2021年05月01日

コロナウィルスが現代文明を宗教も変える (東アジアが少ない、アーリアン人、欧米人に多いのはなぜか)


コロナウィルスが現代文明を宗教も変える

(東アジアが少ない、アーリアン人、欧米人に多いのはなぜか)

新型コロナは“神が与えた罰”? せめぎあう科学と宗教
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200507/k10012419091000.html

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これが感染しやすいとしていたがかえってしなかった
むしろコロナウィルスに感染しない部類の人種だったのである
ただ遺伝子に共通性がありそうなったことは確かだった

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コロナウィルスの影響はグロ−バル化しているからグロ−バルに影響した
ともかくウィルスの伝染病を防ぐ手段は人と人の接触をなるべく避けることが最良の手段なのである
でもグロ−バル化するということは世界中に人が密に接触することになる
だから日本がでも今度はインドの悪性の変異株が入ってくるとか警戒している
それは世界中の人が交わる社会だとさけようがないからだ
オリッピックでも一人の感染したインド人が入ってきたら広がるとしている

ただ不思議なのは明らかにアジア系統特に東アジアでは抗体をもっているとされ感染者も死者数も増えないのである、これはこれから増えるのかもしれない、日本ではその兆候が見えてきている
ただ中国でも増えなかったのは不思議である、中国はあれだけ人口があって衛生環境も悪いからだ、何か汚れに無関心なのである
黄砂がとんできたりして常に汚れるのが日常化しているかもしれない
その点私はなぜ10数年前とか中国が発展しない後進国の時代に旅行した
その時なぜ犯罪にあわなかったのか?
それでも二回くらいカメラをとられたとかひどい目にあった
でも比較的中国で危険な目にあわなかったのは汚れていて中国人にしか見えなかったのである
街を歩いていても中国人と日本人の区別がつかないのである
だから夜とかアメリカとかで日本人はチャイニーズとなる、中国人に見られるのである

どうも人種的にはここの図のように東アジアは同じ系統なのだろう
それで最初に同じ遺伝子から成っているから感染しやすいとと神王テレビで分析した
それははずれた、むしろこの遺伝子をもっている人種はコロナウィルスにはかかりにくかったのである
ただ共通の遺伝子をもっていてそれがコロナウィルスに抗体があったと結果的には証明されるともなる

何かこのコロナウィルスの不思議は欧米にアーリアン人種系統に被害が大きかった
今インドで猛烈に感染者と死者数を増やしている
インドはドラビダ族とかアジア系統がいてもアーリアン人が白人が入ってきて彫りの深いヨ−ロッパ人の体と顔をしている
だから人種的には欧米系であり言葉でも印欧語族を形成している
主語の次に動詞がくる語形である、そしてまたわからないがアイヌ語にもhave動詞のようなものがある、この haveの意味は広範囲であり独特である
羊を飼うということが基になって育てるとかいろいろな意味がある
そしてアイヌは縄文人とか蝦夷とか言うが違っている
顔の彫りがやはり欧米人のように深いのである、だから大陸伝いに日本に入ってきたヨ−ロッパ系統だともなる
ただ人種が交わり混交したから日本人的な顔もいる
一般に漢族でもアジア人でものっぺりした顔で彫が深くないのである
だから何かこういう顔は彫刻に向いていないともなる
だからギリシャ人はアーリアン人系統であり彫が深く彫刻に向いていたからギリシャで彫刻が発達したともなる

いづれにしろなぜインドに猛烈に増えてきたのか?死者も増えているのか?
インドは衛生状態が悪い、中国も悪いがインドはさらに悪い
そういう環境もあるがやはり欧米系の人種の遺伝子が影響しているのではないかというのは合理的である
そして密集することがウイルスを蔓延させる、ところが宗教でも密集して礼拝する
これは本来の宗教とは違ったものである
とにかくユダヤ教でもイスラエルで伝統的な宗教行事で集まることが禁止されたとかあるアジアでは韓国のキリスト教系統が集団で礼拝してそこから感染が増えた
それでその教祖が国民に謝ったのである
それが今インドでも起きている、ヒンズー教の祭りで人が集まるからそこから蔓延したとされるからだ

イスラム教でもモスクで集団で礼拝するから伝染する
何かこうして宗教が集団化することは本来の宗教に反する行為だともなる
神は集団に語らない、個人を通してしか現れない、最初はアブラハムという個人に神が現れた、あくまでも個人を通して神が現れた、その人が予言者になった
それはイスラム教でもモハメッドが洞窟で神から啓示を受けた
仏教でもシャカは洞窟で一人悟りを開いたのである
だから宗教が集団化したり組織化したり団体化して集まることは本来の宗教ではない
キリストも二人三人いる所に私がいる・・と言った時たった二人三人なのである

だから現代の宗教は何か本来の宗教とは違ったものになった
集団示威行動することなど宗教ではありえないことだったのである
だから宗教もファシズム化する、ナチスと同じようになる
何百万人の信者が示威行動すれば恐怖である、それは神とか仏とか関係ない
その集団的示威行動によって社会に恐怖を与えて権力を得るためなのである
それで創価では都議会選挙で東京以外から応援を頼めないとして困っているというのもそうである、何か週刊誌ではいろいろ場所、理容院とかでもまわり投票を頼むとしているからである
創価は24時間360日選挙運動のためにある、それが権力を得ることに通じているからである
何に祈っているのかとなると権力を得るために日々祈っていると同じなのである
一人でも票を得れば権力を拡大することになるからだ

そういうことまで戒められたということはコロナウィルスが必ずしも悪いことばりに作用したともならない、何か現代文明自体への戒めともなっている
第一人間が一千万も集中している密になっていることは異常なことである
そこではとても人と人の接触を無くすことなどできないからだ
そういう文明都市こそもう限界であり分散して暮らすことをコロナウィルスで強いられことは悪いことではない、まず東京遷都が言われたがこれも簡単にはできない
よほどのことがないとできない、強制されなければできない
だから遷都の話しなど聞かなくなったのである

このコロナウィルスは現代文明に対する警告でもあったかもしれない、何かそういう作用が現実にあったからである
グロ−バル化社会とか経済はいい面もあっても悪い面も目立つようになり社会が変質してしまった、一見いいようでも何か本来の人間生活を逸脱したものにもなっていた
本来人間はやはりその土地に根付いてその土地にあるもので生活するのが自然の理にかなっているからだ、ただそれがグロ−バル化したということの影響が大きかった
日本にこれだけ森林があっても外材で活用されないとかあり不自然になったのである

コロナウィルス⇒ (地域性)(人種ー遺伝子)(文化)

こうして総合的にかかわるものだった、とにかくグロ−バル化を一時とめた
またオリッピックなどは一握りの利権者のためのものであり国民は賛同していなかった
それをこれまでこだわるのは後にひけない、利権集団がいてそうなる
大損失になるとしているからだ、電通とかマスコミでもそうである
それは原発でもマスコミは巨額の宣伝費を東電とか電事組合とから800億円とか流れていた、それで危険を報道しなかったのである
これは天の意志だ神意として停止させられたともなる
それは悪いことではない、人間は天の意志に神の意志に逆らうことはできない
何か津波でもコロナウィルスでも天意として神意として起きたともみる
それに人間は逆らうことはできない、いくら科学が発達してもワクチンができたとしてもそれで全部解決しないということもありうる

要するに現代文明社会を変えねばならない、それが神から強制されているのかもしれないコロナウィルス後の社会が世界が悪い方向にばかりゆくとは限らない
かえって行き過ぎたグロ−バル化の弊害を是正して新たな社会を構築するようになる
そういうことは人間の力ではできない、それでコロナウィルスが謎になる
恐竜が滅びたのは神意だった、それは神の意にそわないものだったから神が滅ぼしたのである、それと同じようなことが現代文明にもいえる
神の意にそなわないからコロナウィルスによって世界を変えさせるともなる


posted by 天華 at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

梁川は地理的要衝の地 (会津と米沢と伊達正宗が争った地)


梁川は地理的要衝の地

(会津と米沢と伊達正宗が争った地)

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伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。また、その政宗が田村郡の田村氏から愛姫(めごひめ)を正室として迎えたとき、花嫁の受け渡しがおこなわれたのも梁川だった。

奥州仕置によって伊達氏が岩出山城へ移ると、梁川城は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後は、上杉景勝の領地となって、梁川城には須田長義が置かれた。現在の梁川城の遺構は基本的にこの時代の城主(蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義)によるものと考えられる

寛文4年(1664年)、上杉綱勝が後継者を決めぬまま急死し、本来ならば改易になるところを吉良義央の長男・綱憲を養子に迎えることによって上杉家の存続が認められるという騒動の際に、上杉領は30万石から15万石となり、梁川城を含む伊達郡(および信夫郡と置賜郡屋代)は没収され、天領(約20万石)となった。この時、梁川城は廃城となった。


なぜ梁川城をめぐって伊達と米沢と会津がみつどもえで争ったのか?
そこが。地理的要衝だったからである
その城自体が前に広瀬川があり阿武隈川があり後ろが山であり要衝の地に作られていた
だからここは前々から地理的要衝の地だったのである
それで私が阿武隈川にそって丸森の大張とか耕野から出ると梁川に出て平野が拓ける
そこが春野となっていて気持ちいい光景になる
山に閉ざされたところから出てきて平野に出たなと解放された気分になる

つまりそういう所に梁川城があったということがまさに地理的要衝になっていたのであるだからこそ会津藩でも米沢藩でも伊達藩でもここを支配したいとなったのである
そうなるとここで覇権争いも起きてくる
そのことで丸森の木材をめぐって米沢藩と伊達藩と相馬藩が争ったのである
そういう要衝の地だからこそここが中世から重要な地点となり城がすでに築かれていたのである
そういうことで本当に歴史でも地理がわからないと理解できない、地歴なのである
その地理を理解するには電車だけではわからない、車でもわからないのである
閉ざされた丸森の山間の部落から出てきて峠を越えてそれが体で理解できる
電車だとトンネルをくぐるから峠の感覚がわからないのである

伊達正宗はまずこの梁川をおさえた、それから丸森に入り筆甫に入り相馬氏と戦う
初陣の地が筆甫だったとなる、相馬氏も金山城の城主となっていた、相馬氏も丸森の木材をめぐって争っていた、そういう場所だったのである

梁川城は古い城下町なのである、足軽町とかある、こんなに足軽が住んでいたのかともなる、なぜなら相馬藩だと中村城は城下町でも足軽町とかないのである
城跡があっても何かそうした城を囲んで足軽町がない
それは相馬氏では野馬追いに見られるように農業をして侍だった郷士が多いからである
城勤めではない、もともと農民であり侍であり給金を支給されていてもその土地に土着する農民だったからだとなる
だから野馬追いには農家から出るのがほとんどであり街内から出ないのである

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ともかく伊達氏だと白石には伊達政宗の片腕の片倉氏がいて補佐した
それで白石城がある、白石にも丸森から道が通じて近いとなる
そして白石市の菓子屋には足軽まんじゅうを売っていた
足軽が食べた饅頭だからとなる

足軽の庭は、観賞用ではなく

主に生活のため

果樹を植え、畑もしていたそう

下級武士でも内職していたし庭には必ず柿の木などを植えていた、それは食べるためのものであり鑑賞用ではない、柿は果物がない時代には貴重だったのである
それで大正生まれの母の好物は柿であり干し柿だったのである
果物というときその頃柿を主に食べていたとなる
みかんなどは東北ではとれこないから簡単には食べられないからである
伊達市があんぽ柿で有名である、柿は干し柿として御菓子にもなっていた
それで私の家の庭にも渋柿だけど柿の木があったことを思い出した
農家では今でも柿の木はあるけど街内ではめずらしいとなるがやはり食料として植えていたとなるのかもしれない、とにかく何でも自給しないと生活できない時代が長くつづいていたからである

江戸時代の暮らし
http://hiariya.com/asigaru-haken

ここは結構江戸時代を語っているから面白い、何かあらゆることにいろいろな見方がありそれで検索するとそれなりのものに当たりそれで今はインタ−ネットで編集する
出版社の編集者のようなことができるようになったのである
知識のネットワークができているからそういうことができる

いづれにしろ昔を偲ぶというとき何か手がかりが必要になる、戦前の暮らしとか戦後十年は燃料は炭であり山では炭焼きをして暮らしていた
それから全国的にも養蚕が盛んであり生糸を作ってアメリカなどに輸出していた
それは戦後の日本が電器製品を外国に売り高度成長した時代と同じである
生糸を輸出することでそれが日本の財力となり軍事にもその金を使い拡張したのである
そういう時代が戦前だったのである、梁川でもそうして生糸生産で豊かになったということがある
山の中でも養蚕が行われていてそれで金になり山の中でも暮らしていけたということがある、時代が変わり山で暮らすことが容易でなくなり過疎化している
材木でも外国から輸入するから森があっても木材があっても活用されないからである

ともかく時間軸でその土地を知るのと空間軸で地理からその土地を知る
この二つがあってその土地の理解を深めることができる
だから地歴だとなる、それでできれば歩いて旅するとか最低限でも自転車で旅するとかすると地理がわかる、電車でも車でも峠を越えるという感覚がもてない
電車だとトンネルをくぐるということでトンネルの向こうは雪国だったとかなる
でも江戸時代ならみんな峠を歩いて越えたのである
そういう旅は体で記憶しているから忘れないのである
私の場合は飯館村へ長い坂をのぼり峠を越えることをしているから峠を意識する
丸森だとやはり必ず峠を越えて相馬の方に帰る、その時春だといつも夕桜になっていて
心に染みるとなる
山に遮られているから山を歩いてでも越えるということでその地理を体で理解す


相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?
相馬藩、伊達藩、会津藩の攻防
http://musubu.sblo.jp/article/33335256.html