2021年12月21日

冬の暮、年の暮、冬椿、冬薔薇、冬菜、残り柿 (相馬市城下町まで冬の俳句十句)


冬の暮、年の暮、冬椿、冬薔薇、冬菜、残り柿

(相馬市城下町まで冬の俳句十句)


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牛二頭ものいわずして残り柿

牛二頭ここに動かず冬の雲

また見つく廃屋二軒年の暮

代重ね一家の墓や冬の暮

墓守る冬菜やここは横手かな

冬の日や抹茶一服城下町

冬椿忠義の松や城下町

冬の灯や6万石の城下町

冬柳長々とたれ飲み屋の灯

我が庭や側にいとしむ冬薔薇

誰が触るや月影さして冬薔薇

冬の星一つや帰る道知りぬ

二時ころ相馬市まで行った、途中横手に墓地があり冬菜の畑があった
次にまた刈田の中に四五基の墓があった、一家の墓である
一応木に囲まれている、こういう一家の墓も田舎にはある
村の墓地もあるが一家の墓もある、何か墓は田舎では土地と結びついている
田舎でも農家とか田畑の中にある墓地は違っている
それは土地と結びついているのだ、そして代々守ってきたとなる
墓地が自然の風景と一体となりあるのが田舎である
田舎と墓が切り離せないという時、農業中心の社会だとそうなる

なぜなら土地に根付いて生産して暮らしていたからである
だから墓も代々あり土地に根付いているという感覚になる
でも実際は江戸時代には庶民の墓はなかったのである
一家の墓とかもない、家族墓ができたのは明治以降だからである
墓を作るには金もかかるから作れなかったこともある
また墓を維持することは簡単ではないから村の共同墓地に埋めた
それがホトッケポとか地図には仏方となっている
そういう共同墓地は村の誰かがお参りするからつづいたとはなる

この辺で牛は相当減ったのかもしれない、牛が見かけない、ただここは残っている
放射線被害でやめた人が多いともなる、牛がいるのも一つの田舎の風景であり牛がいるということでやはりそれは心にも影響しているのである
今は冬だから冬の雲のように牛はもともと動かないのである
ここには牛二頭がいた、写真にははっきり映っていない

相馬市の不思議は一応城下町であり城下町の雰囲気がある、それで何度もそのことを言っている、6万石の城下町である、ただ城跡に石垣が残っているくらいで何か城があったというのを感じないのである、でも相馬野馬追はとても六万石でできる祭りなのかとなる
あんなに行列ができるのか、馬の行列ができるのか不思議である
ただ相馬では馬と切り離されず歴史があった、相馬氏が騎馬軍団でこの地を支配したとなるからだ、武田の騎馬軍団ともにている、そのために農家に郷士が多く兵が多くあれだけの500騎もの行列ができたとなる

忠義の松というとき城下町だとそうなる、その松に冬椿が咲く、それは侍の夫に仕える妻だとみるのである
大町の柳は一つのシンボルである、大きな柳だからである
あそこに飲み屋があるのも合っている

庭の冬薔薇は月影に照らされて浮かび上がる、冬薔薇もいい、身近に咲いてめでるとなる今日は寒く無かったら行けた、昨日5度くらいであり寒かった、明日はまた寒くなると言うので出かけた、寒いとまた外に出れずに運動不足になるから困るのである
今年の年末は寒くなる
それにしても横手の方でまた二軒空家を見つけた、何か空家が本当に多い、目立つのである、年の暮で誰が住んでいたのかと思う、空家800万軒とか将来二千万軒とか空恐ろしい数字になる、空家だらけになる、それは小高とか浪江とか原発避難区域で現実化しているのである、ゴーストタウンになる、どうしても町が継続されると見えないのである
若い人は流出したからであり老人だけでは継続できないとも見るからである





人間は他人の苦しみを理解できない (苦しみを経験した人同士が理解し合える―認知症も理解できない)


人間は他人の苦しみを理解できない

(苦しみを経験した人同士が理解し合える―認知症も理解できない)


人間は他者をまず理解することがむずかしい、他人の苦しみを理解すること自体むずかしい、なぜなら何に苦しんでいるのか理解できないからである
また様々な苦しみがあってもそれぞれ違ったものだからである
それで推理ドラマで良く同じような苦しみを持った人が仲間となり恨みを晴らすとういうストリーになる
それは子供なくした親だった、20代くらいとか10歳以下とかの子供が殺されたとか
恨みを共有した、それで仲間で恨みを晴らすために殺人者になった
同じような深い恨みを持つことで互いに理解しあうともなる
子供なくす親の気持ちがわかるかという時まさにそうなのである
その痛みを簡単に経験しないとわからなからである、そういうことは他にいくらでもある

他にもありふれているのは貧乏の苦しみである、毎月電気ガス水道代が払えない人がいる今日本が貧乏になるとき貧乏で苦しむようになる、でも貧乏でも苦しんでみないとわからない、だから金ないんだよといっても別に他人と同情したりしない
たいがい福祉係相談しろとかで終わりである
そういうボトムの人、どん底の貧乏はそれ以下になると家賃が払えないとかでホームレスになったり餓死するまでにもなる、暖房がとれなくて凍死でもありうる
夏にはエアコンがなくて死んだ老人もいた
またおにぎり食べたいと言って死んだ人もいる
それも近くにいても無関心であり隣人に食べるものがないとか言えない時代だからそうなったともなる
現代は何でも自己責任になってしまう、そうなったのはお前は悪いのだとなってしまう
そういう面は確かにある、カルマがありそうなったとことはある

でもそもそも人間は他人の苦しみを理解できないのである
それは自分自身が身内が認知症になったとき四苦八苦して苦しんだ
また親の介護でもう本当に七転八倒で苦しんだ、でも他者は笑っていただけだとなっていた
まず認知症の人も実は苦しんでいる、これも痛ましい病気だったのである
これは先天的異常な精神障害者とも違っていた
人間として長く生きてわかっている、先天的精神障害者はわからない、でも親だというとき私はあなたを愛して苦労して育てとかわかっているのだ
だから冷たくすると不満になり怒るともなる
ただ自分の場合は特別良くされたので必死になって看病したのである
それで介護していて認知症がどういうものか理解するようになった
認知症の人も苦しんでいる、物忘れでも苦しんでいる、それで二階に着るものを置いたのも忘れてなくなったと泣いていたのである
つまり認知症の人も脳の病であり苦しんでいたのである
最初はわからなかったが徐々にわかってきたのである、でも他者は馬鹿になったとか笑っているだけだった、ただ一人だけかわいそうだと同情していたのである
その人は特別情に篤い人でありそんな人が今や田舎でも絶滅危惧種のようにいないのである

人間はこうして他者の苦しみとかでも無関心でありむしろ他者が苦しむの楽しむとういことさえある、他人の不幸は蜜の味にもなる、田舎ではその傾向が強いのである
田舎の人間が素朴など今は全くないのである
自分でも同情されたこともないし、むしろ病院では虐待されたりした
医者とか病院でも意外と体は見ていてもその人全体を見る人はいない
だからその人は貧乏で栄養がとれない、果物を食べれないとなっている
でも医者は栄養とらないとだめだと言う、でも金がないのだからとれないのである
そこまで医者とかは見ないのである、金をくれることなどはないのである
でも江戸時代の医者は医は仁術だというとき何か人間全体を見ていたのかもしれない
ただその時は医療が発達していないので同情することが先決になり結局体は直せないとなっていたからそうなったとしている
今なら「同情するなら金をくれ」とかなる、金を払えば高額な治療をして直るということもありうるからだ、それも時代の相違でそうなっている

いづれにしろ確かなことは人間は同情するにも相手のことを理解しないとできない
ただわかる人はわかるのかもしれない、病院の看護婦長がこの人は母親を介護しているのに入院していると理解していた、この看護婦長は書類だけから理解したのである
自分とは話ししたこともないからである、でも看護師はそんなこと知る由もない、冷たくされたのである、だから看護婦長とかなるとやはり人間全体をみれる
ただそれもなかなかできないだろう、まず書類だけからその人を簡単に判断できないだろう、ただ医者とか看護師となるとそこまで見ることが要求されるがほとんどしない
だから虐待までになっていることがある
ただこうして同情していたらきりがないということもある
一人だけを診るのではないからである

他者の苦しみを理解しないかぎりその苦しみがわからない、だから同情もできないとなる自分自身が同じような苦しみを受ければ理解し合えるのである
それはこの辺で起きたこと津波の被害や原発事故の避難者とかでもそうである
それがすぐ近くで起きていても当事者にならないかぎりその苦しみはわからないのであるそんなに近くで起きたことでもそうなのである
別に被害に合わないとわからないからである、それでお前はこんなに苦しんでいのに楽しいのかとか原発避難者に批判されたりしたし津波の被害者にも批判された
でもその人たちは全国の人から同情されて援助されていた
近くの原発避難者であれ津波の被害者であれ毎日のようにボランティアが来ていたからである

でも自分が両親の介護であれ自分の病気であれ苦しんでいても誰も同情などしない、むしろ笑っているだけだったのである
個々人の場合はこうして普通は同情されたりしないのである、他人は笑っていて他人の苦しみを楽しんでいるとなる
それは相手の苦しみが理解できないからである
俺はこんなに苦しんでいるのにお前は楽しんでいるのかと言われけど自分自身もそうなのである、俺はこんなに苦しんでいるのに笑って楽しんでいるのかとなっていたのである
ただその時は原発避難者でも津浪の被害者でも全国から同情されていたのである
そこに救いがあったとはなるかもしれない、普通は個々人のことなど無関心だからである

とにかく他者を理解するというとき相手の苦しみを理解できない、まず認知症とかなる
何かわからないからである、介護してみないかぎりわからないからである
貧乏でもわからない、どん底にいる人たちのことを理解することができない
あなたは何か苦しんでいるのとか何かわからないのである
ただ福祉に相談しろとかで終わりなのである、ただそういう人はいくらでもいるからいちいち同情していたらきりがないとはなる
それで創価のカルト教団であれ共産党であれそういう場所に行くことにもなる
エホバなどもそうである、でもそういう組織は同情するわけでもない、一票を得るとか勢力を拡大することが目的でありその背後関係も謎だとなる

聖書のヨブとかなると苦しみと戦いなぜこんなに苦しむのだと神をに問う物語である
それでこの世に神も仏もないとなる、ただそこで信仰は失わなかった
ただそれだけの苦しみを受けて耐えることは至難だとなる
結局余りの苦難の故に妻にも捨てられたからである、妻でも実際はそうした過度な苦しみになると苦しみを共にしないし捨てるということである
そしてヨブは一人苦しんで神と問答したとなる






posted by 老鶯 at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層