2022年09月07日

この世の中は何故なのかが問われる (様々な問題でも何故そうするのか問われる―国葬でもオリッピックでも事業でも)


この世の中は何故なのかが問われる

(様々な問題でも何故そうするのか問われる―国葬でもオリッピックでも事業でも)

自然であれ社会であれ個々の人間であれ何か起きることで問題になるのが何故なのかということである
結果があり因果関係を求める、だから因果応報がありカルマだとなる
なぜそれぞれの家に問題が起きるのか?
それもその家の持っている因果がカルマが関係しているとなる
それで統一教会では先祖が悪いことしたから今あなたが苦しんでいるというのは説得力がある、でもそれで金をとるということは相手の弱みにつけこんでそうしている
実際はカルマはそれぞれか苦しまなければ解決しないのである
金を貢いでも実際とカルマは解消しないのである

人間の問題は常に何故なのかということで問題になる
それが自然現象なら科学となり原因と結果を求める、それは明快でありわかりやすいとなる、では人間に起きることで社会現象とかまた経済のことでもわかりにくいのである
明確な因果関係がわからない、この何故を探求するのが学問になる
例えばある人が事業を起こす、結果として失敗して多額の借金に苦しむ
ではなぜ事業に失敗したのかとなるとわかりにくいのである

その人はなぜ事業に失敗したのか?

それは社会のせいだともしている、自分の責任ではないとしている、でもそうはいっても必ず責任をとらされるのである、それで借金で苦しむ、その人には確かに技術者でありだから技術に通じているから成功するとして事業を起こした
でも経営となると違ったものになり失敗した、また家族でも経営者になると巻き込む
その家族自体が妻でもうまく協力できなかったとかともなる
経営には向いていないともなる
その人はまず人のために何かをするという感覚はない、自分は技術的には優秀だから自ずと成功すると思って事業を起こしたのである
でも経営するとなると様々な要素が関係して来る、その社長の人間性とかまで関係してくる、でも理系だとそんな人間性などを見ない、つまり技術的に優れていれば成功すると見ていたのである

だから会社でトイレ掃除していた人が社長だったとかある、それで新入生がその人を馬鹿にしていた、でも社長だったということで驚いたのである
そんなこと社長がやるべきではないということを言う技術者もいた
でも技術者なら技術をみがけばいいとなる、それは雇われていてそうなる
でも経営するとなると違ったものになる、そこの理解がなかったとなる
社長は社長として威張っているだけではできない、会社全体を見て社員を見てその上に立ち会社を経営する、会社を経営することは今度は社会全体と関係してくるし多くの人々とも関係してくる、だから経営となると一部の専門的技術者と違ったものになる
理系だと一部の専門的技術者に通じていればいいとなる
でも病院を経営するとかなると優秀な専門的医者が必要でも病院を経営することは病院全体をみてまた社会にもかかわる仕事になる

だから社長がトイレ掃除するときそうして下々のことで目配りしていて全体を見て経営することになる、トイレ掃除する人もやはり社員だからである
私の母親の実家の父は警察署長で退職して事業を起こしたが失敗した、そもそもこの人も警察署長だから成功するとして事業を起こした、実際は能力はなかったのである、母が言うには威張っているだけだったという
これもやはり事業するノウハウも何もないのに警察署長したから事業が成功すると思ったのである
その後事業に失敗して一家離散になったし不和の家になったのである、それが自分に影響して苦しんだともなる
こっちの方が専門知識もなにもないのに事業を起こしたのだからひどいとなる、その結果の責任が負わされたとなる

その人は他人のために箱一つもちたくない人だったともみる、なぜなら私が病気になってその人は助けに来たとしても箱一つ持つのを嫌がっていた
またその家族でも相当に嫌がっていた、だから入院して手術する時もその家族は来たにしろ見守ることさえ嫌がっていた、、そもそも何も私のためにしたくなかったのである
親が世話したことがあってもその子供は関係ないとなっていたからである
だから金が欲しいというだけだったのである、借金をかかえていたから余計にそうなっていたのである
そうなったのも自分のカルマにしろその人は他人のために何か尽くすという気持ちはなかった、自分が技術的には優秀だから社長としてみんなから偉い優秀だと見られることで事業を起こしたのである、その動機がそうだったのである

ではなぜ事業に失敗したのか?

その理由は一つではないにしろそうしてその人はもともと他者に尽くす気持がなかった
簡単なことでも他人のためにしたくない、もちろん無償ではしたくない、その気持ちが行動に現れる、ただ技術的には専門的技術では優れているから成功すると思って事業を起こしたのである
その人はささいなことでも他者のために何かをしてやりたいということはなかった
人間は大きなことよりそうしたささいな小さなことにその人が現れる
もし妻がいたとしても夫に尽くしたくない、でもしかたがないから一緒にいるとなるといつか破綻する、それで意外と熟年離婚が多いのである
嫌でも一緒にいる、でもいつ本心が必ず現れる

いつか必ず本心が現れる、行為となって現れる

これが怖いとなる、積もり積もったものがいつか行動として現れる
人間は表面上は善人面しても実際は悪人でありその本性が必ず現れる
つくづくなぜこんなに人間の職業でも悪が多いのか、まさに職業とは業(カルマ)であるなぜこれほど職業が何か嘘ついたりごまかすものとなっているのか
第一宗教が一番偽りが多い、それは宗教の目指すものが余りに高いものだからそうなる
誰もキリストやシャカのようになれない、その目指すものが高すぎるのである
結果的に宗教と言っても今度は自分たちの欲のために利用するとなる
それがカルトなのである、宗教そのものが方便でありそれで自分たちの欲望を実現しようとする
ほとんどの集団化した組織化した宗教は本来の宗教ではない、ただそれぞさの私利私欲を実現するために団体化して権力化したものである

だからこの世とは何なのか

これ自体がわからなくなる、親鸞が言うようにみんな悪人だとか、義人一人もなしとかなる、職業でも業でありカルマであり悪いことをするものとして職業もあるとなる
銀行員でも投資信託とか売りつけて人をだますとか証券会社とかもなにかうさん臭いとかまともに見えるものでもそこはまともでなくなっている
マスコミも平気で嘘つくとかあらゆる職業が何かそこに倫理にそむいているとなる
政治家とかなると自ら言っているように選挙の時はとにかく頭を下げる、後は知らない、自分の利益を追求するだけだと自ら言っている
別にどの宗教など関係ない票をもらえればいいとういだけである
いちいち選別していたら票にならないからである、それがまた民主主義の弊害でもある
もう人物がどうか人格がどうかなど関係ない、数が集めた人が勝ちだけだとなっているからである、そして選挙はすでに組織団体の票で決まっている、一票など何の力にもなれないなのである、すると相手にするのはカルト教団でもなんでもいい多数の票をもらえることに働きかけるとなる、その相手がカルトでもどうでもいいとなまでなってしまうのである

ともかくこの世の中では何故が常に問われる、安倍首相の国葬でもそうである、なぜ国葬にする必要があるのか?それが問われる、そこで必ず議論すれば賛成と反対論がある
でも何故する必要があるのか明確化しないと国民をも納得しない
今回は国民が納得しないから問題なのである
ただ何故を求めるとあらゆることでその何故がわからないのである
戦争でも三百万人も死んだのになぜ戦争したのかも今になってもわからないのである
科学だと何故を追求すると明確に数学のように答えが出やすい、でも社会現象となると
明確な答えがでないのである

なぜ日本が戦争したのか?

これも明確な答えがないのである、これだけ大きな問題でも答えがない、すると三百万人も死んだ人達は報われないとなる、ただ靖国神社に祀られて英霊とされる
国のために尽くした人達だとされる、それで慰めているが果たしてそうだったのか?
それで死者は報われているのか満足なのかとなる
それは結局何故それだけの戦争をしたのか明確な理由がわからないからである
安倍首相の国葬問題でもそうである、なぜ国葬にするのかその理由が明確ではないし
国民がみんな納得しているわけではない、でも権力者は実際に権力を行使することができる、つまり何故するのかとあっても権力者は何かを決めてそれを成す、そして後で何故そんなことしたのかと問われるのである
人間が権力を持つことは何故かとかを真剣に考えないでも実行できる力を持つことなのである、人間は何故かより権力をもって実行したいとなる
カルト宗教団体でも権力追求になるのはそのためである

つまりこの何故かと問うのが学問であり学者とかになる、哲学者にもなる、自分はこのタイプである
でもその人たちは権力を持っていないから何か実行することはできないのである
だから政治家と哲学者は学者は違ったものである
実業家であり政治家が学者を嫌うのは理屈ばかりこねていて実際には何もできないとしているからである、でも何かを実行するとして必ず何故そんなことしたのだと問われるのである,オリッピックでもそうである、今になると金にまみれたものであり逮捕者もでている、そんなオリッピックをすべきだったのかと問われる
それは私でも前らオリッピックにはもう意味がないと反対していた、他でも反対する人達がいた、でもそういう人達を無視して実行された
結果的には一部の利権者のためにしていたとなって追求される
行動の前に何故そういう行動に出たのか、行動した後にまたなぜそんなことをしたのかと問われるのである
でも現実社会では何故かより行動をすることが先になる

なぜならこうして考えることが先になると
ハムレットのように

あるべきかあらざるべきか

と逡巡して行動できなくなるからである、優柔不断になってしまうのである
でも何故かを無視すると必ず後で何でそんなことしたのかと必ず問われるのである




posted by 老鶯 at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層