福島中央道(相馬市―福島市)開通で寂びれた道
(中村街道からの変化の歴史)

昭和3年編纂の「福島縣道路改盤沿革概要」によると、相馬中村街道は明治12年に信夫郡瀬ノ上村から伊達郡保原村と掛田村を経て相馬郡中村に繋がるルートとされ、同年をもって縣道2等線に仮指定をしている。
これは当時、信夫郡の経済的中心が福島ではなく伊達/保原にあり、街道は江戸時代に福島城(現在の県庁)発、十万劫を経由するルートから変更されていたからである。
http://dtm-rt.o.oo7.jp/3.dtm/6.ObRoad-Diary/project-4/026.QR115-SomaNakamura/QR115-Somanakamura.htm
福島中央道(相馬ー福島市)ができた、そこで感じたのは今までの道が完全に旧道化した
それも車が一日数台とかの単位でしか通らない、これは何なのだろうと奇妙だった
だからなぜか廃屋とか空家が多いと見た、ただもともとあの辺の道沿いには家が少なかったし店もなかった、だからもともと家がないのだから福島中央道ができて寂れたということではない、でも今の福島中央道の高い所を走る車を見ているとひっきりなしに車が通っている、すると前は相当にやはり車が通っていたのだ
ただ今の時代車社会だから相馬市領域となると山上辺りではまだ家がありそれで家があれば必ず車をもっているから車が少なくなっても通るのである
でも玉野村から霊山の方にはほとんど車が通らない、こうなると自転車で走るのには快適である、まるでサイクリング道路になってしまった
旧道化しても六号線ができたから相馬市の城下町から浜街道を車を通らなくなることはない、結構通っている、家があれば車を利用するから車は通るのである
しかし玉野村から霊山まではほとんど車が通らない、だから何か不思議だった
そこで玉野村までとかバス停があり何かそれが道の記念にあるように見えた
そこに地名が記されているから興味をもった、まるでその土地の地名を示すようにあったからである
ここで思ったことは道の影響が大きいということである
交通とか道が変わると急激に変化する、ある街でも栄えていても急激に衰退する
そういうことは歴史上常に経験して来た
北前船とかでも鉄道ができたとき衰退して歴史になった
鉄道でも車時代になったとき衰退した、車を乗る人はそもそも鉄道を利用しないから鉄道の乗り方すらわからなくなっているのだ
そして駅で80くらいの人にあうと車の免許を返納したとかいう人がいた
そこで鉄道を利用するようになったともなる
また怪我したトラック運転手は自転車に乗るようになり坂元とか結構遠くまでサイクリングしている
ともかく今の社会が車の影響がどれだけ大きいかわかる、もう車に乗らない人は社会に適合できない落伍者だとまでなる、確かに車を持たない人をそう見ているのである
車にも乗れないのかとなるからである、確か車に乗らない人はニートとか無職の人が若者でも多いのである、だから社会の落伍者に見えるのである
ともかく相馬市から福島市方面の街道はもともと中村街道でありそれは福島市の方に行くものではなかったのが意外だった
ただ玉野村から中村街道の細道がありその道の辺に古い碑がありそこでその道が相当に古いとわかる、トンネルもある
そして玉野村は伊達と相馬の境である
伊達と相馬の境の桜
花は相馬にみは伊達に
とあるごとく境なのである、それでそこに若木神社があるのは理解できる
境を越えて入ってくる者を警戒した、疫病がもたらされるからである
この若木神社自体が相馬藩で見かけない、この玉野村にあることはもともと境だったから理解できる、ただ江戸時代の中心が伊達や保原だったことが意外である
福島市は廃藩置県で県庁があり福島県の中心になったのである
それまでは中心ではなかったのである、ただ保原とかなじみがないからこの辺は調べないとわからないのである
人間社会で交通の変化の影響は大きい、何か繁盛した場所を見るとその当時の交通の要にあったとかなる、場所が良いだけで繁盛する、それは道路と交通の影響でそうなる
ただ前からあったソフト屋は繁盛している
中央道ができても必ず寄る人がいる、それは多種類のソフトを作っていてうまいからである、みんなそれを知っているから道路の影響がなかったのである
またあの辺にはもう一軒の店もないのも影響している
ただ相馬ー福島間が45キロとなると最速30分で行けるという人もいたから早いと思った
だから途中にSAとか常磐高速のようにないのである
直通で通りぬけてゆくのである、するともともと家が少なかったにしろ店とかはもう車も通らないということでやめたともなる
町や村でも高い道路を走るので関係なくなるからだ
常磐高速でも鹿島区にSAがあってもそこにしか人は集まらない、街の方には来ないのである、そこがいくらにぎわっていても街とは関係ないのである
鉄道だったら駅前通りができたがそういうことにはならないのが車社会なのである
とにかく今回宇多川をさかのぼり玉野村に出て霊山まで行ったがそこが何か現在の生活が途切れて歴史の道になった感じをもった
人間はこうして交通とかの変化で昔になりそこが遺跡のようにもなる
現実の生活で活きていたものが過去のものになってゆく、そして歴史として偲ぶともなるあそこが車がほとんど通らないし行く人もいなのである
バイクが何台かとか行くだけである、だからその差が大きいと思った
江戸時代の中村街道から今度はこの道が旧街道になってしまった
ただもともと家が少ないから町とか村自体に人がいなくなるということではない
でも急激にそうなったので不思議な感覚になったのである
旧道をよぎり飛び消ゆ秋の蝶
旧道に散れる木の葉や旅路行く
旧道を来て出合いや秋の暮
秋日さし二本の松や旧道をたどりて偲びあわれ深まる
秋深む宇多川を上り霊山へー真野川を下り帰る (バス停をたどる旅)
http://musubu.sblo.jp/article/189129346.html
秋深む宇多川を上り霊山へー真野川を下り帰る (バス停をたどる旅)
http://musubu.sblo.jp/article/189129346.html