2023年03月19日

春彼岸−墓の役割(白菊の花ー寒さ戻る―雪残る山)


春彼岸−墓の役割(白菊の花ー寒さ戻る―雪残る山)

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フラワーアレンジメントとでも写真で見ても花は何か違う
花でも本当に生け花であり生きた花を実際にこの目で見ない限りわからない
だから写真で見ても花に感動しないのである
自分の目で直接見ない限り分からない感じないことがある
そこにバ―チャルな世界の限界がある





今朝みれば山に残れる雪見えて寒さ戻りのみちのくの春
我が一人残りて彼岸や近くなる墓に花挿す春の日さして

 白菊

静心白菊の今日も見るかな
塵もつかずに清楚に白し
その花を日々我が部屋に見て
我が心鏡となりて映しぬ
遺影は花の陰にし微笑みぬ

ここ何日か寒い。それまでかなり温かくなっていたから戸惑った。今朝山の方見たら雪が残っていた。今頃雪が山に残っていたのか。山は雪が降ったらしい。この辺は山の方は飯館村なのである。そこは標高が高く冬は寒く夏はは涼しいのである。

今日は日曜日であり春彼岸で墓参りに来る人いて花が挿されていた。
私も花を買ってきて家に飾りまた墓地に挿した。墓と家の中に挿す飾る花の相違は何か。
それは家の中にさすときは長い間その花を見ている。墓に挿した花はそんなに見ないのである。花というのは長い間見てるとその花が心に映り花のことが分かるのである。
墓地に挿した花は近くにあってもただ通り過ぎてゆくだけなのである。そして近くでも春彼岸とか秋彼岸とかにしか挿さない。だから墓というのは近くでも身近にならない。家の中に仏壇が無いにしろ家を飾り花を挿しているとそれは常に身近なものとしてある。
ただ墓地の墓の役割は何なのか

ある人が私の家の墓に花を挿してくれていた。でもそれは長くは続かなかった。今はさしていない。墓の役割としてそれは死んでからも長く続くものとしてある。
人間は死後も関係が切れるわけではない。死後もその人を思ってる人は本当にその人を思っているのであり愛しているともなる
なぜなら人間は忘れやすいからである。だから死んだ時点で人は忘れられてゆく。だから墓の役割としては死んだ人をすぐに忘れない。年に春彼岸とか秋彼岸でも死んだ人を思い出して供養する

それは家の中でもできるのだが墓になると家がなくなっても存在しずし続けることがある。人間最後に残るのは墓だけだともなる。なぜなら家でも空き家化したり消失してゆくからである
でも今の時代墓すら維持できなくなっている
子供たちでも故郷に住まず離れてしまった人が多いからである。
それで墓じまいをするようになったのである。
私の墓でも墓参りしているのは自分だけだからである
ただ奇妙なのは世話になった女性の粗末な墓を作った、それは石を置いただけだともなる。その息子は不詳の息子であり最近死んだ,金もなく墓はあっても母親が死んでも墓に名前も刻まなかった。その母親は情の篤いいい母親であり父親も真面目な人だったのである。
おそらくその人の墓参りする人もいないかもしれない、息子は若くして自殺したからである。
ということは自分だけがその女性を偲んで墓参りしているともなる。だから血縁だけが必ずしも持続する関係とならない、他人でもでもかえって深い関係にもなる。

いずれにしろ人間の関係もたとえ親子でも死んでしまえば続かない。そこに人間の無常がある。この世の人間の関係は一時的なものに過ぎない。それは親子でもそうなのである。
人間の出会いは振り返れば本当に一瞬だったと思うなる。
そして一瞬出会って永遠に会わないというのも不思議である。
対外人間が会うしても金の切れ目が縁の切れ目なのである。
この世の出会いとはそれだけ儚いものだったのである
先祖代々とか村でも継続していた関係でも現代では広域化具グローバル化で空間の拡大で失われてきたのである
原発事故で一挙に江戸時代からでもその前からで続いてきた村でも町でも廃墟化したことに驚いたからである。

とにかく霊前には墓には白菊があっている。その花は清楚であり心清める花である。それを家の中にさして見ているとおのずと心が鏡となり映るのである。
ただ心が濁り曇るとその花も映らないのである。

白菊の目に立て見る塵もなし  芭蕉

白菊というのはやはり一番家に死者に捧げる花としてふさわしい
それにしても春寒しとかなり寒さは戻った。
これまでは春霞になり梅も咲いて匂っていた、だから春らしい気分になった。

春霞里山
共老昔語
梅処々匂
長寿和楽

こんな感じだった。
日本の気候は変わりやすい。それで四季の変化はあれ俳句も生まれたのである。天候が絶えず変わっているからである句点その変化の中で時間軸の中で日本の文化が作られてきたといえる。
日本は島国であり狭い空間に閉ざされていたが時間軸で見れば季節の変化があり式が明確にありその変化で狭い空間でも単調にならないということはあった。
日本人は時間軸で生きているというとき先祖お大事にするという時もそうである。それは狭い村という中でおのずと生まれたはぐくまれた世界観なのである。
それは大陸のようにどこまでも広い空間塾で生きている人たちとは違った世界観をもったのである。