2023年04月20日

大人になっても知的興味を持ち遊べる人に (退職者またはブルカラーの老後の生きがい喪失)


大人になっても知的興味を持ち遊べる人に

(退職者またはブルカラーの老後の生きがい喪失)

●退職すると生きがいを失う問題

精神科では、今まで仕事が生きがいだった人が、定年退職を迎え、何もすることがなくなり、アルコール依存症になったり、認知症になったりするケースは非常に多いです。仕事をリタイアしても、別のことを見つけて体や脳を使うことが大事です」

高齢化社会の問題はいろいろある。経済的に苦しいというのが一番の問題である。でもその他にどうして老後を過ごすのか
退職すると何かすることもなく生きがいを喪失する。
会社のように仲間もいなくなる。でも地域社会で何か認められるかというと認められない。昔のような村社会ではない。農民社会ではない。だから会社が一番のアイデンティティの場所だった
それから切り離されることは自分のアイデンティティーの場所を仲間でも失うことになる。そして60くらいで退職してもその先が長いのである。昔なら60代くらいで死んでいたから何をするかなど考える必要もなかった。その前に死んでいたからである。

つまり高齢化社会とは人生が会社人生であり仕事人生があるがもう一つ第3の人生がある。それは長い老後は生まれたと言う事である。その用意もされていないのである。
特に肉体系のブルーカラー系統は仕事を辞めるともののけの殻のようになってしまう。頭を使う活動をしてきていないからである。
だからといってその人が知的に劣っているとは思えない。なぜなら大工であり庭師である人はその方面で知識的に詳しいからである。ただ問題はその知識が確実に実用的なものであり金を稼ぐということと結びついている。
それで金にならないものはしない無駄だとなる。
その人は肉体労働者でもいろいろな知識を持っている。ただ違うのはそれは実用的なものであり金を稼げるものとしての知識なのである。だから金にならないものはやらないし無駄だとなる。

●スコーレ(学校ー暇)の意味を問う

でも高齢化社会で金の問題と同時にどうして余暇を充実して過ごすかということが結構大きな問題となっている。
ただその人は熟年離婚して意気消沈してしまった。何か常に妻と共にあり仕事もしていたしそれでこのような問題はお来ていなかった。話し相手もいたし共同する人もいたからである。
でも妻が死んだり離婚したりした人は近くでも一人でいられない。寂しいから話し相手になってくれと近くの親しい女性に毎日のように電話をしてくる。でもその女性は病気になったり金もくれないケチだとしてその男性の家にも行かなくなった。ただ不思議なのは電話のやり取りだけは依然としているのである。でもその男性の家に行くことはないのである。
金もないことも大問題だがこの老後の長い時間どう過ごすか充実して過ごせるのかとなる。
人間の問題としてもともと暇がありその時間をどういうふうに過ごすかは歴史的にもあった。ローマ帝国はパンとサーカスになった。大衆は暇を持て余してそうなったのである。
残酷な剣闘士の戦いも見世物になったのである。それは気晴らしであれ暇つぶしでもあった。スポーツの語源はそもそも気晴らしでもあったからである。

そしてなぜ学問が生まれたのか。学校という言葉がスクールはスコーレ(暇)の語源になっていることでもわかる
人間が労働ばかりするのではなく暇が生まれた時そこに学問も芸術でも生まれたとなる。学校とはスクールで暇な人がいかに暇を有効に利用することは学ぶ場だったとにもなったということにもなる。
でも今の学校はそういうものではない。実業の学校であり試験勉強のための学校であり暇を生かす学校になっていない。
そこでは常に競争に追われむしろ自由な暇な時間など持てないのである。ただ不思議なのは大学に入ると文系は特に遊びになっていたということがある。それで暇を持て余して何もすることがなく学生運動とか麻雀とかギャンブルに興じて大学を終わった人もいる。それも実は暇を有効に生かせないためにそうなったのである。大学四年間は自由時間でありまさにスコーレの時間だったのである。
遊ぶという時ギャンブルのようなものではなく自由な旅をしたりその人なりの知的探索をしたりとすることはあった。

●高齢化社会は若い時からの教育でも見直すべき

老後でもやはり再びスコーレの時間にが与えられたともなる。
遊びの時間が与えられたともなる。でもそれを有効に活かせない。しきりに私にどうしていいかなどと問われても答えられない。その人は仕事一筋に生きてきた人だからである。それは肉体労働系でわ知的探求というものをしていないから暇になってどうしていいか分からなくなっているとなる
でもその人が知的に劣っているとは言えない。これまでしてきた仕事には知識には詳しいしそれは実用的であり金を稼ぐ者として身につけてきたのである。
でもそこに足りないものはスコーレどうしてまだ遊びとして生きることができないことである。子供ならその全体が利益を得るためでなく遊びとしてあるあった。でも大人になれば常に利益が優先され金から一瞬たりとも離れられないとまでなっている。金にならないことは無用なことであり無駄なことであり価値のないことでありそんなことをしても何になるのかとなる

しかし老後に必要なのは逆にこのスコーレをいかに生かすかまたは遊びをすることが大事になる。遊びには趣味もある。趣味でもカメラなどまいからやってる人は老後でも継続するから充実した時間を過ごせるとなる
とにかく高齢化社会の問題に対処することはうまく出来ていない。その理由は人間というものをただ働くこと金を稼ぐことそのことばかりに価値を置きすぎたためでもある
もっとスコーレを活かす遊びを生かす人生を価値あるものとすべきともなる。ただこれを受け入れることは簡単にはできない。遊んで暮らせるのかとかなり反発されるからである
そんな余裕もないという老人も多い。でもまたやはりスコーレを持て余す老人も多いのである。遊びとは遊ばせれとるとか神聖なものとしてもともとあった。遊びに金が絡んだり利益が絡むと本来の遊ぶこと聖なるもの遊びが汚されるて失われるのである。
チンパンジーが数遊びに熱中していたが褒美としてバナナをやったらそのバナナを得ることに関心が向けられ数遊びに熱中しなかったということもそうである。褒美のために遊びをするということは本来の目的が弱められるのである。

●生きがい喪失が認知症になる怖さ

私の家族で2人の女性を親とも言える人を見ていた。一人は公務員を退職してから何もする気がなくなった。怠け者になりテレビを見ているくらいだった。趣味のようなことをちょっとやっていたがそもそもそれは会っていないものだった。才能もなかったのである。ただ付き合いでしていたみたいである。
もう一人のの親はクソ真面目であり花などいらないといい豆を庭に植えるといっていた。これも異常でありその理由がやはり若い時から働き詰めであり何か金を稼ぐ以外のことを無駄なものとして育てられたためである。それには同情するがやはり人間として異常だったとも見る。
でも不思議なのはこうしては何も金を稼ぐとか働くこと以外関心もない女性が94歳頃まで台所で家事をしてきたそして百歳で死んだのである。95歳ころから認知症になった

もうひとりの親は83歳頃ひどい認知症になり死んだ。それは悲惨なことだった。その理由の一つが明らかに公務員を退職してから何もする気がなくなった。
それが大きな影響があったことは確かである。
家での生きがいもないただ漠然と呆然と生を伸ばしていただけだったのかもしれない。この2人の親の対照的に見るときいかに認知症というのはその原因がやはり家の中であれ役割を失い生きがいを失う時に起きてくるのかもしれない。
嫁が姑に何もしないでいいですからテレビでも見てくださいと言われるとボケてしまうというのも本当だと思う
一見優しいようでもそれは人間をボケさせる認知症にさせるものでもあった。人間には男性にしろ女性にしろやはり役割を持ち生きがいを持ち生きることが必要だからである

●大人になっても遊べる人になるべき

子供の時は遊ぶ仲間をさがしていた
そこに利益を求めない
ただ純粋に遊びたいだけ
大人になると人間関係にすべて金が介在する
金なしではなにも動かない
遊ぶことでも金が介在する
死ぬまで金から解放されない
それで純粋に子供のように遊びたい
でもそんな人はもういない
遊びとは無心だからできる
功利的なものはそこにない
子供は無邪気に満面笑い遊ぶ
その時幸せだった
その日はもうかえってこない、、、、

大人になっても遊ぶことはできる。遊行聖とか雲水とか自由な旅をした、風のように雲のように自由にいずことなく旅をする、そういうことに憧れる、一方で宗教でもひたすら真面目に働くことが奨励された。その方が一般的である。
キリスト教でも勤勉の宗教だからである。禅宗でも一日成さずば食わずとかありやはり人間はそもそも働かねば食料も得られないのだからそれが普通だとなる
遊ぶ人は反社会的存在になる。高度成長時代から働かなかった自分は反社会的存在だったとなる。
でも今なぜ遊ぶことが奨励され糞真面目に働く人がかえって拒否されるのも不思議である。アリとキリギリスがいて今キリギリスが良しとされるのも価値観が変わったからだとなる

高齢化社会は働くだけのアリより歌うキリギリスになれとしているのである。そこに価値観の逆転が生まれたのである。
自分のしてきたことは遊びだたともなる。理系だと実用に結び付くが文系は実用に結びつきにくいからそうなる。
でも文系的なものも人間には必要だということである。老後に特に文系的なものが必要になる、ただ文系的なものは実用とならず金になりにくいそれで価値が低くなっていたのである。
それも見直すべきでありスコーレの意味を知るべきだとなる。