2022年06月26日

NHKの一人で最期まで家で暮らしたいの感想感想 (一人暮らしは病気になると地獄になる)


NHKの一人で最期まで家で暮らしたいの感想感想

(一人暮らしは病気になると地獄になる)


これがうまく作っていると感心した、一人で病気になって最後まで家で看取る
それを医者と看護師がグループでしている
一人暮らしの場合は病気が最大の恐怖であり在宅で死ぬことはさらに困難を極める
でもその人は癌でも死ぬ数カ月前までふらふらになっても障害者施設で単純な仕事をして
給料をもらっていた

なぜそんなことまでしているのか?

生きた証(あかし)を残したいという

そんなことが生きた証になるのか?でもその人にとっては最後までそう思ってその仕事をしていたのである、人間は最後は何か後世に自分の生きた証を残したいとなる

その人が何を生きたのか?

それを自らも問い他者も問うからである、この人の人生は何だったのかとなるからであるするとただ単純作業でも最後にした仕事が貴重に思える
体が死に近くにもなっているのに単純な仕事でもしていたということが貴重だとなる
それはとるにたらないものでも何か貴重なものとなる、金で代えられないものともなる
その人は息子とかがいても十年くらい逢っていず最後まで所在もわからず死んでしまった親子でもこういうことがある

それから小笠原先生はこうして一人暮らしでも在宅でも相当数の看取りを経験している
すると体の痛みとかとるモルヒネとかを与えるがそれ以上に最期をどう迎えるのか
子供にも教える、いつ死ぬかが問題ではない、死ぬ前に互いに了解するものがあり
ありがとうと言われて感謝されて死んでいけるようにすることだと言っていた
確かにこれは大事なことである

私は姉が認知症になり何もわからなくなったのかと恐怖だった、でも認知症でも死ぬときは正気になる、母もそうだった、そこに認知症の不思議がある
私は介護で一人悪戦苦闘したが姉でもしゃべることはないが「頭を下げた」何か自分が介護したことに感謝してくれたわかってくれたので最後に頭を下げたことで救われた
実際はわかってくれていたのだなと思ったからだ
その後すぐ死んで意識不明になった、でもそのことで自分は姉と心を通じて姉は死んで他界した、母の場合病院で死んだが死ぬときは毎日病院に行ったが母を看取ることはできなかった、でも写真に出したように母の死に顔は笑っているようだったからこれも不思議だった、何か自分が介護してくれたことを喜んでいたのである
死ぬ時よりその前に何か互いに意思疎通していることが大事だとなる

そして家で死にたいというときある人は子供が生まれたとき木を植えたのである
それは見事に庭に育っている、山茶花とか椿の木である
そういう思い出があり家で死にたいとなる、ある女性は家で死にたいというとき今まで感じないこと当たり前のことが家の周りのことでもその雰囲気を感じて家で死にたいと言っていた、今まで嫌っていたものが平凡なこと辺りの風景とか人が普通に生きて過ごしていることが貴重に見えたという、それは今までは騒音だったから嫌っていたが死が近くなり別な感じになったのである
病院という空間は無機質な空間だから生活の匂いもないから嫌だとなるのである

正直これらの例は恵まれたものである、実際は残酷である、こんなに手厚くする医者とか看護師とか自治体があるのかとなる
私は病院に入院しても看護師から虐待されたとかあるからだ
だからそもそも病院とか恐怖の場所なのである、そこには情もないし人間的なものが喪失しているからである、ただ物のように片づけられるからである
つまり医者でも最後は体を看るのではなくその人に応じた心を看るたとが大事になる
それで最期に逢いたい人がいますかとか医者が訪ねたのである
そして息子でもその人を探したがみつからなかったのである
何か人間が死ぬとき知人であれ近くの人を回って歩くということがある
また兄弟でも遠くてもあいにくとかある、それも不思議な現象であり
最期の別れに会いに行くのかとなる

ともかくこのNHKで放送されたものは恵まれた人達であり多くは違っている
もっと残酷であり捨てられて孤独死にもなっているのが多いのである
それだけ在宅で一人暮らしの人が看れることは至難だからである
ただ今は本当に一人暮らしが多くなっているのだ
あの人も家族と一緒だったのに離婚して一人暮らしなのかと驚くのである
熟年離婚も多くなっている、だから男女とも一人暮らしが本当に多いのである
そういう一人暮らしの家は空家になってゆくのが現代なのである

こうしてむしろ孤独死とか残酷に肉親からも捨てられるようになるのはとにかく介護とか看取りでも負担が大きすぎるのである
それで娘でも夫が脳梗塞になって親に手が回らないとしている、その親も病気なのに娘に心配をかけたくないとして考慮しているのである
こういうことも多いのである、そして余りにもこうした老人が増えすぎたことなのであるするととても手が足りない、みんなで医者と看護師が集まり人生会議とかしているのは
それは最期は身体を看るだけではない心の問題がかかわっているからである
でもここまで手厚い介護をすることはまれなのである
医者は身体を看ても心は看ないからである

要するに人間の最期は死はどうあるべきなのか?

これが大きなテーマとなる、でも数が多くてこんなふうにして看れるのはまれである
すると捨てられての垂れ死にのような人が増えて来る、ただ人間は死ばかり見ていてはわからない、その人が生きた人生が最期に問題になるのである
死が怖いというときもそうである、死を克服するには若い時神を知らねばならないからである、死ぬときそのことを思っても遅いのである
ただ人間の最期は厳粛である、どんな人でもそうなる
死んだら永遠に逢わないからである、それで親が子に恨みを残して死んだ人がいる
その娘は異常だから人間ではなく外道となっていたから人間としてもう通じない獣だともなっていた、もう親と意志疎通するところではない人だったのである
だから病気の時すら見捨てたからである

ただ親子でも絶縁状態になっている人も多いとみた
私には二人の母親がいて尽くしてくれたのである、仕事もしない引きこもりのうな状態でもそうだったのである、それで自由放任となりずぼらでありだらしいないということがあった、でもこうして生かされたことに感謝している、それで死んでからも供養しているのである、子供でも親にひどい目にあった人は親ガチャとかなって恨んでいる
墓参りするしないこともある、親の死に目にも来ないともなっているのである
だからいくら血縁でも親とることはただ子を産むとか食わせるとかではない、それ以上のことをしないと親に感謝しないのである
つまり子を産んだだけでは親にならないということである

一人で最期まで家で暮らしたい