2022年04月18日

飯館村の佐須から石戸村ー石田村を回り霊山神社へ(2) (桜の短歌連作の説明)


飯館村の佐須から石戸村ー石田村を回り霊山神社へ(2)

(桜の短歌連作の説明)

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官軍の旗

霊山から落ち延びた南朝の子孫が野馬追に出ている
天皇の菊の紋は南朝である
この一石坂を上ると日吉神社になる、そこは霊山で落ち延びて来て武者が館にすんだの


これはつながっている、だから春でも写真では青色でも夕方でそう見えたのだ残雪の峰が見えて雪が大きくすると見えるのである
この連邦は圧巻であった
大霊山線に見晴台がありそこからの眺めがいいのである

平安時代初期、859年に「慈覚大師」によって開山された霊山は、東北における天台宗の拠点として栄えていました。山中では3,000もの堂や塔が築かれ、最盛期には3,600人もの僧が修行していたとされています

霊山の山頂には、かつては巨大な山岳寺院が存在しました。それが慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって開かれた霊山寺です。円仁は比叡山延暦寺で最澄に師事したのち、遣唐使として唐代の中国に渡り、本邦への密教移入に貢献した「入唐八家(にっとうはっけ)」のひとりに数えられています。帰国後には中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町)や浅草寺(東京都台東区浅草)など数多くの寺の開基に携わり、859(貞観元)年に霊山寺が開山されました。

山伏は、山岳修行により宗教的な能力を身につける。「山に伏す」ことから山伏(山臥)といわれた。特定の霊場寺社に拠点をもちつつも、各地の霊山を渡り歩いて修行する「旅の宗教者」でもあった。
https://museum.bunmori.tokushima.jp/hasegawa/exhibition/shugen.htm?msclkid=fbf69c4cbedf11ec84549bdc6bc5d2af

僧の住居。僧房。房。転じて、僧侶。「師の坊」

寺社が信者のために設けた宿泊所。宿坊。

2 幼い男の子に対する愛称。また、その自称。「坊をつれて散歩に行く」

3 奈良・平安時代の都城の行政区画の一単位。平安京では、東西南北の大路に囲まれた区域。1坊は4保で4町四方。また、その大路をいう

かつて、霊山と丸森の筆甫とは山道を通して交流がありました。古の修験者は不動明王堂前を通って霊山寺を往復したといわれています。その証拠に、筆甫の七坊というのがあり「延元二年(1337年)北畠顕家が義良親王を伴って霊山城に立てこもった時、霊山の学習坊として、漆坊(うるしぼう)・請願坊(じょうがんぼう)・向坊(むかいぼう)・中坊(なかぼう)・若狭坊(わかさぼう)・松ヶ坊(まつがぼう)・欄坊(らんぼう)の七坊が置かれた。現在も残っている地名はその坊跡である」(ふるさとの伝説より抜粋)ちなみに筆甫の七坊のうち松ヶ坊は現在ダムの名前、漆坊は地名として残っています。

https://www.zuiunzi.net/igu/bsrisuto.g2/7.html?msclkid=194ea726beec11ec8ec43c2c518c7c55

霊山はもともと天台宗であり山を根拠とした宗教であり中国から入ってきた
中国にも山岳宗教があり必ず高い塔が山に鋭く立っている
道元禅師が座禅組んで修行した天童寺も山の上にある、そこから高い塔がいくつか見えた日本では有名なのは山形県の山寺である
ただ福島県の霊山に関しては3600人の僧侶が修行していたということが実感できないのである、第一そんな人数を食べさせるのにどうしていたのか、誰が食料を提供していたのかとなるからだ、ただそうした修験者何か能力を持っていて加持祈祷して庶民とつながっていた、薬草なども山でとっていたのである
古代でもそれ以後でも人間の一番苦しんでいたのは今と変わりなく病気だったからである病気の加持祈祷のためにそれだけの寺が作られたともなる
今でも一番大きな立派なビルは病院なのである、南相馬でも市立病院がそうである

ともかく山岳宗教というとき六根清浄を唱え修行したのは清浄な山の気にふれて心を浄めることなのである、だから今のカルト宗教団体とかなんとか様々な団体には宗教を感じるものはない、むしろ経済団体でありただ御利益を追求する経済人であり会社員と同じである、または政治に深くかかわり御利益を追求する、選挙のために24時間365日選挙運動している創価などがそうでり他でも似たりよったりなのである
だから何か山伏などが異様なものと現代でぱ見ているがむしろ今のカルト宗教団体が異常なのである、都会から生まれているからそういうものはみんな異常なのである
宗教とは何の縁もないのである、なぜそうなったかというと東京とか大都会から生まれことに由来している、創価が団地の宗教が由来になっていることでもわかる
地方から出て来た人達が仲間を作り拠り所にしたのである
それはそれで悪いものではないがもともと心を浄めることは大都会では不可能である
それで心とは全く関係ないカルト宗教団体になったのである
宗教というときお釈迦様でもどうして岩窟で座禅をしていたのか?
それはそもそも心を浄めるためにそうしていたのである

それでこうして山と結びついている自然と結びついている宗教の方が自分にとっては本来の宗教として再発見する、そのために自分もそうしてきた、山とか森とか木とか石とかとアイディンティティ化して詩にしてきたのである
ただそこには人間がいないので自分自身また異常化していたとなる
ただ今の大都会からそもそも宗教は生まれえようがないのである
そこは迷路でありどんなことしてももその迷路から脱することはできない、そしてその
迷宮に怪獣が住んでいて餌食になり食べられるのである
その迷宮は古代にもあったからやはり今あることは昔もあったというカルマ論になる

ともかく霊山神社と霊山寺があり修験道を基にして次に霊山城が南朝の城として作られたのである、もともとそこには寺であり僧院があった、そこで学問岩とかあるのはそのためである、ただどうしてもそれが実感しにくいのである
歴史を知る時、大事なのなんらか実感することなのである、それがないと興味も湧かないのである
それで自分自身はこの霊山神社に確かに訪れた、でも霊山神社どうして行ったのか忘れてしまっていた、顕家の像があったなとは覚えていたが今回行ってあんなに高い所に霊山神社があるとは全く忘却していた
20年から30年前になると人間は忘れる、こうして忘れることは今回たずねも始めて訪ねたと同じだったのである、霊山神社のことを覚えていないからである
本当に不思議なのは人間は一回合ったり訪ねた場所でも忘れると始めて来たとなる
人間でも出合っても忘れると始めて出合ったともる、もしかして前世にあっていた人なのかもしれないがそのことが意識できないと同じになる

実際に飯館村の佐須から峠を越えると吾妻山が見える、その時気持がいいのである
その場所は忘れないのである、それは何度も行っているからである
でもそこを下り坂を下って行った石戸村というのは本当に初めて行った場所としか思えない、何か記憶していることがないからだ、でもそこを通っていたことは確かなのである
ただそこには行かず霊山神社に行く石田村の方に行ったことは覚えている
ただ霊山神社のことはを覚えていない、どうしして行ったのかも覚えていない
回りの風景も初めて見るものだった、あんなに山間高く家があるとは思わなかった
この辺ではあういう風景は見ないのである、だから見慣れぬ風景だから魅かれたともなる

いづれにしろ霊山と相馬藩は関係が深い、なぜなら霊山城が炎上して南朝が滅びたとき
落ち延びた武者の末裔が子孫になっているからだ、南相馬市の鹿島区の真野がそうであるまたその旗印に菊の紋の侍の家が二軒くらいあるからだ
また只野という姓が50人くらいいるからこの辺は只野氏一族だともなる
この只野氏は郡山市の多田野村が発祥の地なのである
そして天皇に由来する菊の紋は南朝なのである、南朝こ天皇の本筋であり明治天皇は南朝を引き継いだとしているからだ
それだけ南北朝の戦いは日本全土をまきこみ禍根を残したのである

こういう戦いの血なまぐさい歴史があるのだが霊山神社は別のもののように思えた
それは修験道の寺のようにも見えた、そこで聞こえたの四十雀なのか夕べ一羽はさえづる声がひびいていた、夕暮れであり巫女が一人戸締りしていた
なんとも静謐な感じがしたのである
ただここを自転車で登るのには苦労した、登山と同じだった、こんな高い所にあることが意外だった、その記憶が全くなくなっていたからである

石田村の方には来ていた、湧き水の里とあり清流が霊山から流れ高い所に家があり大きな岩がありこんなところにも家があったのかと驚き記憶していた
でも今回はそこまで夕暮れになり行けなかった

ともかくこの桜さく時期は変わり安い、今日は曇って今は雨が降ってきた
桜はもう散るだけであり、明日は残る花にもなる、桜の咲く時期は短いのである
だから日本中いくらでも桜が咲いても見れる桜が期間が短いからとても見れないのである




飯館村を回り霊山神社へ(佐須から石戸村ー石田村ー桜の短歌)

飯館村を回り霊山神社へ(佐須から石戸村ー石田村ー桜の短歌)

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大倉からへ佐須へ行く道は一昨年から通じていない
今回の地震でも壊れたからさらに長引く

この石は地震で落ちてきた、でもそう見えないだろう
何か座石とかなづけられる、座るにいい石だからである
でも不思議なのは地震で落ちたということはあとから見たらわからないのである
だから年代としていつ落ちたかを記録していればわかるのである



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クリック拡大しないと鮮明に見れません
ただブラウザによって見えないものがあります、一度コピーして別なソフトで見るといいです


里の道山鳩歩み花の影

山吹きや磐打つ流れひびくかな

山桜高きより散り触れられず

山の村十軒ほどや花に雲

地震にて落ちし石一つ変化かな




記録として残されていたもの

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大岩に桜の咲きて石田村

これは桜の樹なのか?確かにこういう光景だったが今回は
ここを通っていない

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この滝がどこにあるのかわからなくなった、霊山神社にもうでた帰りの道だった



顕家の像に朝散る桜かな

祭られて神社を覆う桜かな

夕べ散る花のあわれや霊山城

山陰の霊山町や夕桜

隠里滝のひびきに夕桜

ここに記録として残っている、でも思い出せないものがあった
http://www.musubu.jp/ryouzankikouhaiku.htm





(大倉から佐須へ)

清流の巌にひびき山桜見上げて高く朝に咲くかも

鶯の声のみ高くひびきけり人気なき村我が通りゆく

人住まぬ家にそあわれ水の出て春に来たりてしのびけるかな

冬ごもりながくもあれな峠越え高く連なる春の峰々

春光や峠を越えて吾妻嶺を我が仰ぎ見て伊達市に入りぬ

(石戸村)

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風そよぎ花の散るかな旅人休む石戸村かも

白壁の蔵の大きも霊山や枝垂桜の石戸村かな

(石田村)



古き碑に春の日さして山の道上りてたずぬ人のありしも

古き碑の並びし山路桜咲き夕暮れあわれたずぬ人あり

山により家の古りぬも夕暮れや桜色にそ染まりひそまる

墓一つたずねてあわれ石田村我が去りゆくや春の夕暮れ

(霊山神社へ)


この石段を上り霊山神社に行ける、でも草に埋もれた道となっている
もともとはこの道を行っていたのだろう、でも高いのである



石田村枯木に墓地や春来るも

ここの墓地には江戸時代の墓がある、でも幕末でありそれほど古いものではないだろう

霊山神社への道


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ここから霊山神社に行けるが道は荒れている
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春なれも枯木に墓地や石田村


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分け入りて古木の桜石田村


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霊山神社の手水鉢


花おおふ石段高く椿散り霊山神社に登る道かな

登り行く石段高く桜咲き椿も散りぬ霊山神社へ

花冷えにみちのくの桜散りはかなき命偲び惜しみぬ

山の奥霊山神社をもうで帰る滝のひびきて花の夕暮れ

顕家の像に花散るなお残る花や夕暮れ我が去りにけり

あわれかな花散る跡の霊山城南朝の夢ここにつええぬ

登り来て霊山神社に四十雀鳴く声ひびきて春の夕暮れ

手水鉢白椿そえ水いでぬ霊山神社に巫女一人かな


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みちのくの春の連峰春夕焼け

安達太良ー吾妻嶺ー後ろに飯豊山ー蔵王ー大東岳が見える
この連邦は圧巻である
(大霊山線)

吾妻峰に蔵王連なり夕陽没る青々として春の夕暮れ

赤々と春の夕陽の映え没りぬ高くも連なる峰々望む

一時や昨日は晴れるもたちまちに雨ふりて変わりやすしも花は散りゆく



これがわかりやすい