みちのく考ー枯野のみちのく、わび、さびの世界
(金閣寺との相違ー枯野の俳句−20句)

みちのくや枯野の心に染みにけり
みちのくや口籠る人冬の雲
みちのくや朴訥にして冬の雲
みちのくや枯野に残る標かな
みちのくや都に遠く冬の星
みちのくや老いてあわれや枯芒
みちのくや寄り合いなごむ冬の鴨
みちのくや枯野の中に都跡
たずぬれば平城宮(ならのみやこ)跡枯野かな
みちのくや枯野に消えぬ人の影
みちのくや栄の跡も枯野かな
みちのくや二三きらめく冬の星
みちのくや一転枯野夢の跡
みちのくに何を残さむ枯野かな
一時の出会い別れや枯野かな
散り散りに人の別れて枯野かな
みちのくに老木生きむ枯野かな
みちのくに枯野に何か昼の月
みちのくの枯野の果てや金色堂
北上の流れの尽きじ枯野かな
みちのくや冬菜に雪や駅に待つ
この道は中村街道元禄の碑の残りて秋のくれかな
陸奥の 真野の萱原 遠けども 面影にして 見ゆといふものを 笠女郎
みちのくという範囲は奈良時代だと南相馬市の鹿島区の真野郷辺りまでだった
なぜなら車輪梅が南限の地として指定されていたからである
つまり気候的にここまでは南国の花でも根付く場所だったのである
あたたかい場所でありここが境だったのである
奈良の人々にとってだから境というのは地理の目安となるから知られていたとなる
そしてなぜここに綿津見神社と山津見神社が本当に多いのである
それは海人族が安曇族などが入植して入ってきて住みついた場所だったのである
そういう基盤があり次に大和朝廷の勢力が正式に支配したとなる
その前進として安曇族などの海人族の一団がここに移住してきたのである
それは飯館村の佐須に山津見神社がありそこは焼畑の地名であり焼畑の技術は渡来人がもたらしたものである
その他にこの地には鉄の生産とかで深く渡来人とかかわっていたのである
真野の草原の草原は萱が茂っているとかではない、第一奈良時代を想像したら人口が二百万とかなっていたら回りはどこでも萱原であり平城宮の回りでもそうなのである
いたるところ原野のような状態が広がっていたのである
そうしたら萱原などめずらしくもない、日常の光景なのである
だから特別萱原を思うことなどないのである
この草原は地名でありみちのくの遠い場所として奈良の人達に知られていたのである
そしてこれが誤解しやすいのは
陸奥の 真野の萱原 遠けども 面影にして 見ゆといふものを
みちのくの真野の草原(かやはら)は遠いけれど奈良の都の人達は知られている場所である、そういう遠くに私の恋する大伴家持様は面影にして見えますよという意味である
つまりそんなに遠い場所でも大伴家持様のことは面影に見えますよということである
どんなに遠くに離れてもあなたのことは面影に見えますよということである
実際大伴家持は多賀城に赴任したという説がありとなるとまさに陸奥の辺境に行った大伴家持を偲んだ歌だともなるのである
とにかくこの歌は本当に誤解しやすい歌なのである
みちのくというのは古代から辺境の地であった、そこで白河の関がみちのくの入り口として知られていた、でも古代ではみちのくの範囲は狭い、平泉辺りまでがみちのくであり
江戸時代になっても芭蕉が旅したのは平泉までありその奥はみちのくの範囲ともならないみちのくと言っても平泉までありそこから青森まではさらに広い地域だからまた別なのである
ただみちのくというとき芭蕉の奥の細道によってみちのくという感覚が一般化したのである
みちのくというとき荒野というイメージになる、古代から人家も少ない荒野的な感覚である、荒野といっても奈良時代などはもう日本全国が荒野という感覚である
そこが錯覚しやすいのである、それは常に歴史をふりかえる時現代からイメージするから必ず誤解するのである
江戸時代でもやはり日本全国の感覚は今とは違って全体が田畑があっても荒野だという感覚にもなるからだ、みちのくはさらに荒野という感覚になる
そういう荒野の中に平泉が都として栄えて金色堂を残した
それでもその金色堂は五月雨が降る中で辛うじて朽ちずに残っていたとなる
つまり自然の猛威の中で朽ちずに残っていたというのが「五月雨の降り残してや光堂」なのである
それは蕪村の俳句でも「五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村」などもそうである
自然の猛威でもう家でも流されるような感覚になるがなんとか残っているともなる
つまり現代の便利な文明生活とは違って自然の猛威の中に人々は生きていたのである
その感覚がわからなくなったのである
でも依然としてみちのくは荒野という感覚になる、大都会とかが少ないからである
仙台市にしてもちょっとはずれると田畑があるからである
それでこの辺でも枯野になり冬となったと感じた、しみじみと冬を感じたのである
みちのくには枯野がふさわしいともなる、枯野にかえって心が癒される
特にこれだけ人口が増えて都会化すると枯野に癒される、ただ車の洪水はここでも同じである
車というのは一台走っていても全体に相当に影響していた
というのは相馬市街から霊山の玉野村まで行った時、途中に相馬市の郊外となり家が点々とあった、でも福島中央道ができたので車は玉野を出るとほとんど一日通らない
でも相馬市郊外の山上とかそこから上に行っても人家があり車が通っていたのである
それは家があるから車を使うから通っていたのである
だから例え家が少ないにしても車を持っているから車が通る、すると一台通っても車が通るという感覚になる、玉野から霊山までは本当に車がゼロともなっているからだ
それで不思議な感覚になったのである
現代はどれだけ車の影響が心身ともに影響しているこれでわかるのである
ただみちのくはまだ枯野の荒野の感覚は残っている、その荒野の中で老いてゆく、ゆっくり茶を飲んでくつろぐのがいいとなる、まさにわび、さびの茶室がみちのくに似合っているのである、もう東京とか西でも大阪とか繁華な所に茶は似合わないのである
もうわび、さびの感覚がないからである
そのみちのくの荒野に枯野に残されたの光堂、金色堂の黄金(くがね)の夢だったのである、それが京都の金閣寺とは違っていたのである