2023年04月06日

北泉の津波の犠牲者の石碑を見る (金沢の地名の由来ー古代の製鉄に関係していたのか)


北泉の津波の犠牲者の石碑を見る

(金沢の地名の由来ー古代の製鉄に関係していたのか)


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星ヤスという女性の孫が星勝(まさる)である。89歳となるとそうなる
鈴木氏と語ったが親戚がいてここで死んだ言っている

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前田は草分けとなる家でありここでは高台になっているのは下は入江になっていたからである
入江になっていれば海の魚が入ってくるから取りやすかったとなる
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北泉から金沢へ行く。そこで津波の被害にあった人の記念碑を見ている人がいたので花を捧げている人がいたので聞いてみた。
その人はこの地域に住んでいた人である。その親戚の人も津波で死んだという。鈴木という人でありその親戚の人が死んだのである。
ここの悲劇は消防隊の人と区長が死んだことである。その人たちは住民を見守る人でありそのために安否を気遣いそれで逃げ遅れて死んだのかもしれない
その死んだ人の家を家があったところ教えてくれた。
孫が消防隊員でありここに住んでいたので役目柄見守り役となっていたから津波に巻き込まれて死んだとなる。
消防隊員だからそれは殉職になったのである、ただ消防消防署に勤める人ではなかった
地域の消防隊員であり正式の消防隊員を支える人でもあった。

とにかく消防隊員も津波でこうして死んだ人がいた。
それはどうしても自ら逃げるというより人を助けることが優先されたために犠牲になったとなる。
だから殉職になったのである。
それも40歳代だから若かったとなる。津波で死んだ人は老人が多かった。もともと地方は老人が多かったからである。
地方では40歳代は相当に若い。農業でも60代以上であり70歳でもしている。消防は若い人でないとできない。でもその若い人が減少しているからいろいろなもの祭りでも後継者でもいなくなっているのである。

ここで海の魚をとっていたという。でも港はなかった。船を直接海に出していたのかもしれない。火力発電所は無いときは私は金沢によく行っていたのである。その時烏崎から金沢の海岸まで砂浜が続いていたのである。それが火力発電所でなくなったのである。金沢にも松原がありその松は太いものでありキャンプ場にもなっていたのである。
しかしその松原も津波で根こそぎ流され何もなくなったのである
その時金沢の田に海の水が入ってきて大量のボラが泳いでいたのである。それはもともとここは入江のようになっていたからである。その入江になっていれば魚も入ってきて魚もとっていたとなる。
でも金沢は元禄時代頃に入江を田たにしていたのである。だから意外と早く田になっていたとも見る。
その理由は狭いからだったかもしれない、八沢浦のように広いと簡単に埋め立てはできない、そこは明治以降に埋め立てて田にしたのである。

となるとここはなぜそんなに早く田になっていたのかとなる
今ある火力発電所では古代に製鉄が大規模に行われていた。
そのために金沢という地名になったのかもしれない。
金属の滓が流れてくるので金沢となった。
それそれは古代でありたができたのは元禄でも江戸時代なのである。でも地名は古代に名づけられたのが多いからやはり製鉄が行われていてその金屑とかが流れる沢であり金沢となった。

ともかく北泉の低い部分を家がなくなった。二軒残っているがそれは古い家ではない。社のある流された家のあるところが古いのかもしれない。
近くに延命地蔵の社がありそれは江戸時代のものだからここでも古いのである。
そしてここは泉氏が勢力をもっていて相馬氏と対抗したのである。なぜなら古代から泉があり酒になったとかの伝説があり長者伝説があるからである。
なにかしら財を成すものがあり相馬氏に対抗する力を持ったのである。そして西殿の地名がある所は相馬氏が支配した地域であり
そこから牛越城が見えるのである。つまりその位置が重要なのである。なんらかでそこに城を移す理由があったからである。
それは泉氏が強い勢力を持っていたからだともなる。



相馬藩の牛越城移転で泉氏が人夫徴発に不満で火を放つhttp://musubu2.sblo.jp/article/99970929.html


posted by 天華 at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

鹿島駅で運輸省に入った人と話す (国会議員の斎藤邦彦のコネで入れたという)

鹿島駅で運輸省に入った人と話す

(国会議員の斎藤邦彦のコネで入れたという)

鹿島駅で上真野の人がいて話しした。
その人は運輸省に入り仕事していたという。
国鉄のことを盛んに言っていたからその関係の仕事をしていたのだろう。
でもその人は国鉄のことを盛んに言って社会党を支持していた。社会党は国鉄があって政党として成り立っていた時代があった。でも鉄道が衰退して民営化されて国鉄の時代は終わった。国鉄関係で働く人が地方でも多かった。
今の駅の前に国鉄の官舎があり小学校の同級生にそういう人がいたのである。国鉄というのは他にも近くで線路工夫をしていたり勤めている人が多かったのである。国鉄一家ともなっていたのである。
それは鉄道が運輸を担っていたからである。
それも車時代になると輸送でも車に変わってしまって衰退したのである。

その人はなぜ運輸省に入ることができたのかそれはその人が優秀だったからではない。その時斎藤邦吉が国会議員であり大臣にもなったからその人に100万とか裏金を包んで出して入ることができたという。その人を見れば確かにそう思う。
とても運輸省になど入れる人に見えなかったからである。
今77歳にしてもすでに80以上であり85くらいにも見える。もう70歳上くらいになると歳では計れない、見た感じでも十歳くらい違っているからである。
とにかく老人になって故郷に帰る人が結構いる。前にも会ったことがある。それがわかるのはしゃべることが東京弁であり標準語をきれいにしゃべるからである。訛りは確かに国の手形なのである。
前にあった人は埼玉の方にも住んでいて関東地方転々としていたから訛りはいろいろと重なっていたのである。
だから訛りは隠せないのである。訛からその国のことが分かるのである。

駅だと何かこうして前もそうだったが一人二人くらいしかいないので話すことがある。でも高速道路のSAはよそからから来た人と語ることなど無いのである。
だから外の人と話しないからどういう人が来ているのかわからないのである。そしてあまり待つということがないのでしゃべることもないのである。
ただ最近は駅で話すこともなかった。ボランティアで案内していたが警察が来て怪しいとされ職務質問されてからは行かなくなったのである。

今日は久しぶりに人がいたので入ってみたらその人は私に向かって話しかけたので話したのである。
話が通じるのはやはり同世代だからである。でもその人がどうしても運輸省などにはいれる人とは見えなかったのである。
その人自身が運輸省にははいれないと思ったが斎藤邦吉の口ききで入ったと言っていた。そういうことが就職を斡旋することが金としてやる仕事にもなっていたということがわかる。
今でもそういうことがあるかもしれない。政治だとやはり利権の
関わりでそうなりやすいのである。
ともかく国鉄があったとき社会党が力を持ち結果的に国鉄が民営化するときでもかなりのお金を辞めた人にももらえたのである。それはまだ社会党が力を持っていたからである。

今は国鉄はなく農業もう衰退した時農協も力を持っていたが今はない。票田として農家があったが今は農家も少ないから表になり得ない。
それで公明党とか創価の力を借りて自民党は生きながらえているのである。統一教会問題もそこから起きていたのである。
このように政治は利権でありその利権団体でも時代で変わるから支持する組織団体も変わる。いずれは創価も衰退しているから頼りにならなくなる。すると次の頼りになる票になるものを組織団体でも探さねばならなくなる。

いずれにしろ国鉄の時代は社会党が力があり社会党の政治家が国会で常に質問して自民党を攻めていたことを思い出す。
今は野党でも何か能力に欠けている。自民党攻めるにしても何か強力ではないのである。社会党も万年野党だったがそれなりに自民党強く攻撃していたことを思い出すのである。
それは国鉄が鉄道が国の運用にない大きな力を持っていたからなのである

とにかく東京で暮らした人も結構故郷に帰ってきている。でも老人であり働くわけではない、つまり東京から地方に帰るのは老人である。若者は地方に来ないのである。だからこれでは地方の活性化にならない、むしろ病気になり介護になる割合が高くなり地方ではより高齢化社会になる。飯館村にしても一割なのか二割なのか入って来た人たちは年配のひとである。
その人たちは郵便配達とかで働いている。でも50以上とかなりいずれは老いてゆく、するとどうしても介護とかで世話になる方になるから問題なのである。先を長くみれないので困るのである。またその人たちは子供もいないし未来を担うことができないのである。ただそれはここだけの問題ではない、日本全体の問題であるがここでは原発事故で津波の被害でも極端なものとして現実化したのである。

あざみの抽象画(abstract thistles)


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あざみの抽象画

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抽象画でも必ず具象画をイメージしている。不思議なのは具象画から抽象画はイメージできない。
このあざみの抽象画でも別にイメージするものがあるがアザミだとしてイメージすると鑑賞できる。
抽象画が無数に作られるのはインターネットに無数にその素材となるものがあるためである。。
ただそれをソフトで変化させているだけだからである。
それで常に著作権違反になっているかもしれないのである。
特に抽象画家からさらに抽象画に変化させることがしやすい。
それは無限にも変化しやすいのである。
だからいくらでも抽象画は作られるのである。それはパソコンが生まれてできた芸術なのである。

Even abstract paintings are always inspired by figurative paintings. The strange thing is that you cannot imagine an abstract painting from a figurative painting.
In the abstract painting of this thistle, there is another image, but if you imagine it as a thistle, you can appreciate it.
The reason why countless abstract paintings are created is because there are countless materials for them on the Internet.
The reason for this is that there are countless sources on the Internet that can be used to create abstract paintings, only to have them altered by software.
This may always be a violation of copyright.
It is especially easy to transform an abstract painter into an even more abstract painting.
It is easy to change it infinitely.
Therefore, abstract paintings can be created as much as possible. It is an art form created by the birth of the personal computer.

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)