2023年04月25日

家との格闘がつづく―断捨離は不可欠 (家は物理、化学、地質学ー文系的には歴史、心とも関係)


家との格闘がつづく―断捨離は不可欠

(家は物理、化学、地質学ー文系的には歴史、心とも関係)

●家は総合的学問の対象

親が介護になってその後死んでそれから一人で家のことをなんでもやるようになって家との格闘は続いた。
家というのは家自体が建築物でありそれを客観的に見れば理系から見れば物理学であり化学であり地質学でもある。
なぜなら大地震で2回も家が損傷した。家の構造が物理学であり耐震設計も物理が関係している。
それから地質学も関係している。それぞれの家が建っている場所がもともとどういう場所だったのか知る必要がある。
そこがもともと沼だったり湿地帯だったりするとその地盤は軟弱になる。私の家は街の中で一番低い場所にある。そのために2回も床上浸水になり苦しんだ。

今でも二年前なのか下水から水が溢れて家の中に入り被害があった。それは低い場所だから水が流れ込んでくるのである。水というのは低い場所に流れ集まる。それも科学の法則である。
津波でも低い場所に海の水は流れこんだ。日頃はそうした土地の高低をにしないが一旦水害とかになるとその土地の高低明確に現れるのである。
化学というのも関係ないようで関係ある
家というのは湿気がこもったりするから乾燥するとか壁でも今は化学薬品を使っていてそれを簡単に捨てられないという
それは遠い島に捨てるほかないと言う。これは化学の問題なのである。
こうして物理学。化学。地質学など理系的なものも基礎的に関係している。基本的には家を物質的なものとしてみれば理系的なものが関係している。

●文系的にみる家(家族の歴史など)

でも文系的なものも実は家に関係している。そのことを親が家族がみんな死んで語ってきた。家には長い間家族が共に暮らしたから死んでも簡単に消えるということはない。
家には死者が死者の霊が取り憑いているという感覚にもなる。
ものが憑くということはものというのは理系的なものとして物質としてだけあるのではない。仏教的考えでは色心不二があり色はものであり物と心は一体だということを示している。
家はただ物体としてあるのではない。そこに人間が長く暮らしたことでものに憑く心がそこに入り人間化しているものにもなる。
だから廃墟化した家には幽霊が住み着いているという感覚になる。

ともかく家にはただものとしてだけでなくその土地であれ家族であれ営みがあり歴史が作られたのである。
必ずそれぞれの家には物語があり歴史がある。そのことを私は二代目であっても父のこととか母のことで語ってきたのである。
なぜこの土地に私の家がたったのか建てられたのかそのことを語ってきた。それは私の父親は葛尾村から今の双葉町の新山の酒屋がありそこに丁稚奉公していた。
それから暖簾分けしてこの地に店を構えて酒屋をしていたのである。そこでこの土地を買いここに定着したのである。
こういうことはどこでもある。農家のように代々定着しているとは限らないからである。
ただ歴史的に古い家がある。この辺では只野氏がそうである。。それは南北朝に由来して霊山から落ち延びた子孫なのである。その一族がこの辺りに住んで子孫を増やしたからである。
こうして一つの土地でもそれだけ古くから代々住んでいる人がいるのである。でも他から移住した人もまた多い。特に相馬藩でわ越中からなどの移民が1/3くらい天明の飢饉などのために移住してきたのである。それが相馬藩の大きな特徴でもある。

●整理整頓して断捨離して快適になる―本は整理しにくい

ともかく家というものにはさまざまな要素があり学ぶものがある。それは総合的な学問の対象でもある。そのことは小さな郷土でも地域でもあれそこは複雑に歴史もあり地質学的にも違った場所であり学問の対象となる。学校では教科書だけが問題になり現実に生きている家とか郷土とか故郷とか学問の基本としてあることを知るべきだとなる。
そういうことは返って農家の出身だとおのずと身をもって知ることになる。それは土地と一体化しているのが農家だからである。

でも今は田舎に住んでも農家は少ない。確かに田畑が囲んでいても現実農業を仕事にしている人は1割にも満たないのである。あとは会社員であり農業以外の仕事をしている人なのである。そのために田舎に住んでいてもその田舎のことを自然でも基本的に知らないということがある。
昔は家業というものはあり家と仕事は一体であった。・・・屋というのは会社名と同じだったのである。人は皆その何々屋に属して勤めていたとなる。
それが会社となると大きくなりなかなか理解しにくいものになったのである

ともかく家の整理整頓する。終活することにも通じていた。
いらないものを捨てる。なるべくものを減らして身軽になると快適になる。人間は無駄なものをあまりに多く持っている。
ものを減らすことによって何か身辺がさっぱりして気持ち良くなった。私はだらしないのでそれを第三者が入ってきて整理して掃除してくれたことで整理整頓はできた。断捨離できたとなる。
ただ本は散らかったままであり整理できない。捨てることも出来ない。それで一番困っている。本というのはなかなか読んでも理解できない。でも年をとると理解力が深まり難しい本でもわかることがある。つまり本を理解するということはそれだけの時間がかかるということにもなる。

だから人間が残すものは何かとなると確かに本というものお残せばその人のことを記憶する。不思議なのはこの年になると30年前頃に買った本を読むと実際はその著者は死んでいるのである。
ということは著者とは一度も会っていない。ただ本を通じてその人と逢っているということになる。
それは千年前の人であっても本が残っていればその本を通じてその人を知りその人と合っているとなる。なぜならそうして死んでしてしまった人とは会うこともないしたとえ現代に生きている人でも直接会えるということはなかなかないからである。そして人間は何を残すのかとなれば必殺の一冊の本なのかもしれないとなる。その本すら残せないのは大多数なのである。

●家の広さなど家の影響は大きい

とにかく家というのはさまざまな要素があり家から学ぶものは相当にある。人間と家であれその土地であれ一体化してアイデンティティ化する。でも市営住宅のような狭い場所だとそこは一軒の家でもないから何か存在感がないのである。
ただ家にしても最後は人は死ぬのだからどんなところに住んでも仮の宿ということには変わりはないかもしれない。
ただ八畳間の広い部屋に寝ると何か眠りやすいのである。今までは六畳間に住んでいたから圧迫されるような感覚になっていた。天井も低かったからである。
やはりこうして部屋の広さとかは精神に影響するのである。

日本人の家は狭すぎるのであるそのために茶室のようなものができた。そんな狭いところでお茶を飲み親密になる。それもまた日本の文化なのだがやはり広い家を持てないということでそうなったとも言える。
ともかく人間は環境が影響する環境の影響が大きいのである。
どんな場所に生きるのかどんな家族と生きるのかどんな家に住むのかどんな時代に生きるのかそういうことでその人の感覚まで影響してくる。広い家に広い部屋に住んでいれば心も広くなるともなる。狭い家に住んでいれば心も狭くなるともなる。
だから家の影響や家族の影響やその土地の影響は計り知れないほど大きいともなる。その環境が人間を作るとまでなるのである