膨大な本を買っても理解していなかった
(新しいものを求めるばかりで温故知新がなかった)
何か不思議なのは人間の心理として例えば本をアマゾンで注文する、すると二三日待っている、そこにまだ読んでいない知らない新しい知識に接することに期待する
別に二三日でも期待して待つということがすぐに手に入るのと違った感覚になる
それは電車でも駅舎で待つということがありその待つ時間が期待にもなる
親しい人とか愛する人と別れていたがまた逢えるとかの期待に通じている
それは待つという時間にありそれが無駄なものではなく精神的豊かさをもたらしていたのである
高速道路のSAにはまず待つ時間がない、別にそこで電車のように車が来るの待つことはないのである、何かこうして便利さとか効率さだけを求めて来た社会には意外と欠けたものが生じる、そこに無駄なようなものでも人間にとっては無駄なものではないということがある、その無駄と思えるものが何か人間的豊かさを作り出している
もし駅についてすぐに電車にのり目的地に行くの効率的である、山手線などではそうである、二三分でも遅れると嫌だとなる、仕事をするとなるとそうなる
でも旅とかなるとまた他のことでも待つということが意外と精神的なものとして必要だともなる
それはおそらく手紙でも同じだろう、手紙は今のようにネットとかメールのように瞬間的に送れない、そこで手紙を待ち望むとういことがあった、そこに期待があった
今はそうした期待もない、待つ時間もないのである、それは効率的なのだが失うものがあった、人間の不思議は何かを得るとまた何かを失っているのである
これはあらゆることで起きているのだ
機械化というとき何でも効率化していいとなりあらゆるものが機械化してゆく
でもそこで失われるものがある、農業だと村で田植えでも稲刈りでも人力でするから
みんな協力しないとできない、人手を集めないとできない、それも不便なのだけどそこで村が一体化して共同性が育まれて祭りなどが生まれたのである
機械化するとそういうこともなくなって祭りも廃れたとなる
そしてこれも不思議なのは人間の心理として常に新しいものを求める、本でも何か新しい本を求める、そこには今までにない新知識が知見を得ると思えるからである
でも私の場合でも一つの部屋が本でうまるくらい本を買った、いたるところに線も引いてあるのだがその本を読んだ覚えすらなくなっている、これも何なのだろと思う
人間はとにかく忘れやすいから一回くらい読んだとしても忘れていたのである
こんなこと書いてあったのかと初めて読むのと同じだった
だから奇妙なのは新鮮だったともなる、前に読んだとしても忘れていたからである
人間にはこういうことが多い、そして人間は常に新奇なもの新しものを求めている
でも本を読むにしてもその本の内容を深く理解していなかった、またできなかった
ただ新しいものを求めて本を買い積読していただけだとなる
つまり本は本当は深く自分なりに理解してこそ得るものがある、でも深く理解できない
そうして新しい知識を求めて本を買っても消化できていないのである
一冊の本でもその本を深く理解することがむずかしいのである
だから今読み直してみる理解するようになった、そういうことだったのかと理解を深めるようになった
こういうことは人間に良くあることだろう、それで温故知新という言葉が生まれた
古きをあたため新しきを知るということである、新しいことばかり求めてもだめである
古きをたずね古きを温めて理解を深める、それで知識でも理解が深まる
つまり現代は物があふれている、新しい物を求めて物が過剰になっている
知識でも情報でもそうである、でも古きを温めるということが欠けている
現代はこうして新しきものばかりを求める時代から古きを温める時代になっている
それで古民家再生のことなど古いことを活かそうとしている人がいるのはめずらしいと思った、神道とか仏教でもそこになお意義があり意味があり現代に活かそうとしている
ただカルト宗教団体などは全くそういうものがない、求めるのは数であり組織の拡大であり結局権力を得ることしかないのである
だからそこから全く思想などないのである、数であり権力しか求めていないかである
このプログではそういう権力とは何ら関係ないから好感がもてるのである
いづれにしろ日本でももともといいものはいくらでもあった、学び伝えるものがあった
欧米のものだけがすべていいものではない、それを新しいものを求めてかえって日本的ないいものが見失われてきたのである
だからもともとあった日本のいいものを見出すこと日本の文化を再生させることも現代ではかえって必要なのである、また明治維新から150年もすぎてそういう時代になったということもある、ともかく物の時代から精神の世界、文化の時代に移りつつある
そういう過渡期にある、日本の役割が東西文明の掛け橋であり融合の役割を担った
その過程で戦争となり混乱して悲劇になり終わった
そして欧米に習うだけであり日本のいいものを忘れていたとなる
例えば武士道でも神道でも仏教でもそこに日本人が見出したいいものがあり独自のものがある、でもそれも忘れられた、でも欧米のものを日本人は日本人なりに消化されなかったただ仏教でも日本人なりに消化するには鎌倉時代までかかったから時間がかかる
文化とかなると簡単には消化されないのである、物とか機械なら意外と消化する
それで明治維新でなぜ汽車をすぐに作れたのかとなる、工業化できたのかとなる
でも文化となると政治とか宗教とか思想となると簡単に消化できないのである
民主主義といっても簡単に消化応用できなかった、民主主義では戦後は権利のみを主張することが民主主義であり義務とか責任は無視されたのである
そこでは各自利己の利益のみ追求したのである、結局アメリカに占領されて習ったのだから日本はアメリカに似て来るのである、それが金だけを追求する国となったことでもわかる、もう何が日本的なものかもわからなくなったのである
それは温故知新がなくなり日本の古き良きものが見直されることなくただ新奇なものばかりを求めてきた結果だともなる
それは自分自身でも膨大な新しい知識を求めて本を買ってもただ積読になって深く読んで理解していなかったと同じなのである
とにかく人間は理解することが何でもむずかしい、一人の人間でも理解することはむずかしい、ましてや他国を理解することはさらにむずかしい、とても簡単に理解できない
ウクライナ戦争でもウクライナとかロシアとはどういう国なのか理解することは至難である、空間的にはある程度はわかる、それにしても空間でも大陸だと広大だからわかりにくくなる、そして時間軸で歴史として理解することも簡単にできないから必ず誤解が生まれる、親戚でも付き合いが30年とかないと相手のことがわからなくなる
なぜなら人間がまるで変ってしまっていたからである、人間もそもそも常に変わり安いのである、だから突然ロシアとウクライナが戦争になったのだろうとなる
それを理解することは本当にむずかしいとなる
いづれにしろグロ−バリゼーションは物流の増大であり技術の革新であり機械化であり
またコンピュター化でもあったがコンピュターとなるとこれは頭脳とも関係してAI時代にもなる、それは脳と深く関係してくるから文化とも関係してくる
それでコンピュターのソフトで世界の写真や画像を見て私が変化させて作っている抽象画が新しい芸術ともなっている、全然絵の才能がないのにできるからだ
そもそも写真自体が絵の才能がなくても絵画化できるものとして発展してきたからである現代は映像の時代でありそれが世界的にグロ−バル化してコンピュター化してそうなったとなる、つまり現代とは表現の時代である、個々の表現の時代である
だからニュース解説者がyoutubeでもプログでもホームページでも膨大に増えたのである
マスコミが独占していたものが個々人でもできるようになったのである
なぜなら個人でもテレビ局になり出版者にも新聞社にもなれるからである
それは何百憶とかの資本金などいらない、無料でできるのである
この変化も大きいのである、プログのようなものでもいかに表現力があるか感心するからだ、だから現代は情報社会という時個々人の表現の時代になったのである
ただいかにこうした技術革新かあっても依然として温故知新は必要である
過去に蓄積され伝えられたものを見直す作業である、それは個々人にも言えたのである
私は膨大なものを詩とかで書いていた、百から千くらいまで書いていたかもしれぬ
それは発表していない、それを整理しているのである、そしてこんなことを書いていたのかと自分自身で感心しているのも不思議なのである、それだけ人間は個々人でも全体でも過去を忘れるものだと思った、全く自分で書いたものとも思えないのである
つまりそれだけ人間は忘れやすいのである、人間も死ぬと十年もすぎると曖昧模糊となる60年一生に生活していてもそうなる、他人ならそんな人いたのかとなり全く忘れられるのである、それでこの辺で400年前に慶長津波があり生波(いくなみ)で700人溺死と相馬藩政期に記されていたが誰も学者すら知らなかったのである
津波の後に発見されたのである、こうした重要なことすら人間は忘れるのである
だから人間の大きな問題が忘れることになったともみる
認知症になると遂に自分の住んでいる町の名前すらわからなくなる、子供の名前もわからなくなる、そうなるともう家族でも他人であり見知らぬ人になっていたのである
つくづく人間の大きな問題は忘れることにあったと思う
どれだけ重要なことでも人間は忘れる、日々目前のことに追われ忘れるのである
そうして重要なことでも忘れてしまうのである、だから忘れないように記録することも大事である、もう百年後とか二百年後とかなるとやはりあらゆることが忘れられる
そこに重大なことがあっても忘れられるのである、それで過去のことを記した記録した文字が発明したことが人間にとって大きな意義があったとなる
ともかく何かを記録しておくことが個々人でも大事であり地域でも国家でも大事だとなるそして見直すことが大事になる、そうしないと過去を忘れると津波とかでも警戒しないことになり大被害になるからである
金で買えないもの・・・・
2,500円の本をアマゾンで買った
それは高いと思った
また内容も良くわからなかった
詩の本となると理解するのがむずかしい
本でも知的なものは
金より理解すること
深く鑑賞することができること
それが問題なのだ
その理解力鑑賞力がなければ
いくら金があっても無益
金ですべては買えない
知識や知恵は金ですべて買えない
本は絵画を買ったとしても
その鑑賞力理解力がなければ無益
しかしそれは得難きもの
それでこの世で貴重なものは
すべて金では買えない
金がなくても得られることもある
自然の美は無料で神により提供される
ただ理解力鑑賞力があればである
食べ物なら誰でも価値がわかる
でも文化的なもの知的なものは
理解力と鑑賞力がないと価値はわからない
つまり金ではそもそも買えないのである
ともかく過去に書いたものが本当にこれだけの量になると忘れていた
これが自分の書いたものなのかと不思議にもなる
人間はそれだけ忘れる、それで過去に書いたものを整理している
それも膨大だからその整理も尽きない、そして疲れたとなる
自分自身が書いたものが自分が書いたもののように思えくなっている
これも量が多いからそうなっているのだ
とにかく文化的な価値は金に換算しにくい、詩とかなるとマイナーだから
そもそも理解する人にしても少数である、そうなると理解する人鑑賞できる人の方が貴重だとなる
なぜならそもそも理解しにくいのだから価値も認められないとなるからだ
それで偉大な芸術家がいたとしても全く認められない人もいたとなる
つまりその価値を見出す人がいなかったのである