2023年02月08日

近江の紀行文(地歴を知るべき)


近江の紀行文(地歴を知るべき)


関ケ原電車に越え行く残る雪
平地に出春光眩し近江かな

高島は西にあれや東より秋の朝日の昇るを見ゆ

歴史が地歴と言う時まず地理がわからないと歴史もわからない、この地理自体理解するのがむずかしい、まず一回でもその場に立たない限り理解できない
近江に行った時高島が西であり東(あづま)が関ケ原の方向になりなぜここで東西の覇権を決する戦いが起きたのかも地理と密接に結びついている
古代の壬申の乱でもやはり東軍と西軍の争いになったからである
近江を制する者は日本を制するともなっていた、だからこそ信長がここを重視して安土城を作ったのである
また木曽義仲が今の中山道の山中深く旗揚げして京に攻め上ったのである

これは東から見た歴史である、でも九州とか中国とか瀬戸内海とかから西から見るとその歴史はまた違ったものになる、大阪が難波の都となったのは遅いのである
そしてなぜ飛鳥が都になったかというとそれも地理的なものが影響していた
大阪湾は古代は大きな湿地帯であり住むにふさわしくない場所だったのである

日本の海岸線は湿地帯が多いのである、釧路湿原のようになっていた
だから津波で驚いたのは本当に海岸が湿地帯化したことである
そういう湿地帯を埋めて田にしてきたのが日本だった、それで田下駄とはそういう湿地帯で必要になった、また日本で下駄が作られたのは雨がふると下駄が必要だったのである
ぬかるみになり下駄が必要だったのである

なぜ飛鳥が最初の都になったのかというとその前が太古では奈良は湖になっていた
そこは海のようになっていた、だから万葉集でも

天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は 

巻一(二)

となっている、何か盆地になっている所はもともと湖になっていた、福島盆地でもそうらしいからでである。奈良盆地でもそうなっていたのである
さらに太古にさかのぼれば大阪湾から奈良盆地まで海が入りこんでいたともなる
そういう地理では飛鳥が高台にありそこが最初の都となったこともうなづける
つまり地理がそうさせたのである、地の利がそうさせたのである
そこから次に藤原宮が生れ奈良の平城宮が生まれたのである
ただわかりにくいのはなぜ京都が千年の都になったかである
やはり大阪の難波の方が湿地帯であり京都が盆地でありそこが都になった
そして近江が要衝の地となったのは琵琶湖があり交通の要衝になったからである

近江の不思議はヤマトタケルも伊吹山で死んでいる、近江で死んでいる
また芭蕉でも奥の細道でみちのくを旅して近江で死んでいる、風土的に近江は関ケ原を出ると何か春光がまぶしかった、関ケ原には雪が残っていても近江に出ると春らしくなったのである、何か開明的な感覚になった、そもそも近江商人とかが出ているから近江はそうした地域であり人流も活発になる地域なのである
だから信長が楽市楽座を作り自由な商売を奨励したのである

大津百町は、東海道五十三次の「宿場町」、琵琶湖水運の「港町」、三井寺(園城寺)の「門前町」という3つの町の顔を持ち、東海道最大の人口を誇る宿場町でした。その繁栄を示すのが「大津百町」という言葉です。実際、江戸時代中期には、ぴったり100の町を数え、湖と山にはさまれたコンパクトな場所に約1万5千人の人々が暮らしていたことがわかります。

近江は日本の歴史が地層のように重なっている、近江の魅力は琵琶湖があり風光明媚であり交通の要衝にもなった、近江八景がありこれはまさに魅了される、比良の暮雪というときそこは西になりいかにもふさわしい風景である
三井寺の晩鐘というのもそこで鐘のの音を聞いた、その金は相当に古いものである
その時は秋だったのである

三井寺の鐘なりひびく秋の暮

ただ春に行った時は大津は朧月であり大津は都会である,繁華な都市であり宿場町だったとなる

朧月大津の一夜京近し

大津だったら京都は近い、電車でも近い、でも京都と違うのは琵琶湖があり結構平野が開けている、それで彦根城は大きいし圧巻だったのである、その造りも雄壮な城である

天主より近江平野は刈田かな

雄壮に城の構えや冬に入る

春には蓮華が映えていた、そして三上山が見えたのである

蓮華田や三上山聳え近江かな

蓮華田があるということは都会というのではなく土臭いものがある、田舎でもある
京都には田んぼなどないからである、それでなごむということがある
ただ近江商人が生まれたようにここは大阪商人とか京都の公家とかそのつながりとして
近江商人が生まれたとなる、そういう人が出るのも地理であり歴史であったとなる
そして注意すべきはここは古代に韓国からの渡来人が住みついて技術を伝えた地域であるそれが私の住んでいる真野の地域とつながっていたのである
なぜなら栗東まで鉄を作る工人が行き来していたのである、鉄を加工する場があった
鉄そのもののとれなくても加工する技術があり真野の地域からでも工人が直接そこに通っていたのである、技術研修生ともなっていたのである
だから近江に真野という地域があり何かその真野というのは渡来系でありそれが鉄を求めてこの地域に来ていた

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

この歌を詠んだ笠女郎が近江出身だったという説もでてきたのも具体的に鉄作りで関係していたからだとなる
そして韓国で大津の人と合ったのも奇遇だったとなる、そこで韓国を案内してもらったのである、それを感謝している
鉄作りというとき葛尾大臣でも近江八景をまねて庭を作ったいた、なぜかというと近江の女性を連れてきて結婚していたからである、それで女性が故郷をなつかしみ近江八景を模して庭を作ったのである、それにしても余りにも近江とは違った場所であった
淋しくなるのもわかる、このように近江とは繋がりがある

秋鴎百羽集いぬ浮御堂

堅田に松や秋の日浮御堂

この鴎は大阪から淀川を上り琵琶湖に来た、つまりここでも海が関係している
飛鳥でもそうだがここでも鴎がこれほど飛んできていたということは海が近くだということになる
とにかく近江の魅力は琵琶湖にあり自然が依然として映えている、京都とか大阪は家が密集して自然が映えない、自然は作られた庭にある、でもそれは本当の自然ではない、人工的な自然である、そこに庭の限界がある
なぜ東京でも大阪でも魅力がないのかというともう自然が消失している、東京などでももう江戸時代に水路があったことなどイメージすらできない、自然の地形を説明してももうイメージできないのである、だから東京には魅力がないのである
京都は違っていてもやはり家が密集しているから押し込まれような感覚になる
ただ京都は文化都市だから千年の都だから他とは違っている
その延長として近江もある

昔のひとに出逢った、依然美しかった
だがそのひとは今は湖畔の城下町の
由緒ある宿屋の御寮さんであった
ゆくりなく近江の秋の日に浪漫的なものを
失われた簪(かんざし)のように拾った
(田中冬二)

この詩のようにまさに簪を拾ったというときまさに千年の都は工房があり技が伝えられてそういうものが落ちていたともなる、つまり自然があり千年の都の京都が近いということで魅力がある

これはやはり京都が近いということで作られた詩である、簪というのがそうである
それは京都の工房で作られたものであり貴重なものである、それが近江に拾ったというとき京都に近いからそうなったのである
ただ戦前とかの風景とは近江でも琵琶湖でも違っている、やはり繁華になり詩にしたようなひなびた感じは失われている、ただ田畑があり琵琶湖があり山々があり自然の風景がなお残っているから大坂とか京都とは違っているのである
なんとかなく近江に来るとほっとするのである