の古びた美しさや、その村はづれの分去れのあたりの山々の眺めなどをなつかしんで
ふるさとびと (旧字旧仮名) / 堀辰雄(著)

おえふがまだ二十かそこいらで、もう夫と離別し、幼兒をひとりかかへて、生みの親たちと一しよに住むことになつた分去れの村は、その頃、みるかげもない寒村になつてゐた。
ふるさとびと (旧字旧仮名) / 堀辰雄(著)

わかされ(逆引き)

その翌日、英夫君は二時の汽車で帰るというので、昼飯を早目にすませてから、お別れに村の西のはずれの、分去のところまでぶらっと散歩に行った。
雉子日記 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)  

分れる、去るからこの地名が生まれた、こういう地名が生まれたのは何か人々の思いが残されたものとしてある
追分というのが追ってきた牛や馬を,どちらか一方の道に〈追い分ける〉ことから生じた名称と言われている
これも牛と馬が人間と一体となりあったから生まれた地名だとなる
そういう昔の生活を偲ばないと地名の意味を知ることはできない

つくづく私は自転車で旅するとき必ず道を行くと道が二つに分かれる
そういう場所にどっちに行こうかとなる、だから分かれ道が一つの思案する場所になる
江戸時代辺りだと電車も車もないのだから道を行くから必ず分かれ道がある
その分かれ道が心に残る
そして分れ去ってゆくということ、道行きで道連れがあっても別々の道を分かれ去ってゆく、その時今のように再び逢うということがなくなることも多い
だからこそ分かれ去りには人の思いが残ったのである
そこで人はその後姿を見て見送ったのである

現代とこうした感覚がなくなった、電車でも車でもない、機械は何か人間的なものを奪うことが常にある、それで老子は鍬まで否定したのである
機械は悪いとかではない、人間的なものを奪うのである、鉄道とかに愛着がある
鉄道は何か車と比べると人間的なものとして残されたとなる
それは駅舎に待つ時間がありまた人が出会い分かれる場所としてまだあった
しかしそれも無人駅化するとか鉄道から車時代になると失われたともなる
車は便利でもどうしてもやはり人間的なものを失ってゆく、そして鉄道の駅舎とか鉄道自体が昔の暮らしを偲ぶ回顧的な場所になった
新幹線でもそれが早すぎて何か人が出会い分れるとか見送るとかの時間がなくなるのである
つまり時間の感覚が相当に違ったものになっているのだ
どうしても車で来ても車を見送るという感覚になれない、そこに肝心なのは人間の情が失われたことなのである
江戸時代とかを理想化するわけではないが明治時代でも戦前でも義理人情とかが日本人にあった、でもそういうものも機械化がすすむと失われてきた
それはやはり機械化とかいろいろ文明化して失われたとなる

旅だけではない、農業だったら昔は田植えでも協同作業でありみんなで田植えをした
村総出でみんなで村の田植えをしてそこに人間の結びつきがうまれた
機械化するとそういうものもなくなり村の結びつきも失われてきたともなる
機械化文明化で失われたものが相当にある
ただそれに気付いていないのである、何か現代が情がなく冷たくなったというとき
社会が変わったためだともなる

例えばその人がいつも言っている、道端で倒れても誰も助けてくれないという
それは車社会になると道端に倒れていても見えない、突っ走ってゆくだけだとなる
車だとそれは人間ではない、物体なのである
だから人間と人間が情を交わすことがなくなる
旅しても旅は道連れともならないのである、それは鋼鉄の物体なのである
そこに閉ざされて人間的交流を拒絶しているともなる
だからキレる人間が多くなったという時、車自体がキレるものなのである
それで突然自転車に向かって「馬鹿野郎」とか突っ走ってゆく
それも車から見れば自転車は邪魔者であり目障りになっているからである
歩行者でも車社会になると目障りになることがあるからだ 
人間が車をもつこと車社会が人間をいかに変えてしまったかを知るべきである

 足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも

 袖振らば見ゆべき限り我れはあれどその松が枝に隠らひにけり

 石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか

人が分かれる時こうして袖をふる、それは何か呪術のようなものがある
そういうことになったのは人が別れる時なかなか会えなくなるということがあった
遠く解かれて逢えなくなるということで別れを惜しんだのである
それもその別れる姿とかその景色とかのなかに人と人で出会い別れるからそれが心に残るものとなった
車だったらただ車という物体が去って行くというだけになる
また逢うにしても今ならいつでも逢えるとなり逢うことの重みがなくなったとなる
こうして現代は機械化したりして何か人間的なものが喪失していったのである
要するに機械化することは人間も機械のようなる
そして遂にはロボットが人間の友となる、機械が人間の代わりになる
でも機械にはロボットにはいくら知識があっても情をもてないのである

そもそも古来キリストでもお釈迦さまでも宗教は愛とか慈悲を説いた時、最も重んじたのは人間の情愛のことである、それが機械化で失われたのである
その行くつく先が人間はいらない、ロボットが人間の代わりをしてくれるということなのである、ただロボットには肝心の情が愛情などもてないのである
ロボットがすべての代わりをしてくれないのである
底地機械化の盲点がありそれで情がなくなった世界は最も冷酷な社会にもなりうる
ロボットなら情がないのだから平気で人を殺戮できるマシーンになる 

それも恐ろしいことなのである、だから機械万能社会になることも危険なのである
ただ人間社会はそういう便利なこと機械化から逃れられない、どこまでも追求してゆく
でもそれが人間のパラダイスになることはない
そのことはみんなすでに情なき社会で苦しんでいるかでもわかる
すべて機械にロボットにしてもロボットには情がもていないのである
だから病院には機械装置で囲まれて人間をみるにしてもそこに情がない世界になるから
嫌だとなる
今でも医者とか看護師でも情がないということがありいくら医療が発達しても病院は怖い場所だとなり病因では死にたくないという人も多いのである
最先端の技術で治療されても情がない世界は怖いということである
人間をただ物体のように見ることがあるからだ
そういうことを経験すると病院では死にたくなとなる

いづれにしろ旅でもそうだがそもそもあらゆるところで機械化してゆく、するとそこに欠けたものが何かわかる、すでに見えてきている、情なき冷酷な世界である
すでにそういう社会になっている、あらゆる場所で機械化自動化される、そこに情なき世界になる、人間はみんな物体になり人間として扱われないとなる
人間の相手をしてくれるのはロボットだけだともなってしまうのである
つまりロボット化することは人間もロボット化することなのである
道具に機械に頼ると人間もやはりその道具や機械によって人間性を奪われると警告していたからである 

隠されし村

七曲の道を上り来て
山中分け入りて一村ありぬ
春の日に迷い入るかな  
八重桜咲き山家あり
ほのぼのとして陰に休む
山腹に石によりシャガの花咲く
また一つ山の家の古りぬ  
粗末な墓のいくつか草にうもれぬ
かくして川張り村を初にたずね
一本の木の下に石二つ
夫婦石ともあれ
ここの暮らしのいかに
かなた白石城への道
こなた梁川城への道
旅行けば道は分れぬ
ここに古くも暮らしありしも

大張村で白石の方に行く道と梁川へ行く道に分かれていた
その時二つの道からその方向への街を意識した、分かれ道は旅情を覚えるのである
つまりどっちに行こうかというときまさに未知(道)なるものへ旅しているからである
これが電車だとそういうことはない、規程路線を行くだけである
また車だとそうならない、ただ方向を変えて突っ走るだけだとなる
分かれ道があったとしてもあまり歩くとか自転車と違って旅情を感じないのである
ただ私は車で旅していないからわからないから車については語ることができない

丸森は阿武隈川あり蔵王が見えるし森か深いしそこに隠された村をがあるとか魅力があるただ一山二山とか全部ソーラーパネルになっていたので興ざめした
それよりもし台風などがきたら木がない山だから水が一気に流れだして来る
それで恐怖を感じた、丸森はソーラーパネル化されている、反対している村もある
何かこうして自然も破壊されて人間の情も喪失してゆくのは現代の文明のためである
それに反対しても社会状況で反対できないとなる
                                            
阿武隈高原の回想の旅の短歌 (阿武隈高原の魅力は幾重にも分かれた道にある)


2021年05月29日

人間評価の基準は何なのか (佐藤優を推奨した鈴木傾城の疑問、有力者の背後に組織団体がある)


人間評価の基準は何なのか

(佐藤優を推奨した鈴木傾城の疑問、有力者の背後に組織団体がある)

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前に佐藤優を創価のプロパガンダとして批判した
それがなぜヒットラーを批判できるのか,ナチズムを批判できるのか?
また毎日読んでいるダークネスの鈴木傾城もこの本を推奨しているので失望した
ただこの人の言っていることはまともであり人気があるのもわかる
毎日読むプログはないから読み応えがある
純粋の右翼である、右翼の大物に傾倒しているのもわかる

でも今日のプログでこの本を推奨していることには疑問だったしなぜなのだろうと思った人間は結局どうして人を評価したり判断したりするのか?
どういう基準で判断するのか、個々人はどうして判断するのか?
大勢の人はそもそも何かの判断基準をもっているのだろうか?
また何をもって判断基準にしているのか?

ナチズムとかがなぜ生れたのか?

そもそも個々人は判断基準をもたない、数が多いということが正義になった
だから民主主義から選挙から正当な手続きをえてナチスが生まれて支配されたのである
なぜなら今でも民主主義とは数になってしまったからである
数が多いことが正義でありすべてになったからである

そうなると創価のように何が何でも数を集めることに奔走する
数を集める選挙がすべてになる、一番早く選挙運動するのが公明党である
もう二年前から選挙運動であり日々の活動が信仰でも一票を獲得するための選挙運動なのである
現実に座談会では池田大作先生のためと座談会に集まりみんなで祈り選挙に勝つことを祈願する、それが日々の活動なのである、池田大作はヒットラーと似ている
そこで活動する人はナチスのヒットラーユーゲントともなる
そして会員が何百万いるといっても全く活動しない、座談会にも出ない人がまた百万以上とか膨大なのである、それが幽霊会員でありその幽霊会員を票に結びつけるのがまた幹部の日々の活動なのである

すべては選挙に勝つため!

これしかないのである、信仰とか内面の問題など全く考慮しない、そんなことしていたら票など集まらないからである、あとはすべて御利益なのである
利益になればいいという御利益利権団体になる
つまり創価こそナチスであり池田大作はまぎれもなくヒットラーなのである
その創価のプロパガンダになっているのが佐藤優であり池田大作の礼賛の分厚い本を出している
そういう本を出せるのも背後に創価があって指示されるからだ
会員が買ってくれるからである

何か人間を評価するときどういうことで基準にして評価しているのか?

これが問題である、まず一人の人間を評価すること自体困難を極める
その人がどういう人なのか知ることがむずかしいからである
ただ基準になるのはある団体に組織に所属していることで人間を分類することである
左翼団体もあり右翼系団体もあり宗教団体もありそれでその人を判断の基準にする
鈴木傾城は右翼でありすると右翼団体があり右翼団体としてみる
その発言も右翼団体をもちあげるものとなる
ただそうして左翼であれ右翼であれ団体に所属しても個々人はまた違ったものになるが
一つの色に染める、人間は何の団体組織に所属しているかでみる
会社員だとどういう会社に属しているからでその人間をみる

津田大介とかは左翼でありこの人が推奨されるのは左翼の団体に所属する人たちだとなるまたこの左翼系統は在日と連携しているともなる
在日ネットワークがありこれが良くわからないにしても強固の団体のようである
なぜなら在日と言っても日本人と同じだから日本語も日本人と同じ話しているのだから
日本人なのである、だから在日の人には本を出している人とか大学教授とかマスコミとか主要な分野で力をもっているのである
NHKも在日に支配されているかともいわれる、だから在日というのは裏で操作できる実力者集団とかとされる、ただこれも明確には見えない
とにかくこの在日の人では相当に優秀な人も多いのである
個人的にもそうである、アメリカ国籍をもっていて在日の人がいる
これも私には理解できなかった、こういう人は俳優でもいたし結構いるのかもしれない

ではなぜそうなったのか?

日本人でありたくないということがあったのかもしれない、それでアメリカ国籍にして日本人として生活しているとなる
例えば在日ネットワークがかなり社会的圧力団体になっているのはこの辺で小説家として柳美里とか小高に生活している
その人がアメリカの賞をもらったりまた芥川賞とか直木賞とかもらったりする
そして南相馬市の市役所にその賞をもらったことで南相馬市として名誉あることとして
そのことを宣伝している

でもなぜ公の役所でそういうことができるのか?

これも疑問なのである、何かあると小高の人でも動員されると嫌がっていた人もいた
他に原発を訴える詩人とかいてもそれは左翼系統で支持されたりまた何か原発事故を利用して有名になろうとしていた、アメリカとかフランスとかから賞をもらったというときそれはその作品とかとは関係ない、政治的配慮でもらったのである
原発が一番あるのはフランスでありまたアメリカでもある
するとフランスとかアメリカが批判の対象にもなる、でも批判はしない
その責任は追及しない、ただ自分が有名になればいいだけなのである

つまり何か強制されているというのは在日ネットワークが背後にあったりそれで人々はそれに従わざるを得ないということである
ただ正直その人の本は読んでいないから評価できない
つまり公的なことでもそうした団体組織に動かされるのである、そういうふうに佐藤優とか津田大介とかが個人ではない、背後に団体があってそれでその代表として大きな力をもつことになる、たいがいその人の評価は背後の団体で決まっているのである
またその背後にそうした団体組織がなければ発言すらできない
それで武田邦彦氏が原発に反対すると右翼系の組織から排除されると言っていた
というのはあれだけ右の発言をしているのに原発反対だとその仲間になれないとしているからだ、ということはその人は個人として発言しているからそうなるのである
ただ個人として発言すると拒否されて公的な場所から排除されるのである

つまり人間の評価の基準は背後の組織団体があって決まっている

こうみるしかない、それが左翼であれまた右翼であれ創価であれ在日であれ他の宗教団体であれその団体の支援があり個人も主張できるとなる
私は右翼でも左翼でもないのである、右翼的発言もあるし左翼的な発言もある
でもどちらの応援もないし所属してもいないのである

とにかくそもそもナチスというのは今世紀最大の問題でありまた日本の戦争でもなぜ三百万人も死なねばならなかったのか、それが20世紀の最大の問題であった
それはグロ−バルに起きたことであり社会が世界で均一化した結果でもある
だいたい世界的にみんな同じような生活をするようになったからである
例えば戦争でもこれほど大量殺戮化したのは日本がだったら武士とかヨ−ロッパでも貴族とかが戦士となりその選ばれた戦士の戦いだから限られていたのである
それが国民全員が戦士となったのが国民国家となって戦ったのが20世紀のグロ−バル化社会だったのである

当然なそうなると国民全部が戦士として戦うか何千万と世界で死んだのである
またナチスが生まれたのはそうした社会になってそうなったのである
大衆化社会とかゲッベルスの宣伝とかその時はテレビもないのにラジオがナチスを作りだしたというのもそうである
今ではテレビが力ももち大衆洗脳装置となっているとかなる
そういう情報社会になり一見みんな誰でも自由な発言をできるようで実際は個人ではできない、背後に組織団体があってその代表として発言しているのである
第一マスコミでもそうである、誰でも発言は勝手にできない、その人選はテレビ局がしている、また番組をNHKでもNHKの意志があり編集している
必ずマスコミでも何の意志もない発言はしない、それはNHKの幹部が方針を決めるのである
中立なようでそうではない、また報道するものとな報道しないものを選択しているからである

ともかく何かを評価の基準にするのか、それは例えばNHKに出るだけですでにその人は大きな力をもち評価される、その評価はNHKによって決まるともなっているのだ
私の評価基準は創価の内部を知っているから創価をもちあげる人は評価しない
それは背後に団体があり組織があり発言しているからである
田原総一朗なども創価をもちあげる、それはその団体の一員とも化しているのである

いづれにしろ大衆装置として新聞があったりテレビがあったりマスコミが力を持った
インタ−ネットになると確かに個々人が発言しているがこれも背後にある組織団体が左右するともなる
だから名古屋の知事のリコール問題もそうした右翼と左翼のしのぎあいであった
組織団体同士の戦いでありそこに不正があったとなる、その組織団体の代表たちの戦いでありその代表に津田大介とかあったとなる
とにかく知識人には問題が多いのである、それは結局その個人というのはない、背後に組織団体がありそれに利用されているとことあるからだ、数が多いといことが正義でありそれが民主主義を歪めてそこからナチスが生まれたからである
だからむしろ多数は信じるなともなる、原発事故でもそうだったのである、それで「安全神話」まで作られた
権力とか多数で物事が決められるとき危険なものになる、民主主義が多数がすべてを決めるから最も全体主義にもなりすいものだったである

小竹海広、伊藤春香、津田大介やらをなんとかしろ


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2021年05月28日

竹の子、菖蒲、夏の山、薔薇(夏の日に近辺を回る)


竹の子、菖蒲、夏の山、薔薇(夏の日に近辺を回る)

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紋見るや夏の日影に蝶一つ

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竹の子のここに伸びなむ力かな

校庭に若き等の声若葉かな

ゴミとして捨てらる蟻のあわれかな

草深し墓地にあやめや文久と

押し車畑を行くや菖蒲咲く

野の道に桑の実食べて甘きかな

一時の牛越城や夏の山


我が庭に牡丹の継ぎ咲き絶えじかも栄もここにつづくべしかな

薄紫の薔薇の二輪を我が植えてまもなく散りぬはかなかりけり

薄紫二輪の薔薇の散りにしも心にとめぬ我が庭なれば

田の道に夏の日影やなおさして我が走り行く悪路なれども



庭に薄紫の薔薇を植えたが一時咲いてすぐに散った、これは根付かなかった
何かそれで源氏物語のことを思い出した

「紫」の名は古今集の雑歌

「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる」

女性は関係ないにしろ紫とは上品な色なのである、この感覚である

牡丹だけは二十年なのかそれ以上なのか咲き続けている不思議がある
種が落ちてまた今年も二輪くらいは咲いたからである
こうして同じ場所に咲き続ける、そうしてこの家の栄もつづけばいいとなる
でも空家化してくる、それが問題なのである

今は菖蒲(あやめ)の季節であるが散り始めた、桑の実はどこにでも鳴ってきる、これが甘いのである、だからこうして無料で食べられるものはマナだとなる
理想的にはこうしてマナを食べて自由にどこにでも鳥のように行けたらいいとなる

今日は晴れたから朝と晩に自転車で近くを回った
昼間は日射病になるから行けない、晩方はすずしくて気持ち良かった
そこに竹の子が生えていた
何か自分自身が生きている土地に竹の子がでてくることは力強いと感じた
竹の子は食料にもなるからだ
でも今は食料でも地元でとれたものをほとんど食べないのである
スーパーで外から来たものを食べるだけだとなる

そうなると本当に田舎に地元に生きても何か力が湧いてこないともなる
そういうことが本当はグローバル社会の問題でもある
本来はなるべく地元のものを地産地消がいいのである
グロ−バル経済が一見いいようで何かそれが本来の自然に生態系に基づいて生活していないからすべていいものではなかった
それでコロナウィルスが生まれたと言う科学者もいるから共感した

ここに地元に竹の子が伸びる、それを食べる、何かそれは遠くから来てスーパーで食べるのと同じようで相当に違っている、その竹の子を食べたらその土地の力を感じるだろう
そういうことに農業の意義があったとなる
でも現実はもはや不可能になっている、自分自身すら米は会津の米がうまいと他でもブランド米を買って地元の買わないのである
どうしてもうまいのを食べたいからそうなってしまったのである
グロ−バル化というとき外国まで食料を輸入する依存することは相当に問題なのである
竹の子は夏の季語であった

原町の牛越城は5年間しかもたなかった、その後は相馬市の城に移った、中村城である
でも5年間でも城ともなっていたのである
だから歴史ともなる、その歴史があるから普通のただの山ではないとなる
だから必ず歴史を知らないと深い見方ができないのである










福島県の奥の細道の俳句(自作)―芭蕉の跡をたどる

                    
福島県の奥の細道の俳句(自作)―芭蕉の跡をたどる

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(白河の関所跡)

みちのくの細道たどる草の花

関所跡昔行き交ふ虫の声

いわれ聞くしのぶもちずり木槿かな

幻やいづこに咲くや花かつみ

(医王寺)

医王寺に着物の女人落椿

医王寺の白壁に春の日影かな

夕月に藤の花かな鐘なりぬ  

(飯坂)

飯坂の夕ぐれあわれ花に雨

雨しとと桜に橋や湯の煙  

飯坂へ電車通うや菖蒲かな

国見町弁慶松や秋の暮  

春日さす下紐の石ここに暮る

甲冑堂忠臣の嫁菖蒲かな



場所の記憶として俳句を作った、これも錯綜した記憶となった、草の花というとき秋である、その時は八溝山を自転車でぬけて白河の関所に来た
ともかくその行路の記憶も定かでなくなった
ただ延々と草の花が野菊の花が咲き続いていたのである
そうして白河の関所跡に来たのである
多少は「 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良. 」みちのくというときまだ拓けていない地としてありそれで野の花をかざしてみちのくに入ったというのがそうである

奥の細道といっても何か記憶に残ったのは白河の関所と白河の小峰城である
ただ前にも書いたがどうしてか芭蕉は城のことを書いていないし俳句にしていないのが不思議なのである、城というと一番目立つからである
二本松でも城のことは書いていないのである、だから忍者説がでてくる
城は隠密のように探るところであり風流の場所でなかったからだとなる
そもそも芭蕉の俳句に城の俳句がないことが謎だからである

 等窮が宅を出て五里計*、檜皮の宿*を離れてあさか山*有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ*刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松*より右にきれて、黒塚の岩屋*一見し、福島に宿る。
 あくれば、しのぶもぢ摺りの石*を尋て、忍ぶのさと*に行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり*。里の童部の来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや*。

芭蕉が求めた花かつみはヒメシャガのことだという、シャガの花の紋様があるからその名がある、何か神秘的な花となりそれを求めたとなる、みちのくだとそういう花があってふさわしいともその頃見ていた   

とかくして越行まゝに*、あぶくま川*を渡る。左に会津根*高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる*。かげ沼*と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川*の駅に等窮*といふものを尋て、四、五日とヾめらる*。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず*。

 風流の初やおくの田植うた 

 此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有*。橡ひろふ太山もかくやと閧ノ覚られて*、ものに書付侍る。其詞、
栗といふ文字は西の木と書て、
西方 浄土に便ありと*、行基菩薩*の一生
杖にも柱にも此木を用給ふとかや 。

 世の人の見付ぬ花や軒の栗 

 
 栗の花が花と言えるのか?
何か花かつみはヒメシャガであり卯の花とかまた私の俳句では草の花とかそして栗の花とか何か変わっているとはなる
あまりばっとした花でないからみちのくにふさわしいのかとなる

しのぶもちずり石は有名である、私が訪ねたときは秋であり回りの村の家に木槿が咲いていた、それも似合わっていた、この辺は福島の市街からかなり離れているから家が点々としかないから今でも往時を偲べる

医王寺というと場所が寄ったのは五月であり

月の輪の渡しを越えて、瀬の上という宿に出る。佐藤庄司の旧跡は、左の山際一里半ばかりにある。飯塚の里鯖野と聞いて、尋ねたづね行くのに、丸山というのに尋ねあたる。これが庄司の旧館である。麓に大手門の跡など、人が教えてくれるのにまかせて、涙を落とす。
 またかたわらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、ふたりの嫁の墓標が、まずあわれである。女なのにかいがいしい名の世に聞こえたものであるわと、袂をぬらした。堕涙の石碑とさほど差はない。
 寺に入って茶を乞うと、ここに義経の太刀・弁慶の笈をとどめて寺宝としている。

笈も太刀も五月に飾れ紙幟
   (おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)
   
この佐藤氏は相馬藩の前に磯部中心にして支配していた館もあった佐藤氏である
磯部館から後で相馬の道の駅の鬼越館に移動したのである
高潮で被害にあったからだという、それは慶長津波の前なのである
でもその鬼越館のかなり前まで津波が来たのには驚いたのである
佐藤氏は塩手山の下に二軒ほど佐藤氏の家があった、そこはやはり福島市の方から来た佐藤氏が祖先なのだろう、ただ佐藤氏はとにかく普通にあり多いからまぎらわしくなる
佐藤氏は福島市から医王寺の義経の家来でありその子孫が相馬の方に移り磯部館に住んだとなる
佐藤庄司というとき相馬藩内に庄司建設がありそれが由来となる、姓からたどるとそうなる  

佐藤庄司と義経伝説

治承の昔(1178年)信夫の荘司、或いは湯の荘司といわれた佐藤基治公が当地の大鳥城を居城とし、奥州南部の広域を収めていました。
 源義経公が旗揚げをした折、基治公はその子継信公・忠信公を側臣として遣わしましたが、兄継信公は屋島の合戦において義経公の盾となって能登守教経の矢を受け亡くなり、弟忠信公は頼朝公に追われた義経公を京都堀川の館から脱出させるため、義経公の身代わりとなって討ち死にしました。
 その後奥州に入った義経公一行は醫王寺に参籠し遺髪を埋めて二人の法要を営みました。また、兄弟の奥方「若桜」「楓」の二人は、息子二人を失い悲しみに暮れる老婆「乙和御前」を慰めるため、甲冑を身につけ兄弟の凱旋の勇姿を装い姑の心を癒したといいます

 嫁の墓標とはこのことである、医王寺はそれだけ古く謂れある古寺とはなる
何か白壁がありそこに着物を着た女人が静々と歩むのが絵になっていた
それから藤の花が咲いていたとき行ったと思う

そして飯坂に行った時、雨しととぬれていた、飯館からさらに山の方に道がつづいていたただそこから街道の方に回った、その道は今の道路になっている
下紐の石があったからそこは古い道である
飯坂には電車が通じている、それはいかにローカルのローカル線になっている

「湯に入りて宿かるに土座に筵(むしろ)を敷てあやしき貧家也」(温泉に入った後、宿を探したものの粗末な家しかなかった)
どうやら散々な滞在となったようですが、それには理由がありました。当時の飯坂には「農業や商業に関係のない旅人に宿を貸してはならない」とのお触れがあったのです。一介の旅人にすぎない芭蕉らに土間を貸し、筵を敷いてやったのは、飯坂の人の精一杯のおもてなしだったのかもしれません。

このことは自分は何度も経験している、自転車旅行だと嫌われる、汚いこともある
何か遊び人だとも見られる、だから嫌われるのである
待遇されるのは保養に来る金持ちである、そして今は旅人はいないである
それで江戸時代でも仕事でない人は断れたというのわかる
江戸時代はそういうことは今より相当に厳しいからである
何かただ旅する人は理解できない人だったかもしれない、でも僧になると恰好をしているとそういうふうには見れないことはあった
芭蕉自体有名な僧に習っているからである

飯坂に着いたのは桜が咲いている時だった、その時雨がしととふり濡れていた、
そこに湯の煙があった、いかにも飯坂らしいとなる
国見町には弁慶松があった、この弁慶とか義経にまつわるものは多すぎる
北海道まで義経伝説化ありモンゴルに渡ってジンギスカンになったとか言われる
福島県内での芭蕉の寄った先はこのくらいである
ただ須賀川とかのことは良くわからない、奥の細道といっても今は車の道でありなかなか往時を偲べないからである                               
それなりに春とか秋に行っているから記憶をたどり俳句を作ったのである

この下紐の石は用明天皇の皇妃玉世姫がこの石の上でお産の紐を解かれたという伝説が、乳神様と共に伝わっている。

立ち返り 又やへだてん 今宵さえ 心も解けぬ 下紐の関橘 為仲

元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、甲冑堂を訪れている。

ここから先に甲冑堂がある、それは「佐藤次信忠信が二人の妻の姿なりとて。各甲冑を帶したり」である、ここから白石にいたる

鐙坂。鎧碎(よろひこわし)。鐙摺。の石は。さい川の入口なり。道細く右は山にして。左に大石あり。一騎打の難所。實に鐙も摺る程なり。此所右の方に一宇有り。よりて見れば。佐藤次信忠信が二人の妻の姿なりとて。各甲冑を帶したり。如何なる故に此所に在るにや。殊に女の甲冑を帶したる姿。いと珍らし。古き像にて。彩色の剥げて。下地なる胡粉の白く見えたるは。 

甲冑堂忠臣の嫁菖蒲かな

この先は白石城下となる、結局こうして旅をたどるとき記憶の旅になるが旅は車とか電車だと何か連続性もなくなる、歩いてでもじっくりと昔の道の行程を歩む
そうすると脳にも記憶が残るのである
そこで私は自転車の旅をつづけたのである
その記憶はかなり年月がたっても残ることがある
それゆえにこうして記憶をたどる旅をして俳句を作ったりしているのである

医王寺の写真

福島県の奥の細道 (芭蕉は城をさけていた-忍者説の由来)

2021年05月27日

証券会社(銀行)の営業マン・アナリストの話は信じるな (手数料商売になっていることが問題ー転売をすすめるのはそのため)


証券会社(銀行)の営業マン・アナリストの話は信じるな

(手数料商売になっていることが問題ー転売をすすめるのはそのため)

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最初に断言しておきますが、株式投資をする上で、 証券会社の営業マンと付き合う必要はありません。 ネットトレード全盛の今、なぜわざわざ証券会社の支店に電話をかけて、 高い手数料を払って株取引しなければならないのでしょうか? 「証券会社の営業マンはプロなのだから、相談するのは当たり前じゃないか」 というあなたは、証券営業という仕事を全く理解していません。 証券会社の営業マンは「株や投資信託を販売するプロ」であって、 「運用のプロ」ではありません。 彼らの仕事は、株や投資信託などの金融商品を買ってもらい、 手数料を稼ぐことです。 あなたが銘柄選択で悩んでいようが、 株取引で損していようが知ったことではありません。
https://bit.ly/2SA3huL

個人投資家については、特に投資の適合性への配慮が重要である。
したがって、投資推奨等の対象となっている証券、特に複雑な仕組
みの新しい金融商品については、リスクを含め商品特性が十分理解
できるよう情報を提供するという姿勢が必要である。
https://www.saa.or.jp/ethics/pdf/kiritsu.pdf

昨日来た大和証券の営業の人は名刺に証券アナリストとなっていた
何か確かに地銀の営業の人よりは専門的知識がある、でもこの専門用語を使う時煙にまかれるとなる、そこで素人は理解不可能となる
例えば原発などでも専門科学者と話ししたら専門用語がでてきたとき理解不能となる
するとあなたは何もわからないから従えばいいとなる
法律に関しても専門用語がありそれを理解することは不可能になる
そうして現代は専門家に支配された時代という指摘がある
専門家とはいたるところにいる、医者でもそうだし科学技術の職業となるとみんな専門家なのである、だから専門用語を使うのである
それだからこそイリイチが専門家のことをあれだけ批判したのである
人間は専門家によって無能にされている、結果的に専門家に支配されここでは原発事故で大被害になって住むことすらできなくなったのである

証券会社の営業マン・アナリストの話は信じるな

この説明は的を得ている、私の株とか投資信託とかの経験では地銀であれ銀行であれ証券会社は客から手数料をどれだけとるかが目的になっている

その例が何度も言っているけどリーマンショックの時、半分になった株を地銀の営業の人がJ=reitに勝手に回したことである

なぜそうしたのか?

とにかく売らせて別な金融商品を買わせればそこで手数料が入るからである
その手数料が額が大きくなると大きな儲けになる、決して損はしない、客が損しても
自己責任になるからである

証券会社の営業マンは「株や投資信託を販売するプロ」であって、「運用のプロ」ではありません

販売と運用は違うとなる、運用とはどれだけその人にとって有利な商品と運用をすすめることである、そこで手数料がとられるのはやむをえない
でも全く客のことは考慮しない、銀行と証券会社の利益を手数料を第一にしてすすめているからだ
だから何か常に一つの金融商品を売ったり買ったり転売をすすめる
つまりそうしていると必ず手数料が入るからである
リーマンショックの株を8年間くらいそのままにしていた
ところがそのことがかえって良かったのである、それが元にもどり上がりはじめたとき
J-reitに売りそのJーreitが暴落したのである
この時から私は銀行の営業の人が信じられなくなった
でもそのことがかえって次のもうかる株を買えなくさせた
ギャンブルでも必ずもうかるともっともうけたいからまた賭けるとかなる
でも最初から損すると賭けにくくなる
それでわざわざ最初に博打場の胴元はもうけさせるとかある
それが人間の心理だからである、だから株が人間の心理と深く関係しているというのはそのことでもあった

何が株でも投資でも歪めているのか?

そこに仲介者(メデア)を通しているからだ!

もし株でもパソコンとか使いデイトレだ―のように自力でやれる人ならもうけることは可能だしそれはすすめられる、それでも損することはある
それはその人のまさに自己責任なのである

ところがメデアを通すと仲介者(銀行、証券会社など)を通すと歪められるのである
情報にしてもマスコミから放送されるので真実が歪められるのと似ている
それでマスメデアがマスコミが報道する権力をもっているから支配できるともなるのだ
都合のいい情報のみを出して都合の悪い情報は出さないとなるからだ
その情報とは例えば何でも第一次の直接情報ではない、マスコミを通じて加工された編集された情報なのである

視聴者は直接その場面を見ていない

直接取材する本人と話ししていない、聞いていない

このことから歪められものとなる、それはNHKでもそうなのである、NHKの放送をすべて鵜呑みにはできないのである、そういう嘘の情報でも流していたことがあるからだ
だからインタ−ネットでも直接本人が話すことに真実があるともなる
ただここでも問題があるにしろ本人が直接話せるのがネットだからそこに真実があるともなる、ただこれでも直接面と向かって話すわけでないから信用できないことはある
でもそういうツールとしてインタ−ネットが生まれたということが大きい
私の言っていることで嘘はついていない、じかに接してそれを報告している
インタ−ネットの時代は一人一人が放送局にもなる
だからすぐに個々人が報道の対象にもなる、悪いことでも個々人に指摘されたり買い物でもすぐに評価されたりする、それは的を得ていることがある

それで銀行もメデアであり仲介者でありそういうメデアはなくなる

こう指摘する人がいた、銀行がメデアということがわからなかった、でもクラウドファンディングはまさに銀行とかが融資するのではなく直接融資だからそうなのかと見た
つまりもう銀行を通さない投資の世界が成立してきたのである
銀行の出番かなくなり窮地にたたされて銀行もこれからどうしていいのかわからず模索する時代となった
第一いくら貯金しても利子も得られないとしたら銀行とは何なのだろうとなる
何の役割りがあって存在するのかとなる、存在理由がなくなっているともなる

とにかくなぜ株とか投資信託とかを銀行でも証券会社でもすすめるとき危険なのかは
手数料をとることを目的にしているからである
そこでまともな運用を目的とてしいない、その人にあった適切な運用を教えるのではないし買わせることもない、そこが問題なのである、客の運用より販売で手数料をとることが優先されるのである
客が知りたいのはどうしたら適切な運用ができるからである
それは証券会社でも銀行でも教えないのである

ただそうはいってもそのすすめられたものがすべて悪いとかはずれるというのではない
そもそもの目的が手数料をとるということになっているからである
手数料をとるためには転売するのである、自分の成績をあげるのにもどうしても売り買わせる必要があったからでとなる
別にリーマンショックで上昇していたなら株を売る必要もなかったのである、チャートをみる力があるのだから銀行の営業の人は知っていたからである
そこが一番の問題点だったのである

だからといって今回のように株がこんなに上がるということもあり株とか投資をするなとは言えない、そのための条件を満たす人はしてもいいともなるし
銀行でも証券会社でもすすめられたものが全部損するということはないのである
ただそれをできる人はメデアに銀行と証券会社に頼らずに株のトレイドが売り買いができる人だとなる
結局それをするとなるとパソコンの画面を一日見ていることになる、するとその他のことは何もできなくなるから時間がもったいなとなる
時間の活用こそ最も人生で大事なことだからである
一生デイトレダーで大金持ちになったとしてもそれで人生が実りあるものとはならないからだ

いろいろ職業のことを考えるとどうしても今や銀行とか証券会社はいいものに見えないのである
それで建設会社とか住宅関係の人はまともだというときそうとも思った
その人は大工として庭師として優れている、デザイン力もあり力仕事もできるから何か自分には驚きである、その人に問題があるのだがそれで金をとられても無駄だとはならないしその人を評価できる
その人はアーティストだとも見た、仕事が芸術作品を作るのと共通していたからである
銀行とか証券会社の人はあまり評価できない、ただそういう仕事は資本主義社会は必要なのだから全部否定はできないのである
投資するとかは資本主義社会の基本にあるし株式会社ではみんなそうして投資して回しているからである

だから二回投資信託を株をすすめてきたときその時買っていれば大儲けしたのだから
銀行でも証券会社でも別に全部が悪いとならないし責めることはできない
ただ最初の失敗がありそれが自分の場合は脳にすりこまれて買うことができなくなったのである、ただ地銀でも証券会社でも途中でまた転売をすすめたかもしれない
何か一つの金融商品でも長く置かないのである、転売をすすめて手数料をとる
だから8年も株を放っておくことはありえなかったのである
そうしたらそこから手数料がとれないからである、でもわかったことはそうして長期的にみればいくら半分に下がったとしても株は必ず上がるものだということを知ったのである

でも銀行と証券会社はそういうことはさせない、必ず転売をすすめる
買わせては売らせて手数料をとるということは一番の問題だったかもしれない
でも株はそうして常に変動するものだからそう言われればまかせるほかない
そして自力でデイトレダーのようにできないのだからどうにもならない
すると老人は向かないし9割が貯金したままだとなるのである
それでも今は貯金自体が大きなリスクになっている、そのことでまた悩むのである
それも日本経済が衰退するばかりだからとなる、そうなるともう個々人の力ではどうにもならないともなる
原発避難区域では5000万の家を置いて600万の中古の家を買って小高から原町に移ったという人がいる、それだけの資産でもゼロになってしまったのである
これももし日本全国にあてはまると日本自体の価値が低下すると個々人の資産も低下してゆくということになるのとにている
そうなると日本自体の経済力を上げない限りどうにもならない問題だともなる



posted by 老鶯 at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

unknown world


unknown world


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Trilliumi is blooming by strict rocks
in the depth of the mountains


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2021年05月26日

株は人間の心理と深く関係している? (人間は一回損するとまた損すると思う)


株は人間の心理と深く関係している?

(人間は一回損するとまた損すると思う)

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何か株を知っている経験のある富裕な人が株が心理の問題というとき自分もそう思った
景気とは気のことだというのもそうである
みんな景気いいと思えば景気良くなり景気悪いとみんなが思えば景気が悪くなる
そういうことは確かにある

またなぜ人間の心理と深く関係しているかというと

一度損した失敗した経験は脳に深く刷り込まれる

株で一度損するとその損したことが頭にいつまでも残る、また損するのではないかと不安になる、実際はそうではなかったのだ
最近の株高を見てもわかる、こんなに上がるのだったら前にすすめられたとき買えば良かったとなる、買うチャンスが二回あったからだ
今はやりのAI関係とかGAFAとかの株を奨められたとき買えば良かったとなる
また一年前だったかすすめられたとき株を買えば良かったとなる
こんなに上がると思わなかったからである

なぜその後自分は株を買わなかったのか?

それは例えばリーマンショックの時半分になった株が元にもどり上昇した
その時チャートでも上昇傾向になっていたのだから普通は売らない
その時地銀の営業の人はその株を売ってJーreitに回した
そしてJ-reitが暴落したのからまねがれたのはそもそもそういうふうに地銀の営業マン
が信じられなくなったからである、そこで値下がりする前に売って助かったのである
チャートのグラフが上昇傾向の時はそもそも売らないからである

ではなぜ売ったのか?

J-reitを売って手数料をとるためだとなる
常に銀行でも証券会社でも頭にあるのは手数料をとることである
それで客のことは二の次三の次になる
客の利益のことより銀行や証券会社の利益が優先するからそうなる
その判断を地銀の営業にまかせたた自分自身の責任もある
そもそも責任をとるのは客であり地銀でも証券会社でもとらない

こういう経験した結果として何かその経験が頭にすりこまれて買う気がなくなったのである、この人は顧客より自分の銀行の利益であり証券会社の利益でありそれが優先される
何かだから常に買ったり売ったりさせる、その度に手数料が入るからだ

今回のもそうである、チャートで上昇傾向にあるから短期間で百万とかでも勝って売ればもうかるとすすめる
ところがそれも手数料をとるためのものだとみてしまう
なぜなら短期間で売ったり買ったりしていればその度に手数料が入るからである
確かにそれはいい方法にしても地銀とかにしてみれば手数料とるための方便だともみてしまう

だからこういうことを経験すると何か地銀の営業の人は信用できないとなる
この経験があとあとまで尾を引く

地銀の営業の人の一回の失敗があとあとまで尾をひく

つまりそれが頭にすりこまれる、次もまた損するのではないかということで手を出せなくなる
これは本当にその人が悪いというより人間の心理と深く関係していることがわかった
だから株は人間の心理の問題というのもわかった
例えば道を行きどこかでつまづいたりする、その経験が深く脳に刻まれる
するとまたその道を行くことを警戒するとなる
またつまづくという恐怖心が脳にすりこまれるのである

別に株は上がったり下がったりするのだから全部銀行とか証券会社が悪いというものではない現実に一年前でありその前にでも買えばこんなに株が上がったのだから大儲けにもなったなるからだ
ただその時、前の失敗のことが頭にすりこまれてまたそれを簡単に変化させることができないのである
それは人間の心理の問題である

そして株は老人に向いていないという時こうして目まぐるしく変わることに老人はついていけないということである、株の変化が最近特に激しいからである
そうなると一日中株の投資の上がり下がりを追って売ったり買ったりしていなければならない、そういう人がいて大儲けしている人はいる
でもそれもまた疲れる、他のことが何もできなくなるとなる
それも時間の無駄とみる、だから自分は地銀の営業の人にまかせたのである
でもそれが間違いであったと知ったからやめたのである

ともかく老人は変化に弱い、、だから株には向いていないと思った、投資でも向いていないと思った、貯金が一番向いているのだ
でも利子もつかない時代になると貯金も安心できない、そうなると老人は困るとなる
最近はめまぐるしく変わりすぎるからだ
正直津波原発事故コロナウィルスでも変わりすぎた
そして株とかやるとまた変化が激しい、それで老人には株は向いていないと思った
株は短期と長期があるにしろ短期でもめまぐるしく売ったり買ったりするからめんどうだとなるし長期だと先がないから向いていない

要するに人間は何をするにも時期がある

なぜそもそも自分が大金を投資につぎこんだのか?

それをふりかえると思わぬ遺産が入り何の考えもなしに大金を投資したのである

私は全然株のことも投資のこともその時わからなかったのである
その後インタ−ネットで勉強しただけである
そして投資信託の分配金で一か月数十万になるとか読んで決めたとなる
他の記事を詳しく読んでいないで決めたのである

これは何故だったのか?

結局これは別に知識なくても投資をする時期だったからだとなる
投資の知識ゼロでも投資する時期だった、そして遺産が入ったことでそうなったのであるだから何をするにも時期がある
投資するにも時期がある、投資は若い時からしているべきである
例えばなぜ醜男(ぶおとこ)と美女が結婚しているのかとみる
それはその時たまたま同じ職場にいたとかの偶然の出会いでそうなったともみる
何かいろいろ考えることもなくその時二人が出会ったとういことが大事なのである
その時期に出会ったということが大事でありそれでそうなったともみる

そして人間は時期を逸したら何もできなくなる

つまり自分の大金の投資も別に得する損する知識があるないとか関係なかったのである
ただたまたま遺産が入ってそういう時期にあっただけだったのである
その後は失敗したからもうからないという頭のすりこみが強く株をする気もなくなったのである、それでまた逆に失敗したともなるのだ
なぜ老人が株に向いていないのか、それは長期に見れない、株は長期にみればもうかるものなのである、それはリーマンショックで経験しているからである
そして老人は短期の株の売買より長期の方が向いている
一見短期が向いているようで向いていない
老人の心理を理解できないということも問題なのである
老人は先が短い、長期の投資はできないし短期でも向いていない

要するに株とか投資に向いていないのである
一番向いているのは貯金なのである、ただ今は利子がつかないから投資しろとなる
でも老人の心理を知れば株は向いていない、だから営業の人でも売りにくいとなる
そもそも短期で売ったり買ったりするのに老人はついていけない
老人は先がない、とういより老人は死がもっとも身近なものとなるときそうして生き馬の目をぬくような株取引には向いていないのである
ただこれだけ株が上がったという時、株でみんな損することはない、だから株なんかするなと言えない、若い人は株は投資はするべきだと思う
少額でも訓練していれば後で役に立つからだ
そもそも株をしなければ資本主義のことがわからないだろう
だから株をすることは勉強にもなるからである


空家化少子高齢化で日本は縮小化して空洞化 (自分の家の10メートル以内の家の状況)


空家化少子高齢化で日本は縮小化して空洞化

(自分の家の10メートル以内の家の状況)
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近くの子どもの時から知っている人が死んだ、その人は評判が悪い人で相手にする人がいなかった
最近姿を見ないと言っていた、犬を飼っていたが犬もいなくなっていた
生活保護で子供いないし親戚関係もなくなっていたと思う
なぜなら若い時その息子は自殺したからだ
その原因が親にあるとしていた、とにかくみんなから嫌われていた人間だった
ただその死んだ人の親はいい人だったのである
本当に今ではまれな馬鹿正直な人だったのである
それで自分の家族が認知症になった時助けてくれたのである
そのことは良くわからなかったが後でわかったのである
その親はいい人だったとみんな言っていたのである
本当に今の時代には金だけを追う時代では本当に見かけないおそらく旧時代の人だったとなる、ただ別に大正生まれでもみんな今は金だけになった
その人はなぜか違っていたのである、だからそんな人がもういないと見ていた

その人が死んだのいつだったのか、組に入っていても連絡もない
葬式も通夜もないのだろう、前にその人の妻というか同居していた女性がいた
その女性は仙台辺りから連れてきた女性だった
その女性は階段から落ちて死んだのである、これもなんか変だともみた
人間はそんな簡単に死ぬのか見たからだ
それで変なうわさもたった、とにかくその人は嫌われていたし貧乏である
ただ農家であり広い敷地がある、でもその土地でも自分のものでないらしい
だからあばら家みたいな家に一人で住んでいた
でも子供の頃から知っている人でありびっくりした、一時は一か月くらい入院していた
退院して一か月前とか見かけていた
それが死んだというので驚いたのである

死に方としては良かったなと思う、何か介護されずに簡単に死んだからである
おそらく延命治療などしなかったのだろう
あとは福祉で市の方で始末してくれたとなる、何か葬式もしないのかとなる
その人の奇妙なのは金がなくて6万貸したことがある
墓も私の同じ墓地にある、その墓をみたら死んだ親の名前が墓に記されていないのだ
それは金がないから墓に親の名前も記されていないかったのである
これも奇妙である、つまり名前も記されていない墓となればそれがその人の墓と言えるのかとなるからだ
こうして親不孝な人だったのである

この人が死んで隣の人と話ししていたら20年以上住んでいた人の家が空家になっていたことにきづいた、引っ越したという、ただすぐ近くに新しい家を建てたからだ
でも二十年以上住んでいた人が急に空家になったのも驚いた
その家は同じ組だった、話ししたこともないが空家になったということが驚きだった
その家の庭は広く家賃は四万だと聞いた、とにかく庭が広いとみていた
でもあまり庭は手入れしていないからもったいないともみていた

そして図にしたように自分の家の回りが連続して空家化していた
引っ越した家の隣が前から空家であり持ち主はいるが誰も住んでいない、壊れそうな空家である、次に隣の家の人がみんな死んで更地となっている
その隣はまた親と息子が死んで空家となった、何かわからないが息子は若くして死んだ
その後に親が死んだのである
そしてその裏の農家だった人が死んだ、そこは農作業していた庭が広い、だからその一帯の家を壊すと広い空き地になる、駐車場にとかするのにはいいとなる
公園にすらできるとなる

これで考えたことが最近隣の78歳の女性の人が死んだ、その夫も今は病気である
孫が買い物などに一緒に行っている、でも息子がいて嫁がいるがかまわない、前から同居しても別々の暮らしだったからである
死んだ女性とは自分の庭に咲いている花のことなどで話ししていたことがあった
何か突然死んだので驚いたのである
とにかく何か今は介護時代だからそう簡単には死なない死ねない時代である
それがこうして簡単に死ぬ人もいる
その人はとにかく嫌われいたし介護する人もいないからそうして簡単に死んだことは救われたともなる、人間はそんなに簡単に死ぬ人もいる
死に方としては良かったなとつくづく自分は思う

こうして自分の回りの状況は日本の縮図である

何か自分の隣近所を見ただけでこれが日本の縮図だと思った
空家が全国で800万になるとか少子高齢化とか一人暮らしの増加とかがそうである
組には一人も子供がいない、子供が遊ぶのも見かけない、老人が増え少子高齢化であり
空家が増えて耕作放棄地が増えて介護する人が増えて次々に同期の人も死んでゆくとなる同じ世代の人が次々に死んでゆくともなる
とにかくこの年になると死が現実化しては身近になる
あの人も死んだ、次は誰なのかとなる、自分の番だということが切実になる
それより原発避難区域が極端であり空家だらけとなる
そして5000万で建てた新築の家も誰も買わないともなる

人間が死ぬとういとき死んだ時は誰でもその人がなんであれ思うことがある
この人はどうだったかとかなる、それにしても人間の死で常に思うことはあっけないとういことである、死んでしまうと呆気ないということが常に感じる
ころっと死んで消えてゆくことである
こんなに簡単に人間が死ぬのかと常に思うからである

posted by 老鶯 at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年05月25日

除染専門会社へ県で土木事業を請け負わせた問題 (トリチウム放出には県民投票を!日本には民主主義がなかった)


除染専門会社へ県で土木事業を請け負わせた問題

(トリチウム放出には県民投票を!日本には民主主義がなかった)

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政経東北5月号

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このことで除染専門会社が普通の土木事業に参加した、でもその技術はないのにそうした除染のために作られた会社であり入札させるのはおかしいとしている

ではどうして自治体で技術力もない除染専門会社に受注させているのか?

これは自治体の問題であり責任ではないか、技術力もないのになぜ受注させているのか
そこが疑問なのである
誰かが政治家でも力があって受注させているのかともなる
第一そんな技術力がない会社に受注させないだろう
それで後で地元の業者にしりぬぐいさせている、そんなことをわざわさして手間をかける必要がないとしている
地元の業者に受注させればいいとなる
でもそこに除染専門会社が入れるのはなぜなのか、何か安くできるからだとしたらそれは自治体の責任になり行政の責任になる、問われるべきは行政だとなる
議会で議員が追及すべき問題だともなる、そこで議員も問われているとなる
なぜ追及しないのかとなるからだ

それで相双リテックは除染専門会社であり清水建設の下請けになった、何の技術力もないのになった、そして幹部に何億も金が支払われた、それは陰で大物の政治家が働いたからだと追求している記事があった
その相双リテックの宣伝が政経東北の裏表紙を全面的に飾っていた
つまり政経東北はこういうことがわかっているのだから相双リテックの不正を追求できるがしていないのである、それは宣伝費が相双リテックから得ているからだとみられてもしょうがない、宣伝費をもらった会社は追求できないとなる

ただ政経東北では知事をトリチウムの海の放出で批判している

処理水海洋放出は県民投票で決める

まず内堀知事は県民投票を行い、その中で議論を尽くすべきである
漁業関係者のみうがステークホルダー(利害関係者)のように扱われているが様々な形で影響を受けるとすると県民すべてがステークホルダーとなる

ステークホルダーは、極めて広い範囲の人・団体が対象となるが、大きく分けて「直接的ステークホルダー」と、「間接的ステークホルダー」とに分類できる。直接的ステークホルダーとは、主にユーザーや顧客、株主、従業員、取引先、金融機関などを指す。企業やグループに直接関わりがあり、影響を与える又は受ける人・団体を指す。間接的ステークホルダーとは、従業員の家族、労働組合、公的機関、地域社会などの、間接的に影響を受けるステークホルダーを指す。

このことは私自身が追及して述べていたことである
漁業組合とか船主が事故前も多額の補償金をもらっていた、漁業権を盾にしてもらっていた、そして漁業組合と東電の交渉だけで決められて
ここで言うステークホルダーの範囲はそこに住む住民にもかかわり福島県民にもかかわり広くなれば海全体を汚染するのだから世界の人にもかかわるとなっていたのである
それが漁業組合と船主とかだけの交渉となったことに問題があった
それで海は誰のものかとういことで追及して来た

そもそも内堀知事は政府の言いなりといっているのもそうである
要するに政府の下僕として遣わされた人だともなる、だから県民の意向は考慮しない
ただなにか県民投票というのもなじみがない、県民意識もそれほどない
第一いろいろあっても議論の場もない、すると報道するのは福島民報とか民友とかでありテレビでも報道しても一方的であり関心をもたないのである
民主主義でも本当は県民でも市民でも町民でもまず地元の問題を議論する場すらない
また重大なことを知らされることもない、それで重大なこともあずかり知らないところで決められていたのである
つまりそういうふうに民主主義が機能していないから上の人のやりほうだいとなっていたその象徴が安全神話の形成だったのである
どうせ原子力のことなど地元の人は知らない、関心があるのは利益だけだ、だから金を与えればいいのだとなっていた、それを受け入れたのも地元住民なのである

何かそもそも市政でもさらに県政とかなると一庶民など発言する場すらないのである
私が今こうして発言できるのはインタ−ネットができたからである
政経東北は確かに今の問題をわかりやすく切り込んでいることは言える
でもまたそれでも一方的になる、そこにも矛盾と利害関係があり
相双リテックの法外な除染の利権を報道せずに裏表紙に会社の宣伝をしているのである
だから何かそうなるとそうした悪を追求できるのかとなる
宣伝費をくれるなら追求しないとなるからだ、それは他の新聞でもテレビでも同じなのである、もう大きな組織集団として権力をもっているものは追求できない
相双リテックなど小さな会社でも宣伝費をもらえば追求しない、だからとても巨大な権力組織団体は追求できないとなる
その時悪は増長してそれが大きな被害となってゆく、悪は常にそれを指摘しないと増長してゆく、そして止められなくなり大事故とか大被害となったとき気づくのである
それが原発事故で判明したことなのである

だから私自身もインタ−ネットで発言できることによってジャーナリストの端くれとなり目覚めたのである、まずこうして発言できなかったら目覚めることもないしただ上からの言いなりだったとなる
まず本など普通出版できないしマスコミで発言などできないからである
私の本は個人というだけで地元の図書館に置くことすら断られたことがあった
ただその本は重に郷土史でも個人は取り扱ないとして拒否されたのである
こうして一個人など何も発言できなかったのである

日本には民主主義はなかった!

日本は20年から1つ順位を下げて67位となった。慣習や経済的利益に阻まれて記者が権力監視機関としての役割を十分に果たせていないなどとした。

つまり日本にはお上の言いなりであり有権者でも個々人は発言もできなかったのである
マスコミで発言できるのは極一部のマスコミのお気に入りでありマスコミの言いなりになる人だけである、NHKでもそうである、NHKが指導するのでありNHKの言いなりになる人が発言できるだけなのである、NHKが報道はとりしきるとなる
NHKの意向に反する者は拒否される、そして何も起きないならいいがそこで大きな被害が
国民に及ぶことがある、それが戦争の被害だったり原発事故の被害だったりまたコロナウィルスでもマスコミがとりしきるとやたら危険をあおるだけであり真実が見えなくさせられるのである、第一統計が出ていない,データーがないということで優秀な学者も判断できないとしている、隠蔽されたりしているからそうなる
日本には本当に報道の自由がない国だったのである、一応見かけは自由なようで自由がない、厳しい規制の社会なのである
ただインタ−ネットがそれを打ち破る強力なツールとはなるがそれもわからない
なんらかまたここでも規制がかかったり脆弱なものがあり一個人だと発言が制限されるとなるからだ



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「生活困窮」の原発避難者が急増 今になり原発事故の責任の重さが住民に問われている


「生活困窮」の原発避難者が急増

今になり原発事故の責任の重さが住民に問われている

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政経東北5月号


この辺でシシドスーパーの隣に復興住宅がある、そこに主に浪江の人たちが住んでいる
そこで良く出会う人がいる、大工をしていたという、でもやめたという
だから暇でいつも川を見ている
家とか土地があり補償金はそれなりにもらったから困らない
でもその額が例えば5000万としても多いかどうかはわからない
なぜなら土地と家で5千万も前のような家を建たればかかるともなる
建売住宅だと2500万である
とにかくその補償金でも高いとも言えないかもしれない
ただ一億円くらいもうらとそれなりに補償されたとなる
それだだけの財物補償された人は少ないともなる

そして意外と今原発避難者の生活困窮者が増えたのはなぜなのか?

●補償金をぜいたくで使ってしまった

●思った以上補償金がもらえなかった

こういうことが理由となる、その人は小高の人でありもともと金使いが荒い
でもそれだけの仕事ができる稼ぐ人だからとやかく言うことはできない
補償金で贅沢したという時、やはり高い車を買ったとかはそうである
一時レクサスを買ったとかで話題になった
だから金使い荒くなって金がなくなったという人もいるのである
そして移住先で仕事がてきないとかもある、また仕事をしないということもある
つまり何かこの辺ではすべて原発事故が原因であり東電や政府の責任としているが
住民の責任もあったことが見逃されている
何か全く住民には責任がないともなっている
住民の責任が自覚されていないのである

そもそも原発は受け入れた時、大きな責任が住民に生まれていた!

大きなリスクを負う、責任を負うことになった!

ここが見逃されているし自覚されていなかった、それが事故で否応なく自覚されたのである、住民の責任もいかに大きく重いものだったか自覚させられた

人間はつくづくいい面と悪い面をもたらすことがほとんどである
いいと思うものが悪いものに変化する
そのことは自分自身の介護で苦しんでわかった
自分は親に一番良くされたのである、だから親は自分にとって一番いいものだったのである、でも認知症になったとか二人の親を介護するために死ぬほどの苦しみを味わったのである
ここでもいい面が悪いものとして作用するようになったのである
でも結果的にこの場合は総合的にはやはり自分にとって親は他の人たちと違って特別いいものだったのである、だから今でも感謝して供養している

原発でもそういうことがあった、原発は地元の住民にとって悪いものではなかった
それで経済的にはうるおったしそこで働いて豊かになったからである
だから誰も反対する者はいなかった、今でも東電を責められないというのはそういうことがあるからだ
ただ事故になった結果それが反転したのである、そして住民もその責任の重大さを否応なく自覚させられたのである

そこには大きなリスクがあった!

そのリスクによって大損失となった、その重大な責任が自覚させられて負うことになったその責任は「安全神話」作った東電とか政府にもあった
リスクがあるとういことを説明しなかったからである、ただ安全神話をおしつけるだけだったのである、そうして安全をかえって備えなかったのである

そのことは銀行の投資信託とか株を営業の人にまかせて買わされて損して失敗したのと似ていた

確かなことは銀行は絶対に損しない!

手数料だけが確実に取る、その額が3パーセントとか大きい

銀行は全くリスクをとらないおいしい商売なのである

そして地銀は投資信託とか株式のことを専門ではないので知らないのである
でもすすめるのは手数料が高いし絶対に銀行が損しないからである
ではまかせた客に責任がないかとなればある

あるないにかかわらず責任はまかせたにしろ知らないにしろ自己責任だとなる

つまり知らないではすまされないのである、自分の金が勝手に奪われのは自己責任だともなっていた

原発でも同じである、そこに住んでいる人が原発のことを知る必要があった
でも「安全神話」で知らされなかった、少なくとも銀行の場合はリスクは言っていたのである、原発の場合はリスクは言わない、絶対安全だとしか言わなかったのである
言わせなかったのである、マスコミでもなんでも権力で口封じしていたからである
そして政府とか東電では責任はとらない、それは銀行とも似ている
その幹部でも責任はとらない、誰か刑罰になったとかいうとならない
何か幹部の財産でも没収されたかとなるとならない
これも本当におかしいのである、というのは例えば司法関係の人も東電に天下りしているしそれで告発もできない、裁判もできないともなったのかとなる
誰一人として重い責任を自覚した人はいない、というのは自殺した人が政府で東電の幹部でも一人もいないからである、会社でも政治家でも何か賄賂とかあると秘書が自殺したりする、でもそういうことも起きなかった
これだけの大事故でもそうだったのである、誰も重い責任を自覚しなかったいうことである

今原発避難者が生活が困窮しているというとき原発を受け入れた責任を身をもって受けているともなる、それが全部政府とか東電の責任ではないからだ
地元の住民にも広くみれば原発を受け入れた日本国民の責任だったともなる
例えは戦争で三百万人も死んだ、その責任は誰にあるのか?
全部が政府とかマスコミとかいろいろあってもその責任は国民全部にあるとなり300万人が死ぬことにもなったのである

そういう自分自身にも責任がなっかとなるとあった
ただ30キロ外だから責任がそれほど課せられなかったとはなる
でももっと関心を持つべきだったと反省する、それだけ重大なものだったからである
とにかく人間は意外と責任を自覚しないのである
ではどうしたら責任を自覚するのかというと苦しむ時なのである
それはカルマでも同じである、カルマを意識するのは苦しむ時なのである
苦しんでカルマが清算されるからである
だから補償金で贅沢したというのは一面おかしなことだった
酷ではあるがもっと苦しめばその責任の重さをカルマを自覚したとなるのだ
その苦しみによって原発がどれほど危険なものだったかを自覚できたのである

それでもっと苦しんで原発の恐ろしさを知るべきであり知らせるべきだともなる
一旦原発事故になったらあのように悲惨なものになり責任を負わされるとういう証人になるからだ
それが補償金が何億をもらったとかかえっていい暮らしができるとなれば原発はただいいものだったとなるだけであり誰もその責任を自覚できなくなる
それで何か補償金で贅沢してまた苦しいから補償しろとかいうのも勝手だともみる
ただ飯館村は原発の恩恵を受けていないから例外だとはなる
ても飯館村の人でも原発で働いていた人がいたのである

要するに人間は何であれ必ず責任が課せられている、それがカルマなのである
何か行った行為にカルマを産みだしてカルマは責任として負わされそれが苦しみとなってはじめて自覚されるのである、もし苦しみがなかった自覚できないからである
ただ得をすればいいというだけ決めるとこうして重い責任がカルマが課せられていることを自覚できない、でものちのちそのカルマが苦しみとなって現れる
私の場合は親の介護でその苦しみが現れた、でもトータルでは親の恩恵の方が大きかったから感謝して供養しているとなる

でも原発の場合は恩恵より苦しみの方が大きくなったとみる
それが今生活困窮として現れている
現実に復興住宅に住んでいる人で金がなくて夜電気を消しているとか金がなく苦しんでいる人がいる、財物保証が少ない人だったからだろう
双葉町の人がコンビニに強盗に入っというのも理解できないことだったが何か補償金を
遊びに使ってなくなったのかもしれない、そこまですることがありえないからだ
やはり十年もすぎると貯えもなくなる、補償金も打ち切られとかなってそうなった
そして苦しむことでその責任を自覚させられているともなる


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2021年05月24日

大貧困国家日本でも貧困が見えない (戦後10年とかの貧困との比較)


大貧困国家日本でも貧困が見えない

(戦後10年とかの貧困との比較)

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大貧困国家日本ー食費1日400円の日本人が1200万人!ーyoutube

https://bit.ly/3hQp3oO


なぜこれほど日本が貧困化しているのか、これが本当は現代日本の最大の問題になっている、ただ貧乏が目に見えるものとしてわからなくなっている
本当は貧乏なのだけど学校でも家庭が貧乏なのを隠しているとか言う
そうするといじめられるからだともいう、現代では貧困が目立つものとして現れていないとなる
でも高校生で学費がたりなくてアルバイトしている人が多いとか学校も続けられないとか紹介している

大学に入るのにも奨学金をもらう人が多いとかいうのもそうである
入学費用が80万とか払えないとかある
それは今の基準だとそうなる、半分は大学に入る時代だからそうなった
団塊の世代などでは大学に入ったのは二割くらいかもしれない、実際は地方だと一割とかなる

クラスが50人いたとして大学に入ったのは一割だった
その一割に自分は入っていた、高校すらみんなが入れたわけではない
中卒で集団就職した人がクラスで二割くらいいたのかもしれない、それは相当に貧乏な時代だった、それと比べるといくら貧困でも今の貧困はぜいたくな貧困なのかともみえる
ただ時代があり時代の標準があり貧困だとなる
電気も水道もない炭の暮らしとは比べようがないとなる

だから何か貧困が見えにくいの現代である、例えば田舎で家をみていると何台かの車を持っている、一人一台とかもっている、それを見ていたらどこで貧困なのかともなる
ただ田舎だとどうしても車がないと暮らせないことがあるし仕事で使うから車を持つのはぜいたくではない、それで私は自転車だからどうしても自転車の人と出会いやすい
そういう人は貧困である、現代社会で車を持たないということは特殊であり貧困として見られる
私の場合は別に車をもてるけど持たないだけである
ただ確かに車を持たない人は貧乏として見られる、それが可視化された貧乏だとなる
でも他では可視化された貧乏は見えにくいのが現代である

でもコンビニとかスーパーのレジをしている人は高校生がいるみたいだ
高校生でも働かざるを得ないとかなっていることは家庭が貧困だからかもしれない
ただ自分の時代はそもそもそうしてアルバイトなどはしていないしアルバイトを受け入れる場所もなかったからまた時代が違うのでは比較できないのである
貧困というとき戦後十年くらいは農家の方が豊かだった、なにしろ食料を自家生産していたから豊かだった、それで農家の人は卵を食べていたけど町内では卵は食べていないのである、卵は贅沢なものだった、ケージで卵を大量生産しいないし放し飼いであった
それで自分の家で店を開いた時、私は農家に自転車で卵買いにやらせられていた
自転車にしてもいい自転車ではない、自転車でも一台あっても新しい自転車を買うことはなかった、修理して使い続けていたのである

その卵買いで不思議なのはあの真野川の橋が木の橋であり舗装もされてもない、だから揺れたりして怖い橋だった、そしてその卵買いに行った場所が小池でありそこにいたのは
戦争からの引揚者であった、そこに記念碑がある、そこは街内から近いのである
そんなところに引揚者が開墾していたというのも今になると理解しにくい
どこにでもそうしうて引揚者が開墾に入った場所がある、飯館でも山奥の辺鄙な場所がそうである、それは全国でもどこにでもある、どちらかというと小池のような場所ではない山の奥の辺鄙な場所になりやすいからである
つまり今高校生がアルバイトしているというとき貧困化すると子供でも働くとなる
農家の手伝いをさせられとか普通にあった
子供は学校で教育させるものより労働力として見ていたのである
私の母親は尋常小学校卒であり読み書きはでききたが原町紡績で十年間糸取りをして働いていた、つまりそもそも高校とか高度な教育を受ける人はまれだったのである
まず相馬女学校に入れたのは極わずかの金持ちでありそに入れた人は地域の有力者であり資産家だけだったのである

だから貧困というとき何が貧困なのか時代によって違うからわからない
絶対的貧困はもうアフリカとかの最低限の貧困である、水すら満足に飲めないような状態である
だから貧困というのが現代ではわかりにくいのである
ただ水道の水が飲めないという時、今電気ガス水道が必ず毎月止められる人がいる
そういう人が貧困だ言うことで目に見えて来ることは確かである
そこが貧困の一番深刻なものとして現れているのだ
本当に電気ガス水道が止められると死ぬこともありうるし現実にそうして死んでいた人もいたからだ、もちろんそういう貧乏になるとち医者にもかかれず死ぬ人が多くなる
ネパールでは医者もいないから死ぬとなる、それで医者になりたいという子供がいることがわかる

つまり現代の貧困が見えないからほかりにくくそれで切実なものとして感じないのであるまず見ただけでは外見からはわからない、ボロを着ているわけでもないし何が困っているのかわからないのである
田舎でもわからない、みんな車をもっているからそうなるとどこが貧困なのかとなる
例えばベトナムとかネパールから来る外国人労働者はみんな車をもっているのだから
田舎でも貧乏だとは見えないだろう
それと自分自身不思議に思うのはとにかく若くても働かないニートとかが本当に多いのである、これは全国的にも60万とかなんか数が多いのである
でも貧乏だったら働かざるをえない、そうして働かないで暮らしていける人がこんなに数が多いということは貧乏な社会ではありえないのである
だから団塊の世代ではそんな人はほとんどいないしみんな会社員となり猛烈な企業戦士として働いていたのである、また中卒でも集団就職で働かざるをえなかったのである

ただ本当に年収が200万以下は本当に厳しい、もう食べるのがぎりぎりだとなる
それでこのyoutubeの人は400円しか食費に使えなかったとか言う、第一食費が2万5000円というのはもう果物も食べられないレベルである、バナナくらいしか食べられない、私は果物は高くて食べれないという貧乏な人が言うからわかる
ここにも相当な貧乏を具体的に感じる
いづれにしろ現代の貧困が実感できないのは具体的に貧困が見えなくなっているからである
そして最低限電気ガス水道代がかかり携帯も必需品だからである
この出費が大きいしアパートを借りたりしたらそれも負担になる
それで今東京とかで大家族で生活する人が増えてきたというのもわかる
なぜならその人は貧困なのに家族がみんな別々に暮らしている、
そのために別々に電気ガス水道代がかかっている、その出費が大きいのである
もし三人一緒に暮らせば電気ガス水道代は三人分一緒になるから節約できるからである

でもしたくないとしてしない、実際はそうしないと毎月催促されて生活できなくなっている、でもしないのである
それが贅沢だともみる、ニートが数が多いとかこうしてぎりぎりに追い詰められているのに一緒に暮らさないとかある
これだけ貧乏人が多くなれば貧乏でも暮らしていけるようにするほかないのである
でも現実にはそういう貧乏が見えない、だからみんな深刻に見ないともなる
ただこれからますますこういう状態がつづくと耐えきれなくなり暴動でも起きるとか犯罪が増えてくるとかなる、そういう被害に自分自身もあったから貧困は怖いのである
まず老人も本当に貧乏な人が増えている、そもそも年金がもらえない、国民年金が6−7万では食うことさえでないからだ
そしてつくづく感じることは老後に大事なのは年金だと思った、悠々自適な老後を送れる人は二割くらいになっているだろう
これは定期的に入ってきて死ぬまでもらえるからである、それで自分自身は70からもらって高かったので年金のありがたみを感じたのである、それでも貯金がなかったらもう食べるのが精いっぱいであり何もできなくなっていたのである
posted by 老鶯 at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年05月23日

原子力村、オリンピック村、感染症(医師会)村の利権構造 (人間は利権利益から離れられないから公正に判断できない)


原子力村、オリンピック村、感染症(医師会)村の利権構造

(人間は利権利益から離れられないから公正に判断できない)
                                              

原子力村が利権化して安全神話を作り事故になった
その利権構造は官僚、政治家、学者、マスコミそして地元の利権者となり強固なものとして逆らえないものになった
それは権力で作られた安全神話であり結局安全神話が作られてかえって安全がおろそかになった
日本の技術は優秀だから日本では事故は起こらないとか日本人優秀論がありそれで何か
自己過信に陥る
それは太平洋戦争でもあり不敗神話とかになる、それは創価でも選挙の不敗神話が作られた、仏の加護があるのだから仏法で勝利するとなる
また国全体になると天皇が神となり日本は神に加護された国だから負けないとなる
そこに宗教がかかわるとそうなりやすいのである

「安全神話」「不敗神話」が作られるとかえって安全はおろそかにされる、科学者が合理的に科学的にも安全を追求しなくなるのである
なぜなら危険を誰も指摘しなくなる、内部からも指摘できなくなる
絶対安全などありえないとして安全を追求できなくなる
ただ10数メートルの津浪が来ると科学者集団が東電に警告していた
それも報道されたのか?それに備えることもしなかった
今時代は科学技術の時代だからやはり科学者は危険を一番追求できると思った
つまり科学者でも優秀な集団はいたのである
ただそういうことを指摘しても上層部は何の備えもしない、したくなかった
なぜなら金がかかる、コストがかかるということでしない
そして「安全神話」を作っていれば要するに何もしなくても金をかけなくてもいいとなるこれこそ便利なものはなかったとなる

そしてそこに自衛隊から警察から官僚が天下りして利権を得る
マスコミもそれにのっかり利権を得る、危険を追求することもなかった
地元では金になればいいしかなかった、だから飯館村ですら原発で働いていたのである
そこで普通の3倍の賃金がもらえたからである、そうなるとみんな働きたいし東電のおかげだともなってしまったのである

このことはオリンピックでも同じであり、コロナウィルスでも同じだったのである
そこで強固な利権の村が形成されてその利権を得る人たちがいてオリンピックはやめられないのである、やめると大損失になるからである
オリッピックは平和の祭典でもなんでもない、一部の利権を得る人たちためのものだともなる、それは原発でもそういうことがありまたコロナウィルスでもそれと同じことが起きている
医師会があるとしてそれは強力な利権団体でありお医者様には庶民でも逆らえないことを身をもって知っている
命をあづけるから怖いとなり強力な利権団体にもなる
民主主義でもこうして現代は利権団体民主主義なのである
個人など何の力もないのである

それは宗教でもそうである、創価はわかりやすい御利益を求める利権団体である
でもその他の宗教団体も同じなのである、神道でも仏教でもその他の宗教団体も利権団体なのである、なぜならそれだけの数を集めれば政府に要求できる
そして利権を得ることができる、宗教団体が一致して税金をかけることで一致協力していることでもわかる
比叡山の宗徒が琵琶湖の舟運で関税を税金をかけたりしたのもそうである
比叡山でもそこは僧兵がいて強力な利権団体としてあったからである

ただこうしてみんな利権ばかり追求するものとなったとき今回の様なコロナウィルスとかなると医者でも看護師でもそんな危険なものにかかわりたくないとかもう看護師でもやめたいとなる、何か一致してコロナウィルスに立ち向かうということもない
それぞれの団体が利権だけを追求するからである
そしてベッド数が外国より10倍以上とかあっても何もできない、戦争なら武器があってもそれが利用できないのである

民主主義は意外と危機に弱いということがコロナウィルスで判明したのである
つまり船頭多くして船山に上るとかなるのが民主主義なのである
こういうときは誰か強力な指導力を発揮する人が先頭にたって指示する
それが民主主義ではできない、何か話し合いだとか合意をとるとか議論するとかしているうち感染が拡大して手がつけられなくなるともなる
だから中国が感染を止めて普通の生活に戻っているということは不思議なのである
それが全面的に信じられない、中国のまねすることはいいことではないというのもわかるでも民主主義は危機には弱いことは判明したのである
平和な時は別にいろいろ手間がかかっても議論して合意を得ることは否定できない
法律を守るというのもそうである、でもこうして危機に直面すると民主主義はただ混乱状態になりそうしてもう誰も指導できなくなり被害が拡大して国が崩壊するとまである

いくら議論して合意にいたるとかしても解決がないのである
だからもう民主主義というのも実際はすべていいものでもなく悪くも作用したとなる
みんなめいめい組織団体でも利権を得るためにあれば合意などしない
結局人間の問題は利権であり利益でありこれから離れないから何か公平にならないし真実でも見えなくなる、「安全神話」もこうして強力な原子力村が作られて大事故になったからである
もしオリッピックでもその意義だけを追求していれば成すべきものとしてありうる
でも一部の利権者のためのオリッピックになったからやめろとなる
バッハ会長がぼったくり会長だと批判されるのもそうである

とにかく原発事故でもオリッピックでもコロナウィルスでも共通したものがある
人間は利権から利益から離れられないからそれで真実が見えなくなる
見えなくさせられる、科学でも歪められるし法律があっても歪められる、宗教も歪められる、ただ利権を御利益を得るためのものとなる
神は偏り見ないというとき人間の利権と利益にかかわらないからできる
だから利益とか利権にかかわらないなら人間でも公平に見れるとなる
ただ実社会に生きることは必ず利益とか利権とかかわるからそれは至難だとなる
それはマスコミとか見ればわかる、宣伝費で成り立っているのだから金を出す会社には団体には逆らえないとなるからだ


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2021年05月22日

木の根っこ(飯館村の春の詩―私の思い)


木の根っこ(飯館村の春の詩―私の思い)

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木は大地に根を張る
徐々に深く深く根を張る
そして長い時間で成長する
ここに飢饉の碑がある
江戸時代の宝暦と記されている
寒冷の高原の地で民は苦しむ
でもここに根を張った木は動かない
その時代から代々人はここに生き続ける
そして我々の生は受け継がれる
その土地土地に歴史がある
歴史は先祖の苦労を偲ぶこと
その土地の根となること
それがこの地に生きること
苦しくも悲しくもまた喜びをともにする
それが断たれ失われ時
その根っこも失われる
その土地に死者も生き続ける
その土地から離れず生き続ける
その土地に根付き働き苦労して
その土地を作ったものだから
苦しくも峠を越えて私はまたここにやってきた
木は春になり芽吹く
風がそよぎ春の光りその根にさしている
私はその露わなる根を見る
土地に根付くその根を見る
そしてここに生きる人を思う
その場に人は生きた
その深い思いがここに残っている
でも人が住まなければそれもない
それが悔しく残念である
故にこうさせたものを憎む
憤りをもつ、怒りとなる


六字名号の碑の側に根も露わな木がある、今回はその根に感じた
何かそれが飯館村を象徴していた、飢饉もあり人々は苦しんだ
でもそれでも人々は代々ここに生き続けていたのである
村がなくなるということはなかった
人口が減っても村自体がなくなるとういことはなかった
そんなこと想像もできなかった
その村自体に人が住まなくなり荒廃した

確かに新しいこじんまりした家は建っている、でもそれは別荘だとういのも変なのである別荘とそこで暮らすのは違っている、別荘という時東京の金持ちが東京近辺に建てるものである、飯館村は別荘は似合わない、だから違和感がある
要するに原発事故で飯館村でも他でも放射線被害の大きい避難区域は根が失われたのではないか?
ただ帰ってきて何か農業でも始める人もいるし外から来た人が新しいことをはじめはている
でも肝心の村人で帰った人は少ないし60過ぎの人が多いだろう
もともと農業は60以上の人がしていた、そして近くの畑でも遂に死んだ人もいるし体がつづかなくなり畑をやめたとかある
そして耕作放棄地になった、原発事故以後はそういう土地が多いのである
それはここだけではない全国的にそうなのである

人間が生きるということはやはり生きる場が必要である
その場が故郷であり代々生きることが継続される
それが断たれることは歴史を失うことであり深刻になる
ただ歴史が失われるとしてもそれを感じない人もいる
金をもらえばいいとかなる人もいる
もともとここで暮らすのは苦しいから嫌だから住みたくないという人もいた
ただそこに生きることにかけがえのないものを感じていた人もいる
そういうことをまた原発事故以後痛切に感じた人もいる

それで山尾三省が東京に住んでどれほど田舎で暮らすことに価値を見出したか
まるで田舎の殉教者みたくなっていたのである
あんなふうに第一田舎の人でもならない、なぜならみんな車をもっているし一人一台でももっているからである、車がないと田舎では暮らせないからである
それは極端にしても何かそれほどまで一つの自分の生きる場を郷(くに)を求めた人はいない
それで原発事故以後共鳴したのである、あからさまに原発事故に反対してそのアンチテーゼとして自ら実践したのである
おそらく田舎に住む人より田舎の価値を農業の価値を生きたかったのである
それでその喜びが詩ともなったのである

私はただ別に農業をするわけでもない、飯館村に行ったのは他国をたずねるような気分でしかなかった、そこに暮らす人の苦労も知らない、ただ花を見て帰っただけだともなる
でもそこに峠を越えて常に行っていたから思い入れが生まれたのである
飯館村は相馬藩内だからやはり土地でもつながっていた
なぜなら新田川の上流が飯館の中心部の草野から流れていたからである
真野川は大倉村から流れているからである
土地としてもつながっている、それで放射性物質をつめこんだ袋が破れて流れたとき
それは南相馬市にも流れて来る、もちろん真野ダムに放射性物質がたまり流れだして来るだから飯館村だけが汚染されるということでもなかったのである

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人間がみんな老人になると自分のしてきたことを認めてもらいたい (郷土の歴史もその苦労を知ること)


人間がみんな老人になると自分のしてきたことを認めてもらいたい

(郷土の歴史もその苦労を知ること)


たいがい60以降になると自分がこういうことをしてきた、その苦労話がある
私の家では街内で一番低い土地にありそれで被害がまた一番大きかった
家が流される寸前になっていた
その家と土地にしても父親が葛尾村から双葉の新山で酒屋で丁稚をしていた暖簾分けしてここにきて土地と家を建てたのである
父親は早く死んだが成人して生きていたらそのことを延々と語っていたとなる
そのことを聞けなかったので残念だったとなる
つまりこの土地であり家であれそれぞれ歴史がある、歴史には必ず苦労話がある
歴史というと国家となると大きなことになりわかりにくくなる
でもそれぞれの家の歴史だと身近でありわかりやすいのである
だから私は郷土史とか歴史は家の歴史からはじまっている
じいちゃんばあちゃんから聞いた話しが郷土史となると言ってきた
だから歴史とは身近なものである

それぞれの家の歴史がありその集積として村の歴史があり町の歴史があり市の歴史があとなる
家の歴史でもまた家族がいたとしても例えば三人家族が三人三様なのである
その相違もまた大きいのである、なぜこれほど同じ家族なのに違うのかとなる
母は原町で原町紡績ーハラボウで十年間糸取りをしていた
それから東京に行き女中になった、そこで結婚したが夫が死んで原町に帰ってきた
そして私の父親と結婚した
姉は養子とかでありこの運命も数奇だった、常に語っていたのは今のシンガポールの向かい側のマレーシアのジョホールバルで四年間従軍看護婦として働いていたことである
このことを死ぬ直前まで語っていた、そのことをどうしても忘れられなかった
人生で一番印象に残ったことだからそうなった

こうして家の歴史をふりかえるとまさに戦前からどちらも大正生まれであり父は明治生まれであり歴史を語っていたのである
つまり家族の歴史が大きな日本の歴史でもあったのだ
なぜなら絹を輸出して日本は戦争する経済力をつけていたともなるからだ
姉が従軍看護婦になったのも戦争の歴史である
そしてトタン屋根の家から二階建ての家にしたのはすでに50年前とかになった
その二階建ての家にしたのは真野川の氾濫で一番被害を受けたから逃げる場所がなく
二階にすることが悲願となったのである
何か胸とかまで水につかり近くの旅館に逃げたのである
そうして新しい家を建てた時、姉は死ぬまでこの家は私が建てたのだと自慢していた
その柱は橲原の同級生がキコリをしていてそこの木から作ったと自慢していた

つまりこういう一家族の歴史が一つの郷土史でありそこから苦労を偲ぶのが歴史でもあるそれはどこの家でもあるかことだからである、ただめいめいの家族が事情が違うから理解しにくいのである
何かその女性はしきりにいう、私は福相(裁縫会社)で働いていたとか原町の旅館の丸屋で働いていたとか食堂でも働いていたとかあとは相双緑化(建築と造園)で働いていたとうかいう、この辺での働き先だったとなる
そこで言いたいのは私はこうして郷土で働いたということである
その苦労を語るのは普通にある
ある人はトラック運転手をしていた、その人は他の人より荷物を二倍を請け負ってトラックを走らせた、そして500万の立派な庭を作ったとなる
その庭は確かに立派な庭である、大きな石を積んだ庭だからである

そうして老人は昔を語る、それはなぜなのか?

私は家のために子供のためにそして郷土のために働いたということまた従軍看護婦となると国のために働いたとかまでなる
ただそういうことは地元だから知るが他の土地に行くとわからなくなる
そうした歴史がわからなくなる、特に外国に行くと空間を移動しても時間軸で作られたもの歴史がわからないからである
この歴史が知ると知らないでは相当な差が生まれる
そうしうた苦労話を聞けば家でも大事にするし親でも苦労して家でも作ってくれて今自分が住んで楽しているんだとなるからである

ところが原発避難区域とかなるとそうした家の歴史があってもそれが失われた
5000万で作った家を小高に置いて原町で中古の家を600円で買ったとかなる
するとその5000万の家は無駄になったともなる
確かにそれで補償金をもらったとしてもその家を作った苦労話は子供でも孫でも話せないとなる、小高でも浪江でも原発避難区域になったところはそうして実はそれぞれの家が築き上げた家の歴史も失われたのである
それはたいした損失のようではない、むしろ補償金をもらって良かったとも外部からだとみる、でもその土地の歴史は失われたときこうして苦労話を次代の人にできない
すると何か親の苦労でも継承されない、ということは親でも先祖でもその価値が失われたともなる

確かに多額の補償金をもらったからいいじゃないかともみる
でもその補償金はこうして苦労して作られた残されたものとは違っている
俺は原発事故でこれだけの金をもらい残したとか自慢できないだろう
それで郷土に尽くしたとか自慢できない、むしろそのために郷土に住めなくなった
そういう歴史が失われとなるからだ、その損失は大きかった気付くかもしれない
むしろ親でも子供はうらむとまでもなるかもしれない、また郷土とは関係ないものとなり苦労話をしてもそれを受け継ぐことはない、第一もう郷土に住んでいないからである
歴史とは何かというときその土地土地で長い時間をかけて継続されたものである

例えば飯館村の歴史も古い、有名なのは六字名号供養碑とかの飢饉の碑である
飯館村は高原の地であり寒いのである、だから飢饉があり苦しんだ
その碑があり春の日に行ったらそこに木が根付いて露わに木の根が見えたのである
その木の根に春の日がさして春の鳥がさえづっていたのである

その根が何かこの土地に根付いて暮らしてきた歴史を刻んできたものとして見えた
つまり過去に飢饉がありそれでもここに暮らしが継続されてきたのである
この土地に根を張り代々生活は歴史は刻まれてきたのである
その歴史が原発事故で失われる危機にある、村自体が消失する危機にある
それは全国の限界集落でもそうなりつつある、それは代々築かれた先人の苦労も無駄になるともなる

部落自体村自体が消失すればもう個々人の家の歴史も失われ廃墟として埋もれてしまうからである、だからゴーストタウン幽霊村とかなり神社があるとしても草に埋もれ誰も参る人がいなくなるそこは動物の住処となり猿が住んだりするとなる
飯館村でも神社を見たらそういうふうになっていた、何か一段と淋しいものとなっていたのである、人が住んだ場所は自然のままのものではない、何か一段と淋しいものとなり
幽霊が徘徊しているような感じになるのである
それは先祖の苦労もなにもすべて失われたものともなる、継続するものがいなくなったからである、ただそうした村とかはここだけではない全国的にこれから増えてくる
空家が800万軒とか耕作放棄地が膨大なのである、この辺でももう耕作放棄地が原発事故以後増えた、小さい田畑はもう放棄されてソーラーパネルになったりしている
ただ他は田は広い田にしている、機械を利用するのにいいように広い田にしている
つまり小規模農業は成り立たなくなっているのである

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江戸時代からの継続として飯館村があり
それがこの碑なのである
そして木の根っこがまさにここに根を張って生活を継続していたことを
象徴していたのである

飯館村の春の塩の道を行く
http://musubu2.sblo.jp/category/1556951-1.html

家の力、土地の力、歴史の力 (グローバル化に対立するもの、ナショナルな力)

老人は過去を昔を語ることに役割がある
(でもそれを受け止める場や共同体がないと活きない)

2021年05月21日

桐の花、夏蝋梅、薔薇(最近の短歌十首ー桐の花の詩)


桐の花、夏蝋梅、薔薇(最近の短歌十首ー桐の花の詩)

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夏蝋梅

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ゴミとして掃かれる蟻やあわれかな


我が家につばめ飛び入り去りにけり新しき事起きるべしかな

庭作り働く人のその姿たくましきかな夏の日さしぬ

はなやかに庭を充たして赤き薔薇今盛りと咲きて映えにき

風そよぎ夏蝋梅の我が庭に心地良く咲き影なし休む

黒揚羽飛びてさりにき我が一人家にこもりぬ裏の路地かな

音もなく桐の花散るひそけくも我が命も散るべきものかな

雨しとと桐の花散るこの道を今日も行きしもひそけかりけり

雨しとと水たまりにそ桐の花映して静か我が一人行く

雨しとと水たまりにそ波紋かな桐の花散り道のひそけし

ヨシキリのしきり鳴きにき河原かな小さき町を我が行き来する



真昼の桐の花


屋敷林の影が濃く

長い木陰の道

蔵があり前畑が広い

農家が点々とあり

家はひっそりとして

誰も顔を出さない

農夫が黙って畑を耕している

桐の木が一本

真昼に花が咲く

年老いて今は思う

こういう所に安らぎがある

人は隠れているがよし

こうしてただよそ者として

通りすぎるとき平和がある

藪をつつけば蛇がでる

土を掘ればまた虫が出る

人の世は欲の世

人と交われば欲が出る

血縁とて交わればもめる

人と人とに平和なし

この世に災いは尽きることなし

この道を行く人まれに

桐の花はただ天上を向き

わずかにそよ吹く風にゆれ

静謐さ保ち咲いている

この道をさらに行けば

墓所ありて眠る人は幸い

人に世話にならず

人知れず眠るは幸い

そこに永久の安らぎがある

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桐の花の季節である、この花は雨しととふる季節に梅雨にあっているのか?
今年は梅雨が早い、いつも行く裏の道に桐の花が散っていた
桐の花も神秘的である、私の性にあっいるのは桐の花かともなる
何か気づかれないようにひっそりと咲いているからだ

いつもの裏の道を今日行ったら水たまりができて桐の花が散っていた、何かそれでしんみりとする
ただ桐というと会津の木なのである、桐箪笥とか桐の木が用いられるからだ
だから会津に行った時、やはり雨しととふり桐の花が咲いていた

雨しとと会津の墓地や桐の花

こんなふうになる、何かその土地に似合った花がある
でもちょっと旅しただけではわからない、真夏にも会津に行ったが奥会津では鬼百合が咲いていた、それも墓地の中だったのである
だから相反した花でも会津という土地柄に合った花だともなる

今自分の庭に咲いているのは夏蝋梅である、これは葉が大きく高く伸びる、そこに小さな花をつける、これも変わった花だと見る
赤い薔薇が咲いてまた夏蝋梅が咲いて夏である

自分の性格は母親ゆずりである、何か人をいとい内向きであり静かにしていることを好むからである、そういう点で桐の花があっているとなる
まさに詩のうな状態にあるのがいいとなる
とにかく人と人の間には必ず問題が起きて災いが起きる
自然は融和しても人は融和しないのである

それでなぜか自分に来た人が離婚した人が多い、最近小高の人も離婚した
その事情と経過はわからないが60過ぎて離婚した
その人と関係していた女性の人も離婚した、あの人も離婚したとかあの人も離婚したのかと本当に離婚が多い、男女でもこうして離婚が多い
熟年離婚も相当に多いだろう、それだけ男女ですら人間はうまくいかないのである

結婚はおそらく私にはわからないにしろ男女の恋愛とかで結婚しても好きで結婚しても
いろいろあっても結婚というのはうまくいかない理由はなにか?
それは男女二人だけの関係にしてしまうからでないか?
それで昔なら家と家の結婚だった、家というの中心にあって結婚があった
江戸時代でも侍の家なら御家大事なのである
だから江戸時代は藩という言葉はない、・・・御家中である、それが公(おおやけ)であり大きな家が一つになって尽くすということになっていた
つまり男女の好きだとかだけでは結婚は成り立たないとなる、結びつかないともなる
私の家は異常な争う家だったけど家が家を維持するいうことで最後まで成り立っていたから維持できたともなる、その家の中心が自分だったのである

ともかく人間関係はむずかしい、どこでももめている、別に家族でもみんなもめている
兄弟でももめている、だかち血縁でもうまくいかないのである
それで自分は人間関係が嫌で引きこもりになったともなる
人間を嫌い山や木や石とか自然と一体化することをしてきた、そこに人間がいなかったのである、人間からは必ず災いが起きて来る、だから人間と接することでどれだけ問題が起きているのか?それが人間社会だとなる
人間と接しない方が幸福だともなる、だから人間と接触しない、コロナウィルスは悪いことばかりではないとも見ているのである
人間は今や接触過剰になっていたからである






2021年05月20日

アレキサンダーとインド(ポロス古代インド英雄伝) (韓国の河―河が運命を決める)


アレキサンダーとインド(ポロス古代インド英雄伝)

(韓国の河―河が運命を決める)

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エウローパ(ヨーロッパ)、アシアー(西アジア)、リュビアー(北アフリカ)の
三大陸が中心に存在し、その果てにはオーケアノス(海)がぐるりと取り囲んでいたとされる。


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河はriverはライバルである、まさに河をはさんでポロスとアレキサンダーが
対峙する

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河に祝福されるとかは日本ではありえない

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ガンジス河

ブッダガヤであり日本の河とはまるで違ったスケールなのである
対岸までが相当に距離がある、ただこの時水は流れていない時期だった


大陸の歴史をみるとき川が大きな役割を果たしている、その長大な河のことが日本人には理解できない、だから大陸の歴史を基本的に理解できないとなる
四大文明そのものが大河の側で生まれたからである
川が海の親なのである、ライン川でも父なる河となり川が境界となり世界史を作ってきた経過がある
インドのヒンズー教にしても母なるガンジス河から生まれている、川で沐浴して穢れ浄めるというのもそうである
とにかくその川のスケールが日本に住んでいるとイメージすらできないのである
それは中国でも同じである、黄河とか揚子江とかが理解できない、すると歴史を理解できないとなる

このインドの英雄のポロスとアレキサンダーの戦いでも川が境界としてそこで川が守ってくれるとなっているのは川が大きくなかなかわたることができないからである
その時代には橋がないからだ、だからライン川でもローマ軍が侵入してくることをさえぎりゲルマン民族のドイツの境界となった
とにかく河のスケールが違うし日本ではイメージもできないものである
大陸の河は長大であり交通路となり地域を結ぶ役割りを果たした
ナイル河がなくしてエジプト文明がありえない、エデンの園にも四つの河が流れていたということはやはり現実の世界の川がありそこからイメージされたともなる
ローマのカエサルもルビコン川を渡ったということは一大決断であった、川が小さくても境界でありそこを渡ることは禁止されていたからである、川を渡ることが運命を決めるともなっていた

川というとき何か韓国だと国が小さいから大きな河がないと見るが武寧王陵に行った時
それは大河の脇にあった、その河も大きいのである
また

朝鮮半島からもたらされた鉄の見返りに、日本から何が運ばれたのか。古代史最大級の謎に、新たな仮説が登場した。
木材だ。韓国南部の古墳で昨年、朝鮮半島では自生しないクスノキの棺が発見されたからだ。中国を含む東アジアに特定 の樹木を貴ぶ文化があったという新しい歴史像も浮上している。

 「百済の武寧王は、筑紫の各羅(かから)島で生まれたので島君(せまきし)と言う。」
という記事があり、武烈紀にも同様の記事があり、「武寧王の諱(いみな)は斯麻王と言う。」とある。「三国史記」にも
武寧王の名は斯摩となっている。島で生まれたから、斯麻王という名前が付けられたという

武寧王は日本との関係が深い、ただ地理的には百済でも伽耶国のあった場所とは離れている公州である

そこに春に行った時、大きな河があった、でも水が満たして流れていなかった
河は広々として芽吹く木などが見えた、韓国でも河は大きいのである
その河の側に武寧王陵があった

春の風大河にそよぎ武寧王ここに眠るや日本よりたずぬ

広々と河に芽吹ける木のありや武寧王陵を我はたずねぬ

やはりここも河がありその岸辺に王陵があったから河がかかわっていたのである
クスノキの棺が発見されたのは南部であり伽耶の国の近辺だとなる
照葉樹林帯に入っていたのは韓国の釜山とか伽耶国のあった所である
この辺が日本と文化の共通性がある

洛東江は525キロある、相馬から東京まで300キロだから長い
一帯はその後伽耶、次いで新羅に支配され、洛東江は海を介して日本とも結ばれる重要な水上交通路として利用された。

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広々と春の光りに洛東江海にい出なむ日本へ通じぬ

ここで川は海に通じている、伽耶と日本は一体だったからである

ともかくしきりにポロスのことを見ていると河のことが言われる
河が神のように守ってくれるとかなる、河が守護神のようにも言う
それだけ川と人間が一体化しているのが大陸である
ガンジス河を知らずしてインドを知ることは不可能でありライン河を知らずしてドイツもわからない、黄河や揚子江を知らずして中国もわからないのである
だから歴史は地理であり地理を知らずして理解できない、ただ地理は空間軸であり時間軸で知らなければならないのが歴史であり地歴となったのである


2021年05月19日

金の流れで悪が見えるー河井案里議員の金の出どころ


金の流れで悪が見えるー河井案里議員の金の出どころ

自民党の二階俊博幹事長は17日の記者会見で、党本部が2019年参院選で河井案里氏の陣営に供給した1億5千万円の活動費について「私は関与していない」と述べた。

岸田文雄前政調会長は12日、党執行部が国民に「政治とカネ」の問題を丁寧に説明するよう二階氏に申し入れた。岸田氏は13日の派閥総会で「『書類を確認して説明責任を果たしてほしい』と二階氏に申し上げた」と語った

金がどうして得たのか?明らかに一憶5000万円の金がふりこまれて使った
ではその金をふりこんだ相手は誰なのか?
それが二階氏とか選挙対策長だった甘利氏とか言われる
なぜなら誰かがふりこまないかぎりその金はない、誰かの命令で振り込まれたとなる
つまりその振り込んだ人をつきとめるとその人も共犯者だとなる
選挙に勝たせるために軍資金として金を与えたとなるからだ
それをみんな否定している、でも金の流れから犯人がつきとめられる
推理ドラマでも金の出どころとか金の流れをつかむ、それが証拠になる

金がどのようにして得てどのうように使われたのか?

何か銀行とかの金融業の役割りはそうして金の流れを記録して証拠にする場なのかともなる、確実に金の流れが記録されているから偽ることができないからだ
ただタンス預金とかから流れているとわからなくなる
それで政府では困る、マイナンバー制を政府がすすめるのはこうして金の流れをつかむためである、そして税金をかけるためだとなる

なぜ金をもっているのかと自分が言われた、働いていないし稼いだことがないのに金をもっているのかとなるからだ
その出どころは遺産を相続したからである、それは自分自身が働いて稼いだものではないそういう金も普通にある、でもある人が金があるというときどうして金を得たのかとなる金額が大きくなると問題になる、それで銀行で大金を貯金したとき家族が問われた
本当はそういう金は銀行で秘密ともなる
でも大金になると盗んだとかもあり銀行でも問うことができるのかとなる
警察で操作する時、犯罪であればそれを知ることができる、どうしてそんな大金が入ったのかとなるからだ
銀行とか金融機関はそうして金の流れを記録する機能がある
また紙幣に番号が記してあって盗まれた金だとそこからわかることがある  

いくら私は金を出していないとしてもいづれ金をだした人が判明するのではないか?

その鍵は銀行になるのかとなる、一憶5000万の金を支払った記録は銀行に残っているだろう、それとも闇の金なのか、ともかくそれだけの金が誰かが支払ったことは確かなのである、それを支払ったのは自民党しかないのである
だから機密費から支払われたともされる、それは秘密の金だからわからないともなる

とにかく人は金を一番気にしている、自分でもまた他人の金でも気にしている
いくら金をもっているのか気にしている
ただ普通に働いていれば金の入るのは限られている、ただ特別な場合にこの辺だと原発事故で多額の億の金が入った人がかなりいた、それでいい車を買ったりしてひんしゅくをかった、でも事故のためにもらったものだから正当性はあった
何か正当性がない金だと回りがうるさくなるのだ
船主とか漁業組合の過分な東電から補償された金とか相双リテックなどの除染費用は過分すぎたからそれは犯罪ともされて逮捕されたのである
その金の出どころは国民の税金でありまた地域でも配分されるものだけど一人じめしたとなるからだ

金がどういうふうに流れたのか、それを追ってゆくと悪があばきだされる
つまり人間社会は金によって支配されるという側面があるからだ
それでドルを発行できるFRBとかが世界を支配してそれを作ったロスチャイルドとかロックフェラーとかが世界を支配しているという陰謀論になる
中国で覇権国になるために独自の人民元をデジタ通貨にしようとするのはそのためであるローマ帝国でもオスマン帝国でも地方の長官とかに覇権されたときその土地を支配した
人が王になりやはり独自の貨幣を発行したのである、それにはその人の顔が彫られた貨幣だったのである、貨幣とはこうして支配するものとしてあった
貨幣を紙幣を発行できるものが支配者となる
でも中央の皇帝から反逆者として討伐されたのである

だから悪を暴くとき金の流れを見ろということになる
それがわかりやいからである、今になって自民党の幹部は誰もその金を払っていないとしている、でも確かに誰かが払っていたのである
それを逃れることはできない、何かこれはわかりやすいのである
でも普通は金の流れがわからないのが多い、闇のルートとかに隠される
グロ−バル経済になるともう天文学的数字の金がどう流れているのか見えなくなる
それが問題なのである、金の流れが可視化されれば悪も見えやすいのである
それができないので陰謀論になり悪は闇の中に隠されるのである
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2021年05月18日

民主主義、共産主義、全体主義の相違 (民主主義の弱点がコロナウィルスで現れる―民主主義は崩壊の危機)


民主主義、共産主義、全体主義の相違

(民主主義の弱点がコロナウィルスで現れる―民主主義は崩壊の危機)


何か最近コロナウィルスでもそうだが民主主義より中国とかの共産主義一党独裁とかの方が指導力を発揮して自由主義の民主主義が指導力が発揮できないとして中国のような共産主義が一党独裁の方が優れているとも言う人がいる

それはなぜなのか?  

民主主義というのは一番いい政治体制だということを世界でのスタンダードとしてあったでももともと民主主義の欠点は言われてきた

君主制 ⇒ 一人の王様が国を支配⇒独裁制
貴族制 ⇒ 少数の特権階級の人が国を支配⇒寡頭性
民主制 ⇒ みんなで国を運営⇒衆愚性

この三つがありそれぞれぞれにいい面と悪い面がある、今民主制が悪く感じる機能していない、それは衆愚性になっいているからだ、ポピュリズムになっている
田中首相が政治は金と数だと言ったのもそうである
人間はもう数であり統計的数字として扱われるだけである
すべては数によって決まる、それが極端化するとファシズムになる
その最悪の例がナチスだったのである、民主制は大衆ファシズムになりやすいのである

民主制とかいうとき何かギリシャの民主制が基になったとしているが現実はそういう民主制とはもうまるで違ったものになっている
その理由は数が多いからである、ギリシャの民主制は一万くらいのポリスで行われたものである、そこでは一人一人の票の重みが違っていたし責任も違っていたのである
その一票は軽いものではない、一人一人が市民として責任を負っていた
ただここでも問題があり奴隷がかなりの数をしめていてその人たちに一票をもっていなかったのである

今は数だけが問題になるときもう一票など価値がないとみんな知っている
だから投票しても無駄だとなる、すでにその数を集める組織とか団体があって決まっていて一票など何の価値もないのである
だから投票率が50パーセントになっている、組織や団体に利権団体に属していない人は棄権する、でも組織団体に所属して利権化している人は投票するのである
それで創価などは必ず会員は投票する、組織の力で投票させる、会員が何百万人もいてもそれが票につながらないからである

だからすでに選挙の二年前から幹部は票にするために一軒一軒回っている
それが御利益宗教として利権と結びついてそうなっている
完全に政教一致なのである
その危険はナチスのような大衆ファシズムになることである、数が頭数が権力を得ることでそうなる
ヒットラーは選挙で選ばれたのであり暴力ではなかったからだ
創価も革命を目指していてそれも平和的手段で選挙で権力奪取を目指している
ただ一面これは暴力ではないから合法だともなる、でも政教分離に違反していることは確かなのである、自民党は創価の票を得たいからそうなる
とにかく選挙が迫って来た時、いち早くポスターを張ったり立てるのが公明党である
現実にすでに選挙活動のためにポスターを立てているいからである
すべて祈ることも選挙のためにあるのが創価だからである
座談会があったとしてもそれはキリスト教会のような祈りのためではないのである

ただこうした団体が生まれて許容されているのも信仰の自由があるからだとなる
この自由もまた民主主義を歪めているのだ、あらゆることが自由だとなる弊害がまた生まれているのである、人間にあらゆる自由はありえないのである
その自由がコロナウィルスで制限されたのももしかしたら神からの戒めなのかともみる

関所とか国境があるのは何かそれもコロナウィルスでは必要だったと気づいた
そういうふうに国境を作り関所で水際作戦をすれば防げるとなるからだ
それでも江戸時代のコレラ流行でも長崎からウィルスが入り全国に広まった
江戸時代でも防げなかったのだから現代ではもう不可能である
台湾では一時防いだがパイロットから感染してまた広まったということでもわかる
またビジネス関係でも入国を許しているからそこからも広まる
防ぎようがないのである

そしてもう一つこうしてヒト、モノが自由に移動するグロ−バル化社会の問題は国々の文化を破壊するのである、だからこそ世界的投資家がジムロジャースのような人が英語にしろとか日本語がなくなるとか言うのである
その国々の文化より世界言語として英語にしろとなる、言語でも紙幣でも本当はグロ−バル化で世界を支配する手段なのである
なぜならアメリカから中国に覇権が移ると中国語を覚えろと本人が言っている
基軸通貨が人民元になり共通の言語は中国語になる
でも日本の場合漢字を採用したのは日本が文明的に遅れていて漢字を必要としたからである、漢字でしか現せないものがありそうなった

ところが明治維新では日本人は西洋化するとき漢字で訳したのである、その概念でも漢字で現したのである、その漢字で現した西洋の文明を今度は中国が逆輸入したのである
つまり言語とは先進文明から学ぶものがあるときそれを受け入れるのである
アイヌとの言語が滅びたのは少数民族のものであり文明を受け入れる力がなかったからである

ヨ−ロッパの言語はギリシャ文明を基にしてラテン語とかフランス語とかドイツ語とかに共通したものがありその言語体系の中で一つの西洋文明を形成したことが明確なのである日本だと孤立語になっている、ただ漢字と日本語は一体化して文明化したのである
そしてなぜ日本だけが植民地にされなかったのか、アジアでなぜ対抗できたのか?
軍事力だってない、黒船が来てその技術力の差をみせつけられた
でも開国してアジアで唯一植民地化されなかった国でありアジアで西欧化した唯一の国だったのである
それは言語でも漢字を取り入れて自家(じか)薬籠中(やくろうちゅう)の物にしたように日本が何かそういう柔軟性がありヨ−ロッパとも伍するものがあったからだとなる

ともかくなぜ民主主義が危機にひんしているのか?
それはもともと民主制は衆愚政治になり現代なら大衆ファシズムになる要素があったからである、それは数の政治であり選挙でも優れた人を選ぶとかではない、ただ数を集めればいいとしかないのである
その典型的なものが創価なのである、そこで人は問わない、一票を集めろしかないのである、そこでまとまった数になると権力化する、誰も逆らえなくなりナチスのようになってゆく、それは現代大衆社会がかかえて弊害なのである

何かコロナウィルスでも上級国民のていたらくを知り指導できないことを知りエリートが堕落しているとか責める人がいる
でもそもそも現代の指導者はその愚民化した大衆が選んだものだから当然そうなる
学校教育でもいかにいい地位について得をして楽をするかを教えるだけである
それが学問の勉強の目的であり受験戦争となったのである
福沢諭吉の学問のすすめのように学問で立身出世することが目的化していた
江戸時代の侍はエリートでりエリート教育をしたというとき民衆を指導するものとして模範になるということがあったが現代はない、明治維新後はそういうエリートは消失したのである 

だから官僚でも政治家でも指導者となる上級国民が自分たちの得することはする
民衆のことなど考慮しないともなる、その原因は第一誰も官僚でも政治家でも尊敬していることなどない、あいつら利権を得て得する、それがうらやましいとなる
政治家になるのは大衆とは票を得て利用するだけのものだともなる
選挙の時は頭を下げてもあとは自分たちの利権と利益しか頭にないともなる
そういうことで民主主義はモラル的にも堕落してパンとサーカスになり機能しなくなたったのである
船頭多くして船山に上るとなった、コロナウィルスでももう現代のエリートと言われる唯一お医者様として尊敬される人でも指導力を発揮できない
医者でも結局医は仁術より医は算術になったのである
だかコロナウィルスの危機でも自分の保身に走る、金にならないとか危険なことはしないとかもう看護師でもやめるとなる

こうしているともう終始がつかなくなり国が崩壊するともなる
だから今度は貴族制とか君主制を望むようになる、今はそういうことが望まれている
人間社会にはどうしても地の塩となるべき一定数が必要なのである
それが消失するとき愚民化して大衆ファシズムになり国が崩壊してゆく
第一中国がコロナウィルスを抑えることに成功したのは一党独裁の君主制になっていたからだとされる、そもそも中国は十何億もの人間を治めることはそれしかできない
それで中国の歴史は皇帝が君主がいて膨大な民を支配してきたのである
民主制になったらもう混乱するだけでとなる
何か民主制とはギリシャのような一万くらいのポリスで機能するものであり数が莫大になるともう機能しない制度でもあったともなる
また人間が国として意識するアイディンティティをもてるのは狭い範囲である
日本だったら小国という地名が各地にあるようにそういう狭い範囲だと国として意識される、それが一億人の国とかなるともう同胞とかとして意識することも不可能になる
ただ人間は数として処理されるだけなのである
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2021年05月17日

日本への警告(無国籍人間ージムロジャースの批判)


日本への警告(無国籍人間ージムロジャースの批判)

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投資でもうけた人に人は興味がある、その理由は自分も投資でもうけて大金持ちになりたいからである
だからこうして投資でももうけた人が話題になる
この人はまさにグロ−バル経済の申し子のような人なのである
世界を渡り歩き金儲けのために投資する

この人には国はない!

国ってなんですか?、国と彼にとって金儲けの場所という感覚しかないのである
アメリカはだめだ、日本駄目だ、では次はどこに行く、金に成る場所は国はどこだとなるこの人にはそもそも国はない、国はなく金儲けできる場所が国なのである
だからシンガポールとか香港とかが金融センターと最適だとなる
今住んでいるのはシンガポールである

でも香港とかシンガポールとかは国ではない、金融センターに特化したものであり国ではない、この人は故国とか故郷とか国という感覚はない、ただ世界を渡り歩く人であり
投資先を求めて国を転々ともする、投資先として有望となればすぐに国を移る
有望でないとすればその国を捨てる、それはもしかしたら国土を失ったユダヤ人ともにているのかもしれない、まず国土とか故郷とかがないからである

ただ国とは何かとなるとやはり国土を持つということである
土がある場所だともなる、または日本だったら山があり森がありとかなる
国と意識されるのは国土があるからでありもし国土がなかったら国はない
そしてこの人に欠けているのは国がないのである
もちろん国がなければ故郷もない、あるのは投資先としての国なのである
この人こそグロ−バル経済の申し子ともなる
そうして巨額の金を投資でもうけているからである

こういう人には文化人ではない、この人には文化はない、生粋の経済人である
だから何かこの人には国も故郷もないのだから肝心の国を語ることもできない
アメリカ人でもない、それで安易に中国が経済的に伸びるから投資先となり
中国語を習へとか英語ができないようではもう世界で通用しないとか国々の文化を否定するのである
それは何かアメリカらしいとはなる、アメリカはそうして国々の歴史とか伝統とかを否定して金だけを価値の基準としてたからである
そしてグロ−バル経済とは多国籍企業が支配するシステムなのである

人間が生きるとはこうして国々を投資先を求めて国ももたず金だけを目的にして生きる
そんな人か人間として評価できるのだろうか?
だからこの人は成金であり成金趣味しかない、無国籍人であり国をもたないから要するにその人間としての中味もない、空っぽなのである
文化は長い時間をかけてその風土に国土の中でつちかわれてきたものである
そういうものがそもそもアメリカにはない、アメリカとかにあるのは広大な空間を移動することである、それを拡大するとグロ−バルに国境はなく投資先を求めて移動することになる
それで次は中国だとなりアメリカを捨てる、そして中国語を覚えるのは投資して金をもうけるためだとなる
日本語などはもうなくなるというのもそもそも国の文化など関係ないからである

つまりグロ−バル化とは空間の拡大であり空間人間になる、文化とは長い間にその国土風土のなかに培われたものである、言葉でもそうである
言葉と風土は一体化していることがあるからだ、それが英語に全部しろというとき文化そのものが失われるのである、その時人間は無国籍人間のようになる
その時宗教すらなくなる、なぜなら仏教でもキリスト教でもその国の独特の歴史風土から長い時間をかけて土着したものだからである
それで内村鑑三のキリスト教が武士道を基にしたというとき日本的キリスト教として受け入れたとなるからだ、そうしてその国の歴史と風土に一致して文化となるのである

いづれにしろこの人が崇められるはただ金をもうける投資してもうけるからだけである
それはアメリカ的だとなる、アメリカでもビルゲイツとかジョブスとかコンピュターを発明した人は違っている、それは本当に価値をあるものを産みだして人類に貢献したからである
巨万の金を得てもそれで人類に貢献するものを産みださなければ人類的には評価できないのである
でももしその巨万をの金を使って人類に貢献するものを産みだしたら評価できるとなる

ただ投資的にこの人の言っていることは正しい、ただそれは投資という経済に特化したものであり人類に世界に貢献するとかなると全く評価できないのである
そのことを自分自身でもわかっている、だから金融でもうけることはできなくなるとか農業が次の有望な産業だとしている
それは何か銀行員が農業して投資先にしたというのもわかる
投資的に見れば先見の明があるとなる、ただこの人は無国籍人間でありただ金だけを求めて世界を渡り歩く、だから文化をもたないし文化的には価値がゼロだとなる
日本人でも他の国でも文化がある、歴史がある、アメリカは若い国だからそうした長い歴史がないから文化でも底が浅いのである

ただアメリカが経済的に衰退して中国が覇権国になることは間違えない、だから投資の面からすると何かアメリカ一辺倒になっていることはおかしい見るのである
ただ人間をすべて金で価値を計ることはできない、でも資本主義だとそれが極端になる
てもそういう資本主義も終わりつつある
だからこの人自身が金融でももうけることは終わりだとか言っている、金融で巨万の富を築いても評価はされない、何かギャンブルで大勝ちしたとかなりそのために負けた人たちから命をねらわれるとまでなる
強欲金融資本主義はもう終わりつつある、とにかく無国籍人間とかはそもそも骨なし人間になる、バックボーンがボーン(骨)がないからである
そういう人間は国がないのだから文化を語ることもなにもできないのである

ただ人間の評価となるとむずかしい、この人の本をみんな読んでいるわけでもない
だから必ず人間を評価するとき偏った見方となる、でも基本的にこの人がグロ−バリストであり典型的な経済人としてあることは間違いないだろう
posted by 老鶯 at 15:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年05月16日

退職してすべきことはボランティアではない (消費することであるが金がないとできないー駅のボランティアの経験から)

退職してすべきことはボランティアではない

(消費することであるが金がないとできないー駅のボランティアの経験から)


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週間ポストー5月21日号

人間はいくら善意の行為でも受け入れられない、私は駅で案内したりしたのは別にボランティアとしてしたわけではない、たまたま買い物にして駅によったら無人駅なので
切符をどうするのかと聞かれたことから案内したのである
それは無人駅になったばかりであり地元の人でもわからない人がいたからである

でもそこにいるだけで何んだこいつとはなる、例えば上がり下がりの電車の行く先のホームが意外とわからないのである
それで聞かれたので行く先を示す表示をしてくださいと言ったらしてくれたのである
無人駅だと何か自動化しても何かすることが案内することがあったのである

なぜそれが駅長からもまたJRからも周辺の住人からも否定されたのか?
それは一部であったが何かうるさいのである、なぜあなたはここで案内しているのか?
JRにしてみれば許可もないのになぜしているのか?
それがうるさいのである、監視カメラで見ていたのである
ホームに入ったからと高校生の見守り役に注意された
なぜホームに入ったかというとこれまでホームにゴミ箱が置いてありゴミ箱がないかと乗客に聞かれたから見に行ったのである
そしたら高校生の見守り役に入るなと言われたのである

ともかくボランティアは一人ではできないしすべきではない、この週刊誌の記事のようになる

怒られ、脅され、訴えられ....

これが大げさとかではない、自分自身が周りの人から警察に怪しい奴がいると訴えられたからである、そしてみんなの前で職務質問された、その時エベントがあり人が大勢いたときである、公衆の面前でこいつは怪しい奴だとされただけだった
今は高校生の見守りがいる、その人たちはJRにも認められているし市で金も払って見守り役をしている
ただ駅の業務はしないとかなにかJRと約束してしている
それでそのことについて市民が文句を市に言った、そしたら駅の業務を多少するようになったとか言っていた

ともかくボランティアはかえってめんどうである、この週刊誌の通りなのである
何かかえってもめごとに巻き込まれる、いくらボランティアでもそれがそのまま善意の人として認められるわけでもない、それよりなにやかにやとクレームが来たり訴えられて裁判までなる、これは嘘ではない笑い事でもこれが退職後のボランティアの現実なのであるだから何もするなというのは退職して安易にボランティアをすることの警告なのである

では一体何をすべきなのか?これは私にもわからないが退職した老人のすべきことは
消費ではないか、消費というと何か社会の役にたたないとみるが現代では消費者は神様だとか言われた時代である
消費することは店でもどこでも喜ばれる、小さな店屋で物を買えば喜ばれる
例えば自転車屋でも高い電動自転車を買えば喜ばれる、お菓子屋でお菓子を買えば喜ばれる、今時コロナウィルスで客が来ない観光地に泊まればこれも喜ばれる
県内とかだったらそうである、そうして消費することは歓迎されるし歓迎される方が気分がいいとなるそれは社会のためにもなっているのである
それで原発事故で避難して来た人が仮設に入っていたが私はここで金を使っているから
この土地の人を助けているのよと言っていた
実際に問題があったにしろ各地に避難した人はそこで消費したから店では金になったということはあるからだ
この辺でも自転車屋に聞いたら店に来る人は知らない人が多いと言っていた
それだけ外部から移住した人が多いからそうなったのである、別にそれは悪いことではない

なぜなら消費してくれるから金を使ってくれるからだ!

外から移った人でも自転車でも買ってくれるからいいとなる、歓迎されるとなる
学校でも転校したとしても生徒が増えたからいいとなる、なぜなら今子供の数が減っているからだ
意外と消費することが経済を活性化するのである
でも老人の問題は消費できなくなることである、私はヤマハのYPG-XCを35万以上で買ったこゃは本当にいいものだった、マウテンバイクだから若者向きだと思っていた
全然違っていた、かえって老人向きだったのである

なぜなら楽に走れる優れものだったからである、これは体力が弱った老人向きとしても
ヨ−ロッパで開発されたものだからである
ただ荷物が載せられないとかで困った
それで荷台がついたものを同じユニットドライブのものを買おうとした
長距離にはいいなと思ったからである、でも体が弱って長距離には行けないと思った
体中が疲れて何か一週間くらい遠くに行ってそうなったからだ
若い時ならその自転車を買っていた、でもそれを買っても使えないとなり消費できないとなったのである
何か老人になると最新の技術のものを使えないということがある
そして老人向きのもので消費できるものがないというのは確かにそうだと思った
老人向きに売れるものは作られていないというのもわかる
つまりまた老人は金をもっていても消費できないという問題が生まれていたのである
また老人がみんな金をもっているわけではない、だからこれもうまくいかないともなる
コロナウィルスで巣籠り需要が増えたという時、庭作りとかが向いているとはなる
ただこれも金がかかるから金がないと消費できないともなる
実際今回玄関の方に木を植えたからである

では老人は何をすべきなのか?

要するに老人は社会の邪魔であるとか何もするなとなる、かえってボランティアなど迷惑になるからするなともなる
でも高齢化社会で長生きする、すると一体老人は何をすべきなのかとなる
社会に役立つにもできない、自分自身はプログを書いてそれを仕事にもしている
退職して何か蒸気機関車の再生のために退職したベテランの技術を若い人に教えていたとかはある
でも会社とも退職すればほとんど関係なくなる
それで旅行したりするのはいい、宿に泊まれば歓迎される、金を使えば歓迎される
結局こうして何か消費することなのである、それが社会貢献になる
ただそれが浪費ではなく、趣味でも高価なカメラを買っていい写真をとるとかその人によっていろいろある、資本主義社会では消費者が王様だとされたように金を使う人間はどこでも歓迎されるのである
だから金のない老人は悲惨だともなる、誰も子供すら相手にしないともなるからだ
ただ老人でもすべてを金だけでは判断できない、若い人に教えるということがある
そういう人は別に金を使うというだけではない消費するだけではない、有用て人間として社会でもみるとなる
ただ手っ取り早いのは消費することである、でもそれは一部の金をもっている人だけともなるから問題なのである







2021年05月15日

田の面に映る故郷の山を見て復興を感じる (故郷の夏の景色)


田の面に映る故郷の山を見て復興を感じる

(故郷の夏の景色)

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蛙鳴く声のひびきて里に生く

雲流れ影なしすずし走るかな

タンポポに朝日にきらめく田の面かな

夏菊に田の面に写し朝の空


べチュニアとジキタリスかな花二つ我が庭に植えきわだちにけり

鉄道の敷地に咲きぬつつじかな菓子店より赤く映え見ゆ

ふるさとの山影映す広き田や復興なりぬ十年過ぎて

ふるさとの田に水充ちて山の影映して朝や雲雀鳴くかな


海の方に行くと朝に広い田に山の影が映っていた、その田が震災以後広くした田である
それは今でも田を広くしている、だから山影もその広々とした他に映っている
もう小さい田は荒地化して放置された、そしてそこは荒地化した
もう小さい田をやるメリットがない、手をかけてやってもただ労力の無駄だとなる
なぜなら金にならないからである

でも田を広くすると機械でもやりやすいから機械に合わせて広くしたともなる
その田を広くする工事はまだ他でもしているからである
そもそも日本の田は細分化されていた、零細なものだったのである
ただこの辺では米は飼料米として売られている、いくらでもうまい米が入ってくるから競争できないのである

ともかくこうして十年過ぎてやっとこの辺は復興したなとみる
それは長かったとなる、田に一杯水を張り田植えして故郷の山の影が映る
畦にはタンポポとか夏菊が咲いている、ここに何か生業があり人と自然の調和した世界が回復したとなる
ただその田の面には風力発電の風車が映っていた
かつての松原はなくなったのが残念だとなる

なんとか家の方を修復した、実際は家の中は震災以後こわれた所があり直していない
でも塀とか庭を作ってもらった大工兼庭師兼・・・の人に直してもらった
それで掃除もしたのでかたづいたとはなる
なかなか整理できないので困っていた、自分はだらしないので掃除とか整理をしていなかった、何か億劫になりしていなかった、というのはやることが多すぎてできないのである家事全般を一人でやること自体手間でありできなかった
どうしても一人だと人手が足りなくなるのである

何か駅前の菓子店から鉄道の方を見たら赤いツツジが映えていた
店の中から見る風景がまた違っていた、その赤さが一段と映えていた
つまり花でも自然でも家があり店がありその内部から見たとき別に見える
自然でも人間の営みと一体化した時一段と映えるということがある
だから街に通りに咲く花は違っているのである
ただ駅前には自転車屋と菓子店しかないのが淋しいとなる

いづれにしろ蛙が鳴く声がひびき白鷺がまばゆく映えて夏菊も咲く、そうして自然も蘇り生業がもどった
ただ墓地のある所は荒地でありそれで震災の荒廃が残っている
避難区域となった小高であれ浪江であれどうしても田畑が荒地化していることが嫌なのである
例え米が今は重要でないとしても田畑は自然なのである、だから蛙がなき白鷺が来て花が咲き故郷の山を映す
田畑は自然と一体化しているから自然の復活にもなっていたのである
それで田畑がこのように復活しないと復興したように見えないのである

花というのはべチュニアとジキタリスを並べて植えてみたらその個性がきわだっつものとなる、この花は何か独特である、ジキタリスは薬にもなっている、花は意外と薬になるものも多い、この花に不気味な伝説があるのはイメージできる

2021年05月13日

庭作りでコンクリートを壊すのに苦労 (人間は経験からしか学べない)

庭作りでコンクリートを壊すのに苦労

(人間は経験からしか学べない―石工のまねをする)

庭師、大工、壁塗り、デザインなど何かこのようにいろいろできる人がコンクリートを壊して木を植えるというのでそのコンクリートを壊すことで苦労した
自分も手伝った、コンクリートが結構厚かった、それで前は成功したのでもう一つ木を植えることにしたがそれが難儀だった
自分はそういうことに気付きもしなかったしできると見ていなかったのである
ただ何かそういう提案がありでるのかとなりまかせた
ただ正直金がかかるのでしたくないということはあった
ただ成り行き上でそうなったのである

それは玄関にもなっているから二つの木があると森の中に入るようにもなるからいいとなる、前植えた紅葉の木は成功したからである
それでコンクリートが大地を圧迫するとか言うので気になった
そしたらコンクリートの道路を作る造園会社のページがでてきた

呼吸するコンクリート駐車場をつくる。 
http://www.zoukinoniwa.biz/blog/2018/08/30811.html

コンクリートの下でも土を活かしている

通気口を作るとか何かそういう工夫をしている、だからコンクリ―トの下でも土が活きている
不思議なのはななぜコンクリートの一部の土から紅葉の木が伸びてまたノウゼンカズラの木が伸びて花が咲く、それは地中深く根が張ったためだと見ている
いかに根を張らせるかが問題になる
ただ石がでてきたり何か中は木を植えるにはいい感じではない
でもこのサイトだと土を活かす方法が書いてある
何か私は理系ではないから理解しにくいがなんとなく理解できる
コンクリートでも土を活かすために通気口とかいろいろしている
コンクリートの下だと土が圧迫されて死んでいるのかと見るがそうではない

土の中には、空気がたくさんふくまれている。土は空気から酸素(さんそ)を吸(す)って、二酸化炭素(にさんかたんそ)を出しているんだ。つまり、呼吸(こきゅう)しているってわけだね。

でも本当は、土自体が呼吸しているのではないよ。土の中の細菌(さいきん)や小さなカビなどの微生物(びせいぶつ)が、呼吸しているんだ。植物も土の中の微生物なども、土の中に新鮮(しんせん)な空気があるから元気に生きていける。作物を植える時、土をたがやすよね。これは、土の中に新鮮な空気をたくさん送りこむためにやっていることだよ。

土も呼吸(こきゅう)をしているの?
https://www.panasonic.com/jp/corporate/sustainability/citizenship/pks/library/011plant/plan008.html

コンクリートにおおわれると呼吸しにくい、だから通気口が必要になる
何か庭作りと農業は共通したものがある、植物を育てるから共通している
どうしても土を知ることが大事になる、土を知らなくては農業はてきないとなるからだ
だから農業は本当にむずかしい、素人だと必ず教える人がいないとできないのである

今は田舎にいても農業がわからないのだ、農業している人は一割にもみたないからであるただ私は理系ではないからこうして化学とかなると苦手でありわからないのである
化学記号などは学校の時一番苦手でありわからなかったからだ
でも何かわからないなりに現実の農業とかから学ぶものがあったが何も知ることなく終わったとなる
こうしてとにかく学ぶべきことが山ほどあるのに学ばないで終わっているのが人間なのである、それを老人になって死ぬ間際に痛切に知るということにもなる

ともかく何か今は若い人でぶらぶらして職につかない人が多い、ニートとか本当に田舎でも多いのである、だから時間を無駄にしている、それがとりかえしつかないものになる
なぜそうしたことで切迫感をもたないのか?
何か時間が永遠につづくように錯覚しているからだ、それは自分でも若い時はそうだったこんなに時間が早くすぎてもう死ぬのかということがショックなのである

今回は作られた庭の修理とかであった、塀とかの修理であった
でも新しく玄関の方にもう一本木を植えることが提案されて実行したがこれが思った以上大変な作業だったのである
コンクリートを壊すのが大きな仕事になった、それを手伝った
そして楔を入れるようにして部分化して割る
実は昔子供の頃近くに石屋いてそうしていつも楔(くさび)で石をたたき削り割っていたのである、ただその時は機械がないから手でしていたのである
自分でも楔(くさび)打ちコンクリートを割って捨てたのである
石屋とか石工のまねをしたとなる、それでも経験したことで必ず理解するものがあるのだ

何にしろ学問でも身につかないのは現実問題から出発しないからである
学問とはどうしても高校までは試験のためにあるとなり嫌になっていた
ただ私の場合、奇妙なことは大学出て無職だったが学問に興味をもったのである
それは旅すれば地理に興味をもつから自ずとそうなったのである
つまり人間は現実問題に直面してその解決のために学問が生まれたからである

一体どうしてこの辺の原発事故から復興できるのか?

これが最大の課題でありこれも学問と関係している、特に放射性物質に汚染された土どうなっているのかとか除染が可能なのかどうかということが生々しい現実の問題としてあるそれは理系であり文系となるとまた別な問題の解決があるともなる
原発事故の問題をモラルの退廃からその原因を追究するとなるとそうなる
それは自分自身が書いてきたことである
でも理系の専門家が最も重要なものとして事故前でも後でもそうなった
ただその理系の学者でも放射線がわかったわけではない、だから被爆の森というNHKの放送でもそれほど事故から十年すぎても影響がなかったとも報告していた
つまり実際にどういうふうに放射線が人間に影響するのかわからないのである
それはコロナウィルスと似ている、これも未知でありわからないから不安になる人はなる専門の科学者が学者がいてもその人たちもわからないのである
だから憶測で言っているからなんだ素人と変わりないのかとも見るのである

人間はなんでもいいから経験すると頭に関係なく悟る、知る
経験しない限り現実問題ではない架空の問題のようになってしまうのである
だからつまらないことでも経験することが大事である
本ばかりテレビばかり見ていてもわからないのである
神を知れとか言っても聖書を千回読んでもわからない
ただ過酷な経験から知るのであり聖書を一回も読んでいなくても神を知ることは可能なのである、自分自身がそうだったからである

posted by 老鶯 at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年05月12日

藤の花と相馬の城下町 (中村喫茶店の藤の花)


藤の花と相馬の城下町

(中村喫茶店の藤の花)

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城跡にシャガの花

中村喫茶店

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松並木影なし行きて藤の花

城下町路地の細道藤と松

城跡に何を語るやシャガの花

藤垂れて黒門下り夕暮れぬ


白藤の風にそよゆれ城跡の掘りに映れるあやめの花かな

紫と黄色のあやめ堀映り静かに歩む城下町かな

藤の花午後散り静か喫茶店猫一匹の歩みけるかな

長々と藤の花垂れそよゆれぬ優雅な時を過ごすべしかな


相馬市の城跡の藤の花をみて中村喫茶店の藤棚の花を見た
中村喫茶店の藤は半分は散っていたので残念だった
藤の季節である、どうも万葉集時代は藤の花はまだ日本的美として見出されていなかったそれがわかるのは平安時代になり藤の花が良く愛でられるようになったからである
それは宮廷の御殿の庭に植えられて愛でられるようになったからである

つまり庭で見ている藤と外で見る藤は違っていたのである
万葉時代は外で見た藤であり庭で見るということはまだなかったともなる
藤棚で藤を見るのは平安時代からであろう
他の花でも庭で見る花と自然の中で見る花は違って見えるのである
庭で見る花はより人間的な花となる、それは庭の石すら人間のように見えるようになるからだ、それで原発事故の避難区域で空家となった家の庭が淋しいのは主がいなくなり
何か石すら人間に見えるからである、人間化した石だから余計ち淋しいと感じるのである
藤は日本の歴史のなかでよく鑑賞されてきた花である、松も同じなのである
松はその高さでもあまり高くないし人間に見えるのである
だから次の歌はそれを象徴しているのだ

「常磐なる松の名たてにあやなくも、かかれる藤の咲きて散るかな。

(歌意、松の緑の美しさを引き立てるために咲いて散っていくことだ)」は
内親王の髪上げのときの屏風絵に題した紀貫之の歌だそうで、貫之集、和漢朗詠集に
採られています。

名たてとかあやなくとかわかりにくい、名たてとは松をひきたてることなのか?
あやなくもというのもわかりにくい古語である、あやとは文ともあてる
何か理由もなくとかの意味で藤の花と松を歌っている
常盤の松によるかよほい女性を暗示しているともなる、あやなくとは頼りないとかよめる松と藤はこのようにあっているのである

そしてなぜか相馬市の城下町に藤の花があっているのだ、だから城跡の藤の花もいいし
中村喫茶店の藤の花もいい、ただ庭はまだ改造していない、なんか金がかかるからである今日は午後でも人が来ていたのはあの藤の花をみるためなのである
ただ半分は散っていた、その下をひっそりと猫が歩むのが合っていたのである
相馬市の城下町は何かひっそりとしているから猫にあっているともなる

城跡の掘りには紫と黄色の菖蒲が映っているのもいい、城下町に菖蒲も似合うからだ
相馬市の不思議はなぜかしんみりとしてこうした花が似合うのである
原町とかとはまるで違った雰囲気があるのが不思議なのである
だから城跡に何もなくてもやはりそういう歴史があり雰囲気が残るものなのかとなる
でもそこに街が発展して高いビルなどが建つと東京のように煩雑になり江戸の雰囲気は感じなくなるなのである



貨幣でも紙幣でも使えなくなる (コンビニで小銭に異物が入っていて自動支払機が故障)


貨幣でも紙幣でも使えなくなる

(コンビニで小銭に異物が入っていて自動支払機が故障)

コンビニで小銭を整理しようとして失敗した
自動支払機に小銭を整理しようとして入れた、そしたらその中に10円玉とか一円玉とかくっついていた、またコインでないものが入っていて機械が故障した
それを直すのに手間だった、前もスーパーで同じことを経験していた
その原因は小銭一度にたくさん入れたことで故障になった
だから今回は少しづづ入れた、でもその中にコインではない異物が混じっていて故障になった

異物が混じる⇒認識できない⇒機械の故障

こうなったのだがそれがなぜめんどうになったかというとそのコンビニの機械が中央の本部とつながっていて直すことになったからだ
電話で連絡して修理の仕方を教えられてようやく直せた
パスワードを入れるとそれがわからず何度も聞いていた
このパスワードでは自分もパソコンのインタ−ネットの通信で苦労しているからわかる

結局何か機械にも弱点がありそれが修復するのに手間になる
特に通信の場合は不具合があると修復するのが大変な作業になる
それが複雑であり手に負えなくなる、そういう問題が通信では起きいた

この異物が混じるということが機械とコンピュターの弱点である

なぜならその異物を認識できない、判別できないことで故障になったからである
それはウィルスとにている、異物が体内にはいり人間の体の故障ともなるからだ
必ずそういう弱点が現代文明にはありインタ−ネットの通信社会にもある
また他の機械でもそういうことが起きる
それが原発事故という致命的なものとなる
だからインタ−ネット通信がどこかで破壊されると全世界に影響して使用不能になるとか大問題が起きる、戦争とかなる今でもサイバー攻撃してくるからだ

それで一番怖いのがデーターを壊されることである
自分もそれで戦々恐々しているのだ、せっかく書いたものが一瞬にして全部消えてしまうからである
そういうことが世界的に起きたら努力も水の泡になってしまうからだ
それで今何とかしよらとしているのはデーターの保存である
三カ所くらいに保存する、データー保存のため別なレンタルサーバーとかワードプレス専用のサーバーを借りる、そこでさくらのプログを全部一応移すことが有料でできるからだただまたワードプレスを使おうとして試したがめんどうになる
そういう時間の余裕もないとなる、そこに老人の問題があった

ともかくセブンエレブンで失敗したがそこではキクチスーパーのカードが使えるようになっていたのである
楽天のエディを使っていてそれはコンビニでも使えたのである
それが知らなかったのである
今スーパーキクチでは自動で支払いをする機械を使っている
慣れると意外と簡単だった、ここでも自動化するからもう現金は必要なくなる
現金はウィルスがつくとか何かコロナウィルス騒ぎでも嫌われるようになった

現金は紙幣でもコインでももう使えなくなる!

だからこれは老人が苦手である、でもなれるほかない、簡単な買い物はできるようするほかない、もうIT化社会に適合するほかない、それができないと生活すらできなくなる
電子化するのは情報分野でもそうなんている、新聞などでも一軒一軒配る時代ではない
ただコストがかかるだけである、そんな手間になる金になることはもうできない
そのために宣伝費でまかなうから会社のいいなりになるだけだとなる

ただ電子化社会にも弱点がある、異物混入したりするとシステム全体に影響して世界の通信がとまるともなる
でも不思議なのはそうした通信の防衛策としてインタ−ネットが生まれたことである
つまりインタ−ネットの通信は部分的な結合であり一部が通信できなくても通信ができるように軍事目的でできたものなのである
ただこれだけ世界的電子化通信社会になると異物が混入したりする世界的通信がとまり修復することも困難になりデーターが消失したり大損害になってしまうのである
それが一番怖いのである
そのことはウィルスともにている世界的グロ−バルに交流する世界になった時、ウィルスも世界的に瞬時にでも伝染しているからである
もう瞬時にでも世界をウィルスが伝播するとなる
だからその伝染を止めることでできなくなる、そうした負の面ももたらしているのである
インタ−ネットがどうしててきたのか?

その人物はTim Berners-Lee博士で、スイスにある欧州原子核研究機構(CERN)という研究機関に在籍中、研究に関係のある文献やデータを互いに「リンク」させる仕組みを考案した。それが今では「ウェブ」と呼ばれるWWW(World Wide Web)のもとであり、ウェブという名前も同氏によって付けられた。

IT担当者なら知っておきたいインターネットの基礎:
その起源をざっくり振り返る -

なるほど研究データーのリンクからインタ−ネットが始まっていた
自分のドメイン名のmusubuなのである、リンクできるから研究者同士の研究を結びつけるリンクできることで知識が拡大して深化できる
とても図書館などに通っていてもこれはできないからだ
本というのは膨大にあってもリンクは簡単にできないからである
何かリンクすると自分の文脈の中で知識が拡大して深化できる、より深く知識を探求できるからである

自分がインタ−ネットにかかわったのは富士通のワープロ通信からだった
それはたまたまそうなっただけである、私は理系ではないし機械に弱いからである
でも本当にこのように学者でなくても田舎にいても知識を広く深く探求できるし別に本とか雑誌とかを発行しなくても個人ですらできる
それはyoutubeのように個人でもテレビ局が開業できる時代である
だから何かを発表する発信するには便利なものである
ただここにも弱点があるからデーターが一瞬にして消えるとかウィルス問題がありそれが大問題なのである

2021年05月11日

金があっても文化がうまれないのはなぜか (庭作りでも頼む人と作る人の心の一致が必要)


金があっても文化がうまれないのはなぜか

(庭作りでも頼む人と作る人の心の一致が必要)


今の世の中はなんでも金である、すると金を持っている人が例えば庭作りを頼むとなる
金も出すとなる、でもどういう庭にするとかとなると頼んだ人が庭作りに興味がありどういう庭がいいとかイメージできる人でないといくら金があってもいい庭は作れないだろう
そもそも金がある人がなんでもできるのだろううか?

確かに常に職人でも頼めば金がかかる、だから金のない人はそもそも庭作りを頼むこともできないとなる、金次第でなんでもいいものが作れる
金がなければ何もできないという感じになっているのが現代である

そのことは庭作りだけではない、技術者がいくら政府から金をだしてもらっていい研究をして成果を出せといういってもそんな簡単にできない
それで研究者は金を出す方が威張っているのはおかしいと言うのもわかる
いくら金を出しても成果がでないこともある、金の力で何でも成果が出せるとは限らないのである
金が万能ではないのである、それなら巨万の金をもっている人がなんでもできるとなるからだ

何かの発明でも金さえ出せばできるものだろうか?いくら金を出しても簡単に成果が出せるわけではない
例えは芸術家でもそうである、その人にいくら金を与えてもいい絵が描けるだろうか?
また文学作品でも金を作家でも出すからはしていい作品が生まれるだろうか?
そんなことはないだろう、かえってそんな金をもらったらいい作品が生まれない
なぜなら文学作品でもその人の苦しい体験を語る時訴えるからである
もし多額の金をもらったら楽するから人々に訴える作品は作れないのである

原発事故からもうすでに10兆円とかの金を使っても復興できなかったことでもそうであるただ補償金を与えれば金を与えれば復興すると政府では思っていたのである
その金でどうなったかをこれまで書いてきた
ある金は除染でも地元の会社に相双リテックに流れ幹部に億の金が入り山分けした
その金を今度は野球に趣味だとしてつきごんた、タニマチになった
6兆円もの除染費用がゼネコンとか暴力団にも流れた
地元の一般庶民には被害があっても30キロ圏内が厚遇された、それでもまた必ずしもみんなそれほどもらったわけでもなかったのである
その巨額の金は別な方に流れて復興はしなかったのである

なんか今何か金があればなんでもできる、金がすべてだという錯覚に陥っている
どうしてヨ−ロッパで芸術でも科学技術でも学問でも発達したのか?
金をもっている貴族がいてその貴族が音楽でも芸術でも理解があったからだとなる
つまり芸術を創造しなくても鑑賞する能力があったとなる
だから音楽でもパトロンになれた、金を出すにしてもその音楽を芸術を理解していたのである

ところがゴッホの絵が100億円になったとしてもそれを買う人はその絵を鑑賞できない
その絵の良さを理解できないということがある
芸術が鑑賞すること自体むずかしいからそうなる
それだけの金をだしてもその金を出す本人が理解していない、ただ投機として買っているだけだとなる
ただ一般庶民にすれば100億円もの値段がついたことに驚きそんなに価値があるのかとなる

庭を修復してもらった、その職人には多様なことができるから感心する
でも自分自身が庭作りに興味がありは何も興味があり建築にも興味がある
だから私自身が庭作りに関与する、それで金をはらってこそ職人と共同作業のようになるつまり何か様々な文化的ものが残っている
それは金を出したからできたものではない、金を出す方にしても何か庭作りでも建築でもかかわっていた、そもそも関心も興味もそういうものに価値を見出さなかったら頼むこともできないとなる
それより何かただ金にあかせて悪趣味のものを作ったりする、また遊興に金を使ってしまうとかなる、だから金があっても文化的ものは残らないこともある
ヨ−ロッパの芸術とか科学技術でも貴族が残したものだけどパトロンになったけどそれを鑑賞できる理解できたからである

ただ正直金が庭作りでも必要だから金持ちでないとできないということはある
それで昔は金持ちが職人を雇っていて庭作りでも家作りでもしていた
するとそこで職人は技を磨くことができたとしている
つまりそういう金持ちがいないとしたら職人は技を磨けないのである
現代はハウス会社がプラモデルのように家を一二週間で建ててしまう
すると職人も本当の家造りというのは学べないともなる
現実に今やそういう技をもった職人はいなくなりつつある
それは注文する人がみんな安く仕上げようとするからできあいのものになってしまう
個性的な家を作るとなると金がかかりすぎるから同じようなプラモデルのようにハウス会社が家を建てるのである

宮大工とか宗教建築でもそうして注文する人が金を払う人がいなくなればその技術も途絶えてしまう、金を払う人がいなくなれば確かにそうなる
でも建物でも実は信仰心があってこそ建物も維持できる、いくら金があっても信仰心がなければもう建築でも維持できないのである
まず信仰心があって教会でも寺でも神社でもある
その信仰心がなくなったらいくら建物があってもそれは死んでゆくことであり職人も維持できないとなってしまう

なんでも金でできるとはならない、信仰心がなくなれば寄進する人もなく金が集まらなくなるからだ
最初に信仰心があり学ぶ心があれば建物は小屋のようなものでも学ぶ熱気があれ松下村塾であれ緒方洪庵の適塾でも学問でも起こるし世の中を変えてきたのである
すべて金さえあればできるということはないがそう錯覚させているのである
原発津事故からの復興でも立派な建築物はできた、学校だったら肝心の生徒が集まらないとなっている
要するにその人の持っているもの心が何でも反映することがある
だから近くの家の庭は広い、一時は畑にしたりした
その家では金がないことは屋根を直していないことでもわかる
砂でもまいたりすればできる、小石をまけばそれでも庭になる
金がなくても簡単な庭作りはできるのである
ただその家の人にそういう趣味がないからできないだけなのである

そもそも茶室など贅沢なものではない、わびさびの世界であり金をかけないものだった
ヨ−ロッパとかの豪華な宮殿とはまるで違った世界である
でもそこに美を見出していたのが日本だからである、金閣寺もあるがわび、さびの茶室は金のかからない簡素なものである
だから金にあかせて作ったものが芸術からしたら評価されるとも限らないのである
だからすべて金で評価される資本主義社会から何か文化的のものは生まれない
かえって貴族社会からルネサンスが生まれたのもわかるのである

貴族社会というと批判はある、貧民を無視したとかある
でも貧民だけだったらもう文化的なものは生まれなかったともなる
民衆の芸術も民謡と別にあるにしても文化的なものは作りえなかったとなる
今でも文化財として残っているのは日本でも金持ちの家に庭とかである
それはやはり庭作りの趣味があった人が残したともなる
そこで職人をやとい家造りでも庭作りでもさせていたらである
そこで技を磨くことができたからである

結局現代の問題は金が集まるべきところに集まらない、だから文化が生まれないのである金が無駄なものに莫大に浪費されている、オリッピックもギリシャに生まれたがそこに大きな意義があり浪費ではなかった
今のオリッピックも莫大な浪費なのである、世界平和とかを標榜しても商業主義利権の祭典なのである、金儲けの祭典になっている
もう金メダルなど意味がないのである
現代はすべてが金となりモラルもなく荒廃してしまった、文化も育たない不毛の世界となったのである、こうなるときヨ−ロッパでも貴族社会が悪いともならない、良い点もあったとなる、それは江戸時代の見方でもそうである
現代は文化的には不毛の世界なのである、悪趣味が幅をきかすのもそうである
金にあかせて作ったものでもいいものは作れないのである





2021年05月10日

小高の人でも浪江、双葉でも原町とか近くに移住する人が増えている (将来的には避難区域は老人だけの町になり消失する?)


小高の人でも浪江、双葉でも原町とか近くに移住する人が増えている

(将来的には避難区域は老人だけの町になり消失する?)

今日聞いた話では小高の大工さんが5000万もした新築の家を捨てて原町の中古の家を買ったという、それは50坪だからとても広い庭は持てない、前は広い庭があり新築の和風住宅でありその家は立派なものだった
それが息子夫婦も外に出て帰ってこない、だからその新築の和風住宅は無駄になった
第一誰も住む人がいないからである、だからもったいないとなる

また家というのは建物だけではない、自分の家のことでも書いたがいつも家のことを親は自慢していたからである
それは50年前とかで私の家は一番土地が低い家で父親が双葉の酒屋で丁稚をしていて暖簾分けしてここに来た
だからその土地を手に入れるにも苦労して次に水害で二回も床上浸水したのである
去年の台風でも土地が一番低い場所にあるから水があふれて家に水が入って来たのである幸い床上浸水にはならなかったので助かったのである

家というのには何かそれぞれ歴史があり苦労話がある
だから親がいたときはいつも家のことを自慢していたのである
それは認知症になってもそういうことを覚えていてわかっていてそう言うのである
つまり家は何かしら人の思いがのりうつっているのである
だから単なる建物、モノではなくなっているのである

だから施設に入っている人でも「家に帰りたい、帰りたい」というとき家という建物ではなくそこで暮らした家族の思い出がありそうして暮らした時に戻りたいとなっているのだただそうはいっても時間をもどすことはできない、ただ家が残っているとその家を通じてやはりその人の記憶と思い出がありそこに存在感を見出すのである
そしてその息子でも娘でもやはり一緒に住んでいればその親の思いが伝わるのである
だから家というのは単なる機能的なものではなく精神的なものともなっている
だから認知症になっても自分が苦労して建てた家だ子供に自慢するとき喜ぶのである

ともかくその人が原町に中古の家を買っても息子夫婦はいない、そして苦労して建てた家でももう息子も孫もいない、仙台の方に行ったらしいからだ
そしてなぜこうして小高でも浪江でももう他に移って生活するのか、それはもう自分の町が復興しないと見ている、できないと見ている
本人もあきらめているというためである
何か人間で悲惨なのは王様で貴族とかでもまた金持ちでも零落したときなのである
召使とかを雇い贅沢していた人が零落することが最もみじめになる
だから豊かに暮らしていた原発避難区域では突然そういうふうに零落して荒廃してしまったのである
その時町を復興させる気力すらなくなったともなる

すなわちかつて耕作された土地が放棄されることほど、我々を落胆させるものはないのである。
 もし原始林のたくましい成長力がなければ、放棄された耕地が荒れ果てていくのを防ぐことはお先真っ暗な絶望となるであろう。
 
彼らの禍の原因のすべては、道徳的なものであった。そして「自然」は、その卑しい子供たちに報いることを拒み、あらゆる悲惨な出来事をその土地に降りかからせたのである。
 しかし今では荒れ果てた「自然」が彼らの田畑に侵入し、<狸と狐とはその棲み処を人々と共にする>までになって、人口は以前の三分の一を数えるに過ぎず、貧困に陥った農民から取り立てることができるのは高々二千俵にすぎなかった。
 http://musubu.sblo.jp/article/176648961.html
 
 本当にこのようになっていることが言っているからその洞察力には驚く
放棄された土地とかタヌキとキツネの住処になっているのも現実なのである
内村鑑三の場合はその原因を道徳の問題として語っている
ただこの土地の人でも道徳が関係しているとは思っている人はほとんどいないとなる
ただ単純いい暮らしをしたい、贅沢な暮らしがしたというだけである
それはどこでも同じだからそにれついて無闇に批判もできない
ただ欲望と原発が結びついた結果として悲惨なものになったのである

例えば時代が違えば戦後焼け野原の日本に戦争をまけて引き揚げた人たちが条件の悪い所に開墾に入った、そういう集落が日本の田舎には多いのである
知っている人では小池に開墾に入った、そこは街から近い、そんな所に開墾する場所があったのかとみるからである
でも仕事がなくどうにもならなくなりそうして開墾してなんとか暮らしたとなる
でも厳しいので半分くらいは撤退したとなる

原発事故から十年すぎても復興はしていない、このように避難区域から移住する人が実際は多くなっている、その理由は小高から原町だったら隣でありそこはたいがいそろっているから暮らしやすいのである、私も原町に住んでみたいともなるからだ
現代だったら便利な場所に住みたいとなる、仙台市とかに津波とか原発事故とかで移り住んだ人が多いのもそのためである、もともと仙台市に住みたいという人が多かったから
津波とか原発事故を契機にこの際移り住むという決断ができたとなる
原発事故の被害者は補償金を結構もらったからそれでまた移りやすいとなっていたのである

でもせっかく建てた立派な家を失うことはただ家という物を失うだけではない、そこで暮らした思い出も失うとなる、そこで生活した思い出は外に移るとだんだん消えてゆく
家とかその町が活きていれば思い出しやすいからである
そういう思い出は簡単に作れない、もう二度と作れない、60過ぎてから他の場所に移ったりしたらなかなかなじめないし思い出を作りにくいのである
ただ南相馬市内での移住だから楽だとはなる
浪江とかなると南相馬市の市民になっていないのである、宙ぶらりんな状態が続いているのである

その人はなんか大家族で住んでいたがそれが一人とかなり淋しいとかなる
何か妻も息子の所に行ったとかある、他の人でもそういう人も結構いる
つまり家族がばらばらになったのである
だから補償金を持乱たとしてもその失ったものは相当に大きいとなる
つまり補償金だけでは補いないものがある
また補償金がいいものとして作用してもいないのである
なぜなら補償金もらったから外に出た方がいいとなると町や村の復興はなくなったからである

ただこうなってゆくと復興できない、老人だけの町となると介護になったりまたそこで町を継続できない、そして南相馬市でもそういう小高のような区域をかかえることは負担になる、若い人がいないのだから町を支えられないともなるからだ
それは南相馬市全体の負担になってしまうのである
それはだから他人事ではない、相馬市でも新地でも移住した人たちが多いからである
だから周辺地域もまきこんで問題になっているのだ

こうしてもう町でも村でも維持できないというとき切り捨てるということも考える
なぜならここだけではない、負担が大きくなると町や村も維持できない
大きな地域の限界集落のようになってしまったのである
それで避難区域の復興をあきらめるということも考えられる
現実問題として維持できない状態に老人ばかりでなってしまうからである
もちろんそうならないのがいいしそうあってほしいが現実問題としてどうにもならない
切り捨てるということにもなる
ただ南相馬市なら原町に移り住むとかする、現実にそういう方向に向かっているのかとも見るからである

posted by 老鶯 at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年05月09日

これまでの写真の絵画化ー加工


これまでの写真の絵画化ー加工


故郷編

cherrybrosom11.jpg
故郷の丘の桜

twobigtrees.jpg

two big tree in winter

丸森金山城

kanayamashiro.jpg


kanayamaoilpp1.jpg


写真を加工するソフトはいろいろある、写真から抽象画も作った
絵が描けなくても絵にできるのである
だからこれはコンピュターから生まれた新しい芸術なのである
ソフトもいろいろであり加工するとまた違ったものになる
ソフトの使い方によってそうなるからいかにソフトを使いこなすかが問題になる

There are various software for processing photos, I also made abstract pictures from photos
Even if you can't draw, you can make a picture.
So this is a new art born of a computer
There are various software, and if you process it, it will be different again.
It depends on how you use the software, so the problem is how to use the software.