2023年03月30日

自己責任とは何なのかーなぜ他者を常に責めるのか (全ての人が自己責任があるとはならない)


自己責任とは何なのかーなぜ他者を常に責めるのか

(全ての人が自己責任があるとはならない)

全ての人が自己責任を負うことはできない。 その人は他者に対して厳しい。 そして他者を責める。 でもその人自身をといえばやはり何かしら瑕疵があり自己責任がある。 その人が今貧乏なのはまともに生活してこなかったからだとしている。 でも本当にそうなのかと言うとそうともならない。
別に会社でも働いていたからである。 ただ離婚を二回していてそれが貧乏の原因になったかもしれない。
何かその人は他者を責めるが自らも自己責任になっている。
離婚したのも熟年離婚したのやはり自己責任になる。 その人に責任がありそうなった。 何か常に他者の責任を言うが自分自身の責任は蔑ろにしているのである。 多分自分の責任を自覚できないのだろう。
まこの辺でわ原発事故でかなりの補償金をもらった。 その金でも高級な車を買ったりいろいろと浪費していた人もいる。
それでその補償金もなくなってしまった人もいる。 その人にもそういうことがあった。 他にも今金がないというときやはり無駄なことに使ってしまってそうなった人もいる。
だから他者を責めるというのは問題である。

そもそも人間は自己責任だとして突き放すことは簡単にできない。 なぜならあらゆる人の人生をどう生きたかなどわからないからである。 そして自己責任をとして片付けることはできないのである。
生まれた時からどの家に育つとかどの場所で暮らすとかどんな親に生まれて育てられるとかみんな違っているからである。
人間は一番自分のことが見えないわからないのである。 そのために常に他者を責めるのである。 必ず何かしら自己責任はある。 だから他者をそんなに責めることとができるのかとなる。 補償金でもそれを高価な車とか遊びに使って金がないからもっと補償金をくれとかにもなる。
もちろん要求する権利はあるし別にそのお金を浪費しなければいいのである。

とにかく自分にしても自分のことがよくわからない。 確かなことは自分は相当に恵まれていたことはわかる。 別に働かなくても暮らすことができたからである。 その時ほかの人は額に汗して働き子供を育て苦労していたともなる。
だからそれは自己責任であり今お前が苦労して責められるのは当然だとなる
でも本当にみんなが自己責任なのかとなるとならない。
金がないのも自己責任なのかとなるとそうでもない
別に金持ちの家に生まれれば無理して働くこともないのである。
ただそうしていると後で苦しむことがあり楽だと思ったことは苦しみに変るのである。

楽は苦の種苦は楽の種

人生とはどこかで辻褄が合うとかなる。 一生楽で終わる人もなくまた一生苦で終わる人もいないとかなる
何かそこに神の働きがあり公平なのかもしれない
だから自分のことはさておいて他者に対して自己責任を問うことは本当はできない。 他者に責任を問う人間がもう実は自己責任を問われてもいるからである。 そういう行為をしていてそれがカルマとなって現れてくるからである。
だから貧乏だからといってそれが全部は自己責任はにはならない

要するに何か人間には運が作用しているのである。 別に大した努力がしなくても金が入る人もいるしいくら努力しても金持ちになれない人はいくらでもいる。
だからこの世は理不尽でありいくら自己責任を言っても自己責任にはならないのである。
そもそもそうして他者を責める人間は必ずまた責められるべきところがある。 それが人間なのである。
なぜなら完璧な人間などこの世にいないからである。 何かしら欠けていて過ちも犯すし無駄な消費もするし完璧な人間などいないからである

人をさばくな。 自分がさばかれないためである。

7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量りが与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
兄弟の目に入ったゴミを取り除こうとする者が、自分の目にずっと大きいゴミが入っている、という構図は、兄弟を規制しようとする者はしばしばより深刻な暗愚と偽善に陥っているということを

人を裁く事もそうである。 人を裁くことは姦淫した女性に対して罪なき者は打てといったキリストのようにその時誰も石を投げて打つこともできなかったのである。
これもその責任を問う人たちがみんな罪の責任を問われたのである。 だから他者の自己責任をいう人は自らの責任も知覚できないのである。 人間はとにかく自分自身の事を知らないのである。
だからこそソクラテスは汝自身を知れとなったのである。
確かに人間には必ず責められるべきところがある。 でも自分自身にしても責められるべきところがある。 ただそれを自覚できないのである。 自分は正しい自分はまともに生活してきたと思っている。 でも本当にそうなのかとなるとそうでもないのである。
もちろんふしだらな人はいるし責められるべき人はいくらでもいる。 でもまたその責める本人も何かしら必ず責められるところがある。

いづれにしろその人が金持ちであり貧乏であるとかいうのもみんな自己責任にはならない。 なぜなら人間はいくら努力しても働いても依然として金持ちにならない人などありふれているからである。
ただ親の遺産が天から降ってきたようにそれで金持ちになっている人もいるのである。 多分にその一人に自分も入っているともなる。 でも私は何かぜいたくなどしていない。 旅をしたとしても最低の金しか使っていない。 それは見聞を広める実地の勉強だったと思う
人間の運命は不可解でありいちいち自己責任をみんなに問いないのである。 そのためにカルマ論が生まれたのである。
それは前世の行いが良い悪いで今世の生活の良し悪しも決まるとなるように考えた
それは人間の個々の運命が不可解だからである。 そのためにカルマ論が生まれたのである。

ある女性は異常なほどに前の市長こきおろし非難していたのである。 その女性がそんなに言えるのかとなるとそんな女性でもないのである。 民主主義の利点と決定はある。 欠点は誰でも発言して非難していい。 でもそれが度が過ぎるのである。
何の根拠もなしに責めてくるしどんな人でもどんな低級な人でも人でも攻めてくる。 誰でも難癖をつけて何かを言うことが出来るからである。 そして何かをなんでもいいから相手をけなしてそれで水平化して平等になる。 俺とお前は同じだとなる。
何か尊いものでも簡単に否定するのである。 特にSNSではそうなりやすい。 そこには深い議論が成り立ちにくいのである。。
だから自分自身でも今は忙しくて答えられない対話していないのである。 ただヤフーニュースとかほかのまともなことを経験からなど言っている人はプログで応答して自分なりの発言をしているのである。

それも問題があるにしろただ難癖をつけるとかそういうものが多いからそうなったのである。
民主主義とは結局あらゆる人が対等になり何かそこに偉い人はもういない認めない社会である。 認めるのは例えばカルトの教祖がいたとしたらその教祖を認めるのはそこに巨大な組織があり人が従っているから権力を持っているから従うだけなのである。
だから民主主義では優れた人は認めないのである。
水平化されて誰も大衆は尊敬したりはしない
大衆は権力を持ったらその組織を教祖を恐れるのである
だからもうそうした大衆を相手にすることが優れた人が拒否するようになってしまう。 それでキケルゴールであれニーチェであれ相手は何かを高いモラルとか真善美を求めているわけでもない。
ただ相手をけなして喜び俺とお前は同じだと言うことが言いたいのでありその人の中身など何もなくてもいいのである

とにかく相手にケチをつけてけなしそれで喜び俺とお前は同じだとなるのである。 もちろん真剣に真善美を永遠の命を求める人はいる。 でもそれは極少数なのである。 だから真剣に取り合うということは簡単にできない、時間の無駄となるからである。
何か困りごとでも相談にのれるのは数人なのである。
そもそも日本が貧困になったとしてもそんなこと簡単に解決できないのである。 それを政府でも政党でもカルト教団でも簡単に解決できないのである。
結局南無阿弥陀仏であれひたすら唱えて極楽浄土に行くこと願いとなるだけである。 幹部はその布施をいただくだけだとなる。
来世にこそ極楽浄土がありいつの世もこの世は地獄だったのである。

結局民主主義とは何を言ってもいいです

その答えはあなたが出しなさい

最終的に答えるのはあなた自身です

こうなる社会である、そして大衆ファシズムにもなる社会である。 
それは歴史が証明しているからである

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リホーム終わる(花曇り、枝垂れ桜、大工の技、、、、

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原町の道の駅の隣の集会所



花冷えや病み上がりの老女来る
花曇り高齢化社会未来なし
病院や誰か入院す花曇り
花の咲く技を見せたる大工かな
花満開熟練の技大工かな
明るくも枝垂れ桜や乙女かな
孫連れてパンジー映えぬ川の道

原町の郊外に出て田畑かな雲雀さえずり海に向き行く

今日は山の方は曇っていたが原町の方に行った。
何か桜も満開になったが花曇でありまだ寒くぱっとしない。
その花曇りが時代を象徴している。高齢化社会が花曇りなのである。何かぱっとしない。未来が見えない。花が咲かないのである。
また老人が病気になる人が多い。脳梗塞になりやっと歩いてきた老女がそうである。ただ老女にしてもまだ72歳なのである。
でも老人は年の通りではない。同じ歳でも十歳くらい差がある。その人は病気になってさらに老けてしまったのである。もともと苦労していて老けていたのに老けてしまったのである。

原町の道の駅の公園にある集会場にしだれ桜が咲いていた。それは明るく何か憂いがない。若い女性のようである。
でも枝垂れ桜でも濃い愁いに満ちたようなものもある。同じ枝垂れ桜でもいろいろある。
それから海の方に向かって行った。雲雀が鳴いていて太平洋が広がり波が打ち寄せる。それがこの辺の風景である
家に帰ったら大工さんが仕事していた。今日で仕事が終わる。大工さんはその技を見せて仕事に精を出す時生き生きしている。
やはり週に二回ほど流れ作業のようなことをしたがそれをやめたことがわかる

大工の仕事をしているときはやはりそれが天職でありやる気が違う。人間は何でも金でやれるものではない。いくら金をもらってもやりたくない仕事をやらせられるのは苦痛になる
その人は長年大工をして技を磨いてきたのである。だからその技を見せることに価値があるのである。その他の仕事は必ずしも金にはなっても価値にはならないのである。
でも金にならない仕事は誰しもやりたくないのである。その辺が必ず矛盾してくる。また人は金のためにだけ働きたくないということがある。例えば何か金があったとしてもその人があくどいことで金儲けしたりしていたらその人のために働くということが気が進まないということもある。

ただ現代の資本主義社会は金が価値でありその人がどんな人であれ金をもっていれば金を支払えばその人のために働くとなる。
でももし金に余裕があればそういう人のためにも働かないし何か自分の技を示すにもしたくないとなる。つまり金出はなくその人を見て働くともなる。
そうなるといちいち面倒になるから金で全てが価値づけられて働く働かされるともなる。
ともかく働くということは金のためだけではないそれは確かである。他人の庭の草むしりをするだけでもやはりその人に家に尽くすとなりただ金をもらえばいいともならないのである。
家を作る家を修理する家をリフォームする庭を作る庭を掃除する草をむしるそういう仕事でもその家と人とに係るのである
だから働くということは単に金を得るというだけではないのである。でも現実はすべてが金のためというふうになってしまったのである。だから人とか何のためとか考えない。それをいちいち考えたら仕事にもならないからである。

ともかく仕事もしない無職でもあった自分が言うのはなんだが働くということが人間には必要である。
それはただ金をもらうために金のためだけではないからである。
だから人間はベーシックインカムとか働かなくても良いといってもそれで済むことはない。そうなった時生きがいもなく何のために生きているかもわからなくなるし価値のない人間になってしまうのである。
そして何かしら働かない人は社会も分からないし何が価値あるのかも実感できないのである。

ただ現代はあまりにも多様な職業と仕事が分化して分裂してそこで人間のアトム化して騒音の総合の総合的連関を感じなくなったのである。
とにかく一応リフォームは終わった。自分も大工さんと補助とかして働いたのである。お茶とかお菓子とか買ってきて出すことも
働くことでありただ金を出すというだけではない自らもサービスしたのである。ただ金を出すというのではなく自らが大工さんにサービスしたのである。
それは金だけではないそこに自分の家を直してくれたということで感謝の気持ちでそうしたのである。
でも今は大工さんにしろそんなことをしないこともある。大工さんでも別に食事でもして店で食べたいものを買いばいいとなるからである。
ともかくこうして大工さんの補助役としてまたお茶を出すサービスをしたのである。それも一つの経験となったのである。
ただ正直口は悪い大工さんなので疲れたのである。