2021年12月22日

車社会の破壊したものその広範囲な影響 (歩行者と自転車は車にとって不倶戴天の敵)


車社会の破壊したものその広範囲な影響

(歩行者と自転車は車にとって不倶戴天の敵)



車社会批判

マイカーの普及とともに最も基礎的な共同体である家庭は崩壊に向かい、家族の紐帯から切れた個人はロードサイドを彷徨い、マイカーをもたない者は自室に籠もっています。そして、身近な地域からは相互扶助の精神が消え去ろうとしています。その様相は、都市景観の混沌、乱雑、無粋に端的に表れてもいます。

共同体を破壊するクルマ社会であることは明白です。現に、マイカーの普及とともに最も基礎的な共同体である家庭は崩壊に向かい、家族の紐帯から切れた個人はロードサイドを彷徨い、マイカーをもたない者は自室に籠もっています。そして、身近な地域からは相互扶助の精神が消え去ろうとしています。その様相は、都市景観の混沌、乱雑、無粋に端的に表れてもいます。

自動車が自動車である限り、つまり個人の我が儘を許す乗り物である以上、いくら文明の利器としての性能が向上しても、その文化破壊の本質は変わりません。もちろん、自動車そのものの廃絶は正気の沙汰とは思えません。


●車は人格まで変える、変貌させる

夕べ相馬市街を走っていて路地から細い道に出たとき車が走ってきた
市街だからそこは車が通らないと思っていた、だから路地からまっすぐにぬけて走った
でも車が通っていた、ただ通り抜けてその手前で車がとまった
そしたら後ろの車の運転手が「この野郎」とか叫んだ
自転車は車を運転する人からみると目障りなのである、急に飛び出すからである
こういう経験は前にもあった、旧街道の新田川から原町区に入る所で自転車で出ようとしたときこれ馬鹿野郎と大声で車が走り去った
その道の手前では止まる、そこは大きな道路だからである
ただ何か車は自転車が邪魔にるなのだ、目障りなのである、それは急に道を横切るからである、また歩行者も目障りなのである、すべてが車優先社会になっているからだ

車は相当に暴力的なものであり人間の人格まで変える、

車に乗ると性格が変わる人は、着ぐるみを着て性格を豹変できる人と同じ効果を得ている

要は、車という仮面があるから、本当の自分をむき出しにできる。他者(他車)に暴言を吐こうが、窓を閉めている限り聞こえないでしょう。車というのは、人によっては、本音を一気に開示する場所だと言えます。


<ハンドルを握ると性格が変わる人の特徴>
・満たされていない
・ストレスが溜まっている
・感情を吐き出す場所が車しかない
・語り合える親友や機会に恵まれない
・いじめっこ体質
・やられたらやりかえす思考
・被害者意識が強い
・自己愛が強い
・思考が浅い
・スリルが大好きである
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普通だったら「この野郎」とかまるで襲い掛かるような言葉を社会でははかない、
全く礼儀もなにもないのである、それは車という乗り物がそうせさるのである
顔は見えないしどこの誰かもわからない、それでこうした暴言でもはき一瞬にして走りさる

●機械が道具が人間を変えた、人間を人間と見なくなった

それはネット社会になったときも起きた、普通面と向かって言えないことでも言う
それは暴力的になり相手のことなど考慮しない、それは対面でないからできたことである礼儀もなにもないのがネット空間になっていたのである
それで攻撃されて死んだ人まで出るようになった、普通だったらこういうことはありえなかったのである、匿名化された世界で相手を攻撃しやすくなったからである

だから不思議なのは人間は文明化すればするほど機械化すればするほど野蛮になる!

これは逆説である、道具を使い機械化して人間は進歩して発展したとされるからだ
でもよくよく人間の歴史をみればそうではない、道具を使い機械を使うことで人間は恐ろしいほど野蛮化したのである
原始人が野蛮だというがその野蛮さは限られている、その最悪の例が原子爆弾だった
つまり最高の野蛮性が原子爆弾だったのである
大量に一気に殺戮できるからである

原子爆弾ほど野蛮なものはこの世にない

人間の野蛮性の極限として原子爆弾があった、例えば生物界を見る道具を使う動物はいない、それで猿でも石をもち石を投げたり石で相手を攻撃すると結果的どうなるのか?
そこで野蛮性が過疎されて猿という種が絶滅するとまでなる
石だけでもそれだけの能力が生まれ戦いが野蛮になってくるからだ
それは刀の時代から鉄砲の時代に変わった時もそうである
刀で戦っていた侍は鉄砲を使うことを躊躇したという、それは侍は刀とか槍とかで戦うものであり接近戦であり遠い所から鉄砲で戦うの侍の仁義にかなわない、卑怯なやり方だと見ていたのである
刀だと対面的になりそこに人間的なものがうまれて武士道が生まれたとなる
鉄砲を使い始めるとただ人を大量に効率的に殺す道具となる、そうして鉄砲から原子爆弾に進化したのである

何か文明の発展とは進化とは科学技術の発展であり進化である、でも必ずそれと同時に人間性は失われてゆく、マイナスの面がある
例えば車だと旅行していても「旅は道連れ、世は情け」とならない車は鉄板に閉じ込められて他者と道連れになり一時でも人間的ふれあいがないのである
そこで情けも消失するのである、情が車の人とは通わないのである
歩いて旅していたらそうはならないのである、だから旅しても車の人とは話すこともないのである、車は暴力的であり人と人が情を交わすことなど拒絶しているからである
ただバイクでも自転車だと逢うことがある、でもバイクと自転車は相当に違う
バイクの人は電動バイクになることを嫌っている

音がでないとなにかものたりなくなる、躍動感がなくなる、それで嫌っている
他の人にとっては騒音なのである、迷惑でもバイクに乗る人にはそうではないのである
そんなものかと思うがバイクの乗り物はそういうものなのである
車でも人間的なものは消失してゆく、一つの狂器になってゆく
それが常に生死とかかわっているからぴりぴりしていて暴言を吐いて走り去ってゆく
もし見知らぬ人でも歩いていれば自転車とかならこうはならないのである
相手に対して気遣うということがある、歩いていてもそうである
車はこうして相手を無視した一方的な暴力的乗り物なのである
つまり車が人間の人格まで変えてしまうのである

●人間のつながりをも車は破壊した

なぜ今人間はこれほど文明が発展したのにかえって住みずらなくり人間の情も失い、人間の社会生活の基本である礼儀すらなくなった
これも機械道具がそうさせたのである、だから現代の戦争ほど怖いものはない、野蛮なものはない、相手が人間とも見ないだろう、機械になるとそこに刀で一対一で戦うことはない一挙に大量殺戮となる、そこに人間はいない、人間は見ない、人間とも認識しないのである、ロボットの戦争になるときロボットは人間を認識しない、人間は一つの物体となり数字となる、AIが発達してもそうである、コンピュターでのゲーム感覚の戦争になる
そこに血を流し涙を流す人間は見えなくなるからだ
つまり現代人ほど野蛮化した人間はいないということである
それは機械や道具を使うことによってそうなったのである
ただ人間は便利なものを使うことをやめられない、それを経験したのは石油ストーブに石油を入れるの手で押して入れるものを去年は使っていた、節約するものを使っていた
これは手間であり労力だった、自動で給油できるものがありそれだと楽だった
だからこうして機械化すると格段に楽になる、だからこそ機械化は推し進められたこともわかる、それで人間は別なことにエネルギーをそそぐことができるようになった

でもそのマイナス面も大きいものとなったのである、意外と共同体が破壊するものが車だと気づいていない、なぜ共同体が破壊されたのか?

身近な地域からは相互扶助の精神が消え去ろうとしています。
その様相は、都市景観の混沌、乱雑、無粋に端的に表れてもいます。

街自体がマイカーとなり郊外のイオンなどで買い物するので街の店は消失してシャッター街になりさびれた、第一歩かないからである、人が街を歩かないからそうなったのであるそうなれば通りの役割もない、ただ車が走っているだけの通りでは街は成り立たないからである
つまり街自体が車社会によって破壊されたのである、また共同体の中でいたわるとか人と人のつながりもなくなったのである
その影響は余りにも大きすぎたのである、だからなぜ原発事故で避難区域となったところが一挙にゴーストタウンになったのか?それは車社会が原因していたのではないかと考察した、マイカーとはそれがそのまま外へ遠くへ遠くへと目指すものでありそのマイカーが家とまでなる、だから何かあったら別な所にそのまま移動する、移住するとまでなる
なにかその土地と深く結びついていないのである
だからここだけではない、何かあると一挙に車社会だと地域はゴーストタウンになる
車が家でありその家が移動して移住して人もいなくなるということである

車がどれだけ人間社会に影響したか、それが社会自体を人間の人格まで変えてしまった
人間は非情な機械にもなったのである、だから老子が鍬とか道具まで否定したのはそうした道具が人間性を奪ってしまうからである、その鍬が車に進化したのである
石器の兵器が原子爆弾に進化したのである、その進化の極点になったのが原子爆弾なのである、そして核戦争で人類が滅亡するというのが人間のカルマだったのである
なぜ近代戦争で第一第二次世界大戦で大量殺戮になったのか?
それは機械化戦争でもあったからである、大量殺戮兵器により戦争だったからだとなる
それが原子爆弾に象徴されていたのである

●歩行者と自転車と車は不倶戴天の敵

結局車社会化大都市化社会とかグロ−バル化社会とかは地域の共同社会とかを破壊してきたのである、すると基本になる人と人のつながりも消失した
田舎でもこの野郎とか大声で叫んで誰か知らない人が車で走り去ってゆくだけだとなる
もし昔なら人々は相手を気遣うことがある、でも今はない、車というのはそれをさせないのである、車から起きる悲劇は無数にある、交通事故によって人生が狂わさせられる
それが推理ドラマの定番である、兄も40才で交通事故で死んだ
交通事故の毎日ある、携帯でも地域の交通事故の情報が毎日のように知らされる
でもいくら注意しても交通事故は起きる、とめられないのである
鉄道事故ならほとんど起きない、レールの上を走っているから起きないのである
車はどこでも入ってくる、だから街中の夜は車を走らせない禁止するべきだともなる
夜は危険だからである、もちろん自転車も危険とはなるが車はさらに危険だからである

ともかく歩行者と自転車ー車とは敵対関係にある、不倶戴天の敵なのである、そうさせたのは車社会になったからである、歩行者と自転車は車からすると邪魔者になるからであるそれも異常なのだが車を運転する人はそれを感じていない、だから車優先社会であり歩行者でも自転車でも目障りになりどなりつけるのである
もちろん自転車側にも問題がある、ただ車社会だから車社会に適応するように社会がなっているのだからそうなっているのである

不倶戴天の敵」とは、相手を生かしておけないと思うほど憎しみを強く抱いている敵を意味する言葉です。

「同じ天の下にはいない」という状況を指すので、「同じ空の下に生かしておけない」ということになります。
それほど恨みや憎しみ、怒りといった強い感情を向ける相手を指す言葉なっています。

まさにこれなのである、そこに和解もできなものとしてある
歩行者と自転車は排除すべきだとまでなっているのである、社会から抹殺すべき対象にまでなっているのである

地域が地方の街が経済的衰退したというのも車社会のためだというのもそうである
とにかく車は外へ外へ遠くへ遠くへと志向するものだから住んでいる場所から離れるものだからそうなるのである、だから何か肝心な自分の住んでいる場所は仮にいる一時的な場所ともなり人間関係も希薄化するのである

そうして突然原発事故になったりして人々は故郷でも自分の住んでいた町でも一挙に人がいなくなる、ただそこに空家だらけのゴーストタウンになった
放射線被害があるにしてもそれだけの理由でそうなったとも見えないのである
また貨幣というのはそもそも何か常に流通するものであり外へ外へと向かうものであり
内部で生産消費するものとは違った機能がある、それも外部へ向かうことをすすめたともなる、補償金の額が大きかったからである

いづれしろ現代文明は様々なことで限界に達している、車社会は全部肯定できない
例えば六号線とか国道なら一つの鉄道のレールのようにも見える
車が走るレールに見える、だからそこで自転車でも横断するときは注意してとまる
でも街中だと今回のように路地を出たら急に車が走ってきたりしたら止められないこともある、夜だっから余計にそうなる、そういっても結局車優先社会では自転車が悪いとなるのである、車社会を批判しても民主主義社会だと多数決だから自転車を優先しろとか言えないのである、せめて自転車用道路を作れといっても日本では土地が狭いから造りにくいとなる

車を全部否定できない、でも鉄道のように一定の決められたレールのように車を走らせたり街中を来るを通れないないようしたりする工夫は必要である
これも実現はしにくい、何かいくら車社会を批判しても車無しの生活がありえるのかとなるからだ、ただ制限すべきなのことは確かなのである
それで高齢化社会になると老人は車にのりづらくなり減るかもしれない
そのためにトラック運転手だった人は足を怪我して運転できなくなり老人になって自転車を乗るようになった、そして仲間にもなったとなる
私はなにか自転車に乗る人とは話したりするのである、でもそういう人は車社会の脱落者のようになっているのだ、それは社会の脱落者のようになる
ニートとかは何か車の運転できない人が多いのである 
posted by 老鶯 at 10:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層