2021年06月20日

いわき出身の医者が息子を保険金殺人(1935) (それは当時の歴史を語るものでもあった)


いわき出身の医者が息子を保険金殺人(1935)

(それは当時の歴史を語るものでもあった)

徳田寛は1913年に医師試験に合格。以後、福島県の炭鉱会社の嘱託医をしていたが、1928年、樺太に移住。1935年10月ごろまで同地で医師を務めた。

 その間、長男貢を日大専門部歯科に入学させ、長女栄子、次女秀子も上京、遊学させた。妻はまは以前産婆試験に合格し、夫に従って福島県で産婆を開業していた。栄子は1928年4月に上京。私立小石川高女を卒業後、一時日本女子大と東京女子専門学校に入学したがどちらも中退した。

 寛は樺太の小さな村で開業医をしていたが、経営不振に陥って苦慮。敷香町に日本人絹パルプが設立されると聞いて嘱託医になれば業績が上がると考え、1931年11月、敷香にほとんど全財産を投じて徳田病院を建設。

 父が主謀、母が殺害、妹が協力…一家で息子を惨殺した日大生保険金殺人事件とは

 これも恐ろしい事件であった、ただここで注目したのが当時の社会状況のことである
徳田が炭鉱会社の嘱託医ということは磐城の常磐炭鉱と関係している
それから東京に上京して大学に入った
この人は樺太で開業医をしていたということは樺太とも関係していた、当時の社会状況があった、東京まで行かないと地方でぱ看護婦免許ももらえない、それで私の姉は東京の新宿に滞在して免許をとったと言っていた

私の母は原町紡績工場で糸取りを十年間してそれから東京に女中に出た
そこで知り合った人と結婚した、ところが工場の事故で死んだのである
その夫の勤めていた会社は北区にあった、そこは工場地帯だったのである
今でも荒川線の都電が唯一ありそこを通っているのである

この息子を殺した人も福島県出身であり磐城の人でありその当時の社会状況が見えて来るなぜなら常磐炭鉱は大きな働き場所であったからだ、今の原発の様な場所だったのであるその石炭は東京に送られていたのである、絹織物の生糸は原町機関区から横浜に送られてアメリカなどの外国に輸出されていたのである
日本の主要産業は石炭と絹織物の生糸となっていたのである
だからいたるところに農家では蚕(かいこ)を飼っていた、その家は兜作りの家として残っている、だからすぐにそういう家はわかる
どれだけ生糸を作っていたかわかる、それか主要産業だったからである
その輸出によって外貨をかせぎ戦争の準備もできたとしているからだ

この人の経歴はまさこその当時の歴史を語っていたのである
そういう時代に生きていたのである、まるで推理小説になっている、ただ余りにも残酷だったとなる、東京の官僚がひきこもりの息子を殺したことはまだ記憶されている
この息子も遊んでいて手を焼いていたから似ていることはあった
ただ保険金をかけて殺すということは尋常ではない
でも事業に失敗する人も多いのである、そして多額の借金をかかる人は近くにもいた
そのために自分自身も苦しめられたのである

何か事業というとき私の父親は双葉の新山で酒屋をしていたが倒産した
ただ暖簾分けしてこの地に住むようになった
また母親の実家は父親が警察署長だったが機織り工場の経営に失敗して一家離散のようになった、とにかく事業に失敗しておかしくなる人がまた多いのである
借金をかかえておかしくなる、この人も病院を経営していたがそれにも失敗していたからである

ただこういうことは何か人間の業(カルマ)として継続しているのだろう
ふしだらな親に苦しめられる人もいるしその子供に息子に娘に苦しめられる人もいる
結局そういうことはめずらしいものではなく世の常だとなる
だからそういうことは江戸時代にだってあったし継続しているのである
みんな親に恵まれたり子供に恵まれたりしないからである

歴史というとき一人の庶民の歴史をたどると当時の状況が見えてくるものがある
それを集団として見るのではなく個々人の歴史として見るのである
するとそこに当時の歴史が見えてくるのである
一人の人間がその当時どのようち生きてきたか?それを知ると当時の状況が見えて来る
ただ庶民のことは歴史に残らないのでわからなくなる、これは明治になって新聞が生まれそのことが詳しく残された結果たどることができる
新聞はそうして歴史を記録するものでもあったからだ

今になけるとインタ−ネットで個人が語る、するとそれも歴史を後世に語り残すことにもなる、この辺では津波とか原発事故がありそのことを自分はプログで延々と書いてきた
それは後世にも残されるものだとなる、ただ問題はインタ−ネットの記録は膨大であり
電子記録だから消えることがあるのが問題なのである
だから記録としてアイカーブする必要がある、それは膨大な記録を残すことができるからだでも死んでから50年とかなるとわからなくなる
本でも50年過ぎたらボロボロにてっていたからである
でも電子記録より紙の方が残るともなる、それで私は紙でもまとめて残そうとしている
それが膨大なので日々整理しても整理しきれないのである

この事件は福島県のいわきであり近いから興味をもった、そして当時の時代が状況が反映しているので歴史を知ることにもなる
小説家だったら小説にできる事件だったのである




posted by 天華 at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

江戸は大消費地ー働かない侍が50万人 (生産より消費の経済へ)


江戸は大消費地ー働かない侍が50万人

(生産より消費の経済へ)
coinjpmap1.jpg



uekiya11.jpg

uekiya22.jpg
新宿区千駄ヶ谷の江戸切り絵図

植木の需要が多かった



江戸時代に興味がある、でもわかりにくい、その最大の謎は侍が50万人もいたということである、百万都市でも半分が侍だった、その人たちは働いていないのである
生産者ではないのである、ただ消費する人たちなのである
ではその生活費はどこから得ていたのか?
それは国元なのである、そこに農民がいて米を作る、石高となりそれで収入となっていた貨幣でも小判でもその藩でもうけたもので得ていた、それを江戸で使っていた
江戸というのは何かそこで生産する人がいない、ただ近辺の農家では江戸は大消費地だから米とか野菜を供給した、ただ米の消費が膨大だから地方から仕入れた
伊達政宗の仙台からは石巻に米が集められて船で江戸に運ばれた
阿武隈川でも水運があり川で信達地方の米が集められて荒浜から運ばれた、ただ直接江戸には行かず川の水路を利用した、川を利用した運輸が盛んであり物資は江戸に集まったのである、

当初東北地方から江戸への廻船の入り方は、那珂湊ないしは銚子までは海路をとり、危険な犬吠埼沖通過を避け利根川の水運を利用する内川江戸廻りであった。だが寛文11年(1671年)に江戸幕府の命を受けた河村瑞賢が、東北諸藩の領内の産米を房総半島を迂回し伊豆半島の下田から外海江戸廻りで直接江戸に運ぶことに成功した

下田とはこうして港で栄えたのである、地理的には江戸から離れていても船運があり港なり栄えたとなる,下田という地名が何かもともと辺鄙な場所だったことを示している

東海道とか陸路は物資の輸送には適していない、荷物が運びにくいからである
船だと荷物が運び安居から大坂を物資の集積地として一大商都となった
それが瀬戸内海を通じて西回りの北前船が日本海を通り新潟県や山形県や青森県まで行き来した、それでそこでは銀の貨幣が流通していた
名古屋から関東から東北は金の貨幣が流通していた、つまり船運の範囲が大阪から日本海回りがありそうなった、それで山形県でもは最上川が紅花を運ぶ川となっていた
それで酒田とかが繁栄したのである
つまり日本でも河が動脈となり海が交通路となって商業が盛んになったのである
大坂だと西の醤油とか味噌とかが入ってきた
そして江戸には大阪から船でも物資が入ってきた、江戸が百万都市となり一大消費地となったからである

最上川からは米も運ばれた、蕪村の句に「毛見の衆の舟さし下せ最上川」「新米の坂田は早しもがみ河」あるのはそのためである

江戸は大消費地であり米を食べる量も膨大になる、そして江戸には優先的に米が運ばれていた、東北で飢饉があっても江戸で米が入ってきて食べられていたのである
それは米が商品作物であり江戸に売るものとして伊達藩で米を大量に作っていたからである、そのために天候不順とか不作になったとき肝心の地元では米が食べられなくなった
米だけを生産していると他の作物を作らないから米がとれないと食べ物がなくなる
それで飢饉となった、でも山だといろいろなものを作っていて稗だとか粟だとか作りそれが食料になる、そういうことはグロ−バル経済でコーヒーだけを作り他のものが作らないで後進国で食べるものもなくなるということがあった
またコーヒーが安くなるとその影響が大きいのである、それで今ではいろいろなものを畑で作るともなる、何かこうして地方でも地元でも商業が発達すると農業も影響を受けてアンバランスになる、これはグロ−バル経済で起きているから同じなのである
逆に江戸では白米を食べることができたがそのために脚気になったのである
それを江戸患いとなっていたのである、これは国土利用のアンバランスからそうなったのである
それが栄養のバランスを崩した、こういうことはやはり何か時代が変わっても継続しているのである

ともかく江戸の不思議は大名屋敷がありその敷地でも広大なのである、甲子園くらいの広さがあったというのもある、その大名屋敷に雇われる中間とかも多い、その大名屋敷の侍を食べさせる米の量も膨大なのである
侍は何をしていたのか?ただ消費するだけなのである、だからそれだけの金が国元から送られてきて生活が成り立っていた、それだけ豊かになったともなるが地方の農民とかはそのために納税することで苦しんだとなっていた
江戸の地図を見ると大名屋敷の間に点々と植木屋がある、それは大名屋敷の庭が広大なものがありその松の剪定とかで常時仕事があったからだとなる
普通は町人は長屋住まいであり大名屋敷の間に住んでいないからだ
お雇いの植木屋ともなっていたのかもしれない、それだけの仕事があったからそうなっていたとみる

経済というとき何か生産に注目する、農家だったらどれだけのものを生産するかが問題になる、でも江戸とかなると大消費地であり働く人がいない、50万人が侍でありあとは町民なのである、そして江戸に行けばなにかしら働き口があり糊口をしのげるとなって江戸に行く人が多くいた、それは今の東京と似ている
東京だと何かしら働き口があるとなり若い人が行くからである

何でも屋
「何かやる事はないかー」 などと声をあげて町を歩き、 薪割りなどこちょっとした力仕事で駄賃を稼いでいた。また、 正月が近くなると餅つきなどをして稼いでいた。
https://edo100.tokyo/freeterinedo/

これを必殺仕事人で見ている、佳代(かよ)がそうである、この女性の演技がうまいなと感心する、時代劇でも今になるとこうして演技力ある人がいなくなったこともある
田舎だと何か仕事がないかというと草刈りなのである、暇なし草刈りしているからである
とにかく何かしら江戸には仕事があり宵越しの金はもたないという生活が成り立っていたという、その日暮らしでもそれほど心配していなかったというのも不思議である
今なら一億円あっても安心がないからである、ともかく日々の生活でも最低限の質素なものでありそれで生活が成り立っていた、狭い長屋で家族が暮らしていた
今は貧乏になったといっても大家族で暮らしていない、知っている人は金がないのに苦しいのに三人の家族がそれぞれ住宅とか団地とかに住んでいる
すると三人別々だから家賃から電気代からカズ代から三人分かかるのである
電器製品でも掃除機でも洗濯機でも別々に買うから金がかかる、そしていつも壊れたとか言うのである、そこが今は貧乏だとしても贅沢だとなっているのだ
本当に貧乏だったらそんな暮らしができなくなるからである

そもそも江戸で50万人の働かない侍を養えたのかという疑問がある
でも生産と消費があるとき消費が大きなウエイトを占めるようになるのはそれだけ生産力が上がったためである、元禄時代になると地方で開拓が進んで大量に米がとれるようになったからだ、相馬藩でも松川浦の近くの新田は元禄時代に開拓された、元禄の碑があったからだ、この辺では元禄の碑があることはめずらしいのである
その元禄時代に芭蕉がみちのくの旅に出たのである、その時代に俳句が相当に興隆していた、地方の商人の金持ちを回ったのもそのためである

何か経済を考える時、生産と消費がある、でも生産に重きが置かれ消費のことはまさに消す費やすとかでマイナスに見られる
だから侍とは生産しない人達であり批判される対象にもなった、東北では安藤昌益がそうである、でも豊かになるとエンゲル係数でも食糧だけではないものに消費する割合が増えることになる、消費のウェイトが増大するのである
それで消費者は王様だとして高度成長時代に言われたのもわかる
消費すれば景気が良くなるのである、必ずしも生産することが喜ばれるとはならないのである
なぜならどこでも食堂であれ飲み屋であり食べてくれ飲んでくれ菓子屋でもうまいから食べてくれ買ってくれとなっている、家でも新しい家を借金しても買ってくれ車ででも自転車でもなんでもとにかく買ってくれとなっているのである
だから生産している人より買ってくれる人消費する人が王様だとなってしまっている
消費することが経済を回す景気を良くすることなのである
ボランティアはかえって嫌われる、消費しないからである、何かしら生産にたずさわり金をもらうとしているからともみる
会社でも組織でしていてそうしたものが入ってくるのを嫌うからである
むしろ消費してくれることが地域にとって望まれているのである
米だって余っているのだからもっと米を食べてくれとなる、でもパンもあるから米の消費が減っているのである
そして現代ではニートとか引きこもりとか老人の年金生活者とか3千万人くらいが働いていないのである、それだけ豊かになったからそういう人がいるともなる

江戸時代と対比して現代をみると見えてくるものがある
何か自分は時代劇をBSで毎日見ている、また今はアレキサンダーのインドの英雄の戦いを見ている、歴史に興味があるから見ている
そこから歴史に興味をもつこともある、ただ映画だけではなくリアルな江戸の世界とか江戸時代を知ることも必要になる
posted by 天華 at 12:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代