2021年12月06日

寒椿、枯野、冬の海、白鳥(俳句は写生で修行で作る)


寒椿、枯野、冬の海、白鳥(俳句は写生で修行で作る)

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石黙し赤き誠や寒椿

二子山ここを離れず冬日没る

みちのくや枯野の向こう船一艘

墓残り海老浜に見ゆ冬の海


冠雪の蔵王の見えて白鳥の群れ飛べるかな朝日まぶしも

石垣のめぐらしここに家建てて落ち着きぬかも冬の日さしぬ

荒々し冬の波音ひびくかな津波の跡の無常なるかな

今はまだ寒椿ではない。冬椿なのである。ただ寒椿の方がよりいいと思った
赤き心とは天皇への忠誠心でもあった、でも誠とは新選組でも旗印となったから天皇だけはない
誠とは嘘つかないとかであり日本人の心としてある
人間に共通する普遍的なモラルである

石黙しというとき禅宗で座禅を組んで沈黙の修行をする
自然と一体化する沈黙が必要なのである、それが修行なのである
俳句の様なものでも修行が必要であり精進しないと上達しない
俳句は写生と写実である、だから比較的他の芸術より修練すればいいものができるとはなる、その方法が明確だからである、それを明治になって提唱したのが正岡子規であり
それが俳句の世界に革新をもたらしたのである

俳句そのものは必ずしもいいものになっていない、究めていない、でもその方法を編み出したことに功績があった
意外と芸術という時、ARTとは技術とかの意味もあり広範囲な意味がある
医療までartだったのである、だからARTとは技術的要素がありそれで革新できる
それで私が試みている抽象画がそうである、写真でも絵でもデホルメして作りだしているからだ、これも芸術だとなる
これこそ全く絵の才能がゼロなのにやはり創作だとも見たからである
二次三次製作でもやはり創作的なことがあると思ったからだ

二子山とは大原の二つの山であり二子山に見えるのだ
海老浜の方は村自体が津波で消失した、残っているのは墓地だけである
そして墓が冬の海を見ている
みちのくというとき枯野がにあう、海には船一掃しか見えない
兵庫県の方から来た人が瀬戸内海とは随分違うでしょう、あそこはひっきりなしに船が
通っている。ここはただ海が広がっているだけであるからだ


キボードが使いない、親指シフト使えないと苦しい、パソコンは文を楽に書けないと苦しい、親指シフトで始めたので自分の場合なじんだのである