2021年07月31日

観るスポーツと自らするスポーツの相違 (オリッピックは観るスポーツでショー化したーオリンピアを訪ねて)


観るスポーツと自らするスポーツの相違

(オリッピックは観るスポーツでショー化したーオリンピアを訪ねて)

olnpicroma22.jpg


古代ローマの剣闘士は、何故歴史から姿を消した?日本の政治、メデイアが進化しない本当の理由

olinpiass1.jpg
オリンピアの競技場、春の花が咲いていた

olinpiasruin11.jpg
オリンピアの神殿跡の石柱


ateneroma11.jpg

アテネのローマ神殿ーアーチが特徴的

delphy111.jpg

デルフィの競技場

観客席の石の座席は立派であり残っている



古代オリンピックは紀元前776年に古代ギリシアのエリス地方にあるオリンピアで始まったとされている。オリンピアはゼウス神の聖地であり、オリンピア競技はゼウス神に捧げる競技祭として始まったとされる

勝者には勝利の枝(この枝の木の種類は諸説あり)と勝利を示すリボンのタイニアが両腕に巻かれ、ゼウス神官よりオリーブの冠が授与され自身の像を神域に残す事が許された。
競技会は大神ゼウスに捧げられる最大の祭典でもあった。祭りであるので殺し合いは固く禁じられた。格闘技で相手を殺した勝者には、オリーブの冠は贈られなかった。逆に、勝者であれば死者であっても冠が贈られた。

マケドニア王国の人々は、国政が都市国家でない上に辺境に住んでいたため、ギリシア人であるにも関わらず古代オリンピックに参加していなかった。しかし、アレクサンドロス1世は自らの先祖をヘーラクレースと主張し、結果としてギリシア人であると認められ、紀元前6〜5世紀頃から古代オリンピックに参加できるようになった[3]。後にピリッポス2世がカイロネイアの戦いに勝利した際には、フィリペイオンというイオニア式のトロスが献納されている。アレクサンドロス大王がアレクサンドロスと名付けられたのも、ピリッポス2世が古代オリンピックで優勝した年に彼が生まれたので、それを記念し、マケドニア王で初めて古代オリンピックに参加したアレクサンドロス1世から名を取ったという
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AA%
E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF

古代ギリシアにおいて信じられた直接の起源は、次のようなものである。伝染病の蔓延に困ったエーリス王・イーピトスがアポローン神殿で伺いを立ててみたところ、争いをやめ、競技会を復活せよ、という啓示を得た。イーピトスはこのとおり競技会を復活させることにし、仲の悪かったスパルタ王・リュクールゴスと協定を結んだ。オリュンピアの地に武力を使って入る者は神にそむくものである、というもので、この文字が彫られた金属製の円盤がヘーラーの神殿に捧げられた。この円盤はのちに発見された。ただし円盤は現存しないことと、協定を結んだとされるリュクールゴス王が実在したかどうか不明のため、この由来には疑問視する声もある


こうしてエーリス領地内のオリュンピアで始まったオリンピックだが、最初のうちの記録は残っていない。記録に残る最初のオリュンピア祭は、紀元前776年に行われた。古代オリンピックの回数を数えるときには、この大会をもって第1回と数えるのが通例である。勝者はエーリスのコロイボスであった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AA%
E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF

エリスはアテナイ(アテネ)やスパルタに比べてはるかに弱小で、しかも発展の遅れた国であった。だが逆に、大国の意向に左右されず、政治的に中立を保ったということが、かえってオリンピア祭の威信を高める要因になったのである。
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00061.html





オリンピアに行ったけどそこで不思議だったのはやたら神殿の柱となった石の台とか柱の跡が多いのである、それを見ただけでここに壮麗な神殿が建築物があったとイメージできる、体育館などもあったというからオリッピアというと田舎町なのに立派な建物があったそして競技場とかなるとまるで学校の運動会場より狭いのである
こんな狭い所で競争していたのかと意外だった、こういうことはなかなか写真を見ただけではわからないのである
それを見ている観客にしても学校の運動会より少ないともなる
そして回りは田舎であり田園が広がっていたのである
場所はここで説明しているような所だった

古代ギリシアにおいて信じられた直接の起源は、次のようなものである。伝染病の蔓延に困ったエーリス王・イーピトスがアポローン神殿で伺いを立ててみたところ、争いをやめ、競技会を復活せよ、という啓示を得た。イーピトスはこのとおり競技会を復活させることにし、仲の悪かったスパルタ王・リュクールゴスと協定を結んだ。オリュンピアの地に武力を使って入る者は神にそむくものである

今日本でコロナウィルスで苦しんでいる時、オリッピックが行われている、それが伝染病と関係していたとなるとこれも歴史は繰り返すカルマだとなる、ただ競技会に人が集まれば実際は伝染病はかえって蔓延する、でも当時はそういうことを知らないから
再開したとなる

でも観客が20万とか集まったというのもわかりにくい、20万も田舎町に集まったのかただこの辺の野馬追い祭りでも祭りとなる予想外の人たちが集まる
その場所のエリスが政治的中立の場所だった、それがオリッピックを栄えさせたものになった、戦争が絶えない時代だからこそそこに意味があった
そこは平和的中立の場所、スイスのような場所だったのである
とにかくヨ−ロッパとかなると古いのである、紀元前8世紀から始まったというのもそうである、貨幣が流通してすでにすべてが金だとか嘆いていたのも紀元前7世紀とかであるだからその石の観客席の座席が当時のままに残っている

ヨ−ロッパの遺跡はローマにしても石だから今でも残っている、すると歴史を明確に意識するのである、日本だと木だからそういうふうに紀元前とかなると意識できない
何か歴史を意識するときこのように古くなると何か物として残っていないと意識しにくいのである、ローマ帝国の道は今でも残っているし意識する
ギリシャとなるとさらに古いのである
だからオリンピアが田舎でありその競技場は春の花に彩られていたのである
ギリシャ神話がこうして自然が豊かな時代に生まれたのである
ギリシャが魅力があるのはそうした自然がありそこで繰り広げられた人間の物語があり
神話となり魅せられるとなる
そこでヘルダーリンとかバイロンとかギリシャを讃歌する詩人がいたり哲学でも科学でも彫刻でもギリシャが基になっいるのがヨ−ロッパだとなる
何かそこに詩になるもの物語になるもの美になるものがありそうなった

ただ小規模であり田舎の田園の中でオリッピックが行われていた、それがローマのコロッセオとかなると巨大な残酷なショーと化したのである、その相違も大きい
ただギリシャでも時間がたつにつれて神聖な神へのゼウスへの奉納として始まった祭りが堕落して金銭とか賞目当てになった
ただその始まりが人間は何でも神と深くかかわり始められていたのである
日本でも相撲は神への奉納として始まっていた
またマヤ文明とかでも走る競争が行われていてそれも神への奉納だったのである
信じられないことは走る競争で一番になったものは犠牲として殺され神に捧げられた
これも信じられないが神に殺されて捧げられるとしたら一番になりたくないとなるが
実際はそれでも一番になるために必死に走り名誉となり神にその体は捧げられたとなる
神が喜ぶのはこうして若い健康な者であり老体ではないとしてそうなったのである
そういうことは聖書でも「若きうちに神を知れ」と通じているものがあるし神は若者を愛すとかいうのもそうである
人間はやはり若いこと健康なこと価値があり神もそこに価値を認めていたのである
でもどうしても一番になったら神にその体も奉納される、犠牲として捧げられるということが理解できないのである

またオリッピックにはマケドニアは参加できなかった、でも世界征服に向かったアレキサンダーの名が実はオリッピックに由来していたのも興味深い
アレキサンダーにしても紀元前三世紀の人物なのである
こうしてエジプトであれ聖書の歴史であれギリシャでもインドでもその歴史が古いのである
こうしてオリッピックでもどうしてはじまったのか、その起源が何であったのかたずねるとオリッピックの意義を知ることになるが近代オリッピックはまたギリシャのオリッピックとは別なものとして始まったのである
そしてやはりギリシャでも金が欲しいとか賞が欲しいとして堕落したように今のオリッピックはまさにそれと同じであり世界的なものになっても世界的に放送して金儲けすることが目的化したのである

確かに観るスポーツと自らするスポーツは根本的に違う、批判されるのは観るスポーツとなりそれが金儲けのために利用されるようになったことである
それは世界的に同時にテレビ放送されることで普及したのである
つまりメデアの力が大きくなりオリッピックを世界的ショーとして見世物としてアメリカのNBAとかが一兆円もの放映権を払うとかなったのである
それはあくまで世界的ショーとして見せてそれで金儲けしたいだけである
世界的規模にグロ−バル化するとその金も莫大なものになる
そしてどうししてもアメリカとか中国とか大国が優先されるものとなる
政治的に利用されるとなる、だからアスリートにも選手もスパイ活動していたとまでなっていたのがオリッピックなのである


オリンピアに人々は集い競技に熱中する
そのオリンピアは田舎である
まわりは田園であり
訪ねて見れば小さな運動所であった
そこには春の花が咲き縁どられていた
そこは陰惨なコロッセオの闘技場とは違う
穏やかな田園で競技は行われていた
だから勝者にはオリーブの冠をまた花飾りを
そこにただ殺し合いの戦争を休み
人間的な場となり記念となった


posted by 老鶯 at 11:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年07月29日

なぜオリッピックがやめることができなかったのか? (アメリカのNBCの金儲けのために圧力でやめられなかった)


なぜオリッピックがやめることができなかったのか?

(アメリカのNBCの金儲けのために圧力でやめられなかった)



americafirst1.jpg

nbcmoney.jpg

東京オリンピックの開会式、超ヤバイ裏話TOP7【大坂なおみと中国】

日本国内で五輪の中止、あるいは再延期を望む声がどんなに高まっても、NBCユニバーサルにとって、その選択肢はまるで存在しなかったし、今もない。大きな理由はもちろん広告収入。NBCユニバーサルは、五輪の放映で10億ドル以上の広告収入を見込んでいるのだ。だが、それだけではない。実は、このオリンピックは、会社の将来を左右するとも言える大きな使命を担っているのである。自社の配信サービス、Peacockの会員獲得にはずみをつけることだ。

ロサンゼルスタイムズ紙によると、NBCユニバーサルは2014年にIOCと2032年大会まで総額120億ドル(約1兆3200億円)でパートナーシップを結んだ。「同社の五輪報道はテレビ視聴率でライバル企業に圧勝してきた」そうで、S&Pグローバル・マーケット・インテリジェンスのKaganユニットによると、5年前のリオ五輪で、NBCユニバーサルは、16億ドル(約1761億円)の収益を上げ、そのうち広告収入は12億ドル(約1321億円)だったという。

東京五輪にも潜んでいる? かつての五輪では選手たちが「スパイ」として働いていた


なぜオリッピックがやめられなかったのが具体的にわかった
アメリカのNBCが独占して放映権をもっていて一兆円以上金を出している、IOCに出している、その見返りは視聴率をあげて自社の配信サービスの会員獲得のためだった
また菅首相が簡単にオリッピックがやめられないのは国でも3兆円も出していてそれでやめれば損だとなりやめることがてきなかった

こういうことはテレビでは放送しない、今では五輪で日本人の金メダルラッシュでこの裏側の事情など関係なく日本人が熱狂すると視聴率がとれる、そこで宣伝費が入るとなる
NBCで一兆円もIOCとかに出すとなるとその見返りが必要になる、オリンピックは世界中で見るから効果絶大だとなる
そしてなぜ酷暑の時に日本で行われるのか?それもNBCの都合だったのである
なぜならその時バスケットボールとか人気のアメリカのスポーツ番組がないからである
だからその時期にやればみんな見るとなっていたからである
でも今回は視聴率がとれなかった、それで見込みがはずれたとなる

とにかくオリッピックが商業主義の金儲けのオリッピックになったというときこういうことだったのである
NBCで大損になることはアメリカの大損にもなる、つまりアメリカの意向で演出され決まるともなる、だから開会式の入場式でもアメリカは最後の方に出て来た
なぜなら日本のあいうえお順では最初になるとみんな見ないとかあり最後の方にもってきたとなる、これもNBCの都合でそうなった

何かこれはフクシマ原発でも似たことがあった、アメリカのGEが原子炉を売りたくて日本に原発を作ることをすすめた、そしてマーク1という古い原子炉を買わせられたからである、そこでGEと結びついていた福島県の国会議員の渡部恒三の息子がGEち就職していたのである、原発マネーが回っていた、この原発マネーは巨額でありそれはおりり巨額なものになったいた、だからこの金がまわりある意味でモラルもなにも麻痺してしまったとなるこうして地元の議員のボスにもまわり大熊町長の5億円入った金庫が津波で流されて探してくれとか頼まれたとかある、その真意はわからないにしろそれだけの金がいろいろな利権者に流れたということである
それは事故後も今度は何兆円とんう除染費用が相双リテックの幹部に報酬として何億円とか流れた

そして事故になったとき東電ではお手あげになり放射線を測定したがそれはまずアメリカに報告したのである、日本の政府ではなかったのである
それだけ日本では原子力発電の技術が遅れていてどうしていいかわからなくなっていたのである
このオリッピックマネーでも原発マネーでもその流れを見るといかに金によって支配されているかわかる
それはただ巨大な世界的ショーでありアスリートはその駒にすぎない、何か崇高な世界平和のためだとか人権だとかいろいろ言ってもそれは表面的なことにすぎなかったのである
こういうことがわかると何かオリッピックに熱中すること日本が金メダルラッシュで騒ぐのもただこうした裏の人たちの金儲けのために踊らされているだけだったのかとなる
サッカーであれ野球であれ他の種目でもプロの競技ならそれは責めることはできない
何かオリッピックは美名のもとに行われている、それが実際は裏の利権者の金儲けのためだったとなる
何か世界平和とか人権とかを看板にしているがその裏ではそういうことはなかったのである

いづれにしろオリッピックでも今度は中国マネーに支配されるというとき大国の政治的宣伝のためだともなる、今はアメリカがそうなっているのである
アメリカに金が流れ込むのは覇権国になっているからである
覇権が中国に移れば中国に金が流れ込むようになるのである
覇権国には金が流れるこむ仕組みができあがるのである
現代は複雑な社会でありグロ−バル化しているから余計にわからない、でももし金の流れを明確化するとその悪でも見えて来る、可視化されるのである
とにかく巨大なマネーが流れる時、その悪も巨大になるのである
そして常に背後には隠然として覇権国のアメリカがいて逆らえないとなる、次の覇権国は中国になると中国に逆らえないとなる
WHOがまさに中国の金で支配されていたのと同じである、オリッピックは欧米資本が支配している
そもそもオリッピックのはじまりもうさん臭いのである、ヨ−ロッパの貴族が始めたものであり世界平和とか人権とかとあまり関係ないものだったのである
posted by 老鶯 at 22:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

国家的事業の決断は慎重にすべきだった (オリッピックの金メダルラッシュを喜べない)


国家的事業の決断は慎重にすべきだった

(オリッピックの金メダルラッシュを喜べない)

東京五輪の国民1人あたりの負担額「都民10万3929円」「国民1万408円」

「これまでに費やしてきたお金と時間を考えると、簡単には引き下がれない」という行動経済学の「サンクコスト(埋没費用)」の回収にこだわっているからではないだろうか。

大事業を計画して始めると途中でやめられない、莫大な金もかけているしせっかく作った施設も利用できないとかなりやめられない、何か引き返すとか途中でやめることが個人的にもむずかしい、せっかく苦労して来たのだからとか何か引き返せない
だから国民的大事業となると一旦決めて始めたことはやめることができなくなる
戦争もそうだったというときそうである
戦争を決めた時点でもうやめることができなくなり結果的には三百万人が死んで犠牲になったのである
何か戦争する前は一方的ではなく不安があった、マスコミでも批判していたが一旦戦争がはじまるともうそういう批判はなくなり突き進んで行くだけになった

原発でも本当は内心地元の人でも不安があった、放射線被害のことでもわからないにしろなんとなく不安があった、核のことなどわからなくてもなんとなく不安があった
何か科学がわからないにしろなんとなく不安だというのが人間にとって大事なのかもしれない、それは命にかかわるからである
それで津波でも海は怖いとか言う人がいた、それはなんとなく海は怖いということを感じる人がいた、まして海岸沿いに住んでいる人はなんとなく不安を感じなかったのだろうかただそういう感覚が麻痺してしまったのだろうか?

トロイの木馬にしてもあれなんなのだと不安があった、そんなものを引き入れるなとかあった、でも引き入れてしまったのである、内部には兵が隠れていて責められてしまった
原発でも何かそういう不安があったのだ、安全神話が作られて常に「安全、安全」が言われた、その裏返しがそれを運営する科学者技術者でも不安があったからだ
おそらく技術者でも何か不安をもっていた、それを打ち消すために「安全神話」が作られたのである

動物には何か危険を察知する機能が本能的についている、また生物なら人間でもなんとなく不安だとか危険を未然に察知するものが備わっている
第六感というものがある、それは女性が敏感である、何か直感的に人を見抜くとかある
それは女性が弱いから本能的なものとして備わっている
ただ人間はこの第六感的なものが文明化して失って機械とか科学とかにまかせる頼るようになった

津浪でも海の水が川の水が退くとか前兆があった、その時これはおかしいと察知して早めに逃げれば助かったとなる、ただその時間があまりにも短いから逃げられないとなったのである
人間は鳥のようだったら何も持っていなければ逃げることができる
人間は家でもなんでもいろいろなものを持っているからすぐに逃げられないのである
この時は逆に家が足かせとなって逃げられなくなっていた
不思議なのは私は津波の前でも津浪が来た地点は田んぼであり家がぱらぱらでありそこでなぜか波にもまれて流される夢を何度も見ていたのである
その場所まで津波が来ていた、だから夢は何か危険を告知するものがあったのだ
ただ今はそういうことは迷信とかなんとて否定される科学万能社会になった
結果的に何か機械に科学に頼り過ぎてそれがかえって危険を察知できなくなるとなる

人間でもこの人ヤバイなと直感したときは近づかない方がいい、君子危うきに近寄らずとなる、ただ不安ばかり言っていると冒険ができなくなる
ここでは国家的大事業のことであり個人的なものではない、戦争するにも大丈夫なのか
アメリカはどんな国なのか、アメリカなどたいしたことがないとか吹聴されると知らないのだから信じる、夜朗自大国になる、漢などたいしたことがないと見て負けたのである
それは相手のこと敵のことを知らないからそうなったのである
「敵を知り己を知れば百選危うからず」である

その敵の正体がわからないとき負けるとなる、コロナウィルスでもそれが未知だから対処できない、科学者でも対処できない、不安なことは確かでもどれだけの脅威なのだかわからないからである、すると不安を言う人は不安をあおりたいしたことがないという人は恐れることはないという、そこで二つに意見が分かれて判断しにくくなる
ただ確かなことは一旦決めた国家的大事教は途中でやめることができなくなる
戦争でも原発でもオリッピックでもリニアでもそうである、莫大な金と労力をつぎこんでしまっているからやめることができない、その見返りが欲しいとなるからだ
だから大事業の場合はよほど慎重に検討して決めないと引き返せなくなる

ただ戦争でも原発でもオリッピックでも始める時意外とそうして国民全体で議論すらあまりしないのである、その理由は利権がかかわり利益になるとなると目の前のことしか見えなくなる、原発でもオリッピックでもそうである
とにかく利益になるということで一部の者の利権者がすすめるのである
つまり目先のことしか人間は見ない、先のことを見ないのである
また見えないのである、だからなんでも急いで決めるのは良くないともみる
十分に検討してからやりましょうというのがいいのかもしれない、戦争も急いで決める必要もなかったし原発でも十分に検討してから作ることを決めても良かった
湯川秀樹博士が日本では原発を作るのはまだ早いと言っていたからである
それで古い原子炉のマーク1をアメリカから売りつけられてそれも事故の原因になったのである

いづれにしろ国家的大事業はよほど検討して慎重にしないとその被害が戦争のように三百万人死ぬとかなる、そういうことがあるとなると簡単に決めて実行できないとなる
ただその時も日本が勝つということしか見えていないのである
負けるということを想定しなかった、神国神話がここでも作られていたからである
原発の安全神話とにたものだったのである、日本は強い優秀だから勝つとしかなかったのである、つまりそこに奢りがあり負けたとなる

今度はオリッピックのメダルラッシュとかでそっちに国民の眼がゆきコロナウィルス対策がおろそかになる、でもマスコミは視聴率をとるためにそうしているという
それはマスコミは常に新聞でもテレビでも視聴率第一でありそれで稼ぐからそうしているというのもわかる、商売だからそうなる
戦争のような危険なことでも商売だからあおったとなると怖い
常識的にどうしてもこんなときにオリッピックをして日本人が金メダルをとったからと心から喜べないのである
コロナウィルスで疲弊している人たちも多いからである、まるでそういう人達のことを忘れさせるためにしているのかとなる
だからもともとオリッピックはすべきでなかったのである
それはアスリートのためにも良くないものだったのである
別に普通だったら国民みんなでメダルラッシュなら喜んでいたからである
それが得られないとなるとアスリートにとってもいいものではないとなるからだ

急(せ)いては事を仕損じる

これがやはり教訓だったとなる















posted by 老鶯 at 08:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年07月28日

家と死者(死者は家に生き続ける)

家と死者(死者は家に生き続ける)

fullmoon111.jpg

weeklygendai1.jpg

週刊現代7月27日号


のうぜんの花が火炎のように
蔦は伸びて這い我が家を飾りぬ
二階の広間より空遠く星はきらめき
姉の眠りし広間に我も眠る
夏の月が明るく輝き姉はおおらかに笑いぬ
姉と母と我はこの家に60年は住みぬ
なほ二人はここにあるごとし
この家を離れず我とともにありぬれ
姉の眠りし処我は悠々と眠りぬ
死すともこの家を離れざるかも
重々しく父の遺影は家にあり我を見つめり
兄はこの家にあれど受け入れらず
早死にして我が墓地に供養する
家はつつまれおおわれ安心する場
猫も箱に入りて安心するごとく
そして家は死者も住みつづける場所
愛し合う家族は今も家をみて住み続ける
その共にする歳月の長くあればなり


人間はそこで自然の空間の中に根をおろし空間の中の自分のすべての関係がそこへと関連づけられている、そのような中心を必要とするのである

家屋に住むのには一人の人間では不十分なのである、ひとは何人かの人と住まうのであるつまり家族の中で、「自分に属する者たち」といっしょに、しかし(他の人々と)と見知らぬ人々とから離れて、住まうのである

人間の生活の中で家屋は諸々の偶然の出来事をしめだしている」落ちつくこともなくあてもなくさまよう逃亡者の生活と違って、家屋は生活の中でのより深遠な恒常性を可能にする持続的要素なのである

「家屋は夢見ることを守護し、家屋は夢見る者のまわりに囲いをめぐらし、家屋はわれわれが平安の内に夢みることを許す」

生は快くはじまる、生は包まれ囲まれ家屋の懐の中で本当に暖かくはじまる
(人間と空間ーオットーフリードリッヒ・ポルノフ)


家というものを語るにしろ尽きないものがある、この本はそれを語っている
家とはそれだけ人間に影響するし精神にも影響するからそうなる
家とは単なる建物ではない、だから何か一人で大きな家にいるとがらんとして家が活きないのである、家とは何人かで住むのが家だからである、それが家族となる
そして家の不思議は一緒に住んだ家族が死んでも家に住んでいる、または家を外から見ているのである、死者は家から離れないのである、それは家が人間の生の根源的なものもっているからである

家で愛が育ぐくまれ、家は安心する場となる、ただ別に家が理想とはならない
何か家族でもそれぞさ複雑なのである、私の家も複雑であり他人には理解不可能な家族だった、ある意味で憎しみ合う家族でもあったからだ
ただなぜ自分がこれほど家にこだわるのか家族にこだわるのかというとやはり60年とか長く一緒にいたからである、姉にしても子供の時から一緒にいたからである
その長い歳月が家族を作ることになったのである

それで肉親でも母親でも一緒に住まない人はその期間でも短い人は家族の感情をもてないのである、特に子供の時一緒に母親と生活しないと家族の感情をもてないのである
そのために5歳まで実の親と一緒にいてもその後は分れた母を子供は母親と思っていないのである、他人に過ぎないのである、だから母親の金を欲しいしかない、その母親がそうして別れた娘を頼ってことが悲劇である、その娘は第一全く母と思っていないからであるでもその母親に頼らざるをえなくなったからだ

つまり一緒に住んでいいなからそうなったのである、だから実の母親でも子供の時一緒に住んでいなければ母とならないのである
そして親でも若い時に嫁いだり別れて暮らすとまた家族という感覚から離れてゆく
その理由は一緒に生活を共にしないからそうなる
変なのだけど例え憎しみ合っても長く一緒に生活していると家族になるのである
憎しみ合っても家族だとなるのである、自分の家族にはそういうことがあったからだ
それでわからないのは長年一緒に生活をともにした夫婦の熟年離婚なのである

なぜそう思うかとなると人間にとって時間が一番大事だからである
共に生活する時間は短いからである、一人の女性と結婚して生活を共にする時間でも限られている、だから結婚する相手を変えることは簡単にできない
生活をともにして時間の中で愛も育まれるからである
だからこそ長年一緒に生活をともにして熟年離婚は大きな損失だと見る
なぜならもう他の女性と一緒に生活する時間がなくなっているからである
人生をともにするということは実際は限られた人生の時間をともにするということになるそんなに何人もの人と時間をともにできない、使えないからである

ともかく人間はかえって家族が死んでから家族を意識する、私自身がなぜこんなに死者を意識し家を意識するようになったのか不思議だからである
父は早く死んだけどやはり重々しく遺影があり存在する意識するようになった
姉が死んでその広間に私が寝ているがそこで姉を意識する
外には夏の月がかがやいている、姉は大らかな女性でありその性格でいやされていたからである、母は脇役であったが母もやはり一体となり生活していたのである
つまりその時自分は恵まれていたのである、食事の用意でもなんでもしてくれたからである、今や全部自分でしなければならない、それで時間がとられるのである
ただ人間はつくづく死んでも死者は依然として生きている、残された人の中に生きている家の中に外からまた家を見て生きているとなる
人間は死んだからといって簡単に消えるわけではないのである
ただそれはやはり長く生活をともにしたということからそうなっていたのである

人間の生きる時間は限られている、それは何をするにしてもそうである
人との出会いであれ何をするにしても時間が限られている、何かする時間はたちまち失うのである、そのことが一番みんな後悔している、時間は永遠につづくと思っているからである、時間とは極めて限られた時間しか与えられていないのである
でも人生でその貴重な時間のことを思わないのである
だから膨大な時間の無駄をしているのが人間だとなる
そしてもう体験する共に生活して分かち合う時間がなくなるのである

死んでも遺された人に死者が現れるのはやはり双方に愛があるからだともなる
死んでも愛が通じあっているから現れる
でももし何か恨んだりしていたら死者は生者に現れない、それで介護の時冷たくしたりするとあなたは私に冷たくしましたね、私はあなたを恨んでいますとかなると現れないとなる、現れたとしても恨みとして幽霊のように現れるともなるから怖いのである
私の場合介護でいろいろあったけど死者は恨んだりしないからまだ愛しているから現れるとなる
ただ生前でも肉親でも子供親を恨んだりしている人は普通にいる、ひどい目にあったから恨んでいるとかして墓参りすらしないとかある
だから生前のことが相当に死後も影響しているのである
だから人間は死で断絶しているようでしていない、継続しているとなる








2021年07月27日

福島県相馬市の主婦の女性(56)。はじめてのダイビングで死ぬ (私の海外旅行もかなり危険だった)


福島県相馬市の主婦の女性(56)。はじめてのダイビングで死ぬ

(私の海外旅行もかなり危険だった)

宿毛海上保安署などによると、福島県相馬市の主婦の女性(56)。夫と2人で訪れ、ダイビングショップのボートで沖に出て深さ3〜4メートルの海底に潜っていた。ダイビングは初めてだったという。

相馬市の主婦の女性(56)でダイビングで死んだ、はじめてダイビングしたという
でもインストラクターがついていたのである
私も50歳代で海外旅行して紅海でダイビングさせられた
自分は泳ぐこともできないのにやれやれと言われてしようとしたが海にくぐることもできずにやめた、でも何か海外だとそういうことを気にしないから怖かった
とてもやれないのにすすめることも怖かった

この場合には日本人だったしインストラクターもついていのに事故になった
問題は初めての主婦が56歳という年だったのである
これは非常に危険だったのである

そもそもなぜそんな歳ではじめてでもダイビングさせたのか?

もしかしたら観光のために金をとるためにすすめたのかもしれない
安心ですよとしてすすめたのかもしれない、何か金のためなら危険なことでも知らなくても進めることか今は多いからである
銀行とかでも株を進めたりするのとにているのである
それでもはじめて56歳でダイビングをすすめるのは問題があった
確かにダイビングを自分もしていみたい、海の底を見てみたいと思ったが全くの無経験だし海が怖いしまず泳げないのだから無理だと最初から思い込んでいたから一旦ダイビング用の備えをしたが海には入らなかったのである

とにかく海外旅行も事情とかわからないので危険があった
大きな失敗があった、ロシアでも大失敗した、鉄道の写真を撮っていたら警察につかまり尋問されてひどいめにあった,スパイと思われたのである
ロシアは一人旅などできる国ではなかったのである、だから無謀だったのである
ただ若い時なら無謀も許されるが50以上すぎたらやはり海外旅行とは危険である
ここでは国内でもこうしたことが起きた、何か理由はわからないが観光で金を得るためにそうしたのなら問題である
今は金をとるために何か危険なことまですすめるとなるからだ

でも日本だと意外と慎重になるから詳しいことはわからない
それでも50代で海外旅行したことは今になると役に立っている
実地にはじめて外国を知ったので役に立っている
その時行かないともう行けなかったからである、だから時間がいかに貴重なのかわかる
時間はたちまち過ぎて飛んでゆくからである

いろいろな体験を積むことが後の宝となるのである、金があるとかでもないことがある
その時海外旅行のことなど私は全くわからなかったのである
それで最初に行った韓国ではハングルがわからないのでどうしていいかわからなくなったそこで滋賀県の大津の人に助けてもらったのである
その人から年賀症が来るがまだ返事をだしていない

あの時はお世話になりました

このプログを読んでいたらお礼しておきます

人間は危険がつきものである、海外旅行は今はどこでも観光化しているから意外安全なのに驚いた、ヒマラヤでもそんなとこに行けないと思ったがガイドが安く使えるからついていけばいいのだから楽だったのである、ただ体力的に苦しくなって一時寝たことがあったでも3000メートル級なら観光ルートで誰でも行けるようになっていたのである
だから現代は海外旅行はどこでも観光化しているから行ける
それでもこうして国内ですら危険がある、海外だとそれ以上に危険なことがある

そうはいっても人間経験したことは宝になる、思い出して詩とか書いているからである
これが実地にその場を踏んでいないと詩でもそもそも理解できないのである
何か深く理解するのは後になってからでありその場では海外になると理解しにくい
そこはそういう場所だったのかとか歴史などを勉強して理解を深めることができる

しかし私はもう国内旅行すらできない、近間を回るだけで精一杯となる
ただ回想する旅をつづけているのである、それも一回でもその現場を実地に踏んでないとそういう旅もできないのである
でも時間はたちまちに過ぎてしまう、金があっても時間がないとできない
十回もヒマラヤに行っていた人には驚いた、一人で行っていたのである
私もヒマラヤをもう一回くらい見たいと思ってもできない、海外旅行は疲れる、体力も必要である、海外旅行でも登山でも若いうちにしていないとできなくなる
その体験したことが貴重になる、人間は本当に体験するにしてもわずかのことしかできないからである

カンボジアに50万ももっていって旅行したのは馬鹿だった、東南アジアはその時安かったしカンボジアは最低だったからである
女性が5ドルで買うとかできた、ただ自分は関心がないから関係しない
泊まった宿は5ドル以下だったのである
こうしして外国のことを知らなかったのである、そこは貧乏旅行者でもできた
なぜなら為替の差が大きかったからである、カンボジアとかネパールとかベトナムは今でも最貧国になっていたからである

いづれにしろ今回の事件は国内だからありえないと思った、でも何か観光の金稼ぎのために相手をのことを良くみずに進めたのかともなる、ただ事情はわからない
南相馬市の人だったということにびっくりしたのである


posted by 老鶯 at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

地銀、ゆうちょ、農協、信金などの破産危機の恐怖 (地方の安定を奪うことに)


地銀、ゆうちょ、農協、信金などの破産危機の恐怖

(地方の安定を奪うことに)


localbank11.jpg

地銀とか農協とか信金とかでもなぜ地方でこそ問題になるのか、それは地域と密着している金融機関だからである、また有力な安定した就職先になっていたからである
それは丁度公務員になると同じて安定していたのである
だからたいがいそこに就職すれば田舎でもそれなりの生活できる田舎の貴族だともなっていた、また地域の人は必ず地銀でもあれゆうちょであれ信金であれ貯金している
それでバブルで日本経済が高度成長していたときは7パーセントもの利子がついていたのである、つまり貯金していれば安心して生活できた
だからこそその頃みんな貯金に励んだのである
そこで今金を持っているという老人の九割は貯金している

投資に回せない、というより投資ということをしてないからわからないのである
それが老人になって投資をしろとか。すすめられてもわからないのである
それで地銀とかゆうちょでも経営が苦しいから投資信託などを売りつける
これも素人には仕組みもわからないし結局だますための商品としてアメリカの大銀行が作ったものである、その仕組みを作った人がハーバード大学出の人だったか良心の呵責になやまされてやめたとうかある
それは素人にはわからない詐欺商品だったのである
それはゆうちょの保険でもそういうことがあった

地銀でもゆうちょうでもなぜ苦しくなったのか?

それは日本経済が衰退して貸し付ける会社が減少した、金があってもその金を活かせないのである、金を借りて事業をする人がいなくなったのである
高度成長時代はいくらでも金を借りる人がいた、事業をする人がいた
その時また投資することは見返りがあった、事業を起こして成功する人が多かったからだとなる、今はそれがないから金があっても増やせない、そうなると金融業も何でも儲けていいかわからないので株式とか投資信託になり地銀はすでに証券会社の子会社のようになっているのだ

証券会社の指導のもとに地銀で信用を築いている地域の家を回るのである
でも証券とか株とか投資信託とか地方の老人はわからないのでしる
だからもうかるとか言いなりになり損するとなる
ただ別に客が損しても地銀とかゆうちょは手数料をとるから損することはないのである
だから前のようにゆうちょとか地銀は地方での安定した職業であり信用されていたという地位から脱落したのである
地元の客でもだましてもうけるとかみられる、ただそれはゆうちょとか地銀だけの責任ではない、日本全体の経済の衰退がそうさせたからである

ただ地方の人にとってもこれは困ったことなのである
地銀が証券会社になることは地方の人にはなじめない、老人でもそうである
でも様々な形で日本経済の衰退が地方にも押し寄せて来た結果なのである
地銀とかゆうちょとか農協でも何か地元の人が経営してそれは同じ地域に住んでいるのである、するとそこで何か詐欺のようなことをして客をだますとなるとその地域の信用も喪失する、、金融機関となると信用が第一になる、だからこそ信用するからこそ投資信託でも株でもすすめられれば買うとなる、そこに信用かあってこそ買うとなる

それが崩れた時どうなるのか?

地域での金融業が成り立たなくなるのではないか、詐欺をしているように見られるからだそれは前のようにただ貯金していればいいという時代ではなくなったせいもある
だから地銀でもゆうちょでも農協でも変革しなければならないというときそれも簡単にはできない、そのことは地銀とかゆうちょだけの問題ではない
地域の人は安心して金をあづけているし利子もついていたからである
それがなくなるとき今度は預金封鎖だとか騒がれるとき安心して生活できないとなる
ただ金融というとき金融で金でせかいを裏でロスチャイルドとかロックフェラーが支配しているというとき金が貨幣が紙幣が人間を支配できるという構造がありそうなる
それは紀元前のギリシャ時代からそうなっていた、そもそも貨幣を使うということ自体に不公平が生まれていたからである

物と物を交換するならそこに公平があり社会を金で紙幣を使う時そこに実際は矛盾が生まれて人間支配の道具となったからである
だからそういう仕組みがある自体この問題を解決しない、金の代わりに物品で供給するとかなれば解決するかもしれないがそれもできない
江戸時代辺りは近辺だけの経済でありそういうことはなかったのである
貨幣を使っていたとしても現代のようなグロ−バル経済とは違う地域経済だったからである、狭い地域での経済だったからである、基本は自給自足であり金にそれほど依存していなかったからである
広域グロ−バル経済になるとまるで違ったものになり金の力が百倍にも千倍にもなったからである、それで世界を支配できるとまでなってしまったからである

ただ地銀でもゆうちょでも中小企業でもつぶしてゆくというときグロ−バル化経済で世界が一部の者たちに支配される、それがロスチャイルドとかロックフェラーだとかなる
それはわからないにしても金融によって金によって紙幣によって世界が支配されるというのは確かなのである
日本がなぜ貧困化したかというとき製造業の衰退もあるがグロ−バル化して一部の金融業者に世界銀行とかにより実体の富が奪われているということもあるとされる
金は金融業は銀行でも世界を支配する強力な道具だからでしる
でも資本主義は投資とういうものを理解しないと分らないのである
それで実際に投資してみることが資本主義を実感することになる
貯金していただけではわからないものだったのである、でも高度成長の時代は投資のこと株のことをわからなくても良かったのである
第一大学の時経済学部の教授が株だけはするなと言っていたことがおかしいとなる
そしたら資本主義のことが何もわからないとなるからだ
それも時代の差だったとなる、その時は素人は投資のことを知らなくても良かったからである

いつれにしろ農林中金の金融機関でもアメリカの訳のわからないブラック会社のジャンク債に投資しているとかで大損になるとか言われる
その影響は地方の真面目に農家でも貯金していた人にくる、虎の子の貯金が損失になり消えるともなるからグロ−バル経済というのは実は地方の関係ない人もまきこんでいるのである、高度成長時代はそういうこと全くなかったからである
こうして地方の生活も安定していとなると安心して暮らせないともなっているのだ
そしてグロ−バル経済でこうして衰退すると今度は日本自体が土地でも今度は中国に買われるとか外資に買われるとかなりすでに日本は植民地化されていると指摘される
福島銀行と合併した証券会社のSBIは外資だからである
銀行だけではない、日本がの土地でも会社でも買われてゆき、戦争しなくても経済的に植民地化されているというのもわかる
ただこういうことは眼に見えて理解できないから困るのである
オリッピックにしてもやはり一部のオリンピック貴族の利権のためにされていたことが判明した、おもてなしされたのは二百万円のホテルに泊まったというから国賓並みの待遇だったのである、そこで日本の金が奪われているということもあった

ともかく日本経済の衰退は津波や原発事故やコロナウィルスとか様々なことで起きているそれが地方の経済にも深刻なダメージを与えている、それが地銀とかゆうちょとか農林信金などの金融業が危機にひんしていることなのである
そこは地域で最も信頼されている生活の要ともなっていたからである
それでおぱあちゃんが投資信託を買わされて2000万損したとか話題になる
そういう所が失われてゆくことはその影響は地方に生きるものにとって大きな影響を受けるのである


posted by 老鶯 at 11:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年07月26日

アートとは医療用語だった (語源をたどるとわかる原義ー医者は病気を診ても人間を診ない)


アートとは医療用語だった

(語源をたどるとわかる原義ー医者は病気を診ても人間を診ない)




アーツのもとになったアルスは「人の手でなすこと」であり、サイエンスのもとになったスキエンティアは「知ること」である。前者は「学問」という意味もあり、後者は「学識」という意味もある。ではアーツ・サイエンスとは何を指すのだろうか。最も一般的な解釈は、アーツは人文系、サイエンスは自然科学系を指している、というものだ

多くの人文科学および自然科学の支えがあることを私たちは忘れてはなりませ
ん。哲学,宗教学,心理学,生物学,免疫学あるいは物理学,化学,数学さらに工学というように,多くの科学に支えられて医学・歯学は発展して参りました。

「アートとしての医(学)」という題で書いておられるわけであります。その論
説のはじめの数行を紹介いたします。 「医(学)は単一のサイエンス(科学)ではな
い。いくつかの科学に深く根差した学問である。かつその科学の手だてを人間の幸せのために適用する義務を課せられた知的専門職(a learned profession)である」,こう書いておられるのであります。


英語 architect(建築家)+-ure(もの)→arkhi-(大〜)+tekton(建築者)→tekhne(技術)→tek-(作り出す)が語源。「建築家の製作物」がもともとの語源。archangel(大天使)と同じ語源をもつ。

技術(tekhne)の知識体系(-logia)、体系的な技術」がこの単語のコアの語源。

tekhnologia(文法の体系的な扱い)→tekhne(技術)+-logia(知識体系、研究)→tek-(織る)が語源。

ideology(信念体系)と同じ語源をもつ。




artという言葉が気になった、芸術家となるとアーティストとなるからだ、でもその語源をたどるとアーティストとは「人の手でなすこと」であり医学から発して建築へと意味が拡大化した、その基本に「人の手ですなすこと」にあった
tecでも織るということは織物を手で織ることでありやはり手を使うことである
つまり人間は必ず何かを作ることは手を使うことであり仕事することでもそうである
だから建築でも手を使うことでありartに通じている、ただarchはアーチでありそれが建築の要となるのでそうなったから違っている
でも人の手を使うことでは似ているのである

そもそも大工とか見ればわかる、必ず手を使うのであり手の仕事なのである、機械がない時代は人間の手で作り上げていたからである、それがなぜ医療でもそうだったのか?
やはり人間を病気でも見る場合は手を使って触ったりして診たからだとなる
問診とか今でもある

会社によってはテクニカルディレクターとよぶ場合もある。テクニカル(技術)関連の仕事を担うプログラマやエンジニアと、アート(芸術)関連の仕事を担うアーティストとの橋渡しを担当する役割のこと。プログラマやエンジニアの思考と、アーティストの思考のちがいを理解し、両者が抱える問題を解決するための方法を提案する。機械的な作業を自動化・効率化するためのツールを開発することもある

私の抽象画はまさにこれである、絵の才能が全くないのにテクニカルなものとしてインタ−ネットにあるも画像をまた雑誌の画像などをコンピュターで処理してテクニカルに作り上げているだけだからである、それはテクニカルなものでありそこに私自身の才能はないのである、ただコンピュターのテクニカルに処理したものを選んでいるとはなる
それで大量生産できるのは全く自分の才能ではなくテクニカルににコンピュターで自動的に作り上げているからだとなる
artが技術だというときまさにそれを実感したのである

ただ医療が医学がアートだとは思わなかった、アートというときどうしても芸術家となり画家とか作家と音楽家とかをイメージするからである
アーティストがまさか医者もそうなのかと意外だったのである
要するに人間の歴史をたどると職業でも学問でも様々なものに分化してその成立ちがわからなくなった、それで言葉でもその意味するところが不明になったのである
だからその語源を探るとかそのオリジナルなものが何かから知ることが大事なのである

またしきりに医者が病気を診るより人間を診ることだしているがそれは宗教とかとも通じている、病気ではなく人間を全体を診ることに通じるからである
糖尿病の人は半年も入院したとかしてもう病院には入院しないというのもわかる
病院は牢獄なのである、医者や看護師は監視員なのであり服役者は絶対服従になる
でも嫌になり入院しろと言っても入院しないという、家の方がいいとして在宅医療をししている、それでかえって回復したとしている
このようなことが老人にはあり病院ではかえって悪くなるのである
そういうことを自分も嫌というほど経験した、看護師に虐待までされたから病院は刑務所と同じだと思った、そこでは人間は診ないのである
病院にいるのも嫌だとして病院から脱走した人もいる、その気持ちもわかる
私自身も脱走したかったができなかった、そこは刑務所だから簡単にできないからである

とにかく医療でもその歴史をたどるとわかるものがある、その成り立ちをたどるとオリジンをたどるとわかるものがある、まずは人間を診ていたのである
病気だけではなん人間を診ていた、だからもともとは医療は宗教と深く関係していた
なぜ宗教の信者が過去にあれほど増えたのかというとほとんど病気になったとき神仏に祈る他方法がなかったからだ、それで村の中心には必ず薬師堂がある
あとは地蔵がありその地蔵も眼が悪いの直すとか腰が痛いのを治すとか様々な人間の悪い所を担当していたのである、だから信仰といっても実は病気を治すものとして大衆化したのである、キリストでも奇跡で病気を治したことで大衆化したのである

会津でも仏教が早くから広まったのは医療のためだった、病気を治すものとして広まったのである、それが明治以降は医者が病気を治すものとなったのである
でも今でもカルト教団でもやはり病気を治すために入る人が多いのである
それだけ病気は深刻なものだからまだ直らない病気があるからそうなる
江戸時代の医療が医は仁術というときやはり人間を診ていた、それは科学技術が発達しないから直せないとういこともあった、ただ貧乏で医療費が払えない時、免除するとかあった、医は仁術だからそうなったのである
逆に明治以降は西洋医学が入ってきて科学技術が全面に出てきてかえって人間を診るということが減少したのである、病気そのものを診て直すことが医療の目的と化したからである、だから高価な機械でも欠かせない、患者でもそうした機械があれば直るともみるからである

いづれにしろ人間は様々なパーツに分化してその基が不明になった、その元がなんであったのか不明になった、それで語源を知るとそういうことから発していたのかと理解する
医学にしてもこれは総合的なものであり体の一つの部位だけを治すとかではない、人間そのものを診るということが基本にあった
ただ医は仁術とかだから金がなくても診てやるとかその人のことにかかわる悩みや問題を相談されると医者も大変だとなる、それは切りなくなるからだ
人間はそれぞれ様々な問題をかかえていてそれをいちいち聞いていたら聞く方でもたない限界があるからだ、だから医は算術ともなったのである

医者も金になるとして割り切り他のことにはかかわらないとなったのである
そして医療関係は何か非情な世界になった、医療技術は発達しても人間は診ないのである
養老孟司氏によると本人が来ているのに本人を証明するものをもってきてくださいと言われた、これはおかしいと言っている、本人がそこにいるのに本人を認める証明書を運転免許証でも持ってきてくださいと普通に言われる
それを普通には疑問にもたない、もう本人を本人がそこにいても認めない、何か証明するものがあって本人と確認する、データーがあって本人と確認する
データーの方が重要なのである、現代とはデーター社会なのである
すべてがデーターとして管理して数字として管理する社会である、肝心の本人がそこにいても本人を認める書類がないと認めないとなっているのだ

そして議員の人でも病院で番号で呼ばれて怒っていたというのもわかる
まして普通の人は番号と数字にすぎないのである、一人の人間とはみられないのである
数字として処理される、データーとして処理されるのである
だからこそナチスが生まれたとなる、ただ人間は数字としてデーターとして処理される
そこに生身の人間がいてもそうなのである、一人一人の生身の人間は診ない、、データーとして数字として診るだけなのである、それで医は算術ともなる、金の計算もデーターとして人間を診るからそうなる、だから人間は数字としてデーターとして処理されるだけだとなる、病院の死でもそうである、生身の人間が死んだより一つの数字として処理される機械的にに処分されるともなる、それが家族に家で死ぬのとは相当に違うのである
だからみんな病院で死にたくないとなっている、医者は病気を診ても人間を診ないからである

2021年07月24日

オリッピックがなぜ意味がなくなったのか? (グローバル化によって失われた文化の価値)


オリッピックがなぜ意味がなくなったのか?

(グローバル化によって失われた文化の価値)

オリンピックに200か国も参加しているのには驚く、東京オリッピックでは90か国だった
知らない国が小国が多い、そんな国があったのかと見る
ただ民族衣装を着ているとそこにバラエティが生まれ文化を感じる

ただオリッピックでは文化を感じない

オリンピックとは唯一世界中の国が集まる祭典でも文化を感じないのである
それはなぜかとなるとスポーツとはグローバル化したものであり世界共通のルール化して競技が行われるからである
ただスポーツでも文化はあった、その最たるものが日本の柔道なのである

「精力善用」とは、そのような柔道の持つ力や理念「柔よく剛を制す」(柔弱な人が強者に勝つ)を使って、相手をただ倒したり、むやみに威圧したりするために使うのではなく自らが持つ柔道の力を、自分の周りや社会のために善いほうへ用いることを教えてくれる言葉と言えるでしょう。

日本は必ず何でも道を追求する、職人でも職人道があり刀を作るにも潔斎して身を清めて精進して神に祈り最高の物を作るように励む、だから必ず職業でもそれぞれの分野の道を究めるものとなる、そこに日本の文化があった
何かただ利益を得るというのではないものがあった、だかさ商人道もあった
近江商人の三方よしというのもそうだった、武士道などもそうである、必ず道が後ろにつくということは道を究めるものとして職業もあったからだ
日本人は仕事を重視するのは働くことを重視するのは仕事を通じて職業を通じて道を究めるということがあったからだ
だからスポーツの語源が気晴らしとなるのとは相当に違う、スポーツは気晴らしということはとても道を追求するようなものではない、息抜きであったとなる

ただスポーツでも文化と関係ないかというと関係があった、文化の意味がcultureでありcultivateが耕すが語源となっていることでもわかる
その土地を耕すという時、農業だけのように思っているがスポーツでもそうだったのである
イギリスでなぜゴルフが生まれたのか?まずイギリスの風土を見ればわかる、丘が多くなだらかでありまるでゴルフ場にもなっているからである
天然の場がゴルフ場だからゴルフが生まれて当然だともなる
日本の様な急峻な山だったらそんなスポーツが生まれないからである
だからスポーツにも文化があるとなる、欧米のスポーツがほとんど組織的なものとしてルール化したのも模擬戦争ともにているのである
逆に日本人の武道は個人対個人なのである、日本には個人がないとか個性がないとか言われるけど武道に関しては集団的ではなく個と個であり一対一でありそこで武道を究めるとなる

スポーツさえ文化だというときなぜオリッピックになるとその文化でも失われるのか?

それはグロ−バル化すると文化は喪失する、どうししても一律のルールに則らないと公平にならない、そして勝ち負けだで判定する、でも日本のように勝ち負けより道を究めるとなると本来の柔道とは違ったものになる、でもグロ−バル化すれば勝ち負けですべてが決められるのである、すべての結果が勝ち負けでありその他は評価できないのである
それでかえって柔道の精神でも失われるとなる

要するにグロ−バル化するということはかえって文化を失うことになる、意味もなくなることになる、文化とはそもそも国々で地域でも違ったものとして文化があったからであるそれを一律なものにすることに無理があったからだ
ただすべてを勝ち負けで決めるとなると文化は失われる
例えば比べ石とか今でも残ってるけどこれも重い石を持ち上げる今なら重量挙げのような競技だった、その重い石を持ち上げることが競技になったのはその重い石を持ちあげることが村で一人前の男として認められることだったからである
農業社会では力が評価されたからである、米俵でもかつどとか仕事でしなければならないからそうなった、そういう狭い範囲で価値が評価されているからわかりやすいのである

でもそれが広域化したりグロ−バル化するとそこに共同体とか社会として共通の価値観が違ってくるから理解できないしただ勝ち負けですべてを計ることになる
それは貨幣と似ていたのである、貨幣が生まれて広域化グロ−バル化社会が生まれたからである、江戸時代でも仙台銭というのがあった
それは仙台でしか通用しない貨幣ともなる、広域でグロ−バルに通用する貨幣ではない
江戸時代には関所があり貨幣を別な反に

江戸時代も中期になると、為替制度が発達して各宿場宿場に両替商がありましたから、重い小判や文銭を大量に持ち歩かなくても済んだようです。又、有力な藩では、紙幣に当たる藩札を発行していて、両替が出来ましたから不便は無かったようですが、両替手数料はめちゃくちゃ高く、10%〜15%が当たり前だったようです。

ヨ−ロッパ旅行すると国ごと交換レートがありめんどうだった、今ならユーロ―になっているから便利である、それで広域化してグロ−バル化されるのである
ドルはアフリカの果てまで通用しているからアメリカが覇権国になり世界に通用する紙幣となっている

このようにグロ−バル化するということは貨幣がどこの国でも使えるということになる
でもその貨幣ですべての価値を計ることができるのかとなるとできない
それはあくまでも一応の目安なのである、この貨幣はグロ−バル化するためには不可欠である、ただそこでの問題は価値が貨幣ですべて計れないのに計ってしまう弊害である
それがグロ−バル化の大きな問題なのである
価値は実際多様であり簡単に貨幣だけで計れないものだからである

オリッピックでもそうだがこのようにやはりグロ−バル化したものは価値の一様化なのである、すべてが勝ち負けで決められる、負けた者には価値がないとされる
それは実際は価値基準にならないにしろそう強いられるのである
オリッピックの問題もグロ−バル化した結果として現れた
それは一部のオリッピック貴族のための金儲けになっていたことが判明した
スポーツでも文化があり一様化できないのにただ勝敗ですべての価値を決めるからである
要するにグロ−バル化の弊害が大きくなって現れたというのがオリッピックでもあり全体的にもそうである、それは様々な方面でその弊害が大きくなったのである

貨幣で紙幣でもすべての価値は計れない、スポーツでもそうなのである
メダル数でその国の強弱とか価値を計ることはできないからである
むしろ小国でもそこに独特の風土に根ざした文化があるとき尊ぶとなる、そこに価値があるとなるからだ、オリッピックでも大国が有利になるからだ
でも文化になると小国でもそこに文化があり特徴があり興味あるとなるからだ
グロ−バル化となればそうした小国の価値は無視されるからである
それは国内でも起きてきたし世界的になれば余計にそうなったのである
posted by 老鶯 at 13:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年07月23日

のうぜん、夏の海、黒揚羽ー右田浜に釣りの人(エイとコチを釣った)


のうぜん、夏の海、黒揚羽ー右田浜に釣りの人(エイとコチを釣った)

fishingcloud11.jpg


eiphoto1.jpg


fishingmigita1.jpg

fishingshot1.jpg
こちをつりあげる

kochifish1.jpg

threetreemigita1.jpg
津波にも残った右田の木ー後は何も残らなかった



のうぜんや我が家栄い幸分けつ

夏の雲海に湧くかなひびく波

夏の海エイの子どもを釣りにけり


ノウゼンの我が家を飾りあまたかなまた一輪の今し散るかな

夏蝋梅高くも伸びてその葉陰ノウゼンの花からまり咲きぬ

朝静か黒揚羽一羽舞い入りぬ石の黙して引きこもるかな

我が庭に一羽とまりて黒揚羽休むもよしや石は黙しぬ

津波後三本の木の残りけり十年過ぎても離れざるかな


ノウゼンが今盛りと咲いている、我が家は栄えた、二代でも栄えた
残されたのは自分一人でも栄えた家である、そこには犠牲があった
不幸もあった、でもなぜかこの家と家族で育てられて自分はたいして才能もなかったが
才能を個性を出すことができた
おそらく一人の人間の才能を開花させるには親は犠牲にされるとなる
また次代のものを育てるために親は犠牲になる、だから一代で栄えるのはむずかしい
あまににも貧乏では才能を開花させることはできない
辛い仕事で余裕もなければできない、それで才能を開花せずに終わった人も多いのである才能といっても生まれつきなにかあったとしてもそれを開花させる環境なかったらできないのである
何か自分は特別恵まれていたのである

そこであまたノウゼンが我が家を飾り咲きその幸を分かつとなる
これが咲くときは野馬追いになるが今年も中止になった
夏蝋梅は茎が高く伸びて広い葉が覆う、そこにノウゼンの花が蔓が伸びてからまり咲く
いかにも夏らしい風景だとなる、狭い庭でも庭を楽しめる

ただ黒揚羽が舞い入り石は黙している、そのように自分も石のように黙して引きこもる
それが長年の自分の生活だったのである、そこで引きこもり時代のようになったがそれは自分にはふさわしいのである、でも家族に恵まれたからそんな生活をできたとつくづく家族を全部失って感じたのである
今は全部自分でしなければならなくなったからである、家事を全部やることは手間だからである



エイの生息分布は北は北海道南部から南は東南アジアまで、広い分布域を持ち、日本を含む東アジア地域位生息しています。 浅い海の泥や砂地を好み、特に幼魚では海水浴場の浅瀬や川の汽水域にも生息していることがあり、海水浴場に遊びに来た人や潮干狩りに来ている人は遭遇するかもしれません。

エイの釣り情報 釣り場 5月から10月にかけて広い時期に釣れる。

エイは群が集まる河口の周辺で釣るのがおすすめで、エサとなる底生動物が溜まる淀みの部分や消波ブロックの周辺などを狙うのが狙い目です。 釣り方は仕掛けをポイントに投げ、置き竿であとは狙いがエサを食べるのを待つだけです
https://kurashi-no.jp/I0012414

まず「カスベ」はエイに良く使われる名前で、魚のカスっぺというところが由来です。なんとも悲しい名前ですね…。

また「スベスベ」というのはそのままで、鱗が少なくて触った感じがスベスベというところが由来です。
https://aquariumpicks.com/deep-sea-ray

「大言海」には、『昔の公家などが正装した時に手に持つ細長い「手板」を「笏(こつ)」といい、今も神官が儀式の時に用いている。魚形が「笏」に似ているところから訛ってついた。』とある。

ガラゴチ(瀬戸内)・・・・「ガラ」は「瘡(かさ)」の方言で、体皮の粗雑なことを言う。この魚の鱗が堅くカサカサしているこ
              とからの呼名。
ゼニゴチ(長崎)・・・・・・銭瘡ゴチの略称で上記と同様。
ヨゴチ(富山)・・・・・・・・「ヨ」は「エ」の転で「善」や「吉」の意。ヨゴチとは上等のコチを呼ぶ。
ムギメ(四国)・・・・・・・・麦の穂の出る晩春初夏に旨い魚の意で呼ぶのであろう。

11月頃になると瀬戸内海の水温も20℃を切るようになる。春に20℃を越すのが6月なので、陸上での季節感とはややずれたものがあるが、魚たちにとってこの20℃前後が暮らし振りに変化をもたらす温度帯である。

コチの頭は嫁に食わせ・・・・・・棘だらけで食べるところがないコチの頭を食べさせて、にくい嫁をいびるという意味。
コチの頭には姑が知らぬ身がある
                ・・・・姑はコチの頭だけ与えて嫁をいびったつもりでも、実はコチは頭部にある頬肉がカサ
                   ゴなどと同じで一番旨い。どんなにつまらなく見えるものでも、よく探せば捨てがたい、 価値があるというたとえ。


                   
                   
今日夕暮れに右田浜に行ったら10人以上の人が河口で釣りしていた
波が寄せる場所でも三人とかいたし多かった
最初にマスクしろとか言う人がいた、ここでマスクをしろというのも何なのかとも思ったマスクをしていたが鼻までしていなかったので隠せとなった
他の人別にマスクをしていないのである
ここに来ているのは福島ナンバーだから遠くからは来ていないのである

最初に出会った人はエイを釣っていた、それも小さいから子供である
ここでエイがとれるのかとめずらしかった、エイで調べたらこれは実際は北海道まで結構とれている、北海道の方が水揚げ量が多いのである
ただこれは水温が上がるとやってくる、あたたかくなるとやってくる
魚は回遊していて水温かあたたかくなるとやってくる魚がある、釣りの時期として5月頃から夏がいいというのもそのためである

次に寄ったのが郡山の人でありハゼを釣っていた、私がいるときも一匹釣った
これはどこでも釣れる、この人はエイを下流で釣ったと言っていた、大きいものだった
エイは結構いるのである
またウナギの小さいものを釣ったとも言っていた、ウナギがまだいるのかと思った
天然のウナギなどいなくなったと思っていたからである

私は前は浅瀬でしじみをとっていた、津波の後に浅瀬がなく上流の方でしじみをとる人がいた、ただ前とは相当に川が変わったのでしじみをとる人はあまりみかけない
しじみはスーパーで買った、地元でとれればいいがそれもできないのは淋しいとなる
この人は郡山市から来た人だった、釣りを始めて十年だという、小名浜とかにも行っているという、ここに来ているのは地元の人でない、福島ナンバーで中通りの人がほとんどである、中通りには海がないから釣りのために海に来るのである
そして浜風が涼しいから魚はつれなくても気分いいとなる
ただ右田浜の松原がなくなり高い堤防になり家もなく風車になった
あまりにも変わりすぎたのである、昔の面影は何もなくなったのである
その人はそういう光景を知らない、ということはここには釣りに来たことがなかったとなる

次に波を寄せ九方見たら一匹の魚を釣り上げて車の方へ向かう人がいた
その人の所に行き魚を見たらこれはコチだという、、その魚をはじめて知った
意外と海側に住んでいても魚ことや海のことを知らないのである
そして魚の種類が多すぎてわかりにくいのである
魚の生態もわからない、地域によって呼び名が変わるというのもわかる
同じ魚でも地域によって変わる

今日はオリッピックの開会式だけば見ない、NHKでも最近ほとんど見ていない
何かオリッピックには興ざめしたからである、そんなもの見る価値もないともなった
それは世界中で起きている、もうオリッピックは今までのように見ないと思う
一部の利権であり利益のためのオリッピックだったことが可視化されたからである
それが極端だったのである、オリッピックがこんなに汚れたものだとは思っていなかったからだ
今や関心あることは分散する、今日は海岸に行って釣りの話を聞いてそっちの方が面白かったとなる

nouzenhouse2.jpg

agedablack11.jpg

無意味化したオリッピック (膨大な金の無駄使いと化した-意味が問われる時代)


無意味化したオリッピック

(膨大な金の無駄使いと化した-意味が問われる時代)

オリッピックにも莫大な金が日本の税金でも使われた、それは原発ともにていた
原発は除染でも何兆円とかこれも効果もさほどないのに湯水の様に使われた
オリッピックも国立競技場とか施設を作るにしても莫大な金が使われた
そして開会式でも無観客だとなるからそれだけ金をかけた施設も活きてこない
盛り上がらないのである

だからそれだけの金と労力をかけたものが無駄になる、活きないのである
するとそのためにゼネコンにかけた金とか労力でも無駄になる
その労力にしても莫大なものとなるからだ、国家的事業だからである
確かにゼネコンにとっては利益となった、それは原発の除染でもゼネコンが入ってきて
利益を得たからである、それも実際は効果があったかとなるとそうでもないのである
それは徒労のようにさえ思えた、なぜなら森などは除染できないからである
だから除染はいくらしてもそれは全体からすれば一部にすぎないのである

何か最近問われているのは莫大な金をかけてもそれが有効にならない、施設を作っても
有効にならない、飯館村では学校を作るのに何十億かけて施設も作っても肝心の村民は若い世代は流出して住んでいない、生徒は村外から通っている、生徒5人に何十億かけているとか言われた、つまりそうして箱ものを立派な施設を作ってもそれが活かされていないのである
それがオリッピックにも言えた、無観客とは校舎が立派でも生徒がいないと同じなのである

それで人間のやることは莫大な金をかけてもそれが必ずしも活きないと思った
何か徒労に終わることがあると思った、なぜそうなったのか?
そもそもオリッピックをする意味が何かわからなくなっていた
時代によってその価値が変わったのである、これまでは何か価値あるものだった
世界中の人が技を競うとかで何か意味があり効果があった
でも実際はオリッピックはやる意味が希薄化してきたのである
金ばかりかかり何のためにしているのかわからなくなっていた
商業主義になりなるべく安くするのがいいとかも言われてイギリスとかアメリカでは実行した、それは金がかかりすぎても国の収益ともならないとなったからである

そして現実はオリッピックは本当に一部の既得権者の利権と利益のためにされていたのである、それがIOCのバッハ会長がぼったくり会長として批判されたことで判明した
なんでも200万とかのスイートルームの部屋が用意されたとかまるで国賓並みの待遇なのである、それでオリッピック貴族と言われたこともわかる
そのオリッピックは企業の宣伝のために使われる、放映権でも莫大な金が世界から出る
一つの世界的ショーとして金儲けのためにされていたのである
それが今回露骨にそのことがクローズアップされたのである
可視化されてみんながオリッピックとは一部のものの利権と利益のためにされることがほむかったのである
第一コロナウィルスがまた増えてきたとき強行するのは命の危険にもなる
そこまで危険を犯してまでやらねばならないのかとなり日本国民も反対が過半数を軽く越えているし世界からの批判もあるのに強行するのはなんなのだとなったのである

そもそもオリッピックを誘致するとき国民でも深く議論もしないそれが本当に必要なのかどうかも検討しない、震災からの復興オリッピックだとか言ってもそれも全くの偽装だったのである、原発事故の避難区域は何ら復興していないからである
それも世界に対して欺くものとして偽装されたとなる、それが政府指導で行われた
政府の都合であり今の自公政権の都合であり自民党内だと菅政権の都合で行われたともしている、なんか人気取りとかのためとなるが実際は裏目に出た
国民の総反発をくらっているからだ、こんなときになぜするんだとなっているからだ

結局これも原発でもそうだったが本当に必要なのかどうか深く議論もしないし検討もしない、ただ利益になる金になるということしか見ないからである

何の意味があってやるのか?

このことが深く検討されない、国民側にしてもやはり観光客が増えるとか金になりあとは一部の者の利権と利益のためにやるとなるだけであったのだ
ただそういうことが原発でも可視化されない、眼に見えたものとして現れない、第一IOCのことなどわからないからである

2018年から何年かは危険な時なのかもしれない
こんなとき東京五輪などやるべきではなかった
なぜなら東京五輪はやる意義もなくなっていたからである
ここに予算をつぎ込むのは日本をかえって衰退させる
それからカジノも中止になる、日本にまた大きな災害が来たら地震がくるとなれば
外国人も来ないからだ、外国人をいくら金もうけでも際限なく受け入れるのは問題だからである
北海道でも外国人が多いがこういう地震があると外国人も来るのを控えることになる
それでは観光で困るとなるがやはりあまりにも外国人に頼りすぎるのはどうかと思う
日本人が自分の国土でゆっくり観光ができないのもおかしいと思うからだ

自然災害もカルマなのか?
(カルマは蓄積されたものが放出すると安定する?)

ここで自分は書いていた、2018年に危険な年としたが2020がコロナウィルスが流行した年だった、災いがつづいていたのである
その時国民もオリッピックにはとんど反対していないだろう
何か景気良くなるとかしか考えていなかったのである、それは原発でも目の前の巨大の利益利権に目がくらんで地元でも積極的に誘致したのと似ている
人間はどうしても目の前の利益を優先する、それは誰でもわかりやすいからである

オリッピックする意味があるの?

こういうふうになるとなかなか考えることだからわからなくなるからだ
ただ実際オリッピックする意義は希薄化していたのである
前の東京オリッピックは意味があった、日本がの戦後からの復興オリッピックとして世界に示す意味があった、そしてそこで東洋の魔女とかでバレーボールで日本が優勝したのも日本の高度成長時代を象徴していたのである
では今度のオリッピックが震災からの復興オリッピックになるかとなるとそんなものが最初からなかったのである、それは政府の偽装でありそれは地元でもわかっていた
原発事故から復興などしていないからである、避難区域は依然としてゴーストタウンのようになっているからである
結局その偽装はいつか暴かれる、原発の「安全神話」も暴かれた
今回のオリッピックもこれは一部の者達の利権利益のオリッピックだったのである
それが露骨に可視化されたのである、何かいつか悪は暴かれるというときオリッピックもそうだったのかとなる
もうオリッピックを強行するのは狂気の沙汰だともなったからである
そうして菅政権は崩壊するとまでなったからである
何か人間社会でもやはり天災があったり神の意志が働いているのかとなる

原発はやめろ

カジノはやめろ

オリッピックはやめろ

何かこういうことが天からの意志、天意とか神意があってそうなったのかともなる
それでもしかしたらリニアなどもいらないともなる、大事業でもそれが無益化すると莫大な損失に奈留だけだからである
でも例えばエジプトのピラミッドなどはこれも莫大な労力をかけて作ったのだが何か意味があるのかと今になって問われる

何のために作ったのか?

それが問われる、でもそれも定かではなくなっている、ただこれが今になって無駄なものとも必ずしも見えないのである、一つの巨大な文明の記念碑だったとなる
歴史的にそうした巨大建造物は世界に残っている、ただなぜ今になるとなぜこんなも巨大なものが残ったのかとなる、意味が問われるのである
オリッピックも世界的行事だからこそその意味が問われる
とにかく最近は現代は何かと意味が問われる時代になったのである
何のためにこんなに金をかけてするのかと問われる時代になった
高度成長時代は橋がなけれはインフラを整備しなければならない時代だった
でもそういう時代が終わると何か公共事業でも無駄が多くなったのである
だからこそ何のために何か意味があってするのかとが問われるようになったのである
戦争で三百万人も死んだのはなぜかなると今になって問われる
必ず過去にしたことでも歴史的なことでもその意味が問われるのである
それが人間の人間たる所以だとなからだ

posted by 老鶯 at 08:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年07月22日

abstract india palace

indialetter1.jpg

indiapalacewaynew1.jpg

palaceindiapp12.jpg

weaponmagazine11.jpg

indiarailway11122.jpg

desertcity111.jpg

City of Indus  Civilization

Click all enlarge

2021年07月21日

真野の草原は自然境界でもあった (ゲノム解析で判明した縄文人のルーツ)


真野の草原は自然境界でもあった

(ゲノム解析で判明した縄文人のルーツ)

genomujyomon1.jpg

mapjyomon111.jpg

●自然境界ー天候、地形(山や川)

●人為的境界、政治的境界

境界がどうして作られたかとなると自然の作用で作られた、山があり川があればそこを越えたり渡ることが困難になる
それで自ずと自然境界となる、だから実際は境界は神が決めたものである
その後に人為的境界が作られた、だから歴史でも自然から見ることが大事になる
つまり歴史とは地歴なのである、地理がありその上に人為的な人間の歴史がある
古代とかなる自然が大きな力をもっていたからその境界は自ずと原始自然状態に左右されるのである
自然の動植物の分布でもそうである、暑さ寒さに天候に左右されて分布する
それで南相馬市の鹿島区の海老村がマルハシャリンバイの南限の地となっていた
それは南国産であり奄美大島辺りから種が流れついて自生したとなる
つまりここはそうした南と北の自然境界線だったのである

これは草原(かやはら)とあっても萱のことではない、伽耶の国とも関係したとして考察した、ただそれは明確に証明はできない、確かなことはカヤと発音されても当て字なのである、なぜそうなったかというと伽耶というのが日本と深く関係して渡来人が鉄の生産の技術者が鉄を求めて海外沿いを来て地名を残した
真野というのもそうである、真野氏一族が石巻から北上川をさかのぼって登米まで行って地名を残しているからである
真野郷とは真野氏一族だとなり近江にも関係している、工人が直接真野郷から近江の栗原郡まで行き来していたからである

そして今回発見したのがDNA研究から明らかになったことである
それをyoutubeで見てわかった、ここではアイヌ人と沖縄人がDNAで近接していて同類の割合が強いとしている、また青森県の人と沖縄人がDNAで共通しているとしている
これは興味深いことである、青森はアイヌ語由来の地名が多くあることで知られているからである
また沖縄人とアイヌ人の顔が何か似ている、それは縄文人だとしている
そして日本列島のヤマトとは北海道に入らなかった、アイヌは江戸時代まで存続していたのである、その人たちが縄文人の末裔だとしている
確かに沖縄人とアイヌ人は顔が彫りが深く似ている

ただ疑問なのはそしたらアイヌ語は明らかに縄文語になる、そのアイヌの言葉が今の日本語と縁戚関係になるがそういうことは見えないのである、アイヌ語は日本語と共通性がない、アイヌ語は語彙も日本語からすると少なすぎる、何か表現するにしても余りにも単純すぎる、幼稚な言葉なのである、でももし縄文人だったら何かしら今の日本語に通じるものがあるはずだが何か見られない、アイヌは何かヨ−ロッパ系統にも見えるのである
なぜならhave動詞は似たようなものを使っているからこれはアーリアン人系統の印欧語族に由来するとなるからだ
だからアイヌ人は比較的新しい民族にも見えるのである
ただDNAいうとき私は理系でもないしわからないからどう判断していいかわからない
でも言語的に見るとアイヌ語が日本語の祖語には思えないのである

縄文人が韓国人に一番近いというのはわかる、その次が漢人だとなる、ただ地理的に日本に入って来たのが一番近いのが樺太から渡ってきたのと韓国から渡って来た人たちであるそれは地理を見れば一目瞭然だからである
あとは台湾を経由して沖縄諸島を渡って来た人たちである、それも島伝いに来ると渡り安いからである、船にしても今のものとは違う、丸太舟とか筏の船とともなれば島伝いに行くから途中に島がないと海は渡れないからである
だからこれは地理的に理解しやすいのである

そもそも青森の地域、津軽の地域は特異であり東北でも異色なのである
丸山三内の縄文遺跡とかでもそうである、亀ヶ岡土器文化があり縄文文化が早めに発達した地域であり先進国だったからである、漆塗りの土器などもある
青森が遅れた県として今は見るが縄文時代は先進国だったのである
東北も遅れた国とみているが縄文時代は先進国だったのである、西が遅れていたのであるただ西は渡来人が来て稲作が広範囲にはじまり弥生文化の中心地になったのである

aomorimap11.jpg

青森は津軽海峡に隔てられているが北海道の植物も育つ、動物では津軽海峡でさえぎられてニホンザルの住む限界となる、ブラキストン線がある

このyoutubeで一番注目したのが青森のDNAが沖縄と近く青森と秋田、宮城がDNAで共通している

ここに福島県が入っていない!

つまり真野の草原はまさに宮城県との境界でありそこに入っていない、すると人種的には福島県は縄文人時代があったとしても早めに渡来人とかと混血していたのかとなる
ただ青森の津軽にしてもツガルがツノガノアラシトの系統なのかともみる
ツノガノアラシトが縮まってツガルとなったかともみる

それで不思議なのは棚倉でヤマトタケルの皇子と戦った蝦夷軍にツガルの蝦夷が援軍として来ていたことである、なぜそんなに遠くから援軍に来たのか?
つまりなんらか同盟関係がありそんな遠くから来たとなる
ただその時代にここの蝦夷は青森、秋田、宮城からすると別な人種だともなっていたのである

陸奥国風土記逸文に『磐城の国造磐城彦が福島県石城郡棚倉町八槻の蝦夷に敗れたので日本武尊が征討軍としてやってきた そこで蝦夷は津軽の蝦夷の援護を要請したので日本武尊は非常に苦戦した』とある

一番遠くにあってそして一番強いのが津軽の蝦夷=都加留で上津野の蝦夷も都加留に属していたろう。矢立峠・坂梨峠を越えれば直ぐ出羽でも陸奥でも未だ国名もない漠とした津軽なのだ。その強さは大和朝廷圧制に耐えがたきを耐え忍び難きを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。

元慶の乱に於いて鎮守将軍小野春風は七時雨道(鹿角街道)と言うわざわざ岩手県を迂回して最初に『言向けて和(やわ)し』たのも鹿角蝦夷なのだ

鹿角蝦夷(かづのえぞ)とはかずのとはかーつのでありツノガノアラシトなのである
相馬市松川浦の津神社もつのみや神社のである
ここで誤解しやすいのは津神社となっていてツノミヤ神社となっている
これはつつげてツノ神社となりつのみやとなった、ツノガノアラシトのツノなのである
ここがまぎらわしいのである、かづのもだからかづのとあっても明らかに角(つの)とありツノガノアラシトアラシトなのである、これは伽耶国の王子なのである


八槻の伝説-----------------------

都々古別神社の伝説から。

倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という

「八目の鳴鏑矢で賊を射たおしたとあり、
その矢が落ちたところを矢著、正倉がある矢著を八槻となった。

その八槻とは、八人の土蜘蛛で、

@里鷲A神衣姫B草野灰C保々吉灰
DあざになひめEたく猪F神石かやGさしな、

が八か所の石室にいたが王に従わずヤマトタケルは土蜘蛛を討伐した。

草野灰、神石萱のかやのはいとかみいしかやの萱は必ずしも萱とはならない
萱は伽耶に通じている、渡来人集団が蝦夷にもなっていたのである
ヤマトタケルと敵対する蝦夷となっていたのである
それがなぜ津軽の蝦夷に援軍を依頼したのとなる、そこは遠いからである
でも津軽まで同盟関係がありできたとなる、そして津軽は一番蝦夷の根拠地にもなる

その強さは大和朝廷圧制に耐えがたきを耐え忍び難きを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。

たがらこそ遠くからでも援軍を頼んだのである、ただ福島県の浜通り辺りは棚倉でヤマトタケルと戦い大和に早めに服属した地域になっていた
その歌が

の強さは大和朝廷圧制に耐えがたきを耐え忍び難きを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。
この歌は単なる笠女郎が大伴家持慕う恋の歌ではない、大和朝廷に服属した地域となった境界線だから歌われたのである、それで青森と秋田と宮城県がDNAで共通していて沖縄人と同類に近いと分析されたのである、ただここで岩手県は出ていない

みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

明らかなことは真野の草原は明らかに自然の境界でありまたその後に人種的にも宮城県とか秋田県とか青森県とも違うものともなり早くから大和朝廷に服属した蝦夷の地域ともなっていたのである
そこに二人の恋の歌ではない、古代の歴史的背景がありそこを読まないと鑑賞できないのである、万葉集にはその背景が古代の歴史と深く関係していて単なる恋の歌ではないのが多いのである、だからその背後にある古代の歴史を知らないと浅薄なものとしてしか鑑賞できないのである


ツノガノアラシトについて

tunoga1111.jpg

都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は、『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。

意富加羅国(大加耶/大加羅、おほからのくに、現在の韓国南部)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

敦賀からツノガノアラシトが入ってきた、敦賀(つるがーつがる)ともなり似ているのである、まぎらわしいのが津神社となっているとき津神社はつの神社と呼ぶからまぎらわしいのである
とにかくこのツノガノアラシトは伽耶国の王子でありその渡来人の一団が製鉄の技術者として地名までになったのである
ただその後にこの事実は歴史から隠されて来たのである
ただ伽耶国とヤマトは一体であり日本がの一部として日本府がありそこから天皇が出たという説もあるのだ

野馬追の旗、鮎、雲の峰、黒揚羽(隣の空家)


野馬追の旗、鮎、雲の峰、黒揚羽(隣の空家)

nomaoiflag.jpg

flag1111.jpg

野馬追の旗印は何を意味しているのか未だにわからない

これは何なのか、旗を調べている人もいない


summerdloudgreen1.jpg

butterklyblack11.jpg

野馬追の旗のなびくや雲の峰

旗印鮎の上りてはねにけり

競い合い左右に高く雲の峰

六号線夕陽に赤く夏の雲

大広間我が眠るかな夏の星


我が庭を今日も舞いゆく黒揚羽石は黙して家にこもりぬ

我が庭の夏蝋梅の葉陰にそ黒揚羽の休みけるかな

のうぜんの我が家を飾りこの街に栄えし時そここにありしも

隣なる家は空家やあわれかな薔薇一輪の残り咲くかな

隣なる家に残りぬ庭の石二十年住む人は去りしも

故郷の木陰の道の親しかな暑き日なれど今日も行きけり


毎日夏の雲が湧いている、野馬追いは今年はするにしても一部であり雲雀が原での神旗争奪戦はしない、一応行事として小高の野馬掛けなどをするだけである
ただ橋に野馬追の旗がたてられているから野馬追いを感じただけである
真野川にはやはり鮎が上っていた上流でも鮎の群れをみた
やはり下流で鮎が跳ねて水が出たので上ってきた、これは放流した鮎ではなく去年放流した鮎が育った自然の鮎なのだろう、小さい鮎だからである

隣の家は空家になった、広い庭があり石があった、その庭に入り石を見る
薔薇も一輪咲いていた、何か隣となるといつも見ていたから自分の家の延長のようにも見ている、そこには樹々があり風にそよぎ緑があるから気持ちいいのである
隣でもやはりこうして樹々があるとかすると気持いいのである
20年も住んでいたとなると何か借りていたとも思えないだろう
その人はただ近くに新しい家を建てて移った
他の空家はそうではない、人がいなくなり誰のものなのかもわからないのだ
ただその庭は広いしもったいないと思う、でも所有者がいるから勝手にはできない

黒揚羽が庭に休む、石は黙している、そして私は引きこもりじっとしている
何かこういう生活か今までの自分だった、人とほとんど接することなく家に引きこもりまるで沈黙の行をしていたからである
それも異常だった、それができたのは家族が二人いて自分を60まで世話してくれたからである
そのために私は二人の親への思い入れが今でも強いのである
他の女性は息子に縁を切られた、それはおそらくその親に金をねだられたり世話するのが嫌でそうなった、全く関知しないからである、家族遺棄社会というのもわかる
何か今や家族でも介護でも頼りにならなくなっている
それは介護となると負担が大きくなるからそうなる、仕事でもやめざるをえなくなったりするからだ

ともかく暑いので夕方6時になってやっと買い物に行く、暑さでばてる、特に汗が出ないから老人は熱中症になりやすいのである、家にいても死ぬということがある
やはり汗が出るということは体温調節することであり汗がでないと熱が体内にこもり熱中症になるのだ
近くの木陰の道がありそこは気持ちいい、後は家に籠もっているだけであり運動不足になる、また暑くて原町にも行けないのである
何か老後は家が大事になる、家が住み心地が良いと楽である、それはやはりあまり遠出とかしないからである、家に籠もることが多いからそうなる
その家も広いといいのである、家の中でも歩ける廊下とかあると気分転換になる
その広い家から夏の星がきらめくのが見えた

2021年07月20日

文明の発祥の地がなぜ砂漠なのか川の側なのか? (世界史をどう見るかー青銅器から鉄器文明へ)


文明の発祥の地がなぜ砂漠なのか川の側なのか?

(世界史をどう見るかー青銅器から鉄器文明へ)

indiamap1.jpg

●地理(川)から見る文明の歴史

古代文明はステップ地帯に大河が走っていたが、そのステップ地帯に砂漠が広がったので、河川の周辺に人々が集まった。ステップ地帯では狩猟で生活できたが、河川周辺では灌漑工事をしなくてはならないから、権力や技術などが生じる。また、砂漠化に追われて、広い地域から河川流域に人が集まるから、知識や情報の交換が盛んになり、文化の向上を促進した。

文明とは単に高度な文化が興るというだけでは成立しません。さまざまな優秀な文化を持つ人間集団が同じ土俵で確執し合い、そのなかから共通の普遍性という一種のフィクションをつむぎだして、それによる文化の集約、洗練化という作業を行ってはじめて文明が出現します。古代オリエント文明の場合、農業技術自体は、雪解け水に恵まれたザグロス山脈やアナトリア半島東部の山岳地帯に点在する小平野で誕生しています。そういう恵まれてはいるけれども大きな広がりを持たない土地から次第に農耕文化が周囲の乾燥地に広がっていきました。

しかし、そうした面に広がった農耕文化の拠点が気候変動で乾燥に追い込まれたとき、乾燥地帯ではすぐに農業生産が壊滅し、難民がより恵まれた川の周囲などに集まってきます例えばエジプトでは緑の恵まれた時期に北アフリカ一帯に広がった農耕民や牧畜民が、気候の乾燥化でサハラ砂漠が成立する過程で、ナイル川の谷に集まってきて、そこでさまざまなローカル農耕牧畜文化の融合が起こり、文明が誕生したといわれています。つまり、砂漠化がひとつの文明誕生の引き金を引いているわけです。また、いったん誕生した文明は都市を生み、資源の過剰な消費を招いて乾燥地帯になけなしに成立していた森林を破壊し、更なる砂漠化を引き起こしていきました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q109709025

ポロス 古代インド英雄伝のテレビ放送見てインドに興味をもった
インドは仏教の国であり日本も仏教国になったのだからもっと興味があってもいいのだがない、なじみがないのである
ただ中国は常に隣国にあり興味がある、でも中国でもヨ−ロッパの植民地化したとき劣った国と見られて中国を師とすることがなくなった
明治維新からは常に欧米を模範としてきたのが日本だったのである
だから中国は隣国だから興味あるにしろインドとなると興味あるというかその歴史でもなじみがないのである
ただ現代はやはり映画とかテレビドラマが歴史に興味をもたせる、だから歴史映画が私は好きなのである、ドラマを通じて歴史を知るということである
だから日本の時代劇も好きなのである、ただドラマだと作られたものが現実に思えてしまうのである、そこで歴史の真実がわからなくなるのが問題なのである

歴史とはやはり空間と時間軸から成立つ、ただ時間軸となるとこれを理解することは至難になる、一方で空間は理解できる、なぜなら空間は何千年前だろうがやはり基本的に変わっていないからである、地球史となると確かに大陸も移動しているから変わる
ただ人間の歴史が始まったときをさかのぼれば空間は地理は変わっていないのである
すると世界史でも空間から地理から見るとわかりやすいとなる
それで地歴にしたのがわかる、インドでもは地理から見るとどういう国なのか一応わかるインドはヒンドスタン山脈がペルシャとさえぎりネパールは中国との国境になりそこはなかなか越えられない壁となっている、自然の巨大な壁となっているのだ
ただアレキサンダーが侵略してきたのはヒンドスタン山脈を越えてペルシャから進軍してきた、ただそこで相当に難儀した、それでインドで苦戦したともなる
やはり山脈とかは自然の国境となる

ただギリシャのマケドニアからでも比較的平坦な砂漠とか平原がつづいている
すると遊牧民が移動する世界ではあり軍隊でも移動しやすいとなる
ペルシャには王の道がすでにできて交易の道もできていて軍隊も進軍しやすかった
平原とか砂漠は自然の道になりやすいのである
また大陸の河は長大でありこれも道になりやすいのである
だからそこに文明が生まれたともなる、都市が生まれたとなる、ナイル河でもそうであり岸に港ができてビラミッドに通していたとなる、ナイル河は船で行き来していたからである、大陸の川とは人と人を結びつけるものであり山のように遮断するものではない
すると河を通じて物資が集まりまた人と人の行き来があり都市が繁栄するとなる
それはヨ−ロッパでも河が交通路になりその岸に都市国家が生まれてシテズンシップが生まれてcivilzationになったということに通じる
文明とはやはり人が集まり物資が集まり情報が集まる場所から生まれるからだ
引用の説明では農耕社会が乾燥化して難民化して川の側に集まったとしている
砂漠化が文明を産んだとしている、もともと森であった地域の砂漠化が文明を産んだ
ただ森がおおっていると交通路にはなりにくいこともある
ヨ−ロッパはゲルマンとかは森に覆われていて交通路にならなかったから遅れて文明が起ったともなる

そのために山岳地帯ではなく平坦な平原とか砂漠が交通路になる所から文明が生まれたとなる、例えば森があるとしてもそれは交通の邪魔になるのである
ヨ−ロッパではドイツでも樅の木の鬱蒼とした森が覆っていた、そこは交通路になりにくい、だから文明とは大きな川があり砂漠とか平原がある交通路になる所に生まれたとなるただ砂漠になっていたところでも大昔は森があったとしている
つまり森の木を燃料であれ木材として使って消失して砂漠化したということもある
文明は都市国家でもどうしても自然破壊になるからそうなる

ただ宗教的に見ればなぜ砂漠からユダヤ教であれキリスト教であれイスラム教の一神教が生まれたのか?そこが最も人類にとって古い歴史の場所になったのか?
イスラエルは半分は砂漠なのである、遊牧民国家だったのである
だから商人のラクダを泊める商人宿があったりする
イスラエルは新しく作られた国でありその時砂漠を人工的に水を流したりして肥沃な土地にして農作物や果物を作るようになったのである
入植して作られた国家なのである、ただイスラエルまで遊牧民なのであり羊を追って生活していたのである
そしてイスラエルから地中海を渡りギリシャとかに船で行ったけどヨ−ロッパ大陸に通じているのである

そもそもだからなぜ文明の発祥地がこうして砂漠とかにあるのか?

そしてなぜ砂漠にエホバが唯一の神が現れたのか?、それは偶像崇拝を拒否する神として現れたのである、神像とかはない、像はない、偶像を拒否する世界なのである
例えば何かそこでも岩があり木があったりするとどうしてもそれも神になりやすいのである、でも神は眼に見えないものとしてあり眼に見えるものは神ではないことを教えたのである、とにかく人間は人間自体でも神化しやすい、眼に見えるものは植物でも動物でも神になりやすいのである、だから目に見えないものが神だとしたことはやはり砂漠から生まれたものだとなる
でもエジプト文明は何でも神にするアミニズム文明でもある、ただエジプトでも森があった時代がありその頃からアニミズム文明があったのかともなる

またインドには紀元前1500年ころからアーリア人が侵入して来た、そのアーリア人の支配の手法がカースト制だったのである、身分制階級制支配だったのである
もともとの原住民がインダス川付近にもいたのだが追いやられてガンジス河の河口に追いやられ化のである、それがドラビダ族だとしている、多少色が黒い民族でありアーリア人とは違っている、アーリア人は背が高く顔の彫が深くギリシャ彫刻を生んだようにギリシャもアーリア人が侵攻して生まれたのである、インドヨーロッパ語族とは広範囲にあり中東からインドからヨ−ロッパへと広範囲に言語の基幹として形成されたのである
アーリア人の末裔が欧米人なのである、大陸ではそうして強力な人種がいてそれが征服民族となるから階級制が奴隷制でも生れる、支配する者と支配される者に分けられるのである、戦争で負けた者が奴隷化されるのである、スラブとはスレーブで奴隷のことだからである、そこで東欧は今でも遅れた国だともなっているのである

●アーリア人の世界への拡散

blackwhite1.jpg

奇妙だけど家にくる女性は話がうまい、見映えは悪いが話しがうまい、それで芸人になれた人だとみた、ただ見映えが悪いからいい人と結婚できなかったということはある
でも老人になると美人とかではなく何か話しが面白い女性だとかなり価値がでてくる
その女性が理容店に行って顔が黒いなとか腕が黒いなと言われた
そしたらその女性は下半身は白いよと言って笑わせた、何かこうして話しがうまいのである、芸人の素質があるから話し相手に面白いとなる、別に家で何か仕事するのでもない
ただ話し相手としていい人だとなって金をくれているとなる

ドラビダ族が黒いとするとアーリア人は肌が白いのである
つまり上半身が黒く下半身が白いとなり混血だとなる、インド人にはそういう混血がいるとなる、人間は何らかで世界に広く住んでも交わるから混血になっている
何か混血になると美人になるということも言う、混血するということは何か遺伝子を刺激してそうなるのかもしれない、日本人も実際は様々な民族が住んで混血なのである
でもサンフランシスコで老女にあったときこの女性は日本人だな見た
だから日本人的な顔はある、変なのだけど今の天皇と同じ顔の様な人が近くにいる
天皇の顔でも似た人がいる、その人は普通のありふれか庶民なのである
だから何か奇妙なのである、天皇だと特別だとは見るが何かありふれた人でどこにでもそんな顔の人がいると特別に思えなくなるからである

いづれにしろインドというとき理解することがむずかしい、歴史もわかりにくい、でも日本は仏教国だからインドから入って来たものが多いのである
そうはいってもインドのヒンズー教とは何なのかとなるとこれも理解しにくいのである
仏教の基だとしてもヒンズー教は理解しにくい、となるとヒンズー文明ともなっているインドそのものが理解しにくいとなるのである
かえって宗教からすればユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でも一神教は理解しやすいのである
インドでもその神話はガンジス河に由来している、ドイツでも父なる河のライン川が国家としてのアイディンティティとなっている、大陸では長大な河が文明を作る母胎となっている、そういう長大な河は日本にないから理解しにくくなる

鼻が高く、目が長く、胸が突き出している

と言う容貌から連想されるのは、中国人というより中央アジア人か白人種のようです。

始皇帝の父は、子楚(しそ)という名前で知られています。

しかし、これは後の名前で、趙の人質としてやってきた

最初の頃の名は異人(いじん)と言いました。

始皇帝が中国最初の統一国家を作ったというときまず地理を見ることである
西安は長安は中央アジア方面へ向かう入り口である、とすると中央アジアから砂漠地帯からシルクロードから人々の流れがあり人種的にはそっちの方の白人だったとなる
つまりアーリア人系統でありそれはペルシャとか隣のインドでも色濃くアーリア人の侵入が紀元前8世紀にあったからだ、漢人ではないのである
アーリア人は欧米もそうだというとき征服民族であり現代文明も欧米人が作ったとするときその系統を受け継いでいるとなる
トランプ大統領にしろその体躯があの年でも堂々としていたからである
ただ人種的に世界史を見ることもできない、

●青銅器と鉄器文明

主に利用されていた道具の材料によって石器時代、青銅器時代、鉄器時代と3つに区分する考え方であり、青銅器時代はその中の真ん中の時代に相当する。また、この時代区分は先ヨーロッパ史を中心に考えて提唱されたものであるが、中東、インド、中国にも適用することが可能である。青銅器時代は多くの文明において国家形成の開始された時期に当たり、世界最古の文字が発明されたのもこの時期にあたる。このため、各文明においては先史時代と歴史時代の両方の面を持つ。メソポタミア文明においては最初の都市の形成は銅器時代後期にさかのぼるとみられており、また歴史をしるすことのできる文字の発明も、銅器時代後期である紀元前3200年頃のウルク市とみられている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%8A%85%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

戦場でこのような戦車が利用される場合、戦車の最重要部品は車輪と車軸、さらにこの車軸を支持する軸受です。これらの部品が破壊したり損傷を受けると、それは戦いに負けることを意味します。ヒッタイト人はこれらの重要部品を鉄で造り、改良を重ねて圧倒的な軍事的優位性を確保し、隣接地域を順次支配下に置き、ヒッタイト王国は紀元前1500年代にはメソポタミアを含む古代オリエント全域を支配し、当時、文明・文化で圧倒的な存在感を持ったエジプトとも対等に対峙するまで勢力を拡大させることとなりました
https://bit.ly/3wTLDRj

鉄の価格は金の5倍、銀の40倍」と記されているからだ。鉄はなぜこれほど高価だったのだろう。金が地球上にそのものとして存在しているのに対し、鉄はほぼ酸化した状態でしか存在しない。この酸化鉄から鉄をつくりだすには、木炭などを用いて1000度をはるかに超える高温で焼く必要がある。そのため、技術のない時代の人々が手にできたのは、隕石の一種である「隕鉄」に限られていた。古代の人々にとって、鉄は天からの贈りものだったのだ。

この「天の金属」が地上で初めてつくられたのは紀元前1500年頃。トルコのアナトリア半島に住んでいたヒッタイトによってである。ヒッタイトは強力な鉄の武器を手にしたことでまわりの国々を制圧し、またたくまに大帝国を築き上げていく。青銅器文明を生み出したバビロニアを滅ぼし、当時世界最大の強国だったエジプトとは互角の戦いの末に講和条約を結んだ。まさに無敵を誇ったヒッタイトだが、紀元前1200年頃に突如滅亡してしまう。
http://tokidesign.jp/howto/story11.html

青銅器文明から鉄器文明の変化は大きかった、なぜならそれは日本でも刀から鉄砲への変化にも匹敵する、青銅器より鉄器が武器としても道具としても強力だったからである
それで稲荷は鋳成りであり鉄器の道具のことでありその道具を祭って農業文明があったとなるからだ
また鉄器ができることによって統一国家もできる、鉄器の武器は強力なので他民族でも征服しやすいからである
それで中国の漢が隣の野郎国は青銅器の武器であり漢は鉄器でありそれで野郎自大の諺が生まれたのである、その敗北の原因は武器の優劣にも原因があった
日本とアメリカの戦争でも日本はアメリカのことを知らない野郎自大国になっていたのである、そして核兵器によって終戦となったのである
古代でも日本の天皇の由来が韓国であり鉄器を使うことにより王となったともあり
伽耶国が鉄器生産の拠点でありそれで天皇は韓国から伽耶国由来だともしているのである


あとがき

引用が多くなったがインタ−ネットの強みは簡単に引用できることである
それで編集するとつなぎあわせると一つの論文にもなる、これはなかなか本ではできないそして学問とは問うことにあり疑問に思ったことを探求する
その時検索できると便利なのである、本ではなかなかできないからだ
ただここで著作権が問題になる、インタ−ネットは引用しやすいから著作権違反になりやすいのである


2021年07月19日

多様な多角的な視点からみるネットの情報 (マスコミでは視点は一つになりやすく偏る)


多様な多角的な視点からみるネットの情報

(マスコミでは視点は一つになりやすく偏る)
viewpoint11.jpg

インタ−ネットの情報は多様であり多角的になる、それは個々人が発信しているからである、マスコミはマスを対象として視点が一つになりやすい
コメンテ―ターとしても専門家でもしゃべらせるのはわずかしかない
すると実際はその話すことはマスコミでテレビ局のいいようにしゃべらせているとなる
必ず個々人が十分に言いたいことは伝えないのである
その一部を切りとったものをしゃべらせて局で編集するのである
それは取材でもテレビ局で報道したいものを取材して編集して放送する
つまりテレビ局が結局は報道することを決めて何かいいのか悪いのかなどを決めているのである、だから一方的であり多様な多角的な意見でも出ないのである

だからインタ−ネットだとこういう視点で話すこともあるのかとみる、それは個々人の視点でありマスコミの視点ではないのである
だから多様で多角的になるのである、例えば同じ景色でもカメラマンによって撮る角度が違ったりカメラ自体がいいものだったりその時の天候などで多様に見える
同じ景色をとっても違って見えるのである、それでこんなふうに見えるのかと感心するのである、同じ場所でも角度が違ってとると別な見え方をするからである
それで写真をとるときとにかくいろいろ角度から撮るといいとなる
その中からいいものを選ぶといいとなる、一枚だけいい写真を撮ろうとしてもとれないのである

この多様な多角的な視点というとき別に特別優れた人でなくてもいい、専門家でなくてもいいのである、人間はそれぞれ住んでいる場所も違っているし経験も違っているし生い立ちも違っているし世代をも違っているとみんな違った見方をするのである
だから若い人が老人に学ぶこともあるし老人でも若い人の見方とか情報でも取り入れることができる、ただ深い見方をするのは老人である

インタ−ネットはそういう多様性多角的なものを提供する、でも数が多くなると人気のものを見るがでも少数者のものでも眼にとまるのがインタ−ネットのいい所なのである
マスコミではそうした少数者のことは絶対に取り上げないからである
だから圧力団体から組織から推薦される人を取り上げやすい、また組織団体の批判はしないとなる、マスコミとはそうしてマス(大衆、大勢)相手にするメデアなのである
だから視聴率がすべてだというとき大勢の人が見れば宣伝効果があるとなり会社から宣伝費をもらえて成り立っていたのである

でもインタ−ネットはマスが相手ではない、極端になれば一人が相手でも成り立つとなる一人に語っていても成り立つとなる、なぜならテレビ局のように莫大な金がかかる装置などいらないし個々人で無料でもできるからである
それでそれぞれの発言に何か得られることが多いとなる
ただ数が多いからどうしても見られる読まれことが至難であり実際はほんとんどプログでも読まれたりyoutubeでも見られないとなる
それはそんなにいろいろなものを目に通す時間がないからである

とにかく映画でも一発勝負となると何十億とかかけるものはリスクが大きすぎる
何百億かけるものもある、それが失敗すると何百億の損になる
だから金をかけないで短編を作りyoutubeに出すとかする
またマスを相手だと映画会社とか本でも編集者とかがかかわりその人たちに何かしら本人が言いたいことが言えないとなる、youtubeではすでにそういうことが起きている
発言がおさえられている
そういうことがない世界がインタ−ネットで開けた、毎日こうして自分は部屋に籠もりプログを書いている、別に出版社もテレビ局もかかわらないである
本人が直接伝えたいことを伝えているのである
だからマスコミでは取り上げないことを発言できているとなる

いづれこにしろ今になると高度成長時代なら同じような商品を大量生産していれば売れていたのである、それは物でもそうだったが今やそうした大量の規格品はいらないとなる
それでテレビでも他の電器製品でも実は外国でも作れたのである
だから日本の電器製品は売れなくなり日本が貧困化したのである
同じものが作れるとしたら安い方がいいとなるからだ、その品質でも外国製品でも中国産でも見劣りしなくなったのである、つまり高品質なもので何か他では作れないまねできないものを作らないかぎりもはや日本の復活はないとなる
ただ日本は外国のものをまねて改良改善するのは得意でも新しいものを作りだすことが苦手である、アメリカとかはヨ−ロッパでも新しいものを作りだしてきたから先進国になりえたのである
だから欧米で発明したものが多いし天才でもヨ−ロッパに多いのである

ただこれからの社会は多様性であり多角的なものの見方をつける、それぞれの個性が重んじられる、多様性というとき人間はみんな住んでいる場所が違っている
見る景色も違っている、海側だと太陽は海から昇る、盆地だと太陽は山から昇る、その感覚が相当に違ったものでありそこにすでに多様な見方が多角的な見方が土地土地によって生まれるのである
海側に住んでいると朝日を山から昇るのを見ないのである、朝早いから旅行しても見ずらいということがある、また高い山というのがないと山というのがわからないのである
私の住んでいる場所には高い山がないからものたりないし山のことがわからないとなる

ともかく地理から見れば日本でも多様であり世界になればさらに多様になる
そして人の経験も多様であり語ることが違ってくる
それでそんなことがあったのとか新鮮になる、そして一人一人の生い立ちが家族でも違っていて多様なものになる
ただ現代はマス社会でありマスを相手にしていたのである、すべて数で決まる
民主主義自体が多様性があるとして自由な発言を許すとしても現実は選挙も数であり数を集めることで決まる
だから民主主義は数の民主主義であり結局一番全体主義に近く同じような顔をした大衆が数で決める、それがナチスにもなったのである
そこでは各人の個性を無視して多様性を無視したからである
報道もマスコミでありマスが大衆が相手だから一つの見方それもテレビ局で方向づけられた一方的見方がおしつけられていたのである

文化とは多様性である、でも国家とかなると国家内にある地域的国々の多様性を無視するまた世界でも国々の多様性を文化を無視して一つの色にそめる
共産主義だと全体主義だからそうなる、政治と文化は対立するのである
だから民族の言葉自体を抹殺して中国ならウイグルとかモンゴルでも漢語にしろとかなる言葉一番文化であるから言葉を否定されたらその国々の文化も喪失するとなる
ただグロ−バル化するとどうしても共通語が必要になる
でも民族独自の言葉を失えば文化も喪失するのであり生きる意味を失うとまでなるのだ
だから多様な文化を許容するのがいいのである
民主主義はそういうことがあったが民主主義の弱点はすべてが数で決まることである
最も全体主義になりやすいのである、だからナチスは合法的に選挙で生まれたのである

いづれにしろマスコミの時代は終わりつつある、youtubeとも同格とかテレビでなるとやがてマスコミは装置に金がかかるからやっていけなくなる
装置に巨大であり金がかかることが足かせとなり維持できないとなってしまうのである
youtubeだと一個人でも手間がかかっても放送局になれる
ただ問題は取材するにも限度があり個人の交際範囲とか経験とか見聞になる
そこにまた弱点がある、何か取材するとなると支援するものがありそれなりの権力を持たないとできない、ブロガーとか取材に来ても応じないとなるからである

2021年07月18日

未来はわからない、人間は動機が大事 (動機で方向が決まる―未来も決まる―神は心を見ている)


未来はわからない、人間は動機が大事

(動機で方向が決まる―未来も決まる―神は心を見ている)


人間はせいぜい5年先くらいしか見えない、学生時代だと高校に入るために受験勉強るすとか大学に入るためにでもそうである
次は就職のために用意するとかなる、するとせいぜい5年先くらいしか見ていないのである
そうしたらとてもこの世の中の変化する社会では未来をがどうなるのかわからないのだからそれに備えて行動することは不可能だとなる
結局人間は何が起こるかわからなのだ
この辺で起きた津波から原発事故でもそうだった
こんなことになるなど予想できない、特にあんな大きな津波が来るなどこの辺ではイメージなどできなかった

でも未来を見るというとき確かに過去をみる、歴史をみると未来が見えることがある
なぜなら津波でもこの辺では400年前に溺死者700人という記録が発見されたからである、でもそれはたった二行であり専門の学者すら津波の後に発見したのである
でもそういう過去を知れば未来を知りえたともなるのである

人間はどんなことしたって未来のことがわからないから来年のことを言うと鬼が笑うという格言が生まれた、来年すら何か起こるかわからないのである
第一コロナウィルスを予測した人は一人もいないのである
これだっけ過去にそれも百年前とかにあったことでありその被害も大きかった
でもそのことでも忘れていて話題にもならなかったのである
何か自然災害でも人間の災害がかつて過去に経験している、ただ忘れてしまっているのである、だから災害は忘れた頃にやってくるとかカルマは繰り返すとなる
自然災害でも疫病でも周期的にやってくる、でもその間隔が長いと忘れて警戒もしないとなる

実は鬼ちゃんが笑っているのは、「来年の事を言うと鬼が笑う」ということわざからでした。このことわざの意味は、「将来のことはわからないのだから、あれこれ言っても意味がない。予測できない未来のことを言うと、鬼がバカにして笑う」というもののようです

まさにこれであり来年ですらわからないことを十年先がわかるのかとなる
コロナウィルスで今こんなふうになっているのを予測した人は一人もいないからである

だから未来を見る方法は人間にはない、不可能だとなる
それは人生でもそうである、20代とか若い時に未来を見れるのか、せいぜい5年先くらいが限度だということは納得する、60以上のこと老人になってからのことが予想だにできないのである
そして若い人は若いことが永遠につづくように思っているのである
年取らないと思っているのである
でも40になると白髪が生えてきたりしておっさんになる
つまりすでに老人の入り口になってそうなるのである
だから40才になると必ず気づく、もう時間がない、後がない、遅かったとなるのである急速に40才から老人に向かっているのである
老人に向かうということは死に向かっているのである

70代になると明日は死ぬかもしれないと死が目前になる
その心境もその年にならないとわからないのである
老人の心境とは例えば人がいろいろな人と出会う、でももう私はこの世にいないかもしれない、あなたと逢うことは永遠にないですよとなってしまうのである
だからそもそも人間がこの世で逢うということ何なのだろうとなる
現実に自分の家族は全部死んだからである
家族すら70過ぎたりすると一時の出会いだったのかともなってしまうのである
そして同期の人も死に病気になったりする人が多いのである

だから人間とは誰も未来など知りえようがないと知るべきである
では何が大事なのかとなると求道するとなれば動機が大事になる
あなたはどういう動機で宗教でも求めているのかが大事になる
私はカルト教団に入ったにしろ自分が求めていたのはどうして人間が死ぬのかということでその解決のために入ったともなる
つまり私はそういうことを解決したくて求道していたとなる
ただそんな場所は宗教とは何の関係もない場所だったのだから解答はなかったのである
そこは俗世間より俗的な場所であり不純な場所だったのである
だからなぜ宗教の看板を出しているのか不可解だとなる
ただ動機としては不純なものはなかったのである
ただ私はキリスト教とかを求めていなかった、聖書など読んでもいなかった
だからほとんど知らなかったのである
ただなぜ人間は死ぬのかということがいつも頭にあったのである
それは父親が中学に死んだことが影響していた、それ以来死のことが頭から離れなくなったのである
だからすでに中学の時から求道が始まっていたのである

ふりかえると求道というのはそうして早い時期から始めた方がいいのである

「若きうちに神を知れ」

その若きうちとは20代までなのである、実は自分自身そんなことを思ってもみなかったただそういう事情がありそうなったのである
本当にふりかえると意外だったとなる
普通は若い時は享楽にのめりこんだりするのが普通である、欲望が最大限に拡大する時期だからである、性の欲望でも何でもそうである
そういう時期でありそのために欲望にのまれてしまうのである
そして神を知る一番大事な時期を逃してしまいあとは神を知る機会がえられなくなる
何か老人になれば神を知ることがかえってできるのだと見ているができない
ただ仏教のように諦念とか悟りの境地にはなる
でも神を知るということは一番盛りの時でないと知りえないのである
だから最も大事な時期を享楽に費やしていたらあとはもう神を知ることは不可能だしその後に善きことに真善美の追求もできなくなるのである

だからそもそも人間は未来など時代の先など誰も見れない、ただ変わらないのは人間の一生の先は見ることはできる
つまり人間の一生は人間が生まれてから変わらない、必ず年をとり老いてゆく
その盛りは青春時代でもあっというまに過ぎる、それでみんな老人になる
でも老人になることがどういうことかわからない
いつまでも若いということがつづくと思っているのである
でも老人をみればわかるはずである、みんな誰でも老人になることはどこでも普通にあり現実に見ることができるからだ
でも不思議に若い時は老人にならないと思っているのである
そこに人生の最大の盲点があったと思う、そしてもう時間を元にもどすことはできなくなるのだ、もう70代になると死があるのであり人生とは命とはliveとは本当にlieveであり去ることなのである、さよならだけが人生だとなってしまうのである
だからこの世でなぜ人間が逢うのかもわからないとなる

いくら未来を見て未来に備えようとしても不可能である、想像したこととは全く違った世界になっている、今頃なぜ働かなくてもよくなる、ベーシックインカムでそうなる
人間は自分の好きなことをやれとかみんなアーティストになれというのが不思議なのである、一生会社員になりそれで何もなく一生終わるという予想していたからである
それが大会社でもつぶれるとか会社員はいらなくなるとか言って自分の好きなことをしてそれで稼げというのが不思議なのである
銀行がなくなるというのもそうである、地方では銀行は一番安定した職業と見られていたからである、そこに就職すれば一生安定した人生が送れるとなっていたからである
それで公務員と同じように見られていた
高度成長時代に育った人たちは団塊の世代でもそんなことを予想することもできなかったろう、みんな企業戦士として働いて高度成長時代を生きたからである
こういうふうに常に未来はまるで違ったものとなり計算が狂ってしまうのである
そしてみんな人生は意外だったとなっているのである
つまり予想通りに生きた人は一人もいないとなってしまうのである

だからむしろ何かするときでも若い時は動機が大事だとなる
不純な動機だったら未来も不純なものになる、例え金持になっても不純な動機から始まっているのだから結果も不純なものとなる
それがカルト教団などに多いのである、そこはまるで宗教など関係ない世界だからであるそして結局人生を虚しく費やして終わるというのが本当に多いのである
結局人間とは何か悪魔にサタンによって操られ虚しく人生も浪費して終わるとなる
だからナチスでも社会自体が狂気になり千万単位で人が死んだということもそうである
膨大な命がサタンなのか操作されて失われたのである
日本がの戦争もそう言えないにしても何か似たものがある
3百万人の人間が死ぬということがどうしても理解できないからである
そこに何か意味があったのか?膨大な人間がいたずらに無意味に死んだのかとなる

ともかく神が「人の心を見ている」というとき動機を見ているということなのである
動機が不純だったら何をしても世間的に成功したとして神から見れば成功したとならないのである
だからとんなことしても未来など見れない、知りえない、ただ人間の人生とはその一生はいつの世でも見ることができる、それは若い時はたちまちすぎて老いるというとである
仏教では生病老死でありこれは人間が存在してから変わらないのである
いくら長生きするとしても実際は120歳が限界でありそれ以上は生きられない、限界なのである
だからこのことは人間がこの世に存在した時から変わらないからこそ聖書の言葉でも
聖賢の教えでも庶民の格言でも生きているのである

ただ時代が変わるという時、科学技術の進歩がありとても未来を見れないのである
第一飛行機で外国に行けるようになることを江戸時代辺りでも誰も予想もできない
それはヨ−ロッパだってそうなのである、そんなことがありえるのかということになっているのが時代の変化だからである
だから未来は社会全体になれば知りえないとなるのである
ただ神話などで人間の未来は予測されていた、技術が災いをもたらすことは予測されていたのである、火を盗んだプロメテウスが過酷な罰を受けたように甚大な災いがもたらされることを予測していた、日本でも技(わざ)は災い(わざわい)ということで技術が災いをもたらすことら予測されていたのである
それが原発事故となって現実化したのである

この世には自然災害でも何か信じられない大きな災いが起きることが予想される
それで聖書のテーマが脱出なのである、この世を変えることではない、それが必要でもこの世から脱出がテーマになるのである
ノワの箱舟でも出エジプトでも脱出なのである
神にこの世から救出されることであり災いの世からの脱出することなのである
この世はいつか滅びることは預言されている、何かこの世に理想の社会ができると思っていてもできない、それはどんな制度でもできない、人間には不可能なのである
神の国は神自ら治めるから神の国になるのであり人間には不可能なのである
常に混乱状態になる、コロナウィルスでもそうであり様々な予期せぬことで混乱して
誰も導くことがてきないともなる


2021年07月17日

老人に投資しろというのは無理 (老人の90パーセントは貯金の理由―地銀の役割がなくなる)


老人に投資しろというのは無理

(老人の90パーセントは貯金の理由―地銀の役割がなくなる)

bankdricis1.jpg

bankccc1.jpg

あなたは、貴方がお金を預けている銀行が大きく変わることに気が付く
https://www.youtube.com/watch?v=p_8JUFyFtZY

地場産商品の普及、生産、販売が可能になった
事業再生、始業譲渡などに100パーセント出資可能になった

これはまさにもともと銀行が企業家が作ったものでありその成り立ちに返ったということなのである、銀行自体が企業家になるということである
今までは5パーセントしか出資できなかったからである

ここのyoutubeでは今の銀行の問題をわかりやすく解説している



銀行のことでこうして語るのは貯金している人である
別に貯金もしない人は金に困っていても金融機関のことなど考えない
人間はやはり金のことが一番気にする
自分の金がどうなるのだろとうなり心配する
それで地銀でもゆうちょでも金をあづけているから心配になる
自分の預けている銀行はどうなるのだろうと心配になる
こういう心配がなかった高度成長時代は今になると特別恵まれた時代だった
利子は7パーセントもついた時もあったからだ
退職金が一千万だとしても二千万円に5年くらいでなっていたかもしれない
もう貯金していれば利子で十分に生活できた
それが今は預金封鎖だとか利子はゼロだとか地銀でもゆうちょでも投資をすすめる

でも投資のことは老人は簡単に理解できない、酷だ!

だから当然理解できないから損するのが多いし簡単に手を出せない、貯金で安心だという世代では投資は理解できないからだ
むしろ素人が手を出せないものとして見ていたからである

でもなぜこうなったのかというとそれは日本経済が衰退したためなのである
そのツケが金融機関に来て客に来ているのだ
地銀でもゆうちょでもなんとかもうけをださなければやっていけないとなりその窮地を責任を客まで及んでいるのである
お客さんが損しても会社を存続するためには投資をすすめるほかないとなっている
とにかく投資信託であれ株であれリートであれ手数料が額が大きいと利率として大きいのである、だからそれは銀行にとってもいい商売なのである
株が下がっても一切銀行損しないからだ、何か言われれば投資はリスクがあるで終わりでありただ手数料だけはもらえますよという商売なのである

ただそうなったのは地銀とかゆうちょだけの責任ではない、日本経済全体の衰退が金融機関に影響してなった
だから日本経済がまた成長しないと解決できない問題だともなる
それはもう簡単にできない、その金融機関に金をあづけている客が日本経済衰退の影響を受けて責任をとらされているとなる
投資、投資の時代だと盛んに言うけどそもそも老人は経験もない人がほとんどであり
その投資の世界に入ることは容易ではないから貯金しているのである
実際に投資で儲けている人はわずかなのである
そして何より老人は安全を安心を求める、だから投資に向いていないのである
でも金を持っている老人も多いから投資をすすめる、それは日本経済の衰退の結果であるその責任を客がとらされているのである

だから金の価値とは常に変動している、貯金しても変動している
預金封鎖でゼロになるとかもある、しょせん紙幣は紙きれであり今なら数字だからゼロにもなる、紙幣自体に数字自体に価値はないからである
価値になる本体は別なものにあるからだ、金が小判のように黄金だったらそのものに価値があるが紙幣は紙きれにすぎないのである

地銀はもう社会的に機能しなくなっている、要するに地銀でも地域の役割が喪失している地銀は単なる貸金庫なのかともなっている、金の保管場所である、それあるにしてもそれでは銀行は成り立たない、銀行の成り立ちがそもそも会社を起こして成功した人が銀行を作っていた、つまり企業家が銀行を作ったのである
養蚕とかで製糸工場でもうけた人がその中に銀行を作っていたのである
それは曽木資金であらたな起業をするためであった
だからもともと企業家がするものでありただ金を集める人が銀行になったわけではなかった、それが分化して銀行になったけどもともとの成り立ちは企業家が作ったものであった起業できる人が銀行を経営していたのだから当然会社経営する人であり通じた人であり
利益を出せる見込みを得られるとなる

何か今はそうしてそもそも会社でも何でもその成り立ちが問われる
どうしてその企業ができたのか、その由来が問われる、どういう意味があり意義がありはじまったのかということである
ただ高度成長時代にはそういうことは問われなかったのである
銀行でも金を客から集めればその金を借りに来る人はいくらでもいた、だから借りた人から会社から利子をとればいいだけだったのである
何でも成長する時代だと資金が必要でありそれを銀行に頼んだのである
その時預金している人も見返りがあったのである
それがなくなったのは日本経済が衰退したからである
そのツケが金融機関にのみ来ているように見えたが実際は国民全員に預金者にも来ているのである
つまり日本全体が経済成長しないかぎり過去のような利子もつかない、それより預金封鎖だとか金自体の価値がゼロになってしまうのである
だからこれはゆうちょとか銀行とか金融機関だけの問題ではない

日本全体の経済が衰退した責任を預金者にもとらされている!

投資を銀行であれ金融機関からすすめられても老人は簡単にできない、それで90パーセントが貯金したままなのである
銀行がそもそも企業家が作ったように会社を経営できる人が資金を得てまた新たな事業をはじめる、そういう人が銀行をもったのでありその成り立ちをみればそういうことが会社を経営できない人が金をもっても資金をもってもそれを有効に活かせないのである
地銀でもそういう経験がないから投資しろとなり手数料商売になったのである
そういうノウハウとか地銀にはないからである、ただ信用組合は地元密着で地銀よりはあるとしている
とにかくただ金を集める機関であり何か投資してもうけるというノウハウの積み重ねとかなかったのである

地銀は投資には素人だった!

その素人がすすめる商品のことなども知らない、知らないで客にすすめているだけだったのである、手数料をとるためにそうしていだけなのである
そして売らなくてもいい株を売り転売してまた手数料をとる楽な商売になっていた

つまり地銀にはもともと銀行の役割がノウハウがなかった

その成り立ちからして問題をかかえていたのである、それが経済の衰退で露見したのである、何か社会にとって意味があり意義があるものとしてノウハウとかあればこうはならなかった
それはオリンピックとも同じだったのである、オリンピックもただ利益利権のためでありコロナウィルスが広まるのに国民の安全を脅かすものでも強行する
それは一部の利権者のためであったが露見したのと同じなのである
実際の意味意義もなくなっていたからである
何か今社会全体でそうして社会にとっての意味とか意義が問われる時代になった
高度成長時代はそういうことがなかった、銀行でも金を集めればいい仕事だったからである、投資のことなどわからなかったのである
その投資のことがわからない地銀などが投資をすすめること自体が矛盾なのである
ただ日本全体の経済の衰退が地銀とかゆうちょとか金融機関の負担となり客もその責任をとらされているのである
だから根本的解決は日本経済が再び成長しないと解決しないとなる
でもそれは今や至難になる、ただ地銀であれもう社会にとって必要ないものとなる
社会に存在する意味と意義がなくなったからである
その意味と意義を見出すことは簡単にできない、ほぼ絶望的だとなるからだ
農業に投資して銀行員が農業しているのはまさに自ら投資をすることを始めたということである
だからただ金を集める楽な商売は終わったのである、そこで新たな価値を作り出すことは容易ではない、それでつぶれてゆくほかないとも見るのである


posted by 老鶯 at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年07月16日

東京オリンピックは何のために? 政治家たちが唱えてきた「意義」は、こう変わった。 (役割や意義や意味が問われる時代)


東京オリンピックは何のために? 政治家たちが唱えてきた「意義」は、こう変わった。

(役割や意義や意味が問われる時代)


rightmmm22.jpg

rightmmmm222.jpg

オリッピックてだは利益、利権より意味や意義が問われる

原発事故では利益や利権より安全が問われた



オリンピックを誘致しようとしたとき、何かその〔意義」などあまり国民でも考えなかった、世界中の人が集まり観光にもいい、日本に金を落とすとかくらいしか考えなかった
今になってコロナウィルス騒ぎになりなぜこんな時にわざわざ感染を広げるようなことをするのだろうとなった

最初日本が震災とか原発事故から立ち直ったということを世界に示すものだとして聖火リレーを東北を回ることにした、でも原発事故は依然として復興していない
避難区域には浪江町で一割とか他でも飯館村とかでも帰って住んでいるのは老人であり若い人は移り住み住んでいないのである

だから例えばそうした避難区域を聖火リレーで回ってなにか復興のたしになるのだろうか?
そこに意義は見いだせない、そもそも何か意義を本当に深く検討することなどなかったのである、結局一部の利権にかかわる人たちがしたいということでありそれも金儲けが目的なことが判明したのである
それでIOCのバッハ会長が世界からぼったくり会長としてオリンピック貴族して批判されたのである

とにかくどういうわけか最近こうしていろいろなことが何のためにするるのとか何か会社でも何でも存在する意義があるのかと問われる
オリンピックにしろこれまで世界中の人が集まった祭りでありそれがこんなふうに
意義とか問われることがなかったのである
こういうことは他でも問われている
何のためにしているのか、その目的と意義は何なのかと問われる

銀行でも銀行は一体何をすることが目的で意義があるのか?
なぜ投資信託とか株とか売りつける証券会社のようなものに変わったのか?
利益が出ないからそうなった、でも本来の地銀とか銀行の社会の役割はそういうものではなかった、地域の経済を活性化して発展させるものとして金を集め融資することだった
それは高度成長時代には資金を必要としていた会社も多く銀行に金を貸してくれと来ることが何もしなくて頼みにきていて必ず利子が帰って儲けになっていたのである
つまり銀行は何か金さえ集めていれば金を借りにくる会社がいる、人がいる
それに利子をつけて貸していればいいとなったのである
でも今は借りに来る会社でも人もいないのである

だから金を銀行で集めても借りて利子をとることもできないのである
それで投資信託とか株とかを売る仲介役となりそれは証券会社のすることを肩代わりするようになった
すると銀行の役割は地銀の役割は別に地元の経済を活性化する発展させるということもなくなるとなる
その代り客が投資信託でも株でも判断して利子になるものを得るようにするほかないとなる
つまり客自体が金をもうけたいなら利子を得たいなら投資信託でも株でも投資のことを自分で勉強してしなさいとなった

結局その負担が地元の客にかけられるようになったのである
自分自身そういうことをしたことで書いてきたけどこれも大変だとつくづく思った
そもそも投資のことなど簡単にわかるものではないからだ
だから銀行に頼むほかなかったからだ、でもその地銀でも投資に関して素人だったのである、同じレベルだったのである、そして地銀では手数料をとることしか考えていないのである、だからリーマンショックで半分に下がった株が元にもどりさらに倍にもなった
でもその株を営業の人は売ってJ-REITにした、そこでまた手数料が入りノルマを果たすことができるからそうしたのである、でもJ-reitは急激に下がったのである
ただなにやかにや客が言ったとしても投資は自己責任で終わりなのである
別に銀行が詐欺だとかなんとにはならない、お前の責任であり自己責任で終わりなのである

ただここでも問われているのは何のために地銀とか銀行があるのか?
それが問われている、株とか投資信託とかをするのは証券会社であり地銀の役割ではなかったからだ、そうならば証券会社になった方がいいとなり現実に福島銀行はSBIに吸収されて証券会社にもなったからである
だからそもそも一体地銀の役割は地銀とあるごとく地域のために何をする役割があったのかと問われているのである
つまりその役割とか意義とかが問われているのである、それを見出さなければ地銀はいらないとなる、確かに利益を出すことが何であれ優先される、利益が出ないならやめるほかないというのも現実である
でもその前にその会社であれそれが存在する役割や意義は何なのかと問われるようになった

それはあらゆる方面でそういうふうに役割とか意味とか意義が問われるようになったのである
ただすべてがまず利益を出すことでありそんな役割とか意味とか意義とか問われなかったろう、これまでは別に利益をだすものが意味があり意義があった
だから利益を出していればいちいちそんなことを問わなかったのである
それは何故なのだろうとなると例えは橋がここにないというとき橋をかける意味とか意義など誰も問わない、それはみんな必要としているからだ
ただ橋でも道でもインフラが整備されると北海道に高速道路を作っても熊が歩いているだけだと言われた、そんなもの必要ないのに税金の無駄だとされるようになった

リニアなどでも自然破壊がありそんなに早くして莫大な金をかけてやる必要があるのかと問われる、新幹線は必要だったがリニアとなると本当に必要なものなのかどうかと問われる、新幹線で十分ではないかということにもなるからだ
インフラでも整備されると地方への公共事業でもそんなに道路ばかり作っても無駄だともされたのである
だから今整備するのはこれまで作ったものが老朽化したら修繕の方だとなる
新しく何かを作る時代ではなくなったともなる

ともかく何でも利益を求めて意味とか意義など関係ない、まずは利益であり利権だとなるそれは高度成長時代には良かったのかもしれない、いろいろなものが整備されていないからである
そういうことはあらゆる方面で起きているのである
創価公明は高度成長時代に急激に増えたのは日本が経済成長することは御利益が得たからだとなる、みんなその時は給料でも上がり豊かになっていたからその時代にあったものとして生まれた
でも日本の経済が30年とか成長しないとか給料も上がらない、貧困化すると御利益がないとして衰退する
それで何の目的で活動しているのかとか今問われる
何をしたいのか会員でもわからないとなる、それは前からそうだったのが今になるとその存在意義とかが社会から問われるのである

原発事故で漁業者が事故前からも多額の補償金をもらっていた
漁業権を売ってもらっていた、そして事故になりまた補償金をもらうから生活の心配は何もないのである
そして海が汚染されるか騒いでもまた補償金を上積みするためなのかとも見られる
そして漁師が港で魚もとならないのになぜ自分はここにいるのだろうと自問していた
これもつくづく漁師がそもそも何をする人であり地域であれ社会であれ何の役割があっていたのかと問われる、魚をとり地域の人に提供するためであったからだ
その魚にしても実際は地元ではなく東京の金持ちのために寿司だったら三万円もの高給料理店に売っていたとなる、地元の人に売るわけでもなっかとなる
こういうことは別に広域化グロ−バル化経済になれば普通のことなのである
でもその土地に住むならその土地の共同体とかがありそこで意味とか意義をもつ
でもグロ−バル化するとそういう役割とか意味とか意義が考えないのである
ただ高く売れて利益になればいいとしかないのである

NHKのテレビで浪江の人が田んぼを作っていた、それもすでに十年くらい放置されたままである、でもその田んぼでも畑でも働いて子供三人とか育てた
じいちゃんは帰りたいとか言う、新しい家はすでにいわき市とかに建てている
でもその荒地化した田んぼを再生させたいというとき田畑で子供を育ててここに生きたということがありそれが生きたことであり生きた意味でもあったからまた再生したいとか跡を継いでもらいたいとなる
でもその人も実際は東電でも働いていたのである、農業だけでは子供でも育てられないということがあったからだ
ただその田んぼに執着するのはやはり自分の人生がそこにあったからだともなる
それは家のことを書いたがやはり家には親が苦労して作ったとか思い入れがあるからだとなる、それを子供が受け継ぐのである
田畑でもそうである、だから農家では先祖の田んぼだから売りたくないとなるのである
先祖の労苦がそこにあったからそこに意味と意義があるからだとなる
大げさになれば歴史的価値としてある、単なる米を食べる腹を充たすだけではないものが田畑でも家でもあったからそうなるのである

なぜこうしてあらゆる方面で存在意義とか意味とかが問われるのか?

それは経済成長してインフラでも整備されるとそこに余計なもの無駄なものが生まれるからだともなる

そんなものに金を使って意味があるのか、意義があるのか?

それがオリッピックでも問われたのである、このことは本当にオリッピックだけではないあらゆる方面で問われている、だから哲学の時代てあり宗教の時代であり芸術の時代にもなる、宗教でもただ拝んでいればいいというのではない、もともとなぜかというこから宗教だって始まっているからだ、ただ御利益を求めるものではなかったからである
哲学と宗教は不可分なものとしてあったからである

これから今でも何かというとこの役割とか意味とか意義が問われる
それはまず利益になればいいだけではない、意味や意義が見出さなければやるべきではないとなる、だからまずそれをやるべき意味と意義を深く検討しないと後で問題が起きてどうにもならなくなる
それはオリッピックでもそうだった、実際はその意味と意義とかをみんなで検討したり深く議論したもしなかった、利益がある利権があるということで始まったのである
それがあまりにも誰が見てもそれが一部の者のオリッピック利権者がするものであり
かえってコロナウィルスが広めるためにするのかともなる
災いのオリッピックになってしまったのである
ただそれも利益利権しか見ないからそうなった、原発事故でもただ利益であり利権であり危険性はないがしろにされた、安全神話を作り都合いいように利権として利用されたからである、危険なものだということは隠されて議論もしないで利益利権のために作られて大事故になったからである


posted by 老鶯 at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

Indian palace way


Indian palace way


indiapalacewaynew1.jpg
goldenway1122.jpg
Indian Heroes: The Story of Poros

japaneseroom33344.jpg
Japanese way

villariverside.jpg

all enlarge クリック拡大

2021年07月15日

田園の小径(詩) (自然から学ばなくなった人間、田舎でも同じ―科学技術優先社会の危険)


田園の小径(詩)

(自然から学ばなくなった人間、田舎でも同じ―科学技術優先社会の危険)

あちらこちらと気ままに蝶の飛ぶ
白鷺が忍び足に歩み狙いを定め
辺りを乱さず餌を的確に獲る
草叢深く藪甘草の点々と咲く
情厚き田舎の人のように
田舎のともしびのように
梅雨はまだ明けぬ夏の夕暮れ
でで虫は急がす歩み
森の中に鳥が鳴き塒に眠る
道の辺に所を得て石は黙し
自然は自ずと調和する
神知らしめる世界にあれ
老いて残り少なき日を楽しめ
我が家は豊かに恵まれぬ
神に祝福されし者よ
その富は分け与えむ
しかし老いと病と貧に苦しむ者
その嘆きは尽きることなし
ただ田園にたりぬを言わじ
神のその日の糧をそれぞれに与えしを
平和なる田園にあれ
田園の荒れれば悲し
山鳩の葉陰にとまり平和なれ
少なきもまた良しとすべしかな
人の欲の限りなければなり
その土地土地に与えるものあり
そこに実りのありて幸いのあり
外にのみ幸いを求めて得られず
その足元に幸いのあるを知るべし


ブラウニング「春の朝」

時は春、
日は朝(あした)、
朝は七時(ななとき)、
片岡に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。


神しろしめすというときそれは自然の中にあり自然の営みのなかにある
ただ自然という時意外とそれを知ることがない、自然がどういうものかわからない、とにかく自然を知るには時間がかかるのである、木が成長するのに50年かかるように人間も自然を知るには同じようにかかるのである
自然で一番不思議なのはなぜいろいろな生物が動物がいて餌を得ているのか?
それが一番不思議なのである、なぜなら人間ほど毎日の糧を得るために汲汲している者はない、そのために食糧でもなんでも貯蔵している、ため込んでいる
自然にはそういうことはない、でも日々の糧は与えられているのである

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか

これは自然を観れば実感する、日々なぜその食料が与えられている
貯えることはしないでも日々与えられている、人間はもういくら食料があっても金があっても明日食べ物が得られないと不安なのである
そういう不安が消えることがないのである
だから自然を観察しているとそういうことがないことが一番不思議だとなる
今なら米にしてもありあまっている、そしたら食べ物がなくなるということは考えられない、でもなくなるという不安がなくならないのである

確かに石油とか電気がなくなることはありえる、それは魔法のようにして産みだされたものではない、電気も実際は石油が基で作り出されている、何か燃料となるものが必要なのである、原発も魔法となるのがそれは余りにも危険なものだったのである
でも人類は戦後でも炭を燃料としていたのである
電気など裸電球一つであり使っていないのである
ここ1世紀くらいが電気を使っているでありそれまでは使っていないのである
つまり人間は電気無しでもこれまで生きていたとなる
電気がなく死ぬことはないのである、でももう今や電気がないと生活できないとなったし車がないと生活できないとかなったのである
でもそれで死ぬことも人類が滅亡することもないのである
むしろ原発で滅亡することがありうる

今や人間は自然から学んでいない、田舎に暮らしていても農民でも1割にもならないし
自然を学んでいない、そして不満ばかりを言うのである
自然を学ぶというときこれは田舎に住み相当な時間が必要になる
なぜなら山であり木であれ長い時間のなかに成長するものでありそれと同じように長い時間をかけないとその意味するものが何か知りえないからだ

自然を観察しているとそれは単純なことでも知りえないのである
キリストは自然を観察してそのことを語ったのである、なぜ人間だけが毎日不安と心配が消えることがないのか?それはいくら貯えてもいてもそうなのである
でも日本でも今や米なら余っている、貯えられている、なくなることはないのである

とにかく自然を観察しているとそこに平和がある、調和がある、でもこの辺は津波と原発事故で乱れた、田園は荒らされた、田畑は原野化したのである
その原野化したとしてもそこに自然に美があり原始的な湿原が生まれたのである
それも不思議なの光景だった、津波では無惨なものしかなかったと見ているが奥深く入江が生まれて波が朝日に光りきらきらと寄せた、それは八沢浦とかでそうでありまた他でもそういうことがあった、それで驚嘆したのである
他にも釧路湿原のような原初の自然が甦ったのである
確かにそこでは赤子が死んで津波の中から発見されたということなど悲惨があった
ただ自然が甦ったということに驚いたのである

もう工業化した現代文明は自然に学ぶということがなくなった、自然より科学技術一辺倒なのである、だからこそ原発に頼り科学技術者を神のようにも崇めたとなる
それで確かに豊かになったのである、ただその豊かさは原発事故でだいなしにされたのである、第一故郷に住めなくなったらもともこうもない、住めないということが最大の被害だったのである、貧乏でも住めるならいいとなり蝋燭でも家族とともに故郷に住みたいというようになったのもそのためである
そもそもそうして人は電気無しでも住んできたのであり死ぬことはないからである

神しろしめす世界とは自然のことである、それは田園にある、都会にはないのである
ましてや東京のような一千万の都会にはもう自然はないのである
ただて田舎に住んでいる人が自然を知っているかというと知らない
むしろ金にならないとか不満の方が多いのである、だから原発が金になるということで積極的に誘致したのである
なぜなら農業でも漁業でも林業でも衰退産業であり1割にも満たない、それはもう常に金にならないとなり拒否されてきたのである
親も跡を継ぐなと子供を殴ったりした、その子供は原発で働くようになったのである
そうして故郷に住めなくなったのである

お前の言うことは現実を知らない、甘いというのもわかる
どれだけ農民が苦しんできたか知らないというのもわかる
だから農業とか漁業でも林業でもすべていいものとはならない、自分の場合は自然から糧を得るということはしていないからである
それがどれだけの苦労かわからないとなる、私の場合はただ自然を観察しているだけだとなる、だから楽だなと見られる、農民の苦労を知ったらそんなことにはならないというのもわかる
だから別に農業とかが全部いいとはならない、農業でも工業的なもの道具が不可欠であり稲荷神社とは鋳成りであり鉄で作られる道具を祭っていたとなるからだ
農業文明にしても工業文明があり溜池を作る土木事業もあったからだ
農業とはそうしてやはり総合的なものなのである

問題は田舎でも自然のことを知らない、学ばないということである
キリストがナザレの田舎から生まれたのであり都会ではない
だから自然を観察していてそういう言葉が生まれたのである
そしてどうしても反都会であり反文明になる
なぜなら大都会から東京でもそこから災いがもたらされた
東電は東京だからである、コロナウィルスでもそうである、この辺では東京のライブハウスに行った人が陽性になったからである

奇妙なのは例えばエジプト文明の方が自然を学んでいた、だからこそあらゆるものが生物でも人間と同格の神になったのである,アニミズムとなるにしろやはり自然を深く観察して生まれた文明だとなる
現代文明は自然と遊離した文明であり自然を遮断するのである
卑近な例では車は便利でも風とか光りでも遮断する、鋼鉄で遮断する
だから自転車で行くように自然と一体化しないのである
この自分の詩でもまさに自転車で回っているから感じたことなのである
自然と自転車が一体化している、小径を行くには自転車がいいのである
また燕のように風を切り飛ばすこともある、こうして鳥ともなり蝶ともなり自然と一体化するのである
人間の五感が脳がおかしくなっているというとき自然を感じなくなっているというとき
車ばかりに乗っていたらそうなるのである
だから車がいらないというのではなく人間の五感を車では遮断されるということである

いづれにしろ自然を観察して自然を知らなければ神も知りえようがない
東京とか大都会にいたら自然はわからないからである、そこで人間はうつ病とかなる
宗教などもそうである、都会から生まれたカルト団体の宗教はもう病的なものであり
ナチスのようになる、そこでは自然とかけ離れた世界だからである
当然そこでは本来の生物の平和などないのである、全体が病的異常な社会なのである
その文明から異様なものがカルト宗教団体とか病んだものが生まれてくるのである
ただ田舎では自然を学んだり知っているかとなるとそれもないのである
結局田舎の人間が今や素朴などどない、やはり金しかなくなっている

ただ人間の生活を隠したということで人間が自然の中で隠されたとき良かったのである
だから私自身は田舎にいても人間とは付き合わなかったのである、その時平和だったのである
もともと人間嫌いであったからもある、田舎の人間も醜悪なのである
そうできたのは家族がいたからだとなる
これも異常だったとなるが文明人も異常だったのである
異常性は比較すると見えるのである、自分自身が異常な人間だとしるのは比較するときなのである、その本人もわからないのである
私の所にきたのは介護になったときそういう異常な人たちだった
人のことなど省みない異常化した人間たちであり地獄だった
ただそういう人達は自分が異常だということを自覚していないのである
これと同じように自然界から観察して見た時人間社会が都会でも異常なのかわかるのである

2021年07月14日

夏の小径の花 (フラワーアレンジメントの写真にとる工夫)


夏の小径の花

(フラワーアレンジメントの写真にとる工夫)

whitelily111.jpg


whitelily111_FotoSketcher.jpg

クリック拡大ーenlarge

abstract lily1.jpg

yabukanzou111.jpg


点々と田舎のともしび藪甘草


この道のなお明るしや我が一人花を手折りて帰る夕暮れ

野の花を手折りて帰るこの道やとがめる人なし桑の実もなる

百合の花瓶に挿して匂いけり広き室にし我が飾りけり


雲っているけど外を自転車で一周して来た
街に一軒の花屋で花を買った、ここでは一軒しかなくなった
ただ畑が荒地化したところで花が咲いていたので手折り挿した
そこはとがめられることはない、なぜなら畑は荒地化しているからだ
そういう土地が多くなった、相当に田んぼでも荒地化した
この辺は特に放射線の被害でそうなったがそうなりやすくなっていたのだ
たいがい老人は体が弱り田畑を維持できなくなっているからだ
とにかく田畑を維持することは手間であり苦労が多いのである

藪甘草はいかにも草深い田舎に咲くのにふさわしい、これは何か花瓶にさすのには向いていない、草深い所に咲くのが向いているしいかにも素朴な田舎の女性のような花なのである、昔の農家の嫁のような花である
ただ今は農家でもサラーリマンしていて農業で生活している人は限られているのだ
農家育ちの女性はそういう感じである、ただ見映えが良くないから底辺として苦労して生きたとなる

フラワーアレンジメントでも写真をとるとき他の写真を見たら背景とか照明で工夫している、フラワーアレンジメントのいい写真をとるには写真室が必要だと思った
ただそうなるとめんどうになる、バックの背景を変えて写真を撮った
田舎だと野の花を無料でとったりできる
次は海辺で拾った石を花台にした写真をとってみる
近くにあるものを利用することが田舎ではできる
芸術は別に高価なものを買ってできるともならない、ただ工夫が必要だとなる

2021年07月13日

この世に完全な安心安全などない (コロナウィルスのリスクを許容する時期が来ている?)


この世に完全な安心安全などない

(コロナウィルスのリスクを許容する時期が来ている?)


人間はこの世に生を受けた時、すでにリスクがある、まず安全にうまれるかどうかもリスクがある、子供が死産の場合もあるしまた母親が死ぬ場合もある
近くでそういう女性がいた、ただそういうリスクは減ってきた
また子供が死ぬことも多くそうして死んだ子供の名前を墓に見る
人間は医療が発達しなかったり栄養が悪いと子供でも死に安いのである
それは今でも後進国でアフリカなどでは同じである

つまり人間は生まれた時からすでにリスクをかかえて生きている、子供でも交通事故にもあうし何か危険な目にあうし死ぬこともある、遊んでいてもリスクがある
決行危険な遊びをしている場合があるからだ
だから結局人間はリスクがないということはないのである
どんなに気をつけてもやはり事故があり確率的に死ぬこともある
それは避けられないのである、それがこの世に生を受けた宿命だとなる

私の母親は冒険などしないおとなしい内気な女性だった
それでも水害になり水が床上浸水になりその時あわてて米をかかえて逃げようとした
その時炬燵の穴に入って大けがをしたのである
水が入って穴になっていたのがわからなくなりそうなった
結局人間は家にいても安全はない、リスクがある、津浪が来て地震がきて家が流されたり村ごと消失したりしたのには驚いた
だからなぜそんな危険な場所に平気で住んでいたのかとふりかえる

リスクと言えば交通事故は死者が減ったとしても一番確率が高く事故にあう
もうそれは避けられない、あの時ちょっとの差で事故になり死んでいたかもしれないということをほとんどの人が経験しているだろう
だからちょっとしたことで人間は死ぬということは普通なのである
それでも車社会でありリスクを許容して生きているのである
私は何かずぼらであり車運転に向かないから車を持たないのである
車を運転したら早い時期に死んでいた、それほど車というのはリスクなのである

今日テレビでこれからの問題はどれだけリスクを許容するかであると言っていた
もうコロナウィルスとともに生きざるを得ないから何でも制限する必要はない
with コロナで生きるほかないと言っていた
そういう実験をイギリスではしている、アメリカではもう普通の生活に戻っている
日本ではどうするのか、敏感すぎるともなる
ただこの辺が正念場だから耐えるべきだとかも言う

確かなことをこの世から完全にリスクを取り除くことはできない
だから原発の安全神話は全くありえないことでありそれでも安全と言って住民をだましていたから許されないとなったのである
リスクはある、でもそのリスクにどう対処するかが問題になる
ただ「安全、安全」と題目のように唱えているだけでは安全はなかったのである
配管などももう老朽化していたのにそういう修繕もしない、ただ安全、安全と唱えていれば安全になっていたら楽なのである
それで大事故になったのである

ともかくリスクはさけられない、コロナウィルスでもどの辺で折り合いをつけるのか未知の物だから迷うのである
科学者や研究者ですらプロですらわからないとしたらどう判断していいかわからないからだ
ただ日本だと完全にリスクをゼロにするコロナウィルスをゼロにするということは問題だとしている
それはできないからである、未知なものでありできないのである
だからどの辺で折り合いをつけるかが今問題になる、このままでだらだらやっていたら
いつ終わるのかわからないしそのうち社会が機能しなくなる
飲食店も倒産して自殺者も増えたりそっちの方の被害の方が大きくなる

そのことをテレビで討論していたのでそういう指針を政府で出すべきだということもわかる、明らかになったことはそれほどの死者が出ないことである、重症者が減っていることである、感染者は増えても重症者が減っていることは安全を計る基準にはなる
ただ未知なものに対しては何か恐怖がつのるのである
そういう私自身がすでにワクチンをして500人死んだというときしたくないからしないのである、そのことはテレビでは報道しないからである

ともかくこの世を生きることはもう生まれた時からリスクがあり時代を見れば70年ごとに大変化がありリスクとなる、70年前の戦争では三百万人も死んでいるからである
もしそういうリスクを想定したらとてもじゃないが戦争などできない
でもあえて日本はアメリカとの戦争に踏み切ったのである
そんなとてつもないリスクを考えていたのかとなる、その責任はどうなるのだとなる
それは原発事故でもいえる、故郷に住めなくなる、50年以上も放射線量は減らない、毒は消えないとかなる
そもそも原発は本当にリスクが大きすぎたから作るべきではなかったのである
でも「安全神話」を作り何も事故になることを想定してしいないから浪江の人たちは一番危険な放射線量が高い津島に避難したのである

株でも投資でもリスクはある、そのことは銀行でも証券会社でも一応言うし事前にそういうものだという了解でしている
でも売る方になるとリスクはあまり言わないのである
とにかく人間社会は常にリスクがあり時代によってもリスクがある
リスクはまねがれないのである、だからリスクにどう対処するのかが問題になる
コロナウィルスでもリスクでありこれにどう対処するのか問題になる
イギリスではある程度のリスクがあるとして許容して普通の生活にもどる
アメリカでもワクチンをうって野球観戦でもマスクをしていないとかしている
もうリスクを許容してそうするようになった

では日本ではどうするのか、リスクをそのように許容できなるのか?
ゼロリスクにすることはできないが日本だとそうしたいとなる
でもそんなことがありえないことだからどこかで許容して普通の生活に戻らないと社会自体が大損失になり自殺者の方が増えたとなる方が問題になる
だからどこかでリスクを許容して生活を正常に近くするほかないとなる
ただ正直南相馬市では飲食店でクラスターが起り警戒するようになった
田舎では敏感でありそれで外出もできなくなったともなる
田舎の場合はこうして敏感だから人流もある程度おさえられる、でも東京とか都会となるとおさえにくいのである、仙台市は一時減ったがまた増えてきたとかある
だからもうゼロコロナではななくwithコロナにするほかないのかもしれない
そういう指針を政府で出す時期なのかもしれない、そうしないといつまでもコロナウィルス騒動終わらないし戦々恐々として正常な生活ができないとなる
その被害の方が大きくなる、それで社会活動がてきなくなりそのための犠牲者がコロナウィルス自体の被害より大きくなることは止めねばならないとなる

人間はやはり運不運がさけられない、個々人でもリスクのない人生などない
どこでどうなるのかわからない、安全安心もない、だから運が関係しているとなる
商売でも運が関係している、私の店が繁盛したのもただ角にあり場所が良かったのと小商いが成立した時代だったからだとなる
つまり運が良かっただけなのである、

それで財産でもラテン語 fortuna(運;[複数形] 財産)→fors(好機;運)→bher-(運ぶ)が語源。「偶然やってきたもの」がこの単語のコアの語源。bear(運ぶ)と同じ語源をもつ。fortuneが運が財産となったのである運が良いか悪いのか相当に人間の陣形に影響している

私でも戦争の前に生まれていたらすでに20代で死んでいたとなる
でもちょっとの差で戦後に生まれたから死なずにすんだとなっているのだ
それも運だったのである、何か人間には運が作用しているのである
この運だけは人間ではどうにもできない、神が運を作っているともなるからだ
人間には様々なリスクがつきものである、そのリスクをなくすることかできない
いくら安全を計って家から一歩もでなくても災いにあうのである
かえって思い切り冒険したので助かったとういこともあるのだ
とにかく過度にリスクを恐れることは問題がある
ただ原発の様な危険なものはもともと作るべきではなかったのである
こんなふうにして事故にあったらもうとりかえしがつかないからである
別に火力発電所なら爆発しても回復できたが原発はできないからである
それなのに安全神話を作ってだましていたから許せないのである

posted by 老鶯 at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

貨幣の謎は深い(2)ー貨幣の成り立ちと貨幣で歪めれた世界


貨幣の謎は深い(2)ー貨幣の成り立ちと貨幣で歪めれた世界

kingoooo1.jpg

ポロス 古代インド英雄伝



金の謎は言葉と似ていて抽象化されたからである、言葉というのも実際は抽象化されたものであり現実ではない、太陽とか海とか山とか表現しても実物を表現などできない
それと同じように数字化することはさらに抽象化して実体を失うことになる
石があるにしても無数の形と色の石がある、それをただ石とするとき実体とは離れたものである、でも石と人間が表現した時、世界を自然でも表現したとなる
石と岩があり同じようでも違う、自然の認識が言葉によって生まれて世界を表現することになった

貨幣が紙幣がどうして生まれたのか?それは紀元前7世紀とかから生まれたのだから
その起源は古い、どうしても貨幣が生まれねばならないから生まれた
物々交換だとすると米一俵とか羊でも牛でも他の物でも市場に出すとなるとそれを運ぶだけで容易ではない、それで交換を容易にするために貨幣が生まれた
いちいち物を交換していたら自分の欲しいものを買うことがとんでもなくめんどうになるからだ
だから交換する媒介とて貨幣が生まれた、だからメデアでありメデウムとなる媒介するものである
でも貨幣が生まれた時すでに不公平になっていたのである
むしろ物々交換の方が公平だったともなる、なぜならその具体的なものから価値を感じるからである
米俵一俵とかあればこれで当分食べる米はあり心配ないとかなる
でも貨幣からそういう感覚を得られないのである
さらに紙幣になるともうこれはただの紙切れではないかとなりそこに富をあると実感できないのである

貨幣には黄金だったら貨幣自体に価値を感じる、それ意外貨幣には感じないのである
それで貨幣が黄金だったということは理解できるのである
別に貨幣でなくても黄金だったらこの黄金を分けるからその品物をくれとなり貨幣の役割をもつことができたからである
貨幣というのは持ち運び安いということも条件なのである
ただ貨幣の役割をしたのは塩とか米とかでありみんなが使用して価値あるものだとてる
田た塩でも米でも持ち運ぶことはできない、だから貨幣となるのには持ち運び安いものだとなる

中近東とかインドとか遊牧民系では金属で宝飾品で飾りつける
男まで飾りつけている、それはインド英雄伝、ボロスとかでその金ぴかの装飾品を見ることができる、絶えずそれを見せびらかしているからである
インドとかでそうした宝飾品が貨幣の役割を果たしていた、それは貯蔵したり持ち運びができるからである、それが宝となったことがわかる
遊牧民だと絶えず移動しているから富を貯えることができない、農業民族だと蔵に米を貯えたりする、麦でも貯える、でも遊牧民は移動するから貯蔵することができない
だから遊牧民では宝飾品が宝となり貨幣の役割も担っていた
金持ちだということは様々な宝飾品を飾りつけることだとなりあれほど体を飾っているのである

貨幣の不思議はトルコのエフェソスのローマの遺跡は立派である、図書館もあった
そこでローマの貨幣だとか売っていた、でもそれは贋金だった、でもそこで立派な遺跡を見たのでその貨幣が本物に見えたのである
貨幣自体には価値がないかが貨幣を価値づけるものはその背後にある
アメリカのドルを世界の基軸通貨としているのはアメリカが世界の覇権国であり軍事力がありドルが世界でどこでも通用する、エジプトの果てのスーダンに近い所で少年がロバにのりワンドーラーくれというのもそうである
アフリカの果てまでドルは通用している、またドルでしか中東の石油が買えない
それで中国が反発するものもわかる、そのドルが世界の基軸通貨になっていることで世界の富がアメリカに集まる仕組みになっているからだ
そこで数パーセントの金持ちが世界の何十億もの富を所有しているともなる

世界で最も富裕な8人が、最も貧困な36億人分と同じ資産を所有しているとの推計を発表した。

このようなことが可能なのはやはり貨幣が紙幣がまた基軸通貨としてドルがあり成り立つのである、第一そんな巨額の富を貯えることが不可能だからである
米俵にしても蔵に積むにしても限界がある、何か貯えるにしても貯えることに限界がある何兆円をもっていたとしてもそれを物で貯えることはできないのである
でも金なら貨幣なら紙幣ならまた黄金でも貯えることができる
そこで黄金が貨幣になったというのは米とか物ではなくても貯えられるからである
そして今や貨幣は数字になるときその数字はいくらでも増やすことができる
何兆円でも増やすことができる、ただゼロを増やすだけだからである
ここに大きな不公平が生まれたのである

それができたのは物々交換のようではない、物の価値を数字で抽象化できるようになったからである
その抽象化によって物の実感が消失してただ数字として計算されるようになり本来の価値が歪められるようになった
どうしても紙幣とかからは価値を感じないのである
それで自分の家のことを書いてきたが家には単なる建物ではなく様々な付加価値があり
それは他から価値とされないものだがそこに住む者にとっては大きな価値がある
それは具体的に目に見えないものとなっているがその価値は大きいのである

そもそも貨幣が人間社会を歪めたのは貯えることにもあった
神殿とかはもともと麦を貯蔵したとか貯蔵の役割があった
つまり倉庫でもあったとなる、食料でも貯蔵できればそれが貨幣の役割にもなり人民を支配できる、食料を貯蔵して配ることができるからである
貨幣で配るより現物がありそれを貯えていて配る、すると人民を支配する王が権力を持つとなるのである
権力は貯えることから生まれたという経過もある、そこで格差社会とか階級社会も生れた人間がどうして権力を得るのか権力が生まれたのかそれが歴史の大きなテーマなのである

自分の宝を地上に蓄えるのはやめなさい。そこでは虫と錆びで、
傷物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にた蓄えなさい。そこでは、虫も錆びもつかず、
盗人が穴をあけて盗むこともありません。
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

貯えることを戒めている、地上にいくら貯えても無駄だと説いている
貯えることは神から見れば堕落にも見える、貯えることによって格差が生まれ階級が生まれたりしたからである
でも貯える技術が生まれて人類は進歩したともなる
塩漬けにして腐食を防いだり乾燥したり食料でも貯えることができるようになり食料不足に苦しまないようにしたからである
貨幣には貯蔵することができるから富を貯えることができる

でも実際は貨幣をいくら貯えてもそれが実質的に富となるとは限らない
ましてや紙幣だったら本当に紙くずになったことがあるのだから安心などできないのである
預金封鎖があるというとき貯金に税金をかけられてもう利息三文にもなる
それなら米でも他の物でも貯えていた方が安心だとなる
そもそも貨幣でも紙幣でもそれ時代には黄金ではないのだから価値はないのである
株だったらその会社に価値があるのであり金にはない、だから会社が存続してその価値が低下しないなら株を持っていた方がいいとなる
ただ株式となると素人にはむずかしすぎるのである
でも株の方が会社に価値あるものとして持っているので紙幣で貯金しているよりは安心だとなる

要するに貨幣とか紙幣自体には価値がないからである
ここは抑えておく必要がある
何か価値あるというとき貨幣とか紙幣自体にはない、だから価値あるものに投資すべきだとなる、絵画でも貨幣や紙幣より価値あるとなる、その絵画によるにしろそうなる
貨幣と紙幣でももっているだけでは価値は生まれないのである
別に貧しい人がいたらその人にでも金を与えたら価値が生まれている
ただ貯金していても価値が生まれないのである
金に貯蔵の役割があるにしてもその貯蔵するということでも貨幣の価値は変動する
紙幣ならゼロになる、紙くずになるからである、現実そうなった人がいるからである
金は貯える点でも安心はない、インフラになり物価が馬鹿高くなったら物で持っていた方が良かったとなるからだ、でも物だと貯蔵するに限界がありできない
それで本質的に人間は貯えることができないともなる


posted by 老鶯 at 18:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年07月12日

価値は多様であり金ですべて計れない―家の価値 (原発事故の避難者でもすべて金で贖えない)

価値は多様であり金ですべて計れない―家の価値

(原発事故の避難者でもすべて金で贖えない)

ひろゆきがどうせ原発事故の避難区域にはもう30年くらいは住めない、でも50年とかすぎてゆくと放射線量は減ってゆくから除染に莫大な金をかけても無駄だというのもわかる
そのことは書いてきた、その除染の金が地元の相双リテックとかに流れて億の金を幹部が山分けしたとかある、またヤクザに流れたとかゼネコンに流れたとか何十兆円もの金がさらに廃炉までにかかる
だから一人二千万と補償して他に住まわせるのがいいとしている
現実的にはそうするほかないともなる

ただ外部から見るとそうした方がいいとなる、でも何か私は家族が死んでから家の価値を見直すようになった、別に家などでも補償金もらったら他に新しく建てればいいじゃないかとなる、新築の家を建てればその方がいいとなる
これは何か都会人の見方なのである、家に金をかけるの馬鹿らしいとか都会人だとその土地とか家にこだわらない、家は一時的なものでありそんなものに金をかけるのは馬鹿らしいとなる、だから大きな金をかけて買わない方がいいということになる

家というのはその家のことと家族でなければ他人はただ機能的なものしか見ない
そこで営まれた家族の生活のことなどを見ない、また歴史も見ない
私の家は二回近くの川が氾濫して床上浸水になった
一回目は伊勢湾台風の時だった、その時は今の家ではなくトタン屋根の平屋だった
その家は私の父親が双葉で酒屋に丁稚奉公して暖簾分けして土地を手に入れて建てたものだった、だからその土地自体はこの街でいい番低い場所にあり被害にあった
それで二階を建ててそこに避難することが悲願となり新しい大きな家を建てたのである
つまり家には何かそれぞれの事情があり歴史があり建てられている
それが外から見るとただ機能的にしか見ないのである

ある人の家は若い時トラック運転手であり人の倍をトラックで荷物を土でも運んで立派な石の庭の家を建てた
その石作りの庭は大きな石を組み合わせたものでありいい庭である
それでその人は病院に半年くらいいた、糖尿病だからなかなか治らない
でももう病院にいたくないとなり家に帰り治療するようになった
そしたら病院にいるより元気になったという、病院では本当にかえって病気は悪化するのである、特に老人の病気は直らないのが多いから病院に長くいるのは良くないのである

ともかくその家が作られたのにはそれぞれの経過があり歴史があるとなる
それはまた土地と一体化してある、特に農家とかなるとまるで大地と一体化したようにある、それも大地から実りを得て暮らしていたから余計にそうなっているのである
だから家の重みが違うのである、それは都会にない家の重みであり価値なのである
何か家族がみんな死んでから家の価値を私は再認識した
家には誇張ともなるかもしれないが依然として家族がここに住み血が通っているともなるやはり親の苦労があり作られたものだからである
おおげさに言えば歴史的に形成された建造物だとまでなる、私的なものにしろそうなる

それで住宅とか間借りしているとかなると何か存在感がないのである
田舎だとやはり家を持っている人が多いからである、代々住んでいる人も多いからであるそれで農家だと三代住まないと仲間になれないというのもそうである
草分けとか最初から苦労して開墾して住んだ農家がありそこが中心となり重んじられていた、農業中心の時代はそういう中心の農家があり村が形成されていたのである
だから田舎だと何か農家というのは街の家より重みを感じる

ただ工業化したりして全体の経済の占める割合が一割にも満たなくなったとき農家の存在感も希薄化したのである
東電の方がずっと存在感があるものとなってしまったのである
東電なしで原発周辺は成り立たなくなっていたのである
実際に私の家は東電で働いて金をためて発てたのですよという人もまた多いからである
でも事故になったときその故郷に土地にすら家に住めなくてったのである
他から見れば不便な場所であり金もらって他に住めばいいじゃないかとなる
それが田舎の家がどういうものかわからないからそうそう見る

人間は今だけをみる、そこで長い時間をかけて積み上げられて作り上げてきたものを見ない、空間的にしか見ないのである
それが他からわかりにくいのである、歴史とは時間の中で作られてきたものである
大きな歴史でなくても家でも祖父母がいて親がいてとか二代くらいは活きた歴史として理解できる、実感できるのである
父が苦労して土地を手に入れて家を作ったんだなとか親が苦労して作ったんだなとかは実感できる
何か外から来るとそうした時間的なものは理解しにくいのである
それで外国に旅行しても今しか見えない、時間的なもの歴史を理解することはむずかしいのである

とにかく大きな長い国の歴史とかではなく、家の歴史とういのは短くても実感できる歴史なのである
おそらく故郷とはそうして時間の中で形成されたものであり一個一個の家にそうした歴史がある、ただ他人の家のことはわかりにくい、ただ家を歴史の基点とするとき歴史でも身近なものになる
家は単なる物ではない、箱でもない、機能的なものだけではない
時間軸の中で空間に定着したものでありそこに重みとか価値がある
特に田舎では農家だと大地と一体化したように家の重みがあった
それが工業化とかなり失われてきたのである

家には何か先祖の祖父母とか親の血が通っているようにも思える
なぜなら人間は死ねば全く何も残らない、骨も残っていなかった、土になっていたからである、でも家は親が死んでもしばらくは残る
そこで親とか先祖を偲ぶとういことができる、もし別な土地に移り新しい家に住んだらそうして先祖から親から受け継いだ家の重みは感じないだろう
そこでは一から新しい歴史を作ることになるからだ
それで原発避難区域に残されたのは親の老人であり子供の世代は住まないのである
立派な家とか庭を作った人もそこには子供の世代は住まないのである
ということは家を通じての歴史を継承をされないということでもある
親はその家を通じて自慢するものがあり語るものがあってもそれができないのである
そこで歴史は断たれたともなる

やはりつくづく親が家族がみんな死んで感じることは人間は死んでもそう簡単に消えない全く価値がないとはならない、何か家を通じても残したものがありそこから死んだ人を偲ぶ、それで家には死んだ人がなお生きつづけているともなる
過去の歴史でも建築物は残る、エジプトのピラミッドでもそうでありローマの建築でも
また大聖堂でも残っているから歴史を偲ぶことができるのである
そういうものが残らないと歴史は偲びにくいのである
日本ではそうして古いものが残っていない、木の建築だから残っていないのでなかなか歴史を偲びにくい、今だけに生きる社会になりやすいのである
第一ヨ−ロッパの民家などでも相当に古い、何百年も残っているのは石造りだったりするからである
日本は生(き)の文化だというとき今生きているものを大事にする、木でも新鮮な木がいいのである、だから今宮とか新宮があり常に社でも新しくするし伊勢神宮でも20年ごとに

神宮には内宮にも外宮にもそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、式年遷宮は20年に一度宮処を改め、古例のままに社殿や御装束神宝をはじめ全てを新しくして、大御神に新宮へお遷りいただく神宮最大のお祭りです。
1300年にわたり繰り返されてきた式年遷宮は、20年に一度造り替えられる常に瑞々しいご社殿で、永遠に変わらないお祭りが行われることに大きな意義があります

日本の文化はやはり木の文化だから長い歴史を感じにくいのである
何か新しい物がいいとされる文化なのである、伊勢神宮という古い場所でも新しいものがいいとされるのは木の文化だからだとなる、真新しい木の新宮に神が宿るとなるからだ
ここがヨ−ロッパとかの石の文化との相違だとなる
もしエジプトでもピラミッドでもないとしてたら歴史を感じられないだろう
ただ砂漠だけがあるとなってしまうからである
ピラミッドがあることによって三千年前の歴史を偲ぶことができるからである

いづれにしろ原発事故ではすべて金で贖えない、それは家という建物でも別に他の土地で新しく建てればいいというときそこにある目に見えない価値を認めていないからであるただ物としてしか家を見ていないからである
なんでもすべて金で贖(あが)なうことはできない、家には建物だけではない、付加価値がある、それが歴史であり精神的なものだからである
youtubeとかの問題は何か物事を深く考察しない、表面的なことで終わっている
深く考察するとなるとやはり話すのではなく文章にしないと伝わらないともなる



posted by 老鶯 at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

熱中症で70代の人が工事現場で死ぬ (老人は汗がでず体温調節できない)


熱中症で70代の人が工事現場で死ぬ

(老人は汗がでず体温調節できない)

heatup1.jpg

熱中症計ー見守りっち


東京都文京区で10日、70歳代の建設作業員の男性(相模原市南区)が工事現場で体調を崩し、熱中症の
疑いで死亡していたことがわかった。

都監察医務院によると、熱中症の疑いによる死者は東京23区で今年初めて。

警視庁駒込署によると、男性は10日午前、文京区千駄木の住宅工事現場で作業中に体調不良を訴えた。
その後、トラックの中で休んでいたが、工事関係者が午後1時頃、車外で倒れている男性を発見。駆けつけた
近くの病院の医師がその場で死亡を確認した。

男性は騒音への配慮から、車内のエアコンをつけていなかったとみられ、駒込署が詳しい状況を調べている。

気象庁によると、10日は東京都心で今年最高の33・4度を記録していた

https://news.livedoor.com/article/detail/20517800/

70歳以上となると熱中症は怖い、私自身が自転車で春でも夏のように暑い時遠出して
返ってきたら吐き気とか痙攣までした、この時実際は熱中症になり命の危険までなっていたかもしれない、かなり痙攣したからである

なぜ老人が70代以上とかなると熱中症になりやすいのか?
何か暑くても汗が出なくなる、それで体に熱がこもるのである
体温調節ができなくなる、それで頭でボーとしてくる
それは家の中でもそうなる、熱中症で死んでいるのは家の中で多い
エアコンがなかったりエアコンに拒否反応があるのも老人が多い

トラックの中でエアコンしないでいたら危険である、33度というのも危険だった
まずこの年で工事現場で働くのはきつい、熱中症は紫外線を受けてもなりやすい
曇っていても紫外線を受けるからだ
だから暑くなると自分は外に出れなくなった、まともに陽ざしを受けると危険になるからだ

つくづく汗をかくことが人間には必要だった、それがなくなるとやはり体が正常ではないのだ、太った71才とかの女性は汗が出て困るというけど汗が出るからうらやましいとなる汗をかくことは体温を調節できるからいいのである

それで今日は熱中症「見守りっち」という機械を買った、それで見ると警戒になっているやはり今日は警戒レベルであり次に厳重警戒となると外に出るのも危険になる
室内だったらエアコンとかする必要がある

とにかく暑くなると自転車で出れなくなる、遠くには行けなくなる
するとコロナウィルスで出れなくなり暑さでも出れなくなる
南相馬市はコロナウィルスで警戒区域になり外出や食堂とか飲み屋に行くことが禁止されている

それでつくづくこうして家にこもるようになると家が大事になる
家が広くないと狭い部屋に籠っていると窮屈になる
それが意外と精神に影響する、日本人の家は狭いから本当に巣籠り生活になるとうつ病にもなる、日本人は家の中で快適に過ごしにくいのである
私は家の中で二階もあり広い廊下もあり寝室もありと・・・・それで家の中で気分転換できる、それで何か詩作したりイメージが湧いたりする
この気分転換が広い家の中だとできるのである

いづれにしろ70代でも外で工事現場で働くことはきつい、それも高齢化でも働かざるを得ない人が増えていることは確かである
警備員とか給料もいいからである、でも外での仕事は夏は苦しくなる
高齢化社会で年金をもらって余裕で暮らしている人は少ないと思う
とにかく年金が厚生年金にしても少ない、平均して15万くらいだとすると妻の国民年金をあわせても20万くらいになり足りないのである

そして生活保護をもらえばいいいうがここでは最低限の生活保護費がもらえていない
4万国民年金もらってあとは医療費が無料になっているだけである
だからその女性は必ず水道費から電気代からガス代から携帯の通信費がたりなくなり払えないのである
つまり生活保護はこうしてこれから最低限ももらえないのである
だから生活保護に期待する人がいるけどもうそれで最低限も暮らしていけないのであるこれは自治体で違っているにしろますます日本が貧困化すると厳しくなる
遂にまともに食事もとれないともなる
それは実際に目に見えている、もっと厳しくなり保障できないのである

ベトナム辺りが物価が安いとしても医療費は馬鹿高くなる、だから老人向きではない
つまり困窮する老人が膨大に増えてくる、ここで外で工事現場で働いて熱中症で死んだ老人も今の日本を象徴している
現代は長い生きでも老人受難の時代なのである
近くのスーパーで三時間くらい働いている老人ならいいともみる
でも外で働くのはきついとなる
ただ自分のように家の中で仕事しているとなればいい、でも家の中でも熱中症の危険があるのだ
だから今熱中症は自分にとって怖い、頭がのぼせたようになりぐったりするからである
今日は結構蒸し暑いので家の中で暑い、それで警戒なのである

2021年07月11日

貨幣(紙幣)の謎は深いー金に物のような価値を感じない (親が残した家には具体的に価値をいつも実感する)


貨幣(紙幣)の謎は深いー金に物のような価値を感じない

(親が残した家には具体的に価値をいつも実感する)

貨幣とか紙幣とか何かという時それには様々な見方がありわからなくなる
ただ単純に考えれば貨幣でも紙幣でもそれ自体にはいくら金だとしても価値を感じない
確かに小判だったら金貨なのだからその金貨自体に価値がある
その金を加工し材料として使えるからだ、だから金本位制になったこともわかる
もし今でも江戸時代の小判だったら価値がある
それは歴史的価値と金そのものの価値が減少しないからである

貨幣とか紙幣の問題としてその物自体に価値を感じない、ここに紙として一億円積まれたとしてもそれは紙に過ぎないともなるからだ
ただ黄金の貨幣を積まれると違ったものになる
私の母は紡績工場で糸取りして働いていた、その時給料代わりに米を何俵かもらった
それを親に与えたら喜んだという
それは苦労して働いて米となってもらったからだ
もともと江戸時代が貨幣の紙幣の代わりをしていたのは米だったからそれがつづいていたともなる、石高で大名の力か計られていたからである
侍の給料も米で石高として与えられていたからである
そうなると具体的に価値が実感できる

だから貨幣ではなく紙幣ではなく物で給料でも何でも与えたりすればいいという人がいるというのは米を与えればその米が農民が苦労して作ったものとしてその重みを感じるからである、貨幣になると具体的な価値をとして実感しないのである
だから人間の労働を貨幣に代えるとその時点で別なものになっていた
貨幣とか紙幣自体に価値は感じないのである
だから紙幣を一億円積んでもそれ自体に価値を感じないのである
だから本当にただ紙くずになるという不安にさいなまされているのだ
それで最近預金封鎖があり本当に紙幣が紙くずになってしまうということで不安になる
実際に私の母親は前の夫が事故で死んだとき一生食べていける金をもらったのである
でも戦争が終わり本当にその紙幣が紙くずになったのである
ただわずかの土地を買ったものが残っただけだったのである
預金封鎖とか金の価値はそうなるから怖いのである

でも何か例えば家があるとする、今まではあまり家の価値を考えなかった
それがこの家を残した親が家族がみんな死んでこの家の主になったとき家のことを考えるようになった
この家は二回も床上浸水になった、最初は伊勢湾台風とかの時であり古い平屋のトタン屋根の家だった、それでその土地は私の父親が買ったものであり街の中て一番低い土地だったのである、でもそういう土地でも戦後まもなく小さな店を開き角にあり繁盛したのである、その時はスーパーもないし車もない徒歩の時代であり近くの店で買い物していたからである、私の家族は全然商売上手でもなかった、ただ場所がいいのと時代に恵まれて繁盛しただけなのである
こうして水害で大きな被害にあったため二階建ての家を作ることが悲願になりまだ回りでも貧乏な時代にいち早く大きな二階建ての家を作ったのである
だからこの家に今一人住んでみると家の価値をつくづく感じるのである
とくに知的仕事となると大きな家に住むことがいいことがわかった
狭い家で部屋だと窮屈になり思索に向いていないことがわかったからだ
広い部屋でゆったりして瞑想したり思索したりすると何かひらめくもなることがわかったからだ

いづれにしろ自分はこうして知的仕事をできるように親によって時間でも家でも与えられていたのである、引きこもりでもそうである
別に引きこもりでも何も言われず自分はこの家に籠もり自分の好きなことをしていたからである
ただ本当は20代でも30過ぎても実は留学することができた、それだけの金が実はあったのである、自分はないと思っていた、でも家族にはそれだけの金があった
でもないと思っていたから留学はしなかった
その頃海外旅行でも馬鹿高いものとなっていたし留学となれば特別な金持ちしか行けないものだったのである、そういう時代だからそこまでは恵まれなかったのである
現実にヨ−ロッパに行った人はシベリア鉄道で行っていたのである
飛行機代が馬鹿高いからそうっないたのである

とにかく老後になると家の価値が大きいとつくづく思った
コロナウィルスでもテレワークとなると広い家が必要なる、なぜなら家が仕事場になるからだ、知的な仕事をするにはやはり書斎とか大きな家が必要になる
でも日本では狭い家が多く恵まれていないのである
人間が価値として認識するのは貨幣とか紙幣とかからではない
実際の具体的なものからなのである、貨幣を紙幣を使って物を買ったりしたときなのである、貨幣や紙幣をいくら貯えていてもそれが価値あるものと思えないのである
だから蔵に米俵を積んであればそれで価値を実感できるのである

何か貨幣や紙幣の価値は本当に百からゼロにもなる、でも現物だったらそんなにはならない、ゼロにはならないのである
ただ本当の価値は現物にあり貨幣や紙幣にはない、だから金の価値は大きく変動する
一定した価値を持てないのである

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

家の価値は住んでみて飽きないものがある、それもその土地の材料で作られたものでありその土地の人々の力で作られたということで価値がある、奈良の山なるということで価値がある、それは外材ではないからである
何かここに一億円の紙幣を積んでいるよりこの大きな家の方が価値があるとみる
それは家には具体的にそこに費やされた材料とか労苦と技術とかを感じるからである
ここに何か貨幣とか紙幣の根本的な問題がある
紙切れかとコインでもそれ自体に価値を感じられないからである
何か価値あるものを持ちたいという時、貨幣とか紙幣と交換して具体的なものでもっていたいとなるのは当然だとなる
ただ米俵でも積んでおくこともできない、貯蔵できない、だから家とか具体的な実物で価値を感じる、そこに家を残してくれた親に感謝するとなる
それは具体的に家から親のこともありがたいと感じるからである
貨幣とか紙幣からは感じにくいのである、そこに貨幣と紙幣とかさらに数字だけとなる金についても価値を実感できないという問題がある

posted by 老鶯 at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

文明と文化の相違 人間の業なる文明は崩壊する運命に


文明と文化の相違

人間の業なる文明は崩壊する運命に

【文明(ぶんめい)】

⇒人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態。特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす。

「文化」=人間が作り出した全てのもの。特に、精神的なもの。

「文明」=生活を豊かにするもの。特に、物質的なもの。

文化は芸術、知識、信念、習慣、伝統、道徳、祭り、価値観、態度、習慣などを含み、これらは社会の一員として人によって受け継がれています。


文明と文化の相違は何かとなるとわかりにくい、なぜなら文明という時、エジプト文明というときそれは大きな範囲の一つの合成体であり価値体系でありその中に文化も複合されたものである
だからエジプト文明という時、何か一つのものを建築物でも取り出して見てもわからないそれは全体の中にあり部分が文明ではないからである
それで過去の文明を見る時常に一つの部分から遺物とかからみる、でもそれはその時代の文明の全体の中で機能していたものであり部分を見てもわからないのである
どうしても過去は歴史は部分として見てしまうから誤解するのである

エジプト文明というとき例えばビラミッドが文明の象徴としてあると見る
でもその一つをとりあげても切り取ってみてもわからないのである
そして何でこんな巨大な物を作り上げたのか?
それは王の力であり作ったものは奴隷だったとされる
でも今ではエジプトの民衆が王の命令と強制されたのではなく自主的に作り上げた宗教的建造物だったとされている
つまり民衆の合意があり作ったものであり王の力によって強制されたものではない
なぜならピラミッドは王の墓ではないという見解になったからである
当時の価値体系の中でピラミッドは作り出されたのである

文明というときわかりやすいのは宗教が基となっていることである
キリスト教文明がありイスラム文明があり仏教文明がある
西欧文明というときキリスト教文明でありその価値体系の中に社会があった
イスラム文明でもイスラム教の価値体系の中に社会があった
そのことが明治維新の時、西欧文明を取り入れた日本人はわからなかったし理解しなかった、また理解することを拒否したとされる
それは内村鑑三などキリスト者になった人が言っている
西欧文明とはキリスト教文明だとするときキリスト教を理解しないで理解することは不可能だとなる、またイスラム教は今でもイスラム教を理解しないで理解することが全く不可能である、その規範は社会と一体化しているからである
政教分離はしていない、社会の規範として法律も一体化してしイスラム文明を形成しているからである

日本人はヨ−ロッパに使節を派遣した時、ヨ−ロッパをキリスト教の文明だとみていないその技術を文明と見たののである、つまり蒸気機関車とか様々な技術を見て機械でもみてそれが西欧文明だと見たのである、だからキリスト教を基にしているからキリスト教に習うということはてかったのである
不思議なのは仏教の場合はインドから経由して中国で仏教文明化した
つまり中国でも仏教文明化したのである、その遺跡が中国には残っている
ただその仏教文明は古代であり8世紀くらいのものでありその後は衰退した
ただ宋の時代にも日本の鎌倉時代にも禅宗が栄えた
その中国の禅宗を習うために道元が寧波から天童寺で修行したのである
また鎌倉の五山文化があり禅宗は中国で変化した仏教である
仏教文明を中国でも日本でも形成されたのである
それもやはり宗教を基にした文明であったとなる

ただ今文明というとき別な見方をしている、文明とは科学技術文明であり機械文明となっている、文明の利器というとき自動車があれば自動車文明ともなる
電気を使うから電気文明ともなり石油エネルギーを基にしているから石油文明ともなる
そこに便利なものであり物質的なもの機械を使うことが文明とみる
それはグロ−バル化したものであり車も世界中で使うから自動車文明ともなる
でもそうなると宗教を基にした文明とは違ったものになる
資本主義とか共産主義とかあるがそこに精神性はない、資本主義は修道院から生まれた
というとき他者を助けるために勤勉に働き資本蓄積として富を作り出して分配する
それは神に仕えるものとしての労働でありそれが資本主義の基だとマックスウェバーは説いた

でも現実は今やグロ−バル化した経済は世界の富の50パーセントが数パーセントの人たちによって収奪されている、それはその成立ちとはまるで違ったものになった
共産主義でも中国では唯一残った国だがそこでも平等を目指したのに格差が激しいのである、毛沢東時代には何か共産党幹部でも人民服を着て平等を目指していた
今は共産党幹部は超富裕層を形成している
資本主義とか共産主義も一つの理念としてイデオロギーであり宗教と似ている面はあった理念というときナショナリズムとは違い広範囲の規範となるものがありそれが文明の意味でもある
もし狭い範囲で一国とかでしか通用しないとなる文明とはならない
ただ現代は文明の解釈は取り違えている、科学技術物質文明が文明とされたている
それは経済とか科学技術からのみ文明をみる
つまり蒸気機関車に乗り自動車に乗り飛行機に乗り船に乗るとか文明の利器を使う人が文明人だとなる、それはITが発達するとパソコンでもスマホでも使う人たちが文明人だとなる、それを使えないものは文明人ではないともなる
それはグロ−バルに通用するし理解しやすいからである

そうあるなら中国人は今や文明の利器を使いこなし日本よりIT国家となり科学技術機械文明化したのだから文明人だとなる
科学技術を機械を使いこなせない人たちは文明人でないとなる
そういうふうに文明をみるときはそうなる
でももともと宗教を基とした文明なら宗教となれば倫理的なものであり規範とする道徳がありまた法律もありそこで国家を運営するとき文明人だともされる
そのためにcivilizationのcivilは市民でありその市民としての自覚がありその市民としての義務を果たすものが文明人だともなる
だからウィグルとか人権思想があり人権を弾圧するものは文明国家ではないとして欧米が中国に敵対する、つまり文明の利器を使うだけのものが文明人ではないとされる

文明とは何かというとわかりにくい、明確に定義できない、むしろ文化はわかりやすい
ただ大きな枠として分明かあり個々に文化がある、文化は多様であり国々に文化があり国でも地域ごとに文化がある、文化はcultureはcultivate(耕す)から来ているからであるその土地土地の風土がありそこで耕してできるたものが文化だとなる
その土地土地の風土と密接に結びついている
そのためにその土地土地の名のついたワインがある、その味は違っているからだ
それは文化なのである、国々でも料理が違っていて日本料理となればそれは文化なのである

国の中でも方言が訛りがあるというときそれは地域地域の文化となる
日本語は日本の文化の基幹だとなる、でもグロ−バル化するとどうしても共通の概念を理解する必要がある、そのために共通語が必要だとなりそのために便宜的に英語が世界共通語のようになっている
それは例えば数学とか数字とにている、数学と数字はそれぞれの国の言葉とは違っていて科学技術の基ともなり共通性があるからだ
ただ数学とか数字にはその土地土地などと関係ないから文化ではないとなる
数学とか数字で共通てものとして世界をするとき文化は失われるのである
グロ−バル化は国々の文化を破壊する、イスラム文明がありイスラム文化がある

文字でも言葉でも違っている、それを否定して漢字にして中国語にするとき文化は破壊されるのである
ただ中国という文明に中華文明にするときそうして文化を破壊して統一して治めるとなるだから文明と文化は対立するものとしてもある

そこで不思議なのは資本主義がある共産主義がある、でも資本主義文化とか共産主義文化がないのである
キリスト教文明がありキリスト教文化があり芸術が生まれた、イスラム教文明がありイスラム文化がアラベスクとか抽象画芸術が生まれたとかる
仏教文明があり仏教文化芸術が生まれた、でも資本主義文明があり共産主義文明としてもそこに文化が生まれないのである、それは文明とは言えないとなる
イスラム文明とキリスト教文明は対立した、資本主義文明と共産主義文明をも対立して冷戦があった、イデオロギーと理念の争いがあった
文明とは広範囲に規範として共有する理念をもつことである
その理念の対立が共産主義の中国と欧米のキリスト教文明とか人権主義文明とか何か欧米の理念と対立するものがありそれが争いとなる
ただ世界は西欧文明化したのでありそれに従うべきだということで人権主義になりそれで中国を批判する
そのヨ−ロッパにしてもアジア人の人権を踏みにじってきたのである
植民地化して奴隷化することもしてきたのである

ともかくキリスト教文明とイスラム文明の対立は宗教の相違から起きている、なぜなら規範が違うからそうなる、でも宗教となると偶像崇拝拒否では一致しているしどちらのも宗教もアブラハムを祖としているのである
要するに文明とは何なのか定義できない、西欧文明は優れているからアジアでも従いとなったがその実は力によるヨ−ロッパの支配であり植民地化だったからである
ヨ−ロッパ文明は科学技術文明では優れていた、ては人権を言うけどアジアに対して人権を言うけどアジアは人権が無視されて植民地化されて奴隷化されたともなる

ただ文明というとき現代は科学技術的機械文明としてのグロ−バル化でありそれは共通しているのである、ただ道徳なき経済であり文明の利器として自動車文明となり石油文明となり原子力文明とかなっている
それは世界共通の文明でありまた世界都市文明ともなる、世界の都市はとこでも似通っているからである
civilizationのcivil(市民)とは違う、メガロポリスの大衆とか群衆になったのである
一千万の東京都民とかとして市民とは自覚できないだろう
いづれにしろ文明とは国々を越えた民族を越えた規範を価値体系をもつものである
それで宗教が基になった、それも世界宗教と言われるものが基となった
そこにモラルがあり規範がありそれに従うということで治められるとなっていたからである

でも資本主義にモラルとか規範がない、資本主義にもない、それでどちらも崩壊するとなる、資本主義と共産主義が裏表であり実際は経済原理に基づいた同じものだということも言われる、だからどちららも国々の文化を否定するのである
アメリカだったら多国籍企業となり国々の国境とか文化を否定する
そこで経済だけを追求する、そして世界の富を収奪する、そこに経済原理だけがあり利益追及だけがあり道徳なき経済となっている
たから両方とも限界が来て崩壊するとなる
結局どんな文明も矛盾になり不公平なり崩壊する運命になる
何かマヤ文明とかインカ文明でも高度な文明だったが放置されて森に埋もれてしまったのである

要するにどんなに人間が努力しても理想の社会など生まれない、必ず崩壊する運命にある自壊する運命にある、そこに人によって作られる文明の限界がある
理想の世界は神の国にあり地上では作れないのである
だからむしろこの世は欲のために滅びるとかハルマゲドンで最終戦争で滅びると予言されているのであるそれを象徴していたのが原子力文明とも言われるものだった
大事故になりその住む場所さえ奪われた、放射能汚染は生態系まで破壊したからである
それは原子力文明の崩壊でもあったのだ
プルトニウムが二万年消えないとかなり生態系が回復しないからである

2021年07月10日

薔薇、擬宝珠(ぎぼうし)、フラワーアレンジメント


薔薇、擬宝珠(ぎぼうし)、フラワーアレンジメント

tenrose1.jpg

giboushu11.jpg

giboushi111.jpg

rosearrenge1.jpg
rosetwocolour11.jpg

はなやぎて薔薇の花咲く十数輪尽きじと咲きぬ栄なるかな

我が庭のしとと雨ぬる石のそばギボウシ(擬宝珠)の花咲き開くかな


一本の木に二色の薔薇が咲いた、この薔薇は次々に咲いた
他でも薔薇は咲いているからここの土地は薔薇は咲く
だから薔薇を植えればいいと見た、土地に合わないと咲かないからだ

今の季節は梅雨でありしとしと雨が降って外に出れない
そこで庭の石を見ている、擬宝珠(ぎぼうし)の花が咲いている
しっとりと濡れて咲いている、梅雨にふさわしいとなる

フラワーアレンジメントは壺とか背景とかでも違って見える
写真を撮るのにはそこを工夫しないときれいにとれない

今年はこの辺は雨はさほどふらない、何日かして晴れる
去年は雨が降って被害があった
もう少し雨が降った方いいようにも思う
田んぼで水抜きするというのは水があまりたまっても稲の生育には良くないからだ
田んぼは水の管理がむずかしいのである

2021年07月09日

創価公明は中国の命令で動く一部隊である (文明の病的現象としての創価ーナチスとも似る)


創価公明は中国の命令で動く一部隊である

(文明の病的現象としての創価ーナチスとも似る)

tubasasoka111.jpg

sokabook1.jpg



●勤行・唱題しない会員が多すぎる!
●地区の運営マニュアルがない!
●折伏する活動家が激減!
●子供への継承ができていない!
●人材育成システムが存在しない!
●組織を運営し、発展させるプロがいない!
●提案・意見・苦情を吸い上げる機能がない!



創価とは何なのか何もの目的でそもそも作られたのか?
それが不可解なのである、そしてなぜあれほど会員が増えたのか?
それは信仰のためとかなるが現実は信仰とは関係ない
第一あらゆる欲望が肯定され信仰でさらなる欲望を得るために祈るのが宗教ではありえないだろう
題目を一日唱えている人もいる、それは何のためなのか?
それは現世の欲望をかなえるためである
あらゆる欲望は否定しないしかえって奨励される、欲望が強いことがエネルギーがあるとして肯定されさらなる欲望を満たすために祈りつづける
日蓮宗は何か題目を唱えて江戸時代でも練り歩いていた
攻撃的な宗教てある、ただ念仏宗でも同じようなものである

ただ日蓮宗はより政治的である、ただ戦国時代になりそうした権力と一体化した宗教が信長によって弾圧されて江戸時代には仏教は幕府の寺社奉行の支配下になって権力に対抗することはなくなった、役所のようになり人別帳とかで管理するものとなった
それで寺は幕府に優遇された
でもそのことで神社側が不満があり明治維新になって廃仏毀釈運動が起きて仏像などが破壊されたのである、天皇は神社の総元締めであり天皇が復活したからそうなった
つまり宗教も利権と深くかかわりそうなったのである

ただなぜ創価が会員でも増えたのか、それはやはり戦後の混乱の中で何か拠り所を求めたからだろう、特に創価は都会の宗教であり都会を重んじる
東京と大阪を主戦場として会員を増やしたのである
それで東京と大阪では選挙で常勝であり仏法の勝利だとして鼓舞していた
それは全く都会中心の宗教でありまた団地の宗教ともされた
地方から田舎から来た人が何か精神的拠り所を求めて入信した、会員になり仲間意識を育てだとなる、だから本来の宗教とは別な動機がありそれで増えたのである

第一宗教というときどういうふうにしてどこから生まれたかを見ればわかる
エホバは人一人もいない砂漠から荒野に現れた、大都会の人が密集しているような場所に神は絶対に現れない、神は不浄を拒絶するから砂漠とか自然の厳しい場所にこそ宗教がありうる、だから山伏とか山岳宗教でも自然の中で身を浄めるのだからそっちの方が宗教らしいとなる
イスラム教でも仏教でも岩窟で宗祖が悟りを開いたとか神からの啓示を受けたとなる
東京のような所で神も仏もない、ただそこに大衆と群衆とビルがあるだけであり索漠としている、ただ巨大な高層ビルを見上げて人間の卑小さを知らしめられるだけである
あとはただ数字としてカウントされもう人間はいない東京砂漠なのである

創価の異常性はヒットラーのナチスと類似もしている、現代文明の中でアトム化した人間が砂のようになった人間が何か理由もわからずにそこでナチスのように一体感を感じる
仲間意識をもてるとなり増えたのである、その内部では別に助け合うとかではない
結局は一部の幹部とか議員になるとかで上昇意識をもたせて組織を活用した
第一人間が組織化すること団体化することは必ず地位とか序列を作る
それは中国の共産党自体がそうである、序列を作り内部抗争があり権力闘争があり反対する者は殺すことを繰り返してきた
それはまさに人間の業だった、カルマだったのである
人間は組織化団体化するとき非情になる、そしてその数で権力をもち高圧的になる
民主主義といっても田中首相が政治は金と数だと言ったように数が力なのであり一個人など一票など何の力ももっていないのである

そして創価というとき何か数が多くてそれが恐怖になるが実際活動している人は少ないのである、最近は全国の選挙でも百万票を減らしたように活動していない人が膨大なのであり衰退の一途をたどっているみたいだ
その数の中味は実際はただ数だけだともなる、信仰などは全くない、ただ何か得することがあるとか上の方になると議員になれるとか地位を得るとかしかない
何か本来の宗教的なことは一切ない、そして幹部のしていることは膨大な何百万という名前だけの会員に一票を入れさせるために一軒一軒回る
常時選挙で勝つ、票を得ることが目的だからそうなる
だから創価とは膨大な幽霊会員の団体だとなる、実質の連帯とか村の共同体のようなものはないのである
それはそもそも文明人間自体がつくづく幽霊人間なのである
ただ数として統計としてあるだけであり本来の人間などいなくなっているのだ
そういう現代文明からナチスが生まれたのであり創価も同じなのである
現代文明の中から生まれた病的集団だとなる,オウムも現代文明の落とし子でもあったからである

ghostmember1.jpg

人と人は結合しない
大衆や群衆となり
見せかけの連帯に酔う
しかしその騒ぎののちに
何か実りなき虚しさ
結合した建築物ともならない
分解して結び合わない
そして散り散りになり
砂のように結び合わない
砂には足跡も残らない
ただ砂に消されて跡を残さない
まさに手に握る砂がこぼれてゆく
現代人の悲しさ

いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ 啄木

啄木の歌がそうである、カルト教団でも何かそこで人間と人間が結び合うことを欲して生まれたことはわかる、でも現代文明ではそれがないのでありカルト教団でも実際はないのである、だから創価でも何百万人の幽霊会員がいる
その幽霊会員を一票に結びつけると数として具体的な権力となるから常時選挙活動しているのが創価なのである、でもそこに本来の共同体などないのである
だからそこ幽霊会員が膨大にいる、そもそも人間が大都会では幽霊のようになっているのである

いづれにしろ創価とはな何なのか?何の目的で集まったのかも良くわからないのである
表面的には日蓮宗であるとしても政治団体でありなぜあれほど中国に従属してその配下のようになっているのか?その目的は何なのか?
ただ別に周恩来時代から中国は今のように発展しないときから親密であり中国様様になっていたのである、それは池田大作がそういうふうにしたとなる
ということは今の中国の巨大化を見ればそれを見込んでそうしていたのか?
とすると先見の明があったとなる、世界のことがわからない自分からするとやはり国際性がすでにあったとなる

創価とは中国の命令なら何でも従う日本の中の中国の一部隊なのである
だから公明党が国土交通大臣になったりして土地規制法でも骨ぬきにしたのである
この権力が日本にとって大きな権力だからである
それは自民党を下支えてして選挙で創価会員が票をまとめて当選させてくれるからである公明党が応援しなければ半分くらい自民党議員が落選するともされるからである
つまり票を集めることは権力を得ることに通じているからである
それで常時選挙態勢なのが創価公明なのである

ともかく創価の影響は知識人でもまきこみプロパガンダとしている、その最たるものが
佐藤優でありキリスト教とか言っているが全然違う、池田大作を礼賛することなどありえないからである、それから田原総一朗などもそうである
これも本を売るために礼賛の本を書く、またマスコミにも新聞などでも福島民報で聖教新聞をすらせてその資金源を提供している
毎日新聞などでもそうである、これは創価が金もありそこで金を権力を得るために活用する、会員から金を集めて権力掌握のために金を使うのである
だからマスコミはそういう組織団体のために使われいるだけであり真実は報道しないのである、それは新聞でもテレビ局でも金がかかりすぎるのである
もしyoutubeやプログのようなものになると手間がかかるとしても無料なのである
だから金もなくても報道でもできるとなる

ただ最右翼の鈴木傾城などが佐藤優などを持ち上げたりしているのは解せないのである
なぜなら創価公明は中国の一部隊であり中国に日本の国土でも自由に買わせて使わせるとかしているからである、その国土交通大臣が公明党だからである
そしたらなぜ創価公明のプロパガンダの佐藤優を持ち上げるのかわからないとなる
矛盾しているとなる、あれだけ中国を攻撃しているのに矛盾しているとなる
ただ日本でも中国の影響はアメリカより増大している
なぜなら中国はアメリカと違って中国人そのものが日本に住み活動するからである
そして土地でも買ったりあらゆる面で戦争する前に中国が支配しているとなる
だから高橋洋一氏が中国の統計は嘘だとか本を出そうとしたら中国政府から抗議が来た
つまり日本でも言論弾圧をすでにしているということなのである

ただづはさの党では中国とアメリカは対立しているようで裏でつながっている
日本を分断させて日本を支配する、そのことは裏で了解しあっているとしている
CIAとか国際資本家がそう決めていて実質の支配者はデーブステートとしている
そのことがあながち否定できないのは日本がアメリカに負けた時、実はソ連とアメリカで日本を分割することが密約されていたからである
それが辛うじてそうならずにすんだのである

いづれにしろ日本は今国力が弱体化して中国であれ進出しやすい、アメリカはどうしても衰退してやがて日本から駐留軍を引き上げる、そうなったら日本一国で中国とは対峙できない、モンゴルの元冠のようにはならない、海が防壁とはならない
日本は今そうした危機に直面しているけどその危機感がない
何か日蓮が遭遇したような時代になっている、その鎌倉時代は様々な災害が疫病でも自然災害でも連続して起り日本は危機になった
その時日蓮は警告した、その時は外国勢力をモンゴルの侵略を止めることができた
しかし今回は創価が日蓮宗でも全く日本の独立など防衛など考慮しない
すでに中国の一部隊として日本を乗っとることに加担しているのである
それに二階とかが共同している、でも対立が激しくなると自民党も分裂する

日本は中国派とアメリカ派で分裂する、それは台湾有事で現実化する
次は沖縄の中国支配でありそして日本の本土支配になってゆく
沖縄は中国の一部だと明言しているから台湾の次は沖縄が戦場となるからだ
ただ日本は戦後はそうした戦争とか危機を感じなくなったのである
何か国自体の力を失っている、それは高度成長時代が終わり経済が低迷しているとか様々なことで日本が衰退していることもある
だからこそ今日本が対外的にも国内的にも危機的状態にある
ただそれがまだまだ自覚されていないしそういう危機を経験していない、津浪でも原発事故でもコロナウィルスでも日本は危機に弱くなった、対処できないのである

つばさの党でもまた右派でも創価が中国の手先だとして批判している
それで好感がもてる、国際金融資本も批判しているからアメリカからも独立を志向している、そういう党が今日本に必要だともなる
でも中国の圧力が強くなりそれになびくのも多い、経済界ではどうしてもそうなる
結局創価とは何なのか、何を目的としているのか、世界広宣流布だとか言うけどそもそも日蓮宗とか法華経とかとは関係ない、本来の宗教性は皆無である
ただ御利益であり得することしか頭にない、後は権力争奪を目的としている
宗教とはまさに方便であり中国とかも政治的に利用して利用されて権力拡大を目指している、俺たちの後ろには中国がいるとなると権力で日本を動かすことができる
それが今になると中国が巨大化したからさらに有効になる
だから中国が発展しない時でも中国と親密になっていたのはそういうことを見越していたとなり今になりその効果が現れたとなる
中国があんなにたちまち巨大化してアメリカを経済で追い抜くようになるとは思わなかったからである

ただ創価はもう衰退の一途をたどっている、活動する人は高齢化しているしその巨体をやっと維持している状態である、だから票でも百万票も減った、増えることはない
するとやがて自民党からも見捨てられる、今は下支えしてもそれもできなくなるからだ
特に中国の手先だとして警戒されて右派から攻撃されるようになる
ただ中国をめぐっては日本は深刻な分裂状態になる、そこで新しい政党が必要になる
その一つがつばさの党なのかもしれない、ただここの党は何を目指しているのかまだわかりにくい、ただ若い人が多いということは未来を担うのかもしれない
確かなことはもう自民党とか野党でも旧来のものに頼れなくなっている
大きな交代が世代交代が変革が要求されているのである
創価でも生き残るとしたら相当な大変革が必要であるがそれは不可能だとなる
その成り立ちからして宗教心などゼロだからである
だから一体何を広宣流布するのだろうと思う、ただそれは権力の拡大でありそれ意外ない信仰がそもそもないものが何を広宣流布するのか?
そんなことをできる人がいるのか、権力とか金とか地を得たいとか全く世俗と同じでありそんな団体が何を広宣流布するのだろうとなるからだ
いづれにしろナチスのように文明の病的現象として消えるとなるだけである

創価内部から改革ができるのか?創価は池田大作とか批判しても依然としてその組織の内部では組織の維持を望んでいる、そこがやめた人とは違っている
そういう人は内部から改革しようとしているがそれもなかなかできないと思う
その組織自体がもう維持できなくなっているからだ
ただやめる罰当たると地獄に落ちるとかでなんとかやめるのをとどめている
でも罰当たるのは実は創価の会員になっていることなのである
その組織にいること自体がもう地獄に行くことになっている、でも宗教のやっかいなのはやめることがそういう恐怖でやめられないのである
だからなんとか票でも減らさないという効果がある、つまり奴隷の霊を受けてそれから脱することができないのである、精神的奴隷人間なのである
そして生きているのか死んでいるのかわからない偶像化した池田大作に頼っている
組織自体がそう なっていたのだからその偶像の呪縛からも逃れられないのである
でも創価の崩壊が近くその時自民党にも影響する
票の下支えなくなり自民党も分裂するし日本は明治維新とか戦争の時のような大混乱になることも予想される、そのきっかけになるのが台湾有事でありまたつづいておきる中国の沖縄侵攻なのである


posted by 老鶯 at 10:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層