2023年02月15日

高齢化社会では老人の価値が問われる (多様な価値を追及する時代-組織集団的価値から個々人の価値へ)


高齢化社会では老人の価値が問われる

(多様な価値を追及する時代-組織集団的価値から個々人の価値へ)


老人が尊敬されないとか老人が邪魔者しかならない社会、それはどうしても老人の数が多すぎることなのである
つまり老人の数が今の十分の一とかなるとその老人が別に特別の能力がなくても社会で貴重なものになる
確かに老人の語ることは人生経験から語る、そこが若い人と違っていて価値がある。でもその経験に価値があっても社会にとって価値があるかとなるとわかりにくい、単なる自慢話しにもなり聞きたくないともなる
ただ老人は必ず語り部になる、過去に経験したことを語る、そこに価値がある、だから郷土史の基本が親でも祖父母でも聞いた話が基本にあると書いてきた

結局人間は誰でも自分が価値あるものだとみとめてもらいたいのである。別にそれは科学者とか学者とか特別の人ではない、あらゆる分野で庶民でもそうなのである
知っている大工さんだと自分の技を誇る、庭作りでも壁塗りでもできたからそれは他の人にはできないから誇り私の価値を認めてもらいたいと切実に要望しているのである

私の家でもそうだった、親が橲原の同級生のキコリが柱となる木を与えてくれて大黒柱のようにしたとか認知症にもなり本当に百回でも語りつづけたのである、だから聞く方も閉口したのである
また戦争のことでも延々と語りつづけた、なぜならシンガポールの向かい側のジョホールバルで従軍看護婦として四年間も勤めたからである。その苦しみは忘れられないから語りつづけた。
遂に入院して死ぬ直前までそのことを語っていたのである
それだけその戦場での経験が忘れられないから語りつづけた。
その戦いは日本のために戦ったのでありだから命がけで国のために戦ったのだからその価値を認めてもらいたいというのは理屈なしでわかる。戦争の是非はともかくとしてそれだけ苦しんで戦ったのだからそれは無視できないのである

老人の価値はこうして過去に何をしてきたのかで決められる。
戦争を経験した人は戦争のことは忘れることができない、だからそんなこと無駄だったということはなかなかできないのである
それはただの人殺しした犯罪に過ぎないと言えないのである
そう言われることはもう人生そのものを否定してその人間自体も価値なきものともされてしうまうからである
そして三百万人も死んでいるのだから余計にそれらが無駄死にだったなど言えないのである

老人の価値は今生きている価値ではない、過去に生きた価値なのである。歴史だと長い時間の中で色あせない価値がある
ただ戦争とかなるとその価値は国民的価値であり個々人の価値ではない、国家の価値だとなる、組織や集団でもその価値は個人の価値ではない、カルト教団でもそれは組織集団の価値であり個々人の価値ではない、でもその組織集団の価値も喪失することがある。カルト教団などはいくら数が多くても数だけで権力を誇示するものだから数が減ると価値も喪失する。でももともと宗教は創始者がいてその創始者の価値は持続するのである

要するに常に人間は価値が問われる、あなたにどんな価値があるのかと個々人でも問われる。もちろん会社でも何でもどういう価値があるのか問われる、障害者でも何の価値があって生きているのかとなる。何か世話ばかりされてごくつぶしであり生きる価値があるのかとして大量殺人にもなったのである
それは重度の精神障害者だからそうなったのである
軽かったら価値以前にしかたないとして生かされていたのである
それは自分でそうなりたくてなったわけでもない、生まれつきだともなるからである、その責任は誰にあるのかとしたら親にあるとしても全部は親でも負えないからみんなで負うとなったのである

今老人に何の価値があるのかということで問われている
老人にこんなに金を使って何になるのかともなる、それは無駄だとなる。でも人間社会には無駄が多いのである
ギャンブルでもそんなの無駄だとなりスポーツでも見るスポーツは無駄だともなるし価値がないともされる
そしたらなぜそんなものに金を使っているのだともなる
こうして価値を問えばある人からみれば膨大な価値無きものに金を使い費やされているのである

そもそも老人に価値がないという時、何に価値がないかである
働かないで金を稼げないから価値がないのか、ただ病気にもなり老いて人の世話になるばかりだら価値がないのか、それは障害者が価値がないのと似ている
そこに費やされるエネルギーも膨大だからである、だから障害者も始末しろとなる、障害者と老人は似ている、優生学だとどちらも社会の負担であり抹殺しろともなる

ただ老人の場あいはいろいろな人がいるから一緒くたにはてきない、老人でも価値がある人はいるからである
別に若者より価値がある人はそれなりにいる。みんな価値がないものではないのである。若者だからすべて価値あるものとは言えない、でも若者は価値ある人間になれる、それが違っているだけである、老人になれば価値を作りだした人でありその価値が評価されるのである、若者はまだ価値を作りだしていない、未完の大器としても見られるから価値があるとなる
今は価値を作りだせなくても未来に価値を作りだすものとして価値があるとなる
そのことで一番感じたことが原発事故の復興である。60代の人が来てもすぐ70とかなる。すると未来が望めない
若人が来れば長い時間で達成できることがある、ただその時間があることで未来があるとなる
老人になると何か花の木を植えても花が咲くまで時間が十年とかかかるとなるとその前に死んでいるともなり長期的に見れない
今花が咲くの見たいとなるからだ。だから投資に向いていない、投資は長い先を見ればもうかる。
投資とは株だけではな長い先を見て投資すると成功することがあるからである。
60代の人が来てもやがて介護になったら誰が世話するのかとなりただ重荷になるだけにもなるからである。
でもそういう年の人が移住しているのが多いのである

確かなことは老人が少なければこうはならなかった、数が多いということは価値が減退するのである
長生きした人は昔ならそれだけでも価値があった、みんな長く生きないから長く生きているだけで価値があったとなる
だから価値ある老人になるためにはどうすべきかが高齢化社会では問題になる、必ずしも金を残した人が価値があるともならない
ただ金があればその金に人は寄ってくる、それはあくまでも金が目的であり金の価値でありその人自身の価値ではない
その人自身の価値とはその人が人生の中で作りだしたものである
芸術家だったら作品があり作品によって評価されるとなる

とにかく今老人の価値が問われている、国家予算でも老人に費やされる割合が多くなりすぎたからそうなる
なぜ老人福祉に金をそんなに使うのか若者に子どもにも使うべきだとなる、全部ではないにしろ無用な価値無い老人に国家の金を使っても無駄となる、そんな余裕はないともなる

老人に金を使っても無駄というとき結局将来性がないからだとなる。若者だったら例えどんな若者でも未来を嘱望されるからである
老人の価値はこれまで生きて作りだしたものに価値がある
だから意外と老人の価値は明らかになり安い、子供とか青年はこれから何になるかわからない、大物になるかもしれないし泡沫のように消えてゆくかもしれない、それは未知なものとして価値があるとなる、成長するものとして価値があるとなる

でも若者でもみんな価値ある人間になるとは限らないのである
だから老人が尊ばれるとかなるとやはり老人になってからでは遅いのである、その前に価値あるものを作り出して価値ある人間となっていなければならない、老人になっただけでは馬齢を重ねるだけであり価値ある人間にはならないのである
それで高齢化社会ではいかに価値ある人間となり老人となるかが問題になる、会社とか組織とか団体は集団しての価値でありそれはその価値は全体にある、会社員だったら全体の会社の価値を高めるために働いていた、でも退職すると大企業の社長でも一介の庶民にもなる

退職すると個々人の価値が示さないと価値ないものともなる
個々人の価値となると芸術家などはそういうことを追及してきたから老人になって継続してその価値を示せる
でも会社であれ組織であれ集団的に価値を追求してきた人は一旦退職したら価値なきものともなる
それで価値ある老人になるには若い時から準備していいかねばならないとなる。あることに詳しいとなれば素人でも学者になるとかある、集団的組織的価値ばかり追求しているとその老人は価値がないとされる

発達障害の人がスマホとかタブレットはできる、でもそれを自慢はできない、それができたからといって価値ある人間にはならないのである、もし私のようにパソコンでいろいろ創作したものを発表すれば価値あるとなる
スマホを操作できても価値ある人間にはなれない、プログラムでもできれば違うが別にスマホを操作できるから価値ある人間とは認められないのである
ただ価値が多様化するから何か価値あるものを発見したり創りだすことが要求されていることは確かなのである
ある一分野でもマイナーなものでもそこを追及して第一人者になれば価値ある人間ともされる。ただそれで金になるとはならない
趣味の世界ではそうである、老人の趣味で花に興味を持ちクリスマスローズに詳しい人がいた、その花だけでも栽培して詳しくなれば価値があると花の分野で地域でも認められるとなる価値あるものとされることはある
人間の価値と金は等しくならない、莫大な金になっても価値がないもみられるし金にならなくても価値があるとされるものもある