2022年07月24日

相馬野馬追い (雲雀が原へ結集ー神旗争奪戦ー御家の旗印が北郷から出たことについて)


相馬野馬追い

(雲雀が原へ結集ー神旗争奪戦ー御家の旗印が北郷から出たことについて)

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御家は小高郷の出の旗印である、でも北郷から出ている
それは小高から鹿島区(北郷)に移住したためなのである

五輪の塔が先祖だから似合っている

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原町区北高平に立った旗印

高平は越中からの移民が入った地域として知られる
でも野馬追いの旗が立っていることは相馬氏に連なる古い家である
相馬野馬追いとか相馬の歴史を知る時、野馬追いに出る家を知ることが大事なにる
でもそれが広いしわからないのである
野馬追いに500頭で出たとしても所帯数にする何万もありわずかしか野馬追いには出ないのである
それがあんなに数が多いからと錯覚するのである
実際は野馬追いに出る家は全体から見ればわずかなのである


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揚羽蝶の紋は平家になる
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甲冑競馬
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片倉村から太田神社に向かう途中に鷲宮神社がある


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殿様の帰るのを迎える侍たち




旗印陽射しの強く映えにけり

旗印風の文字なれ風なびく

御行列続く長さや暑しかな

伝来の旗印も古る歴史かな

雲雀が原馬いななきて蘇る

蝉鳴いて甲冑競馬や一周す

馬走り馬も喜ぶ三年ぶり

旗印家の誉れを担うなれ

野馬追いや落馬二人に終わりけり

御家また帰り馬かな北郷へ


勇み入る雲雀が原へ従えぬ相馬の殿や誇らしきかな

旗とりて一気に上る本陣へ馬とともにし誉れなるかな


今回の相馬野馬追いは三年ぶりだったのか、集まった馬は350頭である
普通は最高で500頭でありそれに近い数字を出していた
だからずいぶん少ないと見た、それでも結構長く感じられた
野馬追いは出るにも金がかかる、まず野馬追いに出る馬を一年中飼っている人がいる
するとそれは結構な出費になる、ただ馬が牧に飼われているのはこの辺の風景としてはいい、第一今は馬に接するというとき競馬くらいしかないのである
牧場で少女が馬の顔をなでるとかするのを見た、それは子供の時から馬になじんでいるのである、そういうふうに育てば馬を怖く感じないとなる
それで馬が農耕馬として飼っていたとき馬と結婚した女性の伝説がある
馬は曲がり屋で馬と一緒に寝起きしていればそういう伝説が生まれるのも当然だとなる
ともかく馬と人間が一緒にいる風景がなくなったのである
馬の代わりになったのが車だとなる

相馬野馬追いはそもそも祭りとしても参加型ではない、歴史の保存として維持しているのである、勝手に旗を作り庶民が出ることはできない、伝来の兜と旗印があり出れるのである、それで奇妙だったのは「御家」というのは実は小高郷に住んでいた人の旗印なのである、なぜ御家となるのか?それは小高に最初に相馬氏が城を作ったからである
小高が相馬氏の始まりである、相馬太田神社が起点となり小高に城が作られた
相馬太田神社が相馬藩の中心の神社ともなったのは相馬氏は片倉村の山の方から入ってきた、そこに八重米坂とか初発神社がある、山を越えて下り相馬大田に至った その途中に鷲宮神社がある
そこに相馬太田神社があり小高の方に進出して最初の城を小高に築いたのである
それから城は海の方の村上に一時作りそこは縁起が悪いとして原町の牛越城に移った
そこに五年間あった、それから相馬市に移ったのである
だから外から見ると誤解する、今城がある相馬市が城下町で一番古いと見るからである


だから奇妙なのは「御家」の旗印なのである、それは鹿島区に北郷に移りあたかも北郷の一員であったとように見える、現実原町の雲雀が原への行列でも北郷に入っているのである、このようにこれは歴史を誤って見ることになる
なぜなら相馬野馬追いは歴史と伝統の保存でありここでそれが原発事故で小高区が避難区域になって鹿島区(北郷)に移り住んだ結果なのである
ここに違和感を感じたのは相馬野馬追いは歴史に忠実であり歴史の保存を目的としているからおかしいと見たのである、勝手に誰でも参加できない、伝来の旗とか兜とかを伝えられている侍の出しか出れないからである
また鹿島区の北郷では本陣がもうけられて相馬市の宇多郷と合体して雲雀が原に向かう、その古式がここで行われる
それを見たくて来た人がいたのである、その人は相当に野馬追いに詳しいとなる、なぜなら地元の人でも知らないからである

御家で構成される、「旗本組」という部隊が行列して参加しなかった武士たちの待つ原町宿へ向かう
元禄12年の野馬追いの旗本組の備の構成人数だけで1000人を越えていた

特に忠胤は野馬追いの行事を大きく変化させた、鉄砲の奥義や武田流の軍学を積極的に取り入れ、備立や駆け引きをはじめている
約8000人の武士が参加する大規模な駆け引きが行われた

相馬野馬追の歴史から見る行事内容の確立と存続のためになされた様態変化

御家の意味はこういうことだった、旗本というとやはりエリート集団だった、だから誇りがあった
それにしても8000人が参加したというのは驚きである、それだけの侍がいたということになる
ただその当時は郷士であり侍であっても農業していた農家の人が侍になっていたのである
だから侍専門の人は少ない、旗本は侍専門の人達である

一般的には歴史にそれほど興味がなければ野馬追いはつまらないという人もいる、私は青森のネブタ祭りを見に行ったがハネトには誰でもなれる、祭りで地元の人達と一緒に踊ることができる
ネブタ祭りはそれで盛り上がるとなる、でも相馬野馬追いにはそういうことはないのである、だから相馬野馬追いは出る人と見る人に分かれている、参加形の祭りではないのである

そしてそもそも相馬野馬追いは旗祭りというときなぜこれほどの旗印があり多様なのか?
これが解明されていない、どういう由来なのかわからないのである
ただ芸術的デザインとして見るだけではない、それがどうしてその家の旗印になったのかわからないのである、例えば揚羽蝶の旗印があったとする、するとこれは蝶の紋は平家なのである、すると平家に連なる一族として相馬氏に仕えていてそうなったのかとなる
でもこの旗印は余りにも多様でありその出自とかが誰も解明していない
それを研究している人も見つからないのである、それは余りにも多様だからそうなる
その由来をたどることができなくなっているのた
その由来をたどると関西方面になるからである、千葉県に相馬氏の基があっても相馬氏でもいろいろな人が入って来たからである、武田信玄の六文銭の旗印があればそれは武田氏の末裔なのかとみる、武田信玄は織田信長に敗れて伊達藩にも入った有名なのは伊達政宗の重臣だった

大坂城が落ちるまでそこにいれば、豊臣方として男子は処刑され、女子も命が助かったとしても出家する他道はなかったでしょう。
それをなんとか助けてもらう方法はないかと、思い倦ねた幸村は、死の前日、伊達政宗の参謀の片倉小十郎景綱の嫡男、片倉小十郎重綱という人物に目をつけます。

自分の娘「阿梅おうめ」を、この片倉小十郎重綱に嫁がせよう。
義に厚い伊達政宗ならそのほかの子供達も守ってくれるかもしれない。

幸村は大坂城にいる子供達に手紙を渡し、伊達家の庇護のもとに命永らえて欲しいと願ったのです。幸村の願い通り、伊達家は子供達を徳川から守ってくれました。

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こういう話があり不思議なのはなぜ片倉村がありそこから太田神社につながっているかである、そして白石の片倉氏の紋は相馬氏と同じ九曜の紋なのである
他にも片倉という地名はある、この片倉の由来がわからないのである
伊達藩でも相馬藩でも争ったとしても戦国時代が終われば平和的に交わっていた
当然相互に交流もあり歴史が作られてきたのである

このように六文銭の旗印があれば真田幸村までたどることができる、でもこれだけ多い旗印の由来をたどることは不可能になっているのだ
そもそもなぜ片倉村になったのかわからないのである、片倉という地名は他にいろいろありわからなくなったのである
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何か旗でも古びたのがあった、いかにも古いから歴史を感じるともなる
ただ他は旗印はそのままでも新しく作り直している、今回の風という文字の旗印があり
デザイン的に見れば面白いと見た、なぜこんな旗印にしたのかその由来もわからない
また鯰の旗印もあった、それも不思議になる

ともかく「御家」の旗印はもともと小高郷から出たものであり小高の城が相馬氏が最初に築いた城でありだから歴史的に見ればふさわしいとなる
御家とはヨ−ロッパだとハウスブルグ家なのである、ハウスは家でありブルグは城だからである、一つの家が拡大したのがあれだけ大きな国になったのである
こうして相馬野馬追いはどうしても歴史を知る必要かある、そして相馬野馬追い祭りは
歴史の再現なのである、相馬藩が一つになる祭りなのである
祭りとは祀るとは死者を祀ることであり先祖を祀り先祖を偲びその時代を偲ぶのが祭りだとなる、時間がすぎるともう30年前でも時代がわからなくなる

本当に学生時代とか50年も過ぎるとその時の東京はどうだったのかとかわからなくなるましてや400年前とかなるとその時代を具体的にわからなくなりただ想像の世界ともなってしまうのである、でも相馬野馬追いは具体的に歴史が再現されることに意義がある
だから全員参加型の祭りとは違っているのである
日本の歴史を知る時やはり祭りは具体的に時代を再現するから知ることが欠かせない
それでフランスの人が日本の祭りを見て旅していたのである、それだけ日本には祭りが多いからそうなった、また神社が多いのはその土地の先祖とのつながりが残されているということなのである

ただ正直相馬野馬追いの旗印を知るのは容易ではない、参考になる本もないし研究している人もいないようだ、それだけわかりにくいからそうなった
今回は「御家」という旗印から歴史をたどったのである

とにかく今回は行列でもすいていた、だから写真とるには良かった、混み過ぎて前はうまくとれなかったからだ、野馬追いとは写真とるにはいいのである
その写真をとるにしても一年に一回しかチャンスがないから意外と毎年違った写真がとれるのである
それで写真が趣味の人はいい、実際に70万とかの望遠レンズを持った人が写真をとっていた,プロというものでもない、写真は写真機よりレンズの作用が大きいのである
だからレンズの方が写真機より高くなるのである、そしてレンズの種類がまた多いのである、その人の持っているカメラは10何年か前のであってもレンズがこれだけ高くていいものだから違っているのである、でもその値段には驚いた、金持ちは都会になるといるということである
posted by 老鶯 at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係