2022年09月01日

文久元年ある城下町の一年(鈴木清著)を読む (船でニシンを買いに行っていた相馬藩の商人)


文久元年ある城下町の一年(鈴木清著)を読む

(船でニシンを買いに行っていた相馬藩の商人)

gengou11.jpg

shipkitamae11.jpg
matumaeship111.jpg

●ニシンは稲作の肥料に利用された

nishin111.jpg

nishinhiryo1.jpg
北海道におけるニシン漁業と資源研究
https://www.hro.or.jp/list/fisheries/marine/att/o7u1kr0000000phw.pdf


ニシンの干物はかつて、『言海』に「貧人の食とす」と記されているように、下魚であった。『守貞漫稿』には、「鯡を江戸で食する者は稀で、もっぱら猫の餌である。京阪では煮たり昆布巻にする。かつぎ売りの品は昆布まきにする」

、北海道の日本海沿岸で生産された鰊粕が北前舟で本州へ移出され、菜種、藍、綿花などの商品作物の栽培に欠かせない高窒素肥料の金肥のひとつとして販売され、農村への貨幣経済の浸透を促した。しかし生産時には大量の薪を必要とするため、生産地では森林破壊が進んだ

乾物の身欠きニシン40貫(約150キロ)を1石と計測していた。生魚の場合には、身欠きニシン40貫に必要な200貫を1石と換算している。この石高換算は、松前藩の石高には反映されていないが、各地に千石場所といったニシン漁の盛んであったことを示す呼び名として残った

江戸前期の廻船は順風帆走や沿岸航法しかできず、大坂から江戸までは平均で32.8日、最短でも10日も要していた。しかし上記の弁才船の改良や航海技術の発展により、江戸後期の天保年間には同じ航路を平均で12日、最短では6日と大幅に短縮されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%B3

海の恵みを大地に返す。北海道西北部の港町、留萌市から産出される年間約3千トンのニシンの加工残さからアミノ酸を豊富に含む天然有機肥料「スーパーアミノ10」が誕生した。その肥料を与えられて育った道産米はふっくらと大きく実り、旨味も豊か。
https://www.hint-sapporo.jp/features/pickup/7

ニシンと主に稲作の肥料として利用された、農業というのは肥料が最大の問題なのである農業の始まりは焼畑農業であったことでもわかる、森の木を灰にしてそれを肥料としたのである、また害虫も死ぬからそれも効果的だった
ただ人間の職業がなんでも業(カルマ)となるように焼畑農業でも森を破壊するから自然破壊になっていたのである、
ニシン粕(かす)生産でも大量の薪を使うということで森林破壊していたというのも意外なのである、何か人間のすることは必ず自然破壊に通じているのである

草木灰の主な成分は、石灰、リン酸、ケイ酸、カリウムです。石灰分が多いことから、苦土石灰のように土をアルカリ性に傾ける効果があり、草木灰が白いほどアルカリ性が強くなります。また、カリウムは水に溶けやすいことから、速効性がある肥料の1つとして利用します

そもそもなぜ相馬藩が松前までニシンを得るために船で行ったのか?

松前となれば遠いのである、また船だと危険なのである、そんな遠くまで行くメリットがあったのかとなる、現実に破船したとかあり遭難があった、船に遭難がつきものなのである
だからそれほどまでして松前に行く理由がわからないのである、言えることはそれだけ農業というのは肥料が生命線なのである、今回のロシアとウクライナの戦争でもわかったことはロシアから輸入していた肥料が入らないことで高くなることで苦しくなったことでもわかる、また糞尿でも肥料にしてきたのはなぜか、窒素とかリンがありそうなった
肥料なくして農業はないのである
ただ相馬藩内でも漁業をしていた、でも肥料にするほどの魚はとれなかったとなる
それで相馬藩の他藩へ売るものは米だったのである
米を積んで松前まで運びニシン粕を運んだのである
何かこの辺で小さな畑をしていた人は角田にいい肥料があるとして鶏糞があるとしてわざわざ買いに行ったことがある、いい肥料があるとなるとこうしうて遠くまで買ういに行くとなる、現代ではいい肥料はロシアとかにあるとなっていたのである

●相馬藩の小さな湊でも船が入り荷を運んでいた―塚原の人は新潟から来た米商人か?

中湊の近藤長四郎(茨城県ひたちなか市の商人)千代久吉殿が仙台荒浜への下りだと立ちよった
米を売ってほしいとのことで十両で米を25俵沖渡しの相場を申してきた
相談に応じるべきかどうか御上に伺いを立てなければならないというととけば引き合いにならないと早速出立してしまった

永昇丸 公用船、松前で購入

吉田屋源兵衛手船、乾々丸破船、弁財五人乗り、船頭弥七(中津大津屋治兵衛の子)
9月4日松前城下湊で破船

又吉殿が寒風沢へ永昇丸を廻すように申し渡した

福島、二本松、梁川、へ申しだしおいた秋味(鮭)の売さばき方で海産物商人が出張した
永昇丸(公用船、吉田屋源兵衛手船)が中湊より原釜へ廻るとのことで明後日まで当方を出帆して松前へニシン買い入れ下る手はずになっている

塚原(小高)で千七百俵、小浜(原町小浜)で千俵、受戸(請戸)で瀬戸三百俵積受するように仰せつけられた

聖天丸―松前通之船も今暮れ(原釜に下船した

亘理の永田屋万七殿が江戸仕入れの登りかけに吉田屋にたちよった、仕入れの品々を原釜に積下したいと申し入れがあったがもはや当夏は下り船がなくもし船あれば末永く取引できそうな人なので手厚い取り扱いをして御積み入れ御頼みしたいの文通で丸屋清七殿への添書を同人へ渡した

西街道御上がりの折、川又の湯屋弥七という者が止宿へ罷り出て,砂糖、琉球類を一ケ年
百駄ずつ受戸浜に陸揚げして川又へ通り荷したん嘆願のところ、願いの通り御聞済になりこの度弥七が江戸表仕入れで受戸浜市十郎船得運丸へ積下った由

平潟の相馬屋万平殿(茨城県茨城市平潟町の商人)より来る状があった
亀友丸(吉田屋源兵衛船)が岩城の板類積下りのところ去月二十五日積仕舞い、同二十九日に同処を出帆のこと

永昇丸が原釜へ出帆して無事に松前城下に着いてそれよりニシン売りを積むつもりであったが節遅れで昆布を積んで運賃取などして利潤を得た

松前城下より積み荷して予定のところ三日の夜大時化で同湊で50余艘の破船があった

塚原よりの飛脚の者へも書状を出したが、小浜廻米奉行がかれこれと申し、御積立てが延引になった、船のためにもならないので、今朝志賀様より小浜廻米奉行高野への御用状を貰い、また追飛脚を差し立てた

今朝御用状持参で熊人を以って塚原へ差し立てたがとても五七日では積み立てはむずかしいので原釜へ廻すことのこと

松前箱館に御出張の佐々木と大友氏の御両人への書状
内容は永昇丸羽破船について、弥七、久蔵の到着以来、この代船、この度御制立なされること御治定になり、金三百両を渡し、越後新潟に出張申しつけられたのでニシンを買い付けの御手当てを下され・・・・

先月二十日に小高郷村上浜へ乗り上げた寛勢丸(石ノ巻の高橋屋の手船)
1700石積、塚原村村上村堺の川場で破船

塚原より熊人が来た、己百丸がしばらく昨日から今日まで先に九百俵積み、残りの二千俵余も積み切った、船頭は原釜より浜回りして塚原へ参った
塚原よりの人を召し入れて夕七つ半出立した
松前通船の永昇丸の代船を御上にて再興したいとの思し召しがあった
伊勢で御造船の予定である

船代金でこの度越後新潟で二三才くらいの船を旧冬中に買い取り中荷は御上がり
・・・・
元船頭、永昇丸久蔵へ迎町の平井氏に大工を付き添わせこれに買い船代金の二百両を渡し予定である、出張先で万一買い船がないときは同所で新規の造立の予定
六百石積・・・なり

一昨日までにしばらく己百丸(去月五日原釜へ下帆した船)が塚原での積み立てが出来、今暮、御帰りとのことである、古穀二千七百五十俵、早速出帆した

小浜とか塚原とかには湊があった、でもそこから江戸までは行かない、大きな港は原釜と受戸(請戸)である、そこに米を集めて江戸まで運んだ
また寒風沢(さぶさわ)は塩釜でも必ず船が立ち寄る場所になっていた
石巻から仙台藩の米が大量に江戸に船で送られた、では相馬藩から江戸へ送られたのか?その辺がはっきりしない、阿武隈川の船運があり荒浜から江戸へ船を運んだ
一旦荒浜とかに相馬藩内の港から米を運びそれから運んだのか?
ただ途中の茨城県の平潟とかを中継して中湊とかを経由して江戸に運んだ
そこで積荷を別な船に代えたということもありうる、江戸まで船で行くことは当時むずかしい、松前で破船があったからだ、海は常に危険であり遭難がつきものである

そして不思議なのはなぜ新潟と関係していたのか、新潟で新しい船まで作るために行っている、そして小高の塚原というのは意外と関係していた、

小高には湊があり大船が出入りしていたが津波で消失した

(文禄二年の相馬藩の士禄の記録が語るもの)
http://musubu.sblo.jp/article/102082176.html

ここにおん船という記録が異常に多いのである、塚原には多数の船が入ってきて船を持っていた人が多かった、塚原は高台にあったがその前は海でありもともと蔵院とかあり船が入ってきた場所だったのである、なぜ小高城が浮舟城とういのか海に浮いている船というときその前は海だったからである、入江であり湊となっていたのである
だから津波で海になり小高駅の下の水道管から街の方へ海水があふれだしたのである
つまり駅から海の方はもともと海だったのである
それは浜吉田もそうだった、駅前は海になったからである、海が遠いようで近かったのである

塚原というとき小高の大工さんは塚原であり高い場所でも津浪に襲われた、立派な家を苦労して作ったが放置されている、息子は仙台市に行ったとか放置されて本人は原町に住むようになった
その人は家が米を売買する商人だったらしい、米を取引する家で不思議なのは新潟から来たとしている、一時は相馬市に住んで小高に移り住んだとか言っていた
なぜ新潟なのかというときどうもこの文久時代に米の取引があり松前に相馬藩内から商人が船で行き来していたのである
それでも松前となると遠い、でもこの時代の記録にあるのだから確かである
なぜそん遠くに行ったのかとなるとニシンが大量にとれその粕が稲作のための肥料になったからである、そんな遠くにわざわざ肥料を買うために行ったのかとなるが農業にとって肥料ほど大事な物はないのである、農業は肥料を作ることが主な仕事になるのである
だからこそ松前まで危険でも船で行ったとなる

もともと鉄の素材を買うために受戸(請戸)では船で宮古から買い入れていた
そして葛尾村まで運び加工して製鉄していて葛尾大臣が生まれたのである

●歴史とは地歴であるーその場に生きていた跡をたどること

歴史を身近にするにはやはりそれぞれが生きている場所から始まる
歴史はどうしても日本史とか世界史とか大きなものからはじまる
でも歴史の始まりは家の歴史なのである、それが一番身近だからである
聖書でもそうである、神に選ばれた人の家族の歴史を記したものでからである

この文久時代の記録をたどりその時何が起きていたかただ事実を羅列していてもそれが
貴重になる、なぜなら記録というのが残らなければ過去は知り得ないのである
そのために記録が大事になる、ただ記録があったとしても昔を偲ぶのにはどうしても想像力が必要になる、相馬藩内だと地理がわかり場所も特定できるから身近になる
文久というとき明治と密接に結びついている
文久生れとなると明治に活躍した人達である、内村鑑三とかは文久であり新島襄とかは天保である、つまり江戸時代の終わりはすでに明治に生きる人達なのである

ただわからないのはこの記録では原釜、小浜、塚原、請戸が出て来る、でも鹿島区の八沢浦とか海老浜は出てこない、八沢浦は江戸時代まで入江であり船運があったという記録がある、また湊という地名もあり海に面していて湊だったのである
それが津波じ消失した、海老も前が海であり船が出入りしていた、右田浜は干拓されて右田の松原が作られた、それは江戸時代である、でも津波で消失した
烏崎も今も港であるが村は津波で消失した
ただ文久時代をみれば原釜、小浜、塚原、請戸が中心になり船運があったとなる
大きな港は原釜であり請戸である

ともかく歴史とは空間軸と時間軸から形成される、そして地元の強みはその土地に生きているからその土地から昔をたずねる、すると何か土地は変わらないから過去が具体的にイメージできるのである
それで双葉町の新山で私の父親が酒屋で働いていた、今もあるのは煉瓦の煙突がある富沢酒店である、それは記録にも残っている、でも私の父親が働いていた酒屋は消失した
でも父親がここで働いていたのだなと思ったとき不思議な気持ちになった
その道を歩いた時、何か歴史を父親とのつながりを感じたのである
歴史とはやはり場が影響している、そういう空間は場は消えないのである
でも双葉町のように最近避難解除になったが住む人がいないと死んだ町になり過去も死んでしまうとも感じた、ただ父が歩いていて私もそこを歩いているということで歴史を感じたのである

歴史とはむずかしいことではない、過去を生々しく感じたら歴史が身近になる
だから歴史は祖父母などでも親でも聞いた話からはじまるとなるのである
聖書自体がそういうものだったからである、歴史というとき何か大きな国とかの歴史ではない、個々人の血の通った場所に通じたものが歴史なのである
今回通読した文久元年、ある城下町の一年というのは確かに記録の羅列なのだがここに生きている人にとっては身近なのである
そこに確かに自分の祖先が現実に生きていてその子孫も生きているからである

我が父の歩みしこの道親しかな虫の音かすか新山の道

こんなふうになるのである、他に姉がシンガポールの向かいのジョホールバルで従軍看護婦として辛酸をなめた、四年間地獄の苦しみに生きた
もし自分もそこに行けば何か歴史を具体的に感じるのである
戦争の是非とは別にやはり親とか祖父母から聞いた話は身近になるからである
歴史は空間軸と時間軸で作られるという時、具体的に理屈ではなく死んだ人でも生きているように感じることが歴史を感じることだともなる
この本に記された記録は確かに自分の先祖が記されているということで身近になっている人もいるだろう
ただ歴史というのは想像力が必要になる、記録から何をイメージできるかになる
ただ記録の羅列から何もイメージできないこともある
それで記録が大事でも過去はドラマとなる、それは何か事実をゆがめるし歴史ではないともなる,ドラマと歴史は違うのである
でも記録からドラマも作られる、ここで商人の苦労があり船で商売する苦労が語られている、破船もあり遭難もある、海は常に危険でありそれ故に必ず無事に帰ってくれることを海で暮らす人は思うのである
また琉球類というとき砂糖がありこれも貴重だった、砂糖は琉球しかからしか入らない
だから砂糖を使うことはそれでお菓子を作ることは相当に貴重だったのである
あんこでも佐藤を使うからぼた餅などは滅多に食べられないとなっていたのである

いづれにしろ記録は意外と大事である、何でもいいから日々記録していることが後で貴重になる、全国を世界を旅したが忘れている、外国だと余計に忘れる
写真をみてもどこで撮ったかも不明になっている、人間は忘れ安いのである
プログで15年も書きつづけいるけど自分の書いたものも忘れる、そして読み返してみて自分で感心しているのも不思議なのである
つまり人間とは忘れやすいのである、だから百年前とかさらに400年前とかの記録となると記録として残っているだけで貴重なものになる
それでこの辺で相馬藩で二行だけ生波(いくなみ)で津波で700人溺死と記されていたことほど貴重なことはなかった、でも学者すら知らなかったのである
津浪が来て調べたらわかったのである、その時代に津波の被害を受けた人は自ら記録を残すこともできなかったのである
今は膨大な記録が残るから忘れられることはないだろう
映像でも記録されているから過去が蘇るとなるからだ
それで明治時代に東京駅の前を荷馬車が行き来していたというこも驚きである
車がない時代であり運ぶのやはり荷馬車だったのである

いづれにしろ記録だと無味乾燥にもなるが学問はそういうものでもある
ドラマとか小説とは現実は違っている、だから地味なのである、でもその地味なことでも記録したものを知ることは大事だということである
それがこの辺の二行だけ残された生波(いくなみ)で津波で700人溺死の記録なのである



郷土史というとき電子化してキーワードで検索するようにする
特に相馬藩政記など記録が膨大なのだから簡単に検索できるようにするといい
図書館で調べるのがめんどうなのである、本でもめんどうになる
だからもう図書館には行っていない、忙しくなったのと調べるのがめんどうだからである
コピーしたりとかめんどうなのである
私の書いたものは膨大でありキーワードで検索できる、それが読む人には便利なのである
ただ著作権の問題があってできないという面はある
古いものは著作権切れたものは国会図書館で検索できるようになったのである



posted by 老鶯 at 18:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

隠された村ー山の抽象画 a hidden village and abstract mountains


隠された村ー山の抽象画

a hidden village and abstract mountains


hiddenvilliage.jpg

hiddenswamp2.jpg

forestwaydark33.jpg

forestmountain4.jpg



darkmmm3.jpg

clifmmmmm4.jpg

summermountain5.jpg
summer mountains

forestriver111.jpg



隠された村があり
神秘の沼がある
沼には何がひそんでいるのか
深い霧におおわれる
その村への道は消える
村は山に閉ざされ隠される

There is a hidden village
And a mysterious swamp
What lurks in the swamp
Covered by a deep mist
The road to the village disappears
The village is hidden by the mountains