2021年10月31日

共同体の喪失が原発事故であからさまになった (日本国家の共同性も喪失すると国家も防衛できない)


共同体の喪失が原発事故であからさまになった

(日本国家の共同性も喪失すると国家も防衛できない)

私権私財を削って、公共に供託するどころか、逆に、公権力を用いて私利私欲を満たし、公共財を奪って私財に付け替えるような人たちばかりがエスタブリッシュメントを形成している。「そういうことができる」ということが権力者なのだ、そのどこが悪い。文句があるなら、まず自分が権力者になってみろ

https://news.yahoo.co.jp/articles/db2511a35d07dc9b8465f838ae2e63ae3a1ac2ef

これには共感する、現代社会から公共性がなくなった、共同体もなくなった
何があるのかとなるともう目先の金しかないのである
人は金のために動く、その金がどういうものかなど考えない、金を得ればいいしかない
それは当然目先のことしか考えない、今金になればいいんだとしかないのである
共同体とかいうときそれは目先の利益で作られたものではない、長い年月で作られてきたものである

農民社会だと自然が相手だから長期的に見ないと生命も共同体も維持できない
木が成長するのに50年かかるとすると果実を受け取るのは次の代なのである
実際に果実を受け取れるのは常に親の代ではなく子供の代である
第一富が貯えられるには一代では無理だからである
家と土地を得るこめに一代目は費やされるがそれを受け継ぐ子供の代だと楽になる
だから農家の家に生まれれば土地もありノウハウも受け継ぐことができるから楽なのである、そもそも農業は何もないところから始めるとしたらその苦労は並大抵ものではない
個人的にはそうなるから共同会社のようなものに入り勤めるのがいいとなる

現代社会には公共性とか国家とかの共同性がない、金を得るために個々人があり共同体はなくなった、それが如実に現れたのが原発事故で避難区域になった町や村である
目先の補償金をもらうことしかなく町や村を維持するとかはなかった
だからいち早く町を見捨てて移住した人たちが多い
もうこんな場所にいられないとしてそうなったのである
そもそも原発を誘致したのは長い目で見てない、今金になるということで誘致したから危険も無視したのである

だから村や町はもう古代から長く地方でもつづいている、それが一挙に簡単に崩壊してゴーストタウンにビレッジになったことに驚いた
もちろん放射線被害があるからやむえないなということはあった
住んでいられないということもあった、でもそれだけで町や村が崩壊するのかとなる
不思議なのは戦後の焼け野原からでも日本は復興したからである
何も無くなっても復興したからである、だから放射線の被害があったとしてもそれだけで簡単に崩壊して無人化することに驚いたのである

もう町や村でも共同体はなくなり一時的なつながりしかないものになっていた
第一農業でも漁業でも林業でも携わる人は一割にも満たないとかなっていたからである
自然に依拠する仕事は長い年月つづいていた、それは自然に依拠するから商業とか工業とかとは違うからである、でもその前に農業でも漁業でも林業でも日本では衰退産業となり跡継ぎがないとなっていたのである、金にならないとしてそうなった
林業はグロ−バル化で外材を輸入して日本の森は豊富なのに利用されなくなっていたのである
それが原発事故となり一挙に崩壊したのである
だからすでに原発事故前から第一次産業は崩壊していたのである、原発事故はただその契機となっただけだともみる

そうして事故のあとは補償金を得ることしかなくなった
自分の家の前の海も権利があるとして補償金を要求していたのである
私道であれなんであれ補償金をもらうために主張したのである
漁業権をもっている船主や漁業組合は特に権利が大きいから原発事故前から多額の補償金をもらっていた、そして原発御殿が建っていてうらましがられていた
そこがまた津波の被害が一番大きいものとなった、村自体消滅したからである
それも何のだろうとなる、何か罰だったのかとも見てしまう
自然の恵みに感謝することもなくただ自然をむさぼるというのが現代社会である
まず漁師でも海で魚をとれることに感謝している人はいない、一匹の魚に感謝している人もいないし農民でも一粒の米をとれることに感謝している人もいない
ただ金にならないということで嘆いているだけだったのである

それは別に漁師とか農民だけではない、それを買って食べる人も一匹の魚に感謝したり
一粒の米に感謝して食べている人はいない、ただ値段をみているだけであり結局だから金が欲しい金があればいいということになっていた
そういうことがもしかしたら津波ともなり自然から復讐された災いがもたらされたのかもしれないともなる
そもそも日本の祭りでも外国でも自然に感謝するということがあった
それが資本主義社会とかグロ−バル化経済になると消失した、すべては金で買えるからそうなった、かえって貧乏な時に自然に感謝していたのである
またそうした祭りがあることで農民共同体でも漁民共同体でも山林共同体でもありえたのである、それはどうしても自然と共存しないと生きていけないからそうなったのである
商業や工業社会になるとどうしても自然と分離してゆくから自然とは何かわからなくなったのである

いづれにしろ公共というときそれは自然は公有のものであり公共のものである
海でも山林でもそうである、土地は実際は公共であり公有のものであり私有のものとしてありえなかった、だから過度に明治以降私有を認めた結果として入会権として共有していた山は無数の私有地として分割された、結果として公共事業するにも私有に分割されて今や誰の所有もわからず公共事業もできなくなった
つまり公共性が消失した社会になったのである
だから古代から継続された村でも町でも簡単に崩壊したともなる

公共的なものとして市町村があるわけではない、公共のものとしてあるわけでもないみんみんな私有としてあるから家の前の海が俺のものだから補償金を払えとなったのである
そしてプライベイトというとき奪うという意味でありまさに私的に奪うものとして土地でもなんでもあったとなる、そこに公共性は喪失していたのである
だからこそ公共としてある市町村でも簡単に解体してしまうとなる
津浪以降盛んに絆が言われたがそれは絆が失われた時代だからそれが言われたのである
この辺ではボランティアが絶えず来ていて外部との絆が生まれた
でも内部では補償金で分断されていたのである

ともかく現代社会は個々人が金を求めてアトム化原子化した社会であり共同体は喪失していたともなる、だからこんなに簡単に町や村が崩壊して消失することになった
もちろん放射線被害のためだともなるがそれだけでこんなに簡単に町や村が崩壊解体するのだろうかという疑問があった
一家族ならありえても町や村までは簡単に崩壊して解体されることに驚いたのである
ただそれはここだけではない、全体的に国家的に世界的にもそうなっている
だから何かの契機で簡単に市町村でも崩壊してしまうのかともみる
絆とかなくなっているからだ、みんな求めるのは目先の金だけの社会である
それは田舎でも同じである、田舎は農民共同体であったが今は一割にも満たないからである、ほとんど会社員になっているからである

日本が衰退するというときこうした公共性がなくなったとかから見る人は少ない
技術競争に後れをとったからだとかなるのが一般的である
でも日本社会の構造の大変化がありそれが衰退の要因だとはみない
つまり日本の共同体の崩壊がありそうなったとはみない
そこにはもう日本国家共同体というものもない、だから常に国際性ある金持ちの人は
ひろゆきとかは日本を脱出する準備をしろとか金持ちは日本を出ることを考える
それは中国の富裕層でもそうである、中国となると常に政変があり既得権を失うからそうなる、日本ではあまりそういうことがなかったがグロ−バル化して同じようになった
でも日本ではそうして外国に移住するこということがあまり経験していなから躊躇するのである、ただグロ−バル化するということは市町村だけてはない、日本自体の公共性でも共同性もなくなるのだからそうなりやすい社会だとなる

実際に今田舎に住んでいる人でも一億円やるからとなるとかえって都会に出るとなるだろう、東北だと仙台市に住みたいという人が多い、それで補償金で仙台市に移住して成功した人もいることでもわかる、つまり共同体とかは関係なく金さえあればいいとなる
そういう社会は金融を生業としてユダヤ人とも似ている
なぜならユダヤ人は常に国家にいても土地をもてないとか共同体から除外されたからそうなったのである、それで国家をもちたいとなりイスラエルが建国されたからである

いづれにしろなぜ日本がこれほど貧乏になり衰退してゆくのか?

その理由は必ずしも技術開発に遅れたということだけではない指摘には共感する
そもそも日本国家として共同性すら喪失してしまった板ということである
逆に戦争の時は過重に日本国家の共同性が主張されていたのである
だからそれをなつかむ人さえ戦後はいたとなる、でも戦後社会は日本国家としての共同性すらなくなるとどうなるのか?
この辺で原発事故で簡単に町村が崩壊して解体したようにもなる
金が第一とするから金にならないから日本にいてもしょうがいなとなり外国に脱出する準備をしておけとかなる、日本がなんてどうなってもいいとまでなる
そうしたらもう日本国家も維持できなくなる、つまりすでに内部で共同体は喪失しているから維持もできないとなるからだ、それこそ国家の危機であり経済の衰退どころではないこれから日本国家が消失するという危機にもっないる、すでに内部でそうなっているのだから外部からの攻撃に弱いとなるのである

何かこれは右翼的でありそんなことは古いともなるがそこにこの辺のように町村が簡単に解体してしまう危機がある、それはそうなってみないと理解できないのである
日本国家自体が解体する危機になる、それが外国から中国などから攻められた時そうなる日本国家としての共同性もなくなっていればそうなる
逆に戦争の時は日本国家の共同性が過度に強調されたのである
それで日本隅々まで戦争のために神社に戦勝を祈っていたのである
そういうふうに極端な反する状態があり戦前と戦後ではそこが根本的に違った社会になったのである、防衛力にしてもそれか技術的な問題としてあるのではない

日本国家共同体の絆がなくなればもう日本を防衛するという気力も精神力もないとなる
だから平家と源氏の争いで鎌倉が公家についた平家と戦い勝ったのは鎌倉の武士には主従関係が強固だから勝ったと分析するのもわかる
ローマが衰退してゲルマンが優勢になったのも人間の強固な主従関係があったからだとしている
意外と日本の軍隊にはこの主従関係の強固さがなかったから敗れたという分析もある
上官と下士官の結びつきが主従関係が弱かったとしている
その関係は一朝一夕には作れない、武士の主従関係はその土地に根付いて何代か経て作られたものだからである、だから人間関係てもそうした強い絆を作るには時間がかる
旧家でもそこの召使がいたとしても使用人がいたとしても主人との信頼関係を作るには時間がかかる、だから使用人でも同じ家に十年勤めていたら信用できるとなるのである
ともかく人間が信頼し合うには簡単にできない、時間がかかるのである

posted by 天華 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年10月30日

大衆民主主義は無責任体制―責任が自覚できない (でも必ず責任はとらされる、戦争でも原発でも)


大衆民主主義は無責任体制―責任が自覚できない

(でも必ず責任はとらされる、戦争でも原発でも)

民主主義の欠点はいろいろある、その最大のものが責任をとる選ばれた人ではない
選んだ方の人達である、常に言われるのは政治のレベルは選んだ人達のレベルによって決まる、愚民であれば愚民にふさわしい人たちが選ばれる
いくら選挙でふさわしい能力ある人を選ぶにも選ぶ方の人達がレベルが低くければそれにふさわしい人しか選ばれないとなる
結局数が多ければ選ばれるということ自体、大衆によって数によって決まるのだからその大衆に合わせた人が選ばれるとなる
民主主義はもう数がすべてだからファシズムとポピュリズムくなりやすいのである
ナチスは合法的に選挙で権力を得たからである

またそういう大衆であれ選ぶにしても一票でも百万分の一であり責任などない
もし一人十票を与えられたら責任をかんじるの、である、自分の十票は何か大きく政治でも左右するとなれば責任感じる
第一民主主義社会とか平等を追求する社会はまた無責任社会なのである
百万分の一しか責任がないとすればもう誰でも無責任になる
どうせ自分の一票など何の影響もないとなるからだ

要するに大衆民主主義とは全員が無責任体制だとなる
選ぶ方も選ばれる方も無責任なのである、一方で貴族社会でも日本の侍社会でも一部の人が特権を与えれている代わりに責任が重大になる
なぜ侍が切腹など過酷なことを自ら強いたのか?それだけ責任があり責任をとらされた
とった結果だとなる
それを常に自覚させられているからそんな重い責任をとったとなる

でも民主主義で責任をとるのは選んだ方でも選ばれた方でもない
選ばれた方でも選んだ奴が悪いんだとなり選ぶ方もどうせ百万分の一しか価値がないとなれば無責任になる、選挙に行ったとしても一人など何の価値もないとなるからだ
つまり大衆民主主義きと無責任体制だとなる
誰も責任を自覚しないしとらないのである
この責任を自覚しないということはいい加減でいいとなる
何をするにしても無責任にもなる、どっちにしろ責任がたいして問われないシステムだからである

でも恐ろしいのは人間は必ず責任を問われる、責任を負わされるのである
原発事故をみればわかる、不思議なのは事故を起こした双葉とか大熊からの距離に比例して責任をとらされたのである、、飯館村は例外としてそうなった
それは政府でそうしたのであるが距離に比例して住めなくなったり補償金でも決められたのである、住民は故郷に住めなくなった言うことで責任を取らされた
確かに補償金はもらったが故郷に住めなくなったことで責任はとらされたのである

でも事故を起こした東電の幹部であれ天下りした官僚てあれ多額な金を東電からもらっていても責任はとらない、これだけの被害があっても責任をとった人がいないという不思議である、それは検察自体が責任者でもあったがその検察は東電とか政府の責任をあいまいにしていたのである、検察自体が責任者であったがその責任を問うことがなかったのである
東電では事故になる前から危険なことは承知していた、配管等が老朽化しているから改善してくれとか内部の人が訴えても無視していたし10数メートルの津浪が来るから備えておけと科学者集団が警告していても無視した、コストがかかるから無視したのである
そして今頃になって防潮堤を作ったのである
こうして誰も責任をとらないというときどうなるのか?。
何があってもミスがあっても責任をとることはない、原発を運営する人達はそれなら安心だとかなり警戒を怠ることになる
現実原発で原子力村によって「安全神話」が作られた

それがもし重い責任を課せられていたら東電でも原発などやりたくないとなるからだ
ミスしたら事故起こしたら切腹だとなったらもう怖くてできないとなるからだ
でもそのくらいの責任が原発運営にはあったが無視された
そして事故後は誰も責任をとらない、ただ天下りしか官僚でも責任があったが誰一人としてとらなかった、金だけはもらうとなっていたのである
金を返すべきだと思うがそんなことも話題にもならない
なぜなら検察自体がそんなことを問わないからである、検察自体がグルだったともなるからだ

要するに無責任体制で重大なことをしていたのである、民主主義も選ぶ人も選ばれる人も無責任なのである、別に責任は必ずしも問われない、責任を問われるのは選んだ人達だとなっているのが民主主義だからである
それは一票でも百万分の一となれば誰でも責任などないのである
そんな一票など何の力にならないと見て無責任となる、何か真剣にかかわることもないのである

その点医者などは命をあずかる手術でも危険だから相当に責任を感じてしている
でも政治となると民主主義では無責任体制で選ぶ人も選ばれる人も無責任になる
それは結局国の運営でもみんな無責任になっている、国を一個人でも支えている責任があるなど感じないのである、一億人いたら一億分の一しか責任がないとなれは結局無責任であり一人は何の影響もないとして無関心になるのである

ただ必ず責任は誰かがとらされる

それは戦争でもそうだった、それを決めて実行した人達は幹部でも国民でも3百万人が死ぬという恐ろしい責任をとらされたのである
つまり必ず何かを決めて実行すれば責任をとらされる、戦争を決めて命令した人達は責任をとらない人たちがいても国民はとらされた
原発事故でもやはり故郷に住めなくなったという責任はとらされた
これは金では代えられないものであり重い責任をとらされた
でも肝心の原発を作り運営した東電の幹部でも政府関係者でも天下りした官僚でも検察と警察関係でもいたが責任はとっていない、金をもらったいても返還もしないのである

結局民主主義の問題はこうしてみんな無責任になり重大なことでも無責任になり何ら責任もとらないことにある、無責任体制になっている、それが恐ろしいともなる
なぜならそうした無責任体制で何でも決めて実行してゆくとなると結果的に戦争で国民が三百万人も死ぬともなりかねないからである
ただそういう重い責任を感じてするならいい、ただみんな無責任で実行することは恐ろしい結果になる

なぜなら必ず行為(カルマ)には責任をともなう

何かを決めて実行することは必ず責任をともなうしとらされる
だから人間の個々人の行為には責任があり責任をとらされるとなる、それがカルマだとなる、それは重いものとなる
そして現代だと金は具体的な責任となっていたのである
それでそのことを追求して来た、船主でも事故前に多額の補償金をもらっていたことが
判明したからである、その時は別にもらえる金はもらえばいいとかくらいにしか思っていなかったがが事故になってなぜそんな金を事故前からもらっていたのだと責められるようになったからである

つまり現代では金が具体的な責任となっていたのである
金を得ることが責任なのである、金をもらったら確実に責任がともなう
またその額によっても責任の重さが違ってくる、十万よりは百万もらえば責任が重くなるそれで江戸時代は十両盗むと死刑になっていたのである
その額によって計られていたのである
現代では責任は金で計られている、それが具体的な責任として見えるからである
あなたはいくらもらいましたね、ではその分の責任をとってもらえますとなるからであるだから金は本当に責任なのである、遺産でも多くもらいたいとしても多くもらえば責任が生じるのである、額によっても責任の大小が生じる
でもその責任を感じることなく金をもらえばいいとなっているのが現実なのである
でもこうして後で怖いことが起きてくる

いづれにしろ大衆民主主義は誰も責任を自覚しないしとらない

でも必ず責任はとらされる

選ぶ方にしても責任はとらされる、ただその責任は一票は百万分の一だとしら責任は自覚できない、そこに大衆民主主義の大きな問題がある
まず責任をとるというとき責任をとらされることは恐怖である
だから神が裁くなというとき人には裁く権限がないからである、何が罪なのかもわからないからである、要するに人間は人間を裁けない、裁けるのは神だけだとなる
国々の戦争でもそうである、勝ち負けがあったとしても誰も裁けないのである
裁きうるものがあるとしたら神しかないとなる
人間なら裁く方が今度は裁かれることになるからだ、だから東京裁判などは不公平だったのである

ただ人間社会で起きることには必ず責任が課せられて責任を取らされることである
大衆民主主義でもみんな無責任になっていてもその責任はファシズムとなりナチスのようにもなる、それは政治に無関心だったとかされている
何かわからないままに無関心でいた結果いつのまにかナチスが台頭して席巻したとされる日本の戦争でもそうだったとなる
無関心でいることが無責任で見ていた結果ナチスが社会を席巻してしまったのである
原発事故でもやはり鐘になればいいやとかでみんな地元でも無責任になっていたから起きたともなる、もっと厳しく監視してしいればこうはならなかったともなるからだ
でもそれも後の祭りだとなる

ただ確かなことは無責任社会でも必ず責任はとらされる

この責任から逃れることができないのである、それは個々人でもそうであり国民でもそうである、だから責任を自覚できない大衆民主主義は危険だともなる
どうせ一票など何の力にもならない、責任はないとなりみんな無責任になってしまうからである、ここに大衆民主主義の危険がある、でもどういう体制がいいのかとなるとむずかしいとなる、常に平等を追求してきたのが現代でありその平等を追求することは不平等になっていたのである
でも民主主義は限界に来ている、結局原発事故でも誰も責任をとらなかったように無責任体制だからである、でも必ず誰かが責任をとらされるのである
政治のミスは戦争で三百万人死ぬとかまた他でもオリッピックの失敗でも莫大な金を使い施設でも維持するの金がかかりつづけるとかその失敗のつけは国民が払うのである
政治の失敗は国民の命にもかかわってくる
ただ大衆民主主義は責任が自覚できない、無責任体制なのである

ただ一個人が発言できる、インタ−ネットとかになると何か個人でも意見が言えるからそこから多少責任を感じる
読者が多ければ多いほど責任を多少感じる、だからマスコミだったらその責任は重いものだったのである
そこで報道することが国を左右するとまでなっていたからである
インタ−ネットでも発言する人は無数の匿名の人達がいて無責任になっていたからである
ただ最近は実名で発言するしyoutubeだと顔を出しているから責任が明確になる
でもインタ−ネットになると発言する人も無数にいるし匿名だったり無責任になる
そして読まれることはわずかだから発言してもそれほど影響がないとなり無責任にもなる
つまりインタ−ネットでも大衆インタ−ネットになり発言できてもそれが影響することはわずかであり責任を感じないともなる
全く読まれないとういことも普通にあるからだ
インタ−ネットも大衆化した結果無責任になる、要するに数が増えるとみんな無責任になるということである
それが大衆民主主義の大きな問題なのである


posted by 天華 at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

平等を追求すると不平等になる (一人一票でもその平等故に選挙しても無駄だとなる)


平等を追求すると不平等になる

(一人一票でもその平等故に選挙しても無駄だとなる)

【マルクス主義】は、不平等だったり差別を生んだりする「原因」をひっくり返して、その「結果」まで平等にしようとして、【最終的には失敗 】しました。…


アメリカの国の建国は自由と平等である、デモクラシーというのもそうである
その思想はホイットマンの詩にある、そもそも時間軸で形成されたものがないから王侯もないし広大な新大陸に独立自由の人間は一人立つということになった
そこではもともと時間軸で形成されたものがないのだからみんな対等になる
貴族もいなければ王侯もいないのである
初代大統領のリンカーンが丸太小屋から出て来た庶民の一人だったことでもわかる
こういうことは時間軸で形成された社会ではありえないのである

そもそも時間軸で形成されて来たというとき家族を見ればわかる、父親がいて母親がいて子供がいる、すでに父親と母親の人生とか積み重ねてきたものがあり時間軸で形成されたものがありそれが子供の資産になり影響しているのである
親ガチャというとき、親の影響が余りにも人間にとって大きいからそうなる
まともな親がいなかったらどうしてもまともに育てられないことがある
人間の差はここから生まれていることは確かである
そうなると人間は一代では何かを成し遂げることもできないとなる

何か財産を形成するにも一代では無理だとなる、そこに積み重ねが必要になるからだ
では不平等を作っているのは何かだとなる、選挙でも盛んに自民党の世襲議員のことが言われる、別に有能でもないのに親の跡を継ぐことで当選する、地盤を引き継ぎ当選する
それは不公平だとなる、不平等だとなる
だから自民党はそういう政党であり改革もできないとなる
既得権者というのもそうである、一旦既得権者になるとその権利を維持したいとなるからだ、そのためにヨ−ロッパでは貴族社会が維持されてきたのである
その不平等を無くすには革命が必要だとなり共産主義が生まれた

でもなぜかこの平等を追求すると不平等になるというのが人間社会なのである
平等ということはみんな同じになることである、人間がそれぞれの個性と能力があるがそれを無視してみんな同じにする、そのこと自体信じられないほどの不平等なのである
例えば花があっても色や形が違っていても同じ形に色にして平等にしろとなる
変な話だけと高い山があるとする、すると山はみんな同じ高さの山にすべきだ平等にすべきだとしたらどうなるのか?そうしたらこの世界はつまらないものとなる

この世の中味気ないものになる、なぜ共産主義が失敗したのか?
それは何か人間というものがそんな数学のように簡単に割り切れないものだからである
数学になると何か人間を数とみて平等化できる、統計的数字として集計するからである
選挙でもそうである、みんな一票でありその人のことなど見ないから平等だとなる
ある人が十票もったりできないみんな一票であり平等だとなる
経済的にも十人物を買うのと一人買うのでは違う、みんな十人に売ることを望むのと同じである
10人でもまとまれば社会では動く、ボランティアも十人くらい集めるとできる
でも一人だと誰も相手にしないのである

要するに何か人間は特別優れているとか能力があるとかは許さない、みんな同じであり平等であるべきだとなる、でも本質的に人間はみんな違っている、だから平等を追求すると不平等になる、走る競争でも必ず早いものと遅い人がでてくる
だから学校ではもうそういう競争は差別であり不平等だから競争させないとなる
順位をつけることはするべきではないとなる
それはあらゆることにあてはめる、でもなぜ社会から不平等がなくせないのか?
共産主義でも平等を追求したのに共産党の幹部には兆円もの金が集まり信じられない格差社会になっている、それは平等を追求した結果でもそうなったのである
それは能力と関係ないのである、特別能力がある人が収入を得るとなればある程度は容認する、ジョブスとかコンピュターを発明したとか特別な能力をもった人は別に収入に差があっても容認されるのである
アメリカではそういうことを能力での不平等は嫌う、能力があれば実際は黒人だろうが収入でも多くなる、でもアメリカでは黒人差別が依然としてある
それもただ黒人に生まれただけで就職でも差別されるとき不平等だとなる
そういうことも依然として解決していないのである

そもそも人間の不平等が不可解なのである、謎なのである、だからどうしても運命論にもなる、futuen(財産)が運だとなっているものそうである、人間には運が作用して財産でも得る、それはその人の能力とも関係ないことがある
高度成長時代は小さな店でも工場でも繁栄したのはその人の能力とも関係ない、そういう時代でありみんな成功しやすかったのである
私の家が小さな店を始めて一時繁盛したのもそうである
私の家族に商才もなかったのにたまたまその頃車もない時代であり角にあったということで場所が良くて繁盛した、商売というのは今でも場所が深く関係している
繁盛する場所がありその場所が良くないと繁盛しないことがある

いづれにしろそれも運だった、ただそういう場所でも街で一番低い場所にあり二回も水害にあい床上浸水になった、最近でも水があふれて家の中に入ってきたのである
だから商売では場所が良くまた水害には弱い悪い場所である
そうなると売る時でも売れない、低い場所というのは変わっていないからである
だからこの場所の作用はいろいろある、その土地の特産物になるのはその土地と深く関係しているからである、そこにいろいろな自然作用があり特産物が生まれている
それは人間の力ではどうにもならないのである

だから平等不平等というときあらゆることにあり家族であれそれぞれの国であり国の中の住んでいる場所でも影響して違ってくる、それを不平等だから平等にしろと言ってもできないのである、ただ例えそうして場所が悪くても豊かになる方法は技術的にあり豊かにすることはできる、だから何らか人間はまた努力によって豊かにもなれる
この辺でうまい梨を作るのに十年かかったというときもそうである
試行錯誤してそうなったのである、そして次の代でもその梨作りを親から習って作ればその家は豊かになる
農家という時こうして土地を受け継ぐだけではない、農業のノウハウを受け継ぐことで豊かになれる、意外とこのノウハウが問題なのである

いづれにしろ平等不平等というとき人間の場合複雑である、何でも平等にしろというときただ金持ちを羨むのも問題になる、全く努力もしないで成功した金持ちをうらやむ人も普通にいるからだ、確かに家族の愛でも兄弟の間でも不平等がある、そこでもめる
遺産相続でもめたりする、介護をして苦しんだ人にかえって財産を分けられなかったとういうのも問題になる、また兄弟で平等に分割する時代になると住む家でも土地でも分割しろとなり問題になる、長男が相続するという時、親のめんどうをみて家を継ぐものとして優遇されていたとなるからだ、でもそれがなくなると兄弟で平等に分けるというときそこでもかえって不平等になるのである

平等を追求すると不平等になったというとき共産主義が失敗したのはそのためである
人間を一律に見てしまう、まるで数字のように見てしまう、人間の運命という謎を無視してそうしてしまうのである、それが失敗したのは人間が一律に見れないものを持っているでも貴族社会が否定されたのは生まれつきで人生が決まることでそうなった
生れた家ですべてが決まるということは不平等だとなり革命になったのである
ただ人間は必ず親の影響が大きいから親ガチャが問題になる
でもその解決は簡単ではない、平等を追求すると不平等にかえってなるからである
例えばそうして兄弟でも不平等でもその人の努力しだいで豊かになれることもある
すると次の子どもの世代で親の跡を継いで豊かになってゆく、そういう時間軸で人間を見ずに一挙に平等にすることは危険なのである

要するに現代は平等を追求して不平等になったということが社会で顕著になっている
民主主義には確かに平等を追求するのだが選挙でもみんな一票であり平等である
でもそれが不平等にもなっている、みんながすべて一票となるとき平等だが不平等にもなる、なぜなら社会の貢献度とか能力とか個々人でもみんな違っているからである
だからある人が十票をもってもいいともみる、それだけ社会に貢献しているとなればそうである、でもそれもめんどうだから平等志向になる
給付金でも一律十万とか支給することの方が楽だからである、そこで金持ちはいらないとしてもそれを調査したりするのが手間になりかえって金がかかったりするからである

とにかく選挙でもみんなあきらめている、どうせ変わらないという時一票を入れたからと何も変わらないとわかっているからである
でももしある人が十票でも与えられていたらそうはならないのである
だから自分にしても選挙に関心がない、どうせ一票など何の力もないと見るからである
現実に自分の一票など関係なく開票前にすでに大勢が決まっていることでもわかる
もし十票だとすると確実にそういう人は選挙に行くのである
民主主義も今や数だけで決まるからそれはファシズムになりやすい、数を集めればいいとなり創価公明党でも政教分離に反していても数を集めればそれが権力を得るものとなるからだ、だからナチスは民主主義で選挙で政党に選ばれたのである

つまり民主主義はどうしても現代では全体主義になりやすい仕組みなのである
一票の価値は何百万の一にすぎないからである
そうしたら権力を得たいものは一票など問題にしないからである、数を集められる組織団体があってそこと協力して権力を持つということになるからだ
だから民主主義も限界に来ているとなる、でも新たなものがありうるのかとなるとそれも政治ではむずかしいし平等を前提にするからできないとなる
ただ平等を追求してゆくと不平等になりそれがかえって社会を歪めるようになったことは確かである

ただ人間は金銭的には平等を志向するべきである、社長でも社員より十倍もらうといくら能力があってもそれは不平等になる、平等にすべきものとそうでないものがある
グロ−バル化経済の不平等も是正すべきである、システムで莫大な利益を得る一握りの人がいるがそんな社会からはモラルもなにもなくなる、ギャンブルで富を一人じめているからである
ただ何でも平等にすることは結局不平等になる、それを証明したのが共産主義でありまそれは全体主義になり民主主義とはもう全体主義になりやすいのである
それはすべて数で決めているからそうなるのである
こうして選挙にも行っても何も変わらないとか無力感を抱く、そうなることはすでに民主主義が機能しなくなっている
結局この世から不平等をなくすことができない、それがこの世に生きる宿命だとなる
人間の力では変えられないとまでなる
そもそも美人に生まれて得だったとかなぜ不細工に自分が生まれのだと問うても無駄になる、その運命を甘受するほかないからである
何かしら人間には不平等があり解決しないのである

posted by 天華 at 13:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年10月29日

空間軸と時間軸の世界歴史 (グロ−バルな空間軸の歴史から時間軸へ還る歴史)


空間軸と時間軸の世界歴史

(グロ−バルな空間軸の歴史から時間軸へ還る歴史)

●地歴とは地は空間であり歴は時間のこと

人間は空間軸と時間軸で基本的に作られる、地は空間であり歴は時間であり二つの軸から世界を見るのである
日本人が理解できないのは空間軸の歴史である、日本の空間軸は海に囲まれた狭い島国に閉ざされているからである
日本自体が一つの宇宙ともなっている、完結した島国としてあった
外国との交流は海を隔たて取捨選択したのである
もし大陸のようであれば必ず異民族が攻めてくるから根こそぎ社会自体が変わってしまうそうして征服されれば階級社会となり奴隷民族にもされる
しきりに日本が平等社会だというとき大陸の様に異民族が否応なく攻めてきて支配される従属されることがないからである

広大な空間を移動して空間を拡大することがないからである
つまり日本の歴史の特徴は空間軸の歴史がないことである
日本は狭いから統一されたらその支配者でもそれほど変わらない、確かに権力争いがあり支配者は交代する、でも異民族によって支配者が変わるということはない
だからこそ天皇が継続されたのである、時間軸の歴史として天皇が継続された
日本の天皇が世界で一番古いいうとき日本は異民族に支配されたことがないからである
もし異民族が攻めてきてモンゴルが支配したら天皇制は維持できなかったともなる
なぜなら中国の歴史は常に異民族が攻めてきて王朝が変わったからである
そしてモンゴルなどの異民族の侵入を防ぐために万里の長城が作られたのである

世界史というとき大陸だと空間の拡大としての歴史がある、空間は無限であり平原であれ草原であれ砂漠であれその先に何があるのかということになりその先を知りたいと人間の本能としてなるからだ、どうしてもこうして大陸だと移動することが文化ともなる
中央アジアは遊牧民の世界であり絶えず移動する人達の世界である
家自体が羊とともに馬とともに移動する、そういう文化を人達を狭い空間で生きてきた日本人には理解できないのである

だから世界史となると大陸の広大な空間を知りたいとなりそこで移動することになる
移動するには徒歩より馬がいいとなり遊牧民は馬を操作する術にたけることになる
そうしてモンゴル帝国が生まれた、それは空間の拡大なのである
空間の拡大は必ず異民族との衝突があり戦争となる、空間を拡大することは戦争を通じて行われた、アレキサンダーでもそうである、これも空間の拡大に憑かれて英雄となったのである

必ず大陸では草原の平原の砂漠の果て未知でありその未知にひかれて進んで行く
そのかなたに何があるのかということで進んで行く、そのかなたに未知の国がありそこにパラダイスがあるともイメージする、だからこそ冒険でも生死がかかっても進んで行く
それが大陸人間のメンタルなのである、日本にはそうした広大な空間がない、土地がないそのために日本では海のかなたにニライカナがあり理想郷がありまた海のかなたから移動してきたとなり憧れる、でもその海は広大であり大陸のようには
移動できないのである、すると島国に閉ざされて生きるほかないのである


●ホイットマンの草の葉の空間と時間

勇気ある魂よ

勇気があるか、おお魂よ
私と一緒に未知の国へ
足の踏むべき地面もなく
辿るべき道もない国へ歩き出す勇気が

そこに地図はなく、案内人もいない
肥えも響かず、人の手のぬくもりもなく
血色のよいふょくらとした顔も、唇も、目も、何一つその国にはない

縛る(いましめ)が、「時間」と〔空間」という名の永遠の縛る(いましめ)を除く
ありとあらゆる縛りが、ようやく解けて、もはや闇も、重力も、感覚も
とにかくいかなる境界も、我らは阻まれることなく

さまざまな種族、隣人たちは、ぜひとも娶りめとらねばならぬ
海は渡りつくされ、遠きものは近くに引き寄せられ
国々はぜひとも一つに溶接されねばならぬ

あなたの寵児たる人間、あなたそっくりの種族
ここでなら強く優しい巨木となり、ここでなら大自然と釣り合うぐらいの背丈になる
ここでなら壁や屋根にかこまれもせず覆われていない広大な正常な空間をのぼって行けるここでなら嵐や太陽と一緒に笑い、ここでなら喜び、ここでなら辛抱強く鍛錬できる
ここでなら自分のことを気にかけて、自分自身を披露できる
(他人の処方なんか気にかけず)ここでなら自分の時間を生き尽くし
幕がおりたらどうと倒れて、最後はひっそりと捨て石になり消えてそれで役立てる

ここでは未知の広大な空間の中で恐怖を覚える人間がいる、実際アメリカには砂漠もあり平原もありそのスケールがあまりにも違っている、そういう場所にいるだけで空間で恐怖を覚える、人間的なものがないからである
そうした広大な空間で自由がある、何ものにも縛られない自由が生まれる
そこでは空間の結合を唄うのであり時間はそこにない

ただ巨木となると時間の中で根付く、それも相当に長い時間である、樹齢千年とかの樹があるから樹は時間的存在なのである
時間的存在なのは岩とか石とか木とか山とかである、それら動かないから時間的存在なのである
ただアメリカではそういう場所があっても空間としての存在でありまだそこに人間は根付かいなのである、空間を移動する存在なのである、そしてその広大な空間を結びつけることがアメリカ合衆国を作ることなのである、時間的存在としてのアメリカは育っていないのである

大陸にとって未来とはまだ見たことなのかかなたにある、そういうことは大航海時代にも続いていた、海のかなたにある世界を見たいということでコロンブスであれ太平洋を渡りアメリカに到達したとなる、他のバスコダガマでもそうである、船でポルトガルでもスペインでもまたオランダでもそうでありイギリスになると遂に七つの海を征服して世界の覇権国となったのである
イギリスがアメリカに移民を送り込みアメリかを作る、そのアメリカもまた広大な空間の未知の国だったのである、そのアメリカを地理的に知ることは不可能だとなる
その広大さはまさに中央アジアにも匹敵するからである
そのアメリカの広大さもやはり空間軸からなり移動することになる
西へ西へと開拓者が果敢に進んで行く、それがホイットマンの詩となったのである
それは基本的に空間軸の詩である、無限の空間を移動する詩なのである
移動するにも馬車の時代でありだからこそ大挙して開拓者が移動するさまは壮観だったとなる、その後に西部への鉄道が通りさらに移動する人達がいたのである

●空間の移動の世紀から時間軸の世界へ

移動するということは移動する道具が必要になる、それが遊牧民だったら馬になり次に機械が発明されて蒸気船とかなり鉄道となりやがて飛行機となってゆくのである
機械の力で大移動の時代はつづくのである、そのことは第二次世界大戦までつづいていたしグロ−バル経済でも現代までもつづいていたのである
世界の拡大であり統合である、フロンティア精神である、これまでは常に未知なるフロンティアがあり人々は移動してきたのである
日本でも明治にはこのフロンティア精神があり空間を移動した、それが北海道である
侍の時代が終わり侍も北海道で開拓者になったからである
明治は日本が世界に開いた空間の時代でありフロンティア精神の時代だったのである
だから明治の偉人はみんな何かの大学であれ会社であれ実業家であれ銀行であれ創始者になっていたのである

ただその移動の時代も終わった、もう地球に移動する新しい空間はなくなった
そのために今度は宇宙空間に移動するようにもなった時代である
フロンティアは宇宙になってしまったのである、そして宇宙に投資するというときやはり空間の拡大の延長なのである、投資する資本主義というとき常にリスクがともなう
それでオランダでは世界へ旅発つ船にみんな株主になり投資する、リスクを分散するのである、それが資本主義の精神にマッチしていたのである
資本主義は常に投資するものを必要とするからである、その投資するものというときいろいろありただ移動してフロンティアを見出すということだけではない、投資とはあらゆることに発明でも機械でも投資することだからである
新製品の開発に投資することでもあり投資してその見返りとして利益をあげるということである、だから新たに投資すべきフロンティアが必要になるのである
ただ地球はもう空間的にはもう未知はなく限界になった、だから空間を拡大するということに投資することはなくなる、そこに資本主義の限界が生まれたともなる

だから世界は空間の拡大から時間軸の世界に移る、時間軸の経験を持つのは四大文明もそうである、文明となると時間軸で形成されたものである
エジプト文明は三千年とか継続して不動のピラミッドを作ったからである
神殿を作るということはそれは定着して不動であり時間軸のものである
インドでも中国でも日本でも時間軸の歴史があり文明であるとなる
アメリカには時間軸の歴史がないのである、空間の拡大であり時間軸の歴史がないからそこに宗教とか哲学とか芸術は産みだしていないのである
ホイットマンの詩を読めばわかるいかに空間を移動することがテーマになっているかわかるからだ、全く未知の広大なアメリカにふれた感動が延々とつづられているからである
時間軸で見るものがほとんどないのである、常に広大なアメリカを移動する詩なのである

ただ現代は空間の拡大の歴史は終わり時間軸の歴史に還る、時間軸の歴史は文明が起り成熟した地域である、エジプト文明であり中国文明でありインド文明でありヨ−ロッパ文明である、そこに時間軸の歴史があるからだ、時間軸の歴史は宗教哲学の時代でもある
それは人間精神の内面化の時代だからである、ただ現代のカルト宗教団体はこれには内面化など全くない、やはり空間軸の世界であり会員の獲得であり増大であり内面性は全くない世界である、物質欲と権力欲の拡大しかないのである
結局世界が島国化するというとき日本化するということが言われたが確かにそういうことにもなる、世界のフロンティア消失して島国のように閉じられてその中で生きる
時間軸の中で定着して生きるようになる、ただそこでは精神は耕され深いものが生れる
新たな文化が生まれる、文化とはその土地を耕す、cultivate-cultureだからである
コロナウィルスによる巣籠り生活はそういう生活形態だったのである、中世的内面化の探求でもあったのである

ただ空間軸の世界はわかりやすい、でも時間軸の歴史は理解しにくいのである
世界を旅しても時間軸の歴史を理解することは最もむずかしいのである
日本だってすでに江戸時代を理解することは本当にむずかしいからである
その土地に積み重ねられた歴史は簡単に理解できないのである
すでに50年、60年前、戦争や戦前のことが理解できなくなっている
卑近なことでも理解できない、子供時代街中でも囲炉裏があり炭が燃料であり井戸で水を利用していたとか経験しない人は理解できなくなったいるからだ
すると千年前とかの時間軸の歴史を理解することは至難になるのである
空間軸なら今でも世界を旅行すればある程度は実感として理解できる、空間軸の世界は地理は変わっていないからである、だから空間軸の世界を今でも理解できる
でも世界となるとやはり広大だからそれをしていたら一生などすぐに過ぎてしまうことにもなる、ただ別に学問がなくても空間軸の世界は今でも理解しやすいのである


2021年10月28日

温泉街が廃墟化した驚き (会津の東山温泉、福島の飯坂温泉もひどい-旅の思い出)


温泉街が廃墟化した驚き

(会津の東山温泉、福島の飯坂温泉もひどい-旅の思い出)

鬼怒川温泉の黄金時代は、バブル崩壊とともに終わりを告げます。景気は冷えこみ、日光鬼怒川温泉へ社員旅行をする企業が減り、個々人も、余暇に鬼怒川温泉へ観光しようというゆとりが減ってきました。

観光の世界において、常識的に語られることはいくつかあるが、その一つに「旅館が大型化し、宿泊客を囲い込んだために、街にあった店舗が潰れ、街の魅力がなくなった」というものがある。

(旅行会社が送客する)団体客への依存が高く、増えてきた個人客への対応力が弱い
個人客は、いろいろな施設が揃った大型旅館の中で過ごすより、それぞれの地域での街歩きを楽しむ傾向にある
温泉街には、かつては飲食店や物販店はもちろん、スマートボールや射的などがあったが、温泉旅館が、それらを内包してしまったために、皆、潰れてしまった
つまり、個人客対応できない温泉街にしてしまったのは、巨大化した温泉旅館に原因がある
さらに、その遠因は、団体客を受け入れしやすいように旅館の大型化を生み出した旅行会社にある。

会津の東山温泉と福島の飯坂温泉が廃墟の街となっているのをyoutubeで見て驚いた
これはいつこうなったのか?それが良くわからない、ただこれも日本の経済衰退から起きていた、ただ救いはインパウンドなどで外国人旅行者が特に中国人が団体で訪れていたことである、それでなんとか維持できていたこともあった
ただ全般的には温泉街は高度成長時代が終わりバブルがはじけて衰退した
高度成長時代は社員旅行とか団体旅行が盛んだったからである
この辺の呉服屋でも客をしきりに団体旅行に連れて行ったのである
この辺では火力発電所ができた港の村とかではもう航空運賃が50万とかなるときヨ−ロッパ旅行に行っていた人がいたので驚いた、その頃とても外国旅行に行けるとは思っていなかった,ヨ−ロッパ旅行となると夢のまた夢のような時代だったからだ

私自身が人生を旅に費やしたから旅館とかホテルでも興味がある
でも貧乏旅行者であり自転車旅行になってからまず高いホテルとか旅館には泊まらない
温泉旅館は高いので泊まったことがないし自転車では泊まりにくいのである
ただ一回だけ湯殿山ホテルに道に迷い泊まったのである
そこのお上が泊めてくれたから例外的だった、ホテルとなるとこうした自転車旅行者など泊めない、断られる、だからまず自分は旅館とかホテルはただ体を休めるだけで贅沢など求めない、温泉旅館は保養のためであり温泉街自体を楽しむ場所である
私は一夜の旅の宿を求める場所だから違っていた

『蚤虱馬が尿する枕もと』芭蕉

こういう所でも良かったとなる、ただ現代ではこうして旅人を受け入れる農家などないから野宿なのである、たいがい自転車旅行とか一人旅でも野宿である

隠田やテントに眠る夏の星

こんなふうになる、日本の特徴は意外な所に田があることである、それは税金逃れにもなる、山の陰などになっていてわからないからである、この辺の近くでも土地の人があそこか隠田だったよと教えてくれた人がいた、そこは平地なのだけど森の様な所があってかくれていたたそである、相馬市の松川浦の近くだから山の中ではないのに隠田があったから謎である

とにかく私の旅をふりかえると福島県なら隈なく行った、それで会津の東山温泉が廃墟化していることに驚いた、あんなふうに廃墟の街となっこのはこの辺が原発事故で避難して廃墟の街や村になったことと同じように見えた、なんか気味悪くなる
往時のにぎわいがぱったりとやんで廃墟マニアが訪れる場所となったのである
東山温泉というとき私は白河街道を通り芒の山道をぬけて東山温泉に出て来た
その時は廃墟の街のようには思えなかった
途中の福良の南湖の蔵の宿に泊まった、あそこはいい場所であり蔵の宿が良かったのである、でも私は温泉街とかには魅力を感じなかった、もともと宿賃が高いし泊まりにくかったからである
私はずっと貧乏旅行が長いから常に安い宿を探していたからだ
それで海外旅行でもパリの東駅で安宿を探していたのである
あそこにはかなり安宿がありでも満員だった

安宿に落葉を踏みて東駅

海外はむしろヨ−ロッパでも安いホテルが意外に多く個人旅行がしやすかったのである
日本はそういう安い旅館がホテルが少ないから旅はしにくいのである
かえって江戸時代の方が宿場町があり安宿が多いから長旅には向いていた
宿場町ではそうした旅人をもてなした、それは保養に車とかで来る人と違って長く歩いて汚れたりしているからまず足を洗うのである、それがもてなしなのである
もともとホテルはホステルであり病院に由来するからもてなしねぎらうものだった
それは歩く旅だからそうなったのである

現代に旅はないし旅人もいなくなった、電車でも車でもバイクにしろ早いから途中が飛ばされるし途中の宿に泊まるということもないからだ
自転車とバイクが似ているようで全然違う、バイクだと車並みに早いからである
自転車旅行は疲れるからだ、特に坂を上ると体力を消耗するのである

東山温泉もそうだが飯坂温泉もあんなに寂れて廃墟化していることに驚いた
福島市から飯坂線がありその線が何か情緒があった、途中の医王寺は芭蕉が寄ったことで有名である、そこから飯坂に行った、あそこをさらに上って行くとやはり旅館があり
その時桜が咲いていて丁度暮れる頃であり雨がしととふり旅館から湯の煙がたっていた

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雨しとと湯の煙たち夕桜

雨しと灯ともる旅館夕桜

こんな感じだった、その記憶は残っているが飯坂に泊まったのは覚えていない
旅の記憶はうすれてゆくと定かでなくなる、ただ自転車で行きそこで暮れたことは覚えている

『蚤虱馬が尿する枕もと』芭蕉

こういう宿でもふりかえると旅の醍醐味であり記憶に残る貴重な体験なのである
ふかふかのベッドとかホテルに泊まるだけの旅はかえってつまらないありきたりの体験になる、旅でも記憶に残る旅をしろと語ってきたときそうなる
電車であれ車であれ旅が楽過ぎるからかえって旅にならないのである
そもそもトラベルとは苦労することだから旅は外国でも難儀だったからである
それは歩く旅だったからである、歩く旅をしていないものは本当の旅がわからないとなる今は歩く旅はかえって余裕がないとできない、その疲れ方も半端ではないからだ
これだけ旅しても私は歩く旅はしていないから本当の旅がわからないともなる

いづれにしろ温泉街は旅の宿にはならない、高度成長時代のバブルとして廃墟化した
一時の夢の跡ととなってしまったのである
こういう盛衰は人間社会につきものである、ただ原発事故で町ごとが村ごとが廃墟化したことにも驚いたが温泉街の廃墟化にも驚いた
ただ原発事故とは違って温泉街という一部であり全体はまだ残っているのは違っている
原発事故は全体が廃墟化したからひどいとなる
温泉街が廃墟化しても回りの農家などはやはり生業があり残っている
この辺では農家自体が廃墟化したからショックだった

ただ本当に空家が全国で800万軒になるということはショックである、衰退してゆく日本を象徴しているのだ、本当に空家が多い、この辺で原発事故の避難区域は廃墟の町となり村となった、それは将来の日本を先取りした風景なのかとも見てしまう
ただ一挙に廃墟化したから凄まじい荒廃となった
ただ温泉街とかは何か全体ではなく温泉街として特化したものだからブームとかさると一挙に寂れてしまう、それがコロナウィルスでもそうなったのである

2021年10月27日

秋の暮、柿、(古磯部ー磯部ー相馬の城跡を回る)


秋の暮、柿、(古磯部ー磯部ー相馬の城跡を回る)

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磯部の高台

暁に黄金の実り海明けぬ

鳩の飛び朝露光り実りかな

柿なりて海を望むや古磯部

柿なりて古碑の並ぶや古磯部

城跡をたずぬる人や秋の暮

松に菊主君に仕ゆ城下町

城跡の御堀に鵜のいて秋の暮

街道の松並木行く実りかな


磯部と古磯部とがある、すると古磯部が古いのである、古町とあればそれも古いのであるつまり新しい町が生まれて元あった町が古町となるのである
それは狭い範囲でなっている、磯部でも古磯部が古くなったのは新しい磯部が海岸の方にできたからだとなる
ただ古磯部とは
どの辺のなのか坂を上って越えた入江のようになっているところなのか?
磯部小学校がある高台なのかわからない、高台は新しく住宅地にもなっているからであるつまり古くて新しい場合かあるからまぎらわしいのである
土地でも歴史でも見る場合、その場所が古いのか新しいのかが問題になる
だから墓地を見て江戸時代の墓を見れば古いとなる、また古い碑があれば古いとなる
写真にとったのは高台でありこの碑は時代がわからないが江戸時代のものだろう
あそこには寺がありその寺は古い、となれば高台でも古いのかとなる

ともかく海岸沿いの磯部村は津波で消失した、でも古磯部は残ったのかとなる
坂を越えた入江のようになっている場所が古磯部なのか、あそこは入江のようになっていたとしたそこで魚などもとれたから生活ができたとかなる
その辺が良くわからない、ただ高台からはいつも海が望めるから眺めがいい、そこは津波の被害はなかったのである

相馬市の城跡をたずねる人がいた、相馬市は城下町である、城下町というときどういうことなのか、必ず殿様がいて主君がいたのである、そして侍でも町民でも主君に仕える感覚になっていたのである、それが江戸時代てある
江戸時代とは今の社会とは大きく違っているから理解できないのである
おそらく人と人の結びつきが強い社会である
主君がいて侍は仕える、人と人が強く結ばれていた社会である、そういう社会を理解できなくなったのである、現代ほど人と人が結びつかない時代はないからだ
ただ商品を売り買いして人はただ商品を売買するだけの存在とかなるからだ

城跡の御堀には鵜がいた、鵜がいることは海が近いということである
時々鴎も飛んでくるから海が近いのである
今日は帰りに東風が吹いた、最近はすでに北風が吹いた、だから季節の変わり目になる
冬になれば北風しか吹かないからだ
まだ東風が吹くということは今日は比較的あたたかったからだ
風によって季節を感じる、それは自転車だから感じるのである、車だと風を感じないから風流もないのである

海から太陽が昇り暁になり黄金の実りがあり露が光る、これが海に面したこの辺の景色である、でも山国になれば山から太陽が昇り山に沈むから相当に感覚的には違ってくるのである

2021年10月26日

宝貝を貨幣とする国(童話) (貨幣は力の強い国が支配する道具)


宝貝を貨幣とする国(童話)

(貨幣は力の強い国が支配する道具)



バナナ国、パイン国、オレンジ国、ミリタ国という島がありました
四つの国からなる島の国でした
バナナ国にはバナナがとれ、パイン国にはパインがとれオレンジ国にはオレンジがとれました,ミリタ国には何もとれませんでした
ミリタ国では特別な槍を作り兵隊が住んでいました
この四つの島の人達はたがいにその島でとれたものを交換して暮らしていました
パイン国で
「バナナを食べたいな」
「バナナ国へパイン国へ運び交換しよう」
「それがいい、舟で運ぼう、みんな舟にパイン積め」
「よし、一杯積んでバナナと交換しよう、楽しみだな」
他の国でもこうして互いにとれたものを運び交換していました
オレンジが欲しい時はオレンジ国にバナナを運びとか互いにとれたものを交換していました
でもそれもめんどうなので一つの島にそれぞれの島でとれたものを持ちよりそこで交換するようにしました、そこが市場になったのですがそこでもいちいちパインを交換するためにバナナと交換することやまたオレンジに交換することがめんどうになりました


そこで考えたのが交換するための道具です、その道具があれば何でも交換できるものですそれを宝貝にしました、貝を貨幣のように使うのです、貝を金として一つ二つでいくらとして使用するのです
そうすればいちいちとれたものを持って行って交換する必要がないからです
それでこんなことを言う人もいました
「別に宝貝でなくても交換する道具なのだから石コロだっていいじゃない」
「そだな、石コロならいくらでもあるからな」
「でもいくらでも石コロはあるから集められる、それも困るな」
「宝貝はなかなか見つからないから貴重になる」
「それもそうだな、石コロのようにいくらでもあるとそんなもので交換されると困るよ
石コロで何でも交換できるとかありえないよ」
こういうことでやはり宝貝が交換の道具として選ばれました

ところでミリタ国には何にもとれませんでした
それで交換するものがありませんでした
ではどうしたかというと槍をもった兵隊が住んでいたから槍で脅してバナナでもパイナップルでもオレンジでも市場に行って脅して得ていたのです
それえ得るためにまず宝貝を集めたのです
「宝貝をよこせ」
「嫌だ」
「しゃ殺すぞ」
「それはかんべんしててください、宝貝はあげます」
こうしてミリタ国の兵隊はおどして宝貝を一杯集めたのです
それで何もとれないのに宝貝でバナナでもパイナップルでもオレンジでも交換できたのですその宝貝を集めた倉庫がミリタ国にあり兵隊が守っていました
その宝貝はミリタ国で管理していたのです
それを配るにも制限していたのです

ミリタ国は何もとれないのに楽だと見ますがでも敵が攻めてくることがありそれから槍の武器で守っていたのです
だから何もしないということはなかったのです
実際に敵がミリタ国に攻めてきました
敵は鉄砲ももっていて槍ではかないませんでした
そうしてミリタ国は鉄砲をもつ国に支配されました
一部の人は殺されました、他の人は逃げました
そうして鉄砲もった兵隊は宝貝をあることを知りその倉庫を管理するようになったのですミリタ国では槍の代わりに鉄砲の訓練を兵隊がしていたのです
「パインを食べたいな」
「明日市場に集まるから宝貝で買いに行こう」
「俺はバナナが食べたいな「
「それも宝貝で交換できるよ」
「明日市場に行くのが楽しみだな」
こうしてミリタ国で何もしなくても食べ物は得られたのです
ただ敵が攻めてくることがあり危険でした、殺されることもあり兵隊はいつも訓練していました

そこは危険なので他の国の人は住みたくなかったのです
ただ一部は力持ちとか強い人はそこに住みたいということがありましたが普通の人は住みたくありませんでした
ただ宝貝は貴重でありそんなに集まりません
宝貝でバナナを買いパイナップルを買うとミリタ国の宝貝の倉庫はやがて空っぽになります、なぜならミリタ国には売るものがないからです
もしまた別なものでもスイカとかでも何かとれるものがあれば売れるのですがそれがなければ宝貝だけ集めているとやがてなくなるのです
それでミリタ国では困っていたのです
でもミリタ国では敵から守ってやるのだからその宝貝を命令して取り戻したのです
それはミリタ国が命令してそうしたのです
「宝貝をミリタ国にはやりたくない、せっかくバナナを売って得たのにとかパイナップルを言って売って得たのに」
こう言って相手は鉄砲をもった兵隊だから逆らうことができなかったのです
そうして宝貝をミリタ国に一部もどしたのです
ただミリタ国には敵がいつ攻めてくるかわからないので危険でした、平和はなかったので、他の国では平和に暮らしたいからミリタ国に従っていたのです



貨幣の謎は深い、でも貨幣とは紙幣でもそれが権力と関係している
ミリタ国とは今ではアメリカになり世界を支配する、金融を支配しているのはアメリカ政府自体でなくてもロックフェラーとかロスチャイルドとか陰謀論になっても背後に巨大な権力を持っているアメリカがなかったら力をもてない
その力とは軍事力のことなのである
それでアメリカは常に豊かになれる、何も生産しなくても軍事力だけでも豊かになれる
でも覇権国が変わると中国とかになれば中国の貨幣が紙幣が使われることになる
つまり金融とは貨幣とは支配の道具なのである

だからローマでもオスマントルコでも地方長官とかが力を持つとその顔を刻んだ貨幣を出してその土地の支配者ともなる、それで中央政府から攻められるて殺されたともなる
貨幣や紙幣は確かに交換の道具であるがそれは中立でないし公平でもないのである
だからこそ貨幣や紙幣や金融は支配のための道具なのである
七つの海を支配したイギリスがボンドを基軸通貨としたのもそうである
エジプトを支配したからエジプトボンドがあり英語が通じる所ではイギリスに支配されたから通じるとなっている
今ではアメリカが世界を支配するからドルが世界基軸通貨になっている
現実に中国でもドルでしか石油が買えないから中国は金融の面でアメリカに支配されているのである、ただこの力関係が変わると通貨でも紙幣でも中国が支配することになる

だから通貨とか貨幣でも紙幣でもそれは単に交換する道具ではない、支配の道具となっている、そこで覇権国に富が集まるのである、日本の富をそうしてアメリカに吸い上げられる、中国が覇権国になれば中国に吸い上げられるのである
貨幣とか紙幣とかは公平なのものとして通用していない、明らかに力関係が作用して価値が決まる、公平なものとして使われないのである
グロ−バル経済もそうした力関係で価値が決まり正当な公平な価値で決まらないのである貨幣でも何がその時代で一番通用していたかを見ればその時代の覇権国の貨幣が通用している、それはその時代を支配した覇権国があってそうなったとなる

結局貨幣でも紙幣でも詩は道具だとしてたとき人間の歴史は常に覇権国があって支配それぞれの時代時代の通貨があり貨幣がある、それは公平な経済のルールではない
必ず覇権国が得する仕組みであり軍事力が背後にあって通用していたとなる
だからグロ−バル経済は公平ではない、金融で世界を支配する仕組みだともなる
でも覇権国が変わるとまた別な国に支配されるとなる
必ず人間では従属関係が生まれる、国でもそうである、それが人間の歴史であり業(カルマ)なのである

posted by 天華 at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

日本の貧困化の深刻 (政治には期待できないー選択する政党もない)


日本の貧困化の深刻

(政治には期待できないー選択する政党もない)

今回の選挙の争点は何かと言えば日本の貧困化の深刻化である
第一給料が賃金が30年も上がっていないということが異常である
物価が上がらなくて一応なんとかやっていけたがぎりぎりである
本当に日本は貧困化して余裕がなくなった、貯金している人も本当に少ない
そして貯金しても利子がつかない、逆に通帳を作るたげで金がとられる
だから地銀でも銀行の価値は下落したし銀行員はエリートだったけど投資信託とか株を売る証券会社が指導するものと変わった

そして今度は円安で物価があがる、でも円安になってもそのメリットがないという
なぜなら日本で売るものがないからである、電気製品は韓国製と中国製になったからである、現実に大手メーカーの地位は落ちて買収されるとか世界で活躍する大企業がないのである
日本は賃金が上がらない、物価が安い国だから外国から観光客が押し寄せてきたのである何も売るものがなくなり観光で外貨を稼ぐほかないとなったからである



【悲報】日本さん、…貧困化で「車の運転免許が取れない」人が激増。日本さん「車買えない」「自動車免許取れない」… (1002)

高校生の親というと40代がメインだと思いますが、子供の制服代を出せないところまで貧困化が進みましたか… (17)

日本、ガチで貧困化 体重が低下していく子供が急増 成長期である子供の体重低下は異例 (349)

そりゃここ10年で子供食堂だとかフードバンクだとかが社会に定着するレベルになってんだぞ


まともに食えない時代になっている、子供だけではない大人でも老人でもそうなっている人がいる、10円20円を節約している人がいる、果物は買えない、まともに栄養がとれない、生活保護でも医療費などは無料にしても後はもらえない人もいる
国民年金は4万から6万とか少ないのでやっていけない、その人は実際はもう生活ができない、援助してくれる親族もいない、ただ息子がいたとしても援助できない
生活保護があるからいいとしているがこれから生活保護すら7万だとかもう生活できない
そういう社会で何が起きるのか?

有名な投資家が日本はアメリカと同じような犯罪国家になる、巷に食えない人々があふれる,ホームレスも増える、食料不足になり奪い合いにするらなる
円安で外国から入る食料が買えなくなるからだ、ただ北朝鮮のようにはならないだろう
米が余っているから米くらいは食べられるとなる、でもオカズを食べることは苦しくなるそうなると江戸時代に逆戻りだとなる

自民党は富の分配を言っているが全体が成長しないと分配でも福祉でも回らない
でもぎりぎりになると持っている人が持たざる人に分配しないと暴動が起きるとなる
金持が襲われるのである、日本は今そういう状況にある
今度の選挙の争点は何なのかはやはりこの日本の貧困化をどうするのかということになるこれは簡単に政治では解決しない、円安でも日本で売るものがないから前のように効果がない、唯一自動車産業があってもEV化に追いついていない、何かあらゆる面で日本はおちぶれてゆくことの恐怖である

これは自公政権でも野党でも簡単に解決できない、選挙目当てで給付金を出すとかいいことを言っても根本的な解決にはならない、一場のしのぎにしかならない
自民党政策の失敗は一部の特権者のために五輪を強行したことである
インパウンドもコロナウィルスで駄目になったのも痛かった、もしインパウンドで金が回ればそれほど言われなかった、だからなぜオリッピックを強行したのかわからない
そこで残ったのは競技場など使い物にならない施設であり維持するのにまた莫大な金がかかる、こうした無駄が菅政権の残したものだったのである

では野党で日本の貧困化を解消できるかとなるとできない、そんな即効力あるものがないからだ、日本の貧困化をなくすには長期的な視点が教育の充実とかが必要になるからだ
技術力を高めることでもそうである、ただ科学技術立国は中国に追い抜かれてなれない
そして日本に残るのは何なのか、後進国のように観光とか最悪なのはカジノの誘致とかでありこれには公明党もかかわっていたのである
ギャンブルを奨めているのだから信じられないとなる

創価公明党は御利益ならなんでもいい、そのために毎日祈っているのだから抵抗感がないただ婦人部ではギャンブルで夫に苦しめられているから反対する人が多い、でもそれも無視される
こうして日本に選択する政党がない、第3の政党もでてこない、政治全体が駄目なのである、こうして負の面だけが目立つものとなり何か有効な解決策もない
そして日本はどんどん落ちぶれてゆく、その先に何があるのか?
日本の荒廃と衰退であり少子高齢化で空家が800万軒とかになり地方自治体がくずれてゆくとか原発事故の避難区域のようにゴーストタウンになることの恐怖である
何かこの辺の状態が日本の未来なのかと見てしまうのである

こういう危機の時は民主主義はかえって効果を発しない、コロナウィルスでも後手後手に回ったからである、強力指導者の下に一致協力して建て直すことが望まれる
挙国一致内閣が必要になる、民主主義国家は危機に弱いことがわかったからである
でもそうなると戦前のようになファシズム体制にもなる
その舵取りがむずかしい、でも危機に対処するには君主制がいいとなる
ただそれも失敗すると戦前のように戦争とかに暴走するようになる
その歯止がなくなる、ただこの日本の貧困化はますます深刻になり日本の危機になる
これだけは確かなのである

少子高齢化も深刻である、回りには老人だけ増えてくる、近くの三人の女性は一人は腰が痛いとが立つのに苦しい、一人は猫背になっている、一人は恰好がやっと立っている感じである、75以下でそうなっている、そして8050問題は深刻である
そういう親が増えているからである、誰かが介護するようになる、その負担が大きいのである、日本はこうして三重苦になり明るい未来が見いだせないのである
だから政治にも期待できない、日本の貧困化は政治で解決しないからだ
こうして民主主義も機能しなくなり貧困化がさらに深刻になると暴動が起きてくるかもしれない、それほど追い詰められているともなる
要するに選挙でも変わらないとなるとそうなるかもしれない恐怖になる
posted by 天華 at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年10月25日

農業でも漁業でも衰退して原発が作られた (親は農業でも漁業でも苦労が多いから継がせたくなかった)


農業でも漁業でも衰退して原発が作られた

(親は農業でも漁業でも苦労が多いから継がせたくなかった)

NHKの伊勢海老をとる漁師の放送をしていた、なぜ漁師になったかというと前は別な仕事をしていたのである、ところが交通事故で複雑骨折とかして仕事ができなくなった
それで親が漁師をしていたのでなった、そしたらまた仕事中に目を汚して片目が見えなくなった
何か不運のようでまず交通事故になる人は多い、そこで怪我してそれが尾をひく
一番ケガしやすいのが交通事故なのである、また結構何か仕事で事故になる
その人も結構厳しい人生となったのである

でも親が漁のことをいろいろ教えた、それでやっていけた、すると親子のつながりは強くなる、でも漁師には親はしたちないというとき仕事の辛さと危険を体で知っているから
子供にはやらせたくないとなる、そうして漁師でも継ぐ人は減ったとなる
何か親は自分の仕事を継がせたくないという時、仕事の辛さとか危険を体験しているからそうなる
農業でもやるなとして親に殴られたという話を聞いた、その人は建築現場や原発で働くようになったのである
これも農業は苦労が多く金にもならないとしてそうなったのである

ただそういうことがこの辺では原発事故で大きな問題になった
船主とか漁業組合は漁業権をもっているからそれで事故前も補償金をもらい原発御殿が建っていたとか批判されるようになった
鹿島と原町区にある火力発電所でもそうである
そこの漁師では二回も補償金をもらっていたのである、そのために高価な着物が売れたとかまた航空運賃が馬鹿高い時にヨ−ロッパ旅行していたのである
その頃航空運賃が50万くらいしていたからである

海外旅行の費用は50万円程度、現在[いつ?]の換算で300万円前後か)で、一部の富裕層に限られており、庶民には夢であった

こういうことがすでにこんな田舎でできていたことに驚いた、それだけ二回も補償金が火力発電所建設と原発で船主とか漁業組合に入っていたのである
ということはさほど魚がとれなくても十分に豊かに暮らせる金をもらっていたとなる
おそらく魚をとるだけではやはり農業と同じように金にはならなかったから漁師でも跡を継がないとかつづかないとなっていたろう
実際に松川浦の漁師は魚がとれなくて売れなくて困るとかネットで報告していたからである、でも今振り返るとそういうことはなかったのである
つまり魚がとれなくても補償金で十分に暮らせていたのである

いづれにしろ農業とか漁業とか林業は衰退産業でありそれも苦労が多いし危険だから後継者もいないとなる、ただ全部ではなく一部ではもうけている人達もいる
全般的には後継者がいないとか衰退産業であった
でももともとは農業でも漁業でも林業でも主産業だったのである、農業だと養蚕農家が多く生糸が輸出産業となっていたのである
だから別にそういう時代は漁師でも生活していたし後継者もいたのである
辛いとか危険でもそうして生活するほかないからである

ただ時代が変わってそうなったのである、とにかくそうしたことで原発が金になるからいいとなって積極的に誘致された、原発は金のなる木だった
その労働にしても放射線被害があるから何分か中に入って働き休むとか何か重労働でもないみたいだった、それより普通の三倍もの金になっていたのである
そのために飯館村の人も働いていたのである、それだけの金になる場所だったのである
それでこの辺では金持ちになった人が結構いたとなる

それが事故で裏目になった、そこには危険が隠されていたが金のために無視されたのである、何しろ今の時代金になるとなると目の色を変える、まずは金だとなるからどうにもならない、みんながそうなっている時反対することは不可能になる
安全神話でも地元の人が信じたとなるのは金のためだったとなる
それが一挙に事故で崩壊したのである

だから本当にそうして親が子供に苦労させたくないという親心が仇になったともなる
今になると日本が貧乏になり何か金になることもないというとき盛んに農業が有望だとしているのも不思議なのである、農業でも実際は小規模農業ではなく専業農家が野菜でも大量に作り市場に出している、キャベツ農家とかいて外国人を安く雇い一千万とか稼いでいる富裕農家がいる、それを見れば別に農業ですべて稼げないということではない
ただ農業でもその形態が変わったのである、農産物の八割はそうした専業農家で作り市場に出しているのである
農業でも漁業でも林業でも全部がだめになっていない、一部でも成功して金になっているのは依然としてある

確かに親が子供には苦労させたくないということがり親心があった、それが悪いとはならない、でもまたそういうふうに自分のしてきた仕事を全否定するようなことを言うのはおかしいともみる、何かしらその仕事に誇りがありいくら苦労したとしてもその仕事まで人生まで否定するというのがわからないのである
それも結局すべて金にならないということに尽きる、そのことが原発を積極的に誘致した大きな原因ともなっている、また双葉とか大熊辺りは仕事がなく出稼ぎしていたから地元で働きたいということでもそうなった

ともかく原発のことを良くわからないままに目の前に金になるということで金をつきつけられて地元の人が危険を無視したとなる
そして30キロ離れていると関係ないと思っていたのも盲点だったのである
つまり事故になることなどほとんど考えていないからそうなった
でもチェルノブエリでは人が住めなくなった、あれを見ていれば危険だと推測するがそれもしなかった、何か日本人は優秀だとか技術的に優れているとかで慢心していたのであるまた津波でもスマトラ津波があったときも日本では津波に警戒しているからあんなにふうにはならないと見ていたのである

日本人はこうして慢心していたのである、太平洋戦争でもそうである、アメリカがどういう国かも知らない、それて甘くみて慢心して3百万人も死んだのである
やはり人間が慢心する奢ることがいかに危険かわかる
高度成長時代がありその時、ジャパンアズナンバーワンとか奢りがあった
日本は別に優秀でもなかった、今になると韓国や中国でも同じように電器製品を作っていて日本だけが作れるものでもなかったのである

ただ確かなことは第一次産業だけでは豊かになれなかった、工業化しないと豊かになれない、それは中国をみればわかる、たちまち工業化IT化して豊かになったからである
イスラム圏では工業化しないから豊かになれないのである
でも工業化は必要でも原発となるとそれが危険であることを隠していたのである
別に原発がなくてもそれなりに暮らしていける、第一江戸時代から戦前でも電気もまともにもないのに暮してきたからである、そこでは金持ちもいたのである
養蚕農家があり農家でも暮らしていけたのである
原発がなくても高度成長時代はあった、電気は作れていたのである

原発の危険は「安全神話」で隠された、安全だ安全だ念仏のように唱えていたである
その裏返しは技術者はその危険を知っていた、でも安全神話は権力で隠されていたのである、原発はブラックボックスとなって一般の人には地元に知らされないからである
それが事故になり白日の下にさらされたのである
その巨悪が暴かれてさらされたのである、だからこれだけの国家的巨悪はとても暴くことが不可能であり津波が暴いたともなる
そしてその責任をとった人は政府でも東電でも依然として一人もいないのである
ただ地元の人は故郷に住めなくなるという責任をとらされたのである
必ず責任は人間とらされる、カルマとなる
それから逃れることはできないのである、原発はそうした重い責任があるものだったが
それが権力で見逃されたのである


posted by 天華 at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年10月24日

雲雀が原で秋競馬 (今日は菊花賞であり相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ)


雲雀が原で秋競馬

(今日は菊花賞であり相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ)

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街道や松影なして秋の雲

駆けぬけ風さわやかに秋競馬

秋競馬鼻息荒く走り去る


雲雀が原で人が集まっていたから何か思ったら秋競馬だという
それは雲雀が原の中に入って見れるというから見た
野馬追いの時は中には許可かないと見れない、写真を撮る人は事前に許可をもらって入るその周辺では誰でも写真がとれる、写真をとるために野馬追いを遠くから見に来る人はいる

この競馬は旗はないからものたりないとなる、また5頭しか出ていなかった
でも相当に早かった、旗がないから早く走ったとなる
すぐ側を走ったから鼻息が聞こえた、そしてその速さが怖かった
迫力を感じるにはこうして実際に見ないとわからない

時速60キロのスピードを出すことができて、最高時速は77キロまで到達する、といわれています。

人間の最高時速が37キロですから、馬がどれほど速いのか、ということをご理解いただけると思います。

車が70キロとか60キロの速さで走り去るとしたら本当に馬でも怖い
そういうとき落馬したら死んで不思議ではない、その衝撃は大きい

階級社会から見れば士農工商の商、何の労働もしないで富をえるいちばん悪い儲け方だったので、当然ながら役人は馬の使用を許可しなかったのです。

これが、実際に馬を利用しなかった(できなかった)一番大きな理由です。

もっとも、日本も馬の去勢を取り入れていたら扱いやすい馬が増え、江戸時代には普通に馬や馬車を利用していたかもしれません。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7062952.html

野馬追いとかなると日本人は馬を駆使していたとみる、実際は違っていた
もともと魏志倭人伝にも馬、牛、羊なしと記されていてそのために日本をほど馬を使わない民族はいなかったのである、何かこれも歴史の錯覚である
華々しく合戦では馬が活躍するから馬を日本人は使いこなしていたようにみる
そしてこの辺では相馬野馬追があるから馬を使っていたのが日本だったように見える

そうなると相馬野馬追いのように馬を使うのはむしろ少ないから目立っていたともなる
なぜ相馬藩が伊達という大きな藩と対抗できたのか?
その謎は馬を使いこなしたからだとなる、藩は小さくても馬を使えば武器になりそれで強かったので対抗できたとなる
そもそも相馬野馬追いであれだけの馬が出ることが不思議だからである

何か歴史には常に誤解がある、日本で馬を使わなかったのは去勢することをしないとか
あとは家族で家の中に馬小屋があり家族のように扱ったとかで馬との付き合い方が違っていた、何かするとこれも日本の文化があり馬の扱い方も違っていたとなる
人間まで去勢した宦官がいるのが大陸だからである、これはイスラムまで大陸で広がっている文化なのである、だから人間を売り買いしたり奴隷にするのは大陸文化である
現実にヨ−ロッパ人がイスラム圏に支配されて女性でも奴隷として売られていたのであるこれも今になると信じられないとなる、奴隷にする文化が大陸では前からあったのであるそれはもともと遊牧民文化であり家畜文化があったからなのである
だから日本の歴史とかはその大陸から孤立しているから特殊なのである

今日は菊花賞だった、この競馬でも実際に馬場の中に入り近くで見たらその迫力がすごいだろう、テレビではそうした迫力が実際はわからない、本当の馬を知るなら大陸の草原で自由に走る馬を見ることである
私は中国の内モンゴルで馬にのった、その馬が小さいから全然乗馬の経験もないのに乗れたのである、そもそもあんな小型の馬で良くモンゴル帝国が作られ世界の半分を制覇したと思う、それも意外だったのである
歴史には実際いろいろ意外なことがあり誤解しているのである
まずモンゴル平原とか草原とかを理解できないからである
モンゴルで羊を飼うために一年で住んでいたという人と帰りの船であった

その人は冬は寒くて一回りやせたという、それだけ冬が厳しいのである
そのために床の下に馬糞などを燃やして温める、オンドルと似たようなものを使っていたとかなる、そのオンドルは韓国でも使っている、それはあたたかいである
そのオンドルも日本に伝わったのだが広がっていない、近江でそのオンドルの跡が発見されたからである、日本では気候風土の相違で大陸から伝わっても渡来人が伝えてもそれがみんな定着したとはならないのである

この競馬を見て昔の浜街道の道を行くといい松がある、あの松は前らか注目していた
その松か影なして秋の雲が浮かんでいた
あそこの真っすぐな道は原町の宿場町だったのである、その絵も残っている
原町は大きな宿場町であり駅前通りは鉄道が通るようになってできた街なのである

それで江戸時代以後に明治になって戦後も雲雀が原の近くで開墾した人々がいたのであるそんなところで開墾したというのも今になるとわからなくなるが畑にする土地がなくてそうなった、特に戦後は大量の戦争の引揚者がきてその人たちは職がないからどんな不便な土地にでも入って開墾したのである
だから鹿島区の街のすぐ近くの小池にも開墾した場所があった、そんな近くでもそうなのかと驚く、それだけ仕事がないから食べるためにそうなったのである
雲雀が原でもその近くで畑にしたのもはそのためである

この辺では相馬野馬追いがあるから馬に興味を持つ、野馬追いのために馬を飼っている人がいるからだ、侍の子孫がいるからである、それでその馬で競馬で賞をとった馬が飼われていた、その馬を見るために見に来た人がいたのである
競馬で使いなくなった馬は馬肉とされるとかありかわいそうだとして飼っているとか放送があった、賞をとったような馬はそういうことがある
でも今日菊花賞で7千頭から選ばれた馬だと放送していたがそういう大舞台に出れるのはそれだけえりすぐれた馬だった、そこに出るだけで特別の馬だったのである

posted by 天華 at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

介護する人がいない、回りで死ぬ人が増えて来る (8050問題ー78歳は鬼門の歳)


介護する人がいない、回りで死ぬ人が増えて来る

(8050問題ー78歳は鬼門の歳

昨日あった老人は知っている人だった、家の畳を作った人である、でも夫は78歳で死んだ、10年くらい介護していた、その女性を見たら身体がまともではない、体がぎこちなく姿勢が悪い、何かやっと歩いている感じにもなる、腰もちょっと曲がっている
老人を見る場合姿勢をみることである
歩く姿など見ているとこの人は相当にふけてきた弱って来たとみる
もう一人は最近腰が悪いとか足を悪くして不自由になっている
71才だけど普通よ老けて見える、足が悪くしてまともに立てないからつかまって立っている、それはワクチンの後遺症もあった、でも前から腰とかが悪かったのである

家の畳を作った夫の妻は近くの医院で働いていた、その医者のことではこのまわりでいつも話題になっていた、でも死んでから何も言う人がいないのが不思議だった
その女性は7年間手伝いで働いていた、でもその医者が死んでから話題にすることがないので忘れていた、そしたらその息子が死んだという
それを聞いた時その人は東京でやはり医者をしていた、でも父親が死んで医院を受け継ぐということで一時もどったがまもなくまた東京にもどった
母親を看るためだとして戻った、でも母親は施設にあづけられた、その人も死んだ
でもその息子はまだ若いと思っていた、ただここでの生活はしていなかった
だからなじみがないしわからなかった
でもその息子が死んだと聞いた、これも驚いた
歳はやはり78歳くらいである

78歳は鬼門の歳だ

なぜならその隣の人も最近78歳で死んだからだ、その畳屋も死んだのが78才だった
そして隣の女性も突然78歳で死んだ
いかにこの年は危ない歳かわかる、そして78歳にるなと急に弱ってくるという、ここが鬼門の歳であり限界の歳だと示している
そしてその残された女性は婿様と一緒が実の息子ではないのでなんとかと言っていた
おそらく実の娘は死んだのかもしれない、その辺はわからない
でもその女性でも何か見ていると介護状態になるのではないかともみる
どうしても姿勢とか歩く姿を見るとそれで弱ったなと感じるからでる
でも介護する人がいないともなる、娘がいても東京とかに離れている人も多いのである

とにかく高齢化社会とはこうして弱ってくる人が多い、そして介護となるとその人もそうだが息子でも一人で暮らしているとかありいないのも多いのである
8050問題は相当に深刻になる、80歳の親を50歳の息子娘が介護することになる
でも介護するにもその余裕がある人は少ないのである、人手も金もない人が多いから深刻になる

とにかく回りで死んでゆく人が多いとつくづく思う、話題になるのはそうして死ぬ人なのである、例えば知らない人でも俳優でも時代劇を見ていると死んでいたのである
役人の俳優は藤田まことでありその人が死んでいたのである、十年前に死んでいたのである、これもわからないから生きているとして見ていた
三〇年とか四〇年前のドラマだからその俳優でも死んでいる人が結構いるということである、ただドラマは面白いと思って見ている

本当に死が身近になり田舎だと誰々が死んだとかが話題になる
それがあいさつにすらなる、そして悔やみにいちいち行くときりがないとなる
ともかくこれから膨大な死者が出る、都会だと焼き場でも焼ききれないとかも言う
それだけの人が死ぬということである
その前に介護がありそれが下の世代の負担になる、なにしろ数が多いからその負担で国もつぶれるとかまでなる、それほど深刻なのである
回りをみても老人と病人ばかりだとなってしまうからでありそうなる傾向はさらに強くなるからだ、田舎でも都会でも老いてゆく、そのことで日本は衰退して悪化してゆくのである

2021年10月23日

大輪の白菊、秋薔薇(フラワーアレンジメント)


大輪の白菊、秋薔薇(フラワーアレンジメント)

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一村や農家の古く柿に蔵

石一つ十輪ほどの秋薔薇

新しき家も幾年秋薔薇

大輪の白菊映えし広間かな


大輪の白菊御前に我が家かな今日も勤めぬ心正しく

大輪の白菊にそえ色違ふ小菊いろいろ映えにけるかも

大輪の白菊活けて塵つかず今日も御前に勤めけるかも


今年は秋がなくて冬になった、今日も寒い、こうなると季語も合わなくなる
北海道で鮭かとれなくてブリが大量にとれたというのも日本の気候が変わり季節が狂うとなる

秋薔薇というとき田舎町であり十輪くらい咲いているのが心にしみる
つまりこの十輪とは人間をイメージするのである
人間の付き合いも親しくなれるのが10人くらいかとも見る
だから何百万とか会員のいる宗教団体などはもうただの数になってしまう
庭に石一つがありそして十輪ほどの秋薔薇が咲いている、それで落ち着くとなる

この辺では震災以後新しく移り住んだ人が多い
十年過ぎてもやはり新しい感じになる、でも徐々に土地になじんでくる
でも土地になじむには時間がかかるのである
だから都会から田舎に移っても老人になると60以後になるとなかなか土地に親しむというかなじむのがむずかしいとなる

大輪の白菊を活けて飾る、その大輪の白菊が家に映える、広間に映える
この生け花は目前で花を見ることで心と一体化するのがいいのである
そしてこの花は何を意味しているかというとやはり中心に大輪の花がありその花はあたかも祭壇なのである
花を礼拝するのではないが花を中心にして人もあるとなる

それは社会でも会社ならそうして穢れの無い花を飾る、それが中心となり人もつとめ働くのがいいのである
でも実際は会社でもそうはなっていない、おそらく花ではなく金の神を祭壇にしているともなる、マモンの神だともなる
ただ神社であれ寺であれ結局汚れた場所になっている
金儲けの場所でもある、だから汚れない場所はないとなる
人間がいることで必ずすでに汚れたものになる

本当の祭壇は自然そのものにある、そこには人間はいない、そうなれば汚れない神域だとなる
とにかく生け花でも中心がありそこに大きな花を挿すことになる
大輪の菊がふさわしいとなる
ただここでは花屋が一軒したなくなり花をそろえられない、スーパーでは生け花するには花がたりないのである






20代で土地を買い家を建て立派な庭を作った80代の人 (新しい産業が生まれないと日本は豊かになれない)


20代で土地を買い家を建て立派な庭を作った80代の人

(新しい産業が生まれないと日本は豊かになれない)


信じられないだろうけどバブル時代は、

16歳の中卒土方でも給料が100万円あった

佐川急便のトラックドライバーの求人でも月給80万円以上あった

anや新聞広告にもよく載ってたから覚えてるやつもいると思う

おれの友達も佐川に2トントラックのドライバーやってたけど22歳で月150万円もらってた
今の若いやつはみんな月給20万円以下


今の時代の差が大きい、知っている人は20代ですでに新しく土地を買い家を建て立派な庭まで作った、20代でそんなことまでできた時代だったと思った
その差は大きい、その頃日本経済はうなぎのぼりで成長していた
その人はトラック運転手であり人より二倍働いた、荷物を運ぶにしても歩合制であり二倍の収入になった、それもあるが収入が今とは二倍くらい違っていたとなる
要するに働けば働くほど収入は増やすことができた

まず貯金していれば金利が7パーセントなのだからそれも信じられないものとなった
今や銀行にあづけるだけで手数料がとられ金利はゼロなのである
地銀などは投資信託をすすめるが実際は素人と同じであった
ただ自分の銀行の利益を上げることしか考えていない、だからとにかく転売をすすめる
その度に手数料が入るからだ、それで株でもリーマンショックで半分になった株が元にもどり上がり始めたとき転売した、それをJーreitに回した
そのJーreitをその地銀の営業の人が信用できなくなりやめたのが良かった
そのあとコロナウィルスで急落したからである

特に田舎の地銀など投資のことなど何も知らないしただ手数料を取るだけの商売である
だから知識のない人はカモになるだけだと知った
ただ今の時代は投資をするなとは言えない、知識のある人はすべきである
でもその知識でも株に通じることは並大抵でないからできないとなる
結局銀行がどうのこうのと言っても自己責任になる
田舎では証券会社でもないし選ぶことが限られているからうまくいかない
それがハンディキャップとなっている

ただ今の時代は本当に給料でも30年間日本でも上がっていないとか日本経済がこれほど落ち込むことは考えられなかった
こういう時代では今の若い人は夢ももてない、自立できないから結婚もできないともなる銀行員など前は公務員と同じく地方ではエリートだったが今や悪徳商人のようにも見られる、銀行は堅い職業と見られていたからである
田舎ではもともと証券とか株は嫌われていた、なにか胡散臭いものとして見ていた
それは別に利子が高いのだからそんなものにかかわる必要がなかったからである
大学の経済学の先生まで株はするなと言ったいたからである
そういう時代は恵まれていた時代だったからそうなっていたのである

20代で結婚して土地を買い家を建て立派な庭を作ることができた
田舎のことでもそういうことは都会でも全国的にそういうことができていたとみる
貯金すれば十年で倍とかなって投資とかめんどうなことにかかわる必要もなかったのである、投資は知識でもむずかしくハードルが高いからである

日本はどうしてこれほど経済が落ち込んだのか?
それは産業の転換が新しいものに転換できなかった
戦後は焼け野原になっても財閥が解体されたとか地主が消滅したとか大改革があった
そして電機産業が起り世界に日本製品が売れた、それで高度成長時代が生まれた
その時それだけではない何もない時代だから地方でれ小さな町工場であれあらゆる場所で起業すると成功していたのである

私の家でも子供相手の駄菓子屋のようなものから始まり小さな店をして売れたのである
物を置けば売れたのである、でも私の家族をみても商売上手とかではなかった
ただ角に店があったから地の利で売れただけだとなる
その店を開くのに5万ほどの金を借りるのに苦労した、銀行でも貸してくれなかった
でもたいした設備もなくて店など開くことができた、そういうふうに簡単に店をもつことができたのである、そういう時代は活気があった
何か起業すると成功しやすかったのである
それはみんながそうであり活気があったとなる
その時子供でもわんさといて神社の境内で遊んでいた、その声がうるさいくらいだった
でも今になると遊んでいる子供もみかけないのである

なぜこんなに日本の経済が落ち込んだのか、その一つの大きな原因が戦前は絹織物生糸を作ることが全国の産業であった、それで私の母親は十年間原町の紡績工場で糸取りとして働いていた、それは全国でそうだったのである
養蚕農家が全国的にあった、それは兜の形をした屋根が今でもいたる所に残っていることでわかる、ここも養蚕農家だったとかわかる
養蚕が日本を支えていたのである、それはアメリカへ輸出されていたのである
でも戦後は焼け野原になり養蚕は終わり電器産業に変わった
その産業の転換に成功して高度成長時代になったのである
あとエネルギーでも石炭から石油に変わったことで大変換になった
鉄道はもともと石炭を運ぶものとして作られた、常磐炭田でもそうだし北海道は石炭の産地であり石炭を運ぶために作られた、夕張とかでも石炭の産地だったからだ
でも石炭から石油に変わると寂れてしまったのである

結局日本が貧困化しているのはこうして産業の転換ができなかった
IT時代になってもそれも韓国や中国より遅れをとった、やはり時代は技術でも変化する
今になると新聞など一軒一軒配ることがどれだけ手間になるか、コストがかかる
もう続けられない、インタ−ネットならもう数人でできることを百倍の手間とコストをかけているとなる、それで大手の印刷会社がやっていけなくなり会社を売るようになったとかある、新聞のコストがかかりすぎるのである
テレビ局でもyoutubeで個人ですら局をもつことがでる

これを比較すると徒歩で旅する時代と汽車で旅すにうよになった時代のように変化している、だからもう新聞とかテレビ局とかは終わりになる
そうしてマスコミの力も相当に弱まった、テレビ局はその装置だけで莫大な金がかっていた、だからこそ第3の権力になっていた、でも残ったのは取材力とか放送する内容になったのである、もともとそこが報道でも重要なものだったのである
だから取材力とかコンテンツを作る人材は必要であり残るとなる
それは別にテレビ局でなくてもyoutubeでも放送できる
現実に教育番組になるとyoutubeがいいとなる、そして大学でもつまらない講義を聞いているよりyoutubeで学べると思った

何かこうして技術の変化があり産業の変化がありそれについていけないと廃れてしまうのが社会である、日本ではそれができなかった、なぜできなかったのか?
日本は物つくりはもともと伝統的に優れていてもITとかの分野は日本の文化と相いれないものがあり苦手でありそれで取り入れることができなかった
明治維新でも物造りではいち早く追いついていたからである
つまり産業の転換ができないためにこれほどまでに落ち込んだとなる
だから経済を回復するために産業の転換が必要になる
電器産業でも韓国に中国に追い抜かれた、すると同じ分野では価格が同じであり差がないから勝負できない、安い方がいいとなるからだ

いづれにしろ時代が変わり養蚕が絹織物産業が興隆した時代から電器産業が興隆して高度成長時代になった、その次なる新しい産業が出てこないと日本がはジリ貧になる
それがITだったのだがそれに遅れた、ただその次なる産業は新たに起これば日本も回復するとなる、でもそれが簡単には今度はできない、それで今度は観光立国とかなったのである、それは落ち目の国がすることである、それで経済が回復することはない
ただ日本には独自の文化がありそれで観光客をひきつけるとういことはあった
でもコロナウィルスでまたそれもそがれたのである

そして今度は負の負担が増える、少子高齢化で老人ばかりふえて福祉関係に金がかかる
何しろ老人は病気になる人が多い、するとそれが負担になる、数が少なければいいが
数が多いから負担になる、若い世代の負担にもなる
結局悪いことは重なる、何かいい面がありそれを見出そうとしてもなかなかない
日本は資源が無いから教育だとか明治から言われた
日本ではそういう基盤があった、寺子屋教育があり読み書きできるとかあった
識字率が高かった、でもそれだけでは今やグロ−バル化するとやっていけない
おそらく日本の弱点は何かまねは上手でも創造力発明がないことである
西欧文明というときそこに発明があったからである

中国文明に習ったのも漢字などを取り入れたのもそこに発明があったからである
日本は独自に発明したものがない、電器産業はそれは独自に発明したものではなくただ先んじて成功したものであり日本独自のものでもなかったのである
それは中国でもアメリカのまねであり中国独自のものを発明していない
だから日本も中国のヨ−ロッパとアメリカのコピーだとなる
それで中国も最近ゆきづまってくる、ただアメリカでも衰退してゆくから次なる興隆する国はどこになるのか?それが見えていないのである

それより世界がもう開発とか限界であり物の生産でも限界でありそこで持続可能社会が言われるようになった、資本主義も限界になった
資本主義は常に資本を投下して成長するシステムでありそれがなくなると終わりになる
後進国があってそこで成長してゆくことによりグロ−バル化資本主義が成立つ、それがなくなると終わりになる、だから世界自体がそうした限界状態になってきているともなる
次なる投資国がないからゆきづまる、そこで中世時代のようになる
それは物を無限をに生産して売る世界ではなく心の内面の追求になる
哲学宗教の時代にもなる、ただカルト教団とか宗教団体はこれは全く資本主義に組み入れられた物欲拡大のものであり心の内面など何にも関係ない、物欲宗教でありそのために毎日祈っているだけである

宗教とか哲学とかは最も離れたものでありだから数だけは増えたとなる
要するにこれからの世界は物欲の追求ではない世界になる
第一ITがコンピュターが人間の頭脳と深く関係しているものであり情報社会とは今までも物欲社会とは違っているからである、そういう時代に生まれたものだからである
だから物欲社会を目指すものは限界に来ているから日本でも高度成長時代はもうまたないつまり物質欲望社会から精神を追求する社会になる、世界で物は飽和状態になる
物を作っても売れないとなる、何が売れるのかとなると今までのような考え方では売れないとなる,アメリカでも金融で支配しているとかなるとそうである
輸入大国にもなっているのだから物を売っても売れない、ただコンピュターを発明してソフトを売っているとなる,ソフトは今までの物つくりとは違って頭脳と深く関係したものだからである
もしかしたらそうして知的遊戯とか精神の遊びの世界が広がる
ゲームとかがそうである、つまり物造りだけで発展した時代は終わったということである



posted by 天華 at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年10月22日

記憶したものが宝となる (老人は記憶に生きるー老人の心に映し出されるもの)


記憶したものが宝となる

(老人は記憶に生きるー老人の心に映し出されるもの)




老人の心に映し出されるもの

神秘な透明な水に写ったもの
隠された森の沼に湖に写ったもの
知られざる花の写り消えぬ
また天より神の御顔の写り消えぬ
しかしその消えたものは
その水に記憶されている
その水に神秘の花は記憶されている
それ故にまた花は映しだされる
時に霧が深く覆い記憶も消えたと思う
でも霧が晴れてまた記憶したものが
その湖に美しく映し出される
ただ醜いものは消える
神の鏡の湖に写ることはない
記憶されるものと記憶されないもの
老人は記憶をたどり生きる
でもそこに醜いものばかり写るなら
その記憶を消したいとなる
でもその悪しき記憶も消えない
だから良きものを記憶するように
その心を正しくして澄んでいなければならない
さすればあなたの老後は美しい記憶で
次々と花園を歩むように美で充たされる
終わりなき記憶たどる旅となる
確かにその湖の平静な水面も風に嵐に波立つ
でもそれは一時であり過ぎて行く
そしてその静まる水面には花々が
次々に色を変えて映りあきない
老人はそうして記憶に生きる
美しく蘇る記憶に生きる
そうしてその記憶を天国にもってゆく
その天国にそのつづきがある



すべては誠実な記憶のなかに持続され、言葉に絵に歌になって保存される

追憶の絵本を、体験したものの宝庫をもたなければ、どんなにつまらなく、みじめなものだろう‐
「人生は成熟するにつれ若くなる)ヘルマン、ヘッセ

老人は記憶に生きる、でも問題はあなたはどれだけ記憶したものを持っているかとなる
誠実に記憶されるというときやはり誠実に生きないと記憶もされないとなる
心に記憶されのはやはり不実なものではない、誠実ならば不実とならず実りとなり記憶される、ただ何らか人は必ず罪を犯すしそれが悔恨となって苦しめられる
人生でも最後に記憶の絵本のようになったら成功だったともなる
でもいくら金を残しても何か思い出したくない嫌なことがありそういう生き方も普通にある、金のために不誠実となり嫌なこともしたとかなる
現代ではそれが多いのである、それは老人になったとき消えるのではなくその嫌な記憶に苦しめられるともなる
その時は老後は地獄だともなる、いくら金があってもその心に映したものが悪ければ醜いものしか映らないとなり地獄となる

だからどうしても現代では金のためにそうして心が汚れる人が多い、でもそれが老人になったとき消えるのかとなると心に刻印されるのである、それが怖いのである
ただそういうことを深刻に考える人はまれである、金になればいいとしかなくなっているからだ
現代の資本主義社会はそれが問題なのである、みんな金で汚されてゆく
何か戦前でも江戸時代でもこんなに金で汚されることがなかったと思う
もちろん貧乏であり時代が違っているから比較はできないにしろ現代ほど金に追われ金のために心が汚されている時代はなかったと思う

ともかく人間の記憶は不思議である、どうして記憶がよみがえるのか不思議なのである
ただ忘れることも本当に多い、だから記録しておけというのもわかる
今ならデジタルカメラでもスマホでも膨大なものが記録できる、そこから記憶がよみがえることもある、第一自分の書いたものを忘れて読み直すとたんなこと書いていたのかと忘れているからだ、人間とは常に忘れてゆく、人も次々死んでゆく、それは次々に人も忘れられてゆくということである、それだけはかないということである
記憶にとどまるのはわずかであり歴史でも名を残し記憶されるのはわずかである
あとは忘れられてその名も覚える人もいなくなる、それは老人になると実際に知っている人が次々に死んでゆくのだから嫌でも自覚させられるのてある

老人は記憶に生きる(記憶の宮殿)
http://musubu2.sblo.jp/article/186530838.html

ここの続きとして書いた、この記憶の宮殿はみんな人によって違う、経験したことも学んだことも違っているからだ
でも人間は最後に記憶となり記憶を生きることになる、でももし記憶されるものがないとすると退屈ともなり老後の時間が長いと耐えられないともなる
何か行動するにしても体が弱りできなくなる、どうしても老人は行動力がなくな家に閉じこもり記憶に生きるようになるからだ
豊かな老後は金を必要だけど記憶に生きるようになるから記憶されたものが大事になる
その記憶されたものとは日々の生活で積み重ねたものなのである
ただ自分の場合家族をのぞいて人間を記憶しているということがない、また逢いたい人もない、自然との合一を追求してきたが人間は嫌いだったからである

2021年10月21日

人生を後悔しないために (道徳無き経済の異常性ー人格を歪める資本主義文明社会)


人生を後悔しないために

(道徳無き経済の異常性ー人格を歪める資本主義文明社会)



人生を後悔しないために

高い地位、儀礼、富、学識など、そういうものに到達した人々について
わたしが思うには、彼らの到達したものは彼らの体と魂に結果を残すものではない限り
すべて彼らの身につかず、浪間に消える‐ホイットマン

身につくものが何だったのかになる、それが老年に現れる、身につくものを残らないとしたらそれを追及したことが無駄だともなる、その身についたものは金では計れないのである

あなたは神を知るべき時に知ることを逃した
それは盛りの若き時に求めるべきものだった
その貴重な機会を逃してしまった
その日は遠く帰ってこない

あなたは元気な若き時に冒険すべきだった
若きは短く青春はたちまち過ぎる
きついことは若き時にすべきだった
老いて体力もなく気力もなくなり
果敢にいどむことはできなくなった

あなたは学ぶべき時に学ばなかった
あなたはただ享楽に時を費やした
あなたは何かスキルを身につける時にしなかった
あなたはそこで鍛錬して身につけるべきだった

あなたは遊ぶべき時に遊ばなかった
遊びの時も必要でありそれも人生の内
あなたは広く見聞すべき時にしなかった
外国でも実地に知るべきだった

あなたは人を助けるべき時に助けなかった
あなたは苦しい人に無関心だった
またあなたは近くの危険なことにも無関心だった
そして大事故が起きて身に及んだ

あなたは節制すべきだった
あなたはただ放漫でありただ怠惰だった
外に現れずとも内なる心に実るものがある
享楽にまかせず節制していれば
内に心に実るものが外に現れる
それは隠せおうせず現れる

あなたは何か有益なことをせず
何か学ぶべき時に学ばなかった
学ぶことは限りなくあり
神の創りし世界は多様で広大
しかしあなたはそれを見逃した

あなたは成すべきことを成さなかった
学ぶべき時に学ばなかった
あなたの才能ではない
あなたはただそうした貴重な時間を活かせなかった
その時間をもう取り戻せなくなった

みんな老いれば残るのは後悔だけだ
特に貴重な何かをする学ぶ時間を失ったこと
その時間が取り戻せないことを痛切に悔いる
あなたが費やしたものが無益だったこと
それが最大の悔恨となる知れ

集団の馬鹿騒ぎに己を失い費やされる
あなたの貴重な時間は奪われていたのだ
奴隷ということは時間を奪われたことである
会社であり宗教団体であれそこで奴隷にされる
何かただ使役される、それが金のためだけでも

金を使うのではない、ただ金に使われている労働
そこに真の実りはなく何か実りとして残らない
人は金のために働くのではない
真の実りのために働く時、充実感がある

こうして時間を虚しく費やされると悔いる
例え有り余る金を得ても虚しいとなる
老いて病気になりその金すら使えない
また時間もなくなり使えなくなる

あなたの日はもう終わった
あなたの与えられた時間はもうない
あなたはあとは死ぬだけである
人生の経験で成したことを天にもってゆく

それは財産でも金でもない
この世で経験して学んだことを天にもってゆく
老いて真の実りは現れる
何に時間を使ったかその成果が確実に現れる

それ故に時間を有益に使わなかったものは
老年はみじめであり過去の過ちも闇黒となる
それは罰せられなくても心に現れる
それを偽ることができない

金があっても心が歪んだもの
人格が歪み心も曲がったものが多い
何かそこに異様な奇形な姿を見る
その人は金があっても人格形成に失敗した
もはやその人格は矯正できない

その姿をもって地獄に行くともなる
集団は関係なく個々がそうして問われる
人生はもう結果として現れた
もうそれを是正することはできない!

あなたがあなたの人生を培い作った
あなたにはあなたの時間が与えられていた
時間はみんな平等に与えられていた
ただ時間を活かせなかった!
そしてみんな人生を悔いている

時間はもとにもどらない
そこに人生の厳粛さがあった
人生は一度きりであり
チャンスも一度きり
そのチャンスも逃した

最後にあなたの経験と学びの実りが現れる
個々に違った実りが現れる
それを収穫するのが老年である
そういう実り豊かな老年のために
あなたは時間を無駄にしてはならない
それは人生を無駄にすることだったから

●それぞれの経験と学びが老年に現れ結実する

どんな人でも優秀な人でも人生は後悔に終わる、結局人間の学ぶことでも経験することでもわずかしかないからである
すると何か足りないものとして終わる、自分だと経験したものは旅だった
だからその旅のことをふりかえり俳句とか短歌にしてふりかえる
それは無駄なことではなかった、でも人生はいろいろ多様であり学ぶことも経験することも多様である、普通だと結婚して子供もちとか経験する、もしそういうことでも経験しないと何か欠けたものになる、自分の場合まともな社会生活していないから欠けたものになる、社会性が欠如した人間になっていた

でも普通に結婚して子供を育てた人でも何か必ず欠けている、どう見てもその人はそうして普通の結婚して子供を育てても奇形化した人間になっていた
まとも人格ではない、もう信じられない薄情なものともなりこれが人間なのかとも疑ったただ本人はそんなことを気付いていないのである
その人の人格も長い間の結婚生活とかでも作られて来たのである
ただ付き合いがなかったからわからなかっただけである

ただ確実なのは最後に老年になってその結果が自ずと現れる!

何か学んだものでも経験したものでも確実に老年に現れる、そして最後に偽ることができない、もうそうしてできあがったものを直すことができない
人格でもそうだしその人なりの個性でもそうである
個性とか才能でもその人なり資質があっても天才でない限り人生の時間の中で作ってゆくものだからである
だから老年にはそれぞれの経験したこと学んだことが否応なく現れる
それがむずかしいものではなくても雑学のようなものでも役に立つものとして現れる
また老年になると理解が深まる、理解できないものが理解できるようになる

あのことはそうだったのかとかわかる、またこういう解釈があったのかと理解できる
だから老年は含蓄が深いものになる、それで老人は普通の人でも悟ったようにも見えるのである、賢者にも見えるのである
つまりこういうふうになるのは若い時はなりえないからだ、壮年でもなりえない
老年になると自ずと成るのである、何かが解読されてゆく、理解できなかったものが理解できてからまる人生の糸がほぐれるように理解できるようになる
別にそれは特別の人だけではない、普通の人も人生をふりかえりそうなるのである
あのことはこういうことだったのかと理解するようになる

どんな人生でもそれぞれ違っていて経験も違っていてそれが実りになる
まず何かを経験しない人はいないからである、だから誰しもその経験を老人は語る
遂に千回も認知症になっても語っていた
老人はこうして人生を語ることが仕事にもなる、そこに必ず人生の教訓がある
失敗したことでもこうして失敗したとかなりそれが後の教訓となるのである

●後悔しない人生はない

確かなことは後悔しない人生などないのである
それは人間一個の経験とか学ぶことが極限られたものだからである
例えば会社員の経験がないものはそもそも会社のことがわからないのである
では自分の様に自由に旅した経験は会社員として過ごした人には理解できないとなる
こうして経験するものが違うから理解できなくなる、理解することは自分が経験して学んだことだけだとなるからだ

今退職とかして学び直している人が増えているというときそのことが痛切にわかる
つまり学ぶことをしなかったことを悔いてそうなったのである
もっと学ぶべきことが山ほどあったができなかった、それで退職して時間ができてそうなったのである、でも実際は退職しても学べることは学べる
でも若い時に学ぶこととは違う、むしろ老人になると今まで自分が経験したことを学んだことを深化することであり知識を広げることでもないし新しいことをとりいれずらなくなる、だから老人の学びとは何でも広く浅くではなく狭く深くなるのである
それは自分の経験と学んだことからそうなる

ともかく本を山ほど買っても読んでもびっしりと印しをつけていても理解していなかったでも今になると深く理解できて自分の文脈の中で活かすことができる
そうなったとき実は本当に他者の知識でも思想でも経験ても理解したことになるのだ
老人になって本当の実りがある、ただ若い時はがむしゅらに経験することであり学ぶことである、それは後で雑学でも活きてくるのである
ただそのためには詩にしたように節制が必要であり享楽に費やしたりしていたらそうはならない、意外とこの節制ができない、性であれなんであれ時間は奪われ費やされるのである

●心でも体でも節制が必要

体も節制が必要なのである、何かしら放逸に体でも使っていると必ず老年になるとその積み重ねが体にでてくる、酒とか煙草でもしていると何らか体に影響してくる
また過重な肉体労働をつづけるとそれも老年になるとその積み重なったものが体に出てきて具合悪くなる、ただ必ず老人になると体の故障がどこかにでてくる
でもやはり体でも節制していなと老人になるとその積み重ねで異常がでてくる
スポーツマンでもプロの人も体に負担をかけすぎて早めに死んだり病気になる
それでも何か冒険もしないとか慎重に行き過ぎるのも問題なのである
身体が丈夫な人はやはり常人のできないことができる、それがその人の人生を作るともなるからだ、でも不摂生に酒でもなんでも無理なことを体に良くないことをしているとやはり必ず老年になると不具合がでてくるのである
そして十年くらい同じ年齢でも違ってくる、同じ年齢でも本当に70以上でもこの人は若いなと驚く人がいる、老けている人は本当に体も弱っているからだ

節制でも心の節制も意外と大事なのである
心の節制とは何かとなるがそれは口をつつしむとかである、何か人間はしゃべりすぎることは心を無駄に費やして汚すということもある
悪口を言ったり何かしゃべりすぎることは心をけがし消耗させることにもなる
自然ど合一するには山や樹や石のように深く沈黙することが必要になる
でもこれは社会生活では異常者になるからできないのである
引きこもりだったから自分にはできた、禅僧のように沈黙行をしていたとなる
ただそこで社会性がなくなり異常化していたのである
だから社会性も必要でありそれがないと何か異常化して社会のことすらわからずに苦労することになる、結局人間はなんらかで偏る、社会生活を正常にしていてもそれすら偏ったものとなる、会社員とか公務員でも何かそこでの人生も偏ったものになる
それは社会の一部であり全体ではないからである

心の節制が必要だという時心を汚す無益に消耗することにはあまり人間は気を使わないのである
まずカルト教団などは肝心のこうした心の修行のようなことは一切ない
社会活動であり集団活動であり御利益追求だから会社員とも同じであり世俗社会より世俗的な場所であり宗教的なことは一切ないのである、巨大な企業と会社と同じなのである
それでなぜ宗教の看板をかかげているのか全くわからないとなる
禅宗の沈黙行などはない、真宗とか日蓮宗などは一日題目あげているから世俗社会より騒々しいところでありまた団体化して集団示威行動する、そして社会を威圧する
それはナチスとたいして変わりないのである
そのために危険な団体でありそれが社会を席巻してナチスのようにもなる恐怖があるのだ
ともかく老年には人生の結果ができる、もう偽ることのできない結果がでる
それは恐ろしいことにもなる、青春の放逸なども後悔となり苦しむ

そのために推理ドラマでも必ず若い時の過ちが尾を引いた事件になり悔やむとなっている若い時は過ちを犯しやすいからである、節制でできないからそうなる
それも後悔となるしいろいろなことがただ後悔として苦しめるのである
だから実りある老年になるにはどうするのかを若い時知らねばならない
でも若い時みんな老人がそういうことを言ってもわからないのである
若い時老人の気持ちとかがわからない、理解できないのである
何か青春でも終わりないように見えるし人生でも終わりないように見えるのである
でも人生は終わってみればあっという間だったとなる
こんなに早く終わるのかと驚くばかりになる、それはみんな老人になるとそう思うのである、つまり老人になってみないとわからないことなのである
そこに人間の弱点が盲点があったとなるのである

●会社人間は資本主義社会の奴隷(社畜)ー人格は無視

会社員が資本主義社会で商品であるというときもそうである
つまり人格など関係ない、商品としてして見てないない、会社にとって有能な有益なの商品としてしか見ていない、人間としてどうのこうのは関係ない
そういうふうに人間を見ること自体すでに人間は奴隷であり社畜だとなる
ところが人生は人格を磨き形成して完成するものだと見れば会社員で働くことは人生としては全くそんなことで働いていたら最後に後悔しかないともなってしまうのである
そんな人格まで無視して働いていていいのかともなってしまうのである
でも今の社会は会社員であることなのである、それ以外の道は提供されていないともなるそれも異常だとなる

例えば江戸時代とか戦前までは職人は会社員ではない、会社員となったのは戦後のことなのである
職人は一人で物つくりしていて売っていたのである、会社などなかったのである
小規模のものがあっても会社はない、それでいいものを作るために職人気質とか生まれたそして武士道とか職人道とか商人道とかその道を究める者としてあった
そこに人格など歪めるものがなかったのである、だから本当に資本主義人間とかは何なのだろうとなる、そんな生き方していいのかと疑問になる
そして金がすべてとなり人間はすべて金で計られるようになったのである
そんな社会は人間の社会なのかともなる、そうなら資本主義などやめた方がいいなる
株式などはただ金を右から左に流して巨万の富を得ているとかであり公正の市場でもないのである、それで銀行員とかはそのグロ−バル経済のギャンブル場の賭博場に雇われた人なのかとも見てしまうのである

資本主義はこうしてモラルもなくなったのだからそれを維持することはむずかしいとなる道徳無き経済である、そういうものが維持できるのか?
グロ−バル経済とは世界市場は巨大なギャンブル場でありそこに人格など関係ない
ただ金を唯一の価値としてすべてを商品化して人間も商品化して奴隷にするといことである、この人間はいくらの値段だとかその人に張り付けられている
それは人間そのものを無視したものである、そこに実際は恐ろしい社会の荒廃になる
でも資本主義社会に生きていればみんながそうなるしかない
そうならもう会社員であることでも拒否した方がまともだとまでなってしまう
でもそうなると生きる術がないとなってしまう、でも人間の人生の目的は何なのか?
それがただ財産と金を得ることだとなればそうなってしまう
じも人格の完成だとかなればそんな社会に会社に属していること自体拒否しなくてはならないとなってしまうのである

いづれにしろ株式で生活している人など何か異常なのである
それはまともな生業でもないとなる、そういう仕事が何か人格を歪めていたら老年になって真の実りはなくなる、これも怖いことではないか?
でも人格がどうだとか見る人はまれである、すると現代社会は現代人は何のだとという疑問になる、文明人とは何なのだろうとなる、モラルなき道徳無き人間とは何なのだろうとなる、それが獣社会になってしまわないか?
モラルがないから食うか食われるのか世界でありすべては金で計られ商品化されて値段をつけられる、ところが人生は値段をつけられない金で計れないものに計りしれない価値があることも最後に思いしらされるのである
それは人格が歪んた人は地獄人間になっているのだ、ダンテの地獄編に体が歪になり奇形となっている人間である、つまりそういう地獄人間になることが目指しているのが今の文明なのかとなってしまうのである

そんな人間を作ることが資本主義社会でありまた文明社会だとすると拒絶して生きていた方がいいとなる、ニートの方が増しだともなる
資本主義社会の勝者とは何者なのか?地獄人間でありサタンともなってしまわないか?
ただこの異常性に気づいている人はその中で生きているとき気づかない
それが普通でありそれからはずれた人は異常だとなるからだ
異常な社会に生きている人はそれが異常だと気づかないのである
それでナチスが社会を席巻したときそれが異常だとも気づかない、むしろそれに適合しない人が異常ことされたのである
それはカルト教団ではそうなっている、異常だとすると異常だと見る人は異常にされるのである、数が多ければ正常だとされるのである

でも社会全員が異常だとか見る人はいない!

たいがい会社からはずれた人が異常とみられる、だから何が異常なの正常なのかわからないのである

人間を派遣しているのではなく、人材を派遣しているこの意味ー鈴木傾城

人材とは一部を材として切り取ったものである、人間とは全体のことである
人材とは人間を一部分として材として切り取ったものとして商品化されているというのはわかる、ここで道徳が語らないが道徳無き経済はもう人間社会ともならないのである
獣社会となっている、そんな社会自体何なのだろうとなる、それは地獄社会だということである


abstract mountain and vally


abstract mountain and vally


snowymmm3.jpg

vallydepth111.jpg


写真の合成も創作である、アレンジしたものでも創作になる
これも湖はそのままだが背景の山は創作だからである
全くオリジナルとは別なものだからである

Compositing a photo is also a creation, and even an arrangement is a creation.
This is because the lake is still there, but the mountain in the background is a creation.
This is because it is completely different from the original.

vallyroad222.jpg

cliffroad111.jpg

2021年10月20日

IT化が進まない理由 ( 日本文化がITとコンピュターと相性が悪い‐メデアの変化)


 IT化が進まない理由

( 日本文化がITとコンピュターと相性が悪い‐メデアの変化)

express111.jpg

●メデアの相違で感じ方が違ってくる

ただこのコンピュターになると頭脳と深く関係している
第二の頭脳のようになっている、AIとかもそうである、それで翻訳ではAIの方が優れていると感心した、学校の英語の先生より優れている、となると英語の先生も失業するともなる、AIは頭脳と深く関係しているからかえって事務とかはコンピュターに変わられて人間はいらないとなる

そしてメデアというとき仲介するもののことであり仲介するものによって表現するものが大きく変わる、今の時代の大きな変化はITとかAIによるメデアの変化に直面しているのである
これまでもいろいろな変化があり技術の進歩があった、現代を最も象徴する変化は通信の変化なのである、それにともなってメデアが変化したことの影響が大きいのである
メデアというとき仲介するものである、例えば乗り物も仲介するものでありそれによって感じるものが違ってくる
なぜなら人間が移動するときは歩くことしかなかったからである
馬とか馬車とか船でもあったにしろ基本的に移動するのは歩くことしかなかった
江戸時代の旅は歩くことでしか移動できないのである
すると歩く感覚から外界を自然でも何でも感じていたのである

菜の花や普通列車になまりかな

タンポポや一挙に着くや新幹線

電車でも急行があり普通列車がある、この普通列車は地元に根ざしているのが多い
通学とかに使うからである、そこで外を見ると菜の花が一面に見えた
高校生がその土地の訛り(なまり)で話していた、それが普通列車にふさわしいものだった、急行だというそれが感じないのである
さらに新幹線だともうその土地とは関係なくなる、一挙に遠くへと一瞬で行く感じにもなる、そしてタンポポが咲いていたのである、ただ途中は飛ばされて視界に入らないとまでなっている

また車だと自然を感じない、鋼鉄で覆われているから風を感じないし雨も感じない
時雨が降っていてもわからない、でも自転車だと必ず風を感じる、東風でも北風でも感じる、今年は早く北風が吹いて早く冬が来るのかと感じた
車だと風を感じないから風流がないとなる、それで私は自転車が好きなのである
それは自然を感じるからである、自然を感じなかったら俳句も短歌もありえないからである

●マスコミ支配の終わり

ともかくメデアの変化は大きい、通信の発達は現代を象徴するものである
通信でもメデアでも新聞がありテレビがありこの時代は長い、新聞だともう百年以上でありテレビでも50年もつづいている、テレビの影響は大きかった、テレビに映るだけでみんなテレビに食い入るようにしして見ていたのである、中味がなくてもテレビに映ることで見ていたのである、それが茶の間の主役となったのである
つまり茶の間に中心にあるということはいかに影響が大きいものだった
それにともないテレビを通じて番組を作るマスコミの影響がどれだけ大きいものだったかをふりかえる、テレビの時代はマスコミが教育者となり扇動者となり裁判官にもなり大衆を導くものとなっていたのである
だから第三の権力をもつようになりあらゆることで支配的役割を担ったのである
そこで相当に歪めれたものがあったがそれは見逃されたのである

メデアを持つということがどれだけ大きなことかインタ−ネットが生まれてホームページでも次にプログでもそれからyoutubeとかにもなりそこで個人発言でき表現できる時代になったとき発信者になったときみんな感じたのである
自分自身でも今はプログで発信しているけどこれは写真も絵でも載せられる、視覚的にも表現できるから表現力がある、それも簡単にできるということでこのことは大きいメデアの変化だったと感じた、何か表現するには必ず仲介がメデアが必要だったがそれは新聞であれ雑誌であれ本であれ簡単にはできない、そして不思議なのは必ずそうしたメデアは大きな権力をもっていて取捨選択するのはメデア側にあり発言する方にはなかったのであるでも直接発言することがてきるということが不思議なものになっていたのだ
そこに検閲もないのである、だから問題も起きたのである

ともかく個人の自由な発言とか表現は許されていなかった
本だったら出版社を通してしかできないし普通の人はできない、他でも同じである
それらはまた権力がないとできない、なぜなら出版するには金がかかるからである
また売れないと出版社では経営が成り立たないから売れるものを出したいからである
そこで出版する時は背後に大きな組織がないとできない
創価とか他の幸福の科学とか天理教とかなんかいろいろな宗教団体がありその団体の会員が買ってくれるとなるとある
インタ−ネットだとそういう団体に所属していなくても応援がなくても一応発言できる
ただそれに目をとめる人は極めて少ないというだけである
マスコミで顔を出すだけで百万人以上の人が見るということがありそこで顔が売れる
すると中味が何もないのに国会議員とか東京都知事になったりした芸能人がいたのである全国区になると顔を知られることが第一になるからである、中味より大勢に知られることが第一になるからそうなったのである

インタ−ネット時代は何なのか?それは個々の表現の時代になったのである
だからしきりにyoutubeでも表現力がないものはこれから役にたたないとか金にならないとかまで言う、今まではそうした表現力はマスコミが担っていた
そしてゲストとして呼ばれるコメンテーターも飾りのようなもので主体はマスコミにあった、それで武田邦彦氏とかがアナウンサーに怒っている
つまりマスコミのテレビの主役はあくまでアナウンサーだったのである
いつも真ん中にいてアナウンサーが全面に映る主役だったのである
そして呼ばれたコメンテーターの自由な発言を許されなかった

マスコミの言う通りに発言させられるだけなのである、だからこそ自分の言いたいことを言えないで怒ったともなる、マスコミとは単に仲介する機械のメデアではない
意志をもったメデアなのである、だからマスコミの主張を通すために番組を構成するのである、中立ではないのである、それでNHKでもそうだった
上の人達が番組の方針を決める、だから下の人は何も言えない、従うだけだと言っていたからだ、ただ一見中立のように装うのでわかりにくいのである
特にNHKはそれが中立のように見えるように構成するから簡単にわからないことがある
でもNHKの意志があってその意志を主張を通すために番組作りしているのである

●個々の多様な表現の時代へ

ともかくインタ−ネットでもこのITとかAIでも何か人間の頭脳と深く関係している
だから現代とはインタ−ネット時代とは個々の表現の時代だともなる
表現力を磨くことが要求されている、youtubeだと話しがうまい人が人気になる
その話し方もいろいろであり何か話し方がわかりにくいと見る方もいやになる
明確に言葉で話せないとまずいとなる、ただ人の話し方もいろいろあるからその話し方で見る人と見ない人もでてくると見た
これが文章ならそういうことはないのである、もちろん文体とかあるにしても話すのとは違ったいるからである

それでyoutubeを見ていてただ話すだけでは理解しにくいものがあると思った
人が話す時、youtubeだとテレビのように必ず顔を見るのである、すると顔の印象から話すことを聴くのである、ともかく話し方がみんな違っているのである
ただyoutubeが伝えるものとして万能かとなると違っていた
youtubeだと過去のものが記録したログがもう一度見る聴くということがあまりないのである、文章に記録されていればそれを読むとこういうことを言っていたのだとか再確認できる、また文章だとキーワードでその内容も検索できる
それがyoutubeではしにくい、不思議なのは自分は膨大なものを文章で書いている
プログで書いている、それを読み直すとこんなことが書いていたのかと自分で感心している、これも本当に不思議になる、自分の書いたものが自分が書いたと思えないことがあるからだ、いいこと書いていたな自分自身が書いたものに感心しているのである
それだけ人間は常に忘れやすいからそうなる
だから文章で残すということは大事になる、話すだけでは記憶に残らないとういことがあるからだ、それで文章の力は大きいと再認識したのである
自分の場合はそもそも話すのが下手だから余計に文章重視になる

いづれにしろ人間の感じ方はいろいろあるということである
だから歩いて感じることと自転車に乗って感じることと電車に乗って感じることは違ってくる,それはメデアが違っているからである、だから人間の感じ方はいろいろでありメデアによっても多様になる
インタ−ネットだと必ず編集して読むべきだとなるとき多様なものを結びつけることでそうなる、あることで様々な見方がある、一つの見方はないからである
それを一つにしたのがマスコミだったのである、だからそれは偏った見方であり多様な見方を許されなかったのである
第一人間は住んでいる場所がみんな違う、そこからして見方が違ってくる、感じ方も違ってくるからである、この辺では原発事故になってそのことから取り離してみることはできなくなったからである

このITとかコンピュターのインタ−ネット時代は世界中でも多様な見方がありそれに触れるという時代になる、日本国内でも多様な見方がある、マスコミのように一つの見方になることはなくなった
もう新聞は過去の物でありテレビのマスコミ支配も終わりつつある
多様な見方からそれぞれ感じたことで判断する、ただそうなるといくら個々人の発言が表現が自由になっても数が多いとどうしても見るのは限られてくるのである
見られない人は全く見られないとなる、それも問題になる
ただ自分にとっては自由に表現できることが魅力であり発信しつづけることになる
それができるのは金がかからないことである、ただ手間はかかる
またプログだけでは表現しきれない、でもワードフプレスになるとめんどうだとか前のホームページもそのままてあり放置してある、何かめんどうだからそうなっている
ホームページでは分類するのが向いている、それも手間でできていないのである
簡単にアップできればいいのだがそれがめんどうなのでできない
無料でも手間だけがかかるのが問題なのである

●日本文化がIT化を受け入れのを拒んだ

技術と文化は関係している、技術をとれいれるとき、その国の文化があり歴史があり
便利だからと無条件に取り入れることができない
文明でもそうである、西欧文明がキリスト教文明でありキリスト教を取り入れなければ
西欧文明を取り入れることができないと内村鑑三が指摘した
でも日本ではヨ−ロッパに行ってみてきたのは宗教ではない、様々な技術だったのである蒸気機関車であれ建築であれ医術であれ様々な科学技術に驚いた
それでその技術を取り入れることが文明を取り入れることだと見たのである
技術だけに注目したのである、この傾向は今でもつづいている

「テレワークの方がオフィス勤務より仕事がはかどる」と答えた人は、グローバルで平均69.1%だったのに対して、日本は42.8%と、調査対象国の中で突出して低く、7カ国中唯一、「テレワークだとはかどらない」人が多数派だった

一方、日本型企業が得意とする人的ネットワークによるインフォーマルなコミュニケーションは、過度に依存すると、簡単なやりとりで済むはずの日常実務においてすら、濃密な人間関係や地理的近接性、時間的同期性が要求されやすい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/71fe114c7cbf59d1fcfa208135f733695c09322b?page=2

日本でITが進まないのは話せばわかるとか腹でわかるかとか狭い村がアイディンティティとなっていてそれが文化となった、属人的的であり直接人と合わないと信じられないとかなっていた、だから法律でも苦手である、理屈だからである
でも大陸文化は異民族と絶えず交わるから人種とは関係ない公平さとかを追求する
それを数式のように決めて判断して判決するともなる
そこに文化の相違がありそれが壁となってIT化がすすまないとなる
自分自身でもパソコン通信で文章で見知らぬ人が語りあうことがなじめなかった
そういうことを今まで経験していないからである
でも事務的なことなど別に直接合わなくても処理できるのである
ただ面と向かって合わないとできないこともある

そもそもITというとき英語になる、すると英語圏の人は有利なのである、プログラムでも英語だからである、そして英語は横書きであり日本語は漢字交じりで縦書きである
縦書き文化は漢字圏であるが他ではないのである
でも中国はいち早くIT化したから言葉の相違でIT化できなかったことでもない
中国には日本の様な村がないというときもそうである
そこからして中国大陸の文化と日本は同じようで相当に違っているからだ
ただ文化の相違がありそれは障壁となって日本ではITになじめず遅れることになった
技術と文化も一体だから取り入れることができなかったともみる
文明とはcivilzationでありそのcivilとは市民のことである、でも日本には市民というのはいないから理解できなかった
西欧文明を取り入れてもそもそもそうして理解できないものがありそれがIT化に遅れた原因にもなる、文化には根強く変わらないものがある変えられないものがある
便利な道具を取り入れても国々の文化が違っていてそれで受け入れられないということがある、文化には様々な要素があり風土なども関係している
そのために原発は地震とか津浪とかあり日本の風土に向かいないものだったのである
風土と文化も一体になっているからである

2021年10月19日

習近平がなぜトップになれたのか?天皇と同じだったー天皇の是非 (優秀でもない、権力基盤もないのにトップになった)


習近平がなぜトップになれたのか?天皇と同じだったー天皇の是非

(優秀でもない、権力基盤もないのにトップになった)

chinashu11.jpg

妙佛 DEEP MAX
https://www.youtube.com/watch?v=_SMauomrHZY


この意見は面白い、実は共産党内部で有力な首相候補がいたが排斥された
その人は優秀なのでまた実力者なのでその人になれると他の人が這いあがれない、上に上がれないとみたから押されなかった
習近平の評判はそういう人ではなかった、何か平凡な人でありそんな人がトップになると思えなかったとも言う
また権力基盤がないのに首相になった

それはなぜなのか?

人間は出世争いでも有力な人がいればその人が上に立ち他の人は上に上がれない
出世できなくなる、でも平凡な人がなればいづれその人を倒して上に上がれるとみる
また実力者だと権力基盤をもっているとそういう人もトップになったらもう対抗できないともみる、そのトップを倒すには実力行使となり暴力にもなる
これも何か人間の心理である
あまりに有能な人間はどうしても回りの平凡な人達にとっては危険人物になる
そういう強力な人がいたらとても平凡な人たちは上に上がれないからである

何かこれは日本の天皇とも似ている
日本の天皇はなぜ国家のトップで常にありえたのか?

それは別に何か特別な能力があったとか権力があったとかではない
むしろ権力もないし軍隊を持っているわけでもない、なんでトップにいるのかわからないのである
つまりそうして権力ももたない、派閥にも属していないからトップになっているのであるもし特定の派閥とか権力集団に属していたらやはりトップにいることはむずかしくなる
公平でありえなくなるからだ

それで天皇には姓がないのである、姓があれば・・・一族となるからである
藤原であれ源氏であれ平家であれその一族に属するとなる
姓がなければどこの一族にも属さないとなり公平だとなる
どこかの一族に支配されることもないのである

天皇は何の権力ももっていない、だから継続できた

こうなるのである、権力ももっていない、ただ何の能力もないとしてもその地位を継続できた、もし強力な権力を持っていたら別な権力集団にとってかわられて天皇というのはこの世から消えていたとなるからだ

天皇は何ももっていなくても一つの神輿だった、明治維新だった薩長軍がかつぎあげた神輿であり敵対する者は賊軍にされたのである
そして靖国神社には西南戦争で賊軍になった西郷隆盛すら依然として賊軍であり祀られていない、官軍のみが祭られている墓地がある
これも今になると不公平に感じるのである
天皇といってもそうして権力争いにかかわるから汚れたものになる

ただ自らは権力を行使しないできない、だからこそその地位を維持できたとなっているのだ、それはあくまで神輿であり実際に権力をもち権力を行使できるのは天皇を持ち上げた権力集団なのである、だから権力集団は錦の御旗を得るために天皇をとりこもうとするのである
天皇とは権力ではない、権力をもった王様ではない、神輿なのである
でも日本の歴史では天皇が二人いて古代でも壬申の乱とか南北戦争でも熾烈な争いがあった、南北朝の争いは本当に全国隅々まで争いが拡大して国家を二分して争いがつづいたのである、その影響は明治になってもつづいた、今の天皇は南朝系譜であるということでもそうである、明治になっても南北朝の争いが継続していたのである
天皇の役割はこうして日本国内で争いがあるときそれを治める役割があった
だから天皇が二人になったとき熾烈な争いとなったのである

天皇はもういらないということや天皇は何であるのかとかになって真子様の結婚問題で騒動になる、なんで税金で維持しなければならないのかとなる
また昭和天皇は戦争犯罪人だったとかもなる、天皇の権威は戦争に負けて失墜して現人神の権威も失ったとなったとなるからだ
日本が世界史の仲間入りしたとき世界の中で天皇が問われるようになったのである
これまでは国内問題であり世界の問題にはならなかったからである

習近平が平凡な人だったなのになぜ首相までのぼりつめたのか?

このことは天皇と通じたものがある、天皇には何か特別なの能力があるのか実際はなかったともみる、ただ何も力をもたない故にかえって担ぎ上げられるものとなった
もし権力をもっていたらまたある一族に属していたら天皇も戦争になれば殺されともなるからだ、天皇は殺されることはなかった
ただ日本が太平洋戦争になる国内だけのことではないからアメリカによって戦犯とされ処刑されることがあったのだ、それをアメリカでは日本の統治のためにしなかったのである日本を統治するためには天皇は必要だと判断したからである

奇妙なのは天皇とは何の能力もない権力も力もないからこそ継続されたともなる
ただ古代だと何か神の様な能力が奇跡でも行うようなものにも見られていた
でもその後はただの神輿になっていたのである

人間社会はどうして治めることができるのか?

これは必ずしも強力な権力をもっているものが治めることともならない
ただ力をで治めようとすれば必ず反発があり権力争いになり熾烈な戦争になり殺し合いになるからだ、そこでなんらか仲裁機能となるものが必要なのである
それが日本では天皇だったともみる

わたしはわらべを立てて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる イザヤ

なぜこんなことが聖書に記されているのか、これも不思議だとなる
みどりごとは赤子なのである、赤子は何んの力もないものである
だからこそ治められるという逆説である
そしてなぜそうなるかのというと肝心なのはみとりごは赤子は何の欲もないことである
そのために治められるとなるのである、自ら欲をもったら治められない
中国皇帝のように強欲であり人民を奴隷にして酒池肉林とか贅沢の限りを尽くす
そんな人はまた必ず反発が大きくなるから必ず王朝は倒される、治められないのである
そういうことで常に王朝は変わってゆく、長くは維持できないのである
でも天皇はそういう権力をもたないからこれまで維持できてきたのである
つまりトップに立つ人は権力を行使したりする人ではなく欲のないみどりこでも赤子でもいいとなる、その方が治められるとなる
そうでないと外国のように常に王が権力をもっているから対抗する集団がでてきて王朝は絶えず交代することになるからだ

これも政治的知恵であり日本がそれで熾烈な内戦が生じなかった理由だったとなる
また島国だから外国勢力が攻めてこないから天皇制も維持できたのである
大陸だったら異民族が絶えず侵攻してくるから天皇だって維持できなくなる
天皇だって殺されるということである
ただ今天皇はいらないとかなるのも世界の中で日本でも対処するようになるからそうなるでも今度は大統領制になったらこれも日本にとっていいのかどうかわからない
韓国のように他の国のように熾烈な内戦にもなる

つまり韓国のように露骨に権力争いになり前の大統領は逮捕されたりする
権力と権力が歯止めなく露骨にぶつかりあうらそうなる
天皇はそういう権力争いを和らげる仲裁する働きがあったことは確かである
それは一つの国を統治する知恵だったことは確かなのである
それでも世界の中でどうなのかとなるとまた天皇の維持はむずかしくなっている
第一遺伝子がどうのこうのとかが大事なのかというのも疑問になる
なぜなら明治天皇は血のつながりもないどこからかわからないが作られた天皇だとされているからである、そういう血のつながりより天皇というのは統治の機能として必要としていたともみる

松田源治文部大臣は、天皇は国家の主体なのか、天皇は国家の機関なのかという論議は、学者の議論にまかせておくことが相当(妥当)ではないか、と答弁していた。岡田啓介首相も文相と同様に、学説の問題は学者に委ねるべきだと答弁した。菊池議員はこの前年にも足利尊氏を評価する記事を10年以上前の同人誌に書いた中島久万吉商工大臣を「日本の国体を弁えない」と非難して辞任に追い込んでいる。

菊池議員はそもそも、南北朝時代に南朝方に従った菊池氏の末裔だとして貴族になった身で、天皇を神聖視する陸軍の幹部でもあり、また、右翼団体の国本社とも関係があった。
単なる機関なのかということで問題になった、

天皇機関説では、「天皇」は国家に属する一機関と考えるわけです。
一機関というのは、例えば、警察が国民の安全を守る一国家機関である、というように、何かの役割を持った組織といったような捉え方です。

昭和天皇は天皇機関説を支持した、なぜなら一機関組織として天皇があり天皇が全責任をとすることはない、天皇は全権をもち命令することはないとしている
でも統帥権があり全権が明治にはあった、でもそうなれば戦争責任は全部天皇が負うことなるのである、天皇が神であり戦争に負けたからアメリカによって死刑にもされことになった、だからこそ天皇機関説を支持したのである

菊池議員はそもそも、南北朝時代に南朝方に従った菊池氏の末裔だとして貴族になった身で、
天皇を神聖視する陸軍の幹部でもあり

これも不思議なのは野馬追いに自分の町から野馬追いに出る武者がいる
それが菊地氏なのである、その旗印は菊の紋なのである天皇の紋であり南朝なのである
南朝は霊山城で滅びてここに逃れてきたのである、その末裔が野馬追行列に出ているのである、そもそも南蘇馬氏とか相馬氏に南朝の落ち延びた人達がいた
鹿島区となるとその南朝の落武者の末裔が多いのである

すり替え後の明治天皇は大室寅之祐(おおむろとらのすけ)という人物である」
と、言っています。
この大村寅之祐という人は南朝の
血筋だそうです

遺伝子にやけにこだわるけどこういうこともありうる、ただこのすり替え天皇は運動にもたけていて優秀だった
短歌もうまかったのである

正直もう天皇というのが維持できるのかという瀬戸際にきているのかもしれない
それが真子様の結婚騒動に現れたのである、天皇機関説をとれば?遺伝子とかは問題ではない、誰でも天皇になれるともなる、有能でなくてもなれる
だからこそみどりごに赤子に治めさせよとなったのである
それが統治する知恵となったのである、ただそれに反発したのが右翼だとなる
ただこの右翼にしても都築詠一氏は死んだけど昭和天皇を戦争のことで何度も批判してきたのである、戦争責任をとらなかったからである、だから右翼でもいろいろあって複雑なのである


nanchouflag1.jpg

明治維新で北朝ではなく南朝を継続した (野馬追いに出ている南朝の旗)
http://musubu.sblo.jp/article/187080077.html
posted by 天華 at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年10月18日

実は日本人が「他人を助けない不親切な国民」になっていた… (日本は村社会が規範を作ったーまた余裕がないと人は助けられない)


実は日本人が「他人を助けない不親切な国民」になっていた…

(日本は村社会が規範を作ったーまた余裕がないと人は助けられない)

https://news.yahoo.co.jp/articles/3a40db6f45418461163b63127a2fa48e7656aec0?page=2

(パート4)ここが読みやすい
https://chururinews.blog.jp/archives/11121407.html

●日本人が不親切になったとみんな思っている(5ch)

近くの人の忘れ物に気づき係員に届けようとしたら窃盗の疑いでブラリ入り
どの店に行ってもマークされてる
それ以来落とし物を見つけても素通り
親切で誤認されるくらいなら自衛最優先

今の日本は、親切心で何かすると勘違いやでっち上げで公務員が一般国民を逮捕する国になっているから無理です

要は自分の事でいっぱいいっぱいの奴が激増したって事だろ、俺は生き残る、俺だけ生き残るみたいな
人になりふり構ってらんねえっていうか、景気も関係あるんだけど

それは国民性と関係無いよ
民族に関係なく、金に余裕がある人は他者を助ける余裕もあるというだけ
今は経済的に貧しい国民が多くなってしまった
それだけこの国が大衆からむしり取ってきたことの証左だし

お客さんに愛想良くするだけで昔から親切でも何でもないぞ
田舎に住んでる連中なんて他人に嫌がらせして喜ぶのばっかだし
2chが出来た頃から何かの被害者が国から賠償金貰うなんて
ニュースが出たら烈火のごとく怒って叩きまくってきるし
基本他人が得する事は阻止するように動く奴ばっかやん

日本人の世間体からくる善意のポーズを真に受けてる奴の多いこと
本質はめちゃくちゃ醜い民族だよ

だからルールをガチガチに固めたり、同調圧力やらで身動きできないように抑え込むのよ
集団行動に支障が出るレベルに醜いから

財布届けても職質されるからな
落とし物は二度と届けない

東京はみんな忙しいし通勤時間帯などだと、
時間がなくて手を貸したくても貸せない人は多いと思う
だから見て見ぬふりをしてそそくさと通りすぎる

今の日本は善良な人間ほど損をするように出来てるからな
一人また一人と自分の善意が誰かの金儲けに利用されてると気づいて
他人を助ける人がいなくなり現状に至る

昔なら近所のおばちゃんに子守りお願いしたり、旅行するときにペット預けたりとかできたけど、今そんなん絶対無理だしな。

落とし物を拾ってあげて声かけたら通報されそうだもんな

日本人は親切にされる事も嫌うよね
席を譲られたり話しかけられるだけで嫌がるんだから

宗教団体が政治を牛耳ると信者獲得のために人の弱みに付け込むからな

近くの人の忘れ物に気づき係員に届けようとしたら窃盗の疑いでブラリ入り
どの店に行ってもマークされてる
それ以来落とし物を見つけても素通り
親切で誤認されるくらいなら自衛最優先

助けようと声掛けたら通報される時代だもんな

下手に声掛けると、ヘンな人として警察呼ぶ親とか、子どもにも知らない人に声掛けられても、
相手にしないことなど言われた居るんです。
他人に不親切では無く、そうしないと疑われる事も有るんですが?
それでも声掛けたりして、リスクを背負うと言う事でしょうか。

人々の助け合いを強めたいなら、
社会保険料や社会保障を撤廃することだよ。
あれで可処分所得を奪われ、寄付がやりづらくなっている。
おまけに寄付をもらう側も、国が暮れる者と勘違いして、感謝を忘れる。
社会保障を撤廃して、福祉は人々の寄付のみとやるべきだね。

少し前の中国に似てきたな
関わると面倒だから人が倒れてても無視

幸福をわけあうのが嫌い
(血縁主義、身内贔屓、福は内鬼は外)
苦しみは平等じゃないと許せず、幸運を掴んだ人の足を引っ張る

政府は貧しい人々の面倒を見るべき」という項目に「同意する」と答えた日本人は
調査対象の47ヵ国中、最低の59%だった。

総中流層だらけの時代は余裕があったから他人に親切に出来た
今は奴隷層が増えたせいで他人なんて構う余裕がない

小学生が下校後に歩いていると
一定距離を保って成人男性が後ろを歩いてきた
小学生が立ち止まるとその人も立ち止まった
小学生は怖くなって走って帰宅しました
親は通報しましたとさ
犯人扱いされまくりだろ
自意識過剰です

泣いてる子供が座り込んでいていかにも助けてほしいって感じだったけど
不審者に間違われる危険性もあるからガン無視して
颯爽と立ち去ったよ
心は痛んだけど警察さえいなければ

中国で道端で倒れてる子供を周りの人がみんなスルーしてるニュースがあってコメンテーターや5chでも中国は異常みたいに言ってたんだけど今や日本も変わらんよ
みんなトラブルに巻き込まれれたくないのさ

新宿で道に倒れてる人がいてもみんな無視していく。
それが普通なのね〜。

人助けようとすると逮捕されるよね

貧困増えて余裕無くなったからだろ?外国人だっておなじだ。心にゆとりが無いとギスギスして荒んでくるんだよ。

なんかこの対話を知ると悲しくなる、日本人ってもうかつての日本人ではない
まるで違った日本人になっている、互いに信頼もないし疑心暗鬼で生きている
社会の変化もありへたに他人とはかかわるなとなる
ただやっかいだとなる、だからボランティアなどすることは相当に危険になる
これも暗い話になる、自分もそれを経験したからそういう社会になった、日本人変わったことを意識していなかったためである
これらがすべてではないにしろどうしてもネガティブな意見が多くそれが真実と見る

●日本はもともとよそ者に不親切だった

現代の日本はこれだよ、いちいち納得する、知っている底辺層が何度もここで倒れても誰も助けないというのはもう一部の人ではない全員がそう思っているともなる
日本人が親切だとか落とした財布は必ずもどってくるとかは確かにある
でも様々なことで日本人は人に対して親切ではない、江戸時代の人間が何か貧乏でも親切であったとかいい顔していたとか言われるがそういうものはもうとっくにない
そういう社会があり時代の影響でそうなったからである

江戸時代だったら村社会であり狭い村社会で日本人のアイディンティティは作られてきたそこで村八分とかがありよそ者と内部の者と区別してきた
村の外から来た人は村人全員で監視していた、それで与那国島に行ったら木陰で休んでいただけで怪しい奴として警察に通報された
与那国島は簡単に島を一周できる小さな村である、そういう場所だからよそ者はすぐわかるからである、もともとそうした島で人と交わらないよせつけないことがあったからだ
そういう感覚が日本全国で江戸時代だったし明治になっても全国の人が交わるようになった、そこで大きな変化が起きた、汽車でもそこの中で見知らぬ人が一緒に同席することが何かなじめない、異様なことに感じていたのである
つまり見知らぬ人と一緒にいることはなかったからそうなった

日本人はこうしてもともと国自体が島国であり300年も外国人と交わらない世界で唯一鎖国した国である、その歴史は日本人の血ともなっている
戦前だって地方の田舎では外国人と直接接することはまれだった、今のように外国人が田舎でもどこでも普通にいる時代ではなかった
外国人と田舎でも普通の人でも接するようになったのは高度成長時代が終わりグロ−バル化した時代だからその歴史が浅いのである

今だって外国人と付き合うことは抵抗がありなかなかできないのが日本人である
ただ一部の者は外国人と接することが抵抗がなくなったのである
学生だったら外国人の学生はどこにでもいる、でも私の大学時代でも外国人に逢うということはまれだったのである
それで日本人は英語を習ってもほとんどしゃべることでは活用できなかったのである
私は50過ぎて外国旅行してはじめて英語を使ったともなる、英語を実際に使う機会がないのが日本人だったのである

日本人はそもそも村人間であり外部の者には冷たい社会だったのである
例えば遊牧民だと客人を大切にする、そうしたのは情報を得るためである、通信技術がない時代は人が情報を伝える担い手だからそうなっていた
ただ親切にするのではない、情報を知るために不可欠でありそれで親切にしたのである
人自体が情報伝達者になっていたからである
農民だと定着しているから近間のことを知っていることだけで足りることがある
でも遊牧民になると定着しないんで移動するからそのために情報が必ず必要である
それを知らないと生命の危険にもなる

●定着する農民と移動する遊牧民の相違

定着する農民だったら近間のことを知れば足りるのである
だから外部から来る人間は受け入れないのが基本になる、怪しいとなり警戒するのが普通である、つまり定着する農民社会ではそうなりやすいのである
ただ中国とかは巨大だから遊牧している人もいるし定着した農民もいるし入り交ざっているのである、そして中国人が商売上手だというとき遊牧民は移動する商人でもあるから
そういう人達が入り交ざっているから文化も遊牧民的なものがある
そこが日本とは相当に違っているのである、あれだけ広ければ人種が混交するし文化でも混交する、大陸的文化と島国の村社会の日本とはそこが根本的に違っている

日本人が財布を落としたら帰ってくるとか親切だとか言うが日本人はもともと狭い村社会で生きてきたから村内だと何か子細なことでもわかってしまう、村内で竈の中までわかるとかなり村内では悪いことができないことが犯罪の歯止になっていたのである
今でも田舎では周りから監視されているのである、外部の人ならさらにその監視が厳しくなる、それが犯罪の防止ともなる、江戸時代の村だったら余計にそうなる
よそ者だとはっきりわかるからだ、それも歩いていると余計にわかる
今たと車で通るから誰が通るかもわからないということで犯罪が増える
村内に入ってもそこから車で出て行けば遠くに行ってしまうからわからないとなる
江戸時代は歩いているのだから逃げるにも時間がかかる、だから犯罪になりにくいのである、また関所もありそこで調べられるから犯罪することは簡単にできないのである

日本人がそもそも他者に親切でなかったのである、犯罪が少なく安全だというのはそういう村社会内でそうだったのである、日本ではそうした犯罪者は目立つし村内で犯罪者になると何代もそのことが言われつづけるのである
この辺で起きた500年前の主君殺しの家臣の子孫はまだ生きているのである
だからその主君殺し、幼児まで殺したことの残虐さは語られれば嫌だとなるのである
500年前の話でもまたそれは生々しいものにもなっているのである
だから日本では犯罪を犯しにくいのである

大陸的文化と日本的島国文化との相違は大きい、大勢は大陸文化である、中央アジアの砂漠地帯から世界史が始まっているからである、誤解しているのはイスラエルは半分は砂漠の国なのである、だから今でもエジプトまで広がる広大な地域が砂漠でありそこは一神教の世界になっている、そこで形成された遊牧民の文化が世界の常識でありスタンダードだともなる
でも日本の島国的閉鎖村社会文化は異質だったのである
日本人には見知らぬ他人に親切にする文化がそもそもなかったのである
だから他者には冷たいとなる、でも内輪のものでは助け合うとなる
またそうした狭い村が世界になると陰湿になり村八分とかなる
日本人が村八分の制裁が生まれたのは村から出れないからである
村から出ることは死ぬことにもなったからである、だから陰湿ないじめとかになる
大陸だと遊牧民だと定着しないから別な場所に移ればいいとなるからである

そういう歴史的文化的背景はともかく日本人は親切ではないし冷たいというのは本当である、それはどうしてそうなったのか?
こういう歴史的文化的背景もあるが人間はまず余裕がないと親切にできない、人を助けることができないのである
また忙しくてもできない、東京のような人が混雑している所ではいちいち人がどうなっているか見ていられないからである

●マスコミ通信の発達で事件は隣村で起きた感じる

今の時代はそのちょっとした親切も危険になる、何か子供に近づいたりすると性犯罪者とかにも見られるからだ
そしてすぐに警察に連絡されるからだ、そういうことを駅のボランティアで自分も経験した、外部から来た人に道案内しているだけで怪しいとして誰かが警察に通報してみんなの前で職務質問されたからである
こういうことがあるからはここで議論されているようにみんなもそうだったのかと今の社会を理解するようになる、それでネットは役ににたつ、自分だけのことではないとなるからだ

それからテレビとかのマスコミの影響も大きい、毎日事件のことが放送される
するとその事件が必ず隣の村で起きたように感じるのである
地球の裏側で起きたことすら隣の村で起きたように感じる
それをマクルハーンが指摘していたのである、すると何か犯罪があるとすぐ身近に起きると感じる、それが人間の心理だとなる
それによってもうこの世は犯罪者だらけだと感じる、現実に確かに犯罪は日常的に起きている、でも遠い所のことは今までわからなかった、それが外国まで事件が毎日のように放送されるとみんな危険人物に見られてしまうのである

つまり通信の発達が外国でも隣村で起きたように感じるのである
通信の発達も大きな影響をもたらしたのである
日本の戦争も朝日新聞があおったためだとかナチスはラジオから生まれたとか通信の発達が社会を変えたのであく
もし遠くの犯罪でも報道されなければ感じないからだ、情報の過剰はかえって人間を不安にする、余計な心配が増えるだけだともなる、それも問題にしても情報過剰により人間同士が身近でも信じられなくなるののは問題なのである

こうして日本人が親切ではないというときその背景がある、日本人はもともと外部の者には親切でとなかった、そういう国柄である、大陸文化と島国村社会文化は根本的に違っているからである、同調圧力が強いとういのも村社会がアイディンティティだからそうなった、何か独創的発明が出ないのも同調圧力が強くみんな同じでないと許せないという村社会が基本になっているからだともなる
新しいものを受け入れにくいということがある
一方で日本人は新しいものを受け入れることに機敏だったということもある
だから明治維新でもありえた、江戸時代からの明治の変化は驚くべきものだったからである、だから日本人は新しいものを外部のものを受け入れないということはない
ただ基本的には島国の閉鎖的な村社会の歴史と文化が日本人のエートス(雰囲気)を作って来たとなる

●戦後アメリカをまねて金第一になった(日本のモラル消失した―銃社会のアメリカになる)

明治に来た外国人がいい顔していたとか日本人をほめているがそれもそうした社会背景がありそうなった、だから社会が変われば時代が変われば人間も変わる
広域化グロ−バル化社会も日本人を相当に変えてしまったし戦後のアメリカ化とか過度な資本主主義社会や情報化社会もそうである
その変化は余りにも大きかったからである、日本がアメリカ化することはアメリカと似た国になることである、日本の文化とか日本人的な良さも失われたということである
内村鑑三はアメリカに留学してアメリカはすべて金の国である、金なしでは何もありえない国だと言っていた、でも日本は違っていたという時まだ日本人的なものが残されていたからそうなったのである

現代ではそういう日本人的良さというものはなくなってきた
戦後はただ物質的繁栄のみを望んで高度成長時代があったからである
そこで日本の文化としてあった精神的なものは失われたとなる
日本の太平洋戦争が悪いものとばかりみているがその時挙国一致であり日本人は協力して戦ったともなる、その時は日本人同士では助け合うということがあった
これも問題があるにしろそういう時代に生きていたということで評価しいる人もいたからである、ただ人間は過去の時代を生きることは経験できないから誤解するようになる

日本が不親切な国民だというのは本当だと思う、これだけ自分だけではない、みんなが感じいたことなのである
それはやはり社会全体であり戦後からアメリかを習った結果だともなる
アメリカに負けてからアメリカがすべていいものとして受け入れた結果だからとなる
日本の良い面が結果的に失われたためだとなる、すべて金で計られるのもそうである
何か親切にすることはかえって怪しいとされ犯罪者とも見られる
それはもう互いに信じられない疑心暗鬼の世界になったのは通信の発達でマスコミの影響もあった
それから日本が貧困化して自分のことで精一杯であり他者のことなどかまっていられないというのもある、余裕がない人達が増えたのである
でも別に日本はそもそも貧しい国だったから貧しくても親切な人はいる
インドで乞食とかに与えるのは貧乏な人だというとき貧乏を経験している人はかえって同情心があるからいくばくの金でも与えるとなる

貧困な人は余裕が無いから人に頼まれても助けることができない、自分自身のことで精一杯だからである、金銭的にもそうなのである、金銭的に余裕がない人は人を助けることはできない、それで自分自身が両親の介護になったとき来たのは事業に失敗して借金している人とがぎりぎりの生活をしているとか何か問題をかかえていたからもともと助けることなどできない、相手が弱っていたからチャンスとなり金を得ようと盗んだり金を得ようとするだけだったのである
何でも余裕のない人は助けることがてきない、自分自身のことで精一杯だからである
もし人を助けようとすると負担がかかる場合がある、それも避けようとする
ただちょっとした親切ならいいのである

親切というときそれは軽い親切であり負担が大きくなれば簡単にはできない
ただ問題は軽い親切でもこうしたもろもろの事情でできなくなったことである
それは駅の道案内とかのボランティアで感じたのである
人は人を信じられなくなった、そういうことがこれまでもあったがその度合い強くなったそれで日本人が世界で他者に親切でない国として統計でわかったとなる
日本人のモラルは戦前よりも相当に低下していることは確かである
戦前まではまだ日本人のモラルがあり義理人情とかもあった
でも今はそれすらない、モラルがない、ただ金だけがすべてであり物質的な繁栄のみがすべてとなったからである

それはカルト教団とか宗教でもすべて御利益しかないから同じだった
日本人の宗教はみんな御利益宗教であり本来の宗教はない、つまり日本人はモラルなき民族になったのである、ただ金をすべてでありモラルはなくなったのである
資本主義も強欲資本主義でありモラルは喪失した
もはや日本であれモラルなき道徳無き経済であり獣化したのが今の世界であり日本だけのことではないだろう、特に日本がそうだというき日本にはもともとキリスト教とか根付かなかったし宗教でも仏教でも御利益宗教だからそうなったともなる
弱肉強食のモラルなき道徳なき社会経済というのは人間が食うか食われるのか社会にしているともなる、他人に親切にするとかどころではない、相手を食わなければ生きていけない社会だともなる、それはまさに地獄だとなる
ただ地獄というとき常にこの世は江戸時代でも地獄だった、だから「世の中は地獄の上の花見かなー一茶」になっていたし地獄が一定の住処(すみか)なりという親鸞の言葉が今でも生きているのである、地獄の無い時代はなかったのである
むしろ戦後は戦争が無かったのだからましだともなる、戦争は殺し合うのだから最悪の地獄だったからである
日本にはかつての安心はなくアメリカのように銃をいつももっていて殺すか殺される中で生きるようになるかもしれない、
他者は信じられくなっているからである


原発事故でなぜ一挙に町や村が崩壊したのか? (広域化グロ−バル経済で共同体のつながりがなくなっていた)


原発事故でなぜ一挙に町や村が崩壊したのか?

(広域化グロ−バル経済で共同体のつながりがなくなっていた)

飢饉の時などは比較的余裕のある藩でも「津留」といい禁輸措置をとりました
自分のところに波及するのを過度に恐れたわけです
結果としてしばしば食料が不足地帯に流れず飢饉が不必要に激化する傾向がありました

川とか海の港で行われた、相馬藩でも飯館村が飢饉の時相馬藩内では援助したが伊達藩ではむしろ関所でとりしまり支援しない、それが江戸時代だった
こういう社会とまるで逆なのが現代だけどやはり国内ではこういうことがなくてもグロ−バル化すると外国から品物が入って来なくなる、最近ではコロナウィルスでマスクが自国で生産していないので中国から輸入するほかなくなったとかある
つまり現代ではグロ−バル化すると外国から品物が入らないと致命的になる
最近では円安になり小麦の値段があがるなどして影響が大きい
どうしても自国優先になるから食料が何かの影響で入らなくなると窮地になる

一方で地域の繋がりが希薄化した、米でもなんでも食料でも外部からいくらでも入ってくるとなると地元でとれるものにこだわらない、野菜にしてもみんな外から九州でも北海道からでも入ってくる、すると地元に頼らないのだから地元の農家でも別になくても食料は入るとなるから関心が薄れるのである
米でも様々なブランド米がありただ金があればどれでも選んで買えばいいとなる
ただこの辺で天の粒とかは500円くらい安かった、それは別にうまくないものではない
だから安さで買った、野菜でも地元のはわずかでありみんな外部から入ってくる
それは専業農家が大量に安く作って売っているものである
約八割は専業農家がキャベツでも何でも作って売っているのである
だから農業がもうからないというがキャベツ農家は一千万の収入があるとかされている
ただその労働力がたりないので外国人労働者を安く雇っているとなる
つまり労働力を安くして安く売れるとなる、これもまた広域化グロ−バル化経済だとなるのである

でもこうなると地域とかのつながりは希薄化する、何か昔の村とかとはもう違っている
昔の村だと自給自足が基本にあった、なぜなら戦前でも戦後まもなくでも農民が八割とか戦後でも六割とか多かったからである
すると農民社会であり農民は今でもそうだが結びつきが強い、それで三代でも農家でないと仲間になれないとか言われる
それは江戸時代から村の結束は強かった、人間は共同体というとき生産共同体であり消費共同体というのはない、米でも共同の労働があってそこで村の結束が生まれた
だから農家が前は大きな票田となっていたのである

現代経済は消費社会ともなっている、消費者は王様だともなる、何か店でも農家でも米を買ってくれとなる、買ってくれる人がお客様となるからだ
米でも今年はコロナウィルスで消費が減って余り米の値段が下がったとかなり買ってくれとなる、でも消費するだけだと仲間にはなれない、人間の結びつきが生まれない
だから何か地域の結びつきは希薄化してきた、農家でも全体の生産の一割にも満たない
いくら
回りが田畑があっても現実の経済では田舎でも経済の比重が前より相当に下がっている
それで原発事故で仮設に住んでいた人がここで買い物したりして金を使うから地元の人達を助けていると言っていたのである、それが何かおかしいのだけどここに現代の社会を象徴したものがあったとみる

消費者は王様だとなっている社会だからである、そこで地元の人に助けられているという感覚はなかったのである、かえって外部から来たボランティアは毎日来ていたから外部の人に助けられている、なぜ地元の人は不満なのかとかえって地元の人達とは一体感もないのである、地元の人達は冷たいとなっていたのである
これも何か矛盾していたがこういう社会で起きた現象だとも見る
こういう社会だったら別に金があれば他に移り住んだ方がいいとなる、地元はかえって冷たいとなるからだ

でも例えば原発事故以後この辺で荒地化したが農業をやる人はなかなかない
そんな小規模の農業はただ骨が折れるだけだとなる、そして高齢化しているから知っている人の畑で野菜を作っていた人も体が弱りやめた、回りも病気とか高齢化でやめた
でもその後も誰も畑で野菜を作る人はいない、放置されているだけである
戦後は引揚者が働く場所もなくどんな不便な場所にも開墾に入った、そういう時代なら
そうした空き地は利用されていたのである
その原因は広域化とグロ−バル化経済にあったともなる

このことは飢饉になったら外部から物資が入ってくる、外国からも入ってくる
でも遠くから外国から物資を入れることは頼ることは入らないと危険になる
どうしても自国優先になるからである、地元優先になる、だから広域化グロ−バル化経済はすべていいものとして働かないのである
そして地域の結びつきが弱くなったという時こうした広域化グロ−バル化経済が影響している、食料でも外部から入り頼るとなると地元の農家などでも存在感がなくなる
外部からいくらでも食料が入ってくるではないか、地元のうまくない米など食べる必要がないとなる、

そこで一番肝心なものは何か

金があればいい

こうなったのが現代である、金があれば外部からいくらでも買えるからである
そうして地域のつながりが薄れるとどうなるのか、何かあると地域が簡単に崩壊する
それが起きたのが原発事故で町や村が一挙にゴーストタウンにビレッジになったことである、これは放射性物質汚染で住めなくなったこともある
でももともと農業でもそれが主産業ではない、だから東電で電気関係の仕事をしていた
浪江の人は補償金もらって老後も安泰であり良かったとしている
あれだけ寂れた街に住んでいてもそうである、回りの田畑は草ぼうぼうでもその田畑に無関心だったのである、もともとその人は電気関係の仕事だから田畑が草ぼうぼうになっても関係ないのである、別に金があれば一応何でも買えるからである
確かに買い物が不便でも品物は外部から入ってくる、要するに金さえあればどうにかなる最も怖いのは金がないことである、それで最底辺層は毎月ガス、電気、水道が止められることで窮地に追い込まれるのである
そううい人は金が得られるならば地元に執着しないだろう、第一そこまで貧乏なら外部に移って豊かに暮らせるならそうするからである

原発事故でなぜ簡単に村でも町でも崩壊したのか?それは放射性物質に汚染されて住めないともなった、でも不思議なのは地元でももともと米でも野菜でも外部から入ってくるものを食べていた、だから放射性物質に汚染されないものを買って食べればいいのである
そうすれば地元に住めなるとなる、ただ空気とか水とかまで汚染されたから住めないともなった、でも別にもし放射性物質汚染でも気にしなければ住めるのである
食料は外部から入ってくるし車があれば買い出しもできるからである
だからすぐに飢え死にしたりしない、江戸時代の飢饉だと飢え死にしている
外部から食料が入ってこないからである、津留とかは外部に食料を流出しないように止める役割があった、飢饉の時などは流出しては困るからである

何か現代は外部とのつながりはこうして強くなった、それもグロ−バル化すれば外国とのつながりでもそうである、でもかえって地元の地域のつながりは希薄化したのである
原発事故では仮設には毎日のようにボランティアが来て援助していた
こうして外部とのつながりが強調されたのである
そして内部のつながりは奇妙なのは補償金で分断されたのである
こっちが多くもらったこっちはもらえないとして分断してしまった
あとは多額の補償金をもらった人たちは外部に流出した、仙台市とかに資本金ができたので商売して成功した人達もいる、つまり金があればどこでも移住していいし一旦村でも町でも荒地になりゴーストタウンになったら他に移った方がいいとなる
その資金も金も得たからである

私は別にそういう人達を批判するのてはなくそういう社会で起きたということを考察しているのである
だからこれは別に原発事故という特殊なことでもなくても他でもありうる
地元のつながりは希薄化しているから地元にこだわらない社会である
金さえあれば便利な所に移ればいいとなるからである、例えば老後でも東京に住まずに金さえあれば地方でも住めるとなる、その選択は自由であり問題は金があることである
広域化したグロ−バル化した社会の矛盾がある、私は車をもっていないから原町に買い物に行く、でも量販店の電器店でも他のチェーン店でも配達すると配達料がかかる、それが三千円とか高くなる
奇妙なのはインタ−ネットで注文したとき配達料が無料で送られてくることである
だから重いものは自転車で運べないから通販の方がいいとなってしまうのである
現実にケーズデンキでもインタ−ネットで通販しているのである
そこでは配達料は無料であり実店舗になると配達料がとられるのである
それは配達は委託している場合が多いからそこに払うからそうなるともみる
これは広域化グロ−バル化した社会の矛盾なのである

ただこうした社会は村でも町でも市でも簡単に崩壊しやすいともなる
外部とのつながりの中で生きているから別に今住んでいる地元にこだわる必要ないとなるからだ

金がすべていいものとして働かない

これも現実なのである、結婚するにしても金持になると相手が金ばかりを見て寄ってくるとか金を目当てにするのが多くなる、自分の家族の介護でも来た人たちは金を得たいためであり現実に大金を盗まれたりした
兄は交通事故で死んだけど雇い主は働いている時はいい人だったが保険金がおりるとなり豹変した、身よりがないものと思っていたから保険金の受取人になろうとしたのである
原発事故でも多額の補償金をもらえるとなるとそれしか頭になくなったのである
そうして町とか村の復興など念頭になくなる、ただ金が欲しいとなるだけであった
あとはその金で外に出て新しい家を建てればいいとなる
現代社会の怖さはすべて金になり金に追われ金に狂う社会なのである
確かに放射性物質お汚染があるのだから仕方ないと見る、その放射性物質でも30年とか消えないとかなっているからだ、そんな所に住めないというのもわかる

でも代々住んでいた場所にこだわりがあり何かそれだけが理由とも思えないのである
たとえそうであっても簡単に町でも村でも捨てられることがあっていいのかとなる
それが一部の人ならいいが全体でそうなってしまうことがあっていいのかとなる
でも現代は町でも村ですらそういうふうにつながりが希薄化しているから簡単に町や村でも捨てられるとなったのかと見る
やはり広域化グロ−バル化経済の中でこういうことも起きて来たとみる
共同体とは基本的に生産共同体であり消費共同体ではない、その生産共同体が農民を中心とした第一次産業を基本とした共同体が町や村を構成しなくなった
そもそも消費だけの共同体は成り立たない、消費するものが王様となりえない
その土地で生産するものがあって共同体も成り立つからである
だから一時的には補償金で成立つとしても継続しては成り立たない、何かしら生産して金を得なければ生活できなくなる、ただ現代はベーシックインカムなどが言われるから
消費に重点が置かれる社会にもなる、生産しないで金をもらえる
でも消費共同体とかはありえないだろう、何か生産しないで消費するだけの社会はありえないからである




posted by 天華 at 12:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年10月17日

引きこもりだった自分の人生 (文明が異常でありそのレジスタンスに生きた アウトサイダー)


引きこもりだった自分の人生

(文明が異常でありそのレジスタンスに生きた アウトサイダー)

無職の男性に向けられる社会の目の厳しさがあげられます。彼らには、不審者や無能力者を見るような、偏見的差別を含んだ視線が送られがちなのです。そして、この傾向は、地方圏ほど顕著だと考えられます。

藤里町は白神山地のふもとの人口3800人の小さな町。町の社会福祉協議会の人たちが先頭に立ち、自治会や民生委員、PTAなどのネットワークを活用して、一軒ずつしらみつぶしにまわって調査をしたというから驚きですし、頭が下がる思いです。

その結果、ひきこもりの方の率が人口全体の8.74%にものぼることがわかりました。65歳以上の高齢者が人口の4割を超えている町で、11人に1人がひきこもっていたのです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8e5ecfd06702fa48f248f5127088ad5f6823011e?page=1

これは意外である、こんなにいるのかというとき私も無職であり引きこもり人生だった
だから異様だったともなるが自分自身そのことについて気づいていなかった
というのは自分は女の親が二人いて責められることもなかったからだ
この特殊な環境が別に引きこもりでもいいものとして遂に人生が引きこもり人生になってしまった、ただ私は旅することが仕事となり家に外に出ず引きこもっていたのは違っていた
ただ家庭環境で特殊なものになっていたが気づかなかったのである
普通だったら親から責められて殺された人もいるからだ

とにかく私はそういう引きこもりの人と良く逢うのである、それで田舎でも必ずそういう人が今ではいるのである、そういう人はまた田舎だと目立つのである
今は昼間に人がぶらぶらしているのは見かけない、みんな会社員だから勤めているからだろう、だから昼間ぶらぶらしている人は田舎だと目立つのである
でも驚きなのは藤里町とかで人口3800人の町にそんなに引きこもりがいるのかとなるこれだけ今や引きこもりが常態化している
団塊の世代などそんな人極々まれでありそんな人いたのかとなるが今ならこうして引きこもりが普通にいる時代になったのである

田舎で引きこもりになりやすいのは確かに仕事がないのである
都会だと多様な仕事があるが田舎にはもう知的な仕事は限られている
公務員とか農協とか銀行とかが知的な仕事であり事務である、あとはなかなかないからである、あとは建築工事関係とか肉体労働になる
都会と違ってそれが引きこもりになりやすい、都会だと何かしら仕事があり少ないというのはそのことなのだろう
大学を出てても何か知的な仕事にありつくことがないのである

ただ引きこもりは実は危険なものかもしれない、社会からはずれたものでありそれはアウトサイダーになる、でもその人たちは天才芸術家だったり何か特別な人であり今の日常化した引きこもりとは違っていた、その人たちは歴史に名を残す人だったのである
でもゴッホでもニーチェでもヘルダーリンでも狂気となり閉じこもってしまったのであるつまりこういう危険性がアウトサイダーになるとある
社会で仕事をもって働くことはやはりそこで社会性が身につくがそういう機会がなくなる
ただ自分の場合は特殊な家庭環境で自ずと仕事が嫌いで会社員とか団体生活もできないのでそうなったのである、そこでただ自分の好きなことを追求したのである
だからこういうことはみんながなりえないことだった
でも今になるとそうした特殊な人が普通にもなったということである
数が多ければそれが正常であり普通になる、ナチスでも全員がナチスになればそうでない人は異常となり殺されることにもなったと同じである
カルト教団も異常なのだけど数が多いから正常となり批判する者が異常とされるからである、この世の中何が異常か正常化わからないのである
キリストが十字架になったのはそのためである、神の子が現実に現れたとき誰もそれを認めなかったからだ、つまり神の子からみたこの世が異常でありそれを叱責したら十字架にかけられて殺されたとういことである

また社会でも会社でも適合している人達は自ら社畜というように自ら奴隷化しているからそれも異常でありその異常性を社会ではかえって正常としているのである
そしたら引きこもりとは必ずしもマイナス面ばかりではない、実はもしかしたら現代文明社会のレジスタンスとしての生き方かもしれない、でもまたそれは社会の敗残者であり
何の役にもたたない穀つぶしともなる
アウトサイダーになった人たちは特別に優れた天才である

ニーチェとかミラーとか上野霄里氏とかがそうである、その人たちは余りにも個性がありぬきんでた人だから文明の組織化団体化した一員となることに耐えられなかったとなる
ただ今の引きこもりそういう高いレベルのものではない
むしろ人間的に欠陥があり職にもつけないもともとそうした特別な天才とかとは比べようがないものである、なぜならアウトサイダーが人類でも極まれな人達であり歴史に残る人物となっているからである、そもそも歴史で宗教とか思想とか芸術家となるとアウトサイダーだからである、それは今の引きこもりとは比べようがないとなる

私の場合は無職の人生であり旅の人生であった、何をしていたかというと自然を見て自然と一体化することをしてきた、自然と一体化することは沈黙することが常習にすることである、なぜなら山でも木でも石でも沈黙しているからである
でもそれは社会生活からすれば異常となる、それが実際できる場所は禅宗とかで座禅を組み瞑想しているとかなる、でもそれは社会では許されない、寺に籠もることでできる
自分の場合は家にいてもそうしていたのである、それでとがめられることもなかったのである
そこで詩作したり学問したり一人でしていたのである
それが70過ぎて実るようになった、発表ししていないが百遍以上の詩を書いているからだつまり自然と合一するには社会生活しているとうまくいかないとなる
農民とかなる自ずと生活が自然に依拠するからできるが肉体労働になるからそれも知的な仕事となるとなかなかできないとなる

ただ自分は農業しなくてもただ観察することはしていたのである
自分は自然の観察者だったのである、そして自然と比べると文明社会はかえって歪(いびつ)であり異常だと気づく、文明には根本的に美がないロゴスも自然の秩序もない
東京を見ればわかるただ醜悪な怪物都市なのである
そんなものを讃歌できるだろうか?そんなところが人間の住む場所なのだろうか?
そうした中で生活している人間そのものが異常なのである
そのためにそこから異常な人達が生まれてくる、カルト教団とかがそうだった
ナチスもそういうものだった、文明からそうした異常なものが生まれて大惨事になったのである

とはいえ田舎の人達が素朴だとかない、醜悪なことは変わりない、でもその暮らしを神が隠したという時、自然の中につつまれ隠されることで良かったのである
人が顔を出す時蛇のように見えるからである
ただ自然の中に黙して隠されつつまれているとき讃美するものとなっていたのである
ただ原発事故以後は人間の醜悪さが露骨に現れて嫌悪するようになった
自然の美すら田舎の人達に関係ないのである、ただ補償金をもらうために争い利権の場のようになったことでもわかる
田舎に住んで住んでいてもその美とかに関係ない、求めているのはやはり金であり
別に田舎の自然とは関係ない、だから多額の補償金をもらったとき仙台市とかに出て行ったのである、故郷とかに好きで住んでいたわけでもないからである

とにかく文明とはもはや怪物であり誰も制御できないものであり異常なのである、そこに生活している人も異常だとなる、、その行きつく先はバベルであり混乱なのである
そしてバベルの塔のように崩壊する、原発事故でもそういう文明の所産であり文明崩壊のようなことがここで現実に起きたのである
原発とか核は文明の最高の産物でありそれが無惨にも崩壊してしまったからである
それも自然のある田舎で起きたのである、そして空気も水も土も汚染されて住めなくなったのである
その原因は大きくみれば文明そのものにあったとなる、文明から起こるべくして起こったとなるのである

posted by 天華 at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年10月16日

田舎で凶悪犯罪が増える-安心院町の事件 (日本が貧乏になり犯罪が増えてアメリカのようになる?)


田舎で凶悪犯罪が増える-安心院町の事件

(日本が貧乏になり犯罪が増えてアメリカのようになる?)

大分県宇佐市安心院(あじむ)町荘の民家で昨年2月、住人の郵便配達員山名博之さん(当時51歳)と母親の高子さん(当時79歳)が殺害された事件で、同県警は15日、大分市緑が丘1、会社員佐藤翔一容疑者(36)を強盗殺人容疑で逮捕した。

 発表によると、佐藤容疑者は昨年2月2日、山名さん方で、刃物のようなもので2人の首を突き刺すなどして殺害し、現金数万円を奪った疑い。

https://news.yahoo.co.jp/articles/c7ebc51a9f9f37e1f930fdde2516dedb3bb6ea61

農村の民家に泊まり、食卓を共にし、
田舎のあるがままの生活を体験する「農泊」。
安心院は「農泊発祥の地」です。
https://www.ajimu-ngt.jp/

数万で二人も殺すということが信じれない、これは何なのだろう
それも田舎町なのである 安心院(あじむ)とは安心できる町だともなる
最近凶悪な犯罪が増えているというときなぜだろうとなる
これも金が欲しくての犯罪である、ただ会社員なのだからそれもわからない

ただ今田舎でも金のない人が増えている、金がなく追い詰められている人がいる
この人もそうだったのか、でもこれほどの凶悪な犯罪になるのが理解できない
それでもわかることはこうした犯罪は起こり安いのは泥棒でも顔を見られると襲ってくる泥棒でも捕まることに恐怖しているからそうなる
だから家の中でばったりでも犯人と出くわしたら危険だとなる
また犯人を捕まえようとしたら争うなとも警察の経験者が言う
つまり泥棒の方が真剣であり顔を見られることなどで凶悪な犯行になる

そういうことで自分の家にも泥棒が入ったのである
なにかがたがたしていた、でも自分は寝ていた、その泥棒とは顔を合せなかったのが良かった、金はなく盗られたものもなかった、金庫は空けられていたが金はなかった
ただ前にはかえって家を手伝ってもらった人に留守の時大金を盗まれた
たまたま金を下ろしていたのを盗まれた

なぜ今田舎でも凶悪な犯罪が起きているのか?

それはみんな生活が苦しい金がないからである、これは明確なのである
老人でも年金で生活できない、10万ももらっていない人がいる
厚生年金でも平均15万くらいだとぎりぎりだとなる
それくらい今は老後生活でも悠々自適の人は少ないのである
それで老人の犯罪を増えているのがわかる
こうして追い詰められている人間は善悪の問題もてくなる
目前の金が欲しいというだけで凶悪な犯罪にもなる
田舎でなぜ起きるかというときこれも田舎でも生活が苦しいからである
田舎がのんびりしているとか素朴などない、やはり今の時代は金がなければ余裕が生まれないのである

田舎は金がかからないということはない、物価でも東京より高いということもあるし必ず一人一台車を持っている、その金も馬鹿にできないのである
また毎日十円でも節約するために安いものを買うことに苦心している人もいる
その人はもう生活できない状態である、だから果物でも高いと食べていない
体も普通の人より老いて悪くなっている、だから今度は薬代とか病院代とかかかる
本当だったら医者にかかることもできないのだが援助があり辛うじて行っている
知っている人はまた糖尿病で退院しては入院してやはり金がかかっている
保険があっても金がかかることが結構ある

でもこの事件でわからないのは年齢的に若いし会社員でもあり無職でもない
だからなぜ数万でこんな凶悪犯罪を犯したことが理解できない
ただそれは事のなりゆきでそうなったのかもしれない、そんなつもりがなくても事の成り行きでそうなったのかともみるが理解しにくい
数万で二人殺して死刑になるとなれば馬鹿らしいともなり理解不可能だとなるからだ
数万のために死刑になることは理解不可能だとなる

もう田舎が安心だということはない、安心院とかあるが安心はない
田舎でも金がなければ生きていけない、この辺では原発事故があり多額の補償金がもらえるとなり眼の色を変えてその金で地域も分断された
地域の復興がどうのこうのとなったけど実際は金をくれ、もっとくれしかなくなったのである、そして暇になり仮設に入った人達はパチンコとかギャンブルだったのである
あとは補償金くれしかなくなった、故郷とは補償金をもらう場所としての利権の場ともなったのである

自分が病気にもなり二人の親の介護で苦しんでも今度は金をとるチャンスとなるだけだった、借金している人が来たりしてある人に大金を盗まれたりさんざんな目にあった
もはや田舎とか関係ない、金がすべての時代になっている
第一こんな凶悪な事件が起きること自体信じられないとなるからだ
それはこの事件ではわからないが金に追い詰められている人が増えたことである
もうぎりぎりの生活であり食べることもままならないとしたら何か善悪とか関係なくなるだから追い詰められた人間は一番怖いとなる
でもこの会社員がそんなに追い詰められていたのかとなると理解できないとなる

でもこれからの日本は犯罪が増えてゆくことは確かである
もう老後でも食べることもままならないとなればそうなってゆく
だから物騒な時代になったのである、田舎でも安心院にはならない、安心できないのである、ただ犯罪を犯した人はもともとそこの町に住んでいた人ではないみたいだ
ただそれにしても怖い時代になっている
その原因はみんな金に困り余裕がなくなっていることなのだ

すると田舎の金持ちでもまた都会の金持ちでも危険になってくる
高い塀を作り鉄条網まで備えている家があるということもわかる
外国ではアメリカなどはそうして守らないと住んでいられない、日本だってそうなってゆくかもしれない、そういう前兆が出てきているのかもしれない

日本が貧乏になることはどうしても犯罪が増えてくるのである
格差社会でもそうである、そうなると金持ちでも安心して暮らしていけなくなるのであるアメリカの投資家が日本でも犯罪が増えてアメリカのようになると警告している
アメリカに習った日本は何でもアメリカと似てくるのである
日本の良さは豊かになっていた時代がなくなると犯罪国家にもなる
そういう兆候がすでに現れている、それが田舎とか都会とか関係なくなっているのであるすべてが金だというときそうなってゆく社会だからである
posted by 天華 at 09:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年10月15日

行き場のない老人 (人生百年時代に備えられていない)


行き場のない老人

(人生百年時代に備えられていない)

ただ、定年退職者を取材した時に、私の問いに正面から答えてくれた人たちのなかには、「毎日やることがなくて困っている」、「一番自由な今が一番しんどい」、「家で居場所がない」、「暇になったのに焦る」、「嫌な上司もいないよりはマシ」などと語られることがある。なかには「このままの毎日が続くと思うと、自分の人生は何だったのかと思うときがある」とまで発言した人もいたのである。

これも老後が長くなる高齢化社会の問題である、江戸時代とか戦前とかふりかえればこういう問題はあまりなかったろう、なぜならもうこうなる前に寿命が短いから死んでいた
長生きした老人はいろいろな生きじびきとかなり教えることがあり敬われたとなる
長老となり村でも指導する立場になって役割があった
そして社会自体が今のようにめまぐるしく技術でも進歩しない社会だった
今になると技術の進歩が激しいからかえってパソコンでもスマホでも使えないとなると
時代についていけず取り残される、情報でもテレビとか新聞だけでは通用しなくなっているからだ

そして今は地域とか関係ないのである、田舎でも関係なくなっている
それがわかるのは近くでも何して働いて食べているのかわからないのである
この家の人は何して働いているのかわからない、この辺では原発事故で移り住んだ人が多いので余計にわからないのである
戦後十年だと会社員というのはわずかだったろう、小さな店とか自営業が多かった
だからたいがい近所で何をしているか仕事がわかっていた
竹で篭を作っていたとか精米屋とか漆塗りしていたとか石屋とか大工とか職人でも自営業であり会社員というのはなかった
あとはほとんど農民とか漁師とかキコリとかであった
今は会社員だとするとき個々人とか家業でないからわかりにくいのである

ともかく何か社会でも身近で理解できるものとしてあった
すると親の仕事をみて習い跡を継ぐ人も多かった、職人ですら十代以上つづいていた家もある、技術とか変わらないからそうして続けられていたのである
農業だってこれは変わりにくいものであり家の跡を継ぐことになる
そういう社会は変化がないが老人にとってはいい社会だったかもしれない
隠居するとかで自分の趣味に打ち込むとか若い人に教えることがあり尊敬されていたとなる
技術が変化しないから陶芸などの仕事など子供に教えることができるからだ

今は会社員になったとき会社を退職するとでは何を教えるのか?

例えば自転車屋だったら自転車のことを教えられる、でもそういう仕事はなくなりすべてが会社員になったとき何を教えるのかとなる、退職したとたんに何も用ない人になるのだこれは実際怖いことである、人間は仕事を見て人間をみる
極わずかの人は芸術家などはアウトサイダーになる、そうなるのは社会というのはみんな仕事をもって生活しているからである、芸術家は仕事になりにくいからである
だから今度は仕事をしないニートとか老人は社会で無用のものとされこくつぶしとなる
肩身の狭い思いで暮らすほかない、何か昼間ぶらぶらしていると警官が職務質問したりする、また勝手にボランティアなどすると怪しまれてまた警官が職務質問に来る
ボランティアは意外と簡単にやれないしめんどうなものなのである
そこにボランティアの無責任とかもともと仕事は会社でするものになったとき会社とは会社員が共同でするものであり勝手に会社員でないものが働くことはできない
そういう人は会社にとって邪魔なのである

こうして老人の行き場がなくなる、そしてどこが行き場なのか?
それが医者とか病院なのである
そうして現実に病院通いとか医者通いしている老人が多いのである
それで病院では老人が集まり病気の話をしたりサロンのようになっているというのも現実である
だからつくづくそうして使われる金も膨大になっているのだ
それが保険から出ていて財政を圧迫もしているのである
とにかく老人で盛り上がるのは病気の話なのである
何かその人はたいして病気でもないのに医者に通っているのかともいらない薬も飲んでいるのかとも見てしまうのである
ただそこで老人はいたわられ病気であることによって存在が認められているともなるのだ社会では一切認められない存在でも病気となり医者に認められ病気ではまともに相手をしてくれるとなる、他はどこでもまともに相手にしてくれないとなる
また住宅で底辺層が生活しているがネコ十匹飼っていたり光る金属片を部屋の前にぶらさげてそれが光るので眼が悪くするとノイローゼになっている人もいる
こういう用のない老人は全国で膨大になっていることは確かである
ただ迷惑人間になっているだけなのである、邪魔な老人になっているだけなのである

でも何かしようとすると

老人は何もするな、邪魔だ

こうなっているのである、こういう社会なのである、だから人生百年はただ苦痛であり
地獄だとなる人も多くなる、社会のシステム上でそうなっていることも多いのである
ただ人手不足でシニアも働く社会にはなっている、働かざるをえない社会にはなっているだから70でも働く人は多いとなる、それなら社会に認められたとなるからいいとなる
ただ社会から受け入れられない老人も多い、

ゲートボールの方は面白そうなんですけど、これは退屈で要するに単なる老人界の社交場なんでしょう。若い時に非リア充だった人には辛そうです

あと平均年齢が非常に高いです。70歳以下は居ないんじゃないかな?考えてみたら今の60歳代は普通に働いている人が多いです

こんなふうに遊んでいる老人は眼につく、でもそれは社会に何か貢献するものではないのである、何か家で邪魔になるからそこに行っているとも聞くからである

そもそも人生百年に備えることなど誰もできない、退職してから30年でもあるとしたら相当に長いからである、だから死後が無ければ暇をもてあますとなる
そして社会貢献としてボランティアすることは本当にハードルが高く犯罪者にもされる
そういう人がいて実際に問題になって事件にもなっているからだ
今野社会はみんなでチームを組んでしているのであり勝手にボランティアなどできないのである、するとどこにも自分の場がないとなるのである

人生百年に備えるのにはライフワークを持つことである、生涯エネルギーをそそぎこむものを持つことである、それが収入にならなくてもそうである
私は一切収入をう得たこともないのに芸術とかを追求してきたからである
それで最近みんなアーティスになれということも時代が変わったなと思う
そんなこと団塊の世代とか猛烈企業戦士の時代にはありえなかったからである
本当は昔の仕事は農民でも職人でも一生の仕事でありそこで技を磨いていたのである
スキルを磨いていたのである
意外とこのスキルを磨くことが大事なのである

それがわかったのは全く絵の才能もない自分がパソコンのソフトで抽象画を大量に作ったことである、これは技術があればできる、artは技術なのである
つまりコンピュターが生まれて新たな技術が生まれてできたものなのである
そのスキルを身につけると大量の抽象画ができることがわかった
その素材はインタ−ネット上に無限にあるからそれをソフトで変化させればできるのである、全く絵の才能がなくてもできるのである

とにかく人生百年の問題は今まで経験していないことだからいろいろな問題が生まれる
ただ会社員になっていると会社を退職したた同時に無用化される
それははっきり見えている、その後は用なしのごくつぶしにされるから問題なのである
それは苦痛であり何をすればいいのかとだらだら暇つぶしに過ごすことになる
でも芸術家なら自分の作品の完成に産後まで励むからいいとはなる
ただみんなが芸術家となるわけにいかない、ただ人生百年時代の備えは早めにしていた方がいいとなる、金の問題でも暇の問題でもやはり何か打ち込むものが人間には必要なのである、会社を退職したときその仲間でも生きがいでも失う、でもなかなかその前に備えるのがむずかしいのである人生百年時代を実りあるものにするのは大きな課題になっている
仕事を持っている人は金も必要だか人生百年では勝ち組
仕事の持たない人はごくつぶし、誰も価値あると認めない
金があってもただ食べるだけのごくつぶし

この辺では原発事故で補償金暮らしになった人が多い、その人たちはパチンコとかギャンブルするしかやることがなくなった、それでひんしゅくをかった
でも仕事をしている人がいてそういう人は必要であり価値あるものと認められる
だから金も必要にしても仕事も大事になる
仕事をしていれば他の人も価値ある者と認めるからである
金があっても仕事をしていなければ認めないとなるからだ

人生百年となると教育でも変えねばならない、知的能力の進歩とか何か人間が今までの様な肉体労働だけではない知的な方面での進歩をうながしている、別に特別な人だけではないあらゆる人にうながしている
だからみんアーティストになれというときそうなのである
他にも素人学者になれはかもある、そういう過渡期に起きたことでもある
そこでこれは教育から子供の時の教育から見直す必要がある
自分が好きなのもを早めに見出して一生続けることが大事になる
そこで暗記教育とか受験教育はかすべて実用に結びつくのではない遊びの要素を多く取り入れたものを追求することである、もう読み書きソロバンの時代は終わっている
創造的教育が必要な時代なのである


秋の日新地から松川浦に行く(俳句と短歌)


秋の日新地から松川浦に行く(俳句と短歌)

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松川浦

街道の松並木行く実りかな

白波にイソヒヨドリや秋の海

島見えて沖行く船や秋の海

船帰る漁はいかにや秋鴎

松二本津波に残り秋の暮

新地なる高台に望む秋の海

秋の灯や一軒知りぬ農家かな

松一本残りてあわれ月光る

虫の鳴く夜道を行くや知りし道


松川浦秋の夕日の水面にそ光りつまぶし月のいずかな

杉林径の暗しも黒々と森に家々秋の日に行く

秋日さし土蔵の蔵の古りにけりここに住みに歳月思ふ

夕べなお餌を漁るや鷺のいて松川浦の秋の日暮れぬ

ここになお残れる松の二本かな津波の被害語る女あり


新地まで自転車で行った、最初イソヒヨドリを見つけた、それを写真にとった
でもこれは一眼レフで撮ったものではない、記録のカードを入れていなかったので
失敗した
20倍のデジタルカメラで撮ったせのは残っていた
これはかなり遠くまで撮れるものだった

金華山とか牡鹿半島がぼんやり見えたがはっきりは見えなかった
写真では漁船がまじかに見えるように映っていた

新地は森は結構多い、杉林の中に道があったり森の中に家々がある
また高台の住宅地から海が見える
新地だったらまた行けばいい、新地まではなんとか行ける
相馬藩内だと自転車で日帰りできる範囲である、後は丸森までは行ける
葛尾村も相馬藩なのだがここだと遠くなり日帰りがむずかしくなる
ここは三春の方が近くなるのである

帰りは松川浦の方にまわった、夕方になりすぐ暗くなり月がでていた
鷺がみかけたけど鷺は夏の季語である、ただ松川浦には浅瀬がありいつも餌を漁っている鷺を見かけるのである

原釜の津浪伝承館の前に二本の松がありこれは津波でも残ったものである
この松は古い、曲がっていていい松である
そこで磯部の津浪の被害にあった人と話した、その女は家族は亡くしていなかった
でも磯部は一番悲惨だった、村ごと消失したからである
その松が残っていたのは松川浦が入江になっていて地形が複雑だからである
磯部は海岸に接してあり前に何もない、津波は地形に影響されたのである

今回はそれほど疲れなかった、秋は涼しいからいいのである、暑いともう自転車では遠くに行けない、またあまり寒くなっても行けない
今頃が一番いいとなる、だからまだ気候が良ければまだ行けるなとも見ているのである

matushinsai11.jpg
原釜の二本の松が写っている津浪伝承館の写真
https://rubese.net/gurucomi001/?id=1750664

2021年10月14日

abstract mountains-closed mountain


abstract mountains-closed mountain


vallyab111.jpg

閉ざされた山々
深い渓谷
その奥処から
一すじ水晶の流れ
山々は高くせり上がり
人を寄せ付けず
一すじ水晶の流れが光る

Closed Mountains
Deep Valley
in the back of there
The flow of one-spling crystal
The mountains rise high.
Keep out people
The flow of the one-spled crystal shines

abmmmsnowm1.jpg

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2021年10月13日

金は具体的な責任だった (原発で金をもらった官僚でも返すべき)


金は具体的な責任だった

(原発で金をもらった官僚でも返すべき)


監督官庁である経済産業省と電力会社との癒着による安全監視体制の欠如だ。原発を持つ電力会社9社に、役員として天下った経産官僚は、過去数年に限っても分かっただけで10人。天下り後は猛スピードで常務や副社長に昇格するのが通例で、年収は推定2000万円〜5000万円+退職金。無責任な官僚の豊かな老後と引き替えに、国民がモルモットにされている。

副社長の推定年俸は、有価証券報告書に記載された役員報酬総額から推定すると、低く見積もっても約4000万円。東電在任中に白川氏が億の単位の金を稼いだことは確かだ。
 白川氏が経産省時代にやっていた仕事とは電気を安定して供給するよう電力会社を指導することだった。この指導役がいったん役所を退職すると電力会社に高給で雇われたわけだ
http://www.mynewsjapan.com/reports/1416

原発事故の責任は東電でもそこで恩恵を受けた官僚でも天下りした官僚でもとっていない官僚でも海上保安庁からも検察からも警察からも様々な人達が天下りしていた
ただ官僚だけではない,原発マネーはあらゆる分野や湯水のようにばらまかれたのである電事連では800億円とかがマスコミに宣伝費としてばらまかれた
そこには朝日新聞さえ入っていたのである
丁度原発が爆発した時中国に東電がマスコミの幹部を招待していたのである
この原発マネーは地元の有力者にもばらまかれた、それで大熊町長が津波で流された5億円の金庫を探してほしいとなったのである

とにかく原発マネーは想像を絶する巨額なものだった、それは事故後でもそうである
何兆円という金が除染に使われたり延々と巨額の金がつぎ込まれたことに驚いた
原発とは普通の一企業のことではない、国家的大事業であり規模が違っていたのである
だから金でも湯水のようにそこから出て来る
それでその金でモラルでも何でも麻痺したともなる

金になればいいじゃない

まずこれしかないのである、そこで危険性は見逃されたのである
最初は高い場所に原発を建てる計画でもそれをやめた、わざわざ高くした盛り土を削って低くしたのである、地下に電源を置いていたためだともなる
地下に電源を置いたのはアメリカに習ったからである、アメリカでは竜巻があり地下に電源を置いていたからである、これも日本の風土を無視してそうなったのである
日本の技術者がそういうことを考慮しない結果でありアメリカ頼りのためにそうなったのである
日本の技術ではそもそも原発を操作することができなかったのである
だから湯川秀樹博士まだ早いとして反対したのである

科学者でも技術者でも全部が無能わけでもないし有能な人は相当数いたのである
だから配管が危ないとか危険性を指摘していたが東電は受け付けなかったのである
近いうちに十数メートルの津波が来るとして科学者集団が指摘もしていた
これだけ別に有能な科学者がいたのである、ただ東電はコストがかかるととたあわなかったのである
東電という会社自体の問題があった,コストカッターとして社長にのし上がったのが事故を起こした時の社長だったことでもわかる
コストが優先であり危険は無視されたのである

とにかく原発事故の責任は誰なのか?

そのことが明確にされていないのである、そして裁判になっても無罪を主張しているのである、罪にされないのである、そもそもその裁く検察が天下りしていたのだから裁くこともできないともなる、東電で利益を得ていたからである
でも責任を問いばこうして天下りした官僚にも責任があった、それが全然問われないのである

責任が何かというとき金をもらうことが責任だとつくづく思った
でも実際はこの世の中で金をもらえばそれは何でもいいとなっている
金を得れば勝ちだともなる、でも金には何か必ず責任が生じている
金をもらうことは具体的な責任となりカルマとなる
私は何も責任はありませんと言ってもこれだけの事故を起こしたのだから
「あなたは東電から多額の金をもらっていたでしょう」それが責任なのです
あなたたちはもっと東電にかかわり安全を計る立場にあったのです
こうなってしまうのである、金をもらえばいいというだけではかたづかないことだったのである、やはり重大な責任が課せられていて多額の金をもらっていたのである
金をもらうこと金を得ることは責任なのである

それは地元の人に言えた、船主などは原発御殿が建つほど事故前も補償金をもらっていたからである、事故後ならもらっても問題ないが事故前にもらう権利があったのかとなる
漁業権を売ってもらったからだ、それで海を汚したからとして補償金をまた要求する
船主とか漁業関係者の補償は特別多かったから問題になった
つまり今になって金をもらったことの責任が問われるようになったのである
だから金をもらうことは具体的な責任としてわかりやすいのである

ただ正直人間は金をもらえばいいとしかない、その金がどういう金であれそうなりやすいそしてその金を追求すると誰しもその金が良い金なのか悪い金なのかとなると判断がつかなくなる、そんなことしていたら本当に金持ちになれないし金持ちはみんな不正に金をもらっているとなる、株とかでもうけた金も実は黒い金不正な金だともなる
弁護士でもなぜ相談しただけで百万もとったのかそれも今になるとおかしいと気づいたのである、何かそうして金は具体的な責任でありそれがやがてカルマとなって現れる

そういう自分でも親が公務員だったので得していることを知っている
するとそれも不正の金であるとなる
そういうことでもしかしたら親が介護になり死んだりして大金を盗まれたのもそういう因縁があったからなのかともなる
何かしら金にはそういう悪い金がありそれとかかわらない人がいないかもしれなからだ
ただその額は小さいが東電の場合は余りにも大きいから問題になったのである

だから東電に事故にかかわって得た金は官僚でも返すべきである
東電の原発にかかわって法外な金を得た人は返すべきだとなる
それが責任であり全く幹部でも金を返さないし責任が問われない、幹部は財産没収してもいいくらいである、でも全然その責任が問われないのである
地元の人達も責任があったが故郷に住めなくなったということで責任とらされたのであるもちろんその人達も金をもらって承認したのだから責任があった
金をもらったのだから共犯者であり何も言うなともなる

つまり金をもらうことはそういうことなのである、共犯者であり責任があるから何も言うなとなってしまう
こんなことを言っていたら確かにもう金をためること金を得ることができなくなるかもしれない、でももしそうした金をもらっていなければ責任を問われることがなかったことは確かである、そこに金の怖さがある

事故後でも補償金でこの辺はもめた、30キロ圏内は南相馬市だったら原町区までは手厚い補償金をもらったのである
そして十年間も医療費無料高速無料になっていたのである、30キロ圏からはずれた鹿島区は一人70万の補償で終わったし医療費は半年で打ち切られた
高速もそうである、最近になって高速無料にした、さらに30キロ圏内は医療費が一年くらい延期されて補償されるようになった、この差は大きいものだった

ただまたこの金のことでこれだけ補償して金をやったのだから文句言うなともなる
30キロ圏内ではそうなる、そうすると東電に文句もあまり言えないとなる
それもまた金の効果なのである、金をやるから東電に文句を政府にも言うなとなる
それをある程度受け入れるほかない、それはなぜか?

金をもらったからである

でも奇妙なのは私が住んでいる地区は一人70万しかもらっていない、隣の原町区は三倍もらっているのである

するとどうなるのか?

不満があり東電でも政府でも批判することになる、それができるのはなぜなのか?

金を少なくしかもらっていないからだ!

もし原町区のように三倍ももらっていたら批判しにくくなるのである
それで私はプログで原発事故のことを追求できるとはなったのである
でもマスコミのようにお前に宣伝費として金を払うからとなると批判はできなくなる
それがマスコミであり福島県の新聞でも雑誌でもそういうことがあったのである
何しろ新聞でも雑誌でも出すには金がかかるからそうなる
だから財界福島とかでは東電の批判を最初していたがやめたとされる
東北政経でも相双リテックの宣伝をのせている、そこで多額の除染マネーが入って幹部で億の金を山分けしていたのである、でも東北政経ではそれを批判できない、宣伝費として相双リテックから金をもらっているからである

マスコミも東電から金をもらっているから批判しにくいとなる
地元の人でも東電で金を得ているからそこで働いた人たちは批判しにくいと言っていたことでもわかる、金をもらうということはそういうことなのである
全く金をもらわなかったらそういうことはありえないのである
それでドラマにしろヤクザが親分から金をもらったから頼まれて人を殺した
それも金をもらったからだとしてる、金というのはそういう責任を課せられていたのである

だから金の流れをつかむと悪が見えやすいから裁判では金の流れを把握する
それによって犯罪を追求できる、具体的な証拠となる
そしてグロ−バル経済とかではもう金の流が天文学のような数字になって見えない
だから必ず陰謀論になる、巨額の金が不正に流れる、その金で世界が操作されているとなる、それはまさに悪魔的だともなる、ただ世界となるとその規模が大きすぎて見えなくなるのである、でもその金の流れから悪が具体的に見えることになる
ただ金にしても使う時とを使われるのかも問題になる

猪苗代湖で水上ボートで子供を殺して親の脚を切断するほどの事故を起こした人はこの辺で工事が多くなって足場事業で金が入って人だったのである
また補償金でレクサスとか高級な車を買った人も多くひんしゅくをかったのである
だから金を何に使うかも具体的なものとして見えるからそれが責任にもなる
つまり金の流れからみると具体的でありわかりやすく悪が可視化できるのである

いづれにしろ責任を追及すればそうした金は返すべきだとなる
官僚でも天下りした人達とか東電にかかわり法外な金を得た人達は返すべきだともなる
まずその人達は何の責任も自覚していない、ただ得しただけだからである
法律的には返さなくてもいいとしてモラル的には返すべきだとなる
それが責任を果たすことだがそんなこと一切ないのである
だから誰も原発事故では責任をとっていないのである
何か会社で不正な金が使われると自殺したりする人がいるがこれだけの大事故でも大惨事でも東電では一人もそういう人はいない、良心の呵責にな苦しんだ人は一人もいないとなる、幹部でも無罪だとか主張しているだけなのである
それを裁く検察もまた金をもらった有罪の人であり犯罪者だとなったら裁くことなどできないのである
だから巨悪となるともう人間では裁けないとなり神が裁くほか裁くことが不可能になるのである

posted by 天華 at 14:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年10月12日

先が見えないから失敗する (人間は未来を見ることができない―預言者の意味)


先が見えないから失敗する

(人間はは未来を見ることができない―預言者の意味)

津浪や原発事故ではいかに先をみることが大事か思い知らされた
もし先が見ることができたらこんな大惨事にはならなかった
人間は先が読めない、何でもどう展開するから読めない
それで判断に迷うことになる
道を行くにしても分かれ道があり右を行くべきか左を行くべき迷うことがある
その先が見えないからそうなる、地図もないときはそうである
そして道に迷うことになる

歴史を見る時、今ならすべて結果を見ていて結果から判断する
戦争に負ければなぜ負けたのかとふりかえる、でも戦争する前は戦争で勝つと思ってしたのであり負けることなど考えないのである
負けた結果を見て後世の人は判断する、だから歴史は結果から見る
でもその時代に生きた人達はそういう結果から見れない、どっちに転ぶかもわからないのである、それはサイコロでも振ってみないと結果がわからないのと同じなのである
それでどっちに転ぶかサイコロの丁半(ちょうはん)の世界である

必ず賭けがありその行動の結果がどうでるかはわからないのである
信長の桶狭間にしてもそれは賭けだったのである、天候も影響して勝ったとなるが
どうなるかわからないものだったのである
関ケ原の戦いでも霧が左右したとかあり勝敗はわからないものだったのである
ただ歴史は結果からみているから冷静に見るがその時代の中に生きていればどうなるかわからなかったのである
だから結果からみれば日本の太平洋戦争でもなぜしたのかとなる、馬鹿げているとかなるでもその時は決して負けるなどと思ってしたわけでもないのである
太平洋戦争でも本当はどう展開するかは未知だったのである
日本でも勝つこともありえたのである

聖書が予言者の書だというとき預言者とはあらかじめ予言する人だとなる
なぜそうなったのかというと予言することは生死にかかわることだからである
ノアの箱舟でもそうである、大洪水が来るということは生死にかかわることである
だからノワが箱船を用意したのである
それは馬鹿げていると笑われてもそうしたのである
そして助かったのはノワの一族だけだったとなったのである
予言の大切さを書き記したのが聖書だともなる

例えばソドム、ゴムラが神に滅ぼされるとき危機一髪逃れたのがロトである
まさに危機一髪でありロトの妻ははふりかえり塩の柱となってしまった
その光景を見たとき余りの恐ろしさにそうなったのである
それは津波でも経験した、もうその時瞬時に判断して逃げないと助からなかったからだ
そうして多数の人間が死んだのである
逃げる時間がなかったのである、とっさに何も持たず逃げない限り助からなかったのである

でも津波が来るとして備えていれば原発事故も防げたのである
それで仙台の方で若林地区なのか学者が津波が来ると警告したら地価が安くなるから言うなと口止めされたのである
つまり予言することは危険を伴う、もし予言しても現実に起きなかったら批判される
預言者は殺されて来たからである、つまり予言することは危険がともなうからである
地震学者でも十年以内に地震くる、二十年以内に地震が来るというがそんなこと誰でも言えるのである、でももう十年以内に地震が来たらどうするのか?
その時予言が当たらなかったら死刑にするとかなったら誰もそんなことは言わないのである、だれでも一年以内に地震が来るとか5年以内に来るとかそんなこといくらでも言えるのである、ただ適当に言っていればいいだけである、ただの無責任であり何の責任もないからである

コロナウィルスでもこれを誰も予測した人かいなかった、そして専門家も全く未知のものでありわからないものだった
だから今回は専門家の信頼を失った、これも素人並みだったのである
要するに原因がわからないのである、何で急に増えたのかまた急に減ったのかも専門家がわからないのである
いろいろむずかしいことを言ってもわからなのである
それは地震を予知する学者と変わりなかったのである、そんなこと誰でも言えるとまでなっていたのである
だから専門家会議など無駄だという人もいたのである、それほど専門家が用もないものだったとことに何なのだろとなった
そんな人達に国で金を払うとなるとこれも無駄だとなる

人間にとってあらかじめ知ることがいかに大事か

だから聖書は預言の書だとなる、預言者が中心になって記された書だとなる
預言者とは神から遣わされた役をであるからだ
その役を科学者が津波の予言でしたとき予言者と同じように批判されて脅かされたとなる人間はともかく利益を求める、欲を求める、それを止められると激怒する
不動産業の人が津波がここに来ると学者が言った時言うなとなったのもそうである
原発でもみんな利益を求めるからやめろとなるともうそういう人は住めなくなっていた
宗教は本来欲を制御するものだがそんなことを許す人はいないしそうしたら人は集まらない、だからカルト教団になるとかえって世俗より欲を追求することになる
底辺層になれば金持ちになるとか地位がある人になるとか何でも御利益であり福運だとかなる、ところが現実は底辺層は確率的には不幸からさらに不幸になる人が多いのである
それは別に宗教とは関係ない、百万人も底辺層ならどうしてもさらに底辺化して悪いことが起きる確率が大きくなるということである

ただ人間は将来のこと未来のことがわからない、何が起きるかわからない、いくら科学が発達してもわかららない、未来がいくら科学技術が発達してもわからないのである
未来を知りえるのは全能の神しかない、未来を知るというが神が未来を作りだすからである、もしかしたら今の地球を滅びても新しい惑星を作り出してそこに選ばれた人間が住まわせるということある、そんなことができるのが全能の神だとなるからだ
つまり未来を知り作るのは人間ではないのである、全能なる神なのである
この世に理想郷などできない、むしろハルマゲドンであり業火のうちに滅びる
それが予言れれ予定されているのである

だから神の選ばれたものを救出する、それが聖書に記されていることなのである
人間の未来は科学技術によって生まれない、それが原発事故で証明された
科学技術が万能になることはない、むしろ科学技術よって核戦争のように滅びるということが確立として大きいともなる
人間は人間の業(カルマ)によって滅びるということである
科学技術でもすべていいものとてしは働かないからである
その滅びの日が迫っているのかもしれない、グロ−バル化することは世界が一つのように見えてきている、またイスラエルが建国されたこともその日が近いともなる
人類の業〈カルマ)の総決算が起きてくる時が迫りつつあるのかもしれない
明らかにそこには神の意志が働くのであり何か自然現象として科学的に起こるのではない自然を越えた所に神が実在して神の意志で滅ぼされるのである




金の計算の不思議ー短期的長期的計算 (人間は長期的視点で生きられないのが問題)


金の計算の不思議ー短期的長期的計算

(人間は長期的視点で生きられないのが問題)

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人間は時間を計算することがむずかしい、時間の働きが理解しにくい
だから意外な結果となっている


金の計算で不思議なのは私自身が20万で一か月やりくりする計算している
一か月20万だと多いともなるが実際はそんなにかからないが貧乏な人を金で支援しているからかかるのである
ただ一か月20万としてこれが一か月を一週間延ばす、また10日でも伸ばす
するとこれが一年で金の計算をすると一週間で7日を一年で掛け算すると12×7で84になる
約三カ月分になる、10日伸ばすと120日分になり4ケ月分になる
これがなかなか理解できなかった、そんなに節約できるのか?
20万円分を一週間延ばすだけでそんなに節約できるのか?
でも一年で計算ししてみると確かにそうなっている
この額が大きいと思った

3カ月分節約したら一カ月20万で生活するとして20万のままだったら一年で240万になる
でももし三カ月分を引くと240万−60万で180万になる
これは大きな節約だと思った
ただこの計算が何度しても良くわからなかったのである
それは結局長期的計算だからそうなっている
それも一年という計算でそうなったのである
だから人間は何でも金の計算でも短期的計算と長期的計算は相当に違ってくる
そのことで複利計算だと300万を一〇年で400万にできるとなる
それが意外に思えるのは何故か?

長期的計算だからである

人間の盲点は長期的計算ができないということである
長期的に見ることが苦手なのである、だから株は約一〇年ごとに大きな変動があり上がり下がりするから長期的に見れば必ずもうかるということがある
でも一〇年先だと長いとなる
それで失敗したのが銀行員の営業の人がリーマンショックでもっていた株を元にもどったときそれを勝手に転売してJ−reitに売ったことである
転売したことである、それは自分たちの銀行の利益と営業の人はノルマを稼ぐためだったのである、相手の利益なのことなど証券会社でも銀行でも考えていないのである
銀行員の営業マンは説明すらせずに強引に転売したのである
説明責任があるとしてそれすらしなかった
それ以来銀行員を信じられなくなったのである

つまり銀行でも今長期的にみて商売していない、今利益を上げることしか頭にないのである、それは銀行でも地銀でも収入が得られず追い詰められているからそうなる
顧客のことなどいちいち考慮していられないのである
銀行自体が地銀でもつぶれるというとき悠長にかまえていられないからだ
でも短期的には利益があがり成功であっても長期的には失敗ではないか?
銀行は信用が第一だとすると信用を失ったともなるからである
銀行はそんなものだったのかともなる、信用を失うことは長期的には大損だったともなるかもしれない
だから商売でも本当は長期的視野が必要なるが実際は短期的なものとして商売しているのが普通である
そんな長期的な余裕をもって商売できないからである
資金だってそんな余裕がないからである

ともかく人間は短期的に見るのと長期的に見るのでは相当に金の計算でも違ってくることである

ただ人間は長期的に見ることが苦手でありできない

人生でもそうなのである、まず短期的に見ることは常にしている、でも長期的にみることはできない、それで来年のことを言うと鬼が笑うというのは人間はそもそも長期的に見れないものだからそうなる
必ず不測のことが起きて人生でも狂ってしまうのである
そしてみんな人生は結果的に意外なものとして終わっているのである

人間の弱点は長期的に見れないことである、結婚にしてもそうである
この人と結婚していいのか?幸せなのかとかわからない、だからこそ三分の一は離婚しているのである、結婚するとき好きで結婚しても長期的に見る時それが失敗だったとなる
人間は今幸せならいいとなる、将来のことなど考えないのである
また考えられないのである、そんなことしていたら疲れるだけだとなる
それで今日の苦労は今日一日でたりるとなり明日のことは思いずらうなとなる
長期的に見て思い患っていたら生きてゆくこともできないとなる

例えば長期的に見れないことで人間は災いにあう、津波とかでもそうだった、この辺では津浪でも700人溺死とか記録があってもたった二行でありそれが全く忘れられていたのである、その事実をみんな知っていれば警戒したこともあった
でもこの辺では津波が来ないという確信になっていて逃げないで死んだ人も多いのであるだからこそ災害は忘れた頃にやってくるとなる
それは人間は長期的に見ることが苦手なのである、常に目前のことに追われているのが現実だからである、そこにやふはり長期的にみる歴史的視点が大事だとなる
千年であれ一億年でも長期的な視野で時間で見ることが大事だとなる

現代は特に長期的視点で見ることができなくなっている、江戸時代なら一次産業が主だから農林漁業が主なものだからそれは自然に依拠した生活だから長期的な視野になる
そして生活も代々親の仕事を受け継ぐとかなっていた
それで職人でも十代とか綿々と受け継がれていたのである、そういう時代は長期的視野で生きられる、木でも50年育つにかかるとしても親から子へと受け継がれのその果実は子供が得るともなる、人間が財産を築くにはそもそも一代ではできないのである
例えば近くでうまい梨を作るのに十年かかったとかなる
必ず何か実りを得るためには時間がかかる、それも一代だけではできないことがある
それで農業は親から受け継ぐことが有利になる、土地もあるしまたノウハウも親から受け継ぐことができるからである

そもそも人間は即製的にすることで何か成しえることが本当はない
そういうものは何か本当の実りをもたらさない、例えは遺産でも何か大きな金が入っても消尽されることがある、身につかないのである
それは自分が苦労して溜めた金ではないからである,ギャンブルでもうけた金もそうである、何か金が身につかないのである
ただ人間はどうしても長期的視野で見れない、何かをすることができない
今もうけなければ第一金が入らなければ事業でもつづけられないとなるからだ
十年後に金がもうけて金が入ればいいとかならないからである
すぐ今もうけなければならないとなっているからである
そんな余裕のある人はいないからである

ただ人間は短期的視野で見ると失敗する、一時的に泡銭とか入ってもそれが成功にはつながらない、そして意外と一代で成功しないというとき親の代の苦労が実はその子供の代になって得られるとかなるのである
何か今成功している人は親の代から受けづくものがあって成功しているともなる
つまり長期的にしか成功はなく成功の果実を得られないともなる
ただ人間は長期的にみれないのである
原発でも今金になるからとみんな賛成した、でも長期的に見れば事故になったらどうなるのかなど考えた人などいないのである、今金になるじゃ賛成だとなってしまうのである
今金になるということしか見えないのである

ともかく自然をみると山でも木でも石でも長い時間を感じる、山とになると億年の重みがあるとかなる、それはそれだけ変化しないものとして常にあったからだとなる
木だってやはり樹齢何百年とかなると時間の長さを感じるし石でも岩でもそうである
でも人間の世界はめまぐるしち変わるから無常だとなってしまう
人間すら今日あったものが明日はないとかなる、人間も生れては死んでゆき無常だとなる人間でも千年くらい生きていたらそういう無常を感じないだろう
老人になると人間は逢ったと思ったらあとは永遠に逢わないともなる
「さよならだけが人生だ」liveとはlieveであり去ることだとなってしまう

それで長期的視野がもてないのである、ただそのことが様々な問題を産んでいる
教育だって即製的インスタントになり長期的視野をもてない教育をする
詰め込み教育とか暗記教育が教える方にとって楽だからそうする
でも教育を長期的に見ればその仕方を違ってくる、明日のための試験のための教育ではなくなる、でも常に短期的にしか見れない、試験が常にありその合格のためにはどうするかしかなくじっくり考えて答え出せとかもない、常にせかされているだけなのである

人生百年時代はその点じっくり何でも取り組むということでいいことにはなる
マイナス面も大きいとして急いで成果を出さなくても百年あれば成果を出せするともなる自分の場合は60過ぎてとかからようやく成果を出しているともなる
つまり人生百年時代はそうなる、あせって成果を出す必要がないのである
退職してからも30年とか40年あればまだ人生の半分しか終わっていないのである
こうなると人生観も変わってしまうのである

急いで得た富は減る。
少しずつたくわえる者はそれを増やすことができる。

箴言13章11節

地道に働くことを奨めている、そうなると一攫千金は奨められない、でも株などは常に一攫千金を求めているからすすめられないとなる
いづれにしろ何事時間がかかる、その時間の計算が長期的にできないのである


posted by 天華 at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年10月10日

社会の異常性、集団の異常性、家族の異常性、個人の異常性 (人間は異常性に気づかない―家族もエゴである)


社会の異常性、集団の異常性、家族の異常性、個人の異常性

(人間は異常性に気づかない―家族もエゴである)

●個々の家族でも比較するとその異常性に気づく

「家族」であるかぎり、あるいは「夫婦」であるかぎり、それが自然と何らかの抑止力となって問題はその中で自己解決されることを期待されてきた。家族だからというただそれだけで、何か不思議な「自己治癒力」や「自浄作用」があると信じて。

私たちは「家族」を過信しすぎていないか
https://president.jp/articles/-/29907?page=2


人間はそもそも自分自身のことがわからない、自分自身のことを知りたいなら他人と比較することである、他人を鏡として自分がわかる
異常性も同じなのである、何が異常かわからないからである
家族でもそうである、家族の異常性に気づかないのである、そういう自分自身がそうだった、本当に自分の家族は異常だった、そして自分も異常だったがその異常性に気づかなかった
それはなぜか?違った家族と交流しなかったからである
違った家族と交流するとき自分の家族の異常性に気づくからである
例えば白い花に意識があればその白い花は赤い花とかと比べると意識するのである
白い花として咲いていると意識できないのである
自分の家族は異常だったけどその異常なことも日常化すると異常でなくなるのだ
憎しみ合う家族でもそれが日常化すると異常でなくなる、そういうものが家族だと思ってしまうのである、それは夫婦にも言えるのだ

夫婦の異常性も別な夫婦と付き合うと随分夫婦でも違うことあると気づくのである
子供で別な家庭に接してこんな家族があるのかと気づくのである
だから貧乏人は金持ちの家族と付き合ってみることだともなる
それができないから互いに理解しえないことことになる
毎月電気ガス水道を止められてそれが憤りになっている人がいる
でもそんなことは普通無いからその人の気持ちもわからないとなる
そういう人は底辺層であり底辺層は底辺層と付き合うからわからなくなる
たいがい共産党と創価はこうした底辺層でありだから思想的は反対でも同じ気持なのである

社会に対して大きな不満を持っていて憤りをもっている、だから社会に対して憎悪をもっていてそういう人達が同じ不満と憤りを共有しているのだ
それが一面怖いものなのである、マルクス主義が実は憎悪の宗教でもあるときそうなのである、階級制を打破しようとするときそれは恵まれない人達が恵まれた人達を恨み憎悪する気持が強いからである、だからそういう人を集めることが革命に通じる
その憎悪と憤りが非常に強いからである、それが強力なエネルギーとなり社会転覆するものとなる
本来の宗教だったらそういうことはない、出家する人とか修道院で信仰に励む人は社会を恨んだりしないのである、貧しくても清貧として修行しているとなる
ただカトリックなどは贅沢したからまた別だとなる

まずこの世に理想的な家族がいるのか?何かしら必ず問題をかかえているのも家族なのである、その矛盾というか隠されていたものがいつか表面化したのが様々な家族の事件なのである、個々にはわからないにしても自分自身の家族がそうだった
引きこもりとして30年家族と一緒にいたのも異常だった
ただそれに気づかなかったのである、介護になって気づいたのである
ただ自分にとっていいものでありそれで家族の異常性に気づかなかったのである
そこで死ぬほどの苦しみを味わったのである、要するに最後に家族だけでは問題を解決しない事態になる、また家族遺棄社会とかなっているように家族を過信することはできない普通に子供でも家族を捨てるからである、親でも捨てる時代になっている
だから家族だけで問題を解決することはできないのである

●家族もエゴである

ともかく人間の異常性は様々である、例えば創価とかエホバとかカルト宗教団体は異常である、そういう人達身近で見ているからみんなわかるだろう
でもその内部ではその異常性に気づかない、異常が正常になり批判すると今度はかえってその人が異常だとして集団で攻撃してくる、それがナチスでもあったのだ
個人も狂っているが集団も狂っているとしてニーチェは死んだ
ただ集団の異常性は正常とされるのである、大多数がナチスになればそれからはずれた人が異常となり攻撃されるのである

現代文明は様々な異常性を抱えている、その異常性が集団として狂気化したのがナチスである、また日本の戦争の現人神(あらひとかみ)戦争も似た面はあった
集団的狂気となり誰も止めることができなくなっていた
ナチスは選挙で選ばれたのであり民主主義から生まれたのである
暴力で政権をとったのではない、選挙の手続きを踏んで政権をとったのである
だから創価とかなると24時間365日選挙運動である、すべて選挙に勝つことにエネルギーをそそぐのである、信仰も選挙に勝つことで仏法の勝利となる
日蓮の教義ではそれが矛盾しないからである、ただ現代では政教分離の法律があっても無視されるのである

家族とは一見いいものであり家族がいないものは悲惨だとなることもわかる
弱肉強食の世界で家族がいないということは誰も守る人がいないともなるからだ
それがわかるにしても家族もいろいろであり家族に問題を抱える人はいくらでもいるのだとにかく私の母親の実家は後妻が入ってきて家族がずたずたにされたのである
継母に私の母親はいじめられたりもう家族ともなっていなかったのである
そして不和分裂の家族だったのである、そのカルマは死んでから自分にふりかかってきて苦しんだのである、結局分裂していさかいは全部親戚の縁は切れたのである
そもそもそれくらいの縁しかなかったのである
むしろ他人でも世話になったからと助けている人がいるがその人の方が家族になっているのだ、家族がすべていいものとならないのである

そもそもキリストでもシャカでも出家した、家族を持たないというとき結婚しないというとき肉で結ばれるものを否定したのである
本当の家族は天国にしかないのである、確かに家族は天国の疑似とはなっていても常に家族にも争いがあり矛盾がありそれが必ず現れて来る
家族だけでも問題が解決されなくなるのだ
だから家族で何でも問題を解決できない、家族を過信するなというときそうなる
そもそも家族というときそれは家族だけは愛すが他人はどうでもいいとなっている
そのためにキリスト教でも仏教でも肉による結婚を否定したのである
それは本能的な肉欲の結びつきでありそこから問題が生まれるようになっていたからである,愛とは恋愛とかの愛ではないのである
肉欲で結ばれる愛ではないのである、そこが混同するのである
神の愛とは肉欲とは関係ないし血縁とも関係ないのが本来の愛である
それが神の愛なのである

家族もエゴなのである、だから一つの家が中心となって権力を形成して支配する
それがヨ−ロッパでも中国でも日本でも同じなのである
ハウスブルグ家とかなるとハウスは家でありブルグは城のことだからである
まさに家とは城のことにもなる、中国でも李氏とかなると一つの国家を形成するほどの集団になる、李氏朝鮮とは李氏一族の朝鮮となっていたのである
日本でも徳川家となるとそうである、御家大事となり家を守ることで結束したとなるからだ
現代になるとロックフェラー家とかロスチャイルド家が世界を支配している、陰の支配者だという陰謀論でもそうである
家族とはこうしてエゴであり権力化することでもエゴなのである
ただ家族は必要なものであり家族なしで子供も育てられないのである
でも家族もエゴとなるからそのために様々な問題が生まれているのである

●家族でも村とかコミニュティがあって機能していた

先日、エッセイストの犬山紙子さんの夫でミュージシャンの劔樹人さんが新幹線のデッキで大泣きする娘をあやしていたところ、他の乗客に誘拐を疑われ、警察に通報されて取り調べを受けたとの一件があった。

誰かがなにかを疑問に思ったのなら、警察に通報する前にたった一声かければよかったのに、と思う。「どうしたの、大丈夫?」と。そして一緒にあやしてあげればよかったのに、と思うのだ。

監視して通報して当局に対応させる、のじゃない。困っている人を見て、手を貸す。そんな小さなことが、つまり社会で子どもを育てるということなのじゃないか。

私たちは「家族」を過信しすぎていないか
https://president.jp/articles/-/29907?page=2

これが現代社会である、もう子供にかかわれないのだ、常に性犯罪が報道されるとそれが隣村で起きたことと感じるのである
世界の果てでもそうなのである、情報というのはそういうものだということである
何かテレビでも報道されると実際ありえないことでも身近に隣村で起きたように感じる
それが現代の情報社会なのである
人を見たら泥棒と思へとなるし性犯罪者だと思へとなる
それも実際そういう面はあるにしてもみんながそう思われるのが現代なのである
だから他人の子供にはかかわれないのである、話しかけることもできないのである
それが情報社会が作りだした負の面なのである
確かに犯罪は常に存在している、世界中で毎日のように犯罪が起きているのだからそれをいちいち報道していたらそれか隣村で起きたように見るとなるともう何もできないのである、そういう社会を作りだしたのも情報社会なのである

人間は何らかコミニュティが必要なのである、過去の村のようなものでもなく何か信頼し合える共同体とかコミ二ティが必要なのだけどそれが失ったのである
グロ−バル社会はまたグロ−バル広域社会は別にコミニュティではない
そこではただ物をやりとりしているだけなのである
心でつながることなどないのである、今は物と心が分離しているのである
物という言葉はモノが憑くとか心と一体のものとしてモノという言葉があった
物心がつくとは物を通して心が一体化してゆくことである
つまり物と心はかけ離れることはない、今は物と心は分離しているのである
地球の果てから物が入ってきてもそれで心が通じることはないのである


象徴的なのが、さまざまな「仮親(擬制的親子関係)」。仮親とは、血縁関係によらず、子どもの成長のさまざまな場面で関わってくる“機能別の親子関係”。以下のようなものがあった。

取上親 (産婆とはべつに、出産時にへその緒を切る人)
抱き親(出産直後に赤ちゃんを抱く人)
行き会い親(赤ちゃんを抱いて家の外に出て最初に出会う人)
乳親(生後数日間、乳を与えた女性)
拾い親(丈夫な子どものいる家の前に形式的に捨てた赤ちゃんを、一時的に拾って預かった人)
名付け親(名前をつけた人。たいていは自分の名前から一字あるいは複数の字を与えた)
守親(幼児になるまで子守をした人)
烏帽子親(武家の元服に立ち会う)

これだけ子供に村でかかわっていたのである、だから村の子どもは家族の子供ではなく村の一員としての子供であり大事に育てられたのである
そういうコミュ二ティが喪失したときもう子育てでも家族が孤立してする
また家族でも夫婦だけとかおじいちゃんおばあちゃんもいないとか孤立しているから虐待とか起きてくる、核家族でもそうであり孤立した家族となりまた個々人でも孤立しているそして孤独死にもなる、そういう家族でも個々人でもばらばらになったのが現代なのである

つまり現代の社会は何かもうこうして常に本来の人間的あり方から離れて異常化しやすいのである、それは子育てとかいろいろそうなのである
だから他人の子供でも接することはできなくなったのである
そして家族は孤立して虐待か閉じ込められた孤立した家族の中で起きやすいのである
つまり家族と言っても過信するな家族だけ処理できなものがあるのにすべて家族にまかせられる、そして外部でもかかわることができない
かかわるときはかえって弱体化したとき他人がチャンスとして金があれば金をとろうとするし攻めてくる、つまり家族は自分の家族を守ろうとして他の家族を攻めてくる
家族と家族もエゴとなり敵対関係になっているのだ
だから文明化した社会でも何か恐ろしいと思った、そういうことを両親の介護で嫌というほど経験したからである、これも自分のカルマだとしても今はそういう社会に生きているだから今の社会が便利だと恵まれているとか言われても逆に人間は非情になり家族もばらばらになりコミニュティも喪失している

いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

ただこの世の中いつも地獄があった、親鸞の言うように地獄が一定の世界だったのである地獄を生きることがこの世を生きることなのである
結局人間の業(カルマ)は消えない、いくら科学技術が進歩しても同じなのである
だから時代によって幸福は計れない、現代社会でもそうしてかえって過去より人間的な面を失って退化しているともなるからである
そうなるとこの世から去ることが救いだともなる、liveはlieveなあり去ることなのである、それで老人はこの世から去るだけだから気楽だともなるのである
この世にいろいろあるにしても終わり去るだけになるからである
それで意外と老人はいろいろあっても誰でも悟ったようになり気楽な顔をしているともなる