2021年12月14日

冬桜、冬薔薇、冬菜、冬の日(蔵ある家ーフラワーアレンジメント)


冬桜、冬薔薇、冬菜、冬の日(蔵ある家ーフラワーアレンジメント)

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姉は生け花をしていた、でも認知症になった時花を買ってやれなかった
金はあってもそれに気づかなかったのである
人間はやはり家族でもわからないことがある
だから家族でもその人を良く知ることが必要だった
何に興味があり何を好きなのかとか知れば良かったとなる
母はもともと花にも興味がなかったのである

ともかく良くしてくれた人はなんであれ思い出に残る
だから一番かわいがられた人が介護しろとなるのもわかる
兄弟でもみんなが良くされないからである
だから親さえ実の子でも忘れる、墓参りすらしない人もいる

生け花でもフラワーアレンジメントでも実感するにはじかに見ないとわからない
何でも写真にしても本当の感動は実際に見ないとわからないとなる



蔵古りて広き庭かな冬桜

蔵古りけ枯木一本農家かな

庭広く蔵ある家や冬椿

石黙し家にこもるや冬薔薇

三本の樅の木根付き冬の暮

街中に冬菜畑や蔵の家

葉牡丹の寄り合い咲きて日の暮れぬ

前畑に葉牡丹あまた蔵の家

冬薔薇一輪暮れぬ余韻かな

冬の雨石を濡らして明かりかな

花一つ貴品のあれや今日も見ゆ

葉牡丹の寄り合い咲くやホームセンター

短日や家事に追われて暮れにけり

なにかにと追われるものや師走かな

本重く重ねて積むや年の暮

冬の灯や一軒一軒田舎かな



冬の薔薇一輪散りてひそけきまた一輪の咲くを見ゆかな

我が家に手伝う人や五年すぐなじみてあれや冬の日暮れぬ

この地にそ生きて刻める年月や樅の木三本根付き動かじ

あづき色の花の真中に様々の花の映えにき今日も見ゆかな

花一つ長くも見れば心にそしみにけるかな我が家に飾りて

冬の薔薇我が庭に咲きなかなかに散らず今日も暮れにき

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原町の道の駅の仮設があった場所に樅の木があった
三本あるのがいい、これは幹が細いにしても樅の木だろう
三本あるということで連帯を感じるのである



原町のダイユーへ行く六号線の道の脇に農家があった、最近こじんまりした新築の家を建てた、その家の庭は広く蔵もあった、だからうらやましく見ていた
ただ中は塀があり見えなかった、でも塀が取り払われて中が見えた
そしたら冬桜が咲いていたのである、これは珍しいと見た
庭が広いから桜でも映える、田舎だと蔵ある家がありそれは古い家だとなる
会津の方の喜多方では競って蔵を建てた、蔵の街になった
それは財を築いた、豊かな家になったということで蔵を作った
蔵があるということはやはり豊かさの象徴である

でも今は蔵は使っていないのである、蔵に何もなく孫の写真を飾っているのが原町の街中にあってみせてもらった、昔だったら蔵には農作業の道具とかいろいろ使うものがあったしお宝が埋もれていた、それで時々旧家に貴重な古い資料が残っていたとか調べに来る学者がいたりする、蔵はその家の歴史を伝えるものなのである
蔵と葉牡丹は似合っている
鉢に植えた葉牡丹は葉牡丹として活きていない、大地にどっしりと咲いているのが似合っている、何か葉牡丹は太っている百姓女をイメージするからである

フラワーアレンジメントとか生け花の良さは花を身近に見れる、それも長く見れる
すると人間はその花が心にしみるようになる、毎日見ているからそうなる
庭の花でもそうである、でも家の中に飾ると余計に身近であり花と一体化する

このフラワーアレンジメントでは真ん中のあづき色の菊が何か中心に見えた
他の花は散っても残っていた、白菊とかが中心とも見えたがこのあづき色がなんともいいのである
近くの森の花屋は貴重である、なぜならもう一軒の花屋はなくなったからである
一万の町で花屋を維持するのはむずかしい、私の場合車がないから隣街まで行けないからである
あの花屋はもともと小高で開いていたが震災以後移ってきたのである

私の姉は生け花を習っていた、それは若い時である、それで失敗したのが認知症になったとき花を買って生け花をさせれば良かったと思う
認知症でも別に何もわからないことはない、何か感じることはできるのである
ただ私には認知症の病気が理解できなくてとまどっているうちに死んでしまったのであるそれで遺影の前に花を活けて供養しているのである

何か人間はこうして家族でも死んでみるとこうしてやれば良かったとか後悔している
それは死んだ人は二度と帰ってこないからである、いるときはうざいとかなっても死ぬといなくなるとかえって何かしてやれなかったとか後悔するのである
これが誰でも経験することなのである、家族でもいつか別れて二度と逢えなくなる
それがどうしてもリアルに感じられないのである、いつまでもいると思ってしまうのである

要するに人間は時間の作用が欠かせないのである、時間の中で育まれ親しくなり共同性が生まれる、そして人間は簡単に信頼関係はできない、これも相当な時間がないとできないだからお手伝いさんでも十年も働いていれば信用できるとなる
そこに長い時間が必要なのである、何でも人間には時間が必要なのである

とにかく年の瀬であり買い物に追われた、家事に追われる、家事が結構な負担になっている
だからフェスブックをできない、コメントもしていない
プログに書くことで精一杯だとなる、そして今これまで書いたもののまとめをしている
記録が消えないように保存しようとてしている
これもまた手間なのである、書いたものが膨大なものになったからである
本の整理も大変である、読んだものでも忘れているからである
でも何か自分の文の中で引用するから読み直さねばならないのである
整理するのが大変なのである、だからこうして毎日いろいろと追われているのである