2022年11月15日

北海道に新幹線は不必要 (新幹線より時速30kmのSLを北海道全域に導入すべきだった)


北海道に新幹線は不必要

(新幹線より時速30kmのSLを北海道全域に導入すべきだった)

●北海道の旅の記憶

列車好きって鈍行好きだよな
鉄道わからんでもそれくらいは知ってる

予約取れないほど人気だった寝台列車を廃線にして
1両1人しか乗ってない新幹線ができたんだぜ?

寝台列車いいかも
ここでしか乗れないみたいなのを北海道でやるなら寝台列車復でいいんじゃね?
SLとか豪華列車は走りまくってるし

広いすぎるから電車は不利なんだよね。
どこに行くにしても電車だと駅まで遠すぎるという。

北海道には十回くらい行っている、必ず仙台から船で苫小牧まで行ってまわった
苫小牧につくと空気まで違っていた、苫小牧は市になっていても工場などがあっても
広いのである、回りは原野なのである、苫小牧からすでに北海道の景色なのである
ルピナスとかの花が咲いていることは日本ではないからである
旅だと北海道なら船で行くと旅情がある、船で行き電車で旅するとなると鉄道ばかりの旅とは違ったものとなる、だから函館までの連絡船があったときは旅でも違ったものとなった、連絡船は日常的に使用するものであり観光だけではないから何かそこに人間の物語があったとなる

今海底を走る電車だとそうしたものを感じなくなる
要するに何か新しい技術ができて便利になっても必ず失うものがある
それはデジタル社会の落とし穴でも書いた
便利さ効率を追求してゆくとそこに人間的なものが失われてゆく
旅情も失われてゆく、鈍行から普通列車になり急行になり新幹線になる
その過程で失われたものがある、夜行列車は消失した、だから夜行列車は体験できないから体験したいという人も出て来る、寝台列車はやはり旅情があるからだ

北海道に新幹線がいらないというときビジネスとか日常の足としては使わないからである何か一両の電車が広大な荒野を走っているのは実用的ではないからである
そこでぽっぽ屋とかの高倉健の映画があった、ただノスタルジックなものとしてあった
ただそうして駅舎には人間的なもの情がにじんでいる場だったのである
北海道は観光列車がいいというときそれはまた違ったものになる
観光だけとなると何か生活感がないのでやはり鉄道も活きないとなるかもしれない
ただ観光列車とかしか活かせる道がなくなっているのである

●時代による時間感覚の相違

現代は時間の感覚が違っているしこれまでも時間の感覚が違っている、江戸時代と明治時代でも時間の感覚が違っているしそれから大正、昭和となり戦後の昭和となり時間の感覚が違うのである
それと距離感も違ってくる、第一江戸時代に参勤交代とかで江戸まで行くにどれだけの時間がかかっていたか、相馬からでも8日間かかるとしたら往復二週間もかかるのである
すると江戸とははるかに遠い世界でありそこに行けるのは一生のうち何度かとなる
また仕事で行くことも簡単にできない、そして手紙ですら飛脚が運んでくるのだからめったに便りもないのである
その時間感覚と距離感覚の相違が常に時代によってあった
その時代とは科学技術が人工的に作ったのである
時間か早くかんじたり遅く感じたりするがもともと時間はない、時間は人間によって環境によって作られてきたのである、それは明治以降時計が普及すれば時計で時間が計られるすると一分でも計られるから時間に追われるようになる
つまり人間は時計によって時間に追われるようになる、そのこと自体人間の感覚が変わってしまったのである

寺の鐘が時間をつげていたときは何かゴーンゴーンと野に鐘の音がひびきわたる
その感覚は時計で感じる感覚とはまるで違ったものでありそれは自然のリズムと合っていたのである、一分刻みの時間ではないからである

春の野にひびく鐘の音野良仕事

その鐘の音を聞いて時間を感じる、その感覚は今とはまるで違ったものになる
鐘の音は大地に山にゴーンとひびきわたる、それは自然と融合した音ともなる
江戸時代の時間の感覚は自然のリズムとともにあり悠長だった
そこに江戸時代の価値があった、そして暗くなれば電気もないのだから夜は早めに寝るほかないしそして朝は早く目覚めて仕事するとなる
自然のリズムに合わせて生活するほかなかったのである、だから朝廷というときでも朝に官吏が出勤するからそうなった、暗くなると仕事ができなくなるからである
だから仕事はたいがい大工とかでも午后の二時くらいでやめていたとかなる
それは自然のリズムにあわせて仕事する他ないからそうなった

おじいさんの古時計は歌で有名になったがやはり柱時計が昔は家にありそれが大きいし
時間の進み方が遅かったのである、振り子が動いていたのも何か機械が悠長に動いている感覚にもなっていたのである、電子時計になると人間的でなくなる
機械でも人間的なものがありそれが電子化するとなくなる
だから時間の感覚はそうした機械とか道具にも影響されるのである
デジタル表示の時計とアナログ表示の時計の時間の感覚は違う、時間の見方が違うのである、時間を距離的にも見ている、一時間後とか一時間前とかを見る、今の時間ではない
先の時間と過去の時間も見ているのである
だから時間の感覚は同じ一時間でもいろいろな条件で違ってくるのである
だからそもそも時間がないと書いたがそういうことなのである

停車場の柱時計を仰ぎつつ現(うつつ)なや朝のストーブの椅子に 牧水

これも駅に大きな時計があり仰ぐとまでなる、ストーブがあるとういこともなつかしいとなる、エアコンではないからストーブだとぽかぽかとあたたまる、その相違も大きいのである、それでわざわざ薪を燃料に使ったりするのは今になると贅沢である
でもストーブの方がエアコンり何か冬らしい感覚を味わうのである

●失われた旅情

旅というとき早いのがいいとはならない、目的地にできるだけ早く着くとしたら旅にはならない、だからこれだけ交通が便利になっても旅を経験している人は少ないのである
旅をしているのではない移動しているだけなのである
どれだけ早く目的地について後はうまい料理を食べたい休息したいとなる
途中を楽しむことがないのである、車社会ではそうなった、旅は道連れ世は情けもなくなった、車では人と人の出合いなどないからである
旅情もないのである、分去(わかれさり)という地名が残っているのはそこで旅人は分れ永遠に逢わないとなっていたからである
そこで別れを惜しむからである

分去旅人別る秋の暮

こんなふうになる、これが車だと感じないのである、つまり歩いて旅しない限り感じられないのである、この道は分かれてどこへ行くのだろうとかなり道は未知だったのである
それは自転車ではある程度感じる、私は阿武隈高地をそうして自転車で旅していて感じたからである,道は未知として延々とつづいているからである
でも現代ではその未知なる道の旅が失われた、それは車社会になると道はレールの上を走っている感じになる、決められたレールの上を走る道路なのである
そこに未知の感覚は失われる、鉄道にしても決められたレールの上を走るのであり歩いて道を旅するのとは違うのである
現代は何か未知の感覚が失われたのである、あらゆることで交通も発達して情報が氾濫して道の感覚が消失してしまったのである、あらゆるものが既知に なってしまったのである
いづれにしろ北海道は魅力がある、広いから鉄道で旅行するのも魅力がある
ただ現実問題として日常的に利用するのは不便なのである
駅まで遠いというのもわかる、北海道は広いからそうなる、そうでなくても駅まで遠いとか駅からの足がなくなったことも影響している

私でも原町、相馬市まで行くのに自転車だからである、何故ならイオンとか行くのに遠いからである、買い物も駅から遠いし用をたすのにも遠いからである
そこが鉄道の問題である、車だとどこにでも行けるとなるからだ、この利便性の差が大きすぎるのである、、ただ正直私は車は好きではない、そのことは延々と書いてきた
またバスでもあまり好きではない、鉄道には何か人間的なものがあり旅情がある
だから近くに確かに高速道路のSAはにぎわっていても何か人間的なものか感じない
駅で待つような人間的なものを感じないのである、駅だと人の出合い別れを演出した場所であり何か人間的なものがある、だからいろいろと語られるのである
人間の情がそこにのりうつっているからかとなる、ただ機能的な場所ではない、人間の悲しみ喜びが演出された場所だとなる、停車場という言葉でもそうである

ふるさとの なまりなつかし 停車場の ひとごみのなかに そをききにゆく 啄木

これもそうである、駅でボランティアのまねごとをしていたとき原発事故などで外部から来る人が多かった、そこでなまりを聞いてどこの人かと聞いたからである
なまりで国がわかるというのもそうである、なまりは本当にいろいろある、そのなまりが何かあたたかみがある、標準語とは違うのである、だから奇妙なのは故郷に帰って来た人が埼玉とか回ってその土地の訛りが自ずと身について複合した言葉をしゃべっていたのである、これも変なものだったのである

ともかくまず鉄道が活きていた時代は失われた、鉄道の駅と高速のSAを比べるとその相違は大きい、人の出入りが千倍も違うかもしれない、今は鉄道の駅は無人化したりして一人二人くらいしか待っていないとかある
高校生の通学では利用している、だから高校生の見守り役を市では雇ったのである
前は駅前通りとかあり駅が中心だったのである、だから駅前はにぎわっていたのである
でも高速のSAとなると街から離れていて街に来る人はまれである
ただ街から離れた場所で一時的に休む場所だとなり街の活性化にそれほどならないのである、まず街まで来る人はまれだからである
そして鉄道とは違って待つ時間もないからそこで何か見知らぬ人でも話すこともないのである、それは結局車というものが技術が人間社会を変えたということなのである
そこで必ず人間は確かに便利になっても失うものがある、得るものがあれば失うものがあったとなる