2022年07月31日

合歓の花、芙蓉、ひぐらし、夏の雲 (隠された家ー八沢浦から相馬市の方へ)


合歓の花、芙蓉、ひぐらし、夏の雲

(隠された家ー八沢浦から相馬市の方へ)

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松の影芙蓉の映えて家一軒

隠されて瀟洒な家や日影道

溜池に風のそよぎて合歓の花

合歓の花枝しなだれて眠るかな

坂越えて遠山望む風涼し

蝉の声ひびきわたるや家数軒

芙蓉映ゆ家々離れ庭広し

六号線トラック休む夏の雲

ひぐらしや村々あわれ墓地たずぬ

純白の白百合に向かい雷鳴りぬ


八沢浦の方から回り道して六号線の前の道の駅に出た
そこの道は細い道であり気持いい道だった
上り下りして変化があった
一軒の瀟洒な家がありそこに芙蓉が咲いていた
芙蓉は秋の季語だが今頃咲いている
この花は大きいのでゆったりとしていい
この花は飯館村に何か合っていたのである
土地土地に合う花がある

こういう家は農家とかとは違う、相馬市とかが近いから勤めている人である
他にもそういう家があったからだ
でも隠されるようにしてあり場所がいい、田舎ではそういういい場所に住める
でも街の中だと密集しているから都会的になる

合歓の花がため池がありさざなみ風にゆれて咲いている
合歓の花一部は散ったがまだ咲いている盛りにもなっている
やっと蝉の声を聴いた、森があるところでは結構鳴いていた
私は必ず墓地をたずね墓を見ていた、江戸時代のものがあれば古いなり注目していた
ひぐらしは蝉はようやく鳴き始めたようだ

六号線の道の駅は休館になった、また新しく始めるらしい
そして近くの喫茶店も閉店して売りに出されていた
その近くの食堂も三軒くらい閉じたみたいだ
五本松があったが三本松になり遂に一本になりみんな消えた
何か淋しいとなる
コロナウィルスの影響があったのか?良くわからない
暑いから相馬市の市街には行かなかった

昨日あたりはカサブランカが庭に咲き雷鳴が鳴った、でも大きな雷ではなかった
いかにも夏らしい、でも今日は暑くてここも34度くらいになりぐったりした

2022年07月30日

統一教会と創価とかカルト宗教がなぜ力をもったのか? (大衆社会となりマスコミも政治もすべて大衆化したため)


統一教会と創価とかカルト宗教がなぜ力をもったのか?

(大衆社会となりマスコミも政治もすべて大衆化したため)


●現代文明の病弊として生まれたカルト宗教

その人は創価一家であり兄弟が議員でもありその人は創価しか見えない人だった
ただその人は素直な人でありもし本当の宗教を追求していれば全く別な人になった
ナチスでヒットラーユーゲントがいて青少年がナチスの強力な一員になった
それは中国でも起きた、文化革命の時毛沢東崇拝が起きて青少年が熱烈な紅衛兵となり中国全土を席巻した、それで粛清された人がどれだけいたのか、空恐ろしいものだった
また日本の戦争でも別なものとしてもそういうことがあった
だからこれはやはり現代社会の病弊として起きたともみる
大衆社会となり大衆により席巻される社会である、大衆が洗脳されてそうなる
これまでの戦争は日本でも侍が貴族同士の選ばれた戦士が戦っていたからである
そこから貴族でも騎士道が生れ日本だったら武士道が生まれた、互いに殺し合うにしてもそこにルールが倫理が生まれたのである
それはなぜか?それは一騎打ちになると相手の人間のことを殺すとなると卑怯なことをするなとか一個の人と人が戦うからルールが生まれて敵への憐憫でも生まれる
つまり人間的なものとなる

それが近代戦争となると一対一の戦いないし集団戦である、それは前からあったにしろ
戦争に参加していたのは貴族であり貴族同士の選ばれた戦士同士の戦いだった
日本では侍同士の戦いだった、それが明治維新で西郷隆盛率いる西軍と政府軍が戦った
政府軍は庶民でも参加できる国民軍だったのである、めれで侍の集まりである西軍が負けると思わなかったが負けた時、侍の時代は終わったのである
それは世界的にも起きたことなのである
こういうことが宗教問題と関係ないようで関係はある、近代社会は大衆社会でありあらゆることが大衆によって決定される、数によってすべては決まる社会である
また戦争にしてももう人間と人間の戦いではない、機械と機械の戦いにもなる
そこで敵を思いやる人間はいない、相手が機械になればそうなる
大衆とか群衆社会であり宗教でもそうである、選ばれた人を相手にしているのではない
無数の人達を相手にして操作するものマインドコントロールするものとなった

大衆ファシズムの世界となった、それで力を得たのがマスコミなのである
マスコミは大衆を相手にしているのであり優れた人達を相手にしていない
要するにパンとサーカスである、面白おかしくみんな見る娯楽番組が主流なに
むずかしいことは言わない、マスコミはこうして大衆の洗脳機関でありその裏にはまた大衆宗教と化した巨大権力化した宗教団体がある
それが今問題となった統一教会とかであり創価などが最たるものである
創価などは一人など関係ない、数しか見ていない、一票としてしか人を見ていない
大衆ファシズム団体なのである、それはナチスと同じではないにしろ似たものなのである
そもそも現代社会とは大都会を見ればわかるように無数の人間が群衆化して大衆化した世界である、大衆は高貴なものなど求めない、つまり現代には高貴なものを求める人は無視される、ただ数がすべてであり数が権力化するのである
田中首相が金と数ですべてが決まると言っていたとでもわかる
政治家とはそうして大衆を相手にしているのであり高貴なものを求めるものを求めていない、どんなに高貴なものがいても一票に変わりないからである、それは同等なのである
だから現代には指導する人はいない、大衆を操作するものが指導者でありそれがマスコミだったりする、マスコミは大衆を相手にしているのでありやはり視聴率が一番大事だからであるあとはスポンサーが金をくれるのだから大事なのである

●地の塩が消失した現代文明の荒廃現象としてのカルト宗教団体

要するに現代社会文明からは地の塩は消失した、ただ宗教でもそうだが大衆化したのである、だから宗教でも大衆をいかに操作するかが問題になる、そして大衆を支配するのである,マスコミもそうである、マスコミは何か常に公平中立を装うがそうではない
NHKは何か善人の代表のように見ているがそこに大きな悪がひそんでいる
それがわかったのはと民間では統一教会のことを批判しているのにNHKでは全くしていなのである

これはなぜなのか?

これは大問題である、そこには何らかの深い事情がある、統一教会を批判できない何かがあるとなる、なぜならNHKでも幹部が協議して放送することを決めるからである
その幹部の中に統一教会を批判できない人達がいるということである
それだけ統一教会は力がないとも見ていたがあったのかとなる、それは韓国との関係で政治問題化もするからである、また在日問題もありそれで表に出さないのである

いづれにしろ今回の統一教会とか創価とかカルト教団の問題の根は現代社会の病弊から生まれていた、それはナチスで経験していることである
社会が大衆という得たいのしれないものに席巻される社会である
そこに本来の宗教は皆無なのである、ゼロなのである、ただ大衆が理解するのは利益になることであり利権になることであり御利益になることである
それしか見ない、それは原発事故でもそうだった、それは莫大な利権だった
それで地元でも金の成る木であり群がったのである、そしてマスコミでも原発を批判しなかった、なぜなら原発が爆発した時、朝日新聞の幹部まで全部中国に招待されていたのである、つまり原発は東電からでも電事連からでも莫大な宣伝費が出ていたからだ
だから批判できなかったのである、だからマスコミは大衆洗脳機関なのである
肝心のNHK自体がそうなのである、そこは公平に見えても公平ではない、肝心のことを報道すらしないのである

福島県の報道関係でも同じである、福島民報は聖教新聞を刷っているし政経東北も何か鋭く問題を追求しているように見えてもそうではなかった
相双リテックはたいして技術もないのに除染でもうけて幹部で何十億もの金を山分けしていた、そして銀座で金を使っていたとこれはNHKでもちょっとだけ報道したからである
なぜなら相双リテックの宣伝をしていたらである
そもそも福島民報は県で半分出資しているから実際は県の広報機関であり政府の広報機関なのである、国の意向を伝えるだけのものだったのである

 なぜカルト宗教が増えたのか、これもやはり前々から偽預言者とかいた、それが現代社会では組織化して巨大化化したのである、それは大衆社会になったとき必然的に生まれたのである
つまりナチス化したのである、現代社会ではもう何かまともに教える場所などない
学校とかはただ知識を教える場所であり本来の人間を教育する場所ではない
だからこそマスプロ大学で千人とかの入る講堂で授業することに反発して学生運動が起きたりした、そこはエリートとしての教育の場所でもない、ただここも大衆化した学生をつめこむ場所にすぎなかったのである、理系は別として文系はそうである

だからなぜ宗教がカルト化したのか?

それは大衆宗教となったからである、大衆を相手にしいるのであり本当に求道心ある人など相手にしていない、今やそういう場所がなくなったのである
現代とは大衆に席巻された時代である、宗教もそうである、大衆宗教でありそれは容易にファシズムになるのである、結局人間がまともになるにはアウトサイダーになるほかないともなる、あらゆるものが大衆化して本来の人間でありえくなったからである
もちろんそこにも大きなも問題があるにしてももうニーチェのようになるしか本来の人間になりえないともなっているのである

●偶像崇拝の拒否から起きた一神教を日本人は理解できない

宗教二世の問題は親子二代で奴隷の霊が与えられることなのである
なぜカルト宗教問題が深刻なのかと言うと霊を支配するからである
罰当たるとか地獄に落ちるとかで霊を支配して奴隷化するからである

でもよくよくそういうことを言っている人間はどんな人間なのか?

全くの俗人でありその辺にいる普通の人である、そんな人がそんうなことが言えるの
お前が真っ先に地獄に落ちる、罰当たると言える人なのである
そんなこと簡単にわかることである、でもマインドコントロールされて見えなくなっているのである

おそらく日本人は宗教の基本を知らない、それで日本は宗教に寛容である、それがカルト宗教の吹き溜まりのようになった
ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でももともとアブラハムを始祖して共通のものがある、宗教で一番大事なものは偶像崇拝の禁止なのである
なぜなら聖書は偶像崇拝との戦いでありその戦いから神を認識したのである

神は妬(ねた)む神として現れたからである

神は像ではない、像となるもの形あるものを神とすることに強烈に妬んだのである
これは本当に不可解でもあるが現実なのである、ねたむ神として現れたのである
だから一神教のすべての根幹は偶像崇拝の禁止なのである
いかにイスラム教では偶像崇拝を恐れているかわかる
人物像は像になるものは一切壁の模様としても描かかない、幾何学模様だけなのである
それだけ偶像を描くことを恐れていたのである、なぜなら神から恐ろしい罰があるとして恐れていたのである
でも日本だとこういう宗教の基本が欠けているのである、やはり仏像を日常的に拝むとかありそれも問題だった、教祖でも偶像化しやすい、一時オウムの麻原が偶像となったし
創価だと池田大作が偶像化したからである
ともかく宗教というとき本当に偶像崇拝が一番の問題なのである
ただ不思議なのは神社だとそこに偶像となるものがない、何に拝んでいるのかわからないのである、だから神道は謎である、御神体が自然だともなっているのである

●カルト宗教団体から真善美は生まれない、文化は生まれない

いづれにしろカルト宗教とか現代文明の病弊から生まれたものであり大衆社会から生まれたものであり本来の宗教とはまるで違ったものである
だからそれをなくすことや正すこともむずかしい、なぜなら大衆社会になったとき指導するものはいない、否定されたからである、マスコミがNHKが指導するものともなったからである,NHKの言うことはみな正しいともなったからである
NHKも偽善なのである、何か善人の顔しているが実際は悪人だということもある
それはカルト宗教でもそうである、天使を装うサタンなのである、要するにこの世は偽善が多すぎることなのである、偽りが多すぎるのである
そして社会は何らかみんなブラックなのである、つまり社会自体が暗黒社会なのである
罪の社会でありもうそれを正すことは不可能である、だから滅びるほかないともなる
罪の清算の時が来る、それは近いのかもしれない、もうあらゆることが限界に来ている
それで大清算のカルマの清算の時がくるともなる
カルト宗教もその一つでありそれは虚偽のものであり意味ないものであり大衆を洗脳するサタンに操られるものにすぎないのである

いづれにしろこの世は暗黒である、その闇は深く晴れることがない、ただ自然は美しいのである、そこにこの世の救いがあるとなる
カルト宗教を見分けるのはそこから何ら善きものが生まれないことであるし
肝心の真善美は生まれないのである、だからむしろ過去の宗教というとき問題があるにしろキリスト教文化が芸術が生れ仏教文化芸術が荘厳に生まれたことでもわかる
現代のカルト宗教からは一切そういうものは生まれない、ただ権力を操作したいというだけである、そこに集まる者も醜悪なものしかない、なぜなら教祖はサタンであり偶像崇拝しているような所から良きものが生まれるないからである
また大衆から良きものが生まれない、文化を作りだすこともない、大衆と民衆は違う、民衆は民謡とかでも文化を作りだしたが大衆は何も作りださない、マスコミとかに操作されるものでありパンとサーカスであり不毛なのである

ただマスコミではないインタ−ネットからは新しいものが文化的なものが生まれている
個々人が映像化したものが世界的に膨大に表現されているからである
そこに現代のグロ−バル化した文化が生れているのかともみる
でも現代から文化とかは生まれにくい、どうしても大衆社会であり大衆が求めるのはパンとサーカスだからである、そして大衆が権力化する世界である
一人が消費するより十人でも店に行き消費すれば金を使えば力となる
一人が消費しても力とはなりえない、だから店でも一人は相手にしない、問題は数だとなるのである、すべて人間は数としてか計算されない社会なのである
誰でもいい数を集めれば社会で権力化して支配できる社会でありそれが極端化するとナチスとなったのである、カルト宗教もそういうものとして生まれたのである

●カルト宗教団体が背後で国を操作することの危険

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この図のようにカルト宗教団体は国にかかわる、国を操作しようとしている
それで内村鑑三は外国の宣教師を嫌ったのである、何らか背後で国を操るということで嫌ったのである
だからこの図のように背後に国がかかわる、統一教会でもそれが明るみに出た
これほど選挙にでもかかわり日本を支配しようとしていたことに驚いた
自民党の安倍派はもともと勝共連合時代から支援したし支援を受けていた
一心同体だともなっていた、それは儀礼的な浅い関係ではなかった

また創価の後ろには中国がいる、創価もなぜあれほど中国に肩入れしているのか?
とにか中国様様なのである、宗教と共産主義が相いれないのにそうなっている
それは政治的意図があってそうしているのか、勢力を拡大するためにそうしているのか?でも中国で布教は無理だろう、どういうわけでしてしいるのか良くわからないのである
ただ創価は権力を権勢を拡大することが目的でありそのために布教もするし会員をとにかく増やそうとしている、その権勢を拡大するためには日本だって中国に売るとなる

それからエホバは別に日本の政治にかかわるようには見えない
でも後ろにアメリカがいて工作する、その団体なのかともなる
日本キリスト教会という団体もあるけどこれもアメリカから金が入ってきているのか
なぜなら信者数が創価と他でも比べると極端に少ない、でもあまり寄付金など要求しないのだろう、だから経済的にどうして成立っているのかとなる

日本基督教団は、神のみまえに、在日韓国人キリスト者たちとその同胞に対する戦前、戦後にわたる罪責を告白し、今日の在日大韓基督教会との協約締結を感謝する。
https://wvtravelclub.jp/the-united-church-of-christ-in-japan/

統一キリスト教団体だけではない、こういう主張をもっているのである
キリスト教団体は韓国に多い、また在日朝鮮人も数多くいて影響力がある
宗教団体でも内部に入り重要な地位をしめていたりマスコミでもそうである
在日の力は表に出ていないが大きい場合がある、それはなぜかというと在日は日本人なのである、見分けもつかないし日本語を普通に使うし優秀な人も多いのである

だから不思議なのは在日でアメリカ国籍を持っている人が下関とかにいた
この人はなんなのだろうと理解できなかった、れっきとしたアメリカ国籍だからアメリカ人であり岩国にアメリカの基地があるから出入りして兵士と話したりしているのである
留学もしているから英語を話せるからである
こういう人は他にもいる、だから一体何人なのかわかりにくくなるのである
宗教団体でも様々な人が入る、国籍は問わないからである、その中にスパイも入っているかもしれないということである
だから何かこの辺で在日の小説家が住むようになったのはなぜだろうと疑問になる
在日の人が何か運動するためのなのかとも見る
すでに市役所ではアメリカから賞をもらったとか横断幕がかかげられているのである
それは背後在日の勢力がありそうなったのかともみる

●不純な動機で数だけを集めるカルト団体

いづれにしろこうしてカルト教団には様々な勢力が入ってきて工作することがある
別に信仰とも関係ない、そもそもカルト教団は信仰など目的にしていない
勢力拡大してその国を操作するとかそういうものに利用されるだけだとなる
だからどんな人が入るにしろいいのである、数が増えれば勢力拡大になるからである
そうしているのは背後にそうさせている国があってそうなっているのかともみる
アメリカと中国がそうである、統一教会の不思議はアメリカとも深くかかわっていたのである、だから公明党でも統一教会の集会に出ていたのである

そもそも宗教団体自体が何か純粋な信仰を求める場所でなはい、不純な場所なのである
信仰は別に教会に入らなくても唯一の神を知ることができる
私は一回も教会に行ったこともないし全く別な創価とかのカルトで運動していたからである、だから本当に奇妙だともなる、ただ私に言えることは私は政治運動に興味もなかった私が求めていたのは死の解決だった、それで宗教を求めていたのである
結局宗教でもその人自身が動機が純粋であれば汚れることはない、創価にいい女がいると金持ちになれるとか金銭的にも援助してくれるとかなんとか得することばかり考えて入る人が多い、つまりそういう不純な動機の人達が膨大なのである
そんなこと考慮しないのである、創価だったら一票になればいいだけである

そうした余りにも不純な場所がカルト教団なのである、それは天使を装うサタンに操作される場所である、その背後に教団を利用して別な政治目的があり利用されるとなる
自民党なら利用してまた利用されるものだとなる
それが一つの権力集団だからそうなる、その権力に目をつけるからである
一票でも得られればいいとなる、それが権力をつくるからである
要するにこうしてみんな権力を求めているのがこの世なのである
権力となるのが金であったり軍事力だったり現代なら一票となる数なのである

宗教が権力化すると本来の宗教でなくなる、神が見るのは心だとするとき個々人の心を見ているからである、数とか権力化したもの建築でもこの世の威勢を誇るものでもない
個々人の心を見ている、心の清い人は神を見るだろうというときそうである
でも宗教とは必ず政治にもかかわりこの世とかかわりこの世的なものに変化する
そしてこの世の人間の欲望のためにも利用される政治にも利用される
そして日本人は宗教の基本を知らない、偶像崇拝がどれほど危険なものか知らないのである
そしてそもそも本当に神を求めるなら牧師とか教祖とかそうした仲介者を通さないことである、その人達でもいかがわしいのが多いからである

その人たちあたかも神の取次人のようになり権威を持ち権力を持つからである
誰も仲介がなくても神を知ることは個々人でできる
そこに仲介者を立てないことなのである
その仲介者は天使を装ったサタンになるからだ、そして偶像化されるのである
だから禅宗だと何か偶像崇拝を拒否する,師まで殺せというときそうである
それは師でも弱者はどうしても偶像化するからそうなったのである
そういう宗教の基本が日本人は教えられていないからカルト宗教の吹き溜まりのようになったのである、ただ外国でもカルトはあるから一概には言えない
でも日本はカルトとかに抵抗なく洗脳されやすい民族だともなる

2022年07月29日

島国日本と大陸文明 (日本人は大陸を理解できないー遊牧民を理解できないのが致命的)


島国日本と大陸文明

(日本人は大陸を理解できないー遊牧民を理解できないのが致命的)

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イスラエルを世界の中心に神が定めた

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人間のアイディンティティが作られる要素は風土と地理である
これは今でもそうである、また空間軸と時間軸でも作られる
基本としてはこの二つの要素が人間を文明を作る
日本の特殊性は回りを海に囲まれた島国でありしかし中国大陸と海を隔てていても結びついていた、その仲介役が朝鮮半島になっていたのである
仏教でも朝鮮半島から入ってきたし文化でも技術でもそうである
ただ謎なのはなぜ日本語が孤立語なのかということである
どこの言語とも共通性がないのである、ということはすでに独特の文化として日本が形成されていてそれで外国との言語との共通性がない、それはもしかしたら縄文時代から日本語が形成されていて独自のものとしてあったともなる
その後に漢字が入ってきてハイブリッド化したのが日本語だとなる

言語でも大陸だと特にヨ−ロッパとかなると言語が国々が交わり民族が交わり長い時間をかけて構築された、だからギリシャ語由来とかもありフランス語とかドイツ語とか英語でもさらにロシア語でも共通性があり英語の習得が楽である
ウクライナ人でも英語をしゃべる人が多いなと見た、英語ができるとグロ−バル化しやすい、日本がIT分野で遅れたのは英語ができないのも大きな要因だった
なぜならITはプログラムは英語でしているからである
それでインド人は英語ができるから有利だったとなる、またもともとインド人は数学で
ゼロを発明したように数学に優れていたのである

ともかく日本人のアイディンティティは島国でありさらに村単位の閉鎖された小地域で作られてきた、そのメンタリティもそうである、大陸的なものと相当に違っている
ても日本でも大陸的なものは文化でも古代から入ってきていた
なぜ妙見信仰があるのか?これは広範囲にある、妙見信仰は北極星と北斗七星の信仰である、これは相馬藩の紋でもあり片倉氏の白石城でも妙見信仰の紋になる
これは日本に広範囲に広がった、北斗七星は北極星は方向を示す星であり遊牧民から伝わったものである、なぜなら砂漠であれ平原であれ遊牧民は羊を追って移動する
馬をたずさえて移動する、移動する民だからどうしても方向が大事になる
方向を間違うと死にいたるからである、それで砂漠を旅した日本人の一団が水のある方向へリーダーが導いて助かったとかある、そこで方向を間違うと死にいたる世界である
だからこそ北極星は不動であり信仰にまでなったのである
日本でも星という姓があるからそれも北極星信仰と関係しているのかとなる

日本人は島国に閉ざされて長い間暮らしているからどうしても大陸のこと砂漠とか平原のことが理解できないのである、第一そういう場がないのだから理解できない
でも人類の始まりはメソポタミアとか今のイラクとかイラン辺りから始まった
ただ文明という時、農業を基盤にしないと文明にはならない、だからナイル川の恵みがあるエジプト文明は麦の生産をしていたビールまで作っていた大農業国である
農業文明は定着文明であり定着しないと文明は生まれない、だから四大文明は農業が基本にある、建築というときやはりピラミッドがあるときそれは大地に定着する農業的なものとしてある、でも一方で四大文明は大河があり交通があり商業も発達した
文明と商業は深い関係がある、商業は移動して商品を運ぶというとき大河が必要になるからだ、移動するのがそもそも遊牧民であり自ずと商人にもなる
だから商業の起源が古いのである、農業が古いとみているが商業の起源も古い
なぜなら聖書でなぜ神との契約ということになったのか、それは商業が盛んであり契約ということが必ずありその言葉が生まれたのである
日本ではそもそも小さな村に契約という言葉が入ってきたとき理解できなかったのである日本の村はよそ者を嫌うし商人でも村に入れないし商売も自由にできなかった
神社が無縁の場所として提供されてそこが市場となり売り買いされた
それは限られたものであり特別許可されたものであった、なかなか閉鎖された村に商人は入れなかったのである

文明とは確かに農業を基本にして生まれた、でも次に商業が早い時期に発達した
それは遊牧民地帯で発達した、なぜなら遊牧民は移動する民であり自ずと商品でも運ぶ商人になったからである、だから早い時期から商業があった
また商業に必要なのは文字である、文字は重要であり文字がない文明は成り立たないともなる、それでマヤやインカの文明はジャングルに埋もれた謎の文明となった
エジプト文明はヒエログリフがあり神聖文字がありその歴史を知られるようになったのである
またアルファベットはフェニキア人が発明したという時やはり地中海を航海する商業の民だから文字が必要でありそれで契約するとか発達した
大陸だと文字が大事であり文を重んじるのはこうして商業が発達して契約するということで文字が大事なのである、だから大陸文化は文字を重要になる
外国人が文章の方が書かれた文字を信じ?というとき商業が早い時期に発達した結果として契約する文字の重要性を肌で知ったからである、外国人を信用にするというときやはり契約は文で文字でするから大切になる、それは信頼の基だからである
日本人はもともと契約という観念がないのは商業が発達しなかったからである
でも漁業が盛んだから船で海岸を行く漁師が最初の商人になったということは同じだったつまり漁師は船で移動するから自ずとそうなったのである

商業というとき中国人は巨大な農業国家に見えて商業国家でもあった
中国人は商売上手だというときそうである、中国人は農民であっても根っからの商人だというとき中国人は最初の国家が始皇帝が長安(西安)から始まったように遊牧民と砂漠の民とか平原の民と一体だったからである
中国は農業国家というだけではない、きわめて商業的要素がありそれが日本と違っていたのである
日本でも商業民というとき関西人はそうである、近江商人とかいて商売上手なのである
だから関西人と東北人とかのメンタリティは相当に違う、東北人は根っからの農民であるが関西人は根っからの商人なのである

この遊牧民地帯は広大でありそこが文明の揺籃地帯だった、それがイスラエルまでつづいていたのである、イスラエルというとき離れているから砂漠と関係ないと見ている
でも砂漠の延長としてイスラエルがあった、半分は砂漠でありイスラエルにユダヤ人が入り入植して豊かな土地にしたのである、もともと半分は砂漠でありラクダとも泊まる隊商宿がある、広大な砂漠地帯がありそこにエホバが現れた、一神教が生まれたのである
つまり自ずと遊牧民は移動する民だから商人となりその遊牧民がフェニキア人となり貿易の民となり地中海を船で移動したとなる
移動するには道が必要になる、でも大陸だと道は長大な川になりまた砂漠でも平原でも馬で移動できる、モンゴルが馬を操作するのに長けていたから大陸を制覇して拡大したとなる、移動するにはラクダとか馬が欠かせなかったからだ、そして移動するには海だと船になったのである

この移動する遊牧民はやがて船を操作して大航航海時代を築いたのである
ヨ−ロッパも遊牧民が入ってきている、東ヨ−ロッパは遊牧民が侵入してきた末裔である小さな国が多いがそれらは遊牧民の末裔である
第一トルコ自体が突厥とか中国の周辺の遊牧民が移動してきて作られたからである
イスラム系は砂漠の民であり遊牧民だからである、だからこの遊牧民を理解しないと世界は理解できない、でも日本では砂漠とか平原とか大河とかがないので遊牧民とか移動する商業の民を理解しにくいのである
大陸のメンタリティは共通性がある、ユダヤ教からキリスト教からイスラム教と一神教として共通している、イスラム教はもともとアブラハムを祖としているからだ
アブラハムもイスラエルに移動してきた遊牧民なのである

古代のギリシア神話には、主神ゼウスが白い雄牛に変化して攫ったフェニキアの王女エウローペー(希: ΕPρホπη)が登場する。ゼウスは彼女をクレタ島へ連れ出し、そこでミーノースら3人の子どもを得た[31]。このエウローペーがヨーロッパの語源という説がある[32]。

ヨ−ロッパがフェニキアの王女と関係しているということは移動する商業の民のフェニキア人がヨ−ロッパを発見したとなる

世界を理解するときどうしても遊牧民を理解ずる必要がある、でも島国の日本人には理解できない、魏志倭人伝に日本に馬、牛、羊なしと記されいることでもわかる
日本の特徴はまさにここにあったからだ、馬も牛も羊もいないということに日本の特徴を見た、それは大陸と根本的に違うものだったからである
たでから日本とは異質の日本文明がありそれは大陸の文明とは相当に違ったものだったのである、だから日本のアイディンティティとかメンタリティは世界基準と違っている
熾烈な民族抗争も経験していない、身内の争そいだけであり敵味方塚として敵すら丁重に葬るとなる、そこで中国人はそんなことあるのかありえないとして驚く
なぜなら中国人は敵を殲滅して墓からも死体を取り出して罰を与えるとしているからだ
それで民族抗争が激烈でありジェノサイドが起るのが普通なのである、民族は殲滅されるのである、だから東ヨ−ロッパはそうした遊牧民が国家の起源であり抗争するとなる

2022年07月28日

お医者さんのyoutube-医者の本音 (投資信託をすすめる老人にすすめる銀行員)

お医者さんのyoutube-医者の本音

(投資信託をすすめる老人にすすめる銀行員)


在宅看取りをしたくない医師の本当の理由とは0認知症専門医・長谷川嘉哉

高齢者に投資信託を売る銀行員は天国に行けない0認知症専門医・長谷川嘉哉

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お医者さんがいるとして知っていることは患者から見たお医者さんである
では医者から見た患者はどうなっているのかはわからない
それでここで医者が一番重んじていることは晩酌でありこれを邪魔されたくないということだという だから在宅看取りはしたくないという、急に呼び出されるのは嫌だという、真夜中にもなるからである

そんなに晩酌が大事なのか?

救急医療もあるがそれで邪魔されたくないという、考えて見れば毎日患者を診ているから別に患者を大事に見ているわけでもない、親しい人でもない、医者から見ればその他大勢にすぎないのである
それで病院で議員が番号で呼ばれたことに怒った
それは病院でも常に不特定多数の大勢の人を診ているからそうなる
別に家族でもないし赤の他人でありそこに愛情が通うということもない
だからこそそういう不特定多数の人の救急医療でも晩酌を邪魔されることは嫌だとなる
それは医者側から見ればそうなる、あなたは特別の人ではない大勢の中の一人にすぎないのである

でも特別扱いにしてもらいたいとかなる、何であなたが特別なのかとなる
それより晩酌を邪魔されるとしたら患者が憎いともなる
その本人にとっては緊急でも必ずしも医者はそうではない、毎日患者を診ているしその数も多いからである
医者から見れば患者より大事なのは医者の晩酌だとなる
それもわかりやすいとなる、まず他人のために親身になる人はいないのである
我が身が先なのである、自分を犠牲にしてまで働きたくないのである
患者はそういう医者の心を知るべきであるとなる、それが別に冷たいということでもない医者は聖人でもなんでもない普通の人だからである、ただ医療の技術があるということで違っているだけだとなる
でも医者だけはお医者様とかなり特別尊敬されていることは確かなのである

ともかく人間は相手のことを何でも理解できない、職業のことが理解できない
なぜなら医者になって患者を診ることなど体験できないからである
そこに必ず誤解が生まれるし高望みしたり要求も高くなる
でも医者にとって一番大事なことは晩酌でありそれを邪魔されてまで患者を診ていられないということである、それで今なら医は算術にもなるのである

そしてここのyoutubeで高齢者をだます銀行の投資信託をすすめる銀行のことを批判している、あなたたちは天国に行くことはできないですよと批判している
投資信託は銀行がもうかる仕組みでありそれもわかりにくいし顧客のことなど考えていない、手数料商売であり銀行側は絶対に損しないものである
そんなものを高齢者に売りつけて罰が当たりますよと言っている
それは経験しているからわかる、本当に手数料商売であり顧客のことを考えない
そしてこのお医者さんはその金はどういう金かしれと言っている
それは汗水たらして貯めたお金なのである、だからそういうお金を自分たちの利益のためだけに奪うことは大きな罪だとまで言っている、天国に行けないと言っている
そこまで言うというのは驚きでもある

ただ私自身の金が確かにそれなりに大きな金であっても遺産で入ったものだから自分自身汗水たらして働いたものではない、だから自分の金にはつくづく重みがないのである
だからこういう金は消失しやすいと思った、苦労して得た金ではないからである
他の人は家を建てたとき相当に苦労しているからである
私自身も大きな家に住んでいるとしてもそれも親から譲られたものであり私自身は苦労して建てたものではないのである、そこは違っているのである

そういう人から金を奪ってもいいとさえるな、それで大金を盗まれたということもある
なんでお前は苦労もせずに金が入るのくだと羨まれるのも当然だとなるからだ
こういうことは私だけではない上級国民とかにはある、それでその金を奪いとかまでなるそこに罪悪感すらなくなる、確かに資本主義社会だととんでもない格差が世界で生まれている、その格差があると汗水たらして働いても金にならない人は恨みとなる
そうした恨みが世界で蓄積されるとその念がやがてそうした大金持ちに向かい恐ろしいことが起きることにもなる、その念が恨みがいつか確実にその大金持ちに向かうからであるそして革命とかなり殺されるともなる

ともかく人間は家族でないかぎり他人となりその他大勢に過ぎない、だからその対応は親身にはならない、それが世の中だとなる、資本主義だと弱肉強食の競争社会だとなる
それはいつの世でも同じだった、そもそもこの世の中みんなブラック会社でもある
それは他者はあくまでも自分の利益を得るためにあるのであり他者のために犠牲的に尽くす人などいないからである、そのためにこの世に生きることは地獄になるのである
それは自分自身でもそうなる、そしてまたこの世では偽善が多いのである
カルト宗教なども全く偽善にすぎない、宗教なのだから他者を愛すとか慈悲とかあるのかとなると全くない、ただかえって宗教が祈るのはエゴであり自分の欲望を満たすために
毎日祈っているのである、他者よりエゴの欲を満足するために御利益のために祈っているそれが集団的組織的になったのがカルト宗教団体なのである

党派であるときそれは自分自身のエゴの延長として党派があり党派団体組織に属さないものは人ともみない、それで何かあると組織団体意外の人は罰当たるとか地獄に落ちるとか平気で言うのである、それはただ自分たちの利権とか利益を阻害するものとなるから言うだけである、そういう本人たちがエゴであり地獄に行く人達なのである

この世とは本当にブラックであり罪の社会であり職業でも一部を除いて業{カルマ}を持っている、それが人間である、職業がブラックなのが多いのである
社会自体がブラックだからこそ出世とは世から出家することであったのつまりこの社会にあればもともとブラックなのだから罪を犯す、罪に染まるからこそそうなったのである
いい職業としては大工とか建築関係は別にそこで働いている人はブラックにはならない
ただその上で指導する人は社長とかでも仕事をもらうために賄賂がやったりもらったりする、でもその下で働く人は別にそれで罪になるとはならないのである

ともかくここのyoutubeで医者自体が投資信託をすすめる銀行員は天国に行けませんよというのはなるほどと見た、でも別にみんながそうではない、つまり苦労もしないで金が入るような人からは奪ってもいいとすらなる
それで自分自身は奪われたのである、ただ銀行員がそういう商売になったというのは意外だった、もともと金貸し屋でありそういう業(カルマ)をもっていてそれが不景気でそうなってしまったのである、だから確かに今銀行員はいいものではなく、農業を自らたずさわるとかしたのもわかる、何かそうなると後ろめたいものとなりそれが心に影響してくるでもこの世の中ブラックなのだからそこで良心を保つことはむずかしいとなる

そこに職業の大きな問題がある、まず文系の職業は何かブラックなものにかかわりやすいのである、証券会社にしてもそうであり物造りとは違うからそうなる
それで理系の人は物造りに携わる人がいい顔になるというのはわかる
文系にはいい仕事がないのである、それでたそもそも文系の大学はいらないとまでなる
私自身も体力があったら大工の修行でもしていた方がましだったとなるからだ
何か職業につくものが身につかないのである、それが大きな問題だったのである




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写真の変形ー忍耐の岩


写真の変形ー忍耐の岩

Transforming Photographs - Rocks of Patience

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大きな岩は忍耐する
岩は踏ん張り動かない
雨の日も風の日も
どうどうと流れる音がひびく
山中に岩は動かず
そこに標と留まる


Big rocks persevere
Rocks stand firm and do not move
In rain or wind
the sound of flowing water echoes through the air
In the mountains the rock does not move
It stays there with its mark




写真の変形ー忍耐の岩

これは写真を変形したものである、写真を変形すると別なものに見えるしかえって見映えがすることがある、これも不思議だとなる、写真の価値は変形したら加工したらなくなるともなるからだ、でも加工するということが芸術になる

石とか岩でも山でも人間化するからだ、人間の精神がそこに入り一体化するのである
山は高いから崇高だというときそれは人間にも言える
石や岩は忍耐のシンボルなのである、それで石や岩が私は好きなのである

ただ問題なのは写真の加工は著作権違反になる可能性がある、でもこれもやはり創作なのかとも見る

Transforming Photographs - Rocks of Patience

This is a photo that has been transformed. When a photo is transformed, it looks different and sometimes it looks better.

Stones, rocks, and mountains are humanized because the human spirit enters into them and becomes one with them.
When a mountain is sublime because it is high, it is also a human being.
Stones and rocks are symbols of perseverance, and that is why I like them.

The only problem is that photo manipulation may be a violation of copyright, but I also see this as a form of creativity.

2022年07月27日

相馬野馬追いは維持できるのか? (歴史の保存の祭りであり新しいものが入れない問題)


相馬野馬追いは維持できるのか?

(歴史の保存の祭りであり新しいものが入れない問題)

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3年ぶり通常開催 相馬野馬追 14歳と49歳それぞれの「初陣」
https://www.youtube.com/watch?v=C-NePWYrryo&ab_channel=TUFchannel

伝統文化の継承・発展も、この『変化を受け入れる』ことがキーポイントだと思います。その文化が持っている価値を継承しながらも、それを提供する技術や表現方法などの手段は時代に合わせて変化させることが必要と感じます


野馬追いも伝統文化の一つなのか、歴史の再現であり歴史の保存でありそこに意義がある文化というのとも違っている、ただ確かに侍の時代の再現ではあるが文化とも違っている伝統文化というとき俳句とか短歌は今にもつづいている伝統文化である
これがなぜつづいているのか?俳句だと四季があり季語が必ず入っていないと成り立たない、季語の文化である、それは日本の四季があり風土があって生まれたものである
その風土が変わらないから俳句がありつづけた、でもその表現には限界を感じる
短すぎるからである、短いことがいいにしても限界を感じる
それで一応短歌は長いので生き残るのかとも実作者としてはみる
ただ写真と俳句が合体した写俳の分野が生まれたのは現代的である、現代はデジタルカメラやスマホで写真が日常的なものとしてみんな使用しているからである
そして俳句は正岡子規の写生俳句が主流であり私自身もそれを基にして創作している
写生とは写実であり見たままをありのままを俳句にする、だから写真と相性がいいのである

伝統的文化でもそこに必ず新しいものを注入しないと衰退して維持できなるなる
歌舞伎とかあってもそれは一般の人は関心がない、でもドラマはみんな関心があり今ではテレビドラマを見る、推理ドラマが面白いのである、このドラマはyoutubeなどでは作れないからテレビでもこの部分は生きつづけると思う、また時代劇も面白いが今はいい時代劇が作れていない、それで過去の時代劇をBSで見ている
こういうふう何事時代によって変化する、でも時代によってでも変化しないのもあるし
変化しないことで重要なことを伝えることもある
それで相馬野馬追いで宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島区)が合流する儀式がありそれは
古式にのっとたものでありそれをわざわざ見に来た人がいたのである
その人は地元の人より野馬追いに興味があり詳しいとなる、かえって外部の人が関心をもつことがある

ただyoutubeでも野馬追いに外部から新規参入する人のことを放送していたがそれがいかにむずかしいかを言っていた、もともと新規参入は野馬追いではできない
代々甲冑でも旗でも家伝として残されたものであり勝手に使用できないのである
何かそこは非常に厳しいのである、それは歴史をそこなうからそうなる
だから相馬野馬追いは何か新しいものを注入しにくいのである
歌舞伎でも代々世襲であり外部からは入ることができないのともにている
そこにかえって限界があるともなる、新しいことができないからである
相馬野馬追は見る人と見られる人に完全に分かれている、地元の人でも参加できないのである、今回のyoutubeの放送は特別許可されたもので参加したのである

でも原発事故で小高郷が避難区域が離散した、すると野馬追いに出る人も避難した人がいる、浪江でも野馬追いに参加していたが避難した人がいる
その一つが小高から鹿島区(北郷)に移住した人がいる、その旗が「御家」だったのである、もともと小高郷の人だったが北郷のものになった
そもそも北郷とは小高に相馬氏の城が最初に築かれてそこから見て北だから北郷に成ったのである、小高がもともと相馬藩の中心だったのである、その後に原町の牛越城とかに移り相馬市に移ったのである
だからこうしてそもそも歴史の保存がむずかしいかわかる、時代が変わり不測のことが起きて歴史が維持できなくなる、また新しいものを注入しないと維持できなくなる
地元でも何か毎年同じであり不満も多いからである
それはみんなか参加できないものだからである
青森のネブタ祭は誰でも衣装を借りてハネトになることができる、参加型の祭りだからである、そこでは民衆の熱気があり祭りが盛りあがるとなる

野馬追いの見方の一つとして視点として侍に注目しているが実は馬が注目される祭りなのである、馬はもう見かけない、馬を見るのはテレビで見る競馬くらいなのである
馬は日常から消えたのである、でも戦前までは馬は農耕馬としてあり活きていた
それで農耕馬が野馬追いに出ていた、それは競馬の馬ではないから細身でなくとても早く走れる馬ではなかった、今は10万で競馬の馬を借りて野馬追いに出ている
確かに早く走る馬を見ると迫力がある、でも馬と人間が一体だった生活は喪失した
それで馬にまつわることは伝説化してしまった
馬を身近にみることができないのである、接することもできない
でもこの辺では野馬追いがあるために馬を飼っている、だから馬に親しむとういことはある、少女が馬の顔をなでるとかしていた、そうして馬と親しむと情緒が養われる
ペットのようにもなる、そうして曲がり家で馬と一緒に暮らしていて馬と結婚した伝説が生まれた、それだけ馬と人間は一体だったのである
その馬にしても大平洋戦争では軍馬を使っていて馬を飼っていた
太平洋戦争だと馬に乗って兵隊が南京とかに入場する写真が残されている
馬がその時は軍馬として活きていたのである
だから軍馬を祀った寺もあった、また馬頭観世音が本当に多い、これも馬で物を運んでいたからである
それでいたるところに馬もご苦労様でしたと供養したのである
それだけ馬とのかかわりが日常的にあったからそうなった

つまり野馬追いというとき侍に注目するが実は馬も生き返る祭りなのである
だから馬がいななく声をこのとき聞ける、馬が主役にもなる、それで雲雀が原でも馬があれだけ結集すると壮観になる、戦国時代を彷彿とする絵巻物となる
必ず落馬する人もいる、馬が必ず勝手に走り回る、落馬は必ず交通事故のようにあったからだ、野馬追いの維持とは馬が生き還ることであり馬の祭りでもある
そこに注目すると必ずしも人間側の侍にだけ注目するのではなく馬に注目する
馬を活かすことになる、ただ今馬が活きているのは競馬だけなのである
これはギャンブルでもあり日常的には馬は活きていないのである
だから何らか馬が活き還ることも考慮すれば祭りとして維持できるかもしれない
それををとするのかとなると小高とかでも荒地化した所に馬を飼うとかする
そこで馬が駆けているのを見ると気持ちいいとなる

何か馬と言う時、私は電動自転車に乗っている、これはいいものであり悪路でも行く
馬力がある、だからある程度馬にも似ていると思った
神旗争奪戦で旗をとり本陣めがけて一気に馬で登る、あそこは迫力がある
あのような坂道を馬が良く登れるなと見る、馬はそういう能力がある
マウテンバイクとも似ていると見たのである
ともかく野馬追いは果たしていくら歴史の保存でも維持できるのか?
千年つづいたとしても維持できのか?やはり侍だけの祭りではない、民衆が参加しないと維持できないのではないか?
新しいものを注入しないと維持できないのではないか?
それは地元の人達も思っていることである、でもそれがむずかしいことはyoutubeの放送でもわかる

例えば旗でも新しい旗を作ってもいい、会社の旗でも何か新しい旗でも作る
古式にのっとるものと歴史を保存するものと併用する、そして馬が活き還る祭りとして
伝える、だから確かにモンゴルとかアメリカでも牛を追う馬に乗ったカーボイいてそれらと共有するものがある、外国にしろ馬とかかわりが深い、でも馬というのは世界的にも
活きる場がなくなったのである、移動するもにも車であり馬は必要なくなったのである
だからこそ馬を活かす場が必要でありそれが野馬追いだともなる
そういう視点からも野馬追いは見るべきだとなる、そこに野馬追いを維持するコンセンサスがあるともなるからだ

今回の野馬追いは350騎は少なかった、普通は450から500出ていた、100少ないと何かものたりなくなる、迫力がなくなる
野馬追いを維持できるには約500騎が必要だとなる、神旗争奪戦でも少ないから迫力がなくなる
でも数を維持することもむずかしい、小高区が原発事故で離散したのでその影響もあった
浪江でもそうである、原発事故は何か家の歴史とか相馬藩の歴史も断つような大きな影響があったのである
その象徴が小高区の「御家」の旗だったのである、それはもともと小高に住んでいて歴史を継承できるものだったからである
こうして歴史を保存することはいろいろ変化するからむずかしいものになる

旗とりて一気に上る本陣へ馬とともにし誉れなるかな

人馬一体であり馬も誉れを受けたのである、それが野馬追いなのである、神馬も出るから馬祭りでもある

posted by 老鶯 at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2022年07月26日

相馬藩内の姓 (日本人の姓は村の地名に由来している)

相馬藩内の姓
(日本人の姓は村の地名に由来している)

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●日本人の姓は地名に村の名に由来している

日本人の姓はほとんど地名に由来している、村の名前に由来している
日本人の姓をたどると必ず地名に行きあたる
只野の姓が鹿島区とかに50軒もある
その由来は明確である、南北朝の争いで南朝の城となった霊山が炎上して逃れてきた
落武者がその基となっている
その只野一族はもともと郡山市の多田野村に由来していたのである
だから姓を辿れば必ず村の名とか地名に行きあたるのである
姓はまたかばね{屍}であり死体のことでもあった、つまり先祖と深く結びついてるのが姓なのである

相馬藩の起りも相馬氏に由来している、その相馬氏は相馬という地名がありそこを根拠としていた、千葉県でありその辺でまだ開墾されない広い荒野がありそこに野馬がいてその野馬を捕まえて馴らして軍馬にしたのが相馬野馬追の始まりである
日本人のアイディンティティが村にあるというときそうである
相馬氏でもここに移住してきたとき今の相馬氏は中村に土着したから中村と姓が変わったのである、だからもともと相馬という姓が中村に変わった
そういうことが多いからその出自がわかりにくくなる
不思議に郡山市の多田野村の近くに小林村がある、すると小林とは多田野村の近くから出てきたのかとなる
ただ私の家は父親が葛尾村から出たことはわかっている
でもなぜ小林になっているのかわからないのである

地方を開拓するために展開した藤原氏、源氏、平氏等に出自をもつ武士が誕生していました。この頃の武士では武蔵七党が有名です。その武士たちも公家と同じく姓を同じくするものが多かったため、区別がつきづらくなっていました。そこで、武士たちは自分たちの領地・名田(みょうでん)を守り、かつ明確にするため、自分の支配する土地の地名を名字として名乗ったのです。

苗字帯刀(みょうじたいとう)」であり、苗字が身分の象徴になったため、武士等の特権階級や一部の庶民(庄屋・名主)を除いて苗字を公の場で名乗ることができなくなってしまいました

商人や農民の中でも、元々武士の家が帰農した場合には苗字があり、上層の農民も苗字を持ち、商人も名字に「屋」をつけて屋号にしたりしていました。あくまで苗字を公に名乗ることが許されなかったのであり、苗字を持つことが許されなかったわけではありません
https://ka-ju.co.jp/column/myoji#anc-7

●姓にまつわる物語

明治になって名字が名乗れるようになったことは重要な歴史である、江戸時代でも庶民の墓はない
墓にしても個人の墓であり殿様の墓にしても一人の人間の墓となる
家族墓は明治以降に法律化されてできたもので新しいのである
天皇を親として家族でまとめて赤子とする明治の政策でそうなったのである
それで誰でも名字を名乗ることができるようになった、しかしその由来はわからない
庶民の姓は・・・屋が代わりになっている、屋号である、今でも自分の家で店をしていたから屋号で呼ばれるのである、それは近くの古い農家でも屋号で呼ばれているのである
江戸時代で農民で個人の墓はないが幕末頃になると個人名の墓が作られた
百姓の名前が記されているからだ、それで得意なことがあった
その頃経済力がついて百姓でも墓を作ったとなる

相馬藩だと侍の名字は相馬野馬追の時に目立つ、旗印の下に名字と名前が記されるからである、名字というときこの辺では鎌倉から移住した岩松氏が有名である
岩松氏は領地を広げて飯館村まで領地として支配したのである
その岩松氏の支配になったことでその名残りに地名が残っている、千倉とか街内の御前の内とかがそうだろう、それは鎌倉時代のものだから古いのである
そしてその家来の日里、中里、島、蒔田に惨殺されたのである、幼児まで殺されたのでひどいとして伝説としてより明確な事実として語り継がれたのである
後に日里は郡に変えたのである、祟りを恐れたからである、この姓は相馬藩内で残っていて結構子孫は反映して残っているのである、別に祟りがあって後がつづかないということでもなかった、姓は歴史を語る、名前はその個人を語る、でも名前だと連続した歴史がわかりにくいのである、でも胤と必ず相馬藩主の殿様についている、それは連綿としてつづいている、そう相馬野馬追がつづいているので殿様がまだここでは活きているのである

ただそれを言うと現実にその子孫が生きているので語りにくいことが500年過ぎてもある、地元では悪いことは語りにくいのである
それで郷土史は悪人がいないからきれいごとになっているから面白くないと指摘していた人がいたのである
岩松という姓は一族が断たれたので相馬藩内にはない、これが如実に歴史を語っているのてある
もう一つ相馬藩内で姓で大事なのは越中などから富山県などから飢饉で三分の一の人口が減った時移住してきた人達である、その姓はわかるからその末裔だとわかる
墓だと南無阿弥陀仏としか記されているのでもわかる

岩松氏の伝説
http://www.musubu.jp/kashimamanonado.htm

●「御家」の旗は小高から鹿島(北郷)に人が移住しため

ともかく野馬追いで鹿島区(北郷)から出た「御家」の旗に違和感をもったのは
もともと小高の侍の出であり北郷ではないからだとなる
どうして違和感があったのかというと江戸時代の封建時代は土地と人間が一体化していた封土とは土地を納めてそこから年貢をとる仕組みのことである
だから土地と一体化して人々は侍に支配されていたとなる
農民社会だと土地が一番大事だからである、だからこそその土地の名前が村になり姓名となる、その土地から離れて人はありえなかったのである
それで「御家」の旗印が鹿島区(北郷)に移った時、小高という歴史的土地から離れたことで違和感をもったのである、もともと小高にあってこそ歴史的存在として価値をもっていたからである、ただ相馬藩内であれば依然として歴史は共有されて活きている

でも原発事故で小高ら避難した人達は相馬藩内に移住したとは限らない
相馬藩外に出るといくら侍の出であり甲冑とか旗印が伝えられても価値がないとなる
そこに原発事故がいかに歴史を断つような過酷なものとなったかを知るのである
他でもこの土地に生きた歴史を消失しているだろう、家も一つの歴史を語るからである
でもその土地から離れた時価値がなくなる
日本人は土地の一体感が強いからそうなる、土地とアイディンティティ化しているからそうなる、それが文化でも作ってきたからである
先祖を大事にするというときその土地の先祖なのである、他の村とかの先祖ではないのである

●外国人の姓

でも大陸の遊牧民とかなると土地とは余り関係ない、一定の土地に定着しないからであるそれで姓はあくまでも血縁であり氏である、土地に由来しないのである
ロシアでウラジミールプーチンとか言うけどウラジミールという姓の人が多くいて一族だということがわかる、つまり名前は多様でも姓は限られているとなる
それは韓国でも中国でも例えば李という姓があるとすると大勢の李氏がいる
韓国では李朝鮮ともなっていて李一族が国家にもなっていたのである
中国でもいろいろ姓があっても限られている、中国は農耕民だとしても日本とは違いやはり大陸文化を受け継いでいるから姓は村の地名にはならないのである

Влади мир 「世界を征服せよ!」ですかね。
ウラジスラヴァという名前もあり、そちらは「名誉を征せよ!」ですね。
都市のウラジオストクは「東方を征服せよ!」という意味です。

やはり大陸的だとなる、常に大陸では征服せよになるからだ、まさにプーチンがそうである、征服せよとしてウクライナに侵攻したからである
大陸だと姓を見れば一族となりつながりがあるとなる、
そして外国人と結婚すると夫婦別姓になることが認められている、姓はそのままなのである、つまり姓とは歴史であり系統をたどるものなのである、名前にはそういうことがないのである、外国人の姓になったら日本とは別な姓に属することになりその国の歴史として組み込まれることにもなるからである
だから在日朝鮮人だと李とか多いがこれは韓国が一時李朝鮮となっていたことでもわかるし中国でもいろいろな国が群居していてその国の名が姓になっていることでもわかる

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相馬氏成田の武内(竹内)は墓も夫婦別姓である
武内と岸と記されている
江戸時代まで夫婦別姓だった、農民には姓がなかった
ここで嫁いできても実家の姓を残したのはやはり侍の出だったからだろう
姓はその家が有力な家だったら嫁ぎ先でもその姓が伝えられた

●片倉村の由来

片倉村は片倉辺の神が長野県の方で有名である、するとその神を奉じた人たちが相馬氏が来る前に土着していたのか、片倉という地名と大田という地名も相馬氏が来る前にあったとなる、他にも片倉という地名はありやはり神の名として残したのかもしれない
必ず人が移動するとともに神も移動するからである

南相馬市片倉村の由来
http://musubu.sblo.jp/article/48048119.html


片倉財閥の片倉家と北海道開拓を担った伊達藩白石城主の片倉氏の関係をネットで調べると《絹の道を往く 八王子編 Vol.6》に、両者の先祖は「諏訪湖で繋がっていた」と記述されていました。
http://hibinokizuki0126.livedoor.blog/archives/6340337.html

やはり2つの片倉は同一の先祖だったのです。実際に、現在の住所の伊那市高遠町藤沢に「片倉」という集落が存在していたといいます。諏訪大社上社本宮の裏手の神体山である守屋山の麓です。

また、伊達藩白石城主の片倉氏の家祖として「片倉辺命(かたくらべのみこと)」がウィキペディアに記されていました。「諏訪氏系図.続編」においては片倉氏の祖神といいます



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2022年07月24日

相馬野馬追い (雲雀が原へ結集ー神旗争奪戦ー御家の旗印が北郷から出たことについて)


相馬野馬追い

(雲雀が原へ結集ー神旗争奪戦ー御家の旗印が北郷から出たことについて)

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御家は小高郷の出の旗印である、でも北郷から出ている
それは小高から鹿島区(北郷)に移住したためなのである

五輪の塔が先祖だから似合っている

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原町区北高平に立った旗印

高平は越中からの移民が入った地域として知られる
でも野馬追いの旗が立っていることは相馬氏に連なる古い家である
相馬野馬追いとか相馬の歴史を知る時、野馬追いに出る家を知ることが大事なにる
でもそれが広いしわからないのである
野馬追いに500頭で出たとしても所帯数にする何万もありわずかしか野馬追いには出ないのである
それがあんなに数が多いからと錯覚するのである
実際は野馬追いに出る家は全体から見ればわずかなのである


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揚羽蝶の紋は平家になる
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甲冑競馬
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片倉村から太田神社に向かう途中に鷲宮神社がある


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殿様の帰るのを迎える侍たち




旗印陽射しの強く映えにけり

旗印風の文字なれ風なびく

御行列続く長さや暑しかな

伝来の旗印も古る歴史かな

雲雀が原馬いななきて蘇る

蝉鳴いて甲冑競馬や一周す

馬走り馬も喜ぶ三年ぶり

旗印家の誉れを担うなれ

野馬追いや落馬二人に終わりけり

御家また帰り馬かな北郷へ


勇み入る雲雀が原へ従えぬ相馬の殿や誇らしきかな

旗とりて一気に上る本陣へ馬とともにし誉れなるかな


今回の相馬野馬追いは三年ぶりだったのか、集まった馬は350頭である
普通は最高で500頭でありそれに近い数字を出していた
だからずいぶん少ないと見た、それでも結構長く感じられた
野馬追いは出るにも金がかかる、まず野馬追いに出る馬を一年中飼っている人がいる
するとそれは結構な出費になる、ただ馬が牧に飼われているのはこの辺の風景としてはいい、第一今は馬に接するというとき競馬くらいしかないのである
牧場で少女が馬の顔をなでるとかするのを見た、それは子供の時から馬になじんでいるのである、そういうふうに育てば馬を怖く感じないとなる
それで馬が農耕馬として飼っていたとき馬と結婚した女性の伝説がある
馬は曲がり屋で馬と一緒に寝起きしていればそういう伝説が生まれるのも当然だとなる
ともかく馬と人間が一緒にいる風景がなくなったのである
馬の代わりになったのが車だとなる

相馬野馬追いはそもそも祭りとしても参加型ではない、歴史の保存として維持しているのである、勝手に旗を作り庶民が出ることはできない、伝来の兜と旗印があり出れるのである、それで奇妙だったのは「御家」というのは実は小高郷に住んでいた人の旗印なのである、なぜ御家となるのか?それは小高に最初に相馬氏が城を作ったからである
小高が相馬氏の始まりである、相馬太田神社が起点となり小高に城が作られた
相馬太田神社が相馬藩の中心の神社ともなったのは相馬氏は片倉村の山の方から入ってきた、そこに八重米坂とか初発神社がある、山を越えて下り相馬大田に至った その途中に鷲宮神社がある
そこに相馬太田神社があり小高の方に進出して最初の城を小高に築いたのである
それから城は海の方の村上に一時作りそこは縁起が悪いとして原町の牛越城に移った
そこに五年間あった、それから相馬市に移ったのである
だから外から見ると誤解する、今城がある相馬市が城下町で一番古いと見るからである


だから奇妙なのは「御家」の旗印なのである、それは鹿島区に北郷に移りあたかも北郷の一員であったとように見える、現実原町の雲雀が原への行列でも北郷に入っているのである、このようにこれは歴史を誤って見ることになる
なぜなら相馬野馬追いは歴史と伝統の保存でありここでそれが原発事故で小高区が避難区域になって鹿島区(北郷)に移り住んだ結果なのである
ここに違和感を感じたのは相馬野馬追いは歴史に忠実であり歴史の保存を目的としているからおかしいと見たのである、勝手に誰でも参加できない、伝来の旗とか兜とかを伝えられている侍の出しか出れないからである
また鹿島区の北郷では本陣がもうけられて相馬市の宇多郷と合体して雲雀が原に向かう、その古式がここで行われる
それを見たくて来た人がいたのである、その人は相当に野馬追いに詳しいとなる、なぜなら地元の人でも知らないからである

御家で構成される、「旗本組」という部隊が行列して参加しなかった武士たちの待つ原町宿へ向かう
元禄12年の野馬追いの旗本組の備の構成人数だけで1000人を越えていた

特に忠胤は野馬追いの行事を大きく変化させた、鉄砲の奥義や武田流の軍学を積極的に取り入れ、備立や駆け引きをはじめている
約8000人の武士が参加する大規模な駆け引きが行われた

相馬野馬追の歴史から見る行事内容の確立と存続のためになされた様態変化

御家の意味はこういうことだった、旗本というとやはりエリート集団だった、だから誇りがあった
それにしても8000人が参加したというのは驚きである、それだけの侍がいたということになる
ただその当時は郷士であり侍であっても農業していた農家の人が侍になっていたのである
だから侍専門の人は少ない、旗本は侍専門の人達である

一般的には歴史にそれほど興味がなければ野馬追いはつまらないという人もいる、私は青森のネブタ祭りを見に行ったがハネトには誰でもなれる、祭りで地元の人達と一緒に踊ることができる
ネブタ祭りはそれで盛り上がるとなる、でも相馬野馬追いにはそういうことはないのである、だから相馬野馬追いは出る人と見る人に分かれている、参加形の祭りではないのである

そしてそもそも相馬野馬追いは旗祭りというときなぜこれほどの旗印があり多様なのか?
これが解明されていない、どういう由来なのかわからないのである
ただ芸術的デザインとして見るだけではない、それがどうしてその家の旗印になったのかわからないのである、例えば揚羽蝶の旗印があったとする、するとこれは蝶の紋は平家なのである、すると平家に連なる一族として相馬氏に仕えていてそうなったのかとなる
でもこの旗印は余りにも多様でありその出自とかが誰も解明していない
それを研究している人も見つからないのである、それは余りにも多様だからそうなる
その由来をたどることができなくなっているのた
その由来をたどると関西方面になるからである、千葉県に相馬氏の基があっても相馬氏でもいろいろな人が入って来たからである、武田信玄の六文銭の旗印があればそれは武田氏の末裔なのかとみる、武田信玄は織田信長に敗れて伊達藩にも入った有名なのは伊達政宗の重臣だった

大坂城が落ちるまでそこにいれば、豊臣方として男子は処刑され、女子も命が助かったとしても出家する他道はなかったでしょう。
それをなんとか助けてもらう方法はないかと、思い倦ねた幸村は、死の前日、伊達政宗の参謀の片倉小十郎景綱の嫡男、片倉小十郎重綱という人物に目をつけます。

自分の娘「阿梅おうめ」を、この片倉小十郎重綱に嫁がせよう。
義に厚い伊達政宗ならそのほかの子供達も守ってくれるかもしれない。

幸村は大坂城にいる子供達に手紙を渡し、伊達家の庇護のもとに命永らえて欲しいと願ったのです。幸村の願い通り、伊達家は子供達を徳川から守ってくれました。

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こういう話があり不思議なのはなぜ片倉村がありそこから太田神社につながっているかである、そして白石の片倉氏の紋は相馬氏と同じ九曜の紋なのである
他にも片倉という地名はある、この片倉の由来がわからないのである
伊達藩でも相馬藩でも争ったとしても戦国時代が終われば平和的に交わっていた
当然相互に交流もあり歴史が作られてきたのである

このように六文銭の旗印があれば真田幸村までたどることができる、でもこれだけ多い旗印の由来をたどることは不可能になっているのだ
そもそもなぜ片倉村になったのかわからないのである、片倉という地名は他にいろいろありわからなくなったのである
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何か旗でも古びたのがあった、いかにも古いから歴史を感じるともなる
ただ他は旗印はそのままでも新しく作り直している、今回の風という文字の旗印があり
デザイン的に見れば面白いと見た、なぜこんな旗印にしたのかその由来もわからない
また鯰の旗印もあった、それも不思議になる

ともかく「御家」の旗印はもともと小高郷から出たものであり小高の城が相馬氏が最初に築いた城でありだから歴史的に見ればふさわしいとなる
御家とはヨ−ロッパだとハウスブルグ家なのである、ハウスは家でありブルグは城だからである、一つの家が拡大したのがあれだけ大きな国になったのである
こうして相馬野馬追いはどうしても歴史を知る必要かある、そして相馬野馬追い祭りは
歴史の再現なのである、相馬藩が一つになる祭りなのである
祭りとは祀るとは死者を祀ることであり先祖を祀り先祖を偲びその時代を偲ぶのが祭りだとなる、時間がすぎるともう30年前でも時代がわからなくなる

本当に学生時代とか50年も過ぎるとその時の東京はどうだったのかとかわからなくなるましてや400年前とかなるとその時代を具体的にわからなくなりただ想像の世界ともなってしまうのである、でも相馬野馬追いは具体的に歴史が再現されることに意義がある
だから全員参加型の祭りとは違っているのである
日本の歴史を知る時やはり祭りは具体的に時代を再現するから知ることが欠かせない
それでフランスの人が日本の祭りを見て旅していたのである、それだけ日本には祭りが多いからそうなった、また神社が多いのはその土地の先祖とのつながりが残されているということなのである

ただ正直相馬野馬追いの旗印を知るのは容易ではない、参考になる本もないし研究している人もいないようだ、それだけわかりにくいからそうなった
今回は「御家」という旗印から歴史をたどったのである

とにかく今回は行列でもすいていた、だから写真とるには良かった、混み過ぎて前はうまくとれなかったからだ、野馬追いとは写真とるにはいいのである
その写真をとるにしても一年に一回しかチャンスがないから意外と毎年違った写真がとれるのである
それで写真が趣味の人はいい、実際に70万とかの望遠レンズを持った人が写真をとっていた,プロというものでもない、写真は写真機よりレンズの作用が大きいのである
だからレンズの方が写真機より高くなるのである、そしてレンズの種類がまた多いのである、その人の持っているカメラは10何年か前のであってもレンズがこれだけ高くていいものだから違っているのである、でもその値段には驚いた、金持ちは都会になるといるということである
posted by 老鶯 at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2022年07月23日

二年ぶりの野馬追いを見るー北郷(鹿島区) (馬が蘇り活きるのが野馬追い)


二年ぶりの野馬追いを見るー北郷(鹿島区)

(馬が蘇り活きるのが野馬追い)


北郷本陣へ向かう

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これは只野家なのである、只野家は鹿島区に50軒くらいある
南北朝で南朝の城が炎上したときここに落ち延びた末裔なのである
郡山の多田野村が只野家の発祥の地なのである

旗の下に桔梗が咲いている

旗印只野一族桔梗咲く

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木槿が咲いているが似合っている
鹿島区は大きな街ではないからだ、回りが田圃なのである

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紫の母衣(こも)は副大将である

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大将の母衣が見える

この季節のうぜんが野馬追いに合う



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御家という旗は小高から移って来た侍の家なのである
原発事故で鹿島区に移り住んだ、でももともとは小高の人なのである
こういう変化もあったとなる、歴史的には北郷(鹿島区)の人ではないのである

とにかく野馬追いの時はのうぜんかずらの花が咲く、それが季節的に合っている




南相馬市原町区雲雀が原

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殿様のいる雲雀が原に神輿をみんなで持ち上げ登るとき一体感を感じるだろう
ただ今は会社員に頼んでしているのである
昔は侍がみんなでかついだ、神社の人達をもかついだ、そこに一体感を感じたのである

クリック拡大で鮮明に大きく見える




いななきあい鼻息荒く本陣へ

旗印木槿に映えて御行列

野馬追いやのうぜん熱く咲きて散る

杉の紋誇らしく立つ只野家に

旗印只野一族桔梗咲く

大将を迎えどよめく人と馬


野馬追いは二年ぶりだろう、人は集まらない、ウィルスがまた蔓延しているからだろう
人混みをさける、野馬追い行列見る人も少ない、
近くの只野家には杉の旗印の旗が立っていた、鹿島区だととにかく只野の姓が50軒くらいある、その歴史は南北朝にさかのぼるのである、南朝の霊山の城が炎上したとき落ち延びたのである、只野とか桑折の姓はその落ち延びた先祖なのである

野馬追いというとき千葉県に牧が多くあり野馬がいてそれが畑などに入ってきたりして
困るから野馬土手を作った、侵入できないようにした
野馬は誰かが飼っていたものが逃げたりしてそのまま原に野生化した
その頃まだ田畑でも開墾されない土地が多く原が多かったからである

昔の絵図を見ると広大な原が広がっている、そこは田畑に利用されていない、だから野馬になっても生きていける広大な土地があった、その後そういう原は田畑化していった
原町もそうである、もともと原っぱなのである、原町村があり一騎だげ野馬追にでていたその後雲雀が原が明治になり開墾に入る人がいた、外部からも来た、今の雲雀が原よりもっと広い土地があったからだ

野馬追いは宇多郷の侍が北郷で合流して原町の雲雀が原に結集する
小高郷からも集まる、飯館村が山中郷であり江戸時代から出ていたが今は出ない
ともかく馬というのがわからなくなった、馬を見ているのは競馬だけである
馬が日常的に生きていないときわからなくなった
馬とかは農耕馬もあり人間とともに生きてていた、馬と人間が一体となった曲がり屋もあった、馬は身近な動物だったのである、今は牛の方が身近な動物となっている
飯館村は牛の村で有名だったからである

北郷の本陣に馬が集まりいななきあうとき活気を帯びる、この時馬が活きるのである
人馬一体になる、今日は暑かった、これで危険なのは熱中症である
陽射しが強かったからである、写真をとるのも結構暑いと苦しくなる
野馬追いで不思議なのはいつも写真を撮ろうとするのだが必ず見逃してしまう
それは年に一回しかないから、撮り逃がしてしまうのである
だから野馬追いは写真撮ろうとすると飽きないとなる
その年年で違ったものになるからである
明日は雲雀が原に行き写真を撮るとなるのが結構暑いと熱中症が怖い
ただ人が少ないから写真をとるにはいいとなる、人が混んでいて写真をとる場が見つけられないかである

ただ8時ころから行かないと間に合わない、10時ころ行列が開始されるからである
野馬追いは田畑の中でも旗をなびかせて来る時などが絵になる、それを撮るのはむずかしいのである、毎年雲雀が原には写真を撮り来る人がいる、でも雲雀が原の中まで入るのは予約して許可がないと入れない、それは早い時期から予約して決めていないとできないのである、やはり写真を撮るというのは結構どこでもむずかしいし手間になるのである


posted by 老鶯 at 17:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2022年07月22日

いつの時代も言論の自由はなかった (人間の権力を求める、宗教も権力を得るために利用される)


いつの時代も言論の自由はなかった

(人間の権力を求める、宗教も権力を得るために利用される)

●言論の自由は歴史上なかった

そもそも人間はあらゆる自由が可能なのか、これが政教分離でも問題になる
結社の自由とか信教の自由があるからだ、人間は自由を求めて来たことは確かである
信教の自由と言ってもそれは歴史的に見ればなかった、必ず弾圧されてきた
それはキリスト教でも仏教でもそうだし思想としてもそうである、共産主義でも弾圧されてきた、人間に信教でも思想の自由がなかった
常にそれを許さないものが社会にあり権力でも弾圧してきた、キリスト教でもカトリックが今度は権力をもったから弾圧してきた
そして人権を重んじるフランス革命が生まれた、つまりこれは宗教からの解放として生まれたのである、それはなぜかとなればカトリックは宗教でも社会で権力をもっていたからである、その自由を求めてルターの宗教改革がありプロテスタントが生まれた
何か自由というとき権力側から弾圧されて血を流し犠牲になった人達が大勢いた
戦前なら天皇が神となりそれに逆らうものは弾圧された、殺された人達もいる
創価の創始者の牧口常三郎などがそうである

また言論の自由というけどこれもなかった、権力者に歯向かう批判の言論は許されなかった、中国では

焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)

『史記』秦始皇本紀によると、始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越(中国語版)は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。丞相の李斯は、儒者たちがいにしえによって体制を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて、医薬卜筮・農事以外の書物の所有を禁じた「挟書律」を制定した。

これで学者が生き埋めにされたとかあった、つまり皇帝の絶大な権力に反抗する者は苛烈なものとなった、そこには批判する自由も思想の自由もなかった
だから権力者を批判することは死ぬ覚悟でしないとできなかったのである
言論の自由など江戸時代にもなかった、幕府の批判は許されなかった、「見ざる、言わざる、聞かざる」になっていた
戦時中は政府の批判は許されなかった、戦争に対して何か批判的なことを言ったら特高が着て刑務所に送られた、つまり言論の自由は戦前まではなかったし今でもない
一見あるようでもない、私自身でも個人は発言してはいけないと町の図書館に本を置けなかった、公務員はそういう力を持っているからだ
つまりいつの世でも言論の自由はなかったのである、民主主義になっても言論の自由はない、なぜなら発言するにしても批判するにしてもできない、本を出すにしても普通はできない、だから原発でも危険を知っていた人があっても発言できなかった
またマスコミでも自由な発言はさせないし批判はない、原発でも原子力村が強固に作られていて批判は許されなかった

●権力をどうして監視できるのか

統一教会がなぜマスコミで一時あれほど批判して放送したのに

なぜその後全く報道されなかったのか?

これも不思議だった、統一教会のことなど忘れていたしそんな影響力があったとは思えなかった、でも自民党に働きかけて影響力をもっていた

そして公安委員長も統一教会に忖度していた!

これは大きなことである、権力というとき一番の権力は警察とかまた戦争になれば自衛隊とか軍隊になるからだ、戦時中軍人が一番威張っていたというときそうなる
人間の権力の最たるものが暴力であるからそうなる

統一教会が報道されなかったのは報道させないように権力が働きかけた

こういうことは常にある、権力あるものと権力がないものがありマスコミは報道する権力をもっているが報道しないのはさらにその上の権力あるものがあり報道させないからだとなる、原発でもその危険は報道させなかったとなるからだ

人間の社会の問題はこの権力にある、権力あるものが必ず自らの権力を維持するために守るために批判させないのである
権力というとき統一教会はそれなりに資金を集め奴隷となる信者を集め権力を持つことになる、民主主義では確かに自由があるが票を集めに苦労する、するとまとまって票がある組織団体とつながる、そこに癒着が生まれる

宗教団体でもそこにはまとまった票が得られるからつながる、創価はまとまった票が必ず計算して得られるから票田になり自民党と一体化する、その見返りとして大臣の椅子を与え権力の特権を与えるのである
創価の活動はまた権力を得ることにある、その権力を得る為に無血革命とか言ってその活動は選挙活動なのである、目的は権力を得ることである
そして今度は巨大な権力化すると反対する人を弾圧するのである
創価を批判する者は許さないとなる、そのために福島民報でも毎日新聞でも聖教新聞を刷らせて資金援助するのである、そうすれば批判できないからである

●権力がなぜ生れるのか?

そこから危険な状態になる、原発の危険は知らされず地元の人たちは故郷にも住めなくなったとか戦争で何百万人死んだとかなる、つまり権力とは実効力あるものでありただ何かを言うだけのことではない、批判を封じることもできるし何かを強制的に実行できる力なのである
だからこの世とは必ず権力との戦いになる、権力を持つものとの戦いなのである
その戦いはこの世の終わりまで終わらない、それは人間が権力を求めることにこそある
この権力とは何なのか?それは人間の尽きない止められる欲望だということである
権力をもてば得をする、金も入ると女性への欲望がかなえられるとか何かこの世の欲望が得られ立場になる、中国の共産党なら幹部になれば莫大な富が得られるとかなる
またアメリカにしても今度は一見平等を言うにしても民主主義にしても世界の富をわずかな人たちが独占する、株などでもそのシステムはわからない、巨大すぎて理解することは不可能なのである、その富は後進国などの貧者の汗の労働から得たものにもなる

だからこそ人は権力を得れる者になりたい!

それは宗教でも共産主義でも同じなのである、権力者がいるから権力者に代わり自分たちも欲望をかなえたい立場になりたいというだけである
統一教会を見ればわかる、信者を奴隷にして豪華な建物を建て幹部は贅沢しているのである、結局この世の中人間を養分にするものと養分にされるものとに分かれるのである
結局この世の中はブラック会社なのである、養分にする者が政治家であれ官僚であれ他にもいろいろある、パチンコする人はそれて儲ける人の養分だということもそうである
カルト教団だと信者は奴隷であり幹部の養分だとなる
要するに養分にされるものか養分にする方になるかがこの世である
政治家は国民を養分にする方であり自分のことしか考えない、選挙のときだけ愛想良くするが後は知らないと自ら議員が言っているからである
このようにこの世のからくりを知るべきだとなる

宗教でも山の中でわずかの食糧で節制して修行しているような人ならいい、カルト教団はとにかく権力を追求しているのである、政治化するのも数を集めるのも権力を求めているからそうなる、宗教はそもそもの始まりは権力の否定からはじまったのである
よくよく聖書を読めば権力を否定していることがわかる、権力を求めないことこそが宗教である、神の国とは権力なき世界である、唯一の神によって治められる世界である
全権が神にあり神が治める世界である、そこで人間は権力者の養分ではない
一人一人が自律的に神の子であり神の国に生きるのである

●権力を監視する三権分立

だからこの世でまともな人は必ず時の権力者と衝突する、これはさけられない
その権力者とは誰かとなるととにかく何らかで権力を持っている人である
官僚でも大きな力を持っている、警察は暴力装置だから権力を持っている
宗教団体でも数が多ければ票になるから権力を持っている、権力によって社会を人間を社会を動かすのである、宗教もその方便として使う、その目的は権力を得ることである
そのために人間は偽善的になる、宗教でも結局人間の欲を達成させる為のものとして利用される、美辞麗句を並べてもその中身は汚いものなのである
オリッピックでも美辞麗句を並べても実際はその実行者は金を得る為だったのである
人間はそもそもそういうものなのである、ジキルとハイドなのである
自分の欲望が第一でありそれをかなえるためにいろいろある、宗教もその一つになっているにすぎないのである

民主主義が三権分立になったのは「権力」を一番問題にしていたからである

「三権分立」とは、国家権力を「立法権」、「行政権」、「司法権」の3つに分けて、立法権は国会、行政権は内閣、司法権は裁判所という形でそれぞれ独立した機関が相互に抑制し、均衡を保つことで国家権力の濫用を防止し、国民の権利と自由を保障する仕組みのことです

司法とは権力の監視機関である、立法権は国会で審議して法律を決める、でも政教分離の法律を決めるとなると簡単にはできない、自民党でも他の党でも宗教団体の支持を受けているからそれができないのである
そもそも司法権でも絶対ではない、統一教会に公安委員長がかかわり忖度していたとかなるからだ、つまり宗教団体でもすでに大きな権力でありその権力に影響される
だから巨大化したカルト宗教団体でも取り締まることはできないのである
そして権力は危険なのは権力が巨大化するとそれに逆らうことができなくなり暴走する
それがナチスだったのである、もう誰も止めることはできない、それは独裁国家で起きて来る、独裁国家は独裁者に権力が集中する、そして誰も逆らえなくなる
それがロシアのプーチンであれ中国だったら習近平にもなる

そうした権力の暴走をどうして制御するのか?

それが民主主義社会でも自由社会でも課題になる、なぜならナチスは民主主義で選挙で当選して大きな力を持ち暴走したからである
つまり権力とは暴れ牛のようになる、その時誰もその牛を制御できなくなる創価などは今下降気味だけど会員がうなぎのぼりに増えてナチスのようにもなる勢いだったのである、民主主義は自由だとしても全体主義になりやすいのである
大衆が主役でありそれはただ数によってすべてが決まるからである、数が権力になるからだ、だからその数を集めるためにカルト教団は毎日活動している
布教するというのもただ数を集めて奴隷にするためである

●カルト教団員には獣の印が押されているーサタンの偶像崇拝である

カルト教団は精神的な奴隷にすることだからである、教祖が神となり絶対服従になるからである、それは偶像だとなる、それらは獣の印を押された人達だとなる
ある時は卍が印しとなりZが印しともなる、牛とか羊でも焼き印を押されたようなものである、その印しのある者はまるでサタンに属したともされる
この世は二つの人間に分かれている、この世のサタンの印を押されたものと神から選ばれた者の印を押されたものである、神の国の約束を得たものである
結局カルト教団の教祖は実際は天使を神を装ったサタンだとなる
結局宗教もサタンに乗っ取られるのだこの世だとなる
なぜ乗っ取られるかとなれば人間は限りなく欲望を持っているしその欲を絶つことは不可能である、だからこそその欲によって人は動く、サタンはその欲をかなえてやるとして
崇拝するのである,サタンは人間が作り出す、人間の欲望が作りだしたものである
もし欲がなければ子供のようにサタンはかかわれないからである

実際は統一教会の教祖の文鮮明でもまたオウムの麻原でも創価の池田大作でもサタンだったとなる、サタンを偶像を崇拝するのがこの世の人間である
本当の神は崇拝しない、だから神の一人子は十字架にかけられた、この世で崇拝されるのは善を装うサタンだとなる、そのサタンの権力が絶大なので多くの人達が従うのである
そして世を支配するのであ、その人たちは獣の印が押された人達のである
つまりサタンのものになった人達だとなる、何か無神論者の方が独立的であり優秀な人が多いこともいえる、カルト教団は大衆が相手でありただ数として数えられる人達であり
そこで一人一人など見ていないのである、数を集め権力として見ているだけである

そして人間は遂に権力と権力が対抗してハルマゲドンになり滅亡する
アメリカが中国がロシアが巨大な権力でありその権力同士が衝突して世界は核戦争とかで滅亡する、どうしても権力を求めるのだからそれをやめることができないのだから結果的にそうなる、もし人間が権力を求めなければそうはならないのである
でも権力と欲は一体なのだから権力なき世界など生れないのである
だからこの世は一時滅びなければならない、そして神の手により再び神の国が創造されるそれを望む他ないのである、いくら理想を求めても無駄だとなる



2022年07月21日

合歓の花、揚羽、立葵(なべかんむり山)


合歓の花、揚羽、立葵(なべかんむり山)

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なべかんむり山

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これはベトナムで買った、刺繍である、合歓の花なのである





合歓の花今日も舞い来る黒揚羽

川下やなべかんむり山に合歓の花


立葵に黄色の百合そえて咲き黄揚羽とまり朝日さし映ゆ

黄揚羽の立葵にとまり朝日さししばし目をとめ去りにけるかな

フエ宮に合歓の花散りもの寂びぬたずねてあわれベトナムの都


真野川の舗装されたサイクリングロードに合歓の花が咲いている
そこに黒揚羽来る、何羽か来る、それで写真をとろうとした
でもかなり散っていた、何かこの合歓の花と黒揚羽は合っている
毎日黒揚羽来ている

合歓の花というときベトナムのフエ宮殿に合歓の花の並木道があった
でもその合歓の花は散っていた、だから何かものさびしいものだった
宮殿跡にしてはものさびしい、やはり一時栄えた都でも宮殿でもそれが終わると
ものさびしいものとなる、栄華があったとしてもその跡は余計に寂しいものとなる
ただここの歴史はわかない、外国のことはわかりにくい
ただ宮殿にしても中国の模倣である、ベトナム的なものは感じられない
中国をミニチュアにした感じである、それに比べるとアンコールワットはそのスケールが違う、だからなぜあんな壮麗なものがあるのか謎だとなる
その壁画には中国人の兵士も彫らていた、そこは中国にも及ぶ一大仏都だったとなる
また漢字も使っていたから中国の影響があった

なべかんむり山は常にここから見える、合歓の花が盛りと咲いている
ただ阿武隈山脈は高い山がないからものたりないのである
でも蔵王が見えるから蔵王は山形県でも一体感を感じるとなる
山はやはり会津とかなると山国であり山を常に感じるとなる
風景では山がないとひきしまらない、高い山を毎日仰いでいたら心も高まるとなる
それがこの辺の景観でものたりないことなのである

写真は結構むずかしい、蝶は絶えず動いてるのでむずかしい、でもインタ−ネットで検索すると合歓の花と揚羽の写真がうまくとっているなと感心する
写真は豊富である、だから比べてみると良くとれているなと感心する

それから街の方を回る、畑の道に立葵が咲きそこに黄色の揚羽が止まっていた
これは近くできれいに写真がとれた、黄菖蒲と見ていたのは黄色の百合だった
この写真はうまくとれた、今は写真と俳句とか一体化して写俳とかの分野ができた
これだけ映像の世界になるとそうなる
そうして写生俳句は写真と相性がいいのである、見たままを俳句にするからである

ともかく暑い、朝に陽射しをうけたらぐったりした、昼間は蒸し暑い、体がばてる
でも野馬追いが23日だとするとすぐである、二年くらい祭りがなかった
23日頃は晴れとなる、そうなると見映えがするとなる

2022年07月20日

なぜ韓国でキリスト教徒が増えたのか (日本の支配の反発から民族キリスト教となっていた)


なぜ韓国でキリスト教徒が増えたのか

(日本の支配の反発から民族キリスト教となっていた)

●韓国の民族主義は日本支配の反発から起きた

こんな状況もあり、神社参拝を拒否したキリスト教徒、宣教師は弾圧され始めます。
これにより、朝鮮半島のキリスト教は「民族キリスト教」へと変化していきました。
つまり、この頃からキリスト教が民族主義と結びつくようになっていきます。
1919年3月1日に起こった独立運動(三・一運動)も宗教指導者による影響力によるものでした。

日韓併合下では外国との接触を持つキリスト教徒が抗日運動を担うようになった。特に、1919年に発生した三・一独立運動ではキリスト教徒が主要な役割を果たした。

朝鮮戦争により、国土が荒廃した韓国に進出して難民や被災者に積極的に食料援助を行いながら布教活動を行ったのが設立間もないペンテコステ系の教会でした。
そのため、教会に行けば、食べ物がもらえたため、ペンテコステ派が急速に勢力を伸ばします。


 「教会というのは本当に驚くべきところでした。小学校から受けてきた日本式教育によって死んだ民族意識が甦るところが教会でした。早天祈祷会の時には必ず独立のために祈祷し,聖書解釈をする時にも,祖国の独立を念願し,民族意識を目覚めさせる側からしていました。例えば使徒言行録に “主よ,イスラエルのために国を建て直してくださるのは,この時ですか”(使1:6)という題目がでると “主よ,朝鮮が建て直されるのは,この時ですか” というように解釈をするんです

 韓国における初期キリスト教受容の要因[上]
常石希望

 

 韓国にキリスト教が多いのはなぜか、それもプロテスタントである、カトリックが教会が勝手に作れないがプロテスタントは作れる、カトリックは世界的組織化してバチカンが総元締めになっている、つまり統制されているがプロテスタントはそれがない、誰か一人でも勝手に布教して教会でも作ることができる
 おそらく教会という一つの枠を作るものでもないとなる、だから無教会でもありうる
内村鑑三の無教会派として韓国人にも広がったのはそのためである

ではなぜ韓国にキリスト教徒が増えたのか、その理由の一つとして大きな理由として
日本に神社を神道を強制されたことの反発があり民族独立の願望が強かったことである
その民族独立復興とキリスト教がうまく一致したのである
何か宗教と民族意識(ナショナリズム)は合致しやすいのである
日本だと日蓮が民族主義と結びつく、だから太平洋戦争でも日蓮は持ち上げられたのである、逆に韓国は朝鮮半島は日本に侵略されたとしてその独立の強い意志で国民が一体となった、それがキリスト教と結びついたのである
愛国心と宗教が一体になりやすいのである、ただキリストはイスラエルの民族主義を否定したためユダヤ人の民族主義者の反発されて殺されたともしている
キリストはイスラエルという国に限定されるものではなく人類救済のために神が遣わしたものであり旧約の時代とは違ったものとして現れたのである
だからこそ一国家民族のものではない世界へ普及したのである

ただ宗教はナショナリズムと結びつきやすいのである、右翼的になりやすいのである
そういう心情は世界共通だから韓国でもキリスト教が民族主義的キリスト教になったのも理解できる、それで統一教会の理論も理解できる、韓国がアダムであり日本がエバだとういうのもキリスト教から生じた思想である
日本が戦争で朝鮮半島を侵略したということで贖罪として日本人は献金しなければならないという論理もそうである
つまり最初にキリスト教があるのではなくナショナリズムが民族主義がありそれにキリスト教が入り一体化したのである
ただナショナリズムと宗教は結びつきやすいのである、たいがい宗教だと共産主義を否定するのは右よりになるのはそのためである
内村鑑三でも日本を愛すこととキリストを愛すこと二つのJを主張したからである
宗教はやはりその国の歴史と伝統を重んじる、その上にキリスト教でもありえる
共産主義になるとマルキシズムはそうしたその国々の歴史と伝統を否定する、だから中国の文化革命のように歴史的なもの伝統的なものを破壊したのである
宗教とマルキシズムは対立するのである

●統一教会も韓国の民族主義として生まれた

なぜ韓国にキリスト教が普及したのか、その答えは一つではないにしろ韓国の置かれた立場が特殊であり韓国には中国人も多く住んでいて独立国ともなっていなかった
それで韓国人の独立を民族主義がキリスト教と結びついた、特に儒教で民族を国を治めていたがそれもなくなったとき余計にキリスト教に頼るようになった
それは戦後天皇を神として戦争した日本でもアメリカに負けると精神的支柱がなくなり
様々な新興宗教が勃興したのとにないる、その最たるものが創価だったのである
創価でも日蓮宗なのだから当然ナショナリズムと一体化するのである
ただなぜあれほど中国と一体化するのかその理由が良くわからない、中国で布教できるとは思えないからである、仏教系の・・団体が弾圧されているからだ

ともかく宗教が民族主義と結びつく、それがもともとの宗教ではない、宗教は国とかと関係なく個々人に神が現れ宿るものである、国に限定されないのである
ただその国の歴史と伝統を無視してはありえないのである、だからこそ内村鑑三が武士道キリスト教になり幕屋の手島郁郎が神道キリスト教にもなったし仏教とも一体化もするのであるそして日本は世界のあらゆる文化でも宗教でも入れる受け皿になったのである
だから神仏習合にもなった、でも仏教にしても日本に入ると先祖崇拝にもなった
ホトケとは先祖らしいからである、本来の仏教ではないのである

いづれにしろ統一教会の危険は韓国という国家がかかわり日本をキリスト教を使い支配しようとしたことである、その過程で日本人から金を巻き上げるものとしてカルト化したのである、こうして背後に国家がかかわると危険になる、そのために外国の宣教師でも内村鑑三は嫌い拒否したのである、つまり日本化した独自のキリスト教を主張したのである
信教の自由はそうした背後に国家がかかわり国家の意図がありかかわるとき危険になる
だからこういう点でも国家の独立を維持するには制限が必要になる
何らか日本の独立がいろいろ侵略されている、中国人が土地を買収しているのもそうであるそれはあからさまに目に見えるものとしてわかる、でも宗教とかなると目に見えてわからないことがありそこに宗教がかかわり庶民にも入ってくる

そうして精神的にも支配して国家自体がのっとられるともなる
また国家でも政治でも創価などによってのっとられる、現実に創価は統一教会のように
あらゆる権力のある場所に入り工作していたからである
それと同じことを統一教会がしていたのである、だからこれは警察でも公安でも政府でもとりしまべきだったとなる、でも議員でも票をとるために安易にかかわっていたのである参政党まで統一教会がかかわっていたことに驚くのである
統一教会のことなど忘れていたが実際は目に見えない形で日本の権力中枢に入りこんでいたのである

●普遍的思想、マルクス主義でも宗教でも民族主義は否定できなかった

民族主義はナショナリズムは否定できない、マルキシズムも普遍思想であり民族を越えたものとして世界を席巻した、でもその肝心のロシアがソビエト連邦が崩壊して結局ロシア民族主義になりウクライナと民族抗争していることでもわかる
またアメリカの民主主義も普遍思想であり民族を越えたものとして世界化した
でも民族そのものは否定できない、血は地でありその土地と結びついて民族がある
一方でイスラム圏となると砂漠であり遊牧民であり土地と結びつかなくても民族主義がある、従妹同士の結婚の風習があるというとき血の純潔を保つためだともなる

ともかくこの民族抗争は古代からあった、聖書で様々な民族がいて争っていた
そして最古の民族がユダヤ人なのである、でも今ではユダヤ人とはユダヤ教の集まりだとしている、なぜロシアにユダヤ人が多いのか、そしてウクライナでも多くゼレンスキー大統領がユダヤ人なのである、ユダヤ人でも別に一つではなく別れて分派しているのである宗教は普遍的なものであり民族を越えたものである、だからこそイスラム教がイスラム世界を作った、キリスト教がキリストがヨ−ロッパ中心にキリスト教圏を作った
でもロシアでも結局ソビエト連邦が崩壊して民族国家が残った、ロシア民族がロシアにもどったのである、そしてウクライナ人とロシア人が戦争している
それは民族抗争の継続なのである

ただアメリカとなると民族混交しているからそれを統一して融和するために民主主義が生まれた、この民主主義はやはり主義であり制度でもない、思想なのである、アメリカにはいろいろな人種の混交した多民族国家でありそれを一つにまとめるには民族主義ではできない、民主主義とはそれをまとめる普遍の思想でありマルキシズムとも同じである
民主主義はそういうものに思えない、でもやはり民主主義は多様な民族でも平等だという意識をもたせる主義だとういことである、法の下に平等だとかなる
人種で差別していたらまとまらないからである、そもそもアメリカは200年くらいで作られた国家でありそこに他の国のように長い歴史と伝統もない国である
そこでどうしてアイディンティティを作れるのかとなるとむずかしいのである
だから普遍的な思想が必要になる、でも宗教にしても多様だからそれでもまとまらない
一応キリスト教でまとまるとしてもイスラム教徒でもいるし多様になる
建国の精神としてはキリスト教である、清教徒でありピューリタンになる

そもそも民族主義という時何かとなるとそれは血縁だけではない、
血縁、精神、文化、伝統、言語、慣習、領土の一体化」としている
ここで大事なのは精神、文化である、民族が長い時間をかけて形成された歴史があり文化がある、文化というとき広範囲である、そこに身近なものとしてその風土から生まれた料理などある、これは意外と大事である、なぜなら料理はその国々の風土から生まれて体さえ作られてきたからである、それを無視することは体にも影響する
だから日本人が肉食になることは体にも影響する、あくまでも補足的なものとしてあればいいが主食になることは危険なのである、文化は普遍化できないからである
それでグロ−バル化とはハンバーグとかコカ・コーラとかで食の一様化にもなる
パン食でもそうである、バン食と肉食はあっている、ワインともあっているが日本食とは合わないとういことがある,イスラム圏で豚を食べないということは清潔さを維持するためだともなる、その国にとって禁止する食べ物がある、それも文化なのである
それは科学的に根拠がありそれを否定することは健康にも影響する

大量の穀物を育てる畑と大量の水を確保できる水路や川などが必要になります。イスラム教の発祥は中東(アラビア半島)です。乾燥した地域に適した家畜は牛、羊、ヤギなどの反芻動物の飼育が最適です。

豚は畑を耕す家畜にさえ利用できず、毛皮やミルクも取れませんから用途は食用のみです。家畜としての経済効果はとても悪いため、豚の食用文化が根付かなかったのかもしれません。

こういう理由がありその風土にマッチした食生活になる、また生で豚を食べていたことがあり食中毒になったので拒否したともある
こういうことが文化でありそれを否定することは体にも影響するから深刻なのである
だから文化は否定できないものであり普遍化できないししてはならないものである
普遍化というとき何でも普遍化できない、宗教でも普遍化であってもキリスト教でもその国々に伝わってその国の文化と合一して別なものとなる、ギリシャ正教からロシア正教でもその国と土地によって変化して土着するとなる
仏教でも中国の仏教と日本の仏教が違ったものとなって根付いたのと同じである
中国となると禅宗のように実用的なもの実践的なものとなたっ、韓国だと美的なものになった、日本でも仏教は違った日本的なものになったのである
インドだとそもそも仏教は空想的な面が多い、思念的になったのはやはり風土とか関係していた、インドは暑いから木陰で黙想したり座禅したりするのが合っているからである
つまり風土によって形成される文化があり普遍的宗教でも国々によって違ったものになるそれでグロ−バル化経済というのは経済中心主義であり国々の文化を破壊することがあり問題なのである、文化と精神は密接に関係しているからだ、経済中心主義のグロ−バル化は国々の文化精神を破壊するから危険だったのである
それで内村鑑三は武士道キリスト教になり手島郁郎の幕屋は神道宗教にもなったのである

●国家がカルト教団に乗っ取られる

戦後は民主主義で何でも自由だとなった、でも統一教会はカルト世界で認定されている
だから制限されている、でも日本では制限されていない、これも危険だった
あらゆることが自由ではありえない、そうしたら日本はいつの間に外国の支配下に入り
日本人としての自由もなくなる、外国に支配される国となる
アメリカに負けてからはアメリカの支配下になり日本の独立性は失われていた
その時日本人の心を失われたのである
信教の自由はある、でもそれが組織団体化して権力化して権力奪取とか目的にするとなるとそれが許されるのか、規制しなければならないことは確かである
でも統一教会に公安委員長とかがかかわっていたのである
まさにこれこそもう日本の国自体が韓国にでも売りわたしていたともなる
日本自体がこれほど統一教会に侵食されていたことの驚きである

それを明らかにしたのが山上だったということはこれは私怨だけでかたづけられないものになった、その闇が明るみに出されたからである、参政党もかかわっていたことはもうあらゆる政党にかかわっていたということである
日本の政治家そのものもが日本の守るともなっていなかった、それは公安とか国家権力の警察でもそうだったということは深刻である
日本はこれから国家存亡の危機になるのではないか、内外ともに大きな変化がきていて日本もまきこまれる、こういうとき国家自体がすでに外国勢力に侵略されていたとなる
中国の手先になっているのが創価であり自民党が統一教会でありまた創価と一体となり政権を維持している、そして阿部前首相を国葬とすることに公明党は賛成している
外国勢力と一体化したカルト教団が支えているのが自民党だとなる
ただ参政党もそうだとなるともはや日本独立の政党はないともなる
だから何かあれば世界争乱があれば日本は容易に外国に支配される
すでにアメリカの支配下にあるしまた今度は中国の支配下にもなる
こうなると明治維新を成した日本は独立していたしアジアで唯一の国だったからこの時代の方が国家は独立していてむしろアジアの先頭に立っていたのである
だから精神的には高揚したものがあったとふりかえる

日本がアメリカに負けて高度成長時代があったときアメリカに勝ったとか言われた
でもそれは一時の夢として失われた、失われた30年があり日本は経済でも低迷しているそして日本人は自信を失い、精神的にも独立はなくモラル的にも荒廃している
カルト宗教団体が内外から侵食されてそれらは日本国民を食い物にするものだった
創価は中国に国を売りわたす一部隊だし自民党は韓国に統一教会に侵食されて売りわたすともなる、つまた日本はアメリカの属国になりまた韓国であれ朝鮮半島にも侵食される
独立を失ってゆく、その時日本は物質的だけではない精神的属国になっていたしなってゆく、だから日本存亡の危機になっているのである
それは物質的だけではない精神的にもそうなっているのである

2022年07月18日

宗教が政治化、経済化、科学化、大衆化で本来の意義が失われた (グロ−バル化も制限が必要ータブーを破ることは危険)


宗教が政治化、経済化、科学化、大衆化で本来の意義が失われた

(グロ−バル化も制限が必要ータブーを破ることは危険)

●宗教もカルトは制限すべき

比叡山は多くの現代仏教の揺籃になっています。浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、日蓮宗(日蓮)、時宗(一遍)の創始者は比叡山で修業をして、新しい仏教思想を発想しました。

統一教会でも創価でも幸福の科学でもこれらはやはり現代を象徴していたのである
それらは本来の宗教とはまるで違ったものとなった
シャカが岩窟で悟りを菩提樹の下で座禅を組んで悟りを開いたとかが起源としてある
でも現代の宗教はあまりにも政治化、経済化(御利益)、科学化、大衆化してしまった
オウムとかでも科学社会だから科学者が集まり異様なカルト集団になった
幸福の科学というのもそうである
つまり現代社会文明に適応するものとしてそうなったのである
大衆化というとき選挙の宗教となった創価がそうである、完全に政教一致となり選挙で
力を持ち権力を得る、利権を得る、御利益を得る経済第一の宗教である
それは団地から生まれた宗教だから互助会としてあれば問題なかったが日本の権力を得て御利益利権を得る危険な団体になった

そもそも都会から生まれる宗教は異常である、東京のような大都会に神は顕れようがないからだ、神は清浄な世界に住む、だからこそ砂漠に神がエホバが現れたのである
偶像に満ちている場所には現れなかったのである
また仏教でも本来は世俗から離れた場所で修行していたのである
天台宗がその起りであり山岳宗教であった、山を聖なるものとして修行していたのであるそこに政治とか経済とか衆人とかとは離脱した場所としてあった
モーゼがシナイ山で啓示を受けたのもそうである、山は神聖な場としてあったからだ

今の宗教はそういうものは全くない、完全に政治化して経済化して利権化して大衆化して世俗化した宗教とはまるで違ったものになっている
だからこそ統一教会は韓国によって日本を支配する機関として作られていたのである
政治化した一団体なのである、日本は戦後余りにも自由になりすぎたのである
戦前の天皇を神とすることでその反省からあらゆるものを自由にしたのである
民主主義といってもそれはただ自由に個々であれ団体組織であれ権利を要求する自由でありそこに責任とか義務などはない、自由とは無制限にありえないのである
もしそうなったらどうなるのか?あらゆるものが自由でありあらゆることが許されるともなる、信教の自由でもそうである、オウムも信教の自由を盾に抑えることもできなくなったのである、民主主義からナチスが生まれたように日本でもそうなる
本来の宗教とは何かということが問われることも何もない、宗教だといえば誰も何も言えなくなり宗教を逸脱したことでも容認される、それが社会を歪めて恐ろしいことになる
ナチスとなってゆくのである
宗教を逸脱していても創価のように数を集めると通るのが民主主義だからである
そうしてナチスのようになり膨大な人間が死んでゆくともなる

●無制限の自由は危険

人間には制限が必要だ!

人間は個々人でも自らでも制限する、節制するとか必ず必要なのである、そうなれば欲が無制限に追求されて歯止がかからなくなる、だから宗教とはそうした人間の限りない欲に制限する節制することで修行したりしていたのである
現代の宗教は大衆宗教はあらゆる欲が是認されむしろ欲望を強くもつことがエネルギーがあることとして祈っているのである
それはまさに資本主義社会に適合したものとなっている
ただウェバーが修道院から資本主義が生まれたというとき資本蓄積してそれを他者への慈善として行うとなり宗教的行為として生まれた
その見方もある、そもそもキリスト教はローマ帝国が容認したとき変貌したのである
カトリックが政治化したのである、組織集団化して教会が地域でも国でも支配する体制ができたのである、つまり宗教でも常に政治化することがありそれがローマ帝国が容認したことでそうなった、だからこそその権力があらゆるところに根を張り支配した
それに反発してルターの宗教改革があった、プロテスタントが生まれたのである
そのカトリックの圧力が余りにも大きいからこそプロテスタントに抗議するということになった

宗教でもどうしても世俗から離れてありえない、そこで政治化して経済化する、日々の活動は経済の活動とするとそれから逃れられないのである
でもそうなるとその巨大な経済活動に宗教はのみこまれる、もう世俗と何ら変わりない物となる、むしろ世俗よりも世俗的な場所が今の宗教団体とかなのである
そうでなければあんなに人が集まらない、山の中で修行しろなどと言ったら集まらないからた、そこであらゆる欲は是認されるしそれより奨励される、目的は誰でもいいから人を集めて権力化することである、会員一人集まれば貧乏人でも実際は力となる
買物するにしても一人だけより十人買うとなると店でもその十人を相手にして考慮するからである、一人は経済的には相手にされないのである

だからこの世ではそうしてもう数で決まる時、それが権力となるから権力から離脱することは不可能だとなる、10人集まれば権力になる、それでそれが正義でなくても通るのである、赤信号みんなで渡ればこわくないとなる、それが民主主義であり多数決なのであるそこからナチスが生まれたのである、こうして現代は大衆に席巻される時代である
大衆によってあらゆるものか消耗されるのである
カルト宗教などでもそうである、大衆化して本来の宗教は何もない、日々の経済活動であり御利益もうけ活動である、選挙となるとそれが最大の目的となるのは権力と直結しているからにすぎない、その権力を得ることで得するからしているだけである

だから現代社会では文明では宗教はもうない、ただ社会から組織集団から離れた場にあるそれは誰も注意もしない、認めない、アウトサイダーになるのである
人間が認めるのはすべて世俗的なことであり世俗から離れた価値は無なのである
それで天台宗というときそれが山岳宗教というとき世俗から離れて修行する場としてあったからそれが本来の宗教の場としてあったとなる
砂漠にエホバが唯一の神が現れたように山は聖なる場でありそこに神が宿るともなるからである、そこで六根清浄とか修行する山伏でもその方が本来の宗教だった
今の宗教団体などではそういう心を浄めるなど関係ないからである
ただ御利益利権を求めるだけだからである
ただ世俗の欲望の力は強力だからそれにとりこまれて本来の宗教は何もなくなったのである

●グロ−バル化も制限するようになる

また制限されるというときグローバル化も無制限思想なのである
ヒト、モノでも自由に往き来し国境をなくすことであり国というものも無くす、そこで世界で力をもつものは支配する者は多国籍企業であり国ではないとなる
現実今世界の経済を支配しているのは極一部のアメリカの特権階級だとされる
それは陰謀論になるにしろグロ−バル化とは世界から富を収奪することであり極一部のものが莫大な利益を得るシステムなのである
それは統計的にも立証されている、何パーセントの人たちが世界の富を収奪しているのである、グロ−バル化とはまた生態系とか風土を無視したものであり文化を破壊する
食文化でも破壊する、今大陸の平原とかで大量の麦が作られている
でもそこでは鉄分が不足するとして国で鉄分の供給をしているという
これは何を意味しているのか?大地で大量生産することで何から鉄分でも養分がとれないだから大量一律生産が必ずしもいいものとならない、それはやはり自然に反するものだからそうなる

コロナ禍やウクライナ危機だと思います。消費者としてできることは、国産を選ぶことです。自宅で調理したり、お米や米粉パンなどを食べたり。コロナ危機で、米国の政府は農家から農産物を買い上げて所得の低い人たちに配給し、農産物価格を下落させませんでした。日本も生産者と消費者を支えるために、何をしたらいいか考える必要があります。農業や畜産は大規模化で、多額の投資をしないとできない、リスクが高いビジネスになりました。小規模な家族経営が結局、環境問題や地域の活性化にとっても最適だということで、国連は持続可能な社会のカギになるとしています。国も方向転換を始めています。

小規模な家族経営が結局、環境問題や地域の活性化にとっても最適だということで、国連は持続可能な社会のカギになるとしています

これも自国内で食料をまかなうという方向転換である、つまり食糧の大量生産や外国に頼ることは危険にもなる、外国からコロナウィルスとかで入ってこなくなったからである
そもそもコロナウィルスでもなぜ世界にたちまち拡散したのか?
それはタブーとなるものが制限されず入ってはならいな領域に人間がずかずか入りこんだからである
人間に犯ししてはならないものがある、自然の聖域がある、それを無視して入り込んだ結果未知のウィルスが一挙に交通の発達したグロ−バル化で拡散したのである
生態系を破壊したのである、この辺の原発事故でもそうである
やはり核を破壊するということは自然界の神の領域に入り人間の手で操作することに危険があった、もし人間は万能ならしてもいいがそこまで知り得ないものがまだまだある
だから科学者でもそんな危険なことをするべきではなかったと反省しているのである
つまり科学が今度は宗教のようになったとき科学が万能となり科学者が神官になったのである、でももろくも津波によって崩壊したともなる

ともかく人間は常にタブーを破ってきた存在である、動植物は人間のようにタブーを破れない、神の作った世界で制限されて生きている、だから自然を破壊しないのである
人間はそのタブーを破る力がありでもそこから災いが生まれて来たのである
技(わざ)はわざわいだからである
いづれにしろ原発事故であれコロナウィルスとか一連のものは関連している
それは人間が何かしら神がタブーとしたものを破ったことから起きているのだ
だから人間社会には制限が必要でありタブーが必要であり越えてはならないものがある
国境も必要でありその中でアイディンティティを作ってゆく、無制限ではないのである
グロ−バル化とかなんでも無制限になったがそれは自然の生態系でも破壊するし国々の文化も破壊する、そこに制限が必要なのである

そもそも人間はアダムが食べるなと禁止された知恵の実のリンゴを食べてすべての災いがもたらされた,原罪をもつようになった
それだけではない神話でも常に人間が何々するなということを犯して災いがもたらされたのである、タブーを破った結果として災いがもたらされたのである
それが人間の宿命となり今日までつづいている、科学でもやはり行き過ぎたものとなりタブーを破るからそこに思わぬ落とし穴があり危険が生まれ災いが生まれる
それが人間の宿命だともなる、アダムが知恵の実を食べた結果として禁制を破った結果として人間の災いが起きて消えることがないとなっているからだ



山上の湖

厳しく山はそそり立ち
不浄をよせつけぬ
山上の湖は透明度を増す
その湖に映すものは何か
星々がダイヤモンドのようにきらめく
堅く結ばれて輝きぬ
山々はさらに厳しくそそり立ち
神は天より見下ろしぬ
神は不浄を拒絶する
人は安易にけがれ汚れてゆく
汝は不浄の下界に降りるなかれ
衆人と語るもの無益なり
衆より離れて清浄圏に住め
そこで巌のように堅くあれ
醜き人の入るべからじ
巌と氷雪の屹立した孤立圏
そこに神の厳格なる座のあり
そこで塵も雪となり凍てりつく
一切の不浄は拒絶されて
そこに至高のものを仰ぎ見る



2022年07月17日

藪甘草、擬宝珠、夏燕、夏の夕暮・・(石の倉と藪甘草)


藪甘草、擬宝珠、夏燕、夏の夕暮・・(石の倉と藪甘草)

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この蔵は大きい、写真にして見たらわかった
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横手の古墳

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擬宝珠

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ここは広い、野馬追いが近い、相馬ではそのために馬を飼っている

きれいに見るにはクリック拡大



草深く藪甘草や石の倉

草深く藪甘草や古墳かな

擬宝珠や石雨にぬれうなだれぬ

擬宝珠や石によりにつ黒い猫

水増して流るる川や夏燕

走り行く夕風涼し夏燕

夏の日や小径にとまる黒き蝶

立葵黄菖蒲映えて畑の道

紫陽花の青色に暮れる夕べかな

牧広く夏の夕べや馬一頭


今回の地震で気づいたことは意外と石の倉が多いことだった
身近にっても気づかないことがある、この石の倉は明治以降に作られたものだろう
喜多方市では蔵で有名だがレンガの蔵がある、これも明治以降である
土壁の蔵は古い、江戸時代からある、でもなんでもそうだけど江戸時代から残っているものは少ない、だから煉瓦の蔵も明治以降である
煉瓦はそもそも明治になって外国から入ってきたものでからである
レンガは耐火にはいい、木の家は燃えやすいからだ、ただ地震には弱いのである

日本は地震が多いからこの石の倉はほとんど一部が壊れていた
でも何か蔵ある家は古いとなる、ただ今は蔵は使っていない、ある蔵は孫の写真が飾ってあるだけだった、あとは古い家具などが置いてあった
でも田舎の風景としては蔵があると家が古くどっしりとした感じになる
喜多方市では豊かになると競って蔵を作った、それは金があるといい車を買うのと同じだった、立派な蔵を建てたことは成功したということである

鹿島区は古墳の里として有名である、小さな古墳が多いのである
でも原町区とか相馬市には古墳が少ないのである
原町だと大きな桜井古墳がある、でも小さな古墳がない、その相違は何なのか?
それは歴史的にこれまでの私のプログで書いてきた
大和王権が鹿島区の方に勢力を伸ばした、旧来の勢力は原町区にあったからである

今藪甘草の季節である、これは草深く咲くいかにも田舎らしい花である
それで原町市だったときは原町の花はひまわりにした
相馬市は城下町であり藤の花である、ちょうど城跡に藤の花が咲いているからだ
また中村珈琲店の脇にも藤棚があり咲くから相馬市に似合っている
県の花とか市の花とか町の花とかある、それはやはりそこにふさわしいからだとなる
飯館村は芙蓉なのである、芙蓉を植えていたからである
ゆったりと大きな芙蓉が咲いているのにふさわしいとなる
ただ何カ月も飯館村には行っていない、ただ佐須の方を回って霊山から石戸村の方に行った
梅雨が戻りなかなか行けないし暑くなるとまた陽射しで熱中症になりやすくなり行けなくなったのである
小山田の奥の方に行くと空家がまた目立つ、そこに青色の紫陽花が庭に咲いていた
でも人は住んでいない、この空家は大きな問題となる
今日はちょっとの間晴れた、ずもすぐ曇って雨がぱらぱらふってきた
例の小山の間の小径には黒い小さな蝶がとまっていた、そこは一日行く人もないなのである、あの道は田舎らしい道である

この季節に立葵が咲くが梅雨にはあっていない、からっと晴れて青空に伸び咲くのが合っている、ただ神鳴りがなって立葵が映えた
ともかく最近近くしか行っていない、でも季節の変化があり夏は花も多く咲くから見るものはあるとなる、庭には擬宝珠が咲いた、
黒い猫に餌をやるので毎日のように来る、田舎だと回りに空地とか畑とか田んぼだから
別に糞とかで汚さない、都会の家が密集したところでは庭を汚すから餌をやるなとなっているのだろう、別に苦情は来ないからである
ただこの黒い猫は全くなれない、すぐ餌をやると逃げる、近づくにも慎重でありなれないのである、一旦野良猫になるとなれないのかもしれない、また猫にもよるのかとなる


2022年07月16日

宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない (カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)


宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない

(カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)

宗教と政治の問題を私は創価のかかわりで考えてきた
必ず信教の自由を言う、これを盾にカルト宗教団体は政治化しても国会議員まで出してもいいとなる、そもそも宗教とは何かということが明確にされていないのである
何を信じるか勝手だして信じなくても無宗教でも自由だとなる
常に自由が強調される、それが戦後民主主義である
自由には義務とか責任がともなうがそれは無視される
でも必ず自由にも責任が問われる、なんでも発言していい反対してもいい自由だとはなるではその発言に責任がとれまのかとなるとない
そして必ず人間は責任をとらされるようにできている
ナチスでもそうであり日本の戦争でも別なものにしても何百万人も死んだのである
それが戦争をすすめた国民の責任だったのである

だから別に一人の言うことなど責任がないようで必ず責任をとらされるのがこの世であるただ責任というとき権力をもったものが一番責任をとらされる
権力を行使できる立場の人が一番責任をとらされるのである
だから権力を得たいとしてもその責任は重すぎるから江戸時代でも庶民は切腹されるからとして侍になりたくなかったのである
民主主義は無責任社会である、でも責任は誰かがとらされる、原発事故では地元の人が故郷に住めなくなった、それも地元の人が全部ではないにしろ責任をとらされたのである
責任は政府と東電にあった、それから国民全部にもあった
原発は政府の方針で作られたからである
今電力不足でまた原発が稼働される、でもまた事故になったら誰が責任をとるのかとなるの責任を自覚してするのならいいがつまり事故になったら切腹するような責任を自覚してするならいいが実際は責任を幹部でも政府関係者でもとらない
でも戦争で3百万人死んだように必ず国民が責任をとらされるのである

戦後の民主主義はあらゆることが自由でありあらゆることに権利を主張した
でも責任とか義務とかはないがしろにされた
ただ自由とは自分の利益を得る自由でありそれにともなう権利は無視されたのである
原発事故でも地元の人は利益を得ることを望んだ、それはいいとしてもやはり責任が課せられていた、原発は危険なものでありその危険を無視して利益に走った
だから責任があった、ただ一番責任があるのは権力を持っいるものだった
原子力村を作って真実を教えない人達だったとなる

宗教の問題でも戦後は戦争がありそれで思想と信教の自由とかがなく国家権力が絶大であり従うほかなくその反動として民主主義が自由だとして生まれたものである
その宗教はカルト宗教であり本来の宗教とはまるで違ったものとなった
でも宗教だからといって常に信教の自由を否定するのかとなり認めてきた
それが災いとなったのが統一教会だったのである
韓国でも世界でもカルトと認め制限しているのに日本だけがしていなかったのである
日本はそれだけ何でも自由な国となっていたのである

そもそも宗教とは何かもわからなくなっていた、もともと日本人に宗教心がない、あるのは常に御利益しかない、それは神社で賽銭をなげて御利益を得ると同じである
創価でも他でも似たり寄ったりであり本来の信仰心などないのである
それが小規模ならいいが創価とか他のカルト教団でも巨大化するとどうなるのか?
国会議員になり公的機関に警察であれ自衛隊であれ役所であれ入り込み権力を得ようと工作する、また学校の先生にもいてその権力を拡大してゆく
日本の国家権力を収奪するために日々運動している、なぜそういう団体が創価などでもあからさまにしているのに制限できないのである
統一教会とかなると韓国が日本を支配するための機関でもあった
なぜな公安委員長が統一教会を支持する会の宣言役にもなっていたからである

信教の自由はある、でもその自由が権力を持つときどうなるのか?

創価てあれカルト教団は御利益を得るために祈る、だから何か御利益があるとき仏からでも神からでも福運をさずかったとしてさらに信仰することになる
つまりますます何か欲望をかなえたことで信仰が強情なものになる
創価だと議員になったりすると最大の信仰の御利益となりそれが信仰となるから強情になる、でもこの世の御利益が得られないとなるとどうなるのか?
信仰しても無駄だ何も利益が得られないとして捨てることにもなる
もちろん人間は苦しい時があるからなんとかしたいとなり宗教団体に入って解決したいともなる、でもカルト宗教団体はそうした人達の問題を解決できるのかとなるとできない
むしろそういう困窮した人達を利用して自分たちの権力を拡大することをもくろんでいるのである

人間の問題は余りにも複雑すぎるのである、簡単に一様に問題を解決できないのである
何か一人くらいは相談にのれる、でももう三人でも金に困ったとかいろいろな困りごとを相談されても解決できない、ましてや百人とか何千人とか何百万人なったらもう解決できない、だから創価などはただ困った人でも一票としてしか見ない
それで議員になる人がいてその人は得するだけだとなる、他でも集団化して問題を解決しようとしても簡単にできないのである
集団化して解決しようとするときそれは政治になる、でも政治でこの世の問題すべて解決できないのである
第一政治家自体が自分の利益しか考えていない、権力を得て得することしか考えていないのである、だから政治家自らが言っている、選挙のときは頭を下げてお願いするが後は関係ない、自分が得することだと自ら言っている、政治家とはそんなものなのである
でたも困った人は何かそういう巨大な集団になればみんな仲間であり助けてくれとは妄想する、だから苦しい時はそういうカルト宗教団体にでもとりこまれるのである
統一教会でもそうだった、財産がまきあげられたとなる

要するにそもそも人間は苦しみから逃れられない、そして人間は個々人でカルマをもっている、課せられている、そのカルマも個々人で違っているのである
そのカルマを解消するために個々人で別々にその苦しみを解消するほかないとなる
それは意外かもしれないが金持ちでもカルマをもっていて苦しむのである
その金のために苦しむことがある、遺産で兄弟が骨肉の争いとなることもあるし
私のように金が盗まれたりその金が災いになったりする
その金に何か悪いカルマとなり苦しめられることがあるのだ
そのカルマは集団的に解決できない、それぞれのカルマは違っているし個々に苦しんで解消するほかないのである、それで自分は二人の女性お親がいて介護で死ぬほどの苦しみを受けたのである、それが恵まれた自分のカルマだったと自覚した
何か不安だったがそれが現実化したとき過酷なものだった
でもなんとかきりぬけたとはなる

それぞれの運命は宿命は違っていてこれを一様化して集団組織では解決しない
なぜなら人間の運命とか宿命とか不可解だからである
だから財産がfortuneが運命という意味があったのはそのためである
それぞれの運命は不可解である、兄弟でも姉妹でも不可解である
全く違った人生にもなるからである、それも不可解なのである
ただ一生楽では人間は終わらない、必ずどこかで苦しむようにできている
それはカルマだとなる、それを集団組織では解決できない、なぜならそれぞれのカルマが一様ではないしその宿命とか運命でも違っているからである
それは不可解なのである、だから仏教でもカルマ論が生まれたとなる
生前の行いが関係しているとかまでなる、それは人間の個々の運命とか余りにも不可解だからである
だから例え恵まれた人でもカルマをもち苦しむことになるのである

だからカルト教団であれ集団組織に入り問題は解決しない、それはかえって統一教会であれ利用されるだけだとなる、苦しい時はどうしても助けてもらいたいとなりそういう団体に入るのである、でも実際は利用されるだけだとなる
それより自分のカルマを自覚することだともなる
なぜ今その人が苦しんでいるのか?それはやはりカルマが関係している
その人は私の家では援助した、それは親同士であったがその子にもカルマとなっていた
親が世話になりその子も世話になったのだからそれがカルマとなっていたが自覚できなかったから無関心となっていた、そして今自らがそのカルマのために苦しんでいるのかともなる,カルマとは意外と自覚できないのである、ただ苦しむとなぜ自分はこんなに苦しむのかとなり自覚するのである、それ意外で自覚できないのである
親の因果が子に報いというのは本当である、私自身がそれを苦しみで自覚した
もう死ぬほどの苦しみだった、それもカルマだったと自覚したのである

この世には経済的不平等とか他にも生まれつきの問題もある、才能にしろ生まれつきでありいくら努力してもそもそも才能がなかったらどうにもならない
また体力でもそうである、生まれつきなのである、私は体力がない、だから他の人を見て大工さんでも建築関係でも体力がある人がうらやましいとなる
そういうことでもみんな一様ではない、そもそもだから人間を数式のように解決できないのである、集団組織化して解決できないのである、個々に問題が違っているからである
それに対応できない、人間が相談にのれるのはせいぜい二三人だとかなる
キリストでも二三人いる所に私がいると言った
それが何百万人になったらそれはただ苦しむことでも利用されるだけである
個々に対応などできないからである、だからマルクスの理論はそうした個々の運命を無視しているから結局かえって不平等にもなってしまったのである
極一部の人が権力を一人じめして兆もの金を手に入れてめかけを十人もったとか報告されている

運命とは個々にめぐりめぐってゆく、金も天下の回りものであり個々にめぐってゆく
一か所には留まらないのである、だから今貧乏で苦しんでもいつか個々にめぐりめぐって金でも回ってくることがある、今苦しんていてもいつか苦しみも解消して楽になることがある,恵みはめぐるのである、ただ悪いカルマもめぐるのである
阿部前首相が殺されたのもカルマを作っていてそれがめぐりめぐってそうなったのである統一教会を支持していた、その統一教会で苦しんでいた人がいたがそれを無視していたとなる、何かそういうものがめぐりめぐって殺されたとなる
犯罪にあうとき意外と他人の悪いカルマを受けてそうなる
いろいろな災厄に私自身がそうなったのも他人のカルマを受けたからである
他人のカルマを受けることは怖い、また結婚したりすると必ず結婚した相手の家族のカルマを必ず受けるから怖いのである、それは逃れようがないからである
このカルマはそれぞれ苦しまない限り解決しない、集団組織では解決できないのである
それぞれの罪だって集団組織で解決できない、個々人によってしか解決しない
だから組織集団は幻想共同体だともなる、何か個々人で苦しむとそういう団体で助けてくれると妄想してしまうのである
そして利用されて金でもまきあげられるだけだとなってしまうのである

運はめぐり回る
金も天下の回りもの
いつかあなたにも運が回ってくる
その時まで耐えなさい
一挙に問題は解決しない
神の配剤がある
あなたは幻想を見てはいけない
集団組織ではカルマは解消しない
個々の苦しみがあり
個々に解決するほかない
運はめぐりめぐってゆく
運が開ける日を待ちなさい
・・・・

こうなるがなかなか待つということがむずかしいのである
そこで苦しい時変な方向に向かって行くのてある


2022年07月15日

旧統一教会「主導イベント」 自民党・国家公安委員長が呼びかけ人だった! (在日朝鮮人の浸食と国家の独立が奪われていた日本)


旧統一教会「主導イベント」 自民党・国家公安委員長が呼びかけ人だった!

(在日朝鮮人の浸食と国家の独立が奪われていた日本)

「2021年4月、国立京都国際会館で『新型コロナ終息を願う京都1万人祈りの集い』というイベントが開催される予定でした。実行委員長は旧統一教会の京都教区長で、『天の父母様聖会・世界平和統一家庭連合』や教団系列組織『京都府平和大使協議会』などが共催しており、実質的に旧統一教会の主導イベントであるのは明らかです。その『呼びかけ人』に名を連ねているのが二之湯氏なのです」

このイベントのチラシには、二之湯氏のほかにも世話人として、田中英之衆院議員、木村弥生衆院議員、繁本護衆院議員の、計4人の京都を選挙区とする国会議員が名を連ねています

安倍元首相銃撃事件で注目の旧統一教会「主導イベント」国家公安委員長が呼びかけ人だった!

これも大問題だった、なぜこんなに統一教会が公安委員長とかまで操作するようになったのか?そんな力をどうして持ったのかという疑問である
創価のような国会議員も持っていない、ただ警察でも自衛隊でも天皇でも工作はする、会員が内部にいるからである統一教会がなぜそんなに力を持ったのか?
選挙の応援するにしても選挙運動員として無料で働いたとてしてもそれだけそんな大きな力を持ち得るのか?
創価と公明はあからさまに権力をそもそも持っているし権力追求する団体である
それは目に見えて明確なのに政教一致なのに法律的に制裁されることもないのである
統一教会のように隠れて権力を操作しようとしていない、あからさまに選挙を通じて議員をもち自民党だと票を配分して自民党に対して要求できる
そのために国土交通大臣の席が与えられている
この地位はかなり大きな権力であり創価が握ることは建築土木関係に力を持つことになる大成建設は正本堂を建てたとき大成建設と深い結びつきができて公明に票を入れるように社員に強制されたのである、団地の会合でも大成建設の社員がいたからである

それに比べて統一教会は壺を高額で売りつけるということで話題になったり合同結婚式とかでもそうだがそれ以来統一教会が話題になっていなかった
でも隠然として日本の権力中枢に食い込んでいたのである
それが今回の阿部前首相の銃殺で明るみに出された
そもそも東北だと余り在日とかわからない、でも戦時中は大原とかの発電所建設とかで
在日朝鮮人が働かされたとかあり東北でも在日の人は結構いるのである
韓国に行ったら仙台で戦争の時軍人として働いていたとかいう人もいたし韓国人は戦争の時一緒に戦ったのである、上官になった人もいるし韓国はもともと日本とは深い関係にあった

ただ在日朝鮮人と言ってもわかりにくいのである、創価のような組織集団としてあるわけでもないからわかりにくい、でも在日はそれなりに一つの集団として日本に力をもっている、それは中国人であれベトナム人とか外国人労働者とは違う、日本人と一体化しているから区別できないのである、顔からも言葉からも区別できない、日本人にしか見えないのである、でも在日は特殊な立場にあり日本人ではないとなる
日本国籍ではない、でも韓国国籍なのかとなるとそれもわかりにくい、それで山口県に
韓国人でアメリカ国籍を持っていた人がいたのである
その人は日本で育ったから日本人であったが在日朝鮮人であり日本人ではないのである
だから私はこういう人を理解できなかった

山口県というと阿部前首相の出身地である、下関からは船が韓国に出ていてそれに乗って韓国に行ったことがある、韓国は山口県とかなると身近なのである
それで出雲とか島根県とかでは国引き神話が生まれた、それだけ近いからそうなった
その在日の人はアメリカに留学してアメリカ国籍をもっている、すると在日朝鮮人でもない,アメリカ人なのである、だから岩国に自衛隊の基地がありアメリカの軍人と話ししていた、知っている原町の人はその岩国の自衛隊基地で働いている
在日というとき小高に住んでいる小説家も在日朝鮮人である
でもこの人にしろなぜここに来たのか?やはり在日朝鮮人の一員として来たのか?
その意図がわかりにくい、でも南相馬市役所に横断幕がありアメリカから賞をもらったとか大々的に宣伝している、それもアメリカから応援されてそうなったのか?

とにかくアメリカのバックがあり力を持つということは日本では属国なのだからありえる
在日はわかりにくい、在日というとき中国人とも違う、ベトナム人とかの外国人労働者とも違う、日本語を話ししているし顔でも見分けにくい、中国人でも見分けにくいが在日の人は日本で育ったのだから日本人だと思ってしまうのである
そして在日の人には優秀な人がまた多いのである、だから重要な公的な地位にもついていることがある、でも日本国籍は持っていないからどうなのかということはある
学者もいるし芸術家もいるし俳優もいる、それでアメリカ国籍をもっていた有名な俳優もいたのである
この在日朝鮮人のことを知らないと今回の統一教会のことも理解できないだろう
その本部は韓国にあるからだ、つまり日本が統一教会によって金をまきあげらて韓国に尽くすものとしてあったとなる、そもそも韓国では日本に戦争の謝罪させるためにそれを当然としているからである

でも統一教会がこれほど日本の権力中枢まで食い入って操作するようになっているとは誰も思わなかった、それが山上の阿部の銃殺で明るみに出たのである
だから今や山上は国士とまでなったとかなる、当然統一教会の悪を訴えても警察も考案も動かない、統一教会は自民党と一体化していたからだとなる
無料の選挙運動員ともなっていたのである
日本人から巻き上げた金は韓国に入り日本の議員であれ警察であれ公安委員長であれ操作するともなるからショックだった、これは日本国家の存亡にかかわる重大な問題になったまさになぜ統一教会が放置されていたのか?山上は警察が動いてくれないと訴えていた
公安委員長が統一教会を応援していたのだから何もできないとなる

この阿部前首相の銃殺事件が意外と私怨とかでもない、大きな政治問題として浮上している、自民党にとっても相当な打撃になる、国民の怒りが今や自民党にも警察にも向けられている

つまり日本を売りわたしたのが自民党と警察だ!

ここまでにもなる、日本がなぜこれほどだめになったのかとなると韓国にもむしばるれアメリカによって収奪されるとかある、CIAも関係しているとかなればそうである
そこまではまだわからない、日本には中国でもいろんな所にスパイとして入り込み技術とか盗まれていたということがある、日本と言う国家はそうして外国にむしばまれていたのである、自立的国家ではなくなっていたのである
国家の権力の中枢が蝕まれていたのである、上級国民といわれる官僚もむしばまれていたこうして日本は外国に食い物にされ上級国民は日本から利益をえるだけだなとる
スリランカのように大統領一族が国を私物化したのとにている
自民党とか創価公明党でもそういうものともにている、だからなぜ阿部前首相を国葬にするのかわからない、国賊でもありえた、自民党は韓国に国を売っていたともなる

明らかなことは日本の信者から献金させて韓国に上納させて日本を支配するものとして統一教会があった、それに加担していのが自民党であり警察でもあったとなる
この構図は怖い、そもそも自民党自体が政府与党がそうなのだからそうなった
自民党はも大改革しないとこの国を指導することはできない、そさが山上の阿部前首相の銃殺で判明した、そのことはマスコミでも報道しなかった、でも隠れて日本の権力の中枢に入り込み操作していたのである
日本はアメリカに戦争で負けてからもともと自立していない、独立国家でもなくなっていた、だから外国勢力から裏からでもサイレントインベージョンされやすくなっていたのである、日本は独立国家ではなく外国勢力に操作される植民地のようになっていた

それが奇しくも山上の阿部前首相の銃殺で明るみに出されたから一私怨ではないものとして見るようになった、それだけ影響力があったことに驚いたとなる
ただそれは権力によってマスコミでも報道しないだけで隠されていたのである
でも何かのきっかけで明るみに出される、安全神話を作った原子力村の特権階級も津波によってその悪が暴かれたからである、それは大自然の恐るべき力だった
でも今回一弱小の人間が引き起こしたことで驚いたとなる
でも必ずいつかは悪は暴かれる、隠しつづけることはできないのである

阿部前首相を国葬にすることは問題である、それほど国に尽くした人なのか?
それは自民党を支持させるための工作だともなる、それはまるで英霊のようにする
それも祭政一致、政教一致なのかもしれない、死者を利用して神格化して治める手法である
それはソビエト連邦でも書記がまるで神のように葬られたからである
死者もこうして政治に利用されるのである、死者はとにかく美化されやすいのである
阿部前首相の悪は死んで隠され美化される、自民党がそうして力を持つとなる
では阿部前首相にそれほどの功績があったのか?それが明確ではない、国葬にするということは自民党だけで決められるものだろうか?国民一致ではない、野党でも国民全体の問題であり国葬にすることは国民の税金を払うことだからでもある
自民党一党だけで国葬にするのは勝手だとなる、議論もされていないし簡単に国葬にしていいものか疑問なのである

旧統一教会「主導イベント」 自民党・国家公安委員長が呼びかけ人だった!

posted by 老鶯 at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

物々交換の時代へ (紙幣とかドルとかでも通用しなくなるーロシアなど資源国が強い)


物々交換の時代へ

(紙幣とかドルとかでも通用しなくなるーロシアなど資源国が強い)

今起きていることは何なのか?それは紙幣とかドルでも価値が急速に下落していることではないか?物価高でありインフレから超インフレになるとそうなる
紙幣だと紙くずになる、円安がますます進み物価はさらに上がる
そして今世界で何が価値があるのかが見えて来る
紙幣の価値はなくなる、ウクライナ戦争でもロシアが問題があるにしろロシアの強みは
資源国だからである、石油とか石炭とかガスとかまた農業国であり麦とか肥料輸出国でありそれで強みを発揮した
肥料というとき農業は肥料が一番大事なのである、それが如実に示していたのが焼畑農業である、木を燃やしてその灰を肥料にしていた、これも実は大きな自然破壊だったのである、そして焼畑地名が多いのでもわかる、飯館村はの佐須とか他でもどうも焼畑地名がある、飯館村は森林が多いから焼畑に適していたのである
その焼畑農業を持ち込んだのが綿津見神社とか山津見神社をもたらした安曇族だったのである、佐須とは焼畑のことだからである、また焼畑の野菜など食べるイノシシや鹿を駆除するとういことで狼が大神ともされたのである,天敵になっていたからである
飯館村の山津見神社では狼が祭られていたというのもそのためである

なぜウクライナ戦争で世界に影響したかというとロシアでもウクライナでも穀倉地帯でありエネルギー産出国であったからだ、ロシアはたいして技術力もなく国民総生産は韓国よりも低いのである、そういう国がどうして戦争できるのか、欧米に対抗できるのかと思ったがエネルギー国でありヨ−ロッパでもガスでも頼っていたし日本でもサハリンからガスを輸入する予定で工事していた、それがロシアから中断させられたことが打撃だった
松川浦にはガスの基地がありそこから新潟とか東北地方にもガスが流通するようにした
その配管工事する人がいた、松川浦は漁業で成立っているとみるが実際は火力発電所がありガスタンクがあり電力供給基地として成り立っているのである
まず漁業とかなると小規模だから現代は零細なものとなる
江戸時代辺りだったら人口規模も小さいから農業でも漁業でも林業でも生業となり細々として生活してきた、今はどうしても経済の規模が大きくなるから工業力技術力がないと
生活できないのである

ウクライナ戦争で世界が変わったというかわかったことは資源を持つ国は強いとなる
その資源とは食糧であり石炭であり石油でありガスであり肥料とかでもそうである
今や電気なくして生活が成り立たないというとき電気の基は電気ではなく、意外とこうした化石燃料である、原子力だけは違っている、そこにメリットがあったのだが余りにも危険なもので失敗した、でも資源国は強い、ロシアがソ連崩壊から弱体化していたとしても資源大国であったことが今回の戦争で強みを発揮した
それはスリランカでもインドでも他でもロシアの石油とかガスに頼っていたことで支援してくれとなったからである、日本でもその影響を受けたのである
日本は資源がない、太平洋戦争でも石油が入らない経済封鎖で戦争に踏み切ったとも言われる、そして戦争になってもゼロ戦でも片道しかの燃料の石油がなくそもそも帰ることもできないものだった、資源不足になると戦争すらできないのである、石油が燃料だからその燃料がなくなれば船でも飛行機でも使えなくなるからだ

そして世界は今やインフレになる、それは物が不足しているからだ
あらゆる物不足不足に陥っている、コロナウィルスでも世界がサプライチェーンになっているから部品が入らない、その心臓部の半導体も入らないからヤマハでもいい自転車でも買えない、高いとしても買おうとしたが買えない、人気商品は買えない、それはバイクでも車でも全般的に買えないという、こういうことは経験していないのである
買ってくれ買ってくれとなっていた、でも買えないとなっている
物不足になると物の価値が高くなり物価があがる、それは世界的に起きている
アメリカでもヨ−ロッパでも起きている
極端なのがスリランカである、国家が破産状態になっている、スリランカの人が私の田舎の工場で働いていた、そして工場で指を切ったケガをした、それでかわいそうだと思ったまた入管でスリランカの女性が死んだりもした、スリランカは産業と言えば紅茶くらいであり後は観光くらいしかなく外貨が稼げないので遂に石油とか入らなければ国家破産になる、そのために中国に借金して国を売りわたすような状態になっていた
それで利を得たのが大統領一族だった、その人達は暴動が起きて国外へ脱出した
そこで紅茶と石油であれガスと交換してくれと訴えている
つまりここでも紙幣より現物が紅茶が紙幣の役割になる
物々交換状態になっているのである

そもそも紙幣とかは紙切れでありそこに価値はない、だから本当に危機になると紙幣は紙切れになる、日本が戦争で負けたとき私の母は前の夫が事故死して一生暮らせるだけの金をもらった、その金で実家に土地を買った、あとは預金封鎖してその土地だけが財産として残ったのである、つまり本当に紙幣は紙切れになってしまったのである
それが今日本でも騒がれている、何が価値があるのか?本当の価値は物にあり紙幣にはないのである
何か物々交換の時代になるのかとも見る、戦争が終わり食料危機になり都会の人は高価な着物とか骨董品とかでも農家の人に食糧を得たいために交換した
すると時価で百万とかしているのも一万にもならなかったろう、それよりわずかの食糧でも食べるものに価値があったとなる、それで農家には高価な骨董品などが残っているのだという人がいる、戦後まもなくは農家は自給自足であり卵でも食べていたし納豆でも作っていたしカヤの木の実から油まで取っていた、自給自足で買うということはあまりなかった、そういう時代にはやはり農家は強い、こうして物価が上がる時またそういう時代の再来かとなる

ハイエクがアフリカの砂漠地帯で黄金と塩が等価で交換されていたという、塩はそれだけ貴重であり黄金もその時塩と同じ価値であったのだ
またアフリカで武器を売りつける武器商人がいてその代金はダイヤモンドであった
アフリカの紙幣など何の価値もないからだ、確かにドルだったら価値があるにしても
それもドルが基軸通貨になる時代も終わりつつあるのかもしれない、そもそも本当の価値は物にあるからである
日本が苦しいのは資源国ではないから輸入しているから円安とかなると物価高になる、インフレになる、自国でエネルギーがなくまかなえないことである

ともかくグロ−バル経済が危機に瀕している、コロナウィルスでもそうであり自由な流通がなくなる、ウクライナ戦争でもアメリカ一辺倒のドル経済も終わりにもなる
ロシアはルーブルの決済を主張したからである、別に資源国だからその資源を売買できるのは自国のルーブルでいいとなりドルはいらないとなるからだ
こうして世界の経済はブロック化する、つまりグロ−バル経済は機能しなくなる
そもそもグロ−バル経済といってもドル基軸としたアメリカが世界から富を収奪するシステムだった、そのアメリカにしても極一部の大富豪に富が集中するシステムだったのである、それが陰謀論になるとデーブステートとかなる
それはわからないにしてもそういう世界システムが崩壊しつつある、金融システムも崩壊しつつある、それがウクライナ戦争で明確になったのである
何が本当に価値あるものなのか、それは紙幣ではない、ドルでもない、その国が持っている資源であり技術だとかなる、紙幣はしょせん紙きれだからそうなっても当然だとなる

ともかくこれから金を貯えても紙幣で貯えてもゼロになる恐怖がある
それはドルが高くなるからとドルを買っても肝心の紙幣自体が紙切れであり本当に紙切れにもなる、だから金の価値が高くなり金本位制とかにもるなると言われる
物の価値が本来の価値でありその価値は変わらないのである、だからこれから支払いは
紙幣ではなく物で支払われる物々交換にもなる
スリランカだと紅茶を売って石油でも買うとかなる、そこに紙幣は金は介在しない
そして日本だと外国に何を売るのかとなると車くらいしかないみたいである
資源がないのだから日本は苦しい立場になる、技術があるにしてもそれも中国に負けている

そして自己防衛として東京とかだと金持ちでも田舎に地方に土地を買って野菜を作れとかなる、でも野菜を作るにしても素人が始めると簡単にできない、様々な困難があるからだ第一田舎でも農業している人は一割にもみたないし農業のノウハウの方が大事でありそれでうまくいかいなのである
ただ物々交換時代になると紙幣は紙くずになるから危険である、でもその対策はむずかしい、資源、物、技術、労働力があればなんとかしのげる、でも老人は労働する力がなくなっている、だから年金頼りなのである、それで不利である
優秀な大工さんでも体が弱体化して稼げないとなる、何か40万の仕事があっても断ったとしているからだ、それで老人はどうしても年金頼りになるが金の価値が低くなり物価高になり苦しむ人が増えている
高齢化では労働力にもならない、年金の価値が物価高になれば低くなる、物価によってスライドもしないからだ、むしろ4万しか年金がもらえない人でも年金は引かれていて困窮しているからだ
posted by 老鶯 at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年07月13日

人間の価値とは何なのか (天職−適職を見出した人は価値があるー金ではすべて計れない価値)


人間の価値とは何なのか

(天職−適職を見出した人は価値があるー金ではすべて計れない価値)

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●大工の技をみがき価値となる

人間の価値を見る時、何を見るのか?
どれだけ金を稼いだとかで見るのか?
でも人間の価値は金ですべてを計れない、もし金ですべてを計れば巨額の遺産を残した人が金を残した人が価値ある人となるからだ

大工さんを例にとればその価値は大工という技術を身につけたことにあった
その人は庭作りもできるたし壁塗りとか家作りに関する多様なことができたので特に価値があった、でもその人は他にも器用だからいろいろな仕事をしている
それは評価できないのである、でもそれで金を稼いだことは確かなのである
立派な家建てたりしたのも大工意外の仕事をしたからだとなる
ただその仕事は水商売であり評価できるものではなかった

そして最後に老人となってその人が何が価値あるか判明した
それはその人の大工としての技量でありまた庭作りできる技量だったとなる
確かにその人は他でも稼ぐ人だから高価な車も買った、それをみせびらかしたりした
でもそういう車を持っているからはその人の価値とはなっていない
立派な家を建てたとしてもそれがその人の価値となるとは限らない
私自身も家のことを延々と書いたが他者にとってはそれが価値とは必ずしもならない
親から家を受け継いだ子供にとっては価値があるとはなる

エッセンシャルワーカーとか言われたがエッセンシャルバリューとなるものが何か老人になって判明した、それは15歳から大工の修行をしてその技を磨いてきたことである
そこにエッセンシャルバリューが生まれたのである
その他のことは確かに金になっても価値にはならなかった
その人は体付きからしてまるで大工になるために生まれたように見えたのである
私自身は体力がないからうらやましいと見ていたのである
体の造りからして違うなと見ていたのである
大工とか建築関係になるとどうしても体力が必要なのである
重い庭の石を動かそうとした時はびっくりしたのである
どこでも比べ石とかが文化遺産として残されている
それは機械がない時代は力があることで一人前とされていたからである

●天職適職につくことの困難

ともかく人間の価値は多様であり人間には天職があるというのもわかる
生まれつき大工のような人はその人は修行したにしろみんながなれるとは思えないからである、その人の天職だと見た、そういう人はいろいろな分野でいる
医者でも農民でもいる、農民になるのも相当に自然に通じていないとてきない
みんなが農業で成功することもない、そこに篤農家が生れ指導するものとなる
漁師などもそうだろう、やはり天職というものがある、そういうふうに自分の特質を活かした人はその価値が認められる、価値ある人間となる
ただ俺たちは社畜なんだよなとか常に言っている会社員はそうなっていないのである
ではこうして天職についている人がどれだけいるかとなると相当に少ないだろう
たいがい会社員というとき集団で仕事しているのだからその仕事がわかりにくいこともある、江戸時代とか戦前でも職人の時代は天職が見えたとはなる

まず人間が仕事するとき金をどれだけ稼ぐかが問題になる、給料をまずみる、その仕事が自分にあった天職なのかとか見ない、また自分のことがわからないから自分にあった仕事をすることにならない、だから会社をやめる人が多くニートが引きこもりが多くなったのである、私自身もそうだったからである
天職とかでなくても何かその人にあった職につけないのである
私自身は奇妙だがこうしてプログであれ文章を書いているのが自分にあっているとつくづく思った、人前でしゃべることが苦手だからである
それをたまたまインタ−ネットという技術が生まれてできたとなる

いづれにしろ人間がどう生きるかというときどういう仕事につくかするかが大きな問題になる、大方が社畜として生きるとなれば大きな問題になる、でも現実はたいがい会社員になるのだからそうなる、その会社でも自分にあった仕事をして生きがいを見出して評価されればいいがそれがないとしたらその価値はないともなる
そうしたら人生そのものが無意味になる
人間が死ぬとその価値が必ず問われる、死ぬと公正に評価される、それで阿部前首相が
突然の死で問われる、意外と世界から評価されていたとなる
これもなかなかわかりにくい、阿部前首相は絶えず批判されていたからである
逆に外国に金を使いすぎたとして批判されていたのである
そもそも政治家の価値というのもわかりにくいのである、阿部前首相は死んだのでその政治家としての価値が問われ評価されたとなる
でもその評価もいろいろあるからわかりにくいのである

●金にまどわされて本来の価値を見失う

人間の問題はあまりにも金にまどわされる、金しか価値が見えないのである
でも金で計られない価値も多くそれがエッセンシャルな価値となる
それがその人を本当に評価されるべきものだと判明する
とにかく人間の価値でも老人になると自ずと判明してくるのである
だから金だけを求めて生きる仕事するとなるとその人の価値を作れないとなる
立派な家を作り高価な車を買ったとしてもそれが価値とならない
他者にとってはならない、他者にとっては家を建てるにしても修理するにしてもその大工の技を見て価値を見るからである

芸術家とかになると学者とかなるとその作品とか論文で価値をみる、だからわかりやすいその他の職業の人の価値は余りにも多様でわかりにくいのが現代なのである
それは大きな会社で働いているから個々の価値が見えないからだともなる
車でも昔の職人のようにとても一人で作れるものではないからである
その部品の数も多いし総合的に人間の技が結集したものとして作られるからである
最近ヤマハからでた電動自転車のWABASH RTはヤマハの電動自転車が開発した最高傑作である、それは40万以上でも価値がある評判である
これを買おうと思ったけどもう買えない、いつできるかわからないというからだ
前もコロナウィルス騒ぎとかで部品がないとか半導体不足とかで人気商品が作れない
買えない事態になっている、それはバイクでも二月に注文して一〇月に買えたとかなっている、今物が買えない、こういうことは経験していない、それが残念なのである
でもこの自転車にしても誰か一人が作ったものではない、ヤマハの社員が総合的に力を発揮して作った、三人くらい設計した人が出ていたがやはり会社で総合的に作ったものである、だから昔のように一人の職人が作ったものとして評価するものではなくなっている

人間はやはり仕事が大事である、金になる金にならないとかでなくその人に合ったもの
天職とか大げさなものでなくてもその仕事についたらその人の価値が作れる
ただ複雑多様化した現代ではそうした仕事につくことがむずかしい
みんな不如意な仕事についているのである、だから不満が多いのである
今回阿部前首相を銃殺した人も能力はかなりあったがそれに見合った仕事につけなかったその不満が阿部前首相にぶつけられたともなる、もしその人なりに合った仕事についていればいくらカルト宗教団体に財産を奪われたかあってもそうはならなかった
ただ氷河期世代とかはまともな職につけなかった人達であり不遇だったとなる

●人間は無駄に時間を使いすぎるーそして本来の価値を見失う

では私の天職とは何のか?生涯無職であり旅が仕事でもあった、でもいろいろと探求はしてきた、その成果を今出している、こうしてプログとかインタ−ネットで表現している
それが天職だったともある、ただこうして書いても創作しても現実的には金では一切評価されていない、だから何の価値があったとかされるだろう
でも金ですべては計れないのである、芸術とかなると特にそうである、価値が計りにくいのである、実業の世界だったら計り安いが芸術とかなると計りにくい
だから現実は画家でも芸術家になると金にならず悲惨な生活になったのである

自分は家族に恵まれてそうならなかっただけである、金のためにしたことはないからである、自分の好きなことをしてきただけだからである
ただそこにも相当なマイナスがあり失敗したとなる
結局後悔しない人生はない、それは人生が余りにも短すぎるからである
何か試しているだけで終わっている、何かになろうとして試すことすらできないのが現実社会なのである
だから昔だと職人になるには一八才では遅い、物にならないとして断られたということでもわかる、早いうちから訓練しないと物にならないのである
このように人間は時間がたちまち過ぎる、そしてみんな老人になり後悔しない人はいないのである
「若き内に神を知れ」とかでもそうである、早いうちに求道していないと老人になると神を知ることはできなくなる
若い時仕事を覚えて精進せよともなる、若いうちから学問でも志せとかなる、少年老い易く学成り難しとなるからである

結局人間は無駄が多い、時間の無駄が多すぎるのである、それは私はこうなりたいとかこういう仕事をしたいとかないからだともなる
またそう思っても誰でも医者にはなれないし自分の思うような仕事にはつけない
それで私のように仕事につけず旅ばかりするようになった
でもその時間は無駄ではなかった、そこで見聞を広め地理とか風土に興味をもったからである、そこから学問でも芸術にも興味をもったとなるからだ

要するに人間は天職につけといってもできない、ただ天職についた人はまれにいる
この人は大工が天職なのだなとか、医者に接してもこの人は医者が天職なのだなとか
この人は陶芸とか天職なのだなとかある、でも大方は天職を見いだせず終わっているともなる、それよりロボットのような仕事をさせられるのが現実であり多いとなる
私が経験した仕事が流れ作業だったということでもそうである
何か自分にあった適した仕事につくことは普通はできない、そのためにニートとか引きこもりが今多くなるのは理解できる、そんなことは贅沢だとなるがやはり自分にあった適職がなかなかない、そもそも人間は食べるために仕事しているともなる
天職とか適職は極一部の人しかないともなる

ただ自分の適職天職を見出した人は接していても価値を感じる、その人の価値を感じる
そしてその人はその仕事に満足するとなる、でもその適職でも天職でも必ずしも金になるとは限らない、とはいえ金の多寡ですべての価値は計れないのである
結局例え金になったとしてもその人の天職、適職でなかったもので稼いでもその人の価値にはならない、エッセンシャルバリューにはならないのである
とにかくどうしたら自分の価値を作れるのかそれが人生の初めから若い時から作っていかないと後悔する、大工でも昔なら戦前でも江戸時代でも一三歳からでも修行していないと物にならないとなっていたからである
理系はいいとして文系などは大学すら何も身に着かない、むしろ職人として大工であれそれを見習った方が技が身につくからいいとなる
文系の大学だと何ら社会で生活するものが身につかないのである
その貴重な四年間を浪費するのも大損だったともなる、そういう時間をとりもどせないからである、それで退職してから勉強したいと大学に行く人もでてきているのもわかる
つまりいかに人間はいかに貴重な時間を無駄にしていることを痛切に感じるからそうなるのである


2022年07月12日

紫陽花に合歓の花や黒揚羽 (梅雨の戻りで家に籠もる)


紫陽花に合歓の花や黒揚羽

(梅雨の戻りで家に籠もる)

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陽の昇り海面まぶしく夏雲雀

ノウゼンのあまた咲き散り雷鳴りぬ

黒揚羽とまり舞い去り合歓眠る

誰なれや駅に待つ人合歓の花


紫陽花や今日もここにし休むかな木陰涼しく並木道かな

雨しとと雨音聞きつ家こもり紫陽花の咲く庭を見てをり

山帽子の花あまた咲き雷鳴りて雨にぬれにつはや晴れにけり


一昨日とかは晴れて暑かった、それで雷鳴りが何度が鳴った、いかにも夏らしくなった
でもその後は曇りと雨で梅雨のようになった
紫陽花は梅雨に似合う花であり家で見るのふさわしいとなる

家のノウゼンが咲いた雷が鳴り響いたのも合っている、野馬追い近くになるとノウゼンが咲く、今年は普通に野馬追いはやるらしい、ただまた感染者が増えたから外から見に来る人が集まるかどうかわからない

合歓の花は真野川の下流の海に出る方の堤防に三つ四つ木があり咲いている
そこに黒揚羽が寄ってくる、それを写真にとったが黒揚羽がぼけていた
ここはまだいつも通るて必ず黒揚羽が来るから写真をまた撮ってみよう
合歓の花がぼけていたのは良かった
黒揚羽は結構みかける、でも小さいモンシロチョウなどが少ない、小さい蝶は多い、でもわずかしたみかけない
蝉も鳴き始めないのも不思議である、それは他でも報告されている
何か異変が起きているのか、年によって変わることはある

梅雨のようになってうっとしい、それで家に籠もっている
まず自転車だと暑いと熱中症になるし曇り雨となると濡れるから原町とか相馬市にでも
一か月以上とか行っていない
家にこもっているほかない、家の修理は終わった、でも今度は自分で手作りとかで本を整理する棚を作ることにした、大工さんに頼むと金がかかりすぎるのである
大工仕事は自分でもある程度はできると見たからである
どうしてもでき合いのものではなく自分に合った部屋にあったものにするには手作りするほかないのである


2022年07月11日

田舎の孤独死の怪 (隣の人が死んでいても二カ月わからなかった)


田舎の孤独死の怪

(隣の人が死んでいても二カ月わからなかった)

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この住宅はコンクリートであり隣の物音など聞こえるかもしれない
でも二カ月も死んだのがわからなかった
二カ月も見かけなかったらおかしいと思うかもしれない
ただこの人は日ごろから付き合いがないからそうなった
回りの人が悪いわけでもなし冷たいことでもなかったのである



市営住宅の隣の人が死んでいるのに二カ月もわからなかった
その隣に住んでいる女性を知っている、良くしゃべる人である
それにしてもなぜ隣に住んでいても死んだのを知らなかったのか?
その女性は気さくに誰でも話す人なのである

その死んだ男性は変わり者でありあいさつもしなかったという
付き合いはなかった
でも知っている女性と立ち話していたらその死んだ人の兄が通って行ったのである
兄弟がいたのにそれも付き合いがなかった
これもどういうことなのかわからない
つまり近くに兄弟がいても付き合いがなかったということなのか?

それにしても隣に住んでいる人が死んでも二カ月もわからないものだろうか?
その時は冬だから匂いもしなかったという
その女性はいろいろ気を配る人である、それでも隣の人が死んでいて二カ月もわからなかったというのも謎である

もう田舎も都会と同じだよ

こう言うのもわかる、市営住宅だから特殊にしても底辺層がいるにしても田舎でそういうことが起きるのか?
というのは田舎だと誰だ出入りしているかと四六時中監視されている
近くに親戚がいて監視されている、女性が出入りしたりするのも監視されている
それが田舎である
でもここで孤独死した人は誰も関心がなかったということも謎である

ここの市営住宅には金属の塊りをぶらさげてただ毒口をつくだけの迷惑老人がいる
この人は話しかけても話すこともない、ただ毒口をついているだけだという
こうなると本人にとっても生きることがただ苦しいだけではないか
本人自体が地獄に成ってしまわないか?
何か前に他の市営住宅にいて追い出されたとか言っていた
市営住宅には何か問題な人たちがいることは言える
猫十匹飼っているエホバに入っている女性がいる
底辺層は創価が共産党に入っている
それで名古屋に行った時、そこも市営住宅地であり共産党と公明創価の宣伝があり
おそらくそういう場所ではどちらかに属していないと生活できなくなっている

とにかく〔田舎も都会と同じだ」というときこの孤独死は特殊なことではないかもしれない、田舎でも別に関心を持つとしても監視しているとか何か苦しんでいる時
他人の不幸は蜜の味となる、それがあからさまなのである
そういうことを話題にして楽しむのが田舎だともなる

その女性は農家の出である、それでも(農家は汚い)としきりに言う
そのことは戦後食料不足になったとき都会から食料を高価な着物とか骨董品とか何か食料と交換したとき嫌というほど思いしらされた
農家の人が素朴とかはない、田舎の人間が素朴とかないのである

ともかく田舎でも底辺層がいる、そこはみじめだとなる
むしろもしかしたら江戸時代の長屋のような所では人情があったとか見る
現代はむしろこうして隣に住んでいても無関心だったとなる
ただその人による、死んだ人は普通ではない、異常だったともなるからだ
でもそうして孤独に死んでゆくのも悲惨である
でもまたそうなり安いのが現代でもある、それは都会だけのことではない、田舎でもそうなのである

何か原発事故で復興住宅でも団地のような所でも孤独死があったとされる
孤立してそうなった
でも逆に仮設住宅では一軒一軒であり協力しあって一人暮らししていた人が喜んでいたというのも不思議である、そこは江戸時代のような長屋のようになったのかもしれない
年配の女性でも辺鄙な場所に住んでいたからいつも近くで逢えるからいいと言っていた
これも意外だった、田舎だと離れて住んでいるからである
女性は話し好きであり話すのが生きがいともなるからだ

現代の問題は一人暮らしが多くなることである、すると孤独死も増えて来る
最近知った大工さんも離婚して小高から原町に移り住んだ
すると一人になる、それで家事とかで困っている、でも仕事するから仲間もいる
でも家に帰ると一人なので今までは違ってくる、がらんとした家に一人でいることになるからだ、とにかく離婚する人もまた熟年離婚になる人が多いのである
死別もあるが一人暮らしが増える、すると孤独死に増えてゆくのである

とにかく近くに住んでいても何の仕事をしている人かわからないことも多い、田舎でもそうなのである、そこで人間関係が希薄化している
ここで孤独死した人は特殊な人だからそうなったのだがそれでもこうなりやすいのが現代だとなる、田舎でも都会のように他者の関係が希薄化している
ただ田舎は逆に関心を持つにしても同情するとかではない、相手の不幸を喜ぶ関心だとなるから困る
結局この世の中で住みよい場所などないのである、田舎だと自然がありその美に身近に接するとしても人間自体はいいとはならないのである

それにしても隣の人が病気になり福祉の車に乗せられていた
こうして病気になれば福祉関係の人が来る、でもそこには二カ月間死んだまま放置されていたのである、ただ突然死んだからそうなったともなる
病気になったら福祉関係の人が回るからである、それがないから突然の死で放置されたのかとなる
ともかく高齢社会ではこうして孤独死する人は増えて来る
そうなると阿部前首相が殺害されたが世界中からお悔やみがあったりするからそれが悪いものでもないとも見る、一方全く兄弟すら付き合いがなく放置されて誰も知らず死んだ人がいた、その差も大きいとなる
その人は冬に死んだけど夏だったらこうはならなかった、匂いがするからである
いづれにしろ一つの田舎の怪であった

2022年07月09日

阿部前首相を殺害した犯人の動機はカルト教団への恨み? (政教分離を全く無視してカルト教団は野放しになっているー自民と創価は一体)


阿部前首相を殺害した犯人の動機はカルト教団への恨み?

(政教分離を全く無視してカルト教団は野放しになっているー自民と創価は一体)


・母親が統一教会に入信し、多額の寄付をさせられて破産。家庭が崩壊したことで統一教会に恨みを抱く。
・銃を崇拝する統一教会の分派サンクチュアリ教会に所属していたことから、銃の構造に詳しかった。
・統一教会幹部の襲撃を狙って銃を自作していたが、幹部の居場所を突き止めるのが難しかったことから標的を変更した。
・安倍晋三氏は統一教会の集会に参加したり、広報誌の表紙を飾ったりしており、統一教会が日本で広まった原因は同氏にあると考えたため、標的に選んだ。
・政治的には自身も保守派であり、安倍氏の政治姿勢に対して特に不満はなかった。選挙期間に実行したのは警備が手薄で狙いやすかったから。

これ、テロでも暗殺でも民主主義への挑戦でもなんでもなく、たまたま標的が大物政治家だっただけのただの宗教トラブルによる逆恨み殺人じゃねーか・・・

この国はカルトが幅効かせすぎなんだよ
金もらってるのか知らんけど日本はカルトに甘いから起こるべくして起こった

宗教にはまって一家離散は創価でも珍しくないから
この問題はあまり大きくさせない気がする

政教分離の意味を知らない馬鹿って本当にいなくならないよなぁ。
宗教権力と政治権力の分離って意味であって
政治家が何かの宗教の信者だったり信仰を持ってるのを禁止するものではないぞ。


これが本当だとするととばっちりだったのか?私が常日頃政教分離を主張して訴えてきたでもこのことに関心がない、でもこれは民主主義にとって大きな問題だったのである
だからこそ阿部前首相がそのために殺害された、自民党は余りにも政教分離などに関心がない、票をとるならどこでもいいとしている、それで創価と一体となる

政教分離の意味を知らない馬鹿って本当にいなくならないよなぁ。
宗教権力と政治権力の分離って意味であって
政治家が何かの宗教の信者だったり信仰を持ってるのを禁止するものではないぞ。


こういう人が常にいる、これも詭弁なのである、創価でぱ選挙は仏法の戦いであり聖戦なのである、仏が味方して選挙に勝つとしている、だから常に選挙は常勝でなければならない、そして必ず当選している、選挙となると拠点に集まり題目をあげて祈り票をとりにゆく、フレンド票でもとりにゆく、会員でも百万単位で幽霊会員がいるからである
それは名ばかりであり何もしていないか一応名簿では会員になっている
その数が膨大なのである、その幽霊会員を回り一票に結びつけるのが幹部の仕事なのである
一票になれば幽霊ではないとなるからだ

いづれにしろ戦後雨後の竹の子のように新興宗教が生まれた、それは戦後戦争に負けて精神的支柱が失われからである、、精神的空白ができて新興宗教が生まれて繁盛したとなるその最たるものが創価だった、それは最初団地の宗教であり地方から出てきた人達が仲間となってコミニュティを作ったのである
それは地方から出てきて精神的不安があり仲間造りをしたということである
それは本来の宗教とは違う、むしろ宗教は衆人と離れシャカのように岩窟で悟りを開くとなっていたからである、東京のような大都会で生まれようがないものである

とにかく創価の現実を知れば確かに信仰は自由である、でもそれが組織化集団化して政治団体となり権力化して権力奪取を目指すとなると全く政教分離に反するものとなる
それは歴史的にも寺が実際は城であり権力を握っていて武士と対抗できたから信長が攻めたのである
余りにも政教分離が法律としてあるのに大目に見過ぎたのである
自民党でも政教分離など関係なく創価でも他のカルト教団でも政治化するのを見過ごしていた
そのことが今度の事件になった、そんなことで殺されることは悔しいともなるがこれも
自民党自体が創価とかカルト教団と一体となり票を得ようとしていたからだとなる
その報いだったとのとまでなる、この事件の根源はカルト教団から票をもらいたくて
阿部前首相がこびたことである、票をえられればいいとして余りにも不用意だったのである

統一教会でも韓国がかかわりそれは国の大問題だったがそれも寛容だった
票にがもらえればいいとしかなかったのである
宗教団体は票田だからそうなる、内村鑑三は外国の宣教師を嫌った、日本は日本独自のキリスト教を作るべきだとしていたからである
つまりエホバとかもそうでありそれはアメリカの意向を受けて日本を支配しようとすることがある、そのことは秀吉の時代にもありキリスト教でも外国となると支配の道具として使われるということで警戒したのである
日本のキリスト教会は今でも実際はアメリカから支援受けているかもしれない
それは政治的にも支配されることになる
宗教は別に教団とか教会に行く必要もない、行ったとしても参考くらいにしておけばいいのである、教会員になる必要はないのである

ではなぜ会員を増やそうとしているのか?

それはやはり権力化して日本に影響力をもつ背後の力があるとなる
ソビエト連邦の時代は共産主義が宗教の代わりをしていた、今は中国がそうである
共産主義で国を治めているから日本でも共産化されるとなり自由がなくなる
信仰の自由もなくなる、思想の自由もなくなる
カルト教団は本当は法律でとりしまるべきものである、そうなると信仰の自由に反するとなるが現実に信仰というより明らかに政教一致であり政権にかかわり権力を操作しようとする、別に預言者なら個人ならいい、その人は集団組織の人ではない、個々人で諫言することはいいのである、それは日蓮でもそうでありもともと個人が政治を批判したのであり集団組織ではなかったからだ、そこには何の権力もなかったのである
数もないし何もない、空手で一人て権力者に諫言したからである

それが大集団で組織化して権力を得るためにのものとなったのがカルト教団である
だからカルト教団は取り締まるべきなのである、政教分離の法律にも違反している
でも自民党は票が得られるとして何も言わないのである
その結果として阿部前首相が殺されたとしたら自業自得なのか?
やはりなんらかカルマが個々人でも集団でも現れて来る、余りにもカルト教団など宗教でも何てもないに票になるからと容認してきたつけだったのかともなる

ただ政治家とは危険な職業である、なんかわからない理由でも一人の狂気の人間が出てきて殺されることは普通にある、だから一体何が原因だったのかなかなか明確にできない
もし宗教が関係していたとなると阿部前首相にしても意外だったとなる
そんなことになりうるとは思っていなかったろう、別に票をとればいいとしか考えない
そのために殺されるとはまでは考えない、でも前々から統一教会は問題視されていたのである、そういう団体を安易に応援することは危険だったのである
でも民主主義は数で決まるからどうしても票がまとまってとれる所ならどこでも行くとなる、つまり民主主義自体が問題なのである、すべてが数で決まる、その中身など問わないのである、そして大衆民主主義になり全体主義になりファシズムになる
それはナチスで経験しているのである、でも政教分離は全く守られていないのである
この犯人がカルト教団への家庭生活がめちゃくちゃにされたとういことで恨みを持っていたとなるとまたそこにその団体の幹部がいてねらっていたとなるとそのとばっちりを受けたとなる、でも阿部前首相もかかわっていたから同類となり殺されたともなる
カルト宗教団体は下火になったとしても現代の病的現象として起きる
だからこれを放置しているとまた危険なことになる、余りにも安易に見ているからである

特定の宗教団体に政治が加担

カルト教団に苦しんだ人の恨みをかう

銃弾でで殺害される

こんな因果になるのだろうか?
政治家は票がもらえるとしてカルト教団を組みしてはいけない
それは政教分離に反する
カルト教団で家庭がめちゃくちゃされたり苦しん人がいる
だから取り締まるべきだ
まず自民党が創価からの票を得ることはやめるべきだ
そうしたら政治も左右される、全然それが成されていないのである
むしろ票をもらいたくて積極的に協力関係になり政権を維持している
これを被害者になった人は恨むとなる
もちろんそれは自己責任にもなるが全くそうした害になるものが野放しにされている
ことにも問題がある
そしていつか宗教とは関係ない政治家でも復讐される
つまりとばっちりを受けるとなる

ただここまで因果めぐるとなると想像もできなかったとなる
でも因果めぐりめぐってくる、カルマはめぐりめぐってくるの例だともなる
どこかで関係ないようでも現象となって苦しみとなって現れるとなる
つまりその根をたたないとまた同じことが起きる
でもそうした根をたつとなるとこの世では不可能だともなる
様々な悪や罪は消えることはない、宗教詐欺でも犯罪にもなるが罰せられることもこの世ではない、むしろ悪人が善人になっているのも現実である
誰が悪人なのか善人なのかもわからないのである
ただこの事件もなんらか教訓を残した、それはカルト教団とかは危険なものであり政治と分離しないと宗教のことで政治家も被害を受けることなのである
でも政治家とはいろいろなものとかかわりそこで反対があり殺されるということがあったそういう職業でありカルマになる

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つくづくどこでカルマがめぐってくるかわからない、思わぬことからめぐってきて苦しめられる、今回は阿部前首相が統一教会とか宗教団体にかかわったことでカルマがめぐって来た、犯罪に合う時もどこからカルマがめぐってくるかわからないのである
それで都会は意外と危険かもしれない、人が多いからカルマを受けやすくなる
そしてカルマは断ちきれない、延々と人間につづいてゆくのである
カルマは解消できない、それは罪ともなるが解消しないのであ
今回の事件ももし宗教が関係していたなら阿部前首相にとっては思わぬことになるのである、ただそれは政治家でも票が欲しいからと見境なく運動するからそうなる
危険な所にも票になるならと行く、そこに大きな落とし穴があったみる
posted by 老鶯 at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

宗教団体の恨みで阿部前首相を襲う? (カルト教団の被害者も多い)


宗教団体の恨みで阿部前首相を襲う?

(カルト教団の被害者も多い)

●カルト教団の被害者の犯行なのか?

「特定の団体に恨みがあり、元総理がこの団体と近しい関係にあると思い狙った」という趣旨の供述をしているということです。

また、捜査関係者によりますと、この団体について「母親が団体にのめり込み、多額の寄付をするなどして家庭生活がめちゃくちゃになった」という趣旨の話をしているということです。

山上容疑者がその宗教団体について、「家を破産させられた」「もともとトップを殺そうとした」と話していることが新たに分かりました。

この宗教団体が何なのかわからない、統一教会というのが当たっているのか?
創価も自民党と一体と言う時そうなのか、カルト教団にのめりこむことでと家族が巻き込まれそれで家族崩壊にもなる
また熱心だと必ずそこが選挙の拠点として利用される、創価の場合はそうである
選挙本部のようにされる、そこに人を集めて票に結びつけるのが日々の闘争だとなる
仏教の戦いであり選挙に勝つと仏法の勝利だとなっているからだ
完全に政教一致なのだけどとがめられるさともないし無税で政治活動でも経済活動でも行えるので税金を払いとなったのである
創価でものめりこんだら家庭生活がめちゃくちゃになったとかあるだろう
他のカルト宗教団体でも同じである

何か真光とかに入っていた人が裁判を起こした、その女性も家庭が破壊されたから恨みでそうなった、でもそういうことを訴えても結局そんなカルト教団に入るのは自己責任になってしまい、その罪は問いない、でもそれは明らかに宗教を利用した詐欺だともなる
でもこの世では罰せられない罪などいくらでもある
権力を持つと罰することができなくなる、検察でも大きな権力を持つ団体だとその圧力があり裁くこともできないとなる
要するに社会的法律的に防ぎようがないのである、いくら政教分離していない法律違反だとしても権力を持つと罰することはできない、自民党と創価は一体化して権力を形成して既得権者となり得することになるからだ
その利権を失いたくないとなり互いに不満はあっても結合する
それはあくまでも利権を維持するたにそうなっているだけである
だから利権が得られないと何らか利益にならないとかなり分断にも将来的にはなる
要するに権力を得る為に結合しているのだか得られないとなると分断する
自民党も票にならないとしたら簡単に創価でも捨てる、利をもって結ぶものは利をもって離れるともなる、金の切れ目が縁の切れ目ともなる

わからないにしろこの犯人はカルト教団にのめりこみ家庭生活がめちゃくちゃにされたということで恨んでいた、カルト教団にのめりこむと家庭生活や仕事より信心とかが優先だとされて活動する、運動員にさせられる、そして会員獲得のために日々活動させられる
そうして家庭生活よりその運動が第一とされ家庭生活がめちゃくちゃにされたとなる
それで幸福の科学の教祖の息子がyoutubeで親を批判している
何かここでもやはり家庭生活がおかしくなっていた、妻とも離婚して訴訟にもなっているからだ
もしこのことが阿部前首相の襲撃の動機だったとすると考えさせられる
なぜならあまりカルト宗教団体のことを批判できないからである

●カルト教団は宗教詐欺罪にもなるが罰せられない

すでに大きな権力を数でも政治でも持っているからである
そして宗教を標榜していることでもしにくい、つまり何か批判すると地獄に落ちるとか罰が当たるとかなる、それは政治や経済活動でもそうである
なぜなら選挙とは創価にとっては仏法の戦いであり聖戦ともなる
選挙に勝てば仏法の勝利である、だから常勝しなければならない、仏に従うことは必ず勝つことだからである
完全な政教一致なのである、それは天皇を神として戦った日本の戦争ともにている
そのために天皇を批判した牧口常三郎は獄死した、でも今は反対するものはすべて仏法に逆らうものとして地獄に落ちるとか罰が当たるとか何百万人の会員が脅迫するのだから
これはナチスと同じなのである、警察でも逆らえないとなったらそうである

カルト教団は宗教詐欺罪でもあり本当は取り締まるべきものである
その最悪の例がオウムだったのである、それを放置していたから被害になった
何もしないで放置するとナチスのようになり恐ろしい結果になる、仏教ファシズフムになり一向宗のように題目を唱えて戦地でもどこでも突っ込んでゆくとなる
イスラム教にもキリスト教でもそういうことがあった、カルト化して戦争になり聖戦となり殺してもいいとなったからである
宗教戦争ともなり悲惨な結果になった、不思議に宗教がかかわり人を殺すことになって
罪悪感もない、オウムだとボアしろとなり平気で殺された人達がいたのである
宗教による災いも大きなものだった
宗教が戦争にかかわると人殺しも正当化される、仏教ではそういうことはあまりなかったでもオウムではあった、宗教そのものは悪いものでない、悪いのは悪い人間が宗教にふれてかえってその悪が大きなものとなる
触らぬ神にたたりなしであり安易な気持で利益が得たいからなどと宗教に接するとむしろ祟りがあるとなる、現実にカルト教団は全体が祟(たた)られるものなのである

宗教というとき何か徒党組み集団化して組織化していること自体それは権力集団になる
現実に比叡山でも一向宗でも

「難しいことはわからないけどとにかく念仏で病気が治る」とか、そんな民衆の生活によりなじみ深い欲求・需要から一向宗への期待が高まり、裾野を広げていったのでしょう。

そして、この民衆の求心力を恐れたのが戦国大名のような支配層でした。素朴で土俗的な、いかがわしい呪力を使って一向宗は各地で民衆を組織している。戦国大名たちから見た本願寺勢力(一向宗)とは、敵になりうる軍勢を抱えた一大組織であり、だからこそ警戒したのです。

宗教が力を持ったのは病気平癒を願ったからである、会津で仏教が盛んになったのもそうだった、人間の最大の弱みは病気だからである、病気はその頃直しようがないからだ
すると祈るほかないとなり医者代わりに僧がなっていたのである
それで力をもつようになった、そうして寺は比叡山でも山城であり僧兵がいて不可侵の領域であり琵琶湖の交通で税をとっていたりした
すると信長とかからみれば宗教というより敵対する一大勢力と見たのである
僧兵もいるし税金も独占するしとなれば政治化した武装集団と見たのである
それは創価を見ればわかるこれも時代が変わり同じようなものが出てきた
時代は違うにしろ歴史は繰り返すとなる、そしてこうした寺の僧が武士になったというのも理解できる、僧兵が守り武装集団なのだから当然そうなる

●宗教団体は武装化もするし共産党でも同じ

オウムでも武装化して権力を奪取しようとした、オウム王国を作ろうとした
でもその前に選挙にもでて議員になり平和的に政権を奪取しようとした
それが失敗した、幸福の科学でも政治化して選挙に出ているが当選できない
創価はもともと選挙のために組織化した団体だから議員になり政治で力を持ち自民党と一体化したのである
共産党でもそうだが武装化して政権奪取をもくろんでもいたのだが民主主義だから選挙で政権をとることに変わった、平和団体を装うようになったのである
またキリスト教でも島原の乱があったがあれも浪人が集まり徳川幕府を倒すために戦った純粋な宗教により抵抗ではなくそうした浪人が野心家が集まってきたのである
つまり宗教でもこうして生臭いものがあり権力を得るために宗教組織にでも入ってくる
また利用もする、そういう浪人は信仰とは何の関係もなかったのである
ただそこが徳川幕府と戦う集団でありそこで一旗あげようとした

そういうことは創価にも言えるし他の団体にも言える
とにかくあらゆるものを吸収する、それは創価の場合は一票になればいいからである
その人の罪だとか人格だと心の問題は一切関係しない、一票を得ることしか関心がないのである
そして現代の権力とは数なのである、なぜ数が権力になるかとなれば経済的にも数が集まれば勢力になる、店でも十人が買えば利益になるとして歓迎される
一人が買っても商売にはならないのである、だから現代では数が権力になるのである
大衆民主主義であり大衆を操作することで数を集めることで権力化して社会を支配できるのが民主主義だともなる

赤信号みんなで渡れば怖くない

ナチスでも民主主義の選挙で選ばれて力をもって全体主義、ファシズムになり全国民をまきこみ多大の人間が戦死したのである
民主主義からファシズムになりやすいのである、それは数を第一とするからそうなるのも当然だとなる、数の前に今はひれふす、そしてマスコミは主にテレビはこの大衆を操作する、そこでむずかしいことは言わないことである
ハイルヒットラーでもいい、題目を唱えることでもいい、それはわかりやすいから洗脳されるのである、だからこうしたカルト教団とかマスコミを支配しようとする
創価だと福島民報で聖教新聞を刷らせるとか毎日新聞でもそうである
何かそこで経済的に援助してマスコミを支配して批判させないようにするのである
それは原発事故でもそうだった、それは追求してきた
だからNHK党がNHKを批判するようになった、インタ−ネットで新しい勢力が出てきたのである、マスコミは規制の勢力の権力の機関のようになっていたからである

現代文明社会は民主主義とかマスコミとか一見自由社会のように見えてもそれが巨大化すると大衆民主主義であり背後の巨大な利権を持つ組織集団に支配されやすいのである
原発でも電事連から800億円の宣伝費が出ていたのである
そして政経東北でも相双リテックから宣伝費が入り裏表紙全面で宣伝していた
相双リテックは除染でたいした技術もないのに大儲けして幹部で何十億という金を山分けしていたのである、それはNHKでもちょっとだけ批判していた
こうして報道機関も簡単に買収できるのである
結局それも新聞でもテレビでも金がかかりすぎたことなのである
新聞でも一軒一軒回って配達すること自体手間であり金がかかりすぎる
本を出版するにも金がかかりすぎる、だから報道の自由もなかったのである
インタ−ネットなら金がかからないのである、プログなど無料でてきるのである
手間がかかっても無料である、youtubeでも金がかからないのである
するとここに言論の自由があるとなったのである

●民主主義ではまともな人間が選ばれない

なぜ民主主義が行き詰まっている、無力感があり選挙に若い世代が行かないのかとなると選挙する前から結果は決まっている、様々な利権団体の票で趨勢は決まる
だから早めに当選確実になる、一パーセント開票でも当選確実になるのである
それはすでに票が決められていて計算できるからだとなる
公明党ならか確実に計算できる、会員が必ず投票するからである
こうして民主主義の本場でももう選挙は不正だとして暴力にもなった
すべてが数だというときそれが正しいとはならない、かえって今求められているのはそうした選挙で指導者を選ぶことではないのかもしれない
選挙で選ばれる人間は禄な人間がいないというときでもそうである
第一議員自体がそうした一票を入れる人を馬鹿にしている、選挙の時だけ頭を下げるからいいことは言うが当選して権力を持てばそんなことは忘れる
一時的に御愛想をして票を得るがあとは自分が権力をもって得することしか考えていないのである

民主主義では選挙ではもうまともな人間など選ばれない、まともな人間は選挙になど出ないともなっているのである
そもそも権力を得て自分の欲望を充たしたいとしかない、それは共産党であれカルト教団であれ何であれ同じである、共産党でもソビエト連邦でも中国でも同じだった
権力を得る為に革命をしたのであり結果的にその内部の権力争いで粛清されて何千万人が死んだとされるのである、外部に対しても権力闘争であり内部でも権力闘争である
それは欲の闘争だともなる、内部の組織でも地位につけば権力を得て欲望がかなえられるそのために組織団体を利用するとなる
人間はどうしても平等をめざしても不平等になるのは結局個々人の欲を抑えることができないからである、自分の欲を充たしたい、他の人はそのために利用するというだけになるその組織団体の内部でも欲をめぐって争いがあり外部に対しても欲を充たそうとするのである

ただ下層階級をみるとそれほど贅沢しようとしていない、今日食べれればいい、今日暮す金があればいいとかなる、でも電気水道ガス代が払えないことで一番苦しんでいるのである、何か議員になって金と女とか地位と富が入ればいいとかではない
そういうふうに苦しい人達はやはり一応同情するとはなる
でもそういう下層階級でありたくないとして団体組織で運動していい暮らしをしたいとなる、
それがおかしいのは矛盾しているのは共産党でもイデオロギーがあり平等の思想があり
カルト宗教団体でももともと宗教は欲を抑えることが基としてあった
だからシャカでも無一物となり修行した、何も持たない乞食のようになって修行したのである,キリストも寝る場所すらなかった、教祖がそうなのだから見習えばいいのだが誰一人としてそんなこと見習う人はいないのである
結局人間の欲を消すことはできない、だからこそいくら宗教の看板をかかげてもそこは俗化してかえって欲望を満たすものとしてある

人間はそもそも共産主義であれなんであれ人間の欲を消すことはできない
そこに最大の問題があったのである、そこでその矛盾に悩む人もいない
なぜなら欲望など否定しないしむしろ欲望を肯定してもっと欲望をもつことがエネルギーがあることだとして一心に祈る、地位が欲しい、富が欲しい、女が欲しい、・・・
あらゆる欲望をかなえるために祈ることになる
これが人間の現実なのである、ただ病気を直したいというときこれは人間の最大の弱みだからそのために祈るというときは悪いとはならない、でもそれが権力を得るために利用されるから宗教は危険にもなる





posted by 老鶯 at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年07月08日

阿部前首相銃弾に死す (民主主義は限界に来て暴動も起きるー戦争も起きる)


阿部前首相銃弾に死す

(民主主義は限界に来て暴動も起きるー戦争も起きる)


この事件の真意はまだわからない、でも何か日本でも世界でも民主主義でも資本主義でも行き詰まり限界にきている、アメリカでも選挙をもう信用していない、不正選挙だとして暴動が起きた、日本でも民主主義といってももう既得権者とかで固まられていて変えられない、何か宗教団体のことをも言っていたというが明確ではない

特定の宗教団体幹部の名前を挙げ、「この幹部を狙うつもりだった」という趣旨の不自然な供述をしていることも判明

これも政治にかかわり利権団体と化した宗教団体が自民党の背後にいる、それより創価と一体化したのが自民党だからである、また自民党は特に阿部前首相は統一教会の会合に出ている、親密な関係にあり応援されている

だから宗教団体の幹部というとき誰なのが?

奈良と言うと天理教の本部があるからそういう団体に日ごろ反発していたかもしれない
カルト教団は宗教ではない、利権団体でありそれで税金を納めないことであからさまに
NHK党とから批判されたのである、それも信濃町創価本部前で黒川氏が演説していたのには驚いた
そういう宗教を装う利権団体に反発する人はいてもその数と権力と抑え込まれて何も変化しない、それにいらだつ人達もいる
ただガス抜き政党としてNHK党があり新しく出た参政党などがある
でも現実の政権は依然として自民党が継続して変わらないのである

またシルバー民主主義であり高齢化社会は60以上の人達が多いのだからその人たちを優遇する政策をとらないと票にならないのである
でも4万とかしか年金をもらえない人でも引かれるようになったのである
そして日本は貧困化して物価があがり何か余裕ある人がいないのである
賃金も30年上がらないとか日本は失われた30年を継続している、そこから脱することができないのである

何か暴動が起きるとか不満が爆発するとか言われてきた、それほど追い詰められた人達が増えたからである、つまりもう民主主義とかでは何も変えられないという風潮になる
するとどうして変えるのかとなると暴力だとなるのである
それは民主主義の本場のアメリカでも起きているしウクライナでもロシアが侵略したように何かを変える時話し合いではできない、だから暴力となり軍事力が変えるものとなる
民主主義でも資本主義でも限界に来ている、一見公正なように見えても実際はそこにはもう既得権者とか利権団体とかシルバー民主主義で数が多いことによってすべてが決められる、それで絶望している人達が増えている、選挙に行ったて何も変わらないとなるから

若い人は選挙に行かない、選挙する前から決まっているからである
日本は基本的に自民党一党独裁だったのである
一回だけ民主党の鳩山政権の時自民党から変わった、それは失敗だったにしろやはり民主主義が権力を持つと既得権化するから政権を変えないと変われないのである
それは今までは暴力であり武力で変えていた
それで暴力が全面に出てきて社会を変えるともなる

ただ犯人が自衛隊に属していたということも騒ぎになった、やはり自衛隊とかで訓練していたからできたとなる、素人ではできないとしている
いづれにしろ日本は世界でも動乱の時代になった、それは東北大震災津波から福島の原発事故から始まっていたのである、そこに激動した時代の変化に突入した
故郷に人が住めなくなり荒地化して空家化したからである、それは回復していないのである
その後も去年だったか大きな地震があり今回の地震は強烈だった、未だに家が直していない散らかった本などが整理できていないのである
回りでも瓦屋根は直されていない、今回は瓦は自分の家では壊れないで助かった
前はいわき市から来た業者が直してくれた、この地震も大きかったので恐怖だった

何か戦後70年とかで大きな変化が来ている、明治維新から70年で太平洋戦争になりそして70年過ぎて激動の時代になる
激動の時代になると規制のものが崩壊してゆく、戦後の焼け野原のようにもなる
あらゆるものの崩壊が起きて来る、終身雇用の会社の崩壊、銀行の崩壊、医療崩壊、自治体の崩壊、医療崩壊、教育崩壊・・・あらゆるものが行き詰まり崩壊してゆく
それは戦後の焼け野原のようにもなる、そこで混乱してあえぎ苦しむとなる
何か安泰のものがない、戦国時代の下剋上のような世界になるともされる

そういう時犯罪が増えて日本もアメリカのようになると警告する人もいる
現実に犯罪は増えている、田舎でも南相馬市の原町で宝石強盗とかあったから驚いた
実際は田舎でも安心はなくなったのである
なぜなら生活が追い詰められている人が増えてくるからである
あらゆるものが物価が上がって10円20円安いのを探している人がいる
もう毎月電気水道ガス代が払えない人がいる、百万以上いるとか賃金が上がらずに物価高で苦しむ人達がいる

それはアメリカでも世界中で起きている、ロシアが戦争で肥料とか小麦とかガスが入ってこないということでもそうである、コロナウィルスでもそうである
世界中が大きな変化に襲われている
こういう時また必ず大きな天変地異が起きて来る、水不足とか農作物に被害があるとか
いろいろあり餓えている人が世界中で増えたとかなる
世界中が大きな激動になっている、グロ−バル化経済というのも見直される
食糧危機になったら自国第一主義で食料は輸出しない、インドでは麦を輸出しないとしている、これでグロ−バル経済も止められる、米中の対立で今までのようなグロ−バル化はもう限界である、それぞれの国で自立してまかないともなる
貿易はあるにしても基本的にはそうなる、でもグロ−バル化してきた経済を止めることの反動も大きい、そのために世界中で苦しむ、そもそも90億になるとかもう地球でそれだけの人間は養えないのである、これも限界に来たのだ
あらゆるものが限界現象が世界でも起きている、その大きな変わり目に来ているのが今なのである

だからこういう時下剋上が起きて来るというのもわかる、既得権者の既得権が奪われる
上級国民と言われる人達の既得権が奪われる、そういうとき戦国時代のようになり下からでも上に上れる時代にもなる、戦後の焼け野原だと食糧をもっていた農家の人達が力をもった、都会の人達は何か高価なもの着物でも骨董品でも食料と引き換えに交換した
その時紙幣は金では交換できないともなっていた
預金封鎖もあり金は統制されて市中に出回らない、その時物々交換にもなった
またそういう時代が来るのかとなる、円安になり物価が上がりインフレになればそうなる銀行であれゆうちょであれ貯金しても利子はつかない、それで銀行とは何の役割があるのかとなる、投資信託を売りつけるとなると証券会社なのかとなるからだ
そうして銀行も崩壊するとなる

つまり規制のものが力を失いあらゆるものが崩壊してゆく、それは戦後の焼け野原と似たような状態になる、そこでどうして生き抜いてゆくのかとなる
もう高齢者になるとその気力もないとなる
なぜ戦後の焼け野原になって復興できたのか、それはとにかく子供が多かった
何もない食べるものもないような状態で子供が多かった
子供は未来であり確かにその時高度成長時代になりその多かった子供たちを労働力として吸収できたのである、そして賃金は毎年上がっていたのである
今日本の給料は上がらない、なのに物価だけが上がっている
そして税金をいろいろととられる、4万くらいの年金からも年金は減らされているのだ

本当にこれから暴動が起きて来る、その兆しとして今回の事件があるのかとなる
こんなこと日本で起こらなかったとみんな言うがそれほど日本は危険な状態になっているのである、結局もう民主主義は機能しないと若い人たちも絶望して選挙に行かない
そして選挙でも既成の団体組織の票で決まっている
その組織団体となると宗教団体などがそうである、創価などは選挙のためにある団体であり利権団体にすぎない、だから税金をかけるべきだとなる
宗教活動ではないのである、政治活動であり経済活動なのだからそこに税金をかけるべきだとなる
それもできない自民党は創価と一体化しているからである

そこでまた阿部前首相は統一教会と一体でありとか何か不満があって撃たれたのか、わからないにしてもそういうことはありえる、そうした利権団体に牛耳られている、民主主義が機能しない、選挙など何の効果もない、すると一人の人間をテロで襲えば変わるとなるその反響が大きいものとなるからだ
民主主義は維持すべきである、でも民主主義に限界を感じている人も多いのである
そして無力感をもち暴力に走る人もいてこんな事件が起きたのかとも見る

日本が安全だとか犯罪が少ないとかは終わった、暴力で変えるほかないと思う人達も増えている、それは民主主義の不公平が是正できないからそうなっているのである
そうした不満が爆発寸前になっているのが今の日本にもなる
だから暴動が起きるというとき今までの大人しい日本人でも不満が鬱積してそうなる
それだけ危機的状態になっている、もう選挙では変えられないとなるから暴力になったのかともみる、ただこの人がどういう人なのか良くわからない
でもこれまで日本でこんなことありえなかった、それが起きたことはまさに大人しい日本人ではなくなったということかもしれない、次なる標的は誰かともなり怖いとなる


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2022年07月07日

NHK党と参政党の過激な主張に賛同 (創価の支持は大衆社会から生まれたー宗教とは何の関係もない)


NHK党と参政党の過激な主張に賛同

(創価の支持は大衆社会から生まれたー宗教とは何の関係もない)

NHKsouka.jpg
(3) 信濃町、創価学会本部前、街宣。三木谷のおじいちゃんは創価学会の幹部。創価学会は税金を払え、池田大作氏の個人資産1兆円超え? - YouTube
●信濃町であからさまに創価を批判する黒川NHK党

信濃町の創価本部の前で黒川氏が訴えていることに驚く、またNHK党の がNHKの選挙番組でもあからさまに創価とかを批判した
こういうことは今までなかった、それができたとういことの驚きである
創価のことについては書いてきた、創価は団地の宗教だとするとき別に小さなグループで相互扶助団体だったら問題なかった
それがなぜ権力奪取を目指し政権をとることを目的と化した団体になったのか?
王仏冥合などという政教一致の中世的なものを現代に実地に応用していること自体
ありえないことである、
ヨ−ロッパで政治と宗教が一体化したことで腐敗した、人間の正体は変わらない
人間の真実は変わらない、人間の欲が消えてないことは変わらない
そこから問題が起きてくる

人間は権力を持ちたい

でも人間が権力を持つことが一番怖い

なぜ人間が権力を持ちたいし権力を持つと怖いことになるのか?
それは人間の欲があってそうなる、ダビデでも部下の軍人の妻の裸を見て魅せられて
その部下を危険な場所に派遣して死なせたのである
つまりこれも人間の欲からそうなったのである、そして王であり権力をもっているから
命令できたことに問題があってのである
誰も止めることもできなかったからである、王に逆らうことはできなかったからである

●権力とは何なのか?

これは別に政治権力ということでもない、人間が力を持つものである、権力といっても
いろいろある、その最たるものが暴力になる、相手を理屈などではない、正義もなにもない暴力で従わせる、だから第一の権力は暴力であり軍事力になっていたのが世界の歴史である、何かを決めるにしても話し合って決めることができなくなる
すると最後の手段は暴力であり軍事力になる
それはロシアのウクライナ侵略でもそうである、ロシア人が迫害されているというのは真実だったようだ、それが止められないからロシアが軍事力で止めようとして侵略してきたとも言う、現実に迫害されて一万人とか死んでいるのも事実だとなる
その援護のために侵略してきた
どちらに肩を持つというのではなく、ロシアにも言い分がありもう力で抑えねばならない戸なった、もちろんウクライナにも言い分があった
双方の言い分があったとしても最後は実力行使であり暴力で軍事力で決めるとなる

権力というとき軍事力であり金であり民主主義では数である、この三つを抑えると権力を持ち人を支配できる、そして民主主義でも自由社会でも実際は金の力が大きい
つくづく人間は金に支配されるものだと実感した、毎月電気水道ガスが止められる人は
切実に金を求めている、生活保護でもそれを払うほどの金を支給していないからだ
するとその金を与えればその人は従う支配できるとなる
その人は病気であり金がかかる、でも生活保護でも全額を支払えない、三割くらい払うのである、その金がないのである、そうして今日本が貧困化するとその金が払えず医者にかかれない病院にも入れないとかなっている
だから金がないことは命にかかわっているのである
すると金を与えることで確実にその人は金を与える人に従うことになる

その金融を支配しているのがロックフェラーだとかロスチャイルドとかユダヤ人とかなるそれは常に陰謀論になる、それはわからないにしろ金によって人間は支配できることである、人は金がある所に集まる、明日食べるものがないというとき死につながる
でも金があれば食料は買えるのである、そのために金によって人間は支配できる
金が絶大な権力になる、また数も権力になる、例えばボランティアでも実は一人ではほとんどできない、20人くらい集まらないとできない
それも数は力だからである、数が力だという時、何か物を買うにしても一人が買うのと
十人が買うのでは相当に違う、売る方でも10人を重んじる

●数が権力である

一人が買っても商売にならないからである、数が力となる権力となるのは民主主義では選挙がありそこで権力を得るから数を集めることが第一となる
その数もまとまってないと権力になはならい、それでまとまった票を常に確保している創価であれ他のカルト宗教団体に自民党であれ野党であれ頼るのである
そうして自民党は創価なしでは選挙に勝てないとなり権力を持つことになったのである
そもそも創価とは24時間、365日、毎年、頭の中が選挙しかないのである
そこに座談会にも参加しない幽霊会員百万単位でいる

その会員を座談会に参加させて一票に結びつけるのが幹部の日々の活動なのである
宗教というがそれはこの世のあらゆる欲が肯定される、むしろもっと欲をだせ、題目あげてエネルギーを出せ、何でも欲を実現させるのが信仰なのである
これほど本末転倒したものがないが現代文明社会ではナチスが生まれたようにそんなことが関係ないのである、大衆社会でありむずかしいことは言わない、ハイルヒットラーでありハイル池田大作になるのである、大衆にはむずかしいことは言わないことである
簡単に率直に誰でもわかる命令がいいとなる
そこららのおばさんとかにむずかいしことを言ってもわからないからである
政教分離がどうのこうのも関係ない、ただ御利益と福運がすべてでる
それは賽銭を投げて幸運を祈る神道も同じである、宗教はそもそもそういう人間の欲から脱するために生まれたものである

でも一旦そういうコミニュティに入るとそこが生きる場となるからなかなかぬけられないとなる、それは教会でも同じらしい、仲間でできるからその仲間と離れるのが嫌だとなる一応助け合うこともその党派内ではある、でもその党派に入らないものは敵であり地獄に落ちるとか罰当たるとかしか言わない、それは仲間の権益を権力を維持するためにそうなる、イスラムでもキリスト教でも党派化して熾烈な争いになる、一見宗教の争そいの用に見えて権益、利権、権力の争そいになる、そもそも宗教をめぐって争いになるのか?
それがわからないのである、人間が一番気にしているのは自分の利益でありその御利益を得ることだと教えるのがみんな納得する、すぐに理解する、そして何か御利益があるとして入ってくる、いい女がいるとかでもそれも座談会とかに来るきっかけとなる
実際はそれで一票を得るものとして誘い込むものとしてある
そもそも宗教は女人禁制だった、だから修行する山でも女性は登山が禁止されていたのである、それが時代遅れともなるが今やそういうことは一切ない
いい女がいるぞとなって入る人もいる、要するに一切の動機は問わない、頭数を集めて一票をえて選挙に勝つことしかない、それが創価の目的であり外でも似たようなものである

●宗教団体が無税なのは納得できない

だからなぜ宗教でないものが宗教活動として無税なのか?

これは全くわからない、政教分離もない、それは宗教を金儲けの手段としてこの世の俗世の欲を実現させるも道具でもある、
でもそんなことしていたら何かおかしなことになる、自己矛盾にもなる
だから宗教を看板にしないことである、別に宗教でなければ御利益を求めて矛盾しないのである、自民党は常に不正があったとしても宗教とは関係していないから人間のやることだからとして大目に見られているのである
でも宗教だと信仰しているのになぜそんなことをしているのかと見られるのである
公明党の議員が逮捕されたけどあれこそまさに御利益を得た創価の見本である
あのようになりたくてみんな祈っているのである
地位であり金であり女であり・・・・それは世俗の人間と何ら変わりないのである
これが自民党だと常にあり人間はそんなものだと見られて一過性で終わりそういう人は絶えることなくでてくるのである

そもそも創価でもカルト宗教団体は理論的に崩壊している、何かジキルとハイドであり
そこで真面目に考える人がいたら精神分裂病にもなる、そういう団体が正常でいられるのは創価でもカルト教団の人達はまず考えない、無思考人間であり頭にあるのは欲だけである、得することはするがあとは関心がないのである
例えば肝心の政教分離など言ってもわからない、何が悪いのともなる
そうした歴史的経緯など言ってもわからないのである、それをごまかすことも幹部等がしている、何かどんなことでも正論になる、理屈はどうにでもなるからだ
大衆には理屈を言っても理論を言っても無駄である
大衆は感情であおり御利益を言い、むずかしいことは言わないことである
そもそも理解する能力がないからである、そうしてナチスが生まれたのである
つまり創価でもカルト教団とは現代文明の大衆社会から必然的に生まれたものである
だから大衆とはどういうものかを知るべきだとなる
大衆的宗教とは何かを知るべきだとなる、それはナチスになるのである

●民主主義から全体主義になる

権力団体であり政治でも経済でも世俗と一体化してこの世を支配することが目的である
そして宗教は脅しとかに使うものである
逆らうとやめると地獄に落ちるとか罰当たるとか集団で脅迫する
そこに権力をもつと暴力になる、警察とか自衛隊でもかかわる、内部にも創価の会員がいるからである
そもそも罰当たるとか地獄に落ちるとか言っている人間はどういう人間なのか?
極めて俗的な欲にまみれた醜悪な人間だということである
池田大作自体は醜悪な人間である、そんな人達が言っているのである
でも何百万人が会員がいるから権力の圧力となり脅迫する、ナチス党員が創価会員にもなっているのだ、その支持者は大衆という極めて現代的な背景がある
触らぬ神に祟りなしとは良く言ったものである、カルト宗教団体に入って与えられるのは地獄と罰の恐怖である
第一そんなものをもてあそぶようにしている、宗教にかかわるとは実際危険だからその言葉が生まれた
安易に近づくものではないからそうなった

それは結局大衆化した数と化した文明から生まれたものでありそういうものはなくならないともなる、大衆に席巻されたのが20世紀でもあったからだ
それまで戦争していたのは貴族であり日本だったら侍だったが国民戦争となり全員が戦争に参加する時代になった、そして現代で一番勢力をもっているのは大衆だからそうなったのである、その大衆の扇動者がマスコミでありテレビなのである
だから大衆とはどういうものか知るべきだとなる、テレビは大衆は一体でもあった
テレビというメデアは大衆と相性が良く一体化したのである
毎日必ずテレビは見るからである、ただインタ−ネットで政治にも変化が現れた
NHK党とか参政党はインタ−ネットのyoutubeとかから拡散したからである
それであからさまに日曜討論でも創価は収支決算を明確にして税を払いとなったのであるそれが堂々と言えたことに驚いた、そこに民主主義の自由な言論はあったとなる

ただ民主主義とはまた全体主義になりやすい、数がすべてでありシルバー民主主義というとき60以上の人達が三分の一とかなれば当然偏り全体主義になるのが民主主義であり
もう選挙も機能しないのである、アメリカでもそうである、そこで暴力が今度は前面に出てきてアメリカが内乱になるとも言われるのもわかる
民主主義であれ資本主義であれこれまでのシステム価値観が大きく変化する時代になったのである

●NHK党と参政党に期待

私自身はNHK党と参政党に入れる、でも何の効果もないだろう、結局選挙は団体組織の票であらかじめ決まっているのである、だから早めに当選確実とか出る
その組織団体票が事前にわかるからである、創価の票は事前にわかる、するとその票を加算するから当落が決まっている
そもそも民主主義でも選挙でもそれが機能不全になっている、だからアメリカでは不正選挙があったとかもう暴力による内乱が近いうちに起きるとしているので
ある
民主主義の本場でもそうなっていることは民主主義も崩壊しつつある
それは結局大衆民主主義でありあくまでも大衆というものに依拠しているからそうなる
数が正義となるからそうなる、民主主義も資本主義も限界に来て次に来るのは何なのか
それはもしかしたら地域主義なのかもしれない、これも後退するようにもなるか人間の存在基盤がバックボーンはその人々の生きる地域にありそこにアイディンティティを見出すそういう土着的なものとして本来人間もあり政治でもそうなのである
創価が団地の宗教として生まれたというとき地方から東京に出てきた人達が作ったコミニュティでありそれは地域のアイディンティティを失ったからそうなった
東京という場には何かをアイディンティティとするものがないからである

いづれにしろ宗教は強制できない、強制しようとしたがのがカトリックとかでありイスラムでもそうだが宗教は権力でもって強制できない、でも実際は暴力であり軍事であれ金であれ数であれ宗教を強制するのがカルト教団である、それはそもそも宗教を求めるより権力を求めているのだからそうなる、政教一致祭政一致になっているからそうなる
政教分離などない、天皇現人神(あらひとかみ)でもそうであった、そこで創価の創始者の牧口常三郎が獄死したからである、その創始者が政教一致で殺されたともなる

でも現実は創価自体が政教一致であり迫害する方に回っているのである
だから人間の問題は権力を持つことが危険になる
それで老子でも政治を否定して聖書でもみどり子に治めさせよとかなった
人間にとって常にあくことなく権力をこの世の欲を追求しているのだからそうなった
当然創価でもその欲のために犯罪が起こしている、人間は権力をもったとき危険になる
権力を行使できるからである、それによって逆に権力化すると迫害するのである
でも公然と信濃町の創価の本部前でNHK党が演説したのには驚いたのである
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2022年07月06日

こんな額では生活できない」「包丁で刺してやろうか」 生活保護の担当者を脅迫か 男を逮捕


こんな額では生活できない」「包丁で刺してやろうか」
生活保護の担当者を脅迫か 男を逮捕


生活保護は楽だなとか言っているがこれが現実でもある
最低限の保証などしていない、そしてそもそも年金が4万以下のような人が結構いるのだ年金をもらうと生活保護がもらえたとしてもせいぜい医療費が無料になるくらいである
その医療費も二三割負担しなければならない
平均して7万くらいだとどうして生活するのだろうとなる
だから毎月電気水道ガスが払えないのである
そしてガスを止められる、すると食事もできないとなる、そのとめたガスの栓を開けるのに3500円とられる、それを払うからと懇願しても強制的なのである
そんなことを毎月繰り返している

また年金四万から今度は引かれている、そんな金でも引かれている
年金はみんな引かれているが4万とかから引かれたらどうして生活するのかとなる
だから生活保護は最後のセーフティネットでもないのである
この人の気持ちがわかる、ぎりぎりに追い詰められると人間はそうなるのである
そういう人間が増えているのである
何か自分は役所の人でないにしろそういう役回りになって恐怖もしている
犯罪にあっている、つまり日本は貧困化で物騒になっているのだ
最近原町で宝石強盗とかあった、それも地元の人だったのである、事情がわからないにしろこうしたことも起きてくる時代になったのである

もうみんな余裕がないのである、余裕がないということは人間にとって相当に危険になる追い詰められた人間が一番危険だからである
日本がアメリカのように犯罪者社会になるというときも現実化してくる
日本は安全な国でなくなる、人間は余裕がないと人を助けることなどできない
多額の借金をかかえた人が自分が介護とか自分の病気で四苦八苦していたとき来た
でも自分自身が大きな重荷をもっているのだから助けようがないのである
むしろそれは強迫になっていた、お前を助けるから金をだせとまでなっていたからだ
そんな人が苦しいとき来たの最悪だった

金であれなんであれ余裕がないと助けることは不可能である
回りを見ても余裕がない、金に余裕がないとつくづく全体的に余裕がなくなる
私自身の生活は無職で引きこもりで実際は金に余裕がなかった
そこでいつも一番安いホテルとか旅館を探すのにずっと苦労して来た
最後はパリに行っても安宿を探していたのである
余裕が生まれたのは遺産を相続してからである、でも貧乏性だから百万とか簡単に使えないのである、なかなか貧乏性というのは治らないのである
ただ遺産としても何億とかではないから意外と準富裕層とかでも質素な生活しているというのはわかる、私もそうだからである
普通の人と変わりないからである、私の場合車がもたないことで節約にはなっていたのである、でも自転車好きだからいいものを持っているしもっといいものを買いたいとなっている、その他は普通の生活である、外食だって独り身でも月に二三回しかしていない
ただこれは食堂のメニューに飽きたこともある

いづれにしろみんな金に追われると危険になる、余裕がないから危険になる
物騒にもなる、なぜか二回も家で盗まれるとか犯罪に合っている
もうそうして余裕もない犯罪者がそこらじゅうをうろついているような時代になるかもしれない、それはアメリカを見ればわかる、実際はホームレスが多く犯罪多発社会である
極一部の超富裕層がいても下層もまた多いのである
そういう人達は犯罪者になりやすいのである
そうして刑務所の方が楽だというのもわかる、雨露をしのぐ場所があり三食保証されているからだ、それが社会に出れば寝る場所もなくなる、食うこともできなるなるからだ

子供の給食も安上がりになり栄養がたりなくなるとかこれも深刻である
未来の子供がそうなることは日本全体に影響する、ただ団塊の世代は脱脂粉乳とかを供給されていたが別にみんな普通に育つことができた
ただこの時代にまともに子供にも食事が与えられないことは深刻である
それが金持でもそういう困窮者が増えると危険になる、南米とかの大金持ちは子供でも誘拐される危険にさらされているからだ
日本の貧困化は危険な水域に入ってくる、もう入っていることは自分の経験でわかった
でも贅沢したくていい車を買って借金しているとかの貧乏は同情できない
毎月電気水道ガス代を払えない人が本当の困窮者である
そういう人達が百万人以上いるのである、家賃も払えなくなってネットカフェとかで寝泊まりしているとか人たちもいる、都会と田舎の貧困はまた違っている
田舎ではホームレスはいない、寝床は確保されている、安い住宅があるからである

いづれにしろ若い人であれ老人であれ困窮者が増えている、子供にすらまともに給食が与えられないとはもう日本は明らかに後進国である、せいぜい東南アジアクラスであり
下になるとベトナムとかネパールである、その人たちは日本に出稼ぎに来ている
でもその人たちも日本の実情を知ったのでもう稼げないと来なくなると言われる
日本は先進国ではない、後進国になっているのだ
失われた30年間があり一向に経済は上向きにならないのである
そして円安が135円にもなっている、円安でアメリカに投資していたとき一ドル120円で相当なもうけになった、だから円安で相当に逆にもうけた人達がいる
私の場合は他で損したから結局損したともなる
ただ円安とはこのように大きな影響がある、投資に詳しい人はこういうとき必ずもうけるのである、その額が大きいのである
そして富裕層にしても貯金があったとしても利子がつかない、預金封鎖があるとか不安なことばかりなのである、つまり富裕層でもそうして安心がないことなのである

参院選挙があるとして日本の最大の問題は今や貧困の問題なのである
様々な問題があるにしても貧困化することは社会全体への影響が大きいのである
でも日本が貧困から脱するにはどうするのかというとそれが見えない
そして再び外国人から人を呼ぶ観光しかないとなる、それで東南アジアからも日本は安いとなり観光に来る、これはかつての日本が金持ちであり海外旅行して金を使っていたのと逆なのである、それもカルマだとなる
日本が海外で威張っていたが今や海外から来る人をもてなしだとかサービスすることになる、日本は安い国になったのである、

ともかく高度成長時代は一時の繁栄でありたちまたち夢のように消えた
日本人が優秀だとかはなかった、そういう過去の幻想をまだ持ち続けているが現実はもう違っている、日本人の悪い点が指摘されるのである、別に高度成長時代は日本人の協調精神とか真面目さが価値あるものとされていたのである
でも今はそんなことはない、日本人はイノベーションできない劣等民族、国だとされるのである、その評価を百八十度変わってしまったのである
日本のおもてなしがいいとか宣伝されるがそれこそ観光しか売り物がなくなった
後進国になったことを証明しているのである


posted by 老鶯 at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年07月05日

本の整理ができない (地震で散乱した本の山の整理に苦しむ-引用とは)


本の整理ができない

(地震で散乱した本の山の整理に苦しむ-引用とは)

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地震で本が散乱して山積みになっている、それが整理できない、本も簡単に捨てられないただ本が多くなると読んで印しをつけていてもそれを忘れていた
確かにその時熱心に読んでいても忘れていた
そして本を読み直したら初めて読むと同じだった
これは最近良く推理ドラマをBSで見る、それもたいがい一回見たものなのである
でもそれも忘れていてこれは見たなという記憶があるのだが初めて見るのと同じになっている
まず推理ドラマは一回だけ見ても理解できない、複雑なストリーがあり理解できない
三回くらい見ないとどういう展開になっていたのか理解できないのである
テレビでも映像でも人間は一回見ただけでは記憶にとどまらないのである
老人になると記憶をたどる旅にもなるしこれまで読んだ本でも自分なりに自分の文脈で理解するようになる
だから前に読んだ本を読み直すと今度は自分の文脈で引用できる
でもその引用すべき本が読んでいたにしろ忘れていたのである
膨大な本が山積みとなっている、本は何か自分なりに解説してみると理解が深まる
批評すると理解が深まる、この批評に向いているのが老人なのである
それだけ見る目が理解力が深まっているからできるようになる

でも一冊の本でも内容が濃いとなるとき深く読むことはむずかしい
本を読む時心がけるのは著者と対話することである、でも実力がないので若い時はただ一方的になってしまうのである、人生とは例え平凡な人でも老人になると経験からあのことはこうだったのかこうすれば良かった、時間は貴重だった、馬鹿のことに時間を費やして浪費してしまった、もっと登山すれば良かったとか何かをすれば良かったとか後悔する
そしてあの時こうすればとかもっと勉強していればとか後悔する
ます後悔しない人はいない、それだけ人間はつくづく無駄が多いのである

人間は貴重な限られた時間を一番浪費している

これだけは確かである、どれだけ時間を浪費しているか、時間など無限にあるとか思っていたが極めて限られていたのである
人生70年で経験でも知識でも得たものはわずかだったのである
知識にしても天文学的に膨大でありそのわずかな一部しか知ることができない、経験にしてもわずかのことしか経験できない

何か先生になろうとしてそれも一二年しかできなかった、それは試しにすぎなかった
どう教えるかを試したがその試しすらわずか一二年で終わってできなかった
どのように効果的に教えるかはそれも試して教える術を覚えなければならない
でも時間がなく何もできなかった
いろいろ試したくてもその機会もなく終わった、社会はそもそも一人一人の人間に合ったものを用意してくれない、試すこともできない
それで人間には職業でもミスマッチが多いのである
私は旅ばかりするようになったのは自分にあった職業がなかったからというよりは落ちこぼれであり引きこもりになったからだとなる
でも性格的に引きこもりが自分にあっていたのである、それができたのは家族に恵まれたからである

それで興味のおもむくままにいろいろしてきた、主にしたのは旅だったとなる
登山もしたが体力がなく40代前でやめたのである、その後は自転車旅行になったのである、それも40過ぎでできると思っていなかったのである
また海外旅行でも50歳でバックパッカーになったがこれも遅すぎたのである
自分の場あい何でも遅すぎたのである、それで時間を無駄にしたとなる
ただ今になりいろいろなことを深く理解するうになったのは不思議である
誰しも老人になると人生はこういうものだったのかと自ずと理解する
知らしめられるともなる、否応なくあなたの人生が何であったか知らしめられる
それはもう偽ることができなくなる、それで失敗したと後悔してももう人生をやり直すことができなくなっているのだ

本には人間が一生で得たものが詰まっている、その人なりの経験から知識の積み重ねから得たものが表現されている、だからすでに30年前に買った本の著者は死んでいる人が多いのである、そして人間が残したものが何かとなれば死んだ人と逢うこともできないから本を通じてその人を知るともなる、知る方法がないからである
つくづく本を読んでも理解できなかった、本を読むことはかなり難易度が高い
そこには大きく見れば人類の知識の宝庫であり智慧が詰まっているともなる
インタ−ネットだと断片的知識が多いが本一冊はその人の経験知識を凝縮したものとしてもある、そこに本の価値がある

ただ本を読むにしてもその本人が本を読む人にその本を深く理解するものがなければできない、その本人がそもそもダイヤモンドになり黄金となっていなければならないのであるそうなればダイヤモンドにサファイアとかエメラルドとかルビーいろいろな宝石が寄ってくる、付随してくるのである
本を引用するのはそうして多種な多様なものをアレンジすることにも似ている
それも創作なのである、知識は膨大だからとても一人ではもうあらゆることを知ることは不可能だからである

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(著作権引用の規定)

主従関係が明確であること(明確性)
引用部分が他とはっきりと区別されていること(明瞭区別性)
引用をする必要性があること(必要性)
出典元が明記されていること(出典)
改変しないこと


人間のしていることは何らか共同作業なのである、本当に独創的なことは一人ではないかもしれない、知的作業でも何らか協同作業になっている
第一天文学的な知識があるときそれに通暁することは不可能である
だから知的なものでも協同作業なのである
でも主従関係というといん主となるのが明確でありそれはダイヤモンドでもある
そのダイヤモンドに引用がそえられる、つまり宝石だったらエメラルドとかサファイヤとかルビーとかになる
要するに人間のしていることは独創的なものがあったとしても何か様々なものの過去に創られたものでも組み合わせなのである
それで過去の創作物でも本でもそこからまた新たなものがつけ加えられるのである
そういう作業は延々とつづく、知的創造に限りがないからである
過去の創作したものでもそれがそのままではなく常に変異して新たなものとして再創造されるのである

とにかく本を読むということ本を理解することは簡単にできない、重要な所にいくつも線を引いていても忘れていたとなる、線引いても肝心の自分自身が忘れているのである
忘れないように線を引いていても時間がたつと忘れていたのである
ここに人間の弱点があった、本でも推理ドラマでも少なくとも二回見ないと忘れている
二回見るとその因果関係とか犯罪の理由とかいろいろなものが見えて来る
そして再確認するのである、推理ドラマは人間関係でも複雑だからである
本を読んだとしてもそれなりに自分自身の文脈で理解する、その時引用は生きてくる
ダイヤモンドが自分でありそれに添えられるのがエメラルドやサファイヤやルビーだとかなる、そこに協同の創作があり過去のものも現在に活き続けさらに未来にも変化して生き続けるとなる



イノベーションが生まれるものではない。むしろイノベーションとは、日本語訳で「新結合」とされるように、新しい組み合わせであって、組み合わせるもの同士は新しくなくてもよい。

ソニーやパナソニックが再び世界で戦うために必要な「21世紀の水道哲学」

まさに子さなのだ、新しい組み合わせがイノベーションであり創造なのである
全く新しいもの作ることではない、ルネサンスでも過去にあったものを再創造したからである、膨大な知識も組み合わせする新しいものが生まれるのである




2022年07月04日

紫陽花を植えた真野川の土手の道 (雷雲に立葵ー野馬追近く夏本番になる)


紫陽花を植えた真野川の土手の道

(雷雲に立葵ー野馬追近く夏本番になる)

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紫陽花の厨より見て料理かな

陽の光り雷雲湧きて立葵

ノウゼンや野馬追近く熱くなる


紫陽花の木陰の下に咲きつづき土手の道朝に歩むや川は流れぬ

木陰なす道を今日も我が行きぬなじみし街や行く人はまれ

夏の雲湧きにけるかな野馬追の旗のなびきて朝橋渡る

大きなる窓に山帽子の花あまた咲きて雷鳴り雨にぬれにき


真野川の土手の道に新しく紫陽花を地植えした、箱に植えた花は何か合っていなかった
木陰の下に紫陽花が咲いているのが合っていた
やはり地植えとなると自然になる、箱となると不自然になるのである
あれは何か宣伝のためだったのか?
なぜなら箱ごとにそれを植えた人の名とかグループの名が書いてあるからだ
そんなこといちいちしているのも合っていなかった
反対の岸の新しいサイクリングロードは地植えの花が咲いているからいいとなる

急に黒い雷雲が湧いて雷が鳴ったのであわててパソコンの電源を切った、でもすぐに晴れてきた、この雷で困るのはパソコンがあるので困るのである
今年は立葵は晴れた時に咲いているから夏らしいとなる
梅雨の時期に咲き始める花だからである
これは夏の陽射しのなかで咲くのがふさわしいのである

橋に野馬追いの旗がなびいている、そしてノウゼンが咲いた
ちょうど野馬追いの時この花が一杯咲くのである
今年は例年通り祭りはするらしい、それで野馬追いに出る人は心が熱くなっている
二年間くらい中止していた、ただ7月の終わりころだからまだ時間はある

ともかく今年は梅雨がなく真夏が来た、今日は昨日より涼しいので助かった
暑いと何もする気がしなくなる、それも困るのである
まだ家を直す所がありまた大工さんが来る、山ほどの本も散らかったままなのである
暑いと片づける気力もなくなるのである
でもなんとか整理して良かった、狭い部屋だから余計なものを置かない方が良かった
整理するのは意外と自分だけではできない、ただ勝手になげられたものもありこれも問題だった、家が大きいと整理も簡単にできないのである

生前整理とか会社もできたからそういうものに頼むのもいい、ただ本の整理は簡単にできない、利用することもありとっておくとなる
本というのも中味を良く理解していないのである、だからまた読んでみると始めて読んだような気分になる、それだけ人間は忘れるとなる
やはり何回も読まないと理解できないのである
ものを書く人は私設の図書館のようなものが必要である
インタ−ネットだけではたりないからである、本には学者であれ個々人であれ人生の成果のようなものとして残されたものなのである
実際30年前くらいに買った本の著者が結構死んでいるのである
残されたのは本だったとなるしそれ以外知りえようがないとなっているからだ

auで丸二日通信障害 (公衆電話が見直される―無線は不安になる)


auで丸二日通信障害

(公衆電話が見直される―無線は不安になる)

私はauのスマホ買ったけど音声の電話は利用していなかった、でも一日でも電話ができないと困る人が多いと思った、それだけ携帯であれスマホであれ日常的に使っている
仕事でも使っているから深刻だった、復旧に時間がかかりすぎたのも問題だった

この無線障害はパソコンで経験している、マウスでもキーボードでも無線で操作していたが何かの調子でつながらなくなる、もう5、6台も使えなくなっている
それで相当に損している、無線だと使っている内必ず何かの調子で使えなくなる
その修復が私はパソコンにも詳しくないのでできないのである
確かに接続するためのレシバーに問題があり修復を試みたができなかった
それでそのまま放置していて今では線をついたものを使っている
これなら安心だと思った

つまり無線は何かめんどうであり安定しない、不具合が起きると直しようもないと見る
それで二階にルーターがあり下に線をつないでパソコンを利用している
無線にすればいいのだがこれも自分は機械に詳しくなくできないのである
YIFIの設定ができないのである
そして無線は安定しないのである、これは何でも通信でも無線化するけど実際は相当に高度になるから故障することがある
またクラウドなどでもそこに無線で情報を記録させておくのも不安になる
まだusbとかでも手元にあり物としてあれば安心だとなる
なぜかというと通信できなくなる、アクセスできなくなる不安がある
何かの不具合でアクセスできなくなる、例えばパスワードを忘れるとか大きな問題なのである、これでアクセスできなくなったことを度々経験しているからである
一瞬にして記録が消えてしまう恐怖にいつもかられるということがある

線で通信するのはアナログになるが安心だということはあり公衆電話が見直されたのである、緊急時でもやはり線でつながっていれば安全だともなる
つまりアナログ的なものでも人間にとって必要なものだと見直されたのである
でも公衆電話は激減している、だから使えなくなる
すべてデジタル化してゆくとそこに大きな問題が生じる
無線化してもアナログ的なものは安心のために残したいともなる
ただコストの面で維持できなくなっている

安心のために一社だけではなく二つの会社の通信を利用しているというのもわかる
一社がだめになってももう一社で安全を計る、でもコストがかかるとなる
仕事で使用している人はそうしている人もいる、仕事では相当に一日でも通信が途絶えると困る、それだけあらゆるところで無線通信化しているからである
ただデジタル化となるとそれも問題がある
何か安心できないのである、人間でも対面的でないとか相手の顔が見えないとかもある
そこで信用できないともなる、日本人はそもそも直接会ったりしないと相手を信用できないということがあるからだ
話せばわかるとか腹でわかるとか直接会うことで相手を見る信用するとなっているからだただ別に直接逢っても騙されることはあるし信用できるとは限らないことは確かである
その兼ね合いがむずかしいのである

だからパソコン通信で文章だけで会話しているのも不思議だった、なじめないことがあった、今でもそうである、面と向かって話しなければ何か違和感がありなじめなかった
これはやはりメデアが変わるとそうなる
ソクラテスは面と向かって話すこと対話することしかしなかった
文章にはしなかった、つまり文章すら信用していなかったとなる
ただ携帯電話とかだと声で話すから昔の電話とも変わらないことがある
つまり声の調子とか音声から相手のことを感じる、相手の体の調子とかでも声から感じることもある、それは文章だけのやりとりだったらできないのである

それでデルのパソコンを通信販売で買おうとして相談したら相手の人は中国人の女性だったのである、その女性が日本語が上手だったのに感心した
それも日本人相手にパソコンの相談できるとなると日本語に通じていないとできない
そのためにその中国人の女性に好感をもったのである
そしてデルのパソコンを買うことになったのである
そもそもデルのアメリカの会社に中国人が雇われているということもグロ−バル化している、中国人はどこにでもいるとなる
70代の女性は毎日親戚の女性と一時間くらい話ししている、やはりじかに声を聞くということで相手と通じる、女性は話し好きだからそうなるのである

それにしても一日くらい通信が途絶えてもこれだけ大騒ぎになる、一日くらいどうでもいいとなるがそうではない、それだけもう欠かせないものとなっているのだ
だから一旦今回のように故障すると大騒ぎになる、補償問題にもなる
それは電気でも同じである、一日でも電気が止まったらもう社会が回らない
血液の流れと同じになっている、電気社会になっている
それで30、40年前の推理ドラマを見ているとまだ電話の時代であり固定電話でやりとりしているのがなつかしいとなる,パソコンも普及していないでワープロだったとかなる
それだけ通信では進歩した、ロシアがウクライナとの戦争で通信技術が進歩していないので連絡がとれないとかあり不利になった

やはり通信というのはそれだけ影響すると見た
でも戦争とかなるとこの通信設備が攻撃されて破壊されるとお手あげになるかもしれないその怖さは通信にはある、でもインタ−ネットは軍事関係から生まれたもので一部がつながらなくてもつながるようになっている
今回のauの通信障害でもインタ−ネットとかメールは見れていたのである
ただ音声での電話が通じなくなったのである
いづれにしろ通信しろ電気の問題でもこれなくしてもはや社会が回らない、そのインフラの安全性を確保することは生死にもつながっている
現実に救急車も呼べないとかあったからである、それで大騒ぎになったのである


au通信障害の本質的な問題。総務省、自民党がNTTに接待されていた問題がボディブローのように効いてきた・・・日本のネット産業は自民党の利権と化したNTTの事-一月万冊

NTTが独占になっていてそれが政府と結びついていることが問題だとしている
auとか他の会社でもNTTのインフラにのっかかっている、競争がないので問題としている


三上)auが機器のメンテナンスをしておりました。ルーターと言われるネットワークの接続装置を、古いものから新しいものに取り換えたのです。その交換時に、設定などの人為的ミスがあったようです。

ルーターなら個人でみんな使っている、私の家のルーターは古いので変えようとしたができない、操作ができないからだ、でも十年前以上のものでも別に困らない
だから変える必要はない、ただ二階にルーターがあるので線を伸ばすので不便だとなる
こういうことを誰にも頼めないのである
電器屋でもこうした設置をしてくれないのである

ともかくルーターは変えない方がいいとわかった、何かへたにいじると電気関係は事故になったりパソコンでも不具合になるから簡単にできないのである
ソフトの不具合は再起動すると治るからスマホなどでも個人の不具合はそれで直ることがある、ただルーターとは電信会社でも使っていた、本質的には規模の大小だったのかとなる