2021年05月22日

木の根っこ(飯館村の春の詩―私の思い)


木の根っこ(飯館村の春の詩―私の思い)

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木は大地に根を張る
徐々に深く深く根を張る
そして長い時間で成長する
ここに飢饉の碑がある
江戸時代の宝暦と記されている
寒冷の高原の地で民は苦しむ
でもここに根を張った木は動かない
その時代から代々人はここに生き続ける
そして我々の生は受け継がれる
その土地土地に歴史がある
歴史は先祖の苦労を偲ぶこと
その土地の根となること
それがこの地に生きること
苦しくも悲しくもまた喜びをともにする
それが断たれ失われ時
その根っこも失われる
その土地に死者も生き続ける
その土地から離れず生き続ける
その土地に根付き働き苦労して
その土地を作ったものだから
苦しくも峠を越えて私はまたここにやってきた
木は春になり芽吹く
風がそよぎ春の光りその根にさしている
私はその露わなる根を見る
土地に根付くその根を見る
そしてここに生きる人を思う
その場に人は生きた
その深い思いがここに残っている
でも人が住まなければそれもない
それが悔しく残念である
故にこうさせたものを憎む
憤りをもつ、怒りとなる


六字名号の碑の側に根も露わな木がある、今回はその根に感じた
何かそれが飯館村を象徴していた、飢饉もあり人々は苦しんだ
でもそれでも人々は代々ここに生き続けていたのである
村がなくなるということはなかった
人口が減っても村自体がなくなるとういことはなかった
そんなこと想像もできなかった
その村自体に人が住まなくなり荒廃した

確かに新しいこじんまりした家は建っている、でもそれは別荘だとういのも変なのである別荘とそこで暮らすのは違っている、別荘という時東京の金持ちが東京近辺に建てるものである、飯館村は別荘は似合わない、だから違和感がある
要するに原発事故で飯館村でも他でも放射線被害の大きい避難区域は根が失われたのではないか?
ただ帰ってきて何か農業でも始める人もいるし外から来た人が新しいことをはじめはている
でも肝心の村人で帰った人は少ないし60過ぎの人が多いだろう
もともと農業は60以上の人がしていた、そして近くの畑でも遂に死んだ人もいるし体がつづかなくなり畑をやめたとかある
そして耕作放棄地になった、原発事故以後はそういう土地が多いのである
それはここだけではない全国的にそうなのである

人間が生きるということはやはり生きる場が必要である
その場が故郷であり代々生きることが継続される
それが断たれることは歴史を失うことであり深刻になる
ただ歴史が失われるとしてもそれを感じない人もいる
金をもらえばいいとかなる人もいる
もともとここで暮らすのは苦しいから嫌だから住みたくないという人もいた
ただそこに生きることにかけがえのないものを感じていた人もいる
そういうことをまた原発事故以後痛切に感じた人もいる

それで山尾三省が東京に住んでどれほど田舎で暮らすことに価値を見出したか
まるで田舎の殉教者みたくなっていたのである
あんなふうに第一田舎の人でもならない、なぜならみんな車をもっているし一人一台でももっているからである、車がないと田舎では暮らせないからである
それは極端にしても何かそれほどまで一つの自分の生きる場を郷(くに)を求めた人はいない
それで原発事故以後共鳴したのである、あからさまに原発事故に反対してそのアンチテーゼとして自ら実践したのである
おそらく田舎に住む人より田舎の価値を農業の価値を生きたかったのである
それでその喜びが詩ともなったのである

私はただ別に農業をするわけでもない、飯館村に行ったのは他国をたずねるような気分でしかなかった、そこに暮らす人の苦労も知らない、ただ花を見て帰っただけだともなる
でもそこに峠を越えて常に行っていたから思い入れが生まれたのである
飯館村は相馬藩内だからやはり土地でもつながっていた
なぜなら新田川の上流が飯館の中心部の草野から流れていたからである
真野川は大倉村から流れているからである
土地としてもつながっている、それで放射性物質をつめこんだ袋が破れて流れたとき
それは南相馬市にも流れて来る、もちろん真野ダムに放射性物質がたまり流れだして来るだから飯館村だけが汚染されるということでもなかったのである

posted by 天華 at 21:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

人間がみんな老人になると自分のしてきたことを認めてもらいたい (郷土の歴史もその苦労を知ること)


人間がみんな老人になると自分のしてきたことを認めてもらいたい

(郷土の歴史もその苦労を知ること)


たいがい60以降になると自分がこういうことをしてきた、その苦労話がある
私の家では街内で一番低い土地にありそれで被害がまた一番大きかった
家が流される寸前になっていた
その家と土地にしても父親が葛尾村から双葉の新山で酒屋で丁稚をしていた暖簾分けしてここにきて土地と家を建てたのである
父親は早く死んだが成人して生きていたらそのことを延々と語っていたとなる
そのことを聞けなかったので残念だったとなる
つまりこの土地であり家であれそれぞれ歴史がある、歴史には必ず苦労話がある
歴史というと国家となると大きなことになりわかりにくくなる
でもそれぞれの家の歴史だと身近でありわかりやすいのである
だから私は郷土史とか歴史は家の歴史からはじまっている
じいちゃんばあちゃんから聞いた話しが郷土史となると言ってきた
だから歴史とは身近なものである

それぞれの家の歴史がありその集積として村の歴史があり町の歴史があり市の歴史があとなる
家の歴史でもまた家族がいたとしても例えば三人家族が三人三様なのである
その相違もまた大きいのである、なぜこれほど同じ家族なのに違うのかとなる
母は原町で原町紡績ーハラボウで十年間糸取りをしていた
それから東京に行き女中になった、そこで結婚したが夫が死んで原町に帰ってきた
そして私の父親と結婚した
姉は養子とかでありこの運命も数奇だった、常に語っていたのは今のシンガポールの向かい側のマレーシアのジョホールバルで四年間従軍看護婦として働いていたことである
このことを死ぬ直前まで語っていた、そのことをどうしても忘れられなかった
人生で一番印象に残ったことだからそうなった

こうして家の歴史をふりかえるとまさに戦前からどちらも大正生まれであり父は明治生まれであり歴史を語っていたのである
つまり家族の歴史が大きな日本の歴史でもあったのだ
なぜなら絹を輸出して日本は戦争する経済力をつけていたともなるからだ
姉が従軍看護婦になったのも戦争の歴史である
そしてトタン屋根の家から二階建ての家にしたのはすでに50年前とかになった
その二階建ての家にしたのは真野川の氾濫で一番被害を受けたから逃げる場所がなく
二階にすることが悲願となったのである
何か胸とかまで水につかり近くの旅館に逃げたのである
そうして新しい家を建てた時、姉は死ぬまでこの家は私が建てたのだと自慢していた
その柱は橲原の同級生がキコリをしていてそこの木から作ったと自慢していた

つまりこういう一家族の歴史が一つの郷土史でありそこから苦労を偲ぶのが歴史でもあるそれはどこの家でもあるかことだからである、ただめいめいの家族が事情が違うから理解しにくいのである
何かその女性はしきりにいう、私は福相(裁縫会社)で働いていたとか原町の旅館の丸屋で働いていたとか食堂でも働いていたとかあとは相双緑化(建築と造園)で働いていたとうかいう、この辺での働き先だったとなる
そこで言いたいのは私はこうして郷土で働いたということである
その苦労を語るのは普通にある
ある人はトラック運転手をしていた、その人は他の人より荷物を二倍を請け負ってトラックを走らせた、そして500万の立派な庭を作ったとなる
その庭は確かに立派な庭である、大きな石を積んだ庭だからである

そうして老人は昔を語る、それはなぜなのか?

私は家のために子供のためにそして郷土のために働いたということまた従軍看護婦となると国のために働いたとかまでなる
ただそういうことは地元だから知るが他の土地に行くとわからなくなる
そうした歴史がわからなくなる、特に外国に行くと空間を移動しても時間軸で作られたもの歴史がわからないからである
この歴史が知ると知らないでは相当な差が生まれる
そうしうた苦労話を聞けば家でも大事にするし親でも苦労して家でも作ってくれて今自分が住んで楽しているんだとなるからである

ところが原発避難区域とかなるとそうした家の歴史があってもそれが失われた
5000万で作った家を小高に置いて原町で中古の家を600円で買ったとかなる
するとその5000万の家は無駄になったともなる
確かにそれで補償金をもらったとしてもその家を作った苦労話は子供でも孫でも話せないとなる、小高でも浪江でも原発避難区域になったところはそうして実はそれぞれの家が築き上げた家の歴史も失われたのである
それはたいした損失のようではない、むしろ補償金をもらって良かったとも外部からだとみる、でもその土地の歴史は失われたときこうして苦労話を次代の人にできない
すると何か親の苦労でも継承されない、ということは親でも先祖でもその価値が失われたともなる

確かに多額の補償金をもらったからいいじゃないかともみる
でもその補償金はこうして苦労して作られた残されたものとは違っている
俺は原発事故でこれだけの金をもらい残したとか自慢できないだろう
それで郷土に尽くしたとか自慢できない、むしろそのために郷土に住めなくなった
そういう歴史が失われとなるからだ、その損失は大きかった気付くかもしれない
むしろ親でも子供はうらむとまでもなるかもしれない、また郷土とは関係ないものとなり苦労話をしてもそれを受け継ぐことはない、第一もう郷土に住んでいないからである
歴史とは何かというときその土地土地で長い時間をかけて継続されたものである

例えば飯館村の歴史も古い、有名なのは六字名号供養碑とかの飢饉の碑である
飯館村は高原の地であり寒いのである、だから飢饉があり苦しんだ
その碑があり春の日に行ったらそこに木が根付いて露わに木の根が見えたのである
その木の根に春の日がさして春の鳥がさえづっていたのである

その根が何かこの土地に根付いて暮らしてきた歴史を刻んできたものとして見えた
つまり過去に飢饉がありそれでもここに暮らしが継続されてきたのである
この土地に根を張り代々生活は歴史は刻まれてきたのである
その歴史が原発事故で失われる危機にある、村自体が消失する危機にある
それは全国の限界集落でもそうなりつつある、それは代々築かれた先人の苦労も無駄になるともなる

部落自体村自体が消失すればもう個々人の家の歴史も失われ廃墟として埋もれてしまうからである、だからゴーストタウン幽霊村とかなり神社があるとしても草に埋もれ誰も参る人がいなくなるそこは動物の住処となり猿が住んだりするとなる
飯館村でも神社を見たらそういうふうになっていた、何か一段と淋しいものとなっていたのである、人が住んだ場所は自然のままのものではない、何か一段と淋しいものとなり
幽霊が徘徊しているような感じになるのである
それは先祖の苦労もなにもすべて失われたものともなる、継続するものがいなくなったからである、ただそうした村とかはここだけではない全国的にこれから増えてくる
空家が800万軒とか耕作放棄地が膨大なのである、この辺でももう耕作放棄地が原発事故以後増えた、小さい田畑はもう放棄されてソーラーパネルになったりしている
ただ他は田は広い田にしている、機械を利用するのにいいように広い田にしている
つまり小規模農業は成り立たなくなっているのである

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江戸時代からの継続として飯館村があり
それがこの碑なのである
そして木の根っこがまさにここに根を張って生活を継続していたことを
象徴していたのである

飯館村の春の塩の道を行く
http://musubu2.sblo.jp/category/1556951-1.html

家の力、土地の力、歴史の力 (グローバル化に対立するもの、ナショナルな力)

老人は過去を昔を語ることに役割がある
(でもそれを受け止める場や共同体がないと活きない)