2022年10月22日

高齢化社会の地獄-大事なのは健康 (8050問題は始まっている-頼る人がいない恐怖の経験)


●人間の体もこれまでの行為の積み重ねで健康もあり不健康にもなる

72歳で脳梗塞になったのは辛い、ただ近くで三人くらいその前の年ても脳梗塞になっている、だから70以上になると何らか病気になりやすいのである
知っている人は煙草も吸っていたし健康的にはいいものではなかった
なぜ煙草をやめられないのか、他の人でもやはりストレスがたまりそうなっていたのである、問題はストレスでありそれが解決しないとやめることもできなかったのである
女性でも今は普通に煙草を吸う人はいる、でもそれが老人になって60以上になって
病気となる場合がある、もちろん煙草と癌の関係ははっきりしないがいい影響はないだろう

ともかく人間はそもそも突然何か病気になったり何でも突然には起きない、これまで積み重ねたものが現象になり症状となって現れてくる,カルマを積んでいてそうなっているのである、それは裕福でも楽した人も最後はかえって苦しむとかある
つまり人間はカルマから苦しみから逃れられない存在なのである
それは肉体的にも精神的にもそうである、生まれつきもある、人間は遺伝的に必ず誰でも欠陥をかかえているからだ、それは自分自身でもそうだった、高校の時蓄膿症の手術を二回もしている、それで頭がさえずやっと三流大学に入学できたのである
それも家族に恵まれてできたのである、今でもやはりこ鼻腔が狭く息が十分にできないのである
でも私は30頃に煙草とか酒はやめた、それが意外とそれが影響していてまだ体がそれほど衰えないのかもしれない、たた衰えていることは衰えている
それから私は学校とか会社に適応できな体であり心でもそうだった
だからそういう場所でマイナスであれ働くことがなく自由に生きられたので良かったのである、だからそうさせてくれた親には感謝しているから介護もできたのである
死んでも供養しつづけているからである

すべては生まれつきでは決まらない、体力ある人でも無理するとそれが後年たったて病気になり早死にしたりするからである、スポーツ選手が意外と早く死んだりするのはそのためである、では体力がない人がいいともならない、何か体力がない人は若い時でも冒険がしにくいからである、それで私でも登山はきつくてやめた、疲れ方が尋常ではなかったからである、40前で登山はやめたのである、その後は自転車旅行になったのである
自転車旅行は意外と楽なのである、ただ登山より楽だというだけでそれなり厳しい面はあった、でも疲れたら休めるし食事もとれるから長距離でも行けたのである
だからもしかしたら70以降でも自転車旅行はできないことはないかもしれない
つまり老人でもできるのが自転車なのである

●高齢化社会はマラソンになる、最後まで健康で走りぬいた人が勝利者

ともかく高齢化社会になるとマラソンなのである、70以上とかなると力尽きて脱落してゆく人も増える、病気になったり死んでしまう人もでてくる
つまり百才まで健康に生きる人がまれだというときそれはマラソンなのである
百才まで走り続ける人が本当に百才を生きた人なのである
でもどうしてもそれまで故障したりする、そこで百才を元気で走れる人は極まれだとなってしまうのである
金も必要だしまた百才まで生きればかかる、でも健康でないと悲惨になる
介護でも息子娘にも頼れないとかなっている時代である、それも息子娘も今は生活が厳しいからそうなる、頼りにくいからである

その負担は肉親と家族だけで負いきれないのである、その女性は72歳で脳梗塞になっても頼る人がいない、知的障害者の人を一番世話したが他の兄弟二人とはうまくいっていない、だから脳梗塞になっても知らせるなとか言ったという
また知的障害者の人に頼って頼ることもできないとなる、何か兄弟三人いきても二人は親のめんどうみたくないとなっている
でも誰がめんどうみるのか?父親は施設で死んだから良かった、では母親はこれからをなるのか、知的障害者の息子がめんどうみれるのかとなる
軽度にしても何かやはりわかっていないことがある、まだ母親は世話してくれるめんどうみてくれると思っているのである、その辺の理解がたりないのである
そこで知的障害者なのだとなと思った

普通だったら50歳まで子供の時のように世話していたら親が病気や介護になっても必死で世話する、自ずと強制されなくてもそういう気持ちになっているからだ
それは自分自身のことだった、60歳まで世話してくれた、だから私は自ずと自分が病気になっても必死で世話して介護したのである
悲しいのはそうして親に尽くされた人がそういう感覚を持てないことである
一応親に対して全くなにもしないということではないが何か親がまだ世話してくれると思っているのである
そんなこともう不可能でありそこが認識されていないのである
そこに不幸が悲劇があったともなる、何らか家族でもこうして悲劇がある

●病気や介護になると頼る人が問題、非情な人になると地獄になる

私自身の家族でも悲劇だったのである、家族が認知症でばらばらになったからである
その苦労をプログで書いてきたのである
たから人間は悲劇的に終わること知ったのである、それは私の家族だけではない何か悲劇的に終わるのが人間なのかということを知った
人間は悲しむ存在であり悲劇的存在なのである、地獄を生きるのが定めだと親鸞が言ったのもわかる、この世とはなんらか地獄を生きることなのである
戦争を生きた人もまこにこれこそ地獄を現実に生きたのである、その戦争の地獄は経験しない限り理解できないものだったのである

病気、介護⇒頼る人⇒?


頼った人⇒事業失敗して借金した人または泥棒(自分)

頼った人⇒5才で捨てられた子供⇒親は認知症になり金のみをねらい施設に入れる

頼った人⇒知的障害者の息子(ほかの二人は頼りにくいから)

ここに恐ろしい悲劇があった、頼る人がそういう人だったということである
でも他にいないからそうなったのである、これもその人のカルマだけど恐ろしいと思ったこの世とはこうして恐ろしい場所だと自ら認識した
もちろん介護などしたくない、それはわかる、でもそれだけではないそういう人は簡単なことすらしたくないのである、それが必ず行動となって現れる
だから病人の世話とか介護とかにその心が出やすい、なんでこんなジジババを世話しなければならないのだ、そういう気持ちが持てないからである
兄弟でも親に良くされ人が介護しろというのはそのことである
つまり人間はいくら装っても本心を偽ることはできないのである
必ず行為となって現れるから怖いのである、日ごろは隠されているが相手が弱者化したりする怖くないとなりその本心が現れるのである

知っている人は実の娘は五才まで育てていたが嫁ぎ先を出ては金持の家に後妻に行ったから金はもっていた、でも認知症になっていたのである
その人は全然親とも思っていないのである、ただ金だけ欲しいとなっていて施設にあづけただである
本人は頼る人がなくなってそうなったのである、これも恐ろしいことである
人間は必ず親でも子供に対して強い時がある、絶対服従だとかなる、でも後で必ずまた弱者化する、例え金があったとしても認知症になったら貯金すら下ろせなくなるのだ
これには本当に自分でも驚いた、いくら金を持っていても何にもならない、もう金を自由にできないのである
金を持っていてもそれ自由にできない、法律的に資格を失ったしまったのである
これは体だけではない、何の権利もなくなってしまったのである、そこに認知症の恐ろしさがある
もし信頼する人がいないならその人はどうなるのか?
実の娘でも育ててもいないのだから金だけが目当てになる、そうでなくてもこの世の中金だけが目当てなのがフツウだからである
施設で金持ちを介護してもそこに愛情など持てないからである、むしろこいつは金もっていて働かせられていると思っているからそれが行為となって必ず現れる、人間はどうしても本心を隠すことはできないのである

こうして楽した人でもカルマとなり苦しむことになる
誰もめんどうみる人はいないということである
助けてくれと言っても金をだせ、全財産を出したら助けてやるとかなる
そういうことがやりやすいのである、それが非情な人間社会の現実なのである
つまりこの世は地獄だということである、非情な人間がいるから地獄になる
他人の苦しみでも田舎なら楽しみにもなる、田舎の人間が情あるなど今はないからである人間は地獄を経験するために生まれて来たともなる
それはやはり地獄に生きることで天国を渇望するためなのともなる
ただひたすら念仏でも唱えて来世の極楽に行くことしか希望がなかったともなる
それがこの世の現実だったのである

●人間の本性の怖さ

また老人は老人を頼りにできない、病人が病人を頼りにできない、それだけの力がないからである、知っている人は糖尿病であり最近良くなったとしても85歳であり頼りにならない、老々介護になると介護する力もないとなるからこれも悲劇なのである
でも若い人に息子娘に頼ることもなかなかできない社会になっている
そこで悲劇的な最後になる人がさらに増加する、高齢化社会の地獄絵図がそこに展開する時代となる
おそらく一番世話した知的障害者の息子にその母親は頼っていることである
それが悲劇になる、私が頼ったのも泥棒であり金だけを要求するような人ばかりだった
他でも悲劇的なのが5才まで一緒にいた母親に育てられた娘にしか頼ることができなくなった、その娘は母親となと思っていないからである

本心が現れた世界が地獄!

地獄とは何か、それがダンテの地獄辺のように本心が現れた世界である、人間の悪が非情でもあからさまに隠されることなく現れた世界である
この世ではそうした本心は隠すことができる、でも地獄ではあからさまに現れる
それがまさに地獄なのである
「お前なんか世話したくなかったんだよ、俺は欲しかったのは金だけだよ、金持ちだから金をもらいたいだけだったんだよ、世話する気持など全くなかたんだよ」
こういう本心が行為となって現れ虐待になる
この世ですでになっていることもある、だから病気と介護の問題は金で解決できないのである、どうしても気持が現れるからである

いつも若い世代は老人は死んでくれといっんているときそれが冗談のように思っていてもそれが必ず現実化する、それは老人施設でも病人の世話でも介護でも起きて来るのである人間は力ある者、権力がある者には低姿勢になりごますったりするのが普通である
でも相手が弱者だとなると平気でいじめたりする踏みつけることもする
つまり人間を見る時弱者に対してどういう態度をとるかでわかる
そこに本心が出やすいのである、だから病気と介護の現場ではその本心が現れやすいとなる、やはり気持がないとできないからである
別に他の仕事だったら金をもらって一定の仕事するとか金をで買ったり売ったりする
そこに人間の心はあまり関係していないからである
そこは別に金で割り切ってやっているしそれをとがめる人などいないのである

もしそうして頼る人がまともだったら地獄に仏となる、そんな人はめったにいないとなるからだ、諺もこうして人間の経験の実験の歴史でありそれは今に通用しているのはいくら科学技術がこれほど発達しても人間自体が変わっていないからである
第一キリスト教徒が何十億人いたらこの世が天国になっているはずである
依然として地獄であり変わっていないのである
だからこの世を去ることこそが楽になることである、地獄はまさにこの世にあり別に来世にある訳もないのである、この世でみんな地獄を経験しているからである
地獄に落ちるとか罰当たるとかカルト教団が言っているけどそいつらもみんな地獄人間なのである、地獄に落ちるというけどこの世が地獄であり地獄人間が現実に生きている場所なのである

世の中は地獄の上の花見かな 一茶

一茶はまさに地獄を生きた人だからこの句ができた、救いは地獄にも美があったことである、でも大都会になるとそこに自然の美がなくなる、つまり大都会とは地獄でもあり地獄を作りだしたのは人間なのである

人間の本性とは怖いものである、権力ある者にはへつらう、また金持ちにもへつらう、でも本心はあくまでも違う、権力者に従うのはあくまでも相手が強いからそうなる、でも立場が変われば相手が弱者化すれば逆になる、今度はその強者も虐待することにもなる、あくまでも相手が権力者であり金持ちだから従っているのであり立場が変われば逆転するのである
人間社会とはそういうものだろう、戦国時代の下剋上とはそのことである、要するに人間社会は弱肉強食の世界だったのである
それは歴史をみればわかる、そこに平和などないのである、だからこそキリストは下僕となりなさいと言ったのである
権力を持ち金をもって人間の心は支配できないからである、やはり愛情をもって接して子供でも育てれば違うとなる
親がもしただ力をかるとして子供を支配するだけなら親とも思わないだろう
それが後で復讐されるともなる、夫婦の間でも夫が力があるからは服従させたりしても病気になり弱者化したら虐待されるのである、でも人間は必ず弱者化する、老人になると体も弱り弱者化する、その時が怖いことになる

「おれをこんな地獄におとしこんだのは、へつらいのせいだ、おのれの舌はそれでも飽きもしなかった」ダンテ地獄

へつらうというときみんな権力者には金持ちにはへつらうのである、それはマスコミとかもそうである、巨大な権力団体には逆らえない、だから原発が危険でも知らせない、その権力は政府が指導して電事連でも800億もの宣伝費が出ていたからである
そんな巨大な権力だから安全神話が作られたのであるねそれを暴いたのは津波であり人間ではないのである
とてもそんな巨大な権力に抵抗できないからである、権力が巨大化すると手がつけられなくなるからだ
そういうことはウクライナ戦争のロシアのプーチンなどでもそうである、独裁者の権力が絶大なものとなり誰も逆らえなくなるからである、そういうことで歴史は争いが戦争が絶えないともなる

●高齢化社会はマラソンであり最後まで健康で走りぬいた人が勝利者

ともかく高齢化社会を生き抜くにはマラソンを完走するには健康第一になる
健康失えばたちまち地獄に転落するのである、でも老化することは病気になることでもあり最後は体も弱り誰でも死んでゆくのである
望むことは健康で死ぬことだとなる、それができない、老衰は体が枯れるように死ぬから苦しまず死ぬから理想的だともなる、私の母親は100歳生きたが枯れるように楽に死んだのである、いつでも楽に眠るように死にたいと言っていたのである
その望みだけはかなえられたのである、それは苦労した大正生れの人だったら最後は楽に死んだとなる、でもみんながそうはいかない、苦しみ死んでゆくのが普通だとなる

頼る人がどんな人になるのかそれが問題だった
もちろん頼る人が無く孤独死とかもあり他にもある
実の親子でも子が親のめんどうを見ないことも普通にある
でも病気になり介護になると誰かがめんどうみざるをえない、でも人間はそういう人がいないなら誰にも世話にならず死んだ方がいいとなる
孤独死でも誰もそもそもめんどう見る人がいないのだからそれが悪いともならない
隣の部屋の人が二け月間も死んだのを知らなかったというのもそうである
電気がついていると隣の人は思っていたのである
でも兄弟が近くにいても付き合いがないとなっていたのだから孤独死が全部悪いともならない、そもそもめんをとみる人がいないなら一層死んだ方がいいとなる
後の死体の処理が問題だとしても誰も病気になっても介護する人がいないならそういう死に方の方がいいともなる

高齢化社会はマンションでも老朽化してぼろぼろになるとかそれも60年くらいでなる
そして空家が膨大に増えてゆく荒寥とした風景になる
子供の遊ぶ声も聞こえず老人だけが増えて認知症も膨大に増えてくる、その光景はもう始まっているのである、plan75という映画が公開された、75に成ったら安楽死を選ぶことができるとなる、それは余りにも悲惨なものとなるからそうなる
それは本人だけではない周りの人の負担も大きすぎるからである
国家自体が老人によってつぶされるとまでもなるからである
8050問題はもう始まっているのである、それは金だけでも解決しない問題なのであるもちろん国家の経済的負担も人数が多いのだから重荷となる

ともかく地獄が一定の住処なりという親鸞の言葉が高齢化社会の現実なのである
それは金がないこともあるが健康が喪失する病気になる老化して弱ることが地獄を産むのである、それは極一部除いて避けようがないのである
8050問題は始まっていてすでに地獄を見るようになっている、私の家族でも一人が認知症になりもう一人は百才まで生きたがやはり最後は5年間くらいは介護になったからである、その時自分自身も病気で塗炭の苦しみになった
その時助ける人はいなかった、それもカルマだった、私自身はそのカルマを自覚していた結局それほど自分は親に良くされたことでできたことなのである
他の人はそういうことがないから簡単にできないのである、だから子が親を捨てきる家族遺棄社会にもなる、でも誰かが世話しなければならないことにもなる
だから息子娘が放置することは問題である、代わりに世話する人がいるからである
それか強いられるからである、捨てる訳にもいかないからである