2022年09月24日

木の成長と人間の成長 (長い目で見れない人間の弱点ー時間の貴重さがわからない)


木の成長と人間の成長

(長い目で見れない人間の弱点ー時間の貴重さがわからない)

●成功をあせるな

成長の早い杉やヒノキは木材としての質が悪く、商品価値が劣ります。
成長が早いと年輪が粗くなり、強度が弱く、折れやすく、乾燥によって曲がりやすくなるためです。
成長が遅いと年輪が密になり強度が増します。年輪の色の濃い部分は1年のうちの気温の低い秋冬の時期にゆっくり肥大した所です。
ですから、山に生えている木も南側斜面より北側斜面の樹の方が成長が遅く、価値が高いようです。
幹の太さが同じなら樹齢が古いほど良いようですよ。
まあ、苗木を植えたときくらいには肥料をやるのかも知れませんがね。
木材として伐採するのは早くても50、60年はかかります。


人間も同じである、とても人間のような複雑なものは即製できない、動物だったらもう教えられることもなく生まれてすぐに環境に適応するようにできている
でも人間は環境に適応するのにも時間がかかる、だから人間を作り育てることは最高にむずかしい、いくら素質があり才能があってもそれを育み伸ばすのには時間がかかる
確かに肥料をやることも大事である、でも基本的に木を育てるのは時間である
もう育つのには成熟するには50年とかかかるからだ
それはかえってやせ地の方が時間をかけて育つからいいというのは余りに肥料がやりすぎて早め育つといい木にはならない、つまり年輪が詰まっているのは一年一年じっくり育ったからだとなる年輪の幅があるのはいい木にはならない、しっかりとした丈夫な木にならない、年輪の間隔が狭いのがいいのである

人生も終わりになるとこのことを痛切に感じる、何かも身につかずただ時間が過ぎてしまったとなるからだ、一年一年充実して生きていなかった
もしその人なりに充実した時間を生きていればやがて立派な木として育つ
でもそこに必ず時間の無駄があり何かあてもなくぶらぶらしているとかいろいろなことに気をとられているうちに時間がなくなっているのだ
先が長いと思っているけど実際は時間はあっという間にすぎる
時間はなくなってみないと自覚できない、金は小金でもいつも意識して使っている
百円でも損した得したとかなっている、でも不思議なのは百万とかもうけた損したとか
かえって意識できないことがある、人間は大きなものを意識できないのである
なぜなら日ごろの生活が基本にしているからである
日頃の生活は100円得したと損したとかなる、毎日の食費とかが金を使う感覚になっているからだ
私は遺産が入ったとしても大金を使ったことがないから使えないのである
日常感覚からはみだした金は感覚的に理解できないのである
でも庭作りとかで大きな金を使った、それでも百万単位とかである

若い時の問題はとにかく一挙に脚光をあびたい、有名になりたいとかあせることである
実際は何にも認められるものがなくてもそうなる
成功をあせることである、それが失敗の元なのである
それはやはり木のように育つ感覚をとても持てないからである
何かすぐに成功して脚光を浴びたいとなる
それは事業を起こした人にも共通している、何かもう始めたりたちまち成功して大富豪にでもなる感覚になっている、まず地道に仕事をするよりギャンブルの感覚になる
私の祖父にあたる人は警察署長だった、でも機織り工場の事業を起こして倒産した
それもおそらく警察署長だから成功すると事業を起こす前に思っていた
でもその事業についてはずぶの素人にすぎなかったのである
だから一家離散にもなりその子の私の母親は苦しんだのである
事業でも簡単に成功はしない、ギャンブルのように一挙に大金が入ることなどないのである、何かそこには地道にやることが必要になる、でも人間は一挙に脚光をあびて成功者になりたいのである、それが20代とか若くてもそうなのである
ただ天才とかいるからそれは別である、どうしても啄木のような人間を普通の人は理解できないからである

●すぐに見返りを求めるな

人間の問題で何かすぐに何をしてもすぐに見返りを求める、私はあなたにこれだけ尽くしたのだから今その尽くした分をすぐくれとかなる、返してくれるとなる
ここに苦しんでいる人がいる困った人がいる、その時人間は無償ではしない、後で返してもらえばいいですよとかならない、今返してくれとなる
それより困って苦しんでいる人を見てこれはチャンスだと借金した人が今金をくれるなら助けてやるとか脅迫することにもなる、助ける方も今困っているのだから金をくれとなるだから借金している人は人を助けることはできないと思った
推理ドラマでは必ず借金して犯罪になっているからだ
借金はそれだけすでに自分自身に負担がかかっているのだから他人の負担をもう負えないのである

つまり今苦しんで困っている人がいたらとにかく助ける、今は見返りを求めない、そうしなければ助けることはできない、だから救急車はそうしている、金がなくても何がなくてもともかく来てくれる、そうしなければ人は死ぬこともあるからだ
でも普通はそうはならない、今借金して苦しんでいるから今助けるから金をくれ、そうしたら助けてやるとかなる、そういう人はそもそも人を助けることなどできなかったのである、それで自分は苦しめられたのである
助ける時あとでそれもかなりの年数がたってからその見返りがあるともなる
私は介護で自分の病気でも何か余裕がないから他人のことなど考慮することもできなかったからだ、でも余裕ができればあの時は助けられたなと援助することにもなる
それなりに金銭の余裕ができて助けることもできる
でも結局人間はみんな性急なのである

そしてせいては事を仕損じる

人間の弱点は長い時間でみれないことである、ただ毎日今に追われているだけなのであるだから国家百年の計とかなるとできない、中国だとやはりあれだけの歴史があるから長い目で見て国家造りをしている、日本人がそもそも性急な民族になっている
それで一年で首相も次々に交代するとかなる、これもやはり問題である、そうなると長い目で見て国家を運営できないからである

行き当たりばったり」の意味は「成り行きに任せること」
「行き当たりばったり」の意味とは「その場の成り行きに任せることや、その様子」です基本的には深く考えなかったり準備を怠ったりする悪いニュアンスを持ちます

人間は例えば長く下積みとかすることも耐えられない、すぐにでも上に立ちたい、偉くなりたいとかなる、下積みで苦労することに耐えられないのである
でも確かなことは人間はすぐに成功することはない、また長い目で見れば今の世だけで成功することではない、その人の評価は死んでからこそある
また長い歴史の中で評価に耐えればその人は歴史に生きつづける
でも一時代だけで脚光をあびてもはかなく消える、どれだけの人が脚光を一時あびても消えたのかその数も多すぎる、浮き名をたてて消えてゆく
芸術にしてもそうである、後世まで残り鑑賞されつづけるものは少ない、いくらその時代で脚光をあびても忘れ去れるのが普通である
そして後世に残る物はわずかである、後はみな消えてゆく

●若きときに神を知れーさすれば余裕が生まれる

ともかく人間が成長するには時間がかかる、ただ人間は成長しつづける、70越えても肉体は衰えても精神的には成長しつづける、人間は木と同じなのである
時間をかさねて大木となる、大木は一日して成っていない、ローマも一日にしては成らずである、普通の人でも積み重ねで何ものかになる
何か自分の場合、何でも理解することが遅かった、それは学ぶことで失敗したからだろう効率的に学べなかった、学校で暗記することと試験勉強しかなかったからだ
でもかえって学校を出てから自分の興味あることを発見して伸ばしてきた
これも家族に恵まれた結果であり家族には死んでも感謝している
もし家族に恵まれなかったら自分は浮浪者とかなり野垂れ死にだったかもしれない
だから家族の影響は人間にとって余りにも大きいとなる
いくら才能があっても家族に恵まれないでつぶれてゆく人などいくらでもいるからだ
また時代運が悪くてもそうなる、有為な有能な青年が戦争でどれだけ死んだかとなるからだ、戦争は人材を消耗させるのである

ただ人間にとって大事なことは若い時に神を知れということである
神を若い時に知ればその後はあせることもなくなる、もう神との約束があり来世は神の国に行くことがすでに決められるからである、すると何もあせることもない、例え失敗してもこの世での失敗であり栄枯盛衰は世の習いである、でも確実に来世で活躍できるとなればこの世で認められなくてもいいとまでなる
実際はこの世とは来世の準備のためにありこの世で何かを完成することなどできないからである、いくら才能があってもそうである
この世では様々な障害あり認められないからである、でも神に認められているからこの世で認められなくてもいいともなるからである
つまり神に認められることは余裕ができるのである、不遇でも耐えられるともなる
それがなければ不満は尽きないとなる、それはいくらこの世で成功してもそうなのであるこの世とは一時のことであり一時の夢であり永続しないからである
永続は神の国しかないからである、実際あの人と十年前逢ったな・・・でも永遠に逢わないとなる、あの人50年前に一緒にいたけどあの人は本当に存在したのかとまでなる
それで人の出合いは何なのたろうとなる、それは瞬間的なものでもあった
あとは人間は永遠に逢わないのである、これもふりかえると不思議になる

確かなことは人間で貴重なのは時間でありその時間がたちまち消失してゆく
そして時間は二度と戻ってこない、例えあっても永遠に逢わない、そもそも人間が逢うとは何なのかこれもわからない、ただすれ違った人が逢ったとはいえないだろう
でも結局人間の出合いもただすれ違っただけなのかともふりかえるとなる
人の出合いもそれだけはかないのである、大衆化した現代なら大勢の人が一体になったようでなっていない、あとはばらばらになり一体感もない虚しいものとなっているだけである、それはあらゆる団体組織に言える、宗教団体でも同じである
烏合離散するだけなのである、そこに真の出合いなど全くないのである

ただ権力が欲しい、金が欲しいとか欲を充たしたいだけに集まる、そしてたちまち離散して後には誰もいないとなる、特に現代ではそうである、大衆化群衆化しているからだ
何か後々まで残るものがないのである、みんな一時的なもので騒いでは烏合離散するだけなのである、人間はやはり死んでもその関係がつづくものが本当のものである
私の場合は家族がそうである、死んでも語りかけ供養して関係がつづいているからだ
そういう深い長い関係は現代社会ではもう消失したのである
ただ無数の人間が烏合離散しているだけである、そして後には何も残らない虚しいものとなっているのである
別れても死んでも心が通い合えば互いに別れたことにもならない、心は通じあっているとなるからだ
人間の信頼関係も長い時間でしか築けない、それで10年間ある家で手伝いさんでも勤めた人は信用できるとなる、信頼するにも人間は時間がかかるのである

木の成長と人間

木は一年一年年輪を刻む
じんくりじっくり雨風に耐えて
その幅は狭いといい木になる
一挙に木は育たない
一年一年じっくりと育つ
大地に山に根付いて育つ
養分を一気にとって成長しない
やせた土地でも徐々に養分をとり育つ
その歳月は長い
でもやがて大木に育つ
そして大木は森に大地に倒れる
重々しく倒れ森に大地に還る
木は十分生きた、そして命を全うした
次の代の木もそうして育つ
自然の命は即製できない
そのリズムは悠長であり気長である
人間は騒がしく烏合離散して
後に何も残さない
かく長くも生きた木を後に人は思うべきかな
長き平和の日を生きよ
山のようにゆったりと木のように長く
神より与えられし命を育め