2021年05月11日

金があっても文化がうまれないのはなぜか (庭作りでも頼む人と作る人の心の一致が必要)


金があっても文化がうまれないのはなぜか

(庭作りでも頼む人と作る人の心の一致が必要)


今の世の中はなんでも金である、すると金を持っている人が例えば庭作りを頼むとなる
金も出すとなる、でもどういう庭にするとかとなると頼んだ人が庭作りに興味がありどういう庭がいいとかイメージできる人でないといくら金があってもいい庭は作れないだろう
そもそも金がある人がなんでもできるのだろううか?

確かに常に職人でも頼めば金がかかる、だから金のない人はそもそも庭作りを頼むこともできないとなる、金次第でなんでもいいものが作れる
金がなければ何もできないという感じになっているのが現代である

そのことは庭作りだけではない、技術者がいくら政府から金をだしてもらっていい研究をして成果を出せといういってもそんな簡単にできない
それで研究者は金を出す方が威張っているのはおかしいと言うのもわかる
いくら金を出しても成果がでないこともある、金の力で何でも成果が出せるとは限らないのである
金が万能ではないのである、それなら巨万の金をもっている人がなんでもできるとなるからだ

何かの発明でも金さえ出せばできるものだろうか?いくら金を出しても簡単に成果が出せるわけではない
例えは芸術家でもそうである、その人にいくら金を与えてもいい絵が描けるだろうか?
また文学作品でも金を作家でも出すからはしていい作品が生まれるだろうか?
そんなことはないだろう、かえってそんな金をもらったらいい作品が生まれない
なぜなら文学作品でもその人の苦しい体験を語る時訴えるからである
もし多額の金をもらったら楽するから人々に訴える作品は作れないのである

原発事故からもうすでに10兆円とかの金を使っても復興できなかったことでもそうであるただ補償金を与えれば金を与えれば復興すると政府では思っていたのである
その金でどうなったかをこれまで書いてきた
ある金は除染でも地元の会社に相双リテックに流れ幹部に億の金が入り山分けした
その金を今度は野球に趣味だとしてつきごんた、タニマチになった
6兆円もの除染費用がゼネコンとか暴力団にも流れた
地元の一般庶民には被害があっても30キロ圏内が厚遇された、それでもまた必ずしもみんなそれほどもらったわけでもなかったのである
その巨額の金は別な方に流れて復興はしなかったのである

なんか今何か金があればなんでもできる、金がすべてだという錯覚に陥っている
どうしてヨ−ロッパで芸術でも科学技術でも学問でも発達したのか?
金をもっている貴族がいてその貴族が音楽でも芸術でも理解があったからだとなる
つまり芸術を創造しなくても鑑賞する能力があったとなる
だから音楽でもパトロンになれた、金を出すにしてもその音楽を芸術を理解していたのである

ところがゴッホの絵が100億円になったとしてもそれを買う人はその絵を鑑賞できない
その絵の良さを理解できないということがある
芸術が鑑賞すること自体むずかしいからそうなる
それだけの金をだしてもその金を出す本人が理解していない、ただ投機として買っているだけだとなる
ただ一般庶民にすれば100億円もの値段がついたことに驚きそんなに価値があるのかとなる

庭を修復してもらった、その職人には多様なことができるから感心する
でも自分自身が庭作りに興味がありは何も興味があり建築にも興味がある
だから私自身が庭作りに関与する、それで金をはらってこそ職人と共同作業のようになるつまり何か様々な文化的ものが残っている
それは金を出したからできたものではない、金を出す方にしても何か庭作りでも建築でもかかわっていた、そもそも関心も興味もそういうものに価値を見出さなかったら頼むこともできないとなる
それより何かただ金にあかせて悪趣味のものを作ったりする、また遊興に金を使ってしまうとかなる、だから金があっても文化的ものは残らないこともある
ヨ−ロッパの芸術とか科学技術でも貴族が残したものだけどパトロンになったけどそれを鑑賞できる理解できたからである

ただ正直金が庭作りでも必要だから金持ちでないとできないということはある
それで昔は金持ちが職人を雇っていて庭作りでも家作りでもしていた
するとそこで職人は技を磨くことができたとしている
つまりそういう金持ちがいないとしたら職人は技を磨けないのである
現代はハウス会社がプラモデルのように家を一二週間で建ててしまう
すると職人も本当の家造りというのは学べないともなる
現実に今やそういう技をもった職人はいなくなりつつある
それは注文する人がみんな安く仕上げようとするからできあいのものになってしまう
個性的な家を作るとなると金がかかりすぎるから同じようなプラモデルのようにハウス会社が家を建てるのである

宮大工とか宗教建築でもそうして注文する人が金を払う人がいなくなればその技術も途絶えてしまう、金を払う人がいなくなれば確かにそうなる
でも建物でも実は信仰心があってこそ建物も維持できる、いくら金があっても信仰心がなければもう建築でも維持できないのである
まず信仰心があって教会でも寺でも神社でもある
その信仰心がなくなったらいくら建物があってもそれは死んでゆくことであり職人も維持できないとなってしまう

なんでも金でできるとはならない、信仰心がなくなれば寄進する人もなく金が集まらなくなるからだ
最初に信仰心があり学ぶ心があれば建物は小屋のようなものでも学ぶ熱気があれ松下村塾であれ緒方洪庵の適塾でも学問でも起こるし世の中を変えてきたのである
すべて金さえあればできるということはないがそう錯覚させているのである
原発津事故からの復興でも立派な建築物はできた、学校だったら肝心の生徒が集まらないとなっている
要するにその人の持っているもの心が何でも反映することがある
だから近くの家の庭は広い、一時は畑にしたりした
その家では金がないことは屋根を直していないことでもわかる
砂でもまいたりすればできる、小石をまけばそれでも庭になる
金がなくても簡単な庭作りはできるのである
ただその家の人にそういう趣味がないからできないだけなのである

そもそも茶室など贅沢なものではない、わびさびの世界であり金をかけないものだった
ヨ−ロッパとかの豪華な宮殿とはまるで違った世界である
でもそこに美を見出していたのが日本だからである、金閣寺もあるがわび、さびの茶室は金のかからない簡素なものである
だから金にあかせて作ったものが芸術からしたら評価されるとも限らないのである
だからすべて金で評価される資本主義社会から何か文化的のものは生まれない
かえって貴族社会からルネサンスが生まれたのもわかるのである

貴族社会というと批判はある、貧民を無視したとかある
でも貧民だけだったらもう文化的なものは生まれなかったともなる
民衆の芸術も民謡と別にあるにしても文化的なものは作りえなかったとなる
今でも文化財として残っているのは日本でも金持ちの家に庭とかである
それはやはり庭作りの趣味があった人が残したともなる
そこで職人をやとい家造りでも庭作りでもさせていたらである
そこで技を磨くことができたからである

結局現代の問題は金が集まるべきところに集まらない、だから文化が生まれないのである金が無駄なものに莫大に浪費されている、オリッピックもギリシャに生まれたがそこに大きな意義があり浪費ではなかった
今のオリッピックも莫大な浪費なのである、世界平和とかを標榜しても商業主義利権の祭典なのである、金儲けの祭典になっている
もう金メダルなど意味がないのである
現代はすべてが金となりモラルもなく荒廃してしまった、文化も育たない不毛の世界となったのである、こうなるときヨ−ロッパでも貴族社会が悪いともならない、良い点もあったとなる、それは江戸時代の見方でもそうである
現代は文化的には不毛の世界なのである、悪趣味が幅をきかすのもそうである
金にあかせて作ったものでもいいものは作れないのである