2022年09月04日

宗教の献金の問題 (宗教団体でも集団化組織化は利権、権力団体となる)


宗教の献金の問題

(宗教団体でも集団化組織化は利権、権力団体となる)

●宗教の組織化団体化は権力化

今統一教会で多額の献金は禁止すべきだと議論していた、それぞれの収入に見合ったものに制限する、法律化するべきだという提言があった
ここで弁護士とか法律から規制しようという発言があった
弁護士にはカルト教団の被害者からの訴えがありそれに答えるためにそうなった
消費者庁とかありその大臣が発言していた

そもそも人間は集団化組織化するとそこは利権団体になるのではないか?
民主主義とはそうした様々な利権団体に推薦されて力を持つ、政治にもかかわる
どうも自民党が前は票田としていたのは農家であり農協とかが票田となっていたが
その力が弱まって他に頼るようになったとかいう
それでカルト教団でも票になるとか選挙の応援をしてくれるとかで統一教会とかかわった議員は喉から手が出るほど票が欲しいからである
それも一票とかではないまとまった票が欲しいからである

だからこそ創価になると一定の票があてになるから連立になった
それは政教分離に違反していても自民党は責めないのである、一連托生になっているからだ、創価の票がないと当選もできないとなり創価のことは批判しないのである
マスコミも批判しない、なぜなら聖教新聞を刷らせて資金援助している
福島民報などがそうである、毎日新聞でもそうである
そうしてマスコミはとにかく金がかかりすぎるのである

そもそも一軒一軒新聞を配ること自体手間なのである、そこに資金がかかりすぎるのである、インタ−ネットになれば全国に配信するのにも個人レベルでできるとなる
だから報道はテレビ局だと六局しか放送できなかったとかなる
それで絶大な力をマスコミは持ったのである
それがインタ−ネットが発展して個人がテレビ局をyoutubeなどで持つようになった
テキストだと文章だとプログとかで新聞社にもなった
その変化が大きかったのである、今はテレビを見なくても別に困らないのである

宗教が組織化集団化すること自体権力を得ることでありやがて日本国でもその権力で支配することを目指している、実際この世では特に民主主義になると確かに個々人の自由があり権利を主張できる、でも一人だったら誰も相手にしない、それはボランティアすらできない、20人くらい集まらないとボランティアもできないのである
つまり民主主義はすべて数で決められる、数の力で決められる、それが権力になる
だから田中首相は政治は金と数だと言ったのである
金と数が最大の権力になったのが現代だからである

●宗教は個々人の心の問題だが集団化組織化すると権力利権団体になる

経済活動でも一人が買い物するのと十人が買い物するのとでは十人を相手にする
一人などどうでもいいとなるのが社会なのである
一人は相手にしない、私は個人というだけで本を置くのを地元の図書館とかで断られた
そこに管理する公務員がいてそうなった
その公務員というのは権力を持っていたのである、それも一人だからそうなった
私は会員十人の代表ですとかなれば公務員でも権力をもっていても考慮することになるのである、まず一人などどこでも相手にしないのである,ボランティアにすらなれない

こうなるとどうなるのか、人はどうしても権力を持とうとする、権力を持つためにどうするのかとなる、それは宗教でもそうなのである、宗教でも一人など相手にしない
権力を持つために数を集めることだとなる、だから創価でも他の宗教団体でも常に会員を増やすそれを一票に結びつける、それが日々の活動になるのである
でも預言者とかは一人だった、日蓮は預言者であり一人で時の権力者と戦ったのである
だから今の組織化集団化した宗教団体は全く別物でありただ権力を得るために活動しているのである、聖書でもそこはある一人の人間を選び神の実在を示したのであり集団に示すことはなかったのである

だからそもそも宗教と政治の何が問題なのかとなれば組織化集団化することは権力化することである、それはカトリックで強制的になり免罪符まで売るようになった
それが統一教会ではあからさまに霊感商法で宗教を盾に商売化したのである
カルト教団はまた宗教を利用した商売でもあるから当然だとなる
宗教団体は利権団体であり本来の宗教は何の関係もない、集団化組織化して権力奪取を目指すのである
統一教会の場合はさらに問題だったのは背後に外国がかかわり日本の政治に影響して日本を韓国の支配下に置こうという魂胆があったからである

それは秀吉の時代にもあり外国に国がのっとられるという恐怖がありキリスト教が禁止された、キリスト教でも自国から自発的に起る信仰ならいいが外国から押し付けられると問題になる、それで内村鑑三とかは外国の宣教師を嫌った、でも何らか日本キリスト教団でも外国の援助がありかかわっているともなる
資金の援助があるかもしれない、この資金の流れが問題なのである
何か大きな犯罪でも資金の流れをみればわかりやすくなるからである
信教の自由があるにしてもそれも悪く利用されるのである、法律でも解釈がいろいろあり悪く利用されるのである

●宗教に金がかかわると汚される

なぜそんなに金が宗教に必要なのかとなる、宗教には金をかけるべきではない、また金をとるべきではない、そうなると金だけが目的になってしまう、パウロはキリスト教を広めるのに金をとることはいけないとテントを作り自ら働いた、何かそこにやましいものを感じたからだろう
宗教はそもそも極力金にかかわらないことがいいのである、金にかかわると汚されるとなるからだ、でも僧侶でもお布施が足りないとかなり不満になるとしたら自分で働いて金を稼いだ方がいいともなるのである

何かわからなかったが四国遍路でホームレスになった人がいた、その人に 同情して金を与えようとした数万をやろうとしたらその人は自分に向かってお経をあげた、なんのことかわからなかった、要するに無料では金をもらえないという自負があった
その人はなんらかで四国遍路の国だから御経を覚えたのである
だから乞食ではない、ただでは金をもらいたくないとしてそうなった
その動機はそもそも宗教にはない、日々の金が欲しいからそうなっただけである
そしてお前にありがたいお経をあげてやったのだから金をもらっても当然だとなったのである

この人はこうしてホームレスになり追い詰められてそうなった、つまり実際は金のこめに仮の僧になり金をもらうことになった、こういう人を見れば何かカルト教団でもそうなのかとも見た、ただ規模が大きくなったのがそうなのかともみた
何かありがたいお経をあげてやるから金をもらうとなる、その人はただ金を欲しいためにそうなったのである、別にくれるというのだからもらえば良かったのである
おそらくカルト教団はこんなものである、宗教とは方便であり金が欲しい権力が欲しいともなり仮の僧になった人だとなる
ただ数が増えて巨大化すること自体が権力化することなのである
数が増えて権力化するとマスコミでも政治でもその数を利用しようとする
だから自民党は統一教会でも創価でも何でも票をえるために利用する、そしてまた利用もされるのである、現実に創価のことは批判しないのである
それは創価というのは巨大であり誰も批判できない、マスコミも批判できない、自民党政権と一体化もしているからだ、それがどうなるのか、ナチスのようになるのである
社会全体が創価化してくればそうなる、ただ最近は力も衰えた、限界が来て減少するだけである、そしてインタ−ネットではyoutubeなどでも盛んにその実体が暴露されているのである

●創価と統一教会は同類でカルト

政治と宗教の問題が統一教会問題であぶりだされた、それはもともと創価が自民党を牛耳るために一体化していたことでもわかる、そして批判もされないのは権力と一体化しているからである、人間の問題は政治でもなんでも権力をどう操作するかにある
そのために統一教会でも裏で操作している、創価でもそうである
でもその権力というのは本当の権力者は誰なのかとなると不可解になる
なぜなら統一教会の裏にはアメリカのCIAがかかわっていたとか創価なら中国と一体であり中国の命令で動く日本を乗っ取る団体にもなっている
つまりその背後には中国がありアメリカがあり統一教会でも韓国でも北朝鮮でもアメリカでもかかわっていたとなるのである
そうしてそれが不可解だから必ず陰謀論になるのである、つまり本当の権力者は見えないそうなるとその隠れた権力者は遂にサタンだともなってしまうのである

宗教でも集団化組織化すると権力集団化して政治を支配する、だからイスラム教だと政治と一体だから政教分離していないから経済も発展しないのかともみる
レバノンではイスラム教でも派閥がありセクト化して四っつくらいに分断して政治が機能していない、援助しても上の方で奪われて下には回らないとかなり国が破綻状態になった宗教はこの世のことではない、政治はこの世に力を具体的に力を持つことである
でもそうした宗教の架空のようなことより現実社会に活きていれば毎日食べなければならないとかパンの問題が優先されるのである
つまり宗教は本来パンの問題ではない心の問題なのだけどどうしても現世に生きる限りパンの問題になる、明日食べるものがないとしたらどうにもならなくなる
また様々な問題をかかえているのでそこでカルト教団はつけいる、それは金をとる一票を得るためであり確かに先祖がどうのこうのとかは現実にある

ただそれがあったとしてもカルト教団はそれで脅迫して金をとるためにしている
目的は金なのである、つまり金をとるということで宗教は必ず歪められるのである
もちろん新聞代くらいはしかたないかもしれない、でも寄付金でもあまりにも多額になることは問題なのである、ただカトリックでも一割の宗教税があった、でも一割を越えてはならないということもあった、その辺の線引きがむずかしいのである
献金を多くした金持ちがいたとしてその人は福運とか幸運とか救いがあって献金の少ない貧乏人には救いもない福運も授からないとかなったらどうなるのか?
それが宗教だということ自体おかしいのである

まず人間は金を払いたくない、金に対してはシビアである、だからそんな多額の金を払うこと自体その払う人自体がおかしいのである
御利益を得たいというのはわかるがその御利益を自ら献金して貢いでいる
その金はどこにゆくのか、なんのためなのか、それは結局幹部などに流れ団体組織の権力の拡大に使われるのである
結論は集団化した組織化したカルト教団自体を規制すべきだとなる、でも少人数だったら規制はできない、でもオウムとかはたいして大きな組織でもないのに危険なものとなったどこで規制の線引きするのかがむずかしいとなる
ただ議論では金の面から規制するというのはわかりやすい、第一何十億と何百億とういう金をどうして集めているのか、それ自体が宗教にしては問題だからである
宗祖をみればシャカでも住む家もないしキリストでもそうだった、枕するところなしだったからである、そこに宗教があまりにも違った全く世俗化したものとなったことを示しているのである

宗教団体の政治活動は否定しない、政治活動を行うなら情報開示を義務つけるべきだ
企業献金は厳しく開示が求められる
宗教団体の信者が無償で政治家の選挙の手伝いをしていることも事実情は宗教団体が献金しているのと同じなのである実態を開示すべきだ

週刊東洋経済ー9月3日号

宗教団体の信者が無償で政治家の選挙の手伝いをしていることも事実情は宗教団体が献金しているのと同じなのである実態を開示すべきだ
宗教課税とカルト規制法は、セットだろ!

信教の自由は有るけど、課税は別。 課税と規制しないから、邪教が生まれる。
本来宗教は信仰するだけなら、お金掛からないだろう。
イベントとか葬式するとかの物理的な物動くなら代金掛かるけど。
皆が集まれる場所作るなら、生活に困らない範囲の低額でカンパ募るだろうけど。

かろうじて残ってる信者から
カネを搾り取ろうと必死になって
さらに信者を減らしていくパターンになりそうだよねw

原発村が盗電社長を庇った結果村自体が存続の危機に陥ったのが良い反面教師になっているな、宗教村が全力で統一潰しに行ってるよいけいこうだ、次は創価だけどな

5ch


創価などは日々選挙運動であり選挙のためにある団体である、それも会員が信仰のためであり御利益のためであり無償で選挙運動を毎日しているのである
そんなことわかっているのに誰も批判しないとりあげない、それは自民党と一体となりマスコミでも批判しないとなる、だから自民党自体がもともとカルト政権だとも言われる
票が欲しいから批判しなかったのである、票を得たいとなり統一教会とかかわり創価公明と一体化する、票のためになら何でもするとなる
悪魔とも手を結ぶのが政治家なのである、その弱みをついてカルト教団が自民党を操作しようとする、またその背後には今度は中国とか韓国とかアメリカがかかわり陰謀論になるのである

●youtubeなどで創価をあからさまに批判

政治と宗教】統一教会より創価学会が問題だ!【朝香豊の日本再興チャンネル】


9/2 CIA・創価学会・南米麻薬組織と小沢一郎の複雑な関係

創価批判がyoutubeで相当にでている、これはありえないことだった
これだけあからさまに批判できているのも変わった
統一教会のことは霊感商法の壺を売りとか以来報道されなかった
すると報道されないのだから問題がないともなっいてた

つまり報道されないことは悪は隠ぺいされていたことだ!

NHKでも他でも報道されなかった、それはマスコミも統一教会の支援を受けていたとか
かかわっていたからだとなる
こうして報道されないことで重大なことが起きる
原発事故でも危険は報道されず安全神話が作られて甚大な被害になったからである
つまりマスコミで報道しないと真実は隠されその結果として国民に被害が及ぶのである
そして宗教は信教の自由だとかを盾に批判させないのである
信教の自由は個々人にはある、でもそれが集団化組織化して巨大化すると権力化して社会を支配してやがてナチス化する、また原発の安全神話のように危険が隠ぺいされて甚大な被害が起きる、だから国民でもそういうことで関心を持ちマスコミ報道にまかせないことである、でもyoutubeとかではプログでもインタ−ネットだと金がかからず報道できるので民主主義の促進にはなる

posted by 天華 at 12:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年09月03日

人間は育った家の影響が大きい (農家に育った女性の話)


人間は育った家の影響が大きい

(農家に育った女性の話)


小高の70代の女性は花にくわしい、そして花の手入れができる、生け花もしていた
だからその心得もある、同じ年代で話しも合う、山羊を飼ってその乳を飲んでいたというその時私の父親は戦後まもなく牛乳がなく牛乳屋に並んでやっと手に入れていた
そして学校では脱脂粉乳を飲まされていた、それがまずかった、でも同世代だから話しが通じるとなる

その女性の家は石川県から越中の方からの移民が先祖だった、だから真宗で南無阿弥陀仏である、それで私は必ず墓地で墓を見ている、たいだい南無阿弥陀仏であり苗字は記されていない、・・家の墓とはなっていない、ただ墓誌には記されている
相馬藩では天明の飢饉で三分の一の人口が消失して欠け地が荒地となって石川県とか富山県とか越中の方から移民を受け入れた

当時人が移動することは簡単にできない、それで命がけでも相馬藩に移り住んだ
ではなぜそれほどまでにしてこの地に移って来たのか?
それは荒地でも土地が自分のものとして与えられることになったからである
三分の一の人口が減ればそうした荒地は誰のものでもなくなり与えられたとなるからだ
江戸時代となると今の状態とは違う、もともと空地荒地が多かったから余計に土地を得られということで移住したのである、でもここに移動するのが危険だったのである
相馬藩内では必ずそうした移民がいるからめずらしくはないとなる

その女性は何かハキハキしていろいろ知っている、でも夫を十年間脳梗塞になって介護したと言っていた、この脳梗塞になる人が多く他にもそういう人を知っている
脳梗塞になっても簡単には死なない、でもその介護は大変だとなる
近くの同級でも二人が脳梗塞になっている、一人は足が悪くなったとか一人はろれつが回らなくなったとか後遺症がある、一人は救急車で一命をとりとめたとかある
脳梗塞は後遺症があるからそれで苦しむ
その女性も具合が悪かったが回復したと言っていた
ただ小高で浜の方で家が津波で流された、そして今は原町区に移り住んでいる
孫もいて家族がいるからいいとなる

人間は育った家に相当に左右される、農家に育った人はやはり農業のことを現実に手伝っているから知っている、その知るということは本を読んだりして知っているのとは違う
自ずと肌で知っているとなる、体で知っているとなる、つまり農業でも体験しないとわからないのである
家の影響が大きいというとき事業をする人は経営する人は商売人の娘をもらいというとき事業は経営は家族ぐるみになるからそうなる、特に小規模の会社などは家族ぐるみになる、すると商売している娘は肌で商売のことを知っているから夫の助けとなる
やはりそういう場所で育ったから自ずと理解できるとなる
江戸時代までなら家業を受け継いでいたから仕事を選ぶことで悩むことは少なかった
そういう環境に育って受け継げばいいからである

でも向いていないことはある、何か農業を継ぎたくないと親と争い事件になったニュースがあった、それは日ごろ農業をみていてかえって嫌になったということもある
つまりその苦労が肌でわかるらか農業をしたくないとなったのだろう
人間は向き不向きがある、例えそういう環境に生まれても合わないということがある
だから医者の子供がみんな医者になるのは問題なのである
どうしても向かない人が医者になると後で患者でも迷惑かけることになるからだ

でも農家に嫁いだ女性でも全く農業を知らない人がいた、それはもともと農家であっても土地をもっていても夫は会社員になっていたし嫁も農業をしないからである
だから花のことでも関心がないのが淋しいとなる、何か生活感覚がないのである
農業している家の人は生活感覚がある、それで話を聞いていると興味深いとなる

戦後まもなくは農家の方が豊だった、なんでも自給自足であり納豆から油まで作っていたそして鶏を飼っていたから卵が食べられたのである
私の家では店をしてその卵を買うために農家に行かされていたのである
その時は農家が中心の社会だったのである、戦争の引揚者でも鹿島区なら小池とかに開墾に入った人を知っている、そこは街から近いのである
飯館のような山の奥ではないのである、でもそこに空いた土地がありそうなった
その時仕事がないから引揚者が全国で開墾に入った、でも厳しいから半分くらいは撤退したとかある

農業というとき実地に体験していなくても一応子供の時から回りが田畑なのだから見ている、それで話しを合すことができる
ただ牛を飼っていたとかなると馬でもそういう動物と親しくなることが理解できない
だから牛馬となると野馬追いとは違って日々の生活の中で動物にふれるのだから家族のようにもなる
youtubeとかでライオンでも虎でもワニすら助けて育てたとか子供の時からめんどうみたとなるとその人のことを忘れない、20年もたっても忘れなかったということでも驚く
動物でも情は通じていたのである、子供の時、ライオンでも虎でも熊でも一緒に育つと大人になっても仲間であり争わないのである
餌をやっていれば争わないのである、だから一緒に育てば血縁でなくても種が違っていても兄弟にもなるのである

ともかく戦後十年の体験は貴重だった、電気もガスも水道もない、食事は卵すら食べられない粗末なものだった、それで今日もコロッケ明日もコロッケというのをコロッケを食べて思い出した、つまりオカズがそんなにないからそういう歌ができたとなる

今日もコロッケ 明日もコロッケ
これじゃ年がら年中 コロッケ コロッケ

それだけ今のようにオカズの種類がなかったのである、これも同年代と話しして思い出したのである、でも戦後十年以上になると豊かになってきたから年代でも10年違うと相当に体験したものが違って理解できなくなるのだ

何か老人になるとこうして昔を語ることが仕事にもなる、でも忘れていることがあり
思い出す作業が必要だとなる、それで同年代だと話しているうちに思い出すのである
これは認知症になっても昔のことは覚えている、だから話しができないとういことでもないのである、ただ戦争のことを千回も聞かされたのには閉口したのである

小高の人は原町に移り住んでいるし鹿島でも相馬市でも移り住んでいる
ただ小高は小高とかなることもある、でも小高に帰り住む人は少ない、若い人達は流出した、それが何か遠くへ仙台とかまた東京の方に移り住んだ人もいる
残されたのは老人なのである、だからとても小高でも浪江でも双葉でも復興できるように思えないのである
そうはいっても復興するというときやはり人間の意志が関係している
意志とはwillであり意志があってこそ未来はあるとなる
復興できないとあきらめればもう復興はできないのである

でも老人の問題は体力も衰えるし気力でもそうである、それで農業でも継がれないのである、それでやたら荒地ばかりが増えているのである、耕作放棄地とか空家が増大しているのである
何か釧路辺りでも街が寂れている映像をyoutubeで見たし温泉街でもそうだし日本全体が縮小して寂れてゆく、この辺は原発事故で極端にそうなったのである
でも日本の未来が何か荒地化して空家化して廃墟化してゆくことの恐怖である
戦後間もなくのように引揚者が悪い土地でも開墾するとかはない
江戸時代のように越中の方から土地を求めて移民することもない、農業だけの世界ではないから昔のようにはならない、するとますます廃墟が広がってゆくとなる
人口縮小時代に入っているからである
だからコンパクトシティのような街作りになるのか、とても農業だけでは生活する時代は終わっているからである
農業といっても大規模農業は盛んでありそこはかえって裕福になっている
でも小規模農業は成り立たなくなっている、でも実際の食糧は大規模農業から供給されているのである、小規模農業は補助金を与えても採算がとれないのである

人間と牛でも馬でも一体化した時代を偲ぶと

山々かすみいりあいの
鐘はなりつつ野の牛は
静かに歩み帰り行く
耕す人もうちつかれ
やうやく去りて我一人

明治翻訳史の一断面
ー大和田建樹を中心にして―岡本昌夫

牛が大地の上にあり鐘がなり人間と牛は一体化する
自然の中にともにとけこむ、今は車とともにありそのために心までぎすぎすして余裕がない、車に明け車に暮れるともなるからだ、
つまり牛馬とともにあったとき牛馬も生物だから一体となる
それが今は暮らしのなかで消えた、飯館村には牛が飼われていたが牛肉の牛である
ただ牛がいるということでやはり動物と一体化する
それで十匹の牛に名前をつけていて覚えていたという
まさに牛でも名前がついていて人間化されていた
今なら人間は番号で呼ばれているのである、数字化されて索漠となる
そして車が常に縦横無尽に走り歩く人や自転車は邪魔物とされる
それも非人間的なことなのである、現代は情を育む環境がなくなっているのだ
機械時代になると人間の代わりが機械とかロボットにもなってしまう
それも必要でもそこに情は失われてゆく、そして人間は一票として数えられ一個の人間として見られるあることが現代ではできないとまでなっているのである




posted by 天華 at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2022年09月02日

浪江を偲ぶの春の短歌 (ふるさとの文学散歩―常盤芳秀の歌−津波原発事故で失われたもの)


浪江を偲ぶの春の短歌

(ふるさとの文学散歩―常盤芳秀の歌−津波原発事故で失われたもの)



大堀に陶工の技代々に磨くも良しや春の日たずぬ

大堀に買いし陶器の我が家にありてなじみぬ春の日暮れぬ

高瀬川流れのひびき高鳴りぬ春の日さらに上に登りぬ

高瀬川登りてあわれ葛尾に磐城落合の名そ残りけり

浪江町今は荒れにし悲しけれ昔の栄もどることなしも

浪江町生きにし人やその墓地も荒れて捨てられ春も悲しも

請戸港昔栄えぬ江戸にしも松前にしも宮古にしも行く

誰か住む津波に流さる家の跡椿の咲くも人は住まじも

古き蔵残れる家や戻りきてここに住みなむ椿咲くかな

請戸港昔の面影ここになし春の日さすも高き防波堤

甚大な津波原発その被害春のめぐれど立ち直れじかも

長塚に銀行ありと姉遊ぶそのこと聞きしも遠くなりぬる



ふるさとの文学散歩―浪江町の文学碑ー常盤芳秀の歌(1860−1920)−松本博之著

澤井屋という金物店を経営しながら詩文をよくし、すぐれた書家でもあった
万延元年江戸で桜田門外の変が起り幕末動乱の歳に浪江で生まれた
父は剣を斎藤弥九朗道場に学び、新道無念流免許皆伝の腕前であったという
事あって諸国を遍歴し旅の途中この浪江に立ち寄ったところ人物を見込まれて常盤家に入ることになった

芳秀はこの父に剣の道を学び、明治八年藩錦織晩香が幾世橋村に開設した希賢舎で漢学を学び塾頭をつとめた、また国学派の歌人海上胤平に歌学を学んだ

芳秀の師の海上胤平は千葉県海上郡三川村に文政一二年(一八二九)に生まれ江戸で千葉周作に剣を学び・・・

師弟の縁がどのようにして生まれたのかはわからないが、金物などの商品を仕入れるために請戸港から年に数回金物などを仕入れるために廻船に便乗して上京したという、その折東京の師の居宅を訪ねたのだろう

この人は大和田建樹と同時代の人だった

浪江波うつ稲の穂の
長塚過ぎてゆたかなる

鉄道唱歌を残した人だった、他にも短歌を多く残した
ここに長塚とあるのは双葉駅とは後からできたものであり元は長塚だったのである
私の父が双葉の新山に酒屋の丁稚として働いていて長塚に銀行があったらしい
銀行というものはめずらしいものでそこで子供の時遊んでいたか言っていた

この文章は江戸時代の状況を現している、必ず侍は剣の修行をしている、だから父は剣を斎藤弥九朗道場に学び、新道無念流免許皆伝の腕前となっていた
どこかの道場に属して剣の修行をしていた、それは良く時代劇ででてくる
道場破りとかでもそうである、この人も諸国を回っていた、そうして浪江の常盤家に養子となったのかとなる
そういう父を持ったのが芳秀だったのである、ここにリアルな江戸時代の人間が語られている、常に文武両道であり文は短歌であり国学になっていた

そこでここで注目すべきは

金物などの商品を仕入れるために請戸港から年に数回金物などを仕入れるために廻船に便乗して上京したという

ニシンの買い入れのために北海道の松前まで原釜からも請戸からも船が米を積んで行ったということを書いたが江戸にも行っていたのである
ただ江戸へ運ぶのは米とかであり乗客は運ばない、ただそこに便乗させてもらったのである、ただ江戸から金物を仕入れるということはあった
江戸時代には鉄道はなく船が主な交通となっていた、小名浜から石炭を積みだして東京に運ばれていた、常磐炭田があり鉄道ができる前は小名浜から石炭が運ばれていた
ともかく船が運ぶために利用されて江戸まで通っていたことは確かである

その鉄道にしても

一と筋の煙を立てて走り行く車屋形の早くもあるかな 芳秀

こんな感覚だったのである、車屋形とはまさに車が家になっいてる屋形になっているというふうにも見た、そういう感覚だったのである
煙はくとは蒸気機関車であり石炭を燃やして走らせていたからである
私が蒸気機関車で原町の高校に通っていたということも信じられないとなる
覚えているのはトンネルがありそこで煙が出て顔がすすけたということがあった

江戸時代から明治の変化で大きいのは鉄道が全国にめぐらされたことなのである
それまでは関所があったし簡単に藩の外にでれなかったが切符一枚で全国どこにでも行けるようになったからである
だから鉄道が新しい日本を開いたとまでなっていたのである

ともかく浪江町は本当に津波と原発事故で変わり果てた、復興はしていない
2万人いて一六〇〇人帰ったとしているが残ったのは主に老人である

残念だったのは大堀焼きの窯元があった場所である、高瀬川があり場所が良かったのである、それが窯元は散り散りになってしまったのである
失われたものが余りにも大きすぎたのである

大堀に窯元並び技磨くその日は還らず春も悲しも

どうしてももう在りし日は帰ってこない、その損失は回復しない、これが津波だけだったら海側の被害だけにすんでいたのである
原発事故がそうしたのである

おちこち(紀行文集)(明治) 大和田建樹を読んで
posted by 天華 at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2022年09月01日

文久元年ある城下町の一年(鈴木清著)を読む (船でニシンを買いに行っていた相馬藩の商人)


文久元年ある城下町の一年(鈴木清著)を読む

(船でニシンを買いに行っていた相馬藩の商人)

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●ニシンは稲作の肥料に利用された

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北海道におけるニシン漁業と資源研究
https://www.hro.or.jp/list/fisheries/marine/att/o7u1kr0000000phw.pdf


ニシンの干物はかつて、『言海』に「貧人の食とす」と記されているように、下魚であった。『守貞漫稿』には、「鯡を江戸で食する者は稀で、もっぱら猫の餌である。京阪では煮たり昆布巻にする。かつぎ売りの品は昆布まきにする」

、北海道の日本海沿岸で生産された鰊粕が北前舟で本州へ移出され、菜種、藍、綿花などの商品作物の栽培に欠かせない高窒素肥料の金肥のひとつとして販売され、農村への貨幣経済の浸透を促した。しかし生産時には大量の薪を必要とするため、生産地では森林破壊が進んだ

乾物の身欠きニシン40貫(約150キロ)を1石と計測していた。生魚の場合には、身欠きニシン40貫に必要な200貫を1石と換算している。この石高換算は、松前藩の石高には反映されていないが、各地に千石場所といったニシン漁の盛んであったことを示す呼び名として残った

江戸前期の廻船は順風帆走や沿岸航法しかできず、大坂から江戸までは平均で32.8日、最短でも10日も要していた。しかし上記の弁才船の改良や航海技術の発展により、江戸後期の天保年間には同じ航路を平均で12日、最短では6日と大幅に短縮されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%B3

海の恵みを大地に返す。北海道西北部の港町、留萌市から産出される年間約3千トンのニシンの加工残さからアミノ酸を豊富に含む天然有機肥料「スーパーアミノ10」が誕生した。その肥料を与えられて育った道産米はふっくらと大きく実り、旨味も豊か。
https://www.hint-sapporo.jp/features/pickup/7

ニシンと主に稲作の肥料として利用された、農業というのは肥料が最大の問題なのである農業の始まりは焼畑農業であったことでもわかる、森の木を灰にしてそれを肥料としたのである、また害虫も死ぬからそれも効果的だった
ただ人間の職業がなんでも業(カルマ)となるように焼畑農業でも森を破壊するから自然破壊になっていたのである、
ニシン粕(かす)生産でも大量の薪を使うということで森林破壊していたというのも意外なのである、何か人間のすることは必ず自然破壊に通じているのである

草木灰の主な成分は、石灰、リン酸、ケイ酸、カリウムです。石灰分が多いことから、苦土石灰のように土をアルカリ性に傾ける効果があり、草木灰が白いほどアルカリ性が強くなります。また、カリウムは水に溶けやすいことから、速効性がある肥料の1つとして利用します

そもそもなぜ相馬藩が松前までニシンを得るために船で行ったのか?

松前となれば遠いのである、また船だと危険なのである、そんな遠くまで行くメリットがあったのかとなる、現実に破船したとかあり遭難があった、船に遭難がつきものなのである
だからそれほどまでして松前に行く理由がわからないのである、言えることはそれだけ農業というのは肥料が生命線なのである、今回のロシアとウクライナの戦争でもわかったことはロシアから輸入していた肥料が入らないことで高くなることで苦しくなったことでもわかる、また糞尿でも肥料にしてきたのはなぜか、窒素とかリンがありそうなった
肥料なくして農業はないのである
ただ相馬藩内でも漁業をしていた、でも肥料にするほどの魚はとれなかったとなる
それで相馬藩の他藩へ売るものは米だったのである
米を積んで松前まで運びニシン粕を運んだのである
何かこの辺で小さな畑をしていた人は角田にいい肥料があるとして鶏糞があるとしてわざわざ買いに行ったことがある、いい肥料があるとなるとこうしうて遠くまで買ういに行くとなる、現代ではいい肥料はロシアとかにあるとなっていたのである

●相馬藩の小さな湊でも船が入り荷を運んでいた―塚原の人は新潟から来た米商人か?

中湊の近藤長四郎(茨城県ひたちなか市の商人)千代久吉殿が仙台荒浜への下りだと立ちよった
米を売ってほしいとのことで十両で米を25俵沖渡しの相場を申してきた
相談に応じるべきかどうか御上に伺いを立てなければならないというととけば引き合いにならないと早速出立してしまった

永昇丸 公用船、松前で購入

吉田屋源兵衛手船、乾々丸破船、弁財五人乗り、船頭弥七(中津大津屋治兵衛の子)
9月4日松前城下湊で破船

又吉殿が寒風沢へ永昇丸を廻すように申し渡した

福島、二本松、梁川、へ申しだしおいた秋味(鮭)の売さばき方で海産物商人が出張した
永昇丸(公用船、吉田屋源兵衛手船)が中湊より原釜へ廻るとのことで明後日まで当方を出帆して松前へニシン買い入れ下る手はずになっている

塚原(小高)で千七百俵、小浜(原町小浜)で千俵、受戸(請戸)で瀬戸三百俵積受するように仰せつけられた

聖天丸―松前通之船も今暮れ(原釜に下船した

亘理の永田屋万七殿が江戸仕入れの登りかけに吉田屋にたちよった、仕入れの品々を原釜に積下したいと申し入れがあったがもはや当夏は下り船がなくもし船あれば末永く取引できそうな人なので手厚い取り扱いをして御積み入れ御頼みしたいの文通で丸屋清七殿への添書を同人へ渡した

西街道御上がりの折、川又の湯屋弥七という者が止宿へ罷り出て,砂糖、琉球類を一ケ年
百駄ずつ受戸浜に陸揚げして川又へ通り荷したん嘆願のところ、願いの通り御聞済になりこの度弥七が江戸表仕入れで受戸浜市十郎船得運丸へ積下った由

平潟の相馬屋万平殿(茨城県茨城市平潟町の商人)より来る状があった
亀友丸(吉田屋源兵衛船)が岩城の板類積下りのところ去月二十五日積仕舞い、同二十九日に同処を出帆のこと

永昇丸が原釜へ出帆して無事に松前城下に着いてそれよりニシン売りを積むつもりであったが節遅れで昆布を積んで運賃取などして利潤を得た

松前城下より積み荷して予定のところ三日の夜大時化で同湊で50余艘の破船があった

塚原よりの飛脚の者へも書状を出したが、小浜廻米奉行がかれこれと申し、御積立てが延引になった、船のためにもならないので、今朝志賀様より小浜廻米奉行高野への御用状を貰い、また追飛脚を差し立てた

今朝御用状持参で熊人を以って塚原へ差し立てたがとても五七日では積み立てはむずかしいので原釜へ廻すことのこと

松前箱館に御出張の佐々木と大友氏の御両人への書状
内容は永昇丸羽破船について、弥七、久蔵の到着以来、この代船、この度御制立なされること御治定になり、金三百両を渡し、越後新潟に出張申しつけられたのでニシンを買い付けの御手当てを下され・・・・

先月二十日に小高郷村上浜へ乗り上げた寛勢丸(石ノ巻の高橋屋の手船)
1700石積、塚原村村上村堺の川場で破船

塚原より熊人が来た、己百丸がしばらく昨日から今日まで先に九百俵積み、残りの二千俵余も積み切った、船頭は原釜より浜回りして塚原へ参った
塚原よりの人を召し入れて夕七つ半出立した
松前通船の永昇丸の代船を御上にて再興したいとの思し召しがあった
伊勢で御造船の予定である

船代金でこの度越後新潟で二三才くらいの船を旧冬中に買い取り中荷は御上がり
・・・・
元船頭、永昇丸久蔵へ迎町の平井氏に大工を付き添わせこれに買い船代金の二百両を渡し予定である、出張先で万一買い船がないときは同所で新規の造立の予定
六百石積・・・なり

一昨日までにしばらく己百丸(去月五日原釜へ下帆した船)が塚原での積み立てが出来、今暮、御帰りとのことである、古穀二千七百五十俵、早速出帆した

小浜とか塚原とかには湊があった、でもそこから江戸までは行かない、大きな港は原釜と受戸(請戸)である、そこに米を集めて江戸まで運んだ
また寒風沢(さぶさわ)は塩釜でも必ず船が立ち寄る場所になっていた
石巻から仙台藩の米が大量に江戸に船で送られた、では相馬藩から江戸へ送られたのか?その辺がはっきりしない、阿武隈川の船運があり荒浜から江戸へ船を運んだ
一旦荒浜とかに相馬藩内の港から米を運びそれから運んだのか?
ただ途中の茨城県の平潟とかを中継して中湊とかを経由して江戸に運んだ
そこで積荷を別な船に代えたということもありうる、江戸まで船で行くことは当時むずかしい、松前で破船があったからだ、海は常に危険であり遭難がつきものである

そして不思議なのはなぜ新潟と関係していたのか、新潟で新しい船まで作るために行っている、そして小高の塚原というのは意外と関係していた、

小高には湊があり大船が出入りしていたが津波で消失した

(文禄二年の相馬藩の士禄の記録が語るもの)
http://musubu.sblo.jp/article/102082176.html

ここにおん船という記録が異常に多いのである、塚原には多数の船が入ってきて船を持っていた人が多かった、塚原は高台にあったがその前は海でありもともと蔵院とかあり船が入ってきた場所だったのである、なぜ小高城が浮舟城とういのか海に浮いている船というときその前は海だったからである、入江であり湊となっていたのである
だから津波で海になり小高駅の下の水道管から街の方へ海水があふれだしたのである
つまり駅から海の方はもともと海だったのである
それは浜吉田もそうだった、駅前は海になったからである、海が遠いようで近かったのである

塚原というとき小高の大工さんは塚原であり高い場所でも津浪に襲われた、立派な家を苦労して作ったが放置されている、息子は仙台市に行ったとか放置されて本人は原町に住むようになった
その人は家が米を売買する商人だったらしい、米を取引する家で不思議なのは新潟から来たとしている、一時は相馬市に住んで小高に移り住んだとか言っていた
なぜ新潟なのかというときどうもこの文久時代に米の取引があり松前に相馬藩内から商人が船で行き来していたのである
それでも松前となると遠い、でもこの時代の記録にあるのだから確かである
なぜそん遠くに行ったのかとなるとニシンが大量にとれその粕が稲作のための肥料になったからである、そんな遠くにわざわざ肥料を買うために行ったのかとなるが農業にとって肥料ほど大事な物はないのである、農業は肥料を作ることが主な仕事になるのである
だからこそ松前まで危険でも船で行ったとなる

もともと鉄の素材を買うために受戸(請戸)では船で宮古から買い入れていた
そして葛尾村まで運び加工して製鉄していて葛尾大臣が生まれたのである

●歴史とは地歴であるーその場に生きていた跡をたどること

歴史を身近にするにはやはりそれぞれが生きている場所から始まる
歴史はどうしても日本史とか世界史とか大きなものからはじまる
でも歴史の始まりは家の歴史なのである、それが一番身近だからである
聖書でもそうである、神に選ばれた人の家族の歴史を記したものでからである

この文久時代の記録をたどりその時何が起きていたかただ事実を羅列していてもそれが
貴重になる、なぜなら記録というのが残らなければ過去は知り得ないのである
そのために記録が大事になる、ただ記録があったとしても昔を偲ぶのにはどうしても想像力が必要になる、相馬藩内だと地理がわかり場所も特定できるから身近になる
文久というとき明治と密接に結びついている
文久生れとなると明治に活躍した人達である、内村鑑三とかは文久であり新島襄とかは天保である、つまり江戸時代の終わりはすでに明治に生きる人達なのである

ただわからないのはこの記録では原釜、小浜、塚原、請戸が出て来る、でも鹿島区の八沢浦とか海老浜は出てこない、八沢浦は江戸時代まで入江であり船運があったという記録がある、また湊という地名もあり海に面していて湊だったのである
それが津波じ消失した、海老も前が海であり船が出入りしていた、右田浜は干拓されて右田の松原が作られた、それは江戸時代である、でも津波で消失した
烏崎も今も港であるが村は津波で消失した
ただ文久時代をみれば原釜、小浜、塚原、請戸が中心になり船運があったとなる
大きな港は原釜であり請戸である

ともかく歴史とは空間軸と時間軸から形成される、そして地元の強みはその土地に生きているからその土地から昔をたずねる、すると何か土地は変わらないから過去が具体的にイメージできるのである
それで双葉町の新山で私の父親が酒屋で働いていた、今もあるのは煉瓦の煙突がある富沢酒店である、それは記録にも残っている、でも私の父親が働いていた酒屋は消失した
でも父親がここで働いていたのだなと思ったとき不思議な気持ちになった
その道を歩いた時、何か歴史を父親とのつながりを感じたのである
歴史とはやはり場が影響している、そういう空間は場は消えないのである
でも双葉町のように最近避難解除になったが住む人がいないと死んだ町になり過去も死んでしまうとも感じた、ただ父が歩いていて私もそこを歩いているということで歴史を感じたのである

歴史とはむずかしいことではない、過去を生々しく感じたら歴史が身近になる
だから歴史は祖父母などでも親でも聞いた話からはじまるとなるのである
聖書自体がそういうものだったからである、歴史というとき何か大きな国とかの歴史ではない、個々人の血の通った場所に通じたものが歴史なのである
今回通読した文久元年、ある城下町の一年というのは確かに記録の羅列なのだがここに生きている人にとっては身近なのである
そこに確かに自分の祖先が現実に生きていてその子孫も生きているからである

我が父の歩みしこの道親しかな虫の音かすか新山の道

こんなふうになるのである、他に姉がシンガポールの向かいのジョホールバルで従軍看護婦として辛酸をなめた、四年間地獄の苦しみに生きた
もし自分もそこに行けば何か歴史を具体的に感じるのである
戦争の是非とは別にやはり親とか祖父母から聞いた話は身近になるからである
歴史は空間軸と時間軸で作られるという時、具体的に理屈ではなく死んだ人でも生きているように感じることが歴史を感じることだともなる
この本に記された記録は確かに自分の先祖が記されているということで身近になっている人もいるだろう
ただ歴史というのは想像力が必要になる、記録から何をイメージできるかになる
ただ記録の羅列から何もイメージできないこともある
それで記録が大事でも過去はドラマとなる、それは何か事実をゆがめるし歴史ではないともなる,ドラマと歴史は違うのである
でも記録からドラマも作られる、ここで商人の苦労があり船で商売する苦労が語られている、破船もあり遭難もある、海は常に危険でありそれ故に必ず無事に帰ってくれることを海で暮らす人は思うのである
また琉球類というとき砂糖がありこれも貴重だった、砂糖は琉球しかからしか入らない
だから砂糖を使うことはそれでお菓子を作ることは相当に貴重だったのである
あんこでも佐藤を使うからぼた餅などは滅多に食べられないとなっていたのである

いづれにしろ記録は意外と大事である、何でもいいから日々記録していることが後で貴重になる、全国を世界を旅したが忘れている、外国だと余計に忘れる
写真をみてもどこで撮ったかも不明になっている、人間は忘れ安いのである
プログで15年も書きつづけいるけど自分の書いたものも忘れる、そして読み返してみて自分で感心しているのも不思議なのである
つまり人間とは忘れやすいのである、だから百年前とかさらに400年前とかの記録となると記録として残っているだけで貴重なものになる
それでこの辺で相馬藩で二行だけ生波(いくなみ)で津波で700人溺死と記されていたことほど貴重なことはなかった、でも学者すら知らなかったのである
津浪が来て調べたらわかったのである、その時代に津波の被害を受けた人は自ら記録を残すこともできなかったのである
今は膨大な記録が残るから忘れられることはないだろう
映像でも記録されているから過去が蘇るとなるからだ
それで明治時代に東京駅の前を荷馬車が行き来していたというこも驚きである
車がない時代であり運ぶのやはり荷馬車だったのである

いづれにしろ記録だと無味乾燥にもなるが学問はそういうものでもある
ドラマとか小説とは現実は違っている、だから地味なのである、でもその地味なことでも記録したものを知ることは大事だということである
それがこの辺の二行だけ残された生波(いくなみ)で津波で700人溺死の記録なのである



郷土史というとき電子化してキーワードで検索するようにする
特に相馬藩政記など記録が膨大なのだから簡単に検索できるようにするといい
図書館で調べるのがめんどうなのである、本でもめんどうになる
だからもう図書館には行っていない、忙しくなったのと調べるのがめんどうだからである
コピーしたりとかめんどうなのである
私の書いたものは膨大でありキーワードで検索できる、それが読む人には便利なのである
ただ著作権の問題があってできないという面はある
古いものは著作権切れたものは国会図書館で検索できるようになったのである



posted by 天華 at 18:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

隠された村ー山の抽象画 a hidden village and abstract mountains


隠された村ー山の抽象画

a hidden village and abstract mountains


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summer mountains

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隠された村があり
神秘の沼がある
沼には何がひそんでいるのか
深い霧におおわれる
その村への道は消える
村は山に閉ざされ隠される

There is a hidden village
And a mysterious swamp
What lurks in the swamp
Covered by a deep mist
The road to the village disappears
The village is hidden by the mountains