2022年03月11日

震災原発事故で失われた時間軸の歴史 (震災から11年後で忘れられてゆく)


震災原発事故で失われた時間軸の歴史

(震災から11年後で忘れられてゆく)

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震災から11年も過ぎるとあれだけの惨事でも忘れられてゆく、地元でも避難区域ではない所は関心が相当に薄れてゆく、でも避難区域になった所は依然として元のように回復しないからその場に住んでいれば震災のことが忘れられない
ただ移住した人々はどうしても疎遠になり忘れられてゆく、人間は過去はどうしてもないがしろにされ今に何でも関心が向く、次々にコロナウィルスとか今度はウクライナにロシアの侵攻とか北方四島でロシアがミサイルを発射したとかなると今はそれが恐怖になる
ともかく私の個人的なことでも家族が認知症になったとか次々に恐怖を経験した
原発事故ではウクライナの原発が攻撃されたとかプーチンが核を使うとか恐怖になった
家族の認知症からはじまり恐怖の連続だったのである
だからこれは何なのだろうとなった、世界最終戦争も言われた
こんなに災難がつづくことが何なのだろうとなる、末世であり世界終末現象なのかと恐怖する

原発事故で失われたものは何なのか?

世界が空間軸と時間軸で形成されている時、時間軸で積み上げられて作られたものが失われた、人間は何か事が起きる時必ず空間軸と時間軸で起きる
それでtake place(起きる)であり場所が関係している
でも時間軸でも事が起きることを見なければならない
ウクライナでもあの辺は歴史をたどれば複雑であり国が消長を繰り返していた
今の国は領土でも同じ領土ではない、広がったり狭くなったりしている
歴史的興亡があり国土でも同じ国土ではない、それは日本とは違った歴史だからである
この時間軸で見るのがむずかしのだ
ウクライナでもロシアが攻め込んできたのはすでにシリアにありそこが発端となって連続していたのである、こうした事件でも突如過去と関係なく起きていないのである
ただ外部の人は常に時間軸で見ていないから理解できなくなるのである

ともかく何か原発事故で失われたのか?それは時間軸で積み上げてきたものである
時間軸というときわかりやすいのは親が残したものである
さらに祖父母が残したものでありさらに時間をさかのぼると先祖が残したものだとなる

例えば土地土地には必ず歴史がある、一つの区域でも歴史がある
それで最近近くに移り住んだ人に自分の家のことを語った

「私の家は街で一番低い場所にあるんです、それで伊勢湾台風とかで家が流されるくらいの水が押し寄せて大変な目にあったんです
二回も床上浸水にあったんです、ここは低いから土地の価値はないんです
この前も下水から水があふれて家の中に入って来たんです」

「それなら知っています、見てましたから」

それから私の父は葛尾村で生まれ双葉町の新山で酒屋の丁稚をしていた
そこから暖簾分けしてここに来た、酒屋でありそこでこの土地を買ったのである
ということはこの土地は街で一番低いにしても苦労して買った土地なのである
そういう歴史をがあり意識する、それは何でも個々人の家でも歴史があり
国でもそうである、歴史がありその歴史が語られる
ただこの歴史は忘れられやすい、百年前の津浪の大被害でも忘れられるからである
人間は実際にな生々しく感じられる過去は祖父までである
でも歴史は実際は延々とつづいている、日本だと先祖は山に入って神になるというときそうである、それは時間軸で見る世界観なのである
代々つづく家はこの辺だと野馬追いにでる家は古いとなる
南北朝時代からの歴史がこの辺にある、只野の姓はこの町に多い、それは霊山に南朝の城がありそれが炎上して滅ぼされて逃れてきた人達の末裔だったのであるつ
それで野馬追の旗には菊の紋がある、それは南朝の紋だったのである

その人は最近来たからこの土地のことがわからないのである、つまり空間を移動してきたが時間軸のことはわからないのである、人間は空間は簡単に移動できる
でも時間軸で起きていることは簡単に理解できないのである
確かに空間軸としてこの場所があり時間軸で災害の歴史がある
ただ時間軸となるとなかなかわかりにくいのである
それで外国に行っても時間軸で作られたこと起きたことは理解することは容易ではないのである、二千年前の歴史を理解することは本当にむずかしくなる

そもそも身近でも時間軸で理解することはむずかしいし近くでも気づかないのである
何か南三陸なのか百年前にあった津波のことを記した石碑があったが流された
でもその石碑のことを知らない人が多かったという、石碑にしていても百年前でも忘れ去られていたのである、それが津波で流されたので元にもどした
そのことは相馬藩内でも相馬藩政記に二行だけ津波のことが記されていた
生波(いくなみ)で700人溺死と記されていた、それは400年前のことである
戦国時代のことでもあった、それも忘れ去られていたのだ、学者すら津波が起って発見したのである、だからこの辺では津波が来ないとなっていたのである
百年前でも忘れられるのだから400年となればもう誰も注意するものもいなくなっていた
でも私は郷土史とか興味があるからもしそいいう碑があれば注目していたかもしれない
やはり碑のある場所があり時間軸としてもある、そういう記念碑なのである
それで碑として残すことに意義がある
つまり碑をいつも見ていれば忘れないとなるからだ

原発事故などで失われたものはこうした時間軸で形成された歴史である
もしこの土地を離れて別な土地に移住した人達は土地と時間軸で形成された歴史が失われる、それを語るにもそういう土地も家もない、みんな新しく始まるのだから語りようがないとなる、ただ津波や原発事故のことは語られる、ただ家とか町とか村の歴史は失われる代々築いた歴史は失われる、例え三代くらいでもやはり歴史となるからである
その損失は自覚されにくいが大きいものともなる
老人にとって一番大事なものは何かとなると、思い出なのである
思い出も空間軸と時間軸で作られる、この時間軸で作られたものは空間のように具体的に感じない、それは物として残るものではなく心に刻まれたものだからである

人間は愛情にしても何でも時間がないと生れにくい、全然知らない男女でも見合い結婚でも長く暮らしている内に家族となるというのもそうである
家族でも本当の家族になるには時間が必要になる、家族とは長い時間で育まれたものである、子供の時から一緒に暮らすことで家族になるのである
だからいくら血縁でも私は母親だと言っても一緒に暮らさないとそう思えないのである
他人でも一緒に長い間暮らしいると家族になるのである

いづれにしろ津波とかでは延々とつづいてきた歴史が断絶した、別に空間は土地がなくなった訳ではないが人間が継続した生活の歴史が断絶したとなる
移住した人たちは一から新しく歴史を作るとういことになる
人間はどうしても一代では何か成すことがてきない、豊かにもなれない、必ず代々の積み重ねがあって豊かになる、何か自分の場合は明治生まれの父親でも貧乏であり大正生れの母親も貧乏である、それはみんなその時代は貧乏だったのである
そうしして家族に不幸があり何か私の家族は私のためにすべてあったとも思うようになった
兄がいたとしても交通事故で死に不幸だった、それは自分の家の事情でもそうなった
そうして最後に残ったのが自分一人だったのである、自分一人が墓参りをして供養しているとなる

ただ親とかなるとそれは子供の血肉ともなる、自分自身を作りあげてきたのが親であり
先祖だと自覚する、自分の場合は特別恵まれたからそう意識する
長男長女はその家を受け継ぐものであり大事にされる、その代り責任も押し付けられる
そこで家族が認知症になり死ぬ思いして介護したとなる
長男長女は家のカルマをいい面も悪い面も受け継ぐのである
だから財産でも兄弟姉妹で等分するというのはかえって不公平にもなる
なぜなら家を継ぐのは長男であり長男は責任を課せられているからだ
それは人間の長い歴史でそうだったのである、兄弟で平等だというのはかえって不公平にもなっていたのである、財産だけはもらうが親の介護するのは世話するのは長男にまかせるともなったりするからである

とにかく震災から11年過ぎるとやはり忘れられてゆく、もう外部では関心がなくなる
では復興したのかとなると避難区域はしていない、空地だらけ空家だらけなのである
子どもたちはもう帰ってこない、生活が別になり帰ってこないのである
取り残されたのは老人だとなる、それも親とか祖父母とかのカルマでそうなったのかともみる、原発の危険性を無視して金を求めるだけだったからである
それがカルマとなって責任となってとらされたのである
すべてではていにしろ必ず人間はカルマが作りその責任をとらされるのである