田の面に映る故郷の山を見て復興を感じる
(故郷の夏の景色)
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蛙鳴く声のひびきて里に生く
雲流れ影なしすずし走るかな
タンポポに朝日にきらめく田の面かな
夏菊に田の面に写し朝の空
べチュニアとジキタリスかな花二つ我が庭に植えきわだちにけり
鉄道の敷地に咲きぬつつじかな菓子店より赤く映え見ゆ
ふるさとの山影映す広き田や復興なりぬ十年過ぎて
ふるさとの田に水充ちて山の影映して朝や雲雀鳴くかな
海の方に行くと朝に広い田に山の影が映っていた、その田が震災以後広くした田である
それは今でも田を広くしている、だから山影もその広々とした他に映っている
もう小さい田は荒地化して放置された、そしてそこは荒地化した
もう小さい田をやるメリットがない、手をかけてやってもただ労力の無駄だとなる
なぜなら金にならないからである
でも田を広くすると機械でもやりやすいから機械に合わせて広くしたともなる
その田を広くする工事はまだ他でもしているからである
そもそも日本の田は細分化されていた、零細なものだったのである
ただこの辺では米は飼料米として売られている、いくらでもうまい米が入ってくるから競争できないのである
ともかくこうして十年過ぎてやっとこの辺は復興したなとみる
それは長かったとなる、田に一杯水を張り田植えして故郷の山の影が映る
畦にはタンポポとか夏菊が咲いている、ここに何か生業があり人と自然の調和した世界が回復したとなる
ただその田の面には風力発電の風車が映っていた
かつての松原はなくなったのが残念だとなる
なんとか家の方を修復した、実際は家の中は震災以後こわれた所があり直していない
でも塀とか庭を作ってもらった大工兼庭師兼・・・の人に直してもらった
それで掃除もしたのでかたづいたとはなる
なかなか整理できないので困っていた、自分はだらしないので掃除とか整理をしていなかった、何か億劫になりしていなかった、というのはやることが多すぎてできないのである家事全般を一人でやること自体手間でありできなかった
どうしても一人だと人手が足りなくなるのである
何か駅前の菓子店から鉄道の方を見たら赤いツツジが映えていた
店の中から見る風景がまた違っていた、その赤さが一段と映えていた
つまり花でも自然でも家があり店がありその内部から見たとき別に見える
自然でも人間の営みと一体化した時一段と映えるということがある
だから街に通りに咲く花は違っているのである
ただ駅前には自転車屋と菓子店しかないのが淋しいとなる
いづれにしろ蛙が鳴く声がひびき白鷺がまばゆく映えて夏菊も咲く、そうして自然も蘇り生業がもどった
ただ墓地のある所は荒地でありそれで震災の荒廃が残っている
避難区域となった小高であれ浪江であれどうしても田畑が荒地化していることが嫌なのである
例え米が今は重要でないとしても田畑は自然なのである、だから蛙がなき白鷺が来て花が咲き故郷の山を映す
田畑は自然と一体化しているから自然の復活にもなっていたのである
それで田畑がこのように復活しないと復興したように見えないのである
花というのはべチュニアとジキタリスを並べて植えてみたらその個性がきわだっつものとなる、この花は何か独特である、ジキタリスは薬にもなっている、花は意外と薬になるものも多い、この花に不気味な伝説があるのはイメージできる