なぜカルト教団の被害者が多いのか
(大衆化による地の塩たる真のエリートの消失した現代社会のため)
●カルマはカルト教団に入っても解消しない
人間はなぜカルト教団に入り被害を受けるのはなぜなのか、これは人間特有の問題である人間は何かそもそもその家族でも何でも不可解なのである
科学でも合理的にでも解決してきたのが人間である
でもなぜ依然として人間の謎があり不可解なことがあり解明されないのである
先祖の因縁というとき本当にこれはあると思う
ある人は妻は夫の病気で苦しめられた、20代で手術して肺結核になり半身不随のようになった、ほとんど仕事ができなくなり一生妻の世話になるような状態だったのである
そして不思議なのはその娘もなぜか夫に苦しめられることになった
夫はもともと技術者であり優秀で会社に勤めていた
でもやめて事業を起こして借金して苦しむことになった
つまり母親と同じように夫で苦しむようになったのである
だからこれも因縁なのかどうかわからないがカルマというのはあると思う
ただカルマがあったとしてもそれを言って金をとることは金をとる方が悪いのである
ただ確かにカルマがありそれがめぐりめぐってくるのである
ではカルマを解消するために因縁をたちきるためにカルト教団に入ってできるかとなるとできない
金をくれたらカルマを因縁を解消してやりましょう
こんなことを言うのはただ金が欲しいだけだからである
そもそもカルマは本人が苦しまない限り解消しないのである
また苦しまない限りカルマを認識することもできないのである
なぜ私は夫のことで苦しむのだろうというときそういえば私の母親も夫に苦しんだなとふりかえる、そこでカルマを意識するのである
そうでなければ母親が苦しんだことを理解できないのである
つまり例えば親が子を捨てるとその子も親を捨てるとかなる、逆に親を捨てると親になったとき子に捨てられとかなる、そういう因果がめぐってくる
国の関係でも日本か高度成長時代の時はアジアで女性を買って遊んでいた
今や逆に日本人の女性が貧乏になり買われる時代になったのである
これもカルマである、かつて日本人はアジアで同じことをしていたからである
国と国の関係でもアメリカが原爆を落としたということがアメリカのカルマとなる
つまりアメリカに原爆が落とされて始めてその苦しみを理解するのである
こんなひどいことなのかと理解する、実際にそれはそうされてみない限り理解できないのである、よその国の人が苦しんでも自分の国で苦しまない限りわからないのである
アメリカはアメリカ国内が戦場になったことはないのである
だからアメリカが国内でも爆撃されて大量に死んでみない限り戦争の悲惨さは理解できないのである
だからカルマは必ずめぐってくる、人を苦しめたものはやはり苦しめられるのである
上に立っていたものがやがて下になる、繁栄でも栄えていた国でも衰退する
イギリスなどがそうであり日本でも30年くらいで衰退したからである
次に衰退するのはアメリカなのである、恵みはいつまでもつづかない、必ずめぐりめぐってくるのである
だからアフリカで貧乏でもいつか栄える時が豊になる時が来る、そのために時間が必要なのでる、例え日本国内であれそれぞれの国であれ栄える者と栄えない者が必ずいる
でも時間が過ぎると一代だけではない二代三代と家がつづくうちに貧乏でも栄える家が生まれる、ただ時間がかかるのである、つまりある言えか栄えるには一代とか二代がかかり犠牲になるということもある、親が苦労してその次の代を栄えさせるということがある
だから共産主義のように急速に一様に平等にすることは無理なのである
そのためには革命となっても多大の犠牲があり死者がでるからである
その平和的解決は時間をかけることである、性急には変わりにくいのである
時間の中で貧乏な人でも豊かになってゆく、それを一気に暴力革命で平等にすると失敗する、それが共産主義でありそこで何百万にも粛清され殺されたとなるからである
そこには無理があり性急だから失敗したとなる
●平等は不平等になるー時間が解決する不平等の問題
とにかくカルマはめぐり恵み(めぐみ)もめぐるのである
いつまでも不幸な家系もないし個人もない、かえって必ず一生をみれば幸福と思えたことは不幸に因になったりしている、逆に不幸の因が幸福の因だったということにもなる
それは長い一生をふりかえればみんなそういうことを経験することになる
一生楽で終わる人などいないのである
だから若い時は進んで苦しんでおけ苦労しておけとなる
それは必ず人生は楽に終わらないからである、だから早いうちに苦労していた方が後の耐性を作るとなる
だから若い時享楽に費やしていたりすると何か良きことを成すこともできなくなるのであるそれだけ人生は短いからである、時間を無駄にしたことこそ取返しのつかないことになる
本当に今になれば一瞬一瞬でも真剣に生きて時間を無駄にしなければよかったとなる
それでカルト教団に時間を費やすことほど無駄なことはなかったとなる
まずそのために人生をそのものを失うことが怖いのである
一生精神的にも金銭的にも奴隷にされてしまうからである
つまり霊が支配される、奴隷の霊が与えられることが怖いのである
宗教に呪縛される、悪い方に呪縛される、そして奴隷にされ金銭でも貢がされる
そして偶像を拝まされるのである、そういう団体の教祖は偶像であり偶像はサタンであり使役されるとなる
そうして呪縛されるとなかなかぬけられないのである
人間は不可解なものだから人生でも不可解でありそんなことは迷信だとか言っても意外と有効なのである、カルト教団でもそこでは悲惨な不可解なことで死んだりしている
自殺したり倒産したり一家離散したりとかいろいろある
カルト教団に入っても解決しない、カルマだとすると自ら苦しまない限り解決しないのである、団体でそのカルマを背負ってはくれない、なぜなら個々人で家族でもそのカルマが違っているからである、集団的にカルマは解消しないからである
それで共産主義の過ちはそのカルマでも全部集団的に一挙に解決するように思わせる
それが革命になるのだがそのためにカンボジアで二百万人死んだとかスターリンで何百万人殺したとかなったのである、それは本来そうして人間の問題を解決するこが無理だったからそうなったのである、人間の問題を解決するのには時間がかかる
とても一代ではできないとなり何代かでやっと解決するとかなるからである
カルマとか苦しみはある所で終わる、どこまでもつづくということはない、ただ何代にもわたり継続するというがやはり三代くらいで自然と切れる、人間の一生でも一生苦しい人生はないように見える、ある所でやはり神はもしかしたらその苦しみを終えさせる
でも楽した人はやはりどこかで最後に老人とかなって苦しむともなる
一生でも苦しみがつづくとすれば耐えられないとなるからである
この人は苦しんだ人生だから最後くらいは楽にしようとかなるかもしれない、この人は楽な人生だったから最後に苦しませるとかなる
一見平等のようでもどこかで人間は平等にもなっているのかもしれない、そこに神の配剤があるかもしれない、ただそれも明確なものとしてわからない場合が多い
とにかく人間が運が大方決めるというのも真実である、でも運もめぐりめぐってくる
いつまでも不運な人はいないかもしれない、どこかで苦しい人生が好転してくるかもしれない、ただそうした神の配剤は気づきにくい、それは国の運命でもそうである
いつまでも貧乏な国でありえない、中国だってそうなった、数が多いからみんなとはいかないまでもかなりの数が裕福になったからである
いつまでも不運な人も家もないしいつまでも幸運な家も人もいないとなる
それは一気にではなく時間をかけて平等になってゆくと見る
金を天下の回りものでありやはり貧乏な人にもいつか回ってくるともなる
そういう運命も神が関与しているかもしれないのである
ただ不運に死ぬ人もいる、事故で死ぬ人もいる、その理由はわからない、カルト教団ではそれを言うがその教団内でどれだけ不幸な人達がいるかそうしたことは解消されないのである、むしろ近くで創価に入ったら息子が若くして病気して死んでその後に母親も死んだのである、他では親が自殺したとかなんとかいくらでも不幸なことは起きているからカルト教団に入っても解決しないのである、それは結局不可解だとなってしまうのである
むしろカルト教団はその信じる宗教によって呪われたものなのである
なぜならそもそもがその信仰が全くこの世のものと化してこの世の利欲を達成するためのものとして利用されるからである、そこで矛盾になりかえって仏でも神にも呪われるとなる、そこに神の祝福はないのである、神を仏を語り金でも何でも貢がせる、そして魂を呪縛する、それはサタンであり悪魔の所業にもなる
そもそも他者を罰当たるとか罰せるとか地獄に落ちるとか言えるのか、その人はどんな人なのか、その人を良くみたらわかる、その人自体が地獄人間なのである
確実にそう言う人間こそ地獄に落ちるのである
●大衆化によって真の指導者を失った社会はナチスになる
要するにカルト教団は自滅する運命にある、そんなもの一時的利益利権を求めるものだから消える、宗教とは世俗を超越したものを求めているからである
何百万人も集まる人間がどういう人間なのか、押して知るべしである
本当の信仰は極わずかの小数者のものであり絶対に多数のものにはなりえないのである
むしろ地の塩たる少数者でもいれば祝福があり全体にも祝福が及ぶのである
だから数が多いということは宗教的観点からすればすでに俗化したものであり地の塩ではない世俗的なものに染まった堕落したものなのである
でも数が多いということは民主主義社会では権力となるから数を集めるのである
それは誰とか問わない、その罪も問わない、ただ一票として数えられるだけである
あとは一切問わないのである、そして権力を手中にして世俗の利益を利権を得ることなのである
要するにカルト教団が生まれたのは大衆化に原因がある、もともと宗教は少数者のものでありその人達が地の塩となって民衆を導いたのである、これも堕落したにしろそうして極一部のものが修行して民衆を導いたのである
それが何でも大衆化したときもう指導する者もなくただ大衆の成されるままになり結局全員が堕落したものとなってそれが普通になった、結局そこで誇るものは数しかない
毎日会員を増やすことであり一票を得ることでありその外なんの興味もないとなる
数を増やすことが即権力と金でも地位でも何でも結びつくからである
貴族社会というと反発されるがそれがすべて悪いものでもなかった
必ず社会にはいい面と悪い面が生まれる、だから貴族社会にもいい面があり悪い面がある
「ノブレス・オブリージュ」の核心は、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理である。
貴族には戦争でも国を守るために率先して先陣に立った、イギリスの貴族とかそうであるもちろん貴族社会とか階級社会であり全部肯定はできない、でもその中にもいいものはあったということである
戦争だけでなく貴族とは指導的地位にあり国民に対しても責任をもたされていたのである
そして日本でも侍がいたというときその人達はやはり貴族であり重い責任を課せられていた、だから切腹して責任をとったというから厳しいのである、それで庶民は侍に成りたくなかったのである、ただ金持ちになるとかいい身分とかになるだけではなかったのであるその侍がいて明治維新は成功したのである、なぜなら明治に指導者になったのは侍がほとんどだったからである、ヨ−ロッパと違うのは侍自体貧しかったことである
でも侍としての教育を家庭とか藩で受けていたのでその自覚があり指導者となりえたとなる
なぜ明治にあれだけ創始者となり創業者となった人達が多い、やはり侍として教育されて教養があったからだともなる、それは知識だけではない文武両道とかあり人間としてモラル的にも何か芯があり指導者になりえた
だから明治が終わり大正となり昭和となると何か暗い時代になる、世界的情勢の変化があるにしても日本は暗黒時代に突入したのである、そして太平洋戦争で三百万人も死んだのである、その時侍などいなくなった、ただ侍のまねをしていただけなのである
ただそれは日本だけではないヨ−ロッパとかでも同じでありヒットラーのようなナチスが生れたのもやはり貴族というのがヨ−ロッパでもいなくなり大衆化したからだとなる
なぜならヒットラーは民主主義で生まれたのであり大衆から選ばれたものだからである
大衆の代表として生まれた者であり貴族とかではないしその自負もないし責任も持たなかったからである、これは日本だけではない世界全体でも起きたことである
●大衆は責任を持たないー日本に福祉がないのはパブリックなものが育ったなかったから
ともかく大衆化とは誰も責任など持たない社会である、要するに利益利権を得ることしかない、カルト教団でもそうである、そこに真の指導者はいない、教祖となるとヒットラーとたいして変わりないのである、そもそも大衆を指導する者は大衆に媚びるというか大衆のレベルに合わせなければならないから低俗化するのは当然だとなる
そうしなければ会員でも票も得られないからである
人間には何か必ずいい面と悪い面が生まれる、例えば長子を重んじて家を継がせることは不平等だとなり廃止された、でもそうなると誰も家に責任を持つ人がいなくなる
そんな家など古いとなってもやはり家を継続する者が責任者がいないことは大事なものが継承されないともなる、だから延々とつづいてきた伝統というのは何かそこに継承すべきものがあり知恵がある、それを全部否定して平等にしたのが問題なのである
結局誰も責任者もいない、大衆は利益利権を要求しても責任は持たないからである
徳川時代に武士が若死にしてもその未亡人や遺児を職場の雇い主である大名がめんどうをましみた例かない、みんな親類縁者に頼った
まして商家の丁稚、手代や地主の作男になると必ず親兄弟が身元引受人になり連れ帰ることになった
ヨ−ロッパの慣習では国王に仕えた騎士が死ぬと未亡人を保護した
男爵家で働いていた馬丁が死ぬと未亡人は国王が保護した
遺児は男爵家で育てなければならなかった
(現代を見る歴史―堺屋太一)
これもノブレス・オブリージュであり雇う方で責任が持たされていたのである
それだけの経済力がないとできないこともあった、日本でそれがなかったのは経済力がなかったからだともなる、でもヨ−ロッパでは確かにパブリックなものが発展した
日本の福祉はみんな家族で背負う、パブリックなものがないからそうなる
だから貴族社会でも侍社会でもそれをすべて不平等として否定することには問題がある
結局現代は大衆化してもう指導する者もいなくなった、ただ数だけですべてが決まるからである、そして大衆は責任を自覚もできないし持たないからである
そもそも侍なら責任を自覚させられて教育されるるが庶民はそんな教育などされないからである
要するに現代は大衆化して無責任社会になったのである、その指導者はただ数が決めるのでありその資質など問わないのである、だからそのレベルは大衆に合わせるのだから当然劣化するのである、そして大衆が力をもつとそれがナチスとか現代だとカルト教団とかになる、そこで一切高等なむずかしいことは言わない、大衆のレベルに合わせて御利益権力を得ることしか教えないのである、大衆に席巻されて価値ある尊いものは認められない
水平化されて何でも同じだとなる、大衆と同じレベルに劣化して価値ある尊ぶべきものは必ず卑しめられて水平化される、結局そうしてみんな劣化して俗化して同じだとなる
大衆は何か価値ある尊いものを重んじることはないからである
でもそれが逆に大衆にはねかえりカルト教団とかが跋扈して増殖して大衆化した宗教に苦しめられるともなる、つまり地の塩を失ったことが致命的なのである
第一地の塩といってもそれを大衆など認めないからである、みんな同じだというのが大衆だからである、それが逆に大衆にとってもいいものではないのである
誰も導くものはいない、ただ導く者は数を集めた人でありそれが大衆の代表者だからである、そもそもそんなに数を集めることが重要なことなのかとなる
でも選挙ではすべて数だからそうなるのである、そうしてもはや誰も導く者がなくヒットラーに導かれて大量に死ぬということにもなったのである
ただ誤解されやすいのが地の塩というとき特権階級でもない、金持ちでもないことがあるむしろ貧乏な人もいる、でも導く人にもなる、今のエリートはただ金持ちのことである
それでアメリカの富裕層に莫大な富が集中している、その人達は地の塩でもなんでもないただ世界から富を収奪する特権階級なのである、だから金持ちが地の塩でもないのであるでもすでに金持ちは責任がありその金を有効に使わないと金持の資格もないとなる
なぜなら金持つことが現代では一番の責任となっているからである
貴族もいない侍もいない真のエリートもいないとなれば金を多く持っている人が責任があるとなる、その責任を果たせない者は大衆からでも排斥されるとなる