2022年01月31日

人間は何でも必ず責任をとらされる (無責任に何でも決めることはてきないー多数決がすべてではいな)


人間は何でも必ず責任をとらされる

(無責任に何でも決めることはてきないー多数決がすべてではいな)

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責任という時、例えば何かを決める時、十人がいたとする、そこに黒い丸が十個あったが中に一個の赤い丸があったとする
そこで十人が全員全部黒であり赤はないと判断する

その前にその判断に対して責任をとれますか?

本当に赤はなかったのだと言い切れますか

もし間違っていたら責任をとってくださいよ

間違っていたら一人十万とりますよ

こう言われたとき十人が赤がないとしても判断するのは慎重になる
全員が赤はないとしてもあとで責任をとらされるから慎重になる

ても原発事故では原子力村が「安全神話」を作ったが事故になった
その時誰も責任をとらなかったのである

「原発は絶対安全です」
「それを責任持って言えますか、もし事故になったら責任をとりますか」
「・・・・・・・」

結局誰も責任とらなかった、でも地元の人たちは責任をとらされたのである
故郷に住めなくなったのである

「でも地元の人達も金をもらって容認したのだから責任がないとは言えない」

「あなた達には金をやりました、だから事故になっても責任を追及しないで下さいよ」

人間は最初から責任を感じていれば判断でも慎重になる
大衆民主主義になるとみんな投票するにしても責任感じない
でもいくら大衆でも必ず責任はとらされる
おそらく地元でも責任を感じていなかった、ただ金をもらえばいい金になればいいしかなかったのである
また東電でも政府でも原発を作っても事故になったら責任とらされるということもなかった
もし事故が起きたら切腹させられるとかなったらもう慎重になり作れない、作ったとしても常に戦々恐々として安全を計ったいたとなる、でもそういう責任も自覚しないから安易になっていたのである

そして10人が全部赤はない、赤が危険信号だとしてもないとされる
それに反対する者は追放だとかなってしまった
民主主義は多数決だけど多数がすべて正しいとはならない、でも多数に押し切られる
危険も無視される、赤信号みんなでわたれば怖くないとなっていたのである
実はそれが一番怖いことだったのである
民主主義の危険がそこにあったのである
赤信号みんなで渡れば怖くないということは責任もないとなっていたのである
でもそこで事故が起きたら責任をとらされるのである
多数決がすべて正しい訳ではない、なぜなら一人一人が無責任になる
一人など投票でもなんら影響しないとかなる

つまり責任を感じないことが自覚できないことが問題なのである

でも原発事故でわかったことは必ず責任がないということはない、責任はとらされる、
とらされたとなる
それが原発の距離に比例してとらされたとなる、原発に近ければ近いほど危険だったからその責任は重いものとなり住民は住めなくなったということである
確かにその分補償金をもらったとしてもやはり責任は距離に比例してとらされたのであるただ飯館村は距離的に遠いし関係ないともみていたから責任があったとは言えない

とにかく人間にはあらゆることに責任がつきまとっている、何か高校生の一人が警察官に警棒でなぐられて左目が失明したとかなった
そこでSNSで騒ぎになり暴徒となって警察署を襲ったのである
300人くらいで襲った、それも理由あるとしてもその暴徒化した人達は写真をとられているから後で警察に呼ばれて責任がとられるとしている
つまり行動には必ず責任がとらされる

そして若い時は無茶な行動に走る、でもそうしたことを後で後悔してもその罪を償わされる、責任がとらされるのである、そういう無謀なことでもそのままに解消しない
責任をいつかとらされるのである、それがカルマにもなる
人間の行為には必ずカルマが責任がつきまとっていて逃れられないということである

子供が泣いて生まれるのはこの世に生まれることがカルマ(責任)を背負わされることでありそれでそれが課せられているから
泣いて生まれというのもわかる
人間はどんなことしても責任(カルマ)から逃れられないからである