2022年10月05日

コスモス、カーネーション、朝顔など(ようやく秋になる)


コスモス、カーネーション、朝顔など(ようやく秋になる)

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ニチニチソウ
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紫のカーネーションと母
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庭に来た四十雀



我に向き十数輪咲くひまわりやカンナの赤く映えにけるかな

三色の朝顔咲きぬ板塀に今日も通りて心なごみぬ

三色のコスモス壺にさしにけりここに調和し心なごみぬ

カーネーション紫濃しや我が母の遺影ににあう家を支えぬ

我が向かい一つきらめく秋の星神の御意にそかなうべしかな

夜のふけて幽かに一匹虫の声心の奥にひびきけるかな



カーネーションの花は母の日に送るものだった、カーネーションにはいろいろな色がある紫色もある、これは濃い紫だが薄い紫色もある
これこは仙台市で買ったものである、仙台市だといろいろな花の種類を売っている
この辺では仙台市から花を買っている、花の市場は仙台市にあるからだ
そこには外国からも入ってくるからだ
ただ今のところ自分の住んでいる町には一軒しか花屋がなくなった
花屋も維持するのがむずかしい
この紫のカーネーションは自分の母にあっていた、何か控えめであり地味だからである
もう一人の母親ははでなのである、でもここで問題なのは必ず二人の母親がいたから
どうしても二人を差別するとまずいのである
だからもう一人の母親には明るい大きな花があっているから挿すことにする

フラワーアレンジメントは野の花をとってでもできる、コスモスは川の土手に咲いていたものだからである、ただ壺も関係している、だから壺をある程度集める必要がある
私が買ったガラスの壺は安いものである、別に安くてもいいのである
何でも高価なものがいいとは限らない、その花にあったものが必要だとなる

いつも通る道にも三色の朝顔が咲いている、色が違って調和していることに心がなごむ
まずこの世の中とにかく色を一つにされる、学校などでも何か黒い制服でありユニホームを着せられる、自由がないのである
カルト教団とか軍国主義とかにもなるナチスのように一色にされる、そこは黒一色の世界なのである、個性は認められないのである
そこに調和なく心がなごむことはないのである、神の創った世界は様々な色があって調和しているのである

今日は涼しかった、ようやく秋になる、読書するとかにはいい季節である
夜がふけて一人幽かに鳴く虫の声を聴く、結局一人くらいならその悩みとか不満でも聞ける、もう五人くらい来てもその声を聴くことはむずかしくなる
今付き合っているのは一人くらいしか自分にはいない、人と付き合うのが疲れるからだ
それで引きこもりにもなったのである

ともかく人間は死んでも死んだ人と語り続けるものだと思った、何か認知症になった老人が死んだ人と話しつづけている
それを聞いて奇妙に思った、病気だからそうなったのかと思った
でも実際は普通でも死んだ人と語り続けているのである、そして死んでもすぐ忘れる人はそれだけ印象に残らなかった人なのである、でも延々と語り続けられる人は依然として生者の中に生き続けているのである

生糸取り(製糸工場)の戦前の仕事 (なぜ30分の休憩時間で早食いして死んだ女性がいたのか?)


生糸取り(製糸工場)の戦前の仕事

(なぜ30分の休憩時間で早食いして死んだ女性がいたのか?)

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10分は短すぎる、当然これだと体を壊すことがいた人はいる、早死にしたというのも本当だったのか?

https://www.youtube.com/watch?v=l8Lb5mZfyBU&ab_channel=%E3%82%86%E3%81%A3%E3%81%8F%
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私の母親が原町紡績(原紡)で働いていた、大正生れでありその頃の女性の仕事は生糸をとる仕事と女中くらいしかなかった
でも30分の休憩時間で早食いした女性がそれが元で死んだと聞いた
そのことが良く理解できなかった、でも野麦峠で有名な女工は休憩時間が10分とかyoutubeで見た
まともに休む時間もなく働きつづけたとなる、食事は味噌汁とた沢庵くらいでありそんなもので良く働けたと思う
休息時間が10分は短すぎる、だから本当に御飯でもかきこむようにして食べる
そると良くかんでいないからそれで胃が悪くなったりすることは考えられる

私の母とここの女工哀史になった人達の相違は山奥から貧農の娘が稼ぎのために出されたことである、でもその収入はかなり高いものだった、家を建てるくらいの金も稼いだとかなる、つまり貧農では食べるのもやっとだったとなる
それで正月に故郷の親元に帰ることが一番待ちどおしいことだったとしている
稼いだ金を親に与えて喜ばれるからだという
親孝行できるからだとしている、こういう時代もあったのである
子供はただ親に尽くすことだったのである

子供は親の犠牲になることだった!

今は親は子供の犠牲になる

時代が違うとこれほど違うものとなる、だから昔のことはなかなか理解できないし誤解することが多いのである
戦後生まれの団塊の世代でも子供の時は農家では農作業を手伝っていた、農休みがあるのは田植えと稲刈りで忙しい時があり子供手伝っていたからである
人手がたりなくて子供が労働力になっていたからである
中国ではなぜ男の子をほしがるかといえば男の子は労働力になるからである
私の家は店をしていて子供の時は奇妙だけど一番働かされらていた
配達とか卵買いとかさせられた、店でもその時は近隣でとれたものを買って売っていたからである、遠くからは余り物は入ってこない、運ばれない時代だったからである

ともかく戦後十数年は日本は貧乏だったのである、今とは比べようがないくらい貧乏だった、洗濯は裏の堀の川でしていたし卵も満足に食べられない時代だったのである
それで巨人、大鵬、卵焼きというようになった、卵焼きが食べることは贅沢だったのである

1961年(昭和36年)の流行語。

プロ野球の読売ジャイアンツ(巨人)と大相撲の第48代横綱大鵬幸喜、食べ物の卵焼きが当時人気があった。

卵焼きは贅沢なものだったのである、ただ農家では卵を鶏を飼っていたから普通に食べていたが農家ではない人は卵も満足に食べていないとういことがあった
子供時代は江戸時代の生活とさほど変わりなかった、燃料は炭だし街内でも囲炉裏があったからだ
それが東京オリンピック辺りから高度成長時代になり日本が世界へ復興した日本を見せることで意義があったのである
でも不思議なのは高校まで蒸気機関車だったのかということがわからなくなった
ただ原町の高校に通っていてトンネルをくぐると顔がすすけることがあって確かに高校まで蒸気機関車だったのである
そのことがどうもわからなくなった、普通の電車に乗っていたとも思っていたからである
戦後の焼け野原に生まれ生きたのが団塊の世代である
その辺は実際生きていたのがら子供でもなんらか記憶がある身近に感じる
では戦前となるとさらに江戸時代になるとまた前の時代をどうして理解するのかとなるとむずかしくなる
その一つは昼間の休息時間が10分だったという生糸工場である、それだけ過酷だったとなる
でも母が言ったのはそれほど厳しいことを言っていない、信州の生糸工場は親元を離れて仕事していたから厳しいとなった
私の母は実家から通って仕事をしていたからそういうことはなかったとみる
でも私の母親は継母に育てられたからいじめられたりしていたから別な苦しみがあった

でもその当時の感覚では生糸工場でも女性が外で働き稼げるということでそれが必ずしも重荷とはなっていなかったのである
何でも給料の代わりとして米俵何俵なのかもらったのか買ったのか継母にでも喜ばれたという、つまり女性が稼げるようになった、それも農業するより現金収入となり生糸の工場がみんな悪いものでもなかったのである
だから今の感覚ではひどいと見るが当時はそうでもなかったともみる
でも10分とか20分の休憩がないことは苦しいとなる
今では工場の流れ作業は辛い、勝手に休めないからである

その際に課題となったのは、女工を寄宿舎生活になじませること、都市生活による堕落を避けること、そして、勤勉に働かせることであった。さらに、このような要素を満たす女工を継続的に集めることも必要となったのである。つまり、産業革命期の日本では、資本家が労働者を確保し、資本主義生産に適した労働者へと育成することが必要とされたのである。
https://www.kansai-u.ac.jp/Keiseiken/publication/seminar/asset/seminar14/s205_2.pdf

ともかく過去を実感することは本当にむずかしい、本を読んだからまた映像を見ても過去を実感することはむずかしい、でも何か昔のことを再現する方法はある
団塊の世代だとやはりそれと似た経験をしている、でもその後の世代はそういう経験をしていない、すると実感できなくなるのである
ただ人間は過去を理解することが必須である
最近日本は貧困化していると盛んに言われる、でも本当の貧困とはなにか理解していないのである、理解できないのである
それは経験していないからである、例えば何でもそうだが経験しないわからないのである戦争のことをいくら聞かされてもそれが実感できない、戦争となると余りにも日常と違うからわからなくなるのである
人間と人間が殺し合うということがどういうことか実感できないのである

人間は別に今でも他者を簡単に理解できない、それはそれぞれにその人が経験したことがわからないからである
自分自身が経験したのは20代は底辺の仕事しかなかった、大学出ても底辺の仕事しか経験していないのである、だから仕事が嫌になった
その後家族に恵まれて引きこもりになり自由が与えられていたから旅をばかりしていたと自分の好きなことをしていただけである
それは家族に恵まれた結果なのである

過去を知るとき老人なら必ず昔を語る、その話を良く聞けばある程度は実感する
だから老人は語り部になる、実際に生きている人が語る時生々しいものとなるからだ
だから歴史は大きな国の歴史もあるが郷土史とかなると祖父母から聞いた話から過去を知り歴史を知るとなるのである
ただ昔を知るにはそうして祖父母から聞くとういうだけではなできない
その当時の資料を見たり映像を見たり方法がある
でもそこには想像力が相当に必要になる、私は子供時代に江戸時代のような生活をしていたからそこからイメージするものがある
でも戦後十年とかすぎて生れたりするとわからなくなるのである
10年でも世代が違うとわからなくなる、特に戦前から戦後はまるで違った社会に生きるようになっからその変化が激しくその経験をしたものしかわからないとなる

とにかく人間は過去を歴史をどうして理解するのかが問題である
それを国家の歴史というだけではない、庶民の歴史でもある
その時庶民はどう感じていたのか、それに耳を傾ける必要がある
ただもう大正生れの人は死んだ人が多い、だから直接話を聞くことはもうできない
それでも探る方法はある、それでも想像力がないとなかなかできないとなる
考古学でも残された一つの遺物から遠い過去を浮かび上がらせるのは想像力なのである

「富国強兵」の原則に基づいて日本社会の近代化を急激に促進した。政府は、近代化を実現するために必要な外貨を獲得する目的で、殖産興業政策によって、多くの産業部門に介入し、幕府から継承したものや新設したものを含む官営工場の経営にのりだした。中でも製糸業は、当時、最大輸出品であった生糸を生産して大量の外貨をもたらす産業として、国策の中核に位置づけられた。

富国強兵のための資金が必要であり外貨をかせげるのは日本では生糸を作ることだったのである
今でも兜作りの家があちこちにある、それは養蚕した農家なのである
桑畑もいたるところにある

鉄道黎明期に起きたとされる、「宿場町がすたれる」「養蚕業に悪影響が出る」「火災が起きる」などの今となっては理由にならないような理由によって、鉄道を拒否した町があったと言い伝えられている現象。各地にそういう話が残されており、信じているひとも多い。

蒸気機関車の黒煙が公害ともされた、それで養蚕の元である桑畑が汚されると反対したのが養蚕農家だった、それは福島県でもそういうことが起きていたのである
そのことでもいかに養蚕が日本の産業になっていたかわかる
相馬農業高校がもともとは養蚕を教える学校として始まったことでもわかる

原町紡績に引き込み線があり生糸を横浜に送りアメリカに輸出していたのである
原ノ町駅は平駅と同じく機関区になっていて大きな駅だったのである
そこから木材と石材とか常磐炭田あり磐城だと石炭を東京に送ったのである
鉄道はもともと荷物を送ることが主でありそれから始まった
北海道はもともと石炭を運ぶために鉄道が作られたのであり人を運ぶためではなかったのである、その時石炭が今の石油と同じくエネルギー源だったからである
輸送は鉄道でありだから駅に必ず貨物列車が入り荷物を下ろす引き込み線があった
ただ原町紡績だとそこまで引き込み線があるのはめずらしい
でも岩沼の工場地帯にも引き込み線があるから鉄道が輸送の主役だった時代があったことは偲ばれる
posted by 老鶯 at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降