2022年10月23日

南相馬市鹿島区浮田国造の謎 (地名から探る古代史ー物部、安曇、草(かや)部ー毛野氏の跡をたどる)


南相馬市鹿島区浮田国造の謎

(地名から探る古代史ー物部、安曇、草(かや)部ー毛野氏の跡をたどる)

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●浮田国造(うきたくにのみやっこ)の由来

『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、成務朝に崇神天皇の五世孫の賀我別王を国造に定めたとされる。
氏族
吉弥侯部氏(きみこべうじ、姓は不明)で、上毛野氏、下毛野氏、針間鴨国造などと同族神護景雲元年(767年)7月19日には宇多郡人の外正六位上勳十等吉弥侯部石麻呂が上毛野陸奥公を賜姓されている。

東界と北界にはそれぞれ大きな山があって、境界をつくっている。その山の向こう側が、毛深い人の住む国なのである。

「毛人(蝦夷)」説
「蝦夷」を古くは「毛人」と記したことから、「毛の国」、二字表記にして「毛野」の字が当てられたとする説。『宋書』倭国伝の倭王武の上表文には「東に毛人を征すること五十五国」という記述があり[原 1]、この「毛人」との関係が指摘される[6]。


地名と言うのは相当に古い、そして地名は古代に由来する、なぜなら最初に地名もない土地があるとしたら最初に来た人たちが名付けるからである
それで古代由来の地名が多い、その地名の多くは渡来人に由来する時、渡来人が最初に名付けたらかそうなった
確かにもともと住んでいた原住民がいた、ヨ−ロッパだとケルト人とかいてその人達が名付けた地名が今の地名でもある
日本だったら縄文人が一番古いから地名もその時代に基づくものとなるが言葉が明確ではないので実際の地名は渡来人が来て名付けたものが多い

そして南相馬市の古代史で一番の問題は一体桜井古墳には誰が埋められているのか?

これが問題なのである、賀我別王(かがわけ)が埋められているとのの説だとなぜ浮田国造の地域に真野地域に大きな古墳が作られなかったのか?
時代的には桜井古墳は古いからである、真野古墳群は大和王権に組み入れられたもので
大伴氏が派遣された支配した地域となる、つまり浮田国造は毛野氏が入ってきて国造(くにのみやっこ)が置かれたのである、ただすでにその前に大きな勢力が桜井古墳を作った人達がいた、それは物部氏だとなる、それは物部吉名という人がいて吉名郷ができたからである、真野郷も真野氏が入ってきて地名化したのである
一族の名前だということである、古代は人命とか氏族名が地名化しているからである

物部氏族にもいろいろあり

浮田物部

馬見物部

などがある、ここで馬見とはなになのか、それは鹿島区の浮田地区内に馬見がある
馬見塚となっている、それは上真野地区にあり上浮田の領域なのである
つまり上真野地区までも浮田の領域に入っている
この馬見はマミアナとして狸の字があてられている

信太の馬見山には小字名で駒込があり隣接して馬掛(まがき)があり駒込は馬を追い込んだ放牧地、馬駆けで馬場のことか、馬見山とかあるがマミアナは牧とか古墳などで馬に関係していることが多い、
(常陸風土記と古代地名ー鈴木健)

浮田国造がある地域に馬見がありその浮田国造は真野郷に編入されたともなる
馬見塚とは古墳があったからなのか、真野郷の寺内から小池には真野古墳群で有名であるただ横手にも古墳があるが上真野地区となると残っていない、ただ馬見はやはり古代に由来した地名なのである

最近できた高速道路のSAにも浮田神社が作った
この浮田は浮田国造として最も古い地区として歴史の正史に記されている
その浮田国造は毛野氏系統なのである
毛野とは栃木県とか群馬県を本貫とした氏族であり鬼怒(きぬ)川は毛野川だったのである

ここで注目すべきはなぜ浮田国造が毛野系統なのかということである
それを地理からみればまず一番古い地域は会津であることは歴史書に記されている
山側の方が古いというときもともと日本人は縄文人から始まっている
この縄文人は山を根拠として生活していた、この辺でも意外と一番古いのは飯館村でありそこから縄文中期の遺跡が土器とかが発見されている
もちろん海側にも縄文人は貝をとってとか暮らしていた、でも山でも暮していたし海側より山側が古いともなる、すると日本全体で見た時、山の方により古い時代は人々が住んでいたとなる、採集狩猟で生活していた、だから毛野というときここから遠いとなるがなぜそんな遠くから浮田国造として大和王権から官吏が派遣されたのかとなる
つまり毛野氏の勢力がその時大きいものだったからそうなった
そして毛野氏にも物部氏が進出していて一体化していた

毛野氏族はその分布からみて、大阪湾岸の茅渟地方にその起源をもち、血沼之別の流れとみられる。御諸別命より以前の系譜は難解であるが、三輪君一族との同質性がかなり濃く見られる。
 
毛野氏族の分布は、起源地の茅渟地方を出て摂津・河内に入り、近江から北陸道(特に能登)、信濃を経て毛野地方(上野、下野の両国)に到る経路をとって、畿内から東国へと続いていたとみられる。
 東国では、両毛に限らず、隣接する常陸西部や信濃における一族の分布も濃く、さらに下総にも分布が及んでいた。毛野では鈴鏡・鈴杏葉など鈴をつけた祭祀具が用いられ、古墳の埋葬品や埴輪にみられるが、この鈴文化圏は両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部にも及んでいたことがしられる。

○ 毛野氏族は東国第一の大族であり、上毛野君をその宗族とする。朝廷の命をうけ東北の蝦夷を討伐し経営に当たったものであり、大和朝廷から独立した東国の存在とすることは

毛野氏族は東国第一の大族であり、上毛野君をその宗族とする。朝廷の命をうけ東北の蝦夷を討伐し経営に当たったものであり、大和朝廷から独立した東国の存在とすることは無理である。その部曲を吉弥侯部(公子部、君子部)としており、その関係氏族には本来の毛野氏族と血縁のない蝦夷の人々も組み入れられか付合されている可能性が強い。
 また、朝鮮半島にも出兵していることから、渡来系の色彩のある毛野一族(田辺史に代表される)も多く、その中には実際には血縁のない帰化人系統が上毛野君姓等を冒姓している可能性もないではない。これら蝦夷系・渡来系で本来は他姓であった氏族も、その判別が極めて困難であるので、ここであわせてとりあげざるを得ない。
 https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12103720558.html

  毛野氏族から出た地方の国造としては、上毛野国造、下毛野国造、針間鴨国造、浮田国造(及び能登国造)があげられる。この氏族奉斎の神社としては、下野国河内郡宇都宮の二荒山神社(宇都宮大明神)及び豊城入彦命を祭る示現太郎宮があげられる。また、駒形神(駒弓神、子眉嶺神、子檀嶺神)や豊受比売神(保食神)を奉斎したが、これは陸奥で顕著に見られる。

(4) 東北地方……陸奥国宇多郡の浮田国造の一族が、駒形神を奉じてさらに北方に展開したのが主な流れとみられる。ただ、毛野に属した蝦夷が混入したものも一部あろう。
 吉弥侯部(君子部。録・左京)、上毛野陸奥公(浮田国造の姓氏とみられる。中村、黒木−陸奥宇多郡仲村郷に起る)、吉彦宿祢(斑目、荒川−出羽仙北郡人。山口−下野人、越中にも分る。西沢−濃州石津郡人)、名取公(名取−陸奥国名取郡人、後甲州に遷)、名取朝臣(名取郡の菅井は族裔と伝える)、上毛野名取朝臣、上毛野遠田公(遠田−陸奥国遠田郡人)、上毛野中村公(中村−甲斐国山梨郡人)、、置井出公、上毛野緑野直(同上の改姓。出羽の田夷とされる)、上毛野賀茂君。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/kenu1g.htm

  また、出羽国秋田郡の金成(嘉成)氏は陸奥栗原郡に起っており、栗原郡の吉弥侯部の族裔(上毛野栗原公という姓氏があったか)とみられる。陸奥宇多郡黒木の諏訪神社祠官桃井は、同郡の物部末流か。
 下毛野俯見公(陸奥玉作郡の吉弥侯部の改姓)、下毛野静戸公(陸奥信夫郡の同)、下毛野陸奥公(陸奥柴田郡の丈部の改姓)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%BE%8E%E4%BE%AF%E9%83%A8

毛野氏一族の吉弥侯部氏(君子、浮田国造)がその伴造だったと考えられており[4]、賜姓の際には多く「上毛野」某公、「下毛野」某公の氏名を賜っている。一例としては陸奥国信夫郡の外従八位吉弥侯部足山守(きみこべのあしやまもり)が上毛野鍬山公(かみつけのくわやまのきみ)を賜ったことがある[2]。吉弥侯部のうち、一部の者は中央に貢進され、朝廷や貴族などに仕えて雑役に従事した。吉美侯部(吉弥侯部)が東北地方以外にも各地に広く分布するのは、律令国家が俘囚を全国に配して内民化をはかったためだと考えられる[3]。奈良時代後半の吉弥侯横刀(きみこのたち)は近衛府の判官(近衛将監)から上野介へと昇進し、「下毛野朝臣」を賜姓されている

陸奥国宇多郡の浮田国造の一族が、駒形神を奉じてさらに北方に展開したのが主な流れとみられる。

この吉弥侯部は相馬地域では相馬市に配置された、つまり真野の草原とは真野郷のことであり相馬市は古代でぱ毛野氏の吉美侯部が支配していたのである、なぜなら宇多郡に相馬市に駒ヶ嶺がありこれは駒形神であり高麗にも通じているのであるそしてここは境界ともなっていた、毛野氏の勢力は相馬市から名取の方へ拡大したのであり、物部氏とか安曇氏の支配する原町区の桜井古墳がある方には拡大しなかったのである
泉かんが跡は大和王権の官営のものであり真野郷が大和王権に大伴氏などによって組み入れられたのである、ただ毛野氏に入ったのが物部氏であるから何か対立したとはならない物部氏が最初に大きな勢力となり桜井古墳を造り安曇氏と一体化していたのである
鹿島区には安曇氏の綿津見神社がないからである

毛野氏は大きな勢力として古代にあった、蝦夷というときこの毛野氏のことだという学者もいる、

陸奥宇多郡黒木の諏訪神社祠官桃井は、同郡の物部末流か。これは物部氏と毛野氏が結びついていてそう推測した

『古事記』によれば、10代崇神天皇は12人の御子がいたとありますが、そのひとり
豊木入日子命(トヨキイリヒコノミコト)について、

 「豊木入日子命は、上毛野、下毛野君等の始祖」
 
●埼玉県稲荷山鉄剣が意味するものー毛野氏がかかわっていた 
 
埼玉稲荷山鉄剣から発見された鉄剣に「獲加多支鹵大王」、「斯鬼宮」の文字があ
り、これをワカタケル大王、すなわち雄略天皇のことと、磯城宮のことだとする説があ
りますが、解読をめぐっては決着をみません)

 ただし、関東の氏族たちは大和王権の勢力圏に加えられながらも、6世紀に至っても
なお半独立性を保っていたとも考えられます。
 おそらく上毛野の東部の氏族たちも同様だったでしょう。
 それに対して、武蔵の紛争に介入する形で東国に進出してきた大和王権はその支配体制をより強力なものにしようとしたと思われます。
 
1意富比抔 おほひこ
2多加利足尼 たかりのすくね
3弖已加利獲居 てよかりわけ
4多加披次獲居 たかひ(は)しわけ
5多沙鬼獲居 たさきわけ
6半弖比 はてひ
7加差披余 かさひ(は)よ
8乎獲居臣 をわけのおみ

意富比抔 おほひこは多(オウ)氏であり神八井天皇に連なる大きな氏族である
笠は加佐であり韓国の地名なのである,笠とは当て字にすぎないのである
埼玉古墳群の南方10km程の所に、笠原という地名があり、使主はここを拠点とした豪族であるとされている。

『日本書紀』安閑天皇元年(534年?)条に記載されている。同条によると、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい おみ、おぬし[2])と同族の小杵(おき・おぎ)[注 1]は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上したという。

武蔵国造の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E9%80%A0%E3%81%AE%E4%B9%B1

ここに内乱があり上毛野君小熊の助けがありと記されていて毛野氏が大きな勢力であったことを示している
その前に毛野氏と物部氏が結びついていた、そのことは南相馬市相馬市の領域にもあったなぜなら南相馬市の原町区でも桜井古墳は誰が葬られていたのか?
それは毛野氏と一体化した物部氏になるのが有力だからである
それは大和王権が全国を統一する前に物部氏が大きな勢力となっていて古墳も作られた
それが東海地域と関連しているとかなると物部氏なのかとなる
ただ東海地域としてもその時は海伝いではなく毛野氏の支配地域の山伝いに物部氏が進出してそれがこの地域に及んだとなる
ただここで大事なのは毛野氏が関東東北の古代で大きな勢力でありそれを見ないと理解できないのである

●たかは高句麗、高麗に由来していて物部氏は筑後国の高良山を祭神としている

有名な稲荷山鉄剣銘に

2多加利足尼 たかりのすくね
3弖已加利獲居 てよかりわけ
4多加披次獲居 たかひ(は)しわけ

このタカは高句麗や高麗のことであり九州の壁画古墳は高句麗系統のものである
「肥前風土記高来郡」とは高来の峰とある山であり「和名しょう」に郡名として(高来多可久とありタカクと読む、高句麗は紀元前一世紀中ごろから668年までつづいた高句麗のことである、今の北朝鮮地域である、918年に建国されたの高麗である高来とは高麗から来た人達の意味である、

肥人の額髪結へる染木綿(しめゆふ)の染(し)めにしこころ、我忘れめや)

万葉集の肥人(こまひと)とは高麗人でありこれは高句麗のことである、熊本とかある熊はコマだクマとなまったものだとしている

この本に相当に詳しくこのことを書いている、そもそもその常陸から移住して作られたのが行方郡であったから地名も移動しているのである、地名は最初に移住した人達が名付けたのである、その前に原住民とも言える蝦夷が住んでいた
海老のエヒはそうである
だから常陸からそっくり地名まで移動しているのである、高倉とかあり信太とか駒ヶ岳とか相馬市にあるがこの駒はコマは高句麗のことである
物部氏は高句麗から来たのでありだからこそ馬にも乗り船も操作する技術ももっていたのである
多珂神社は大きな神社であり格式ある神社である、その隣に綿津見神社神社がある

それで九州に見られる装飾古墳は高句麗由来のものでありその九州の物部氏が最初は毛野氏に入りそれがこの相馬地域にも入ってきて浮田国造になった
なぜ毛野氏がこの地に関係したのかというと地理的にもともと奈良から大阪地域から日本海側に出て越の国から加賀に勢力を伸ばした、日本海側の方から進出したから浮田国造が加賀別王になっているのである
常陸から移住した人達は毛野氏より後なのである、だから毛野氏はもともと蝦夷であり一番古い氏族だったとなる、最初に大和王権が遭遇したのは毛野氏であり毛野氏は蝦夷でもあったが大和王権に組み入れられたのである

七国の高麗人(こまひと)、1799人を以って武蔵国に遷し高麗郡置く(続日本記)高麗川があり高萩も由来であり高来(たかき)から高萩になった
高萩には駒形山弥勒寺があったしここを一体として高麗原と称していた
高萩に駒木原、呉坪があり高句麗の句麗(くれ)である、高句麗系統の地名の伝播がある相馬市の駒が峰もそうである、駒をあてたがもともと高句麗のことである
ただ高句麗は北方の騎馬民族であり馬に乗るのにたけていた、また船を操作する技術も持っていた、だから装飾古墳とかに馬に乗った武人が描かれているのである
(常陸風土記と古代地名ー鈴木健)

この本は詳しいからそれを読むとなるほどと得心する

神武天皇の東征の神話も多氏の事跡を基に作られたとか神武天皇の前に神八井耳命(多臣の始祖)が支配する国造の系譜がある。これは全国に及び道奧石城國造もそうである出雲国に「阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)があり大隈国−蛤羅郡に阿多小崎君(古事記)がいて鹿屋郷がある。それがそのまま出雲−伯耆国(安曇郷 鹿屋郷)→国→因幡国に移動しているのだ。この伽耶に由来する地名は関東になると埼玉郡に草原郷があるだけで少ない、それがなぜ陸奥真野の草原郷にあったのか?

●桜井古墳は物部氏が作った

この地のに最初は物部氏が入り桜井古墳が作られた、それは大和王権より物部氏のものだったとなる次に大きな謎なのは綿津見神社が原町区から小高区でも多いことである
本当にいかに綿津見神社が多いから20近くあるようにも思う、それも格式が高いものなのである、だからなぜこんなに綿津見神社が多くまた対になった山津見神社が多いのか
飯館村の山津見神社は綿津見神社と一体となっている大きな神社なのである
それは安曇氏系統が入ってきてこの地を開拓したからだとなる
焼畑とか農業の技術もあり船を作る技術ももたらされたからである

この辺では物部氏が先であり次に綿津見神社を建てた安曇氏の後継者が入り最後に大和王権の直属の大伴氏が真野地域に入った、そして前方後円墳に金銅双魚佩を残したのであるただ謎は一体時代順序がわからないのである、物部は一番古いとわかる、次に毛野氏とかになり安倍氏でもそうである、でも安曇氏に関しては歴史書に記されていないのである
それが謎なのである、でも地名として安曇族の系統の八木氏とか犬飼氏が地名化しているそれは八木沢峠がそうであり霊山をおりた所に犬飼というバス停があるのもそうである
犬飼(犬養)は安曇族の系統だからである、安曇氏の後継者だったからである
また吾妻山は安曇(あづみ)のなまったものだというのもそうである

ただ安曇族は太平洋側から入ってきたのである
なぜなら松川浦に和田と山津見という地名があるからだ、和田とは綿津見(わたつみ)の和田(わた)なのである、それが対になっていて飯館村の方に移動している
栃窪村に山津見神社があり宇多川をさかのぼった所に山津見の社が隠されるようになったまた八木原というのもあり明らかに八木氏なのである
だからこの安曇族のことはただ神社があるだけで正史に記されていないから謎なのであるでもなぜこんなに多く神社があるのかとなる、それが解明されていないのである

でもこの安曇族は九州の福岡から出て移動してきた海人族であり古事記にも記されている有力な氏族だった、でも安曇族のことは後にその存在感が消失してゆく
でもなぜこんなに綿津見神社が多いのか、特に南相馬市の原町区に多いのかとなる
最近では大原にも綿津見神社があったことを発見した
つまり大原を通り飯館へ八木沢を峠を越えて入ったということである
それで安曇族の後継の八木氏が入ってきて八木沢峠になったのである
三方向から飯館村に入った、一つは松川浦であり一つは真野川をさかのぼった栃窪村から入った、おそらく栃窪村は塩の道の通り道でありそこは古代も通り道だったとなる
もう一つは大原から八木沢峠を越えて飯館村に入ったのである

そして物部氏は歴史書に余り記されていないが物部吉名という人がいて小高は吉名郷という古代の大和王権の領域として支配された、だから確実に物部氏が大和王権の前に支配していた、ただ綿津見神社や山津見神社を残した安曇氏については歴史書に記されていることがわずかなのでわからないのである
物部氏というとき右田の御刀神社が右田にある、その前は湿地帯になっていて江戸時代に開拓されて田になったのである
海老はエヒでありこれは蝦夷のことである、海老には津波で30人が死んだ高台にも古墳が最近発見された、弥生時代から人はそこに住んでいたのである
右田は江戸時代から住んでいたから新しいのである
なぜ右田に御刀神社があるのか、それは海老は蝦夷でありそこで争いがあり物部氏と戦うこともあり刀を使うからそうなったのである
つまり最初に蝦夷と戦ったのは鹿島区では物部氏だったとなる
その後に大和王権が蝦夷と戦い鹿島御子神社を創建したのである

つまり一番古いのは桜井古墳がある原町区であり物部氏が最初の移住者であり入ってきた次に毛野氏が入り浮田国造に大和王権から官吏が派遣された
その後に本格的に大和王権が直接的にかかわり真野地域に前方後円墳が作られた
そこに金銅双魚佩が発見されたのである、それは大和王権から大伴氏が覇権されてこの地の支配者に贈与されたものである
だからその古墳は大伴氏が葬られたのかもしれない、その大伴氏を慕った笠女郎がみちのく真野の万葉集に歌を残したのである

桜井古墳(物部氏)⇒(安曇族(綿津見神社)?⇒毛野氏(浮田国造)⇒大和王権(大伴氏)(真野古墳群)⇒真野の草原の歌

こういう順序になる、ただ綿津見神社を多数残した安曇族がどこに入るのかその順序がどうなるのかわかりくいのである、毛野氏の前なのか、毛野氏の後なのかわかりにくい
ただ歴史書に記されている安曇氏は古い氏族である、だから物部氏の後か同時期なのかとなる

神武天皇の東征の神話も多氏の事跡を基に作られたとか神武天皇の前に神八井耳命(多臣の始祖)が支配する国造の系譜がある。これは全国に及び道奧石城國造もそうである出雲国に「阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)があり大隈国−蛤羅郡に阿多小崎君(古事記)がいて鹿屋郷がある。それがそのまま出雲−伯耆国(安曇郷 鹿屋郷)→国→因幡国に移動しているのだ。この伽耶に由来する地名は関東になると埼玉郡に草原郷があるだけで少ない、それがなぜ陸奥真野の草原郷にあったのか?

●物部 安曇部、草(かや)部

高良神社の祭神五姓とは丹波、物部 安曇部、草部、百済という

高麗に属するものとして物部があり安曇部があり草部がある、ただ草部はカヤ部ともあてられるが草部はクサ部と読むと違ったものにはなる
カヤと読めば伽耶の国のことになるからだ、物部、安曇部と連なっている時、原町区の桜井古墳はこの二つの氏族が関係している、というのは二つの棺があったとかなるとやはり物部氏と安曇氏の首長が葬られたのかとなるからだ

東界と北界にはそれぞれ大きな山があって、境界をつくっている。その山の向こう側が、毛深い人の住む国なのである。

「毛人(蝦夷)」説
「蝦夷」を古くは「毛人」と記したことから、「毛の国」、二字表記にして「毛野」の字が当てられたとする説。『宋書』倭国伝の倭王武の上表文には「東に毛人を征すること五十五国」という記述があり[原 1]、この「毛人」との関係が指摘される[6]。

古墳時代前期には東海地方由来の前方後方墳が多く築かれたほか、同地方由来の「S字甕」と呼ばれる土器も多く出土しており、畿内に対する独自性が見る説がある[20]。一方この墳丘形式について、墳丘規模がどの地域においても前方後円墳が前方後方墳を上回ること、東国においても前方後円墳と前方後方墳が併存していること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E9%87%8E

九州が出雲より古く出雲をあけ渡す前に、おそらく安曇部族が入っていた
その験しとして安曇族の信仰や伝来物が包囲した形跡がある

阿部氏(安倍)はアヅミのなまったものである

福島県の吾妻山とか安積(あさか)とかも安曇(あづみ)のなまったものだという
http://musubu2.sblo.jp/article/189571236.html


これは九州のことであるがこれが不思議にこの辺と関係している
なぜなら桜井古墳は物部と関係して安曇となるととにかく綿津見神社が原町区には本当に多すぎるからである、20もあるとしたら本当に多い、この三つの部は明らかにこの辺にもあてはまるのである
ただ百済は違うとしても伽耶国とか唐(から)は関係している、唐は中国のことではなく韓国の韓(から)である
原町区には物部と対になって安曇氏がかかわっていたのである
ただなぜか安曇氏は正史の記録として残らなかった、でも神社は多く残した不思議がある物部系の神社が見あたらないからである
何らか物部氏は歴史から消されたとなる、安曇氏も消されたのである
残ったのは大伴氏でありそれは寺内古墳群を形成したのである

鹿屋野比売 顕宗即位前記 取葦草葉

<日本書記 神代上81>

草祖草野姫

この草祖草野姫(かやのひめ)は不思議に寺内に祀られている、この草とあてているがカヤであり伽耶国の姫ともなるのである、何らかで伽耶の国の人が葬られていくいる墓だったのかもしれない、それで真野の草原はこのカヤに由来しているのかとなる
萱が茂っていたから憧れの地とかなったとはありえないのである

黒樹取 草毛苅乍 仕目利 勤知気登 将誉十万不有

黒木とり 草(かや)もかりつつ 仕へめど 勤いそしき奴わけと 褒めむともあらず

皮のついたままの丸太。製材してない皮付きの材木。くれ。くろぼく。⇔赤木。
※正倉院文書‐天平宝字六年(762)三月九日・造石山寺所告朔「採黒木百八十物〈柱桁間度之類〉」
A 三〇センチメートルぐらいに切った生木をかまどで蒸し焼きにして黒くしたもの。たきぎとして用いる。京都の八瀬、大原あたりでつくられ、大原女(おはらめ)が頭にのせて京都市中を売り歩いた。江戸中期(天明ごろ)にはすでに名ばかりで、普通の粗朶(そだ)であったらしい。大原木(おはらぎ)。

黒木という地名が相馬市にありこの由来も古いとなる

阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)がありこの阿太は安達太良や安達の地名と同源である。安積は安曇族と関係しているとなると海人族の宗像市などともに九州から出雲、瀬戸内海と海人族の跡は残っているからそれらと一緒に草原の地名も移動したのである。意富(オオ)氏と「阿太加夜神社」は草(カヤ)原という地名はセットととなって武蔵に移動して陸奥の真野郷に移動した。
http://musubu.jp/manokayagimotoketa.html

金銅双魚佩が発見された寺内の前方後円墳の下に草野姫(かやのひめ)が祀られている真野明神がある。ここはかなり重要な場所である
この草野姫とは伽耶から来た姫ともなる、つまり単なる草のことではない、伽耶国にまつわるものでありそれが祭られていたとなる

ともかく物部氏ー安曇族ー毛野氏吉弥侯部)ーは一体としてありこの地に関係した
ただ物部氏は一応物部吉名とあり吉名郷があり名前を残しているがその外神社がないのである
でも安曇族の残した神社は綿津見神社は多いのである、これも謎なのである
正史には記録がないことも不思議なのである、ただ他でも伽耶がかかわったとしてもそれも正史には残されていない、大和王権が最後にかかわった大伴氏族は正史に記されているし万葉にも残されているし大伴氏となれば天皇に仕えた大豪族だったのである
それで真野の草原の歌を残したとなる、浮田国造は毛野氏の系統でありその隣の相馬市の宇多郡が毛野氏系統の君子部が支配した、つまりここも一つの境界となっていたのである原町区の方が先に物部氏とか安曇氏が入ってきて開拓して桜井古墳を作った
でも大和王権は最初に毛野氏を通じて浮田国造を置き浮田地区が最初の拠点となった
その後にここに大和王権直属の大伴氏が入り支配したのである
そして金銅双魚佩はその首長に贈与されたのである