金を残しても死ぬと価値がない
(金は実際は紙きれにすぎない-人生の意味と価値)
この世の中すべて金になり金で判断する、収入でも金で計算されて価値が判断される
生きている時はみんなそうである、でも死んだ時その人の価値は何で判断されるのか?
一億円残したからこの人の価値は一億円になるのか?
それをもらう人は子供の世代はその一億円は相当な価値になる
なぜならまだこの世を生きるから価値があり親の価値も金の価値にもなる
でも死んだ時不思議なのはあの人は一億円残したから価値ある人だったとなるだろうか?その金をもらえない人はその金で人の価値を判断するだろうか?
死ぬとその人が生前に残した物でその人の価値を判断する
例えば古い特別な家を遺したものを放送する番組がある
するとその金持ちの残した家が文化財のようにもなる
それはあくまでも金ではその人が残した家がその価値だとなる
それは別に家族でなくても文化財のようになれば他の人も見ることはできる
立派な庭でもそうである、その価値は家と庭にあったとなる
金持ちでもその金をどう使ったかで評価される
多額の金をもっていてもそれを子供たちに遺産として残したとしても評価するのは子供たちだけだとなるからだ
人間はすべて金に換算される時代である
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でも死んでしまうと何で価値が判断されるのか?
ここのことを思って生きている人は意外とまれだろう、死んでしまったらその人の人生が何であったのか問われる、歴史的にでもその人の価値が何であったのか問われる
なぜ陸軍二等兵とか他でも墓に戦死したのか、位が記されているのが多い
でも今になるとそんな位に何の意味が価値があるのだろうか?
何か軍人であることが価値があるとされた、でも今になるとその墓を見て位を見てこの人は偉い人だったとみんな見ているだろうか?
ただ戦死者か無益だったとかではない、でもそうして今でも墓に記された軍人でありその位に何の意味があるのかともなる
それを墓に記したのは当時だったら社会的意味があり社会でも注目しいたからだとなる
軍人は威張っていたというときそうである、それはミャンマーとかの軍事政権となると軍人が一番威張っている、中国だと共産党が一番威張っている
でも必ずこれも時代によって変わる、共産党でも永続しないからである
それはあくまでも集団として組織としての価値なのである
個々人の価値なら例えば科学に尽くしたとか芸術で貢献したとかいろいろありそれは人類的普遍的価値ともなる、だからそれらは長く残ることがある
でも実際百年後に残るものがどれだけあるのかとなるとほとんどなくなってしまうのが人間社会なのである
時代によって価値は激変することがある、それが戦後に起きたのである
国民全員が鬼畜米英になっていたのにまるでアメリカ様様になった、それを経験した人は何んなのだろと理解できなくる、あまりの変わりようだったからである
白だったものを黒にしてしまったからである
ともかく死ぬとその人の人生は何だったのと問う、歴史的になれば戦争で三百万人も死んだのは何だったのだろうとなる、その意味が問われるのである
第一三百万人を死んだのを無駄死にだった、犬死だったとは言えないからである
それなりの意味と価値をもたせなければ浮かばれないとなってしまうからである
でもどうしても陸軍二等兵という墓があったとしてそれに敬意をもていないのである
他の人でも敬意をもっていないだろう、それだけもう価値観が変わったからである
何か家のことに私はこだわるのは結局残されたものが家だからである
もちろん金も遺されたとしても具体的に残されたのは家なのである
それでこの家は広くていいなとかここに家族が寝ていたなとかふりかえる
また台所に母がいて料理してくれたな、それも60年とか長い時間だったなと
つくづく私は今度は自分で料理したり台所で働くからそのことを一層感じたのである
意外はそんなこと当たり前のことだと思っていた、でも全部自分で家事をするとなると大変だなつくづく思った
料理するにも種類が多すぎるのでいちいち冷蔵庫をチェックしているのも手間で忘れてしまうのである
それからプログとか毎日書いたり本を読んだりするから手が回らないのである
それでありあわせのもので食事はすましているのである
虫の声夜にかすかに我が母の台所にありその日の長しも
私の母親は嫁いできても女中と同じだったのである、働き詰めで終わったのである
そして今自分がその台所にいるのもカルマだとなる
そして死んでから感謝して供養してごくろうさんという、ただ死ぬ前に5年くらい介護したことで喜ばれたので恩返しが多少できたとして救われたのである
そうでないと何か一方的になり母も不満のうちに死んだからである
そこで介護の問題が苦しいけど何か死後にも人間は関係がつづくからむずかしいのである現実に子供を恨んで死んだ人もいるし結構そういう親はいる
せっかく苦労して育てたのに子供に冷たくされたとか普通にあるだろう
ともかしく親が死んで一番感じたのは確かに金を遺してくれたからありがたいともある
でも一番感じるのは残された家なのである、それで家のことを延々と語っているのである家にいるとやはり親のありがたみがわかり家に感謝するのである
他に具体的には残したもので感じないからである
だから家には依然として家族がいるという感覚になるのである
この家を支えて来たという時、家という建物だけではない、家族がいて私は支えられていたとなるからだ、そこで家に感謝しているである
ただその他で残したものはない、庭は狭いしそこに何か感じるものはない、むしろ死んだ後に自分が頼み作ったものだともなるからだ
こうして具体的なものとしては家が残されたものとして意識する
他にその人によるそれぞれの人生がありその人生を振りかえりそこに価値を見出す
その人生をふりかえることは価値があったとてももう金にはならないものである
死ねば人間はやはりHistory-story(物語)になる
ものー語りとなるがやはり死ぬと遺された物を通じて死者を想うからそうなる
それが具体的だからわかりやすいのである、画家だったら残された絵を見てその人を偲ぶとか価値づける、芸術家の場合は残した作品から価値をみる判断するとなる
でも別に普通の人でも生きた一生があり判断される
でもカルト宗教団体とか党派の団体とか会社とかの組織団体に属して生きた人はそれが一生なのだけどその団体組織が消失したときその価値も消えるとなる
百万人会員がいたとしてもその価値は百万分の一なのである
その組織はやがて消滅する、それは生きている間にも起こる、退職すると大企業に属していても価値がなくなるからだその人の価値はすべて会社に属している価値だったからである
とにかく人間の生きる意味とか価値とかは意外と死んでみないとわからないのである
死んだ時純粋にその人の生きた価値とか意味が問われるからである
つまり金をいくら残したとかではない、他者にとってはそれはもらえないのだから関係なくなる、ただその人自身の純粋な意味とか価値が問われるのである
この人はこういうことをして一生を終えたとかになりストリーとなりその価値が判断されるその女性は何か自分にはわからなかったけど大正生れて本当に馬鹿正直な人だったのである、それで私の家族が認知症になったときその女性だけが相手にしてくれたのである
認知症になると親しい人でも相手にしなくなるのにしてくれていたのである
でも別にその人に私の家族が良くしたとはならない、むしろ冷たかったかもしれないのである、でも認知症の介護に苦しんだからその人に感謝することになったのである
この人いい人だったなとつくづく感謝するようになった
つまり自分自身がこの女性の価値を認めてそうなった、それは金とは関係ないことだったのである
他の人は介護になってかえって金を奪うとう金をよこせとか脅迫するような人達ばかりだったから余計にその人を思うようになったのである
だからこうして金だけで価値は計れないである
また何かその男性には世話になったことがありそれを恩に思ってその人が病気になったと世話している女性がいる、それもまた金のことは関係ないのである
むしろいくら金をやっても人間はそれを恩とも思わないし感謝もしないのである
だから人間はすべて金で計るわけでもないのである
それで「金の切れ目が縁の切れ目」になるのが普通なのである
ただいやいやながら金をもらうからしているというとき本心が必ず現れる
絶対に人間は無償の行為はつづかないからである
必ず見返りを要求するようになるからだ
最初から見返りを要求する人もいる、いくらくれるなら助けてやるとかまでなる
でもここに倒れた人がいればお前俺にいくらくれんるんだとか言っていくらなら助けてやるとかなるとそれは脅迫なのである
私は介護でそうして金で脅迫されてきたからである
それは後で世話になったからと金をやるということもある、でも窮地にあるとき金を払うから助けてくれとはなれないのである
それでまず救急車は無料で運び後で金を要求するとなっているのである
いづれにしろ人間はすべて金で価値は計れない、それが死んだ時それがわかる
その人の価値がわかる、この人はこういう人だったなとわかる
それは家族でもわからない、親のことでもわからない、子供なら親が尽くすのが当たり前だと思っているからである、それが自分が親になったり死んでから親の苦労がわかったりして親に感謝するとなる、ただ親でもいろいろり毒親も多いからみんなそうなるわけではないのである
ただすべてを金で計ることはできないし、金は紙きれでありそれが実際の価値とはならないのである、それが死んだ時はっきりするのである