2023年04月30日

人間の矛盾−宗教が偽善になるのはなぜか? (利に合うことを求めるが理に合わなくなる)


人間の矛盾−宗教が偽善になるのはなぜか?

(利に合うことを求めるが理に合わなくなる)

人間の一番の矛盾は利益を求め日々暮らしている。
人間が求めるのは利でありそれがり合わなくてもまずは利益を上げることを第一にする。
人間の日々の暮らしを利益を上げることであり利益が上がらなければ生活もできないのだからそれが第一になる。
人間が理解するのはまず利益である。

その矛盾が一番表れているのはカルト宗教なのである。
なぜなら日本の宗教は神道であれ仏教であれキリスト教であれご利益宗教になっているからである。
神であれ仏であれ何であれ後利益を与えてくれと祈るのである。
賽銭を投げるのはもっと御利益を与えてくれるとして賽銭箱に入れるのである。
1000円賽銭箱に入れたら2000円になってほしとして入れるのである。でもその賽銭箱の金は誰が使うのか?
それは神主とかであり神様がそれを喜び使うわけでもないのである。

ほとんどの宗教はこうして御利益宗教になっている。
千円を与えたから2000円を与えてくれと神に祈る
これも都合のいい、勝手なものだが宗教のほとんどがそうなっている。
なぜそうなるのか?そもそも人間が理解するのはまず利益でありその理論ではない、神でも仏でも拝んだら利益が得られとして祈るのである。人間はどんな人でも利益になることは金になることはすぐに理解する。それは発達障害の人でも理解している。
利益になる金になることに敏感でありさといのである。

カルト宗教の信者が増えたというときその人たちが宗教を理解したからではない利益になるからすぐに理解したのである。
そもそも仏教とかなるともともと理解することが難解である。
でも真宗とか日蓮宗になると題目をあげれば利益になる、御利益になると教える。それはすぐに学のない人でも即座に理解する
だから何か困ることがあれば一心に題目を唱えろとなる
めんどうな教理などはどうでもいいのである。
そこで得するのはカルト宗教なら幹部である。創価だったらすべてが御利益のためでありあらゆる欲は是認されむしろ強い欲を持てと指導しているのである。だからこそ会員が一時的にでも増大したのである。

でも仏教の創始者のシャカはなぜ王宮から一回の乞食となり岩窟で修業したのだろうか?
生老病死があり人間の苦から解放されたい解脱したいとなり王宮の王子の身分を捨てて一介の乞食となって修行したのである。
師を見習えばただあらゆるこの世の欲を是認して欲を満たしたいと祈ることなどありえないのである。
そこからして矛盾している。カルト宗教は理論的には崩壊している。でも利には合っている、御利益があるとなれば祈ることは現実に現世利益が得られるのだから肯定されるのである。
それは共産主義でもそうである。マルクスの理論は平等を目指してもソビエト連邦とか中国でも平等は実現されず幹部だけが巨万の富を築いたのである。

なにか隣の人の土地を共産党の幹部が奪ってそれが殺人事件にもなったのである。平等どころではない、貧しい弱い人からその財でも土地でも奪ったのである。それは明らかに犯罪でも共産党幹部だから罪を問われることもないのである。
理想をかかげても現実は人間の欲は消えない、そのために御利益があるのは幹部であり弱い者は犠牲にされるのである。
つまり仏教であれキリスト教でもカルトになると実際は幹部が御利益を得るのであり理論は教義は無視されるのである。

まず人間は利を求めるし利は即座に理解できる、それが理論と教義と矛盾していてもいいのである。むずかしい理論などより利を得られとなればいいのである。そのために会員も増えるのである。ただ利益を求めて入るのだからこれが利益にならないとなればすぐにやめるのである。ただ宗教だから罰当たるとか不幸になるとか脅されてやめにくいとなる
つまり宗教はどうしても王宮を捨てて出世した、もろもろの欲から離脱しようとしたよりこの世で出世すること王宮に住むことこそ求めて祈っている、ここに最大の矛盾があった

出世という意味が全く逆転して使われるようになったことでもわかる、だからカルト宗教とかに詐欺でありそれを説く人間が真っ黒な偽善者なのに崇められるのは大衆が望むものがこの世の欲をかなえて出世すること説くからである
だからこそ騙される、魚心あれば水心になる。だから別に自分の心に忠実で欲を否定せずにいれることは返って正直だともなる
偽善家になるよりはましだともなる。

善人されるものが実は悪人であり悪人とされるものが善人だったともなる逆説が成り立つのがこの世だとなる
悪人が善人を装っているのが宗教では多いとなる、つまりそれだけ宗教をまともに実行することができないからそうなるのである
ジキルとハイドのようになってしまうのである。
そこに親鸞が自分は大悪人だと言ったことがかえって正直だったなるのである。
そもそも地獄に落ちると言っている人間が罪深い強欲なありふれた人間でありその人こそ地獄に落ちることが確定しているのである。だからかえって地獄に落ちるのではないかという人こそまともであり救われるとしている。それは娼婦がかえってキリストによって罪が許されて救われたのと同じである。

利にあっているが理に合わない

なぜそうなるのか?人間の欲がそうさせる。人間にはそういう二面性があるためにそうなるのである。