2023年05月31日

松川浦から飯館村への塩の道(詩)

松川浦から飯館村への塩の道(詩)


塩の道去年(こぞ)の落葉踏み
助の観音あわれ
塩を運ぶ昔の道
塩を待つ山の民
塩を運ぶ海の民
その長き道のり
その塩の貴重さ
塩を待ちわびる人
塩を苦労して運ぶ人
人と人は塩を通じて
ここに結ばれぬ
今その道は忘れられ
山の森に埋もれぬ
しかしその道を歩むとき
積る落葉を踏みて
助の観音を助け泊まる
昔の苦労を偲びぬ

今日は天気が良いので栃窪から塩の道を行った。土地を途中崖道が崩れて通れない所があった。でも自転車ではその脇を通ることができた。
でもさらに行くと土砂崩れのようになって道を遮りそこは通ることができなかった。ただ工事しているから通れるようにはなる
それで引き返して上萱の道を八木沢峠の方に下った。上萱(うえがや)に残っていた茅葺の家はなくなっていた。何か津波でも海側の家がなくなったりしている。ここもそうである。

塩の道は栃窪から沢の道を行く、下を沢になり道も細いから危険だった。そこは随分長く行っていない、難所であり馬で行くのも危険だった、だからこそ牛転がしとかの地名がついた、長野県の日本海から松本市へ行く塩の道は長い、そこで塩を運んだのは牛だったのである。それで牛つなぎ石とか残っている。
松川浦から塩を馬で運びこの助の観音で泊まることがあった
一日では飯館村まで運べなかったのである。

いずれにしろ道が細く沢伝いとか山中の道を上るのだから難儀した。つまり人間の営みとして常に運ぶことがあり苦労したとなる
日本では木材が豊富でも山の斜面とから切り出し運ぶので苦労した、馬車で運んでいたから苦労した。外国では平地に延々と森があり運ぶには楽だとなる。
日本に森林鉄道が張りめぐらせたのは木材と石材とか運ぶためだった。

いずれにしろ塩は貴重なものであった。サラリーというときそれは塩の意味だった。ローマ帝国の兵士に塩を配ったことが起源となっている。
またアフリカで塩と黄金が等価で交換されたのもそれだけ塩が貴重だったからである。地の塩たれというのもそのためである。
塩なしで人間は生活できない。縄文時代でもやはり塩が必要であり海岸に暮らしていた人は塩は取ることができた。
でも山となると塩を手に入れることは容易なことではない
だからこの辺で早い時期から塩を手に入れるため山の民が海の方にやってきた。その道が大原から八木沢峠を越える道でありまた栃窪からゆく塩の道である。

もう一つは松川浦から宇多川を登ってよく道である。一番利用されたのは松川浦から栃窪を通って行く塩の道である。そのの道は安曇族が飯館村まで行った道でもあった
なぜなら八木沢峠のヤギとは安曇族の八木氏のことだからである。
また山津見神社が栃窪にあり塩の道を登ってゆくと山の中にも山津見神社がr安曇族は松川浦から宇多川を登って途中栃窪から塩の道を登った道と大原から八木沢峠を登って飯館村に到達したのである


春の塩の道を行く―写真あり

助の観音の内部の絵馬―馬と人が休んでいる絵

二か所崩落があり自転車でも通れなかった

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posted by 天華 at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2023年05月30日

金融資本主義化グローバル経済の終わり (実体経済と乖離した市場は賭博場ともなった)


金融資本主義化グローバル経済の終わり

(実体経済と乖離した市場は賭博場ともなった)

金融資本主義を貫いて働いている人って、なんかつるんとした人が多いんです。なんかそれぞれのクセとか、趣味趣向とか、そういうものがなくて、つるんとしている感じ。その人は、多分100万円の絵よりも1億円の絵は100倍美しいっていうふうに思う。「俺はこんな絵が好きなんだ」とかいう趣味嗜好の引っ掛かりがなくて、つるんとした人が多い。

資本主義のこれから−その2 金融資本主義の本質は「手段の目的化」。

●実体経済から離れた金融資本主義

なぜグローバル経済というのはわからないのか。それは規模があまりにも巨大化したのである。
それはとても日々の生活からかけ離れたものとなっている。
エコノミーの語源が家計だということでもわかる。
とするとその規模はとてつもないものとなる。日々の生活だと買い物でも100円とか1000円とかである。そして100円でも損したとかなるのは実感なのである。グローバル経済というのは株式でもファンドは日本の国の予算の2倍のお金を動かしているという。そのファンドの会社の人は千人くらいだと言う。その人たちはプライベートジェット持っていて世界を駆け巡っている。
そんな天文学的な金を持って株式市場わ動かす

だからなぜ日本が物価高で苦しんでいるのに株だけが上がってくるのだろうか。どこで日本が景気がいいのいいのだろうか。
それがまるで理解できないのである。つまり実体経済と金が動くだけの金融資本主義があれただ金融資本主義によって金が巨額の金がAからBへまたCへ移動してるだけなのかもしれない。金余りであり金の行く先が投資する場がなくて移動している。アメリカが国債などで債務不履行(デフォルト)が迫ったので日本へ一時的にファンドの金が移動したのかもしれない。ファンドの金が日本の国の二倍もあるとしたらその金が動いたらその影響も大きのである

●貨幣や紙幣は支配する道具

いずれにしろグローバル経済になると天文学的な金になりとても日々買い物して100円とか千円感覚で実感する経済とはまるで違ったものになる。ただそうして金を動かして儲ける人たちがいる、その人たちは世界で千人くらいだとしている
でもそういう人たちでもやはり背後に政府とかの権力お援護がないと力を持てないだろう。そこにアメリカの軍事力がありドルが世界の基軸通貨となった。
でもアメリカだけが得をするドル決済に反対する国がロシアでも中国でもあって不思議ではない、もうけを独り占めするのかとなるからである。

要するに世界のギャンブル場になったのが現代のグローバル経済でありその賭博場で儲けているのが千人くらいのファンド会社の人間なのかもしれない、その人たちは何ら生産に物つくりをしているわけでもない、ただ賭博場で金を動かしているだけだとなる。
それは八百長だとなりロシアでも中国でもグローバルサウスでも対抗するようになったのは当然だとなる
結局金というのはそもそも支配する強力な道具なのである。

それで七つの海を支配した大英帝国がポンドを世界基軸通貨としたのでありドルもまたアメリカが世界帝国となり支配するからドルが基軸通貨となったのである。
貨幣というのは必ず皇帝とか王様の肖像が刻まれていた。つまり皇帝が王様がその地を国を支配するというシルシだったのである。
それでオスマン帝国のテレビドラマを見ていてエジプトに派遣された地方長官が勝手に自分の肖像刻んだ貨幣を発行したのである。そのためにその地方長官は殺害されてしまったのである。これからわかるように貨幣でも紙幣でもそれは支配する道具としても機能していたのである。だからそもそもグローバル経済でも公正な市場などないのである。

そして今や資本主義自体が行き詰まっている。なぜただ巨額の金を右から左へと移すだけで儲けているのか。それは実体経済とは関係ないのである。これまでは何か経済というとき実体経済であり江戸時代でも何万石とか米のとれる量が多いで経済は計れていた。だから実感としてわかりやすいものだったのである。

●マネーゲームと化した株式市場

それでなぜ今金融証券銀行などが採算が取れなくなったのか。実体経済とから離れて証券とか債券とか金とかが動いている。でも実体経済とは違ったものでありマネーゲームのようになっている。それで銀行で働くような人も何か働く生きがいというかは喪失してしまった。
それで銀行をやめて農業をするようになった人もいたのである。

今や証券とか銀行に勤める人は胡散臭い人に見られてしまっているのである
投資にしても直接ものづくりをしている人に買う人は投資する。
クラウドファンディングが生まれて銀行はの役割は喪失しつつあるのである。銀行もメディアであり仲介するものであるということがあり直接作る人にものづくりする人に投資する方法はインターネットで生まれたとき銀行の役割もなくなるともなる

金融関係で働く人が何かこのように実際の物つくりとか農業とかでえる労働の充実感を得られない、金を得ても実感として何か作り上げるとか育てるとかしないので架空のバーチャルな世界で数字の世界で抽象的な世界で生きているからつるんとした個性のない顔になっている。何か実生活で手ごたえのあることしていないからそんな顔になったのかとなる
つまり人間でも人格でも作るのは仕事になる。それで職人気質とか生まれたのである。
いずれにしろグローバル経済とかはとても実体経済から離れているから乖離しているからそこに起きる問題が大きいのである。
そして資本主義が金融資本主義のようになってゆくときモラルもう消失して資本主義は終わりになるのかまた変容して新たな資本主義になるのかそういう一つの大きな時代の区切りにきているのである

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posted by 天華 at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年05月29日

桐の花、老鶯、黄菖蒲(梅雨になるのか-桐の花の詩)


桐の花、老鶯、黄菖蒲(梅雨になるのか)

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霧雨や残り咲きひそか桐の花
霧雨や裏道ひそか桐の花
水溜まり映りてひそか桐の花
家近く老鶯鳴くや雨しとと
草深く老鶯鳴くや籠るかな


裏の道
残り咲く
一輪ひそか
桐の花
この道行くを
誰か知る
雨しとと
水溜まりに
その花映りぬ
幽かに
その花の映りて消えぬ
あるともなしに
穢れし手で触れるなかれ
そは水に映り
神の見ていつしか消えぬ
そは神の鏡に映りて消えぬ
そを神に記憶されしも・・・・

The Road Behind
Remaining blooms
A single flower blooms in secret
Paulownia flower
Who knows where this road goes
Who knows
Rain drizzling
in a puddle
Reflected in the flowers
its flowers are reflected in the puddle of water and disappear
without being there
Do not touch it with unclean hands.
It is reflected in the water
God sees it and it will disappear someday
You are reflected in God's mirror and you will disappear
God remembers you: ・・・・


今年は梅雨になるのが早いのか、裏の道をいつも通る。今日もしとしとと雨であり霧雨でもある。強くは降らないから干ばつににもなっていた。でもこれから梅雨になれば長く降るから解消するだろう。また台風も来ているから大雨になるかもしれない。

桐の花は何かひっそりと咲いている。その花は何か自分の性分と合っている。どうしても人付き合いが苦手だからである。
もう一つは人というのは何か必ず汚れたもの醜いものがあり接したくないのである。そのために私は30年間も引きこもっていたのである。それで社会性がなくなり問題が起きた。
小人閑居して不善をなすとなったのである。隠者となるのはよほど優れた人でないとなれない。そこで長野県のようなところで田舎で凶悪な殺人事件がお引きこもりだった人が起こした

ともかく花にもいろいろありその人に合った花があることは確かである。桐の花は私の性分に合っている。
また草深く藪の中に老鶯が鳴いている。いかにも田舎らしい。でも隣の原町だと5万くらいの人口になるからこことはまた違っている。それで夏菊が原町に合っていると見た。
黄色が田植えしたあと水に映っていた。そこに暮らしがあり花も生きてくるのである。だから原発事故で草ぼうぼうとなったとき荒涼となってしまったのである

やはり自然でも人間が住んだ時人間の営みがありそれが自然の中で調和して生きてくる。暮らしがなければそこは生きてこないのである。だから日本からそう今人口が減り縮小して行く時限界集落とかが維持できなくなる。
そこから暮らしがなくなり何か荒れ果てた感じになるのである
また空き家も増えたことで荒れ果てたものとなる
隣の家も空き家となり広い庭何もなくただ積まれた石が残っている。でも冬の日その庭に洗濯物を干していたときその石も人間と一体となり生きていたのである。

冬の日に洗濯物干し大き石

つまり石がありその石も人間の生活と一体化して生きていたのである。それが空き家となった時全体の死んだようになってしまったのである。
田植えをが終わりそこに黄色の菖蒲が写っている。そこに暮らしがあり菖蒲も生きているのである。

写真はAIで作られたものと写真の合成である。

2023年05月28日

若者は病み老人は心身を病む爛熟文明 (一連の若い人の凶悪事件は何を意味しているのか)


若者は病み老人は心身を病む爛熟文明

(一連の若い人の凶悪事件は何を意味しているのか)

●カルト宗教も現代の文明の病理現象として生まれた

犯罪が時代を象徴することがある、ただ人間の業としてカルマとして変わらないものがある
男女関係とか基本的に変わらないものがありそのために同じような事件が起き続けているのである。
ただ犯罪も時代に影響される。現代だと複雑な社会であり昔の江戸時代のような村社会とは違って犯罪もまた複雑化する
なかなか簡単に理解できない事件や犯罪が起きてくる。

統一教会のカルト宗教に歪められた家族の一人が安倍首相を恨んで殺害したのもカルト宗教が増えたために起きた事件である。それも時代を象徴している。
カルト宗教もまた現代の文明の負の部分として生まれたものであり本来の宗教とは何の関係もない。創価などでもその発祥を見れば団地の宗教と言われ地方から出てきた人は仲間意識を持つために生まれた宗教であり組織である。
宗教だとそもそもが自然と一体化して心を清めるとかがあった。
天台宗というのは先にあり天の台というごとく山岳宗教だったのである。。だから山にこもり修業したのが始まりである。
山伏などもその系譜にあるのである。
だから大都会の団地から生まれたような宗教はま全く宗教的要素を欠いているのである。

●一連の若者が起した事件の原因は何なのか?

何か最近の一連の若者の起こした事件は政治的要素より経済的要素より現代文明社会のなかから起きた事件かもしれない。
個々人の問題もあるがやはり時代の社会の歪みとして犯罪が生まれる。統一教会のカルト問題から発したのも阿部前首相の事件もそうである。
その次に岸田首相を狙ったてテロも何か明確な政治的意図があったとも見えない。むしろ個人的なものとして個人的な不満が岸田首相に向けられたのかもしれない。何か公憤ではなく私憤だったとなる。自分の鬱憤をはらすために
起こした事件であり政治的意図があったとも見えないのである。

猟銃で警官を二人も殺した事件も驚いたがこの人は恵まれた家族に育ったのにこんな恐ろしい事件を起こしたことが理解できない、別に引きこもりでも百万人いる時代であり家族にめぐまれたのだからそこで生活できていたからである。ただ何か認められないということで回りに対して敵対的感情をもったらしい
でも高校時代野球部で活躍したとか問題児はなかった。
でももともと社交性が無いとかで陰の性格だったのかもしれない

この性格の人は人付き合いが苦手なのである。それは私自身がそうだからわかる
回りとうまくコミニケションできなかった。陰の性格の人は社会で生きることが困難になる。引きこもりになりやすいのである。
もう一つは大学を中退したということは挫折したということである。必ず何らかで人間は挫折を経験する。若いときは挫折を経験する。私自身もそうだった。まず学校とか集団生活には馴染めなかった。そして大学出ても就職もせず家族に恵まれて引きこもってしまったのである。
でも人間は挫折する経験は必要だった。何か打ちのめされるそして返ってそこで謙虚になるのである。だから挫折することは若いときは返って必要なのである。もし若い時から成功したりしたら高い地位についたりしたらその人は高慢な人となってしまうのである。だから挫折は悪いことではない。
そして別に家族に恵まれているのだから生活にも困らないのだから引きこもりでも良かったのかもしれない。どうしても陰の性格だと社交性がなく周りからよく見られないからである。

今日のニュースでは家に来る女性から話もしないで一人でいると言われたことに気にしていた、母親がフラワーアレンジメントの先生をしていて女性が来ていたからそうなった
そいうことは何か社会で言われる。何でも付き合いがありしゃべらないとか酒を飲まないとかになると変わった奴だとされるのである。無口でもそうである。自分自身が引きこもりだからほとんど付き合ないし沈黙していた。そのために山とか石とかと一体化したのである。何故なら自然は沈黙しているから自然に通じるには沈黙の修行が必要なのである。それが寺とかで座禅すらならいい、社会ではそれができないのである。
でももし花に興味があったらなんらか話はできたとなう。そもそも猟銃を持つような人が引きこもりなのかという疑問もある
でも社会性がないことも問題なのである。

●小人閑居して不善を成す―引きこもりの危険

これが一連の若い人の事件に通じているし引きこもりもそうなるから危険なのである。つまりこれからもこうした事件は起きやすいのである。
ともかく若いときは本当に危機の時代である。何かしら必ず問題を起こす犯罪でも起こしやすいのである。この場合大学を中退としたとしたとしても家で暮らすことができたのだからどういうことなのかなかなか理解できない。
ただ全般的に現代文明の社会の影響はありまた若い時に挫折がありそれが社会にむかって犯罪を起こすということはあった。
でも一方で引きこもりがこれだけ多いということはすでにこれは個々人の問題ではなく社会どう大きく言えば文明の問題だともなるのである。

それで天才的な人は文明批判になったのであるニーチェとかヘンリーミラーとか上野霄里(うえのしょうり )とが強烈に文明を糾弾したのである
ただ引きこもりはそうした特別優れた人ではない。普通の人でありそれが事件を起こしているのである。でも何か共通性はあるとなる。私自身は天才でもなんでもないむしろ劣っている人間だからである。でも引きこもって自然と一体化することから俳句や短歌や詩歌を追求してきたのである。これも異常だったが家族に恵まれてそうなったのであるそれが出来たのである。だから私は家族に感謝しているのである死んでも感謝し続けているのである。

●精神病の医者が語る本に賛同

本を整理していてこの一連の事件でそれにふさわしい本があった。

精神に病理性が発現しやすくなるのは十代中頃からである
この辺りから生命的エネルギーがやあ低く何らかの不器用さをあわせもった少年が次第に競争社会の中で追い詰められてゆく
たいていはひきこもることで当面の困難を回避する。

そもそも殺意とは誰でも少年の中で日常的に懐いているのである
かつて精神病者や病的な心理に基づく犯罪は多く家庭の中にとどまっていた。それが世に向かうようになったのである。
その理由の一つとして家族の力が弱くなったことである。例えば弱々しい母は一人息子に振り回され外への攻撃が向かうの阻止できなくなったおそうしできなくなったようなことが起こる

文明はたいてい外敵の侵入を持って最終的崩壊に至るものであるが。その前におーいなる爛熟がありそれにより弱体化が進む。
爛熟こそが人間を弱くするのである。特に若者に強い依存心をもたらすか無力化させられるのではなかろうか。世紀の節目、文明のの爛熟の中にこの国の衰退を予感するのは私だけではあるまい
素朴に生きる人が残る―遠山高史

いずれにしろ現代社会は文明は病んでいる。それは若い人でもそうだし高齢化社会になり老人も肉体を病んでいるだけではない精神も病んでいる。そしてそうした病んだ人がこれだけ多いとなるともう健全な社会が維持できるのかとなる。確かに若い人はエネルギーがあるから凶悪事件でも起こす。でもこれだけ老人が多いというとき社会自体が老人病人社会にもなってしまう。そんな社会がもう維持できるのだろうか。つまりもう文明社会は病的な社会であり素朴に生きる人が生き残るというものではない。もう老いも若きも病んでいるのである
もう内部から文明社会は疲弊して滅んでゆくのかとも思う。それは世界的に共通しているのである。文明の進歩が果たして人間を幸福にしたかというとそうともならなかったのである。いくら技術が進歩してもプラスの面はあってもまたマイナスの面も大きくなったのである。人間は得るものがあれば失うものが必ずあるということである
posted by 天華 at 13:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年05月27日

人間が最後に欲しいものは何か それは健康である―金で健康は買えなくなる


人間が最後に欲しいものは何か

それは健康である―金で健康は買えなくなる


人間は生まれたとき手を握りしめている。何かを握ろうとしている。何かをその手で握りしめ得ようとしている
死んだら手を開け放つ、何か得ようとしてしないで開け放つという、とにかく人間は何かを得ようとして握りしめようとして生まれてくる
でも死ぬときはただ何か得ようとするのではなく開け放ち死んでゆく

人間がこの世に生まれることは何かを得るためである。その得ようとするものはいろいろある。人間の欲望は限りないからである

しかし最後に人間は得たいものは何なのか?

最近でも回りに老人だけが増えてくる、それも病人が多いのである。その中には金もない老人もいる、そのため医者通いであり必ずレントゲン写真とかとると何万とかかかる、その医療費が余りに増大するので負担になり極端になると老人は集団自殺しろとかなる。それはその負担が下に若い人の世代もふたんすることになるからである。

そして問題なのはいくら治療しても老人の場合直らないということもある。延命はできても老化が病気に関係しているから直らないのである。ただ死ぬまでに相当な治療費がかかるのである
でも病気そのものは直らないのである。そこに老人の場合絶望がある。要するに死ぬまでの期間を長くすることはできる。でも全快する、完治することはないのである。その間に相当な治療費がかかるのである。その負担も大きいのである。

人間は何かを得ようとして手を握ろうとして生まれてくる。でも老人になり病気になり得たいものは何なのかーそれは健康だったとなる。その健康はいくら金を出しても得られないのである
その時最高の価値は健康になってしまうのである。
もう年で仕事ができなくて悔しいとか、病気になり歩くこともままならないとかそんな人ばかり増えてくる
子供は近所に一人二人くうらいしかいない、ただ増えてくるのは老人でありそれも病気になった老人なのである。

これが少子高齢化の現実なのである。老人にとって金があればいい、でももはや金で健康は得られないのである。あとは死ぬだけだとなる。その時この世に望みは希望はなくなる、ただ来世が神の国に行くことが望みとなるのである。
それでも余生があり人間は病気なっても生きていく、でも病気は多少回復しても死に向かっているのである。

そうなると人は今世に希望を託すことはできない、来世が神の国へゆくこと願う、何かを得たいと励んできた働いてきたでも今や老人になり病気になったら得られない、ただ今これまでしてきたことを語り自慢したり記憶したものに生きることになる
いずれにしろ百歳まで生きるとしてもその前にたいがい病気になる人が多いことが高齢化社会の問題なのである。

2023年05月26日

本が整理できないー本は何なのか (電子化されると本でも相対化してみる)

本が整理できないー本は何なのか

(電子化されると本でも相対化してみる)

「読書家は本の内容あるいは本を読むという行為が好きな者である。一方、愛書家は“書籍”という物体を愛する者である。」と定義的に言及されることもある。

書籍を愛好する性癖および書籍を収集する習慣は、ビブリオフィリズム(bibliophilism、書籍愛好)と呼ばれる(形容詞形は、bibliophilic)


「真 実 」 あ る い は本 来 の 「価 値 」が 否 定
隠 蔽 さ れ て 全 く別 の もの(モ ノ)が そ う した
真 実 や 価 値 を も っ もの と み な さ れ る と い う,
取 り違 え や 誤 認,ず れ を 示 す 用 語 」

小川, さやか. 書評 フェティシズム研究(第1巻)フェティシズム論の系譜と展望

●本が貴重だった時代

本が何かというと本は紙でありそれは物体なのである。でも本に価値あるのは本という物体ではないのである。そこに文章となって書かれたものに価値のある。
でも紙として物体化したときそのものを愛するフェティシズムは生まれる。何かものだと茶碗がでもそのものを使用したり触ったりして愛することにもなる。本でもそれが物体化したとき触ったりして愛することになる。そのものに愛着が生まれるのである。そこが何か本に対して錯覚しているのである。
だから今電子本がある。文章を電子化すると本というものはなくなり物体でわなくなる。でもそれもやはり紙に書くわけではないが文章なのである。それでその文章をやはり読んで利用しているのである。

でもなぜか電子で読む文章と電子本と本の相違は何なのか。それが明確に理解できないのである。長年それも歴史的に2000年とか本というものがあれ親しんできたから電子化した文章というのが何かもう一つなじめない理解しにくいものとなっている。
そしてなぜか本には重みがあり本自体に価値がある。例えばヨーロッパの中世になると修道院で写本がありその写本一冊作るのに大変な苦労をしていた。するとその写本自体が相当に価値あるものとなっていたのである。そもそも庶民が本を手にするということは長い間なかった。本を手にすることができたのは聖職者とか僧侶とか貴族とか一部の恵まれた人だけだったのである。
だから本というものは何か黄金とは違っても財産にもなっていたのである。その後も本はやはり財産であり知識というのは本から得られていたのである。
それでなぜかローマ帝国だと実に立派な図書館がすでに建てられていたのである。そこには本があれ知識がそこに集積されていたのである。でもその図書館が石造りの立派なのにはには驚いたのである。

●本と電子本の相違

とにかく知識は本から得られることが第一だった。でもだから本というのは貴重なものだったのである。また紙に書かれたということで紙自体が希少なものでありそこに書かれたということで本は今と違って相当に価値あるものだったのである。
でも文字になるとでもネット化して電子化して文章で伝えられるようになると本は相対化して見られるようになった。
本を一冊出す人はすでに選ばれた人であり知識人ともされていた。本は簡単に出せない。本を一冊出す人は社会に認められた人だったのである。本を作ってもも出版するとなると出版社がかかわり書店にも置くからなかなか本自体を流通させることは難しかったのである。
つまり本を出せる人は特権的な人だったのである。
本を作るにも本を流通させるにもコストがかかり過ぎていたのである。それは新聞でも同じである。新聞も紙に書くから本とも似ている。でも本よりは軽いものとしてみられていたのである。それで子供の時は新聞紙がトイレで使ったり風呂の焚き付けにされていたのである。それは紙に書くからそうなっていたのである

これで本の価値は本来はその物体化した紙にあるのではなくそこに書かれた文章にある。でも文章というのは文字から成り立っている。ということはそもそもは文字に価値があり文字を発明したことによって本が生まれた。その価値の基は文字にあったのである。人間が文字を発明したことによって本が生まれたのである。
でも文字は物体ではないのである。何かそこに茶碗であれ皿であれ人形であれ石であれ家であれそれは物ではないのである。。それは写真でもそうである。現実にあるものを写したものだからである。でも写真もまたフィルムにするとそのフィルム化した写真を愛着するようにもなる。
でも電子化したものは何か愛するということフェティシズム二はならないのである。そこに本と電子化されたものの相違があるのである。

●本を関連付けて利用することがむずかしい

また本は一冊一冊になっていて完結している。だから本を理解することは全体を読みそこから部分を読まないと理解できない。
でも全体を読まなくても数行を読んでもやはり理解すれば価値あるものとなる。でも違うのは本は一冊としてありその一冊に価値がある。しかし人間はその一冊を全体を読んで理解するしようとするとかなり困難になりとうして全体を読んでいないともなる。
そこでこれまで買った本をいろいろパラパラとめくって部分的に読んでみたらつくづく買ったとしても読んだとしても忘れているしまるで初めて読んだように思えるのも不思議である。
それだけ人間は忘れやすいのである。いろいろなことが起きても次々に新しいことが起こり過去のことは忘れられてゆくのである。そこに確かに住んでいた人がいても死んでしまうとたちまちに忘れられてしまうのである。

それで今私が読んでいる本でも作者はすでに死んでいる人も結構いるのである。するとその人の残したものは本だったとなる。それしかその人を知る方法はなくなっているともなる。それで最後に自叙伝を残す人がいる。金持ちだと何百万かけても本を作ったりする。本はそれだけ庶民にとっては価値あるものとなっていた。私が本を出したよ作ったよとなれば自慢できたのである。
今なら本自体はアマゾンとかで一冊から作れる。たいして費用もかからないのである。でも本を流通させることは難しい。それでいくら本を作っても出版は書店にで回ることは簡単にできなかったのである
今になると本に出して本にして流通させるよりインターネットでプログであれ簡単に自分の創作したもの即座に出せる。ただ読まれることは至難である

では本にしたものは優れたものかと言えば今はそうともいえない。別にプログであれ何であれyoutubeであれ電子化したものがにも優れたものはある。
でもこれまでは本に知識が蓄積されていたからその本を頼る他なかったのである。それで私も本を買ったのだがそれを今手に取ってパラパラと読んでみると読んでいなかったということになっていたのである
これでもそれでも集めた本に何かしら価値がありその本を分類してなんとかまた生かそうとしているのである。ただ本は一冊一冊でありそれらを関連させることが難しい。
ネットだとわからないことでも検索して関連付けさせることができる。一冊の本だとなかなかそれができない。なぜなら一冊の本は完結していてほかの本と連結させることが難しいからである

●私設図書館が必要に

私の場合私用の書庫または図書館のようなものは必要になっている。有名な小説家だったら施設の図書館のようなものを持っていたからである。なぜなら知的作業にはとても一人の知識では成り立たないからである。必ず他者のものを参考にしたり引用するからである。
それで今AIが小説を書くことができるというときその有利な点は膨大な情報を参考に出来るからである。いちいち本で調べるのではなく膨大な情報から小説を書くことが出来るからである。
関連付けが出来るからである。今私は音声入力しているが紙というときどうしても神が出てきて紙は出てこないのである。
でも紙に書くというとき紙がでてくるのである。それはやはりコンピューターが連関したものとして認識しているからだろう
紙に書くとなれば神はでてこないのである
ともかく膨大な本でもその内容を関連づけることで知識も活きてくる、それがネット上ではしやすいが本だとしにくいのである

ただ本にはネット違い専門家とか一流の知られた人が書いているから中味があり本は何回も読んでりかいする、また詩などでも鑑賞するとなる。ネットだと一回しか読まないからである、本には何回も読む価値があるとなる

買い貯めた本をいかに活かすかが今私の問題になっている
一冊の本の感想文を書いてみるのもいいだろう。すると読んだというだけではな自分自身も関与すうことになるからである。

ローマ帝国のトルコのエフェソスの図書館

本を電子本にできるがめんどうになる、本一冊を電子本にすることが手間なのである、ただ買いためた本をこれからどう活かすかが問題なのである。



2023年05月25日

赤モズを発見!! (絶滅危惧鳥類アカモズはどこに何個体いるのか?)


赤モズを発見!!

(絶滅危惧鳥類アカモズはどこに何個体いるのか?)


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初夏や赤モズの姿とらえけり

枝渡り飛び去りゆくや夏の鳥軽やかにして涼しかりけり



国内における2019年現在の亜種アカモズの繁殖つがい数は149つがい,成鳥の総個体数は332個体と推定されました。国内における本亜種の繁殖分布域は北海道と本州の一部地域に限られ,過去100年間で90.9%縮小したと推定されました

夏季に中華人民共和国や日本、ロシア東部、朝鮮半島で繁殖し、冬季になるとインドやインドネシア、東南アジアへ南下し越冬する。日本では亜種シマアカモズが九州南部や南西諸島、亜種アカモズが北海道、本州東部に繁殖のため飛来(夏鳥)し、本州西部、四国、九州では渡りの途中に飛来(旅鳥)、沖縄では越冬のため飛来(冬鳥)する。
鵙はスズメ目モズ科の鳥の総称。夏鳥のアカモズ、チゴモズ、冬鳥のオオモズ、オオカラモズなど日本各地に広く繁殖分布し、寒いところで繁殖するものは暖かい平地に移って越冬する。翼長十センチくらい。羽色は全体に地味で、頭は栗色、背は灰色、翼は黒褐色で中央に白斑が一つある。食性は肉食で、昆虫類、節足動物、甲殻類などをを食べる


のうちの1亜種の亜種アカモズ Lanius cristatus superciliosus 以降アカモズ)は,日本とその周辺地域(サハリン南部・千島列島南部)でしか繁殖しません。国内では主に本州や北海道で繁殖するとされ,私の生まれ育った新潟県内でもいくつかの繁殖地が知られていました。図2は新潟市で2005年に見かけた看板ですが,カワラヒワやムクドリに並びアカモズ(図2左上)が紹介されています。かつては,ムクドリやカワラヒワのように,たくさんのアカモズが生息していたのでしょうか。私はアカモズの観察を夢見てこの場所に2005年から2011年にかけて7年間通いましたが,残念ながらアカモズを観察することは叶いませんでした。



モズは秋とか冬に見るけど夏にはみないと思っていた
これは繁殖するために渡って来てその途中にここに寄ったのか
この赤モズは非常に少なくなっている。

私はアカモズの観察を夢見てこの場所に2005年から2011年にかけて7年間通いましたが,残念ながらアカモズを観察することは叶いませんでした。

これほど野鳥を観察している人でも見れないのである。そしたら写真でも撮ったとすると相当に貴重だとなる。
これは街中を流れる真野川の岸辺で撮った、鳥はすぐに飛び去るので撮りにくいのである。一瞬で去ってしまうこともあるからだ。
だからこの写真は相当に貴重になるかもしれな、そんなに見かけないしまして写真にとらえたとしたろそうなる。幸運といえば幸運だった。そのときカメラをもっていたこともそうだった、やはりカメラは常時持っていないとチャンスを逃す、どこでシャッターチャンスがあるかわからないからである。



Bing イメージクリエーターで作られた絵の不思議 (日本の庭をイメージした絵)


Bing イメージクリエーターで作られた絵の不思議

(日本の庭をイメージした絵)

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The wonders of paintings made by Bing Image Creator
(Picture with the image of a Japanese garden)




至福の花の庭

静かな木陰に休み
流れる水の音を聞き
庭の小径を散歩する
ここを乱すものなく
時折小鳥が来て木の実を食べる
蝶は優雅に花々をめぐり飛び去り
石は黙して様々な花が映える
その花々争うことなく調和している
そこに至福の時を味わう
外の雑音は聞こえず
木はここに深く根づき
閉ざされた一つの楽園に安らぐ



Resting in the shade of a quiet tree
listening to the sound of running water
I stroll along the paths of the garden
Nothing disturbs me here
Occasionally a little bird comes and eats the nuts
Butterflies gracefully flit past flowers
The stones are silent and various flowers are reflected
The flowers are in harmony without conflict
I enjoy the blissful moment there
No outside noise can be heard
Trees are deeply rooted here
I am at peace in a closed paradise

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

AIで作られた絵は本当に不思議である、これは現実にある世界ではないが日本の庭を見事に表現していることの不思議である。
私は全く絵を描けないにしても言葉を入れただけで絵に変換している。その絵でも明らかに優れたものである。
するとAIは芸術の分野にも相当に深くかかわるものだとなる

絵や小説や詩とかまでAIが創造できるのかとなる
ただ歌謡曲のようなものは作れるがむずかしい詩は無理だろう
でも画家でも小説家でもAIが代わりになり失業するとかなるとしたらショックである。

それだけ衝撃が大きいものとなったのがAIの技術なのである
それはもともとartが技術の意味だったことでもわかる。
医療でももともと技術だったということはそれも技術と深く関係していたからである。その変化が今は大きいのである。

The AI-made drawings are truly mysterious, this is not a real world, but it is a wonder that they beautifully represent the garden of Japan.
Even if I can't draw a picture at all, I convert it into a picture just by inserting words. The picture is clearly excellent.
This means that AI is also deeply involved in the field of art.

I wonder if AI can create pictures, novels, and poems.
However, it is possible to make something like a popular song, but it is impossible to make a difficult poem.
But it would be a shock if both painters and novelists could take the place of AI and lose their jobs.

AI technology has had such a big impact.
This can be seen from the fact that ART originally meant technology.
The fact that medical care was originally a technology was also deeply related to technology. That change is now significant.


2023年05月24日

家の修復が依然として続く (水漏れしたの樋をまっすぐに下にしなかったから)


家の修復が依然として続く

(水漏れしたの樋をまっすぐに下にしなかったから)

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樋を真っすぐ下に作れば水漏れはなかった、樋を曲げて迂回したため管に落葉がたまてつまった
それで水があふれて家の下に落ちてきたとなる



家の問題は家そのもの物体としての家がある。建築物としての家がある。なぜ玄関の入り口が水漏れしたのか?
それは樋の配管に問題があった、本来はまっすぐに下に水を流す配管をするべきだったのが建物の構造でしにくくなり遠回りの配管になりそれでつまりながれなくなり逆流した
水がそこであふれて下に落ちてきた。
それを説明されたのでそうなのかとも納得した、でもそこは見ていないので明確にはわからない、そこは入りにくい場所だからである。

前の大工さんは見て水漏れた原因がわかったと言ったがそれを説明していない、でも金は払ったのである
ここで問題なのはなぜそうなったのかそしてなぜ直ったのかの説明が必要だったのである。
家というのは素人でもなんとかわかる理解できることがあるからである。
ただまだ完全にわかったはならない、落葉がたまってながれにくくなりあふれたとしてそれがどういうふうにもれたのかわからない、それはそこ見れないからである。危険な場所でもあるからだ

ともかく家との格闘はつづいているし整理も終わらない、本の整理がどうしてもできないのである。簡単に捨てられないからである。
なぜ樋で失敗したのかというと水の流れに逆らう配管をしたからだともなる。下にまっすぐに流すべきところを流す管を迂回させてめんどうな場所に配管したからである。
それが失敗だったのである。それが今になって問題が起きたとなる。でも築50年となるとなんらか家が傷み修理が必要になる
ここはなにかめんどうな場所だったのである
前は樋から水がもれても流れ出しても簡単に直した、そこは見える場所であり樋を曲げたら直ったからである
家の修復でも終活でも簡単に終わらない、人生も依然として終わらないのと同じである

ただそれぞれの家が確かに郷土の歴史を語っている、私のいえもそうである。二回も水害に合い一回目は二階がないので逃げる場所がなく二階の家を建てることが悲願になっていたからである。それで二階の家を早い時期に建てて親が自慢していたのである
今でもここは街でも一番低い場所であり下水の水があふれ二年前とかでも水が家の中に入って被害があったのである
でも父親が苦労して土地を買いそのあとに建てられた家なのである。だから家には一代だけでは何代かの人間の思いが歴史があるものだとなる。
ただ正直家でも負担になってしまう、大きいと掃除するだけで負担になる。一人だと余計にそうもなる。
この家でも築50年で傷んできたのである、でも住み続けるほかないのである。

2023年05月23日

市川猿之助の両親、老々介護か (2025年問題は深刻化する―団塊ジュニアには独身者が多い)


市川猿之助の両親、老々介護か

(2025年問題は深刻化する―団塊ジュニアには独身者が多い)

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歌舞伎俳優、市川猿之助(47)が18日に東京都内の自宅で両親と倒れているのが発見された騒動で、亡くなった父の市川段四郎さん(76)を母の喜熨斗延子さん(75)が老々介護していたとみられることが22日までに分かった。

2025年も問題は始まっている、76歳と75歳とは団塊の世代にもなる。この世代は人口のボリュームが厚い、だから介護するにしても割合的に少ないとしても多くなる、だから2025年問題が言われるしすでに始まっているのである。
76歳の父親と75歳の母親というとき自分自身がその年代だからである。その子供たちが介護することになる
その年代が五十代になる、猿之助さんは48歳でもその年代になる。
近くの人は73歳の女性でやはりその息子は52歳とかである。
やはり早いとしても脳梗塞になり入院して介護状態になった
幸い軽くすんだので母親は自力で生活ができるので介護にはなっていないから助かったのである。

ただその後息子は交通事故や階段で足をくじいて仕事できなくなったとか不運が重なって苦労している。仕事は一か月以上休んでいるのである。それで収入もない、貯金もないから援助してくれとなる。ここでの問題は金銭的な問題もありまた人手もないということもある。何故ならその息子は独身だから妻の助けも得られないからである、団塊ジュニアは結婚していない人が多いのである
猿之助さんも結婚していなかった。そして一人っ子だった
すると相談相手もいなかったとなる。

結婚していない人また一人っ子の問題

団塊ジュニアには独身者が多い

ここに大きな負担となっていたのかもしれない、まだわからないにしてもそのことは自分と似ていると思ったからだ
私も複雑でも両親の介護で一人っ子で一人苦しんで介護したからである。一人っ子は兄弟も姉妹もいないから相談相手がいないからである。金銭的には問題ないにしてもそれだけでは介護できないからである。そして仕事やめると収入がなくなることがありやめない方がいいとしている。猿之介さんも舞台があり介護に手が回らなかったのかもしれない、ただ金銭的には相当に恵まれていたのだから何か介護する方法があったかもしれな、ただ相談する兄弟とかもいないので家族で両親とともに心中しようとしたのかもしれない、その詳細は不明にしても2025年問題はすでに始まっているのである。

ただまだ父親が76歳とかで介護になるのは早いとはなる。
でも確実にこの介護問題は深刻化する、そして悲劇が起きるのが日常化するかもしれない、家族でも核家族化とか小人数であり介護する人手が足りないからである、そして男性の場合外部に援助を求めることが苦手だからである。特に一人っ子とかなるとそうなる。でも歌舞伎仲間とか芸人仲間がいたのだから相談できなかったとのかとなる、その辺の事情はわからない、確かなことは
2025年問題は始まっているのである、それは相当に深刻であり悲劇が続出するともなる、わからないにしてもこの事件はそうした事情が背景にあり起きたとなると2025年問題がいかに深刻になるかを示した事件だったのかとなる

posted by 天華 at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年05月22日

菖蒲の俳句(HIKE about iris) (beingのimage creatorで作る絵の不思議-Image Creator of Being and Haiku)


菖蒲の俳句(HIKE about  iris)

(beingのimage creatorで作る絵の不思議-Image Creator of Being and Haiku)

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草深く菖蒲に大岩村一つ
村一つ色合い濃くも菖蒲かな
岩一つ離れずここに菖蒲かな
貞淑な妻に菖蒲や岩一つ
池映る菖蒲や茶室に心澄む

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これは良くできている


チャットgptチャットでも不思議なものだけどaiで生成する画像も絵画もも本当に不思議である。
文章を入れてそれにふさわしい絵画が創造される。それはなんなのだろうと思う。私は他人の絵から写真から抽象画を大量に作ってきた。そんなことができたのはコンピューターはできて作られたのである。私には全く絵の才能がないからである。でもソフトで写真でも他人の絵画でも変化させると別なものになる。ただそこで著作権違反になっているのもあった。
でもそれもオリジナルの変化でありやはり創作となっているのかもしれない
ともかくコンピューターの特徴は人間の頭脳の代わりになる。それも今まで人間にしかできない芸術の創造の分野まで深く入り込んできていることである。
ただ詩を作ることはまだできないしできない分野も相当にある。
ただ絵画を文章から想像できることには驚くのである

菖蒲と岩と村をテーマにしてbeingのimage creatorで絵画化した。ただ茶室と入れても御堂がでてきたり情報が十分でない
日本の情報が十分に取りいれていないからそんな風になった
でももっと進化すればあらゆる世界の映像が表現できるようになる。だからartとは技術の意味があり技術によって変化するのである。

でも俳句一つでも創作できるのか?また理解して観賞できるのかは疑問である。新しい絵の具のようなものともなる。新しい絵の具が生まれて表現の幅が広がったからである。

With the theme of irises, rocks, and villages, he painted it with Image Creator of Being. However, even if you put it in the tea room, the mido will come out and there is not enough information.
It became like that because I didn't get enough information about the Japan
But if we evolve further, we will be able to express images from all over the world. Therefore, art has the meaning of technology and changes depending on the technology.

But can you create even one haiku? It is doubtful that we can understand and watch it again. It's like a new paint. This is because new paints have been born and the range of expression has expanded.

mido

In Buddhism, a hall where Buddha is enshrined. It also refers to a small sized  temple.


2023年05月21日

空き家の庭に咲く菖蒲と残された岩 (日本の風景になった空家)


空き家の庭に咲く菖蒲と残された岩

(日本の風景になった空家)

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草深く菖蒲に残さる岩一つ
夏の夕鹿狼山見え相馬暮る
菖蒲咲く白紫に黄に暮れぬ

我が庭に薄紫の薔薇一輪隠れて咲きぬ誰か知るらむ
ひそけくも桐の花散るこの道に物音もなく我一人行く
雨しとと桐の花散るひそけしや今日もこの道我は行くかな
何語る空家の庭に残される岩や草むし菖蒲咲き暮る

身近でも空家が増える、隣も空家になった。地震で壊れてそのために家を壊して空地化したのもある。すでに身近で十軒くらい見ている。
これもすぐ近くで空家化した。草が生えてそのなかに菖蒲が咲いていた、そして大きな岩が一つ残っている
草深く菖蒲が咲くというとき別に今は田舎だと咲くのはめずらしくないのである。でも空家の庭に咲いているから違っている。
この岩でも人間化してまだこの家にいるとかになる。こういう景色は原発事故で避難区域になった町や村では空家だらけであり庭でも人が住まずここと同じようになっている。
ただ地震で屋根が壊れても直している家もあり全く放置されたものとも違う、でも全く持ち主もかかわらない、放置された空家もある、それで誰も利用しないからもったないとみる
何か利用されれてもいいと思っても持ち主がいるから簡単にできないのである。
とにかく空家はこれからも増えてゆく、この辺は避難区域から移住した新しい家が増えたからいいにしても空家は確実に増えてゆくのである

鹿狼山はこの辺では原町からでも見える。400メートルくらいでありそれでも遠くから見える。この辺では高い山はないからものたりないのである。

庭にどういうわけか一輪この薄紫の薔薇が隠れて咲く、なぜか一輪ひっそりと咲き散る、桐の花もひっそりと咲き散る、桐の花は不思議な花である雨にしとしと濡れているのがあっているのである



利から金から離れられない人間 (逆に利から離れた金にならないことにこそ真の価値がある)


利から金から離れられない人間

(逆に利から離れた金にならないことにこそ真の価値がある)

人間は一時たりとも金から離れることができない。人間の関係は利益利害関係から成り立っている。だから学生時代が貴重なのはそこに利害利益のことが関係していない場だからである。
だから友情でも育まれる。でも一旦社会に出たらもう利益利害金から離れることができない。それで学生時代を懐かしく思う人も出てくる。
例えば宗教ですら今は大概カルトになっているのだがそこでも普通の社会よりご利益利権を求めている。
そういう場に入ったら頭の中が御利益と利権しかなくなる。
だから一体それが宗教なのだろうかなぜ宗教を標榜しているのだろうかそれは全くわからない。
なぜ宗教が出世する出る世の中から離脱する。つまり世の中の欲から離れて心を浄化する。そのために利権とか金とかから離れて修業したのである。
ところが出世という意味が全く正反対になった。出世とはまさにこの世の地位と富とか権力を得ることになったことでもわかる。

この世に生きることはまさに出世争いであり宗教のようなこの世から出る離脱して悟りを開くなどと全く関係ないのである
そこでは返ってあらゆる欲が肯定され欲があればあるほどエネルギーがあっていいとなっている。だからこそあれほどの人が集まるのである。本来の宗教とは正反対なものでありなぜそれが宗教を標榜しているのかまったくわからないのである。
つまりカルト教団とはもっともその聖なるものを汚している団体なのである。ただ数が多く権力を持っているので容認されているのである。

その人は自分の欲望にをむき出しにしてその欲を達成しようとしている。女性に対してもそうだしまたあけすけに金が欲しいとして働き金を要求する。でもその人の方は正直なのである。
でもカルト教団などは宗教を標榜していてもその本来の宗教を追求しているわけでもない。全く正反対のものを追求している。
だから理論的には矛盾している。でも人間は理より利を追求している。だから理論的に理想を追求してもまったく逆のものになっているのである。それはカルト教団でもそうだし共産主義でもそうだったのである。

理に合わなくても利に合えばいい

人間は別に理論などは理解しなくてもいいのである。利益になることは金になることは即座に理解する。それは発達障害の人も利に聡いのである。毎日の暮らしでになることは利益になることは即座に理解するのである。
不思議なのは発達障害の人は何か簡単な計算はできないのに算数ができないのに日日買い物して金を使っている。だから金がいかに重要なものか知っているし金がないからとにかくわずかでも安いものを買っている。人間はともかく利益になること金になることは即座に理解する。だからこそカルト教団はご利益を説き進めるからあれだけ数が増えてくるのである。

でもみんな毎日金に追われ金に使われそれが嫌になって金のない世界に行きたいとなる。現実にまた地獄の沙汰も金次第とまでなっているからだ。
それで全ての価値は金で測られる。金にならないものは価値がないものとされる。でもそういう世の中に生きているとかなにならないものこそまた金とか利益とか関係しない人間関係とか価値が本当に価値あるものかともなる。
だから学生時代は本当は純粋に学問であれ何か社会に出る前に利益ではない金と関係しないそこで友情などを育むことになる。でもそういう場でも純粋に学問や真理を追求する場でもなくなっている。将来の出世のための勉強であり社会的地位を得て裕福な暮らしをしたいそこに既に利益のための勉強となっているのである。
だから逆説的になるが金にならないこと利益にならないことそのことが何か本当に人間にとって価値あるものなのかとまでなる

日本語で遊ぶとは遊ばされるとか何かこの世の利益とは離れたところにありそれが聖なるものとされた。
遊ぶとは利益を求めないことである。でも子供なら利益なしで純粋に遊ぶということがある。でも大人になれば利益なしでは遊ぶこともしない。頭の中は利益しかないのである。金の事しかないのである。とにかくあらゆる人が日日刻刻と金の事しか頭にない。利益のことしか頭にない。そこから離れることはこの世にいる限りできないのである。

利益から金から離れられのは死かないともなる
なぜなら

死者はもう利益とか金を求めない

死者が求めているのは何か?

心より愛すものでありその人を思うことは要求されているのである。死者はもう金も要らないし何も要求しないからである。
そして死者と生者との関係でも介護でも生きているときは負担になり苦しいとなるが一旦死ぬと誰でももっとよくしてやればよかったと後悔しているのである。

なぜなら死んでしまうと何もしてやれないからである。
逆に死んだ人にとっても生きている人に何もしてやれない与えてやることはできない。だからもっと何かしてやればよかった与えてやればよかったよくしてやればよかったとなるのである
でも一旦死ねば生きている人に死者は何もできなくなるのである。だから人間は死なない限りこの世の利益から欲からでも離れることができないのである。死んで始めて利益から欲から離れることができるのである。
でもその前にこの世に生きている時でも利益とか欲から離れることは価値あることになる。つまり利害関係なく利益を追求することなく真善美とか追求することは最高に価値あることになるのである。
でも実際にこの世でそんなことは実現しない。なぜならこの世では利益からよくから金から一時も離れることができないからである。
そういう世の中で利益から離れたこと利害から離れたことそのこと自体が大きな価値があることにかえってなっているのである。


今私は天の神の作った庭園にいる
さまざまな花が咲きその花を見てて飽きない
ただ私はその花に見とれその美に讃嘆する
花々は争うことなく調和して常に咲いている
その美は神が想像したイデアである
神は示したかったのはそのイディアなのである
それは無償で見られるものである
またその果実でも無償で得られるものである
そこに金は介在しない
様々な果実を食しその神のイディなる花々を見る
そこが天国なのである。

2023年05月19日

abstract painting -city and mountain

abstract painting -city and mountain

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perple city

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abstract garden

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holly mountains

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big hidden rock in the forest

世界は、実体経済に寄生する巨大ファンドが経済を仕切っている (貨幣と紙幣が生まれた予測されていた)


世界は、実体経済に寄生する巨大ファンドが経済を仕切っている

(貨幣と紙幣が生まれた予測されていた)

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怪物世界ファンドの正体】日本はチマチマした既得権バームクーヘンが支配している。
しかし世界は、実体経済に寄生する巨大ファンドが経済を仕切っている

アメリカの特権階級のことを加治将一氏は批判しないと書いたがそれはここで説明していた。ファンド会社がありそこで日本の予算の倍もの金を動かしているという、これも驚きである。
金融経済にかかわる人が一億人くらいいる。そのなかで実質的に巨額の金を動かしているのはファンド会社でありアメリカに
1000人くらいいる。
そのトップはプライベートジェットをもっている。それも大きなもので外国にも行けるものだという、そしてその人たちは税金を納めていないという、その人達は政治家とも通じていて金融経済を支配している。陰謀論になるとこの世界の実質的支配者だとなる。

加治氏はアメリカでビジネスしていたからその裏のことを知っている、現代のグローバル経済は実体経済から乖離した仮想世界だとしている。実体経済でやりとりする金より50倍とかの金が金融経済でやり取りされるからそうなる。
それも日本の予算の二倍の金が動いているというのに驚く
それでファンド会社でも金融危機になること恐れている
そして加治氏はこうした仮想の金融経済にかかわらない、株とかにもかかわらない、そういうシステムに組み込まれないためだという、そこでアンテークコインをすすめている

グローバル経済が実体経済でない物と物の交換ではないやり取りではない。金融は実体経済に寄生して巨額の金をもうける。
仮想世界で金を儲ける。それで加治氏自身が株でもやめたとなる
そういう世界にかかわることに嫌気がさしたとなる。
この判断は正しいとなるのかもしれない。もうしこのカラクリに気づいたらみんな株など投資しないしグローバル経済も資本主義も終わりとなる。そういう変換点に来ているとなる。

だからロシアでドルを使わないとかまた中国でわ人民元を使うとかなる。それは公平なものではないからそうなる。千人くらいのフアンドの人たちが世界から富を奪え巨万の富を得ているのである。そのカラクリに気づけば賭博場でいかさまだとして暴れる人がいて時代劇になっている。
でも結局胴元に抑えられて殺されたりしている。
ただ千人くらいの人がこの世界を操作できるのか。そこにはアメリカという巨大な国が後ろ盾となり覇権国になっているからできるとなる。でももう世界でわそれがイカサマだと気づいているからドル支配も終わる。

またグローバルを経済であれ資本主義であれそんなイカサマの賭博場に気づいてみんな手を引くとなればグローバル経済も資本主義も終わりになる。それでアメリカの人たちですらニューヨークのウオール街に反感を持ちデモをしたことでもわかる。
今世界はそうしてアメリカの覇権国から離脱して別な経済系を確立しようとしている。それでアメリカは衰退してゆくとなる。
アメリカは世界からの市場指示を失いつつある。でもまだ中国とかとは逆に信頼されていない。そうよう変換点二きているのである。

そもそもなぜそうなったかというと貨幣が生まれた時そのことは予想されていたのである。本来は価値は物自体にあり貨幣にはない貨幣にはない。でも貨幣が生まれた時すでにその未来は予測されていた。ギリシャでも紀元前6世紀にすでにすべてが金だとなり社会が歪められたことで嘆いていたからである。
貿易というときそもそも物々交換が基本にある。だからハイエクの言うように塩と黄金が等価で交換されたともなる。
ただ貨幣には紙幣でも持ち運ぶことや何でも買えるとか蓄えることなど便利であり必然的に生まれたものである。でもその弊害が大きくなりすぎたのである。グローバル経済ではもうその規模が天文学的であり誰も見通すことができない。

そして千人くらいのファンドの人が巨額の金を操作して金融市場で儲けている。そういうことに世界の人も気づき始めているからドルが基軸通貨として通用しなくなりドルの価値は下がってくる。貿易は別に物々交換が起源だとすれば人間の生活はこの地球で始まった時からすでにあった。それは互いに足りないものを補うということでもあった。
ただそこに貨幣が生まれた時貨幣に左右されるようになったのである。物の価値より貨幣の価値が大きくなったのである。
それがグローバル経済になるとその規模があまりにも大きすぎるのでその貨幣を紙幣を使って実体経済を支配するようになったのである。

なぜインフレになるかというとそもそも紙幣とはいくらでもすれば作れる。例えばある商品の価値があるとする
それが10とした時、紙幣なら100を簡単にすり作れる。
すると10の値段のものが10倍になりインフレになる。
つまり貨幣であれ紙幣であれそれは大したコストもかけないでいくらでも作れる。だから物の値段はあがり人々は物価高に苦しむことになる。
本来は物の値段はどちらが高いというものではなく互いに別の価値あるものと交換することである。りんごとみかんの価値は別物である。どちらが価値あるというものでもない。だからこそりんごとみかんは交換される。そして別々の価値として味わうのである。
でも貨幣で紙幣でものを買うというときはそうではない
そこから経済自体が歪められるものとなったのである。ある人はりんごを作るよりみかんを作るより野菜をつくるより紙幣でも作ればなんでも手に入るとみる
その紙幣でも貨幣でも作れば汗してりんごでもみかんでも野菜でも作る必要はないと見る。それは実物として交換しなくても手に入るからそうなるのである

そういうものの延長として現在のグローバル経済があり金融経済で歪められたものとなったのである
貨幣とか紙幣が生まれた時どうしてもこうして歪められたものとなったのである。だから紀元前6世紀にすでに貨幣によって歪められた社会となりそれが現代でもグローバル化して複雑化して同じ問題が起きているのである。要するに貨幣であれ紙幣であれ大量に作りそれで巨万の富を得る人たちがいる。
その人たちは何も実物として作り出していないのである
そういうからくりに世界で気づきつつありグローバル経済とか資本主義が終わるとなる。株に投資しないというときそれがイカサマだからである。
そうしてグローバル経済化から手を引くとグローバル経済も終わりとなる。ただ貿易とかはなくならない、不公平なグローバル経済や資本主義が終わる。だから次は社会主義だとはならない、それも失敗だったことは歴史が証明しているからである。

posted by 天華 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年05月18日

グローバル経済資本主義が破綻して終わる (それはアメリカなどの極一部の特権階級が儲かるシステム)


グローバル経済資本主義が破綻して終わる

(それはアメリカなどの極一部の特権階級が儲かるシステム)


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【金融経済大混乱!円安は誰にも止められない!】6月1日、米国国債上限問題!世界資産の80%を締める金融経済!
実物経済の50倍が金融経済

実物経済の50倍が金融経済


economyの語源は、ギリシャ語のoeconomia(オイコノミア)です。oeconomia(オイコノミア)はもともと「家計管理・節約」を意味していました。



今の経済はかけから家計から考えた時代より信じられない何兆倍もの規模の経済である。だからグローバル経済というのは誰も結局わからない見通すことなどできないのである。
人間の見通すする範囲は限られている。その実際に交際する範囲にしても限られている。いくらグローバル化したからといって外国の人と直接接するわけでないしその実態は理解できない。
だからグローバル経済というのは常に陰謀論になるし覇権国はアメリカは世界の富を集めて富裕層は後進国の何十億人を稼ぐより金が入ってくるのである
それは額に汗して危険な労働しなくても金融の操作で得たものである。そういう労働をじかに見ていれば金の払うことに文句は言えないだろう。

でもグローバル経済の金融資本主義の世界はそうはなっていない
現実の実態経済より金融のやり取りの金が相当に多いのである。もはや実際に物と物の交換が経済の基本にあるがその物から離れて経済は何千兆円というもう実感できない金がやり取りされて利益を上げる。特権的地位につけば金が労せずして入ってくるとなる。
世界は自由主義社会は市場原理で平等だと言うが実際はある特権階級が信じられない巨万の富を手に入れるシステムだとなる。
それはアメリカだけではなく中国でもそうである。ほかの国でもそういうことはある。だから一概にアメリカが全ての富を得ているとはならない。
でも実質はドルは世界の基軸通貨になっているからアメリカがどうしても一番得するようになっているのである。また金融を牛耳るIMFなどがありそれで実際は自由主義市場ではなくそこで金融市場でも操作されて世界の富は一部の特権階級に奪われているともなる

加治将一氏のいうことはアメリカでビジネスしているから説得力がある。学者の言うことより肌で経済を知っているのである。
だからそのいうことはほかの人とは違っているのである。
でもなぜかアメリカの特権階級の巨万の富を得ている人を批判していないのもよく理解できない。日本の特権階級の人たちは常に批判しているがアメリカの特権階級の人を批判していないように見える。
アンティークコインとは富裕層の資産を保全するためにある。そのために富裕層に奨めているのかとなる。

いずれにしろグローバル経済というのはその実態をすべて知りうる人は一人もいないと思う。それだけあまりにも巨大すぎるのである。だから株式というのは世界になれば上がったり下がったりするから先を見通すことなど誰もできないと思う。
だからそれは突然天災のようにクラッシュしたりする。それはもう人間が操作する範囲を超えてそうなるのである。ある人は株が上がるとか下がるとか常に予想してもどれが真実かは誰も分からないと思う。
まるで津波の地震を予測するようなものである。地震の予測は誰も実際はできない。だから素人でも色々なことを言う。それは学者でも正確に予測できないからである。グローバル経済も一見わかるようなことをいうが実際は誰もその全体を知りえる人はいないのである。だから世界のギャンブル場だという人もいる。実際にギャンブルなのである。
実際の経済とは関係なく金融市場で金のやり取りがされている。

金をただ右から左へと回して巨額の利益を言っている。そこに結局設けているのは賭博場の持ち主であり胴元がもうけているとなる。ただある時その賭博場に関わる人に一時的に儲けさせたりしてはいる。でも本当に儲けているのは胴元なのである。
株でもそうなのである。それでギャンブル場であり株が上がるとか誘われて素人は大損することがある。
今日本の株価上がっているけどそれも実体経済とは関係ないのである。なぜならこれほど貧困者が増えているのにどこで景気が良いのか全くわからないからである。
もし高度成長のような時代ならそれを認める。みんなが豊かになったのだから株も上がって当然だとなる。今これだけ貧困で苦しんでいる人がいるのにどうして株だけが上がるのかそれはやはり実体経済とは関係なく操作されているのである。

結局あまりにも巨大化したグローバル経済のことなど誰もわからないのである。そこで運よくギャンブルで儲ける人はいる。
でもそれは極一部の人なのである。高度成長の時代のようなときはみんなが豊かになったから実体経済と株は合っていたのである。今どうして株が上がったからといって日本人は豊かさを感じるかというと返って電気代が上がるとか物価が上がるとか多くの人が苦しんでいる。そんなときにどうして株が上がるのだろうかとなる。
それは実体経済とは関係ない金融資本主義で金が右から左と左へと移動してるだけのように見える。そもそも日本は景気良くなる何かがあるのかとなればせいぜい観光で外貨を稼ぐくらいだとしたらなぜ株が上がるのか理解できないのである。だからまた天災のように突然株が下がり損する人も出てくる。

それでグローバル経済というのは結局公平ではないしギャンブル場であり胴元が得するシステムだともなる。それは胴元がギャンブルで取り仕切り設けているということである。
それがアメリカの特権階級だったりする。そこで陰謀論になる。
でもその実態を知ることは難しいのである。

それでもうグローバル経済は破綻するという主義も終わると言う。それは公平なものではない。だからこそもう限界であり終わりとなる。
銀行と言うときすでにバビロンにあったのである。その時も銀行に預けてなんとかしようとしたが滅びたのである。
つまりいかなる人間が作る文明もいずれは滅びるということである。クラッシュして破綻するのである。世界統一ができたとしてもそれは悪夢である。それは世界を支配する人であれ国であれその権力で人類を思いのままに操作することになる。
今や国だけではなく人類を操作するのは国際的大会社かもしれない。そのためにビルゲイツなどが人類削減のためにウィルスをばらまいたとかなる。コロナウイルスの前にしきりにウイルスのことを言っていたからである。
要するに人類を統一することはできない。人類を統一することは神の怒りに触れてバベルの塔のように崩壊することになるのである。それが人間の宿命であり人間を治めることができるのは神しかいないのである。

そこには世界政府がない、すべての国の国民に責任を持ち。グローバリゼーションのプロセスを監督してくれる監督してくれる存在がないのである
そこにあるのは世界政府のない世界統括とても言うべきシステムである。少数の機関ー世界銀行。 IMF、WTO,−と少数の人間ー特定の商業的金融的利害と密接に結びつく金融や通商や貿易の担当者ーが全体を支配してその決定に影響される多くの人々はほとんど発言権のないまま取り残されている
世界を不幸にしたグローバリズムの正体ージョセフ・E・ステイグリッツ

グローバリゼーションはこのようにとても人間の血の通ったものとはなれない。そこに道徳なき経済になり実際はアナーキーにもなっている。だからこそ必ず突然にクラッシュが起こり恐慌が起こり世界がアナーキーに無政府になってしまうのである。
そこで発展途上国のことなど貧困者のことなど表向きは助けるような事を言っても無視されているのである。
もう誰が操作しているのかどういう風に経済が動いているのか知り得ないのである。それで必ず陰謀論になるのである。

そして通貨でありそれも実際は人間を弱めたものになったのである歪めるものになったのである。貿易とは本来は物々交換であった。そこに貨幣生まれた時歪められたのである。何か物だったらものを与えるときそこにものが憑くとかなる。物は神そのものが作ったものであり本来は金に換えられない価値がある。その価値は神しか作れないものだったのである。。りんごであれバナナであれみかんであれその価値は神が作ったものであり人間が人間を作った作れないので。
だから人間に直接りんごであれ野菜であれ与えるときそこに人間の心が乗り移る。近くの農家の人でも取れた野菜を食べてくださいというとき何かそこに心がこもり金を与えるのと違っている。金を与えるときそれは確かにありがたいものでも紙幣だったらそれ自体には価値がなく紙切れに過ぎない。

つまり貨幣でも紙幣でも媒介するものでありメディアなのである。それ自体には価値がないのである。だからどうしても貨幣が生まれた時ギリシャでも紀元前6世紀でもう金のために社会が歪められたと嘆いていたのである。
グローバル経済でも金融資本主義となり実体経済とは別なものとなり世界が歪められたと同じである。
そして紙幣は貨幣でも人を支配する道具となる。アメリカはドルで世界を支配できる。だからそれに反発する中国とかロシアでも出てくるのである。つまり紙幣とは支配する強力などう道具であり媒介物でありメディアなのである。
だから自由経済であり自由な市場でありそこに公平があるなどということはないのである。それで今アメリカが力が弱っていくとき中国の人民元が世界で通用するようになる。。
いつまでもドルは世界の基軸通貨とはならない。一番貿易量が多い日本でもいずれ人民元を使うようになるというのもそうである。。

それで日本でもアメリカ一辺倒になっていると問題が起きる。中国との貿易量が多いのだから経済的に問題が起きる。
やはり東西文明があるとき現在は西洋文明になった時逆に東側が今度は優勢になってくる。。それは長い間の世界史で見ればそうなっているからである。次に台頭するのはインドでありそれも東洋なのである。西洋文明は衰退してゆくアメリカもヨーロッパの拡大したものでありそれが行き詰まってゆくともなる。
それが今世界の大きな転換点になっているということである。
posted by 天華 at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年05月16日

相模武蔵の古代史から解明される中央政権との深い結びつき (続日本書記に記されていたので判明したー歴史の記録の大事)

相模武蔵の古代史から解明される中央政権との深い結びつき

(続日本書記に記されていたので判明したー歴史の記録の大事)

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久良岐郡(くらきぐん)は、神奈川県(武蔵国)にあった郡

奈良時代の人々の暮らし/小宮まゆみ/第51回港南歴史講座

歴史は記録されることと中央政府と結びつくことから過去が解明される。そのことがこのユーチューブで理解した。
戸籍がなぜ作られたのかそれは班田収授法で国民に土地を天皇から与えるそして税を取るために作った。つまり日本の土地はもともと天皇のものであり天皇から与えられたものであった。
なぜ戸籍が作られたのかそして現代まで日本で戸籍があり続けているのかそれは基本的には国民から税を取るためのものであった。なぜ日本で世界ではなくなった戸籍があるのかそれが古代から始まり現在まで続いているというのはなぜなのか
それはと天皇制と深く関係していたのである。
戸籍でもって国民のを支配するためだったのである。そこには家族の一人一人の年齢とか男女別とか記されていて何歳になれば税を納めるまた兵士に徴兵することができる
これは今のマイナンバー制度とも似ている。そこから国民の財産を全て国で管理して税金を取ることになるからである。

相模とか武蔵国関東の一地域のすでに飛鳥時代からも平城宮時代からも深く関係していた。
それは一つの木簡から明らかになったのである。飛鳥から発見された木簡に記されたものから明らかにされたのである。飛鳥時代からというとずいぶん古い時代からすでに中央の支配があり租庸調があり調として米とか布で納めていたのである。
でも奈良といえば相当に遠い。どうして運んだかとなるとやはり東海道に道が作られていて荷物を背負って運んでいた。
その道幅は12mもあったというこれはその後からできた鎌倉道とかより広いのである。それはあたかもローマ帝国の道にも似ていたのである。だから思ったより日本はすでに中央政権の強力な国家が生まれていたのである。
その頃貨幣は和同開珎ばどが作られていたが流通していない、でも平城宮とかでは貨幣は流通していた
でも地方では流通していないから調として麻の生地などが貨幣代わりになっていたのである。

そして平城宮の一部に久良郡の税を納める倉があった。それは豊臣秀吉の政権の伏見城に最上と伊達の屋敷があったようにすでに中央政権と深くかかわっていたのである。
飛鳥というと平城宮とか藤原宮の前なのである。関東はすでに東海道を通じて奈良と結ばれていたのである。それは京都と大阪と今でも東海道で結ばれていることに通じている。
もともと武蔵国というと埼玉の行田に近い、そこは稲荷山鉄剣が発見されたことで有名である。それだけ飛鳥時代以前からでも大和朝廷の建国前から中央と深い関係にあったのである。

ただ史実として正式に国の歴史として続日本書紀に記されるいたので証明したということは大きい。
歴史というときどうして解明するのかとなるとやはり明確な証拠となるものが欲しい。それがやはり文字として記録されたことに頼ってしまうのである。文字が明らかな証拠として残り証明されやすいのである。
でも柳田国男はそうした文字に頼らないで口から口へ伝えられたものを重視する民俗学を起こしたのである。
だからすべて文字から歴史が解明されるわけではない。でも古代とかなると何か言い伝えがあるとしてもそれはそれが真実かどうか曖昧なものとなる。すると文字が強力な証拠になる。
そして庶民でも文字を漢字でも理解してたという。それで土器に文字らしいものが記されていた。それは文字の練習だったらしい。中央から奈良から国司が役人が派遣され地域の人に文字を教えていた。また国分寺などを必ず建てたから僧侶が役人の代わりに文字を教えたとなる。

万葉集に庶民の歌が載っているのはやはり文字を理解していた人がそれなりにいたということを証明している。
いずれにしろ意外と飛鳥時代からでも東海道地域関東地域はすでに奈良の中央政権と深く結びついていた。
それを一地域から解き明かしたこのユーチューブは参考になった。
ではなぜ東北となるとみちのくとなると歴史として分かりにくいのかそれは中央政権との結びつきが明確にわからない。続日本書紀に記されてもいない。でも東北にも中央政権と関係した役所である郡衙があった、ただ中央との関係が明確ではない、日本書記には載っていないからである。

南相馬市原町区の泉官衛跡は有名であり木簡も出ている。でもそれをこのようにわかりやすく説明されていないのである。またそれだけの資料がないということで説明されていない。この相模は武蔵のように中央政権との結びつきが明確ではないのである。
続日本書紀であれ明確な証拠として残されていないのである。
それで想像になってしまうのである。
ただみちのくの真野の草原の万葉の歌は明らかにこの辺までが奈良の中央政権とは支配した地域であり真野の草原とはその境界のをさしていて奈良の中央政権が認定した地域でもあった
でも明確に奈良の中央政権とのつながりが正式の国の記録に載っていないので想像になってしまうのである。

つまり歴史というのは時代がさかのぼれば遡るほど明確なものはわからなくなる。そこで記録された国の正式の文書は証拠となってしまうのである。その証拠があり関東の一地域の古代が明確にされたのである。
例えばこの辺で起きた津波のことでも相馬藩政記に二行だけ生波(いくなみ)で700人が溺死したという記録が載っていた。それは津波が来てからわかったのでありそれまで忘れ去られていたのである。学者すら知らなかったのである。もしこの二行のことをみんなにしらされていれば来ないなど思わなかったろう。いかにこの記録が重要であったか思い知らされたのである。
だから歴史というのは文字から頼ることがどうしても多くなる。それで誤解が生じることもあるがが文字というのはそれだけ大きな役割があったともなる。



youtubeで説明されるとわかりやすくなる。説明でもうまい人は人気がでる。また郷土史でもこうして全国の人と結ばれる。
こうした一地域のことはわかりにくいからである。
でも地域からでもインターネットで個人放送局となり発信できる
それも専門的なことでもできる、小数者相手でもできるし金もかからないからである。
ただ手間は省けない、win11にして親指シフトが使いないので音声入力にしたがうまくいかない。
youtubeをしてみようとしても手間なのである。
ただ居ながらにして大学の先生であれ講義を聴ける時代である、いちいち学校に行く時代も終わるのかもしれない、何か関心があれば知識を深めることができるからである。



2023年05月15日

使いすぎる電気ー電気を減らしても死ぬことはない (グローバル化拡張成長の時代の終わり)


使いすぎる電気ー電気を減らしても死ぬことはない

(グローバル化拡張成長の時代の終わり)

●電気代があがり家計を圧迫

電気代ガス代水道代などがあがりめんなみんな困っている。
でも戦争は終わり団塊の世代が生まれたがその時ガストか水道は使っていない電気は裸電球一つしか家になかった。暖房は炭だった。それは江戸時代からの続きだったのである。電気製品などなかった。その時不思議なのは電気が使えないとか電気代が上がるとかそんなことを心配もしない。

そもそも電気も使ってないし電気のことを心配している人もいなかったのである。今になるともう電気なしでは生活できない。電気なしではもう生きてゆくこともできない。それは車がないと生きていけないともともなる。でも車はない社会は江戸時代から続いているし人間はそれでも生きてきたのである。
だから電気なしで生活できないとか水道なしで生活できないとかもう死ぬほかないどこまでなるのはそういう生活に慣れきったためである。

現実に電気水道ガスを止められるともう料理もできないし死ぬほかないともなる。それで貧困家庭はそれが払えないので苦しんでいるのである。でも戦後間もなくは電気水道ガスがなかったのである。別にそれでもみんな死ぬということはなかったのである。

●原発は電気を得るためにやめられないのか

なぜこのことを言うかというとこの辺では原発事故があり故郷に住むめなくなった。
でもまた原発なくては日本はやっていけないとなり原発を再稼働しろと言う世論になっている。これもやはり電気社会になり電気なくしてはもう生きていることもできない。また車なしでわ生活できないというのとも似ている。
特に地方では田舎でわ返って車なしでは離れているから買い物すらできないとなりクルマを持つことが必須になっている。
でも戦後間もなくは車などもっていない。近くの店やで用たしていたのである。離れた場所でも萬屋(よろづ屋)などがありそこで買い物してまかなっていたのである。

だから電気水道ガスがない時代が江戸時代からも続いていたのである。その時電気水道ガス代が払えないとか心配する必要はなかったのである。もう電気なしで暮らせないということになったが人間はそれで死ぬことはないのである。
だから電気がなくてもいいとは言わない。でも原発がなくては成り立たないとかようのは論理的にもあっていないのである。
電気がないからもう死ぬほかないというのはあり得ないのである。そしたら江戸時代であれその後の昭和にしても戦前にしても電気など使わないところがあったからである。そしたらそういう人は生活できないみんな死んでいたともなるからである。
これほどまでに電気が大事になったのはやはり電気文明になりそれがさらに原発文明にもなった。でもその文明も電気が得られなくなると消滅するとなる。でも電気文明になったのはここ百年くらいでしかないのである。だから電気がなくても人間の生活は継続できるのである。

●電気は使いすぎるから減らすべき

電気がなくてもいいというのではない。電気を使いすぎる。そこに問題があり電気がなくていいのかという極論になることはよくない。それは金でもそうである。金はあった方がいい。金がなければ金を全部否定することはできない、電気をすべて否定はできない
でも電気を使いすぎる。それは夜でも煌々と明るくして電気を使っているからである。つまり電気を使いすぎるのである。夜でも昼間のように明るくすることが果たして理に適っているのか。夜は暗く眠るときである。その夜まで煌々と電気により明るくしていることが自然に反しているのである。
他にも電気を使いすぎる。そのことに問題があり最小限の必要な電気を使うなら電気代が上がるとか電気がなくなったら生活できない死ぬほかないというふうになるのはおかしなことなのである。

でも全員がそう思っているからそのことに反対できないのである。そのために原発が必要だとなり再稼働しろとなっている。
そしたらまたこの辺のように事故になり故郷に住めなくなるである。
だから個々人が電気がなくても生活できるし我慢できるとかなればそうはならない。でも現実はみんなが電気なしでわ生きていけないと思っているから原発でも必要であり再稼働しろとなっているのである。
でもお前も普通に電気を使っている。他の人より人より使っているのではないかとなる。そこで説得力がないとはなる。

●電気がなくていいのかと脅迫もされる

でも電気がないと生きていけないとか車がないと生きていけないとか思いこんでいる。それらを全て否定するわけではないが電気代が上がり電気を作るための石油であれ石炭であれ円安で高くなる時どうすればいいのかとなる。
その解決方法は何なのかととえばやはり電気をは使いすぎる。またソーラーパネルとかでも山を丸裸にして埋めている。
それで大雨が降り山に保水能力がなくなりまたソーラーパネルが崩れて被害になる。それも必ず電気なくしては生活できない。
文明そのものを維持できない。そのようにみんな思い込んでいるのである。。それに逆らうことはできないのである。

でも電気代がばか高くなってもう払えないとなるときやはり電気代を減らしたいとなる。そうし得られない時どうするのかとなる。炭の時代に戻ることはできないとしても一体どうすればいいのかとなる。
すると天気を減らす使うことを論理的に必要だとなる。電気を全くなくすというのではなく減らすということである。電気を減らすとなると返って人口が少なくなると自ずと電気を使う量は消費量は減る。
そうなると人口が日本でも相当に減っていくからそんなに電気も使わなくてもいいともなる。すると人口が減ることが悪いことばかりでもないとなる。

●人口減少は電気でも減らすことになる

つまり今世界では人口が増えればそれだけまた電気が必要になり電気に頼り電気がなくなれば生活できないとなるのである。
そして電気がなければ死ぬほかないとまでなる。そのことが何か間違っているのである。
もちろん山尾三省のような生活は無理である。ただ明らかなことは電気を使いすぎることは確かである。夜でも明るくして電気を使うことは自然の理に反するからである。夜だけでも天気を最小限にして暗くなってもいいとかなればそんなに電気ににこだわる必要もないかもしれない。では前が夜暗くして暮らせるのかともなる。
お前は蝋燭で夜も暮らせとなる。そういう極論ではなく電気を使い過ぎることは確かなのだからある程度は減らすことが必要なのである。でも電気を減らすことは至難なのである。

ところが右寄りの人は原発推進派である。それはなぜなのかというと外国に中国でも対抗するには電気でも必要であり原発でも必要である。なぜなら原発からはプルトニウムなど核に使うものが作られるからである。原発が必要だという時核武装が必要だからともなっている。
そして日本は外国と対抗するために少子高齢化でわできないまた経済成長しなければ対抗できない。
でも日本には経済成長できないその時代は終わった。もう一度高度成長時代を夢見てもそれはもうできない。でもいったんそういう時代を経験しているからまた高度成長時代がくるという幻想に憑かれているのである。。
成長時代があっても必ず衰退してゆく。それは中国でも同じだし世界的にも帝国になっても領土を拡大したことを経験している。

でもそれも一時的でありやがては衰退してゆく。それは法則のようなものである。世界史でわそういう興亡があり栄えていた国も必ず衰退するのである
おそらく世界的に見ても経済成長するのは限界になってきたのである。世界的に経済成長すれば電気でもさらに必要になる。でもそのエネルギーでも供給するのが限界にきている
だから世界的にも経済成長するということは限界にきているのだと思う。経済成長神話を信じるのはもう限界なのである。
むしろ世界の人口は減るべきでありこれ以上人口が増えることはエネルギーをさらに使うことになり電気でも必要が増大する。

●歯止めがない拡張成長のグローバル化は資本主義は終わる

グローバル経済資本主義の終わるというときそれは地球の資源でも環境でも人間が増えすぎることで地球環境は破壊される。だからこそもう地球の人口はこれ以上増えれば環境が悪化してどうしても電気もさらに必要になり原発も必要になる。だから世界全体を見てもグローバル経済とか資本主義経済が終わるとされるのである。
確かに次はインドが成長する投資先ともなるがインドは中国とは違って何か文化的に経済成長を阻むものがあるかもしれない。
いずれにしろグローバル化資本主義というのは限界に来たのである。コロナウイルスというのもグローバル化とか資本主義に歯止めをかけたのである。資本主義でも無限に拡張し拡大し発展させる成長させるという主義であり思想である。

それが限界にきてもう投資先がないそれで銀行には金が溜まっても投資先がなく利子も得られないのである。
だからこれからの世界はグローバル化による拡張拡大成長することは限界にきておのずと成長でも行き詰まり縮小化して自国優先主義になり保守的になる。
それが中世化するということでもあるがそのことが全て悪い方に働くとは限らない。世界的な成長神話はもうありえない。
グローバル化というのは実際は経済の戦争でありそれに敗れたものは奴隷化される。日本でも成長の時代は終わり輸出するものもなくなり観光でしか外貨を稼がないとかなり今度は外国から中国でも日本は安いとなりもてなしとかで外国人に使える使える奴隷ともなるのである。

●グローバル化の終わりー自国優先の経済に文化になる

そしてグローバル化とは平和をもたらすわけでもない。世界が全部反映するわけでもない。最悪なの何千万人も死んだ戦争になったのである。国と国の衝突があり共存するのではなく敵対して戦争になったのである
だからどこまでも成長拡大するグローバル化は終わったのである。その世界的な変化を見るべきでありそれに反する成長をどこまでも望むというのは返って方向を誤るとなる。

でもそれは何かマイナスに見るし縮小してゆく世界を受け入れにくいのである。でも世界的に見ればもう世界全体で経済成長するということは限界であり無理なのである。そのことを自覚をしていないとやたらさらに経済成長を望むのだから無理である返って原発でも再稼働しろとか原発なしでは日本の国防でも電気がなくては生きられないとなってしまうのである。
それで老子の小国寡民の思想がとか縮小化する世界に合うものとなる。それぞれの国でその風土と地理にあった生き方を追求する時代にもなっている。だから文化的には国風文化の再興になる

でも右寄りの人の軍事力強化とか国防のために原発が必要だとかにはならないのである。軍事力強化とかにはならないのである。ではどうして国を守るのかとなるから国を守ることは必ずしも軍事力だけではない。なぜなら軍事力を突き詰めて行けば核武装になり敵でも味方でも両方は滅びてしまうからである。
勇ましい国威高揚の右寄りの思想はこれからの時代に合わない。
それぞれが自国優先となりグローバル化は抑えられる。グローバル化は世界の文化を風土でも無視して壊してきたからである。
やはり人間はその土地土地に根付いて生活して文化を作ってゆく。それが自然の理合っている。

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

この歌にこそ何かその土地に根付いて充実したものを感じて生きるのである。これからはその土地土地に国々であるものを神から与えられたものを基本にして生きる時代になる。
もちろんそれで外国と関係なくなるわけではない。貿易はあるしそれをなくすことではない。ただ限定されて貿易がある。
基本はその土地土地の国々の財があってありえるのである。それが自然の理に合っているから継続されるのである。グローバル化はその自然の理でも無視するから続かないのである。



posted by 天華 at 16:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年05月13日

飯館村の海岸地帯の気候風土の相違 (山津見神社と焼畑の関係ー安曇一族の八木氏の跡)

飯館村の海岸地帯の気候風土の相違

(山津見神社と焼畑の関係ー安曇一族の八木氏の跡)

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●焼畑に関する引用

御祭神は神日本磐余彦尊(カンヤマトイワレヒコノミコト)、山の神である大山祇神(オオヤマヅミノカミ)、火の神である火産霊神(ホムスビノカミ)は3柱になります。

神日本磐余彦尊は初代神武天皇のこと。

創建は約1900年前に、大和武尊(ヤマトタケルノミコト)が山中で火事に出くわし、その火をニホンオオカミが消し止めたのを大山祇神のご神徳と考え、3柱の神を祀ったのがはじまりです。

宝登山という名前は、「火を止める山」「火止山=ほどさん」に由来します。ニホンオオカミは神の使い・御眷属様(お犬さま)として親しまれ、授与品には白と黒2頭の狼が向かい合う御札があります。

日本武尊(ヤマトタケル)が東征の途中で地元の賊衆に襲われた時、草薙剣で葦を薙ぎ倒し、そこで賊衆を迎えうち、火を放って難を逃れた。その様相が烈火のように見えた、あるいはその火で葦が焼け燃え盛ったという伝承から、「焼津」と命名された

さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の火中に立ちて 問ひし君はも」
(ああ、相模の野原で火に囲まれた時、火中に立ち私を気遣ってくださったあなた)

かつては日本でも山間地を中心に行われ、秩父地方では「サス」、奥羽地方では「カノ」「アラキ」、飛騨地方では「ナギ」、九州地方では「コバ」など種々の地方名で呼ばれてきた
日本ではヒエ、アワ、ソバ、ダイズ、アズキを中心にムギ、サトイモ、ダイコンなども加えた雑穀栽培型の焼畑農業が一般的である。焼畑の造成はキオロシと呼ばれる樹木の伐採作業から始められる。耕作地を更地にした後、しばらく乾燥させて火を入れる。その後に播種するが、1年目はソバ、2年目はアワ、といったように輪作されることが多い[24]。耕作期間は3 - 5年で、その後、植林して15 - 20年間放置し、地力を回復させる。


椎葉さんが営む民宿焼畑に宿泊したのは立春前。夕食には椎葉村で受け継がれてきた伝統食が並びます。ヤマメの背ごしと地鶏のたたき。干したけのこのきんぴら。大根と芋、たけのこ、こんにゃく、椎茸の煮物。山菜の三杯酢漬け。金柑。大根の葉、ヒメジオン、ヨモギ、ムクボカヅラ、ハハコグサ、セリなどの山菜の天ぷら。ノビルと柚子の漬物。ごぼうや椎茸、イリコで出汁をとった「わくど汁」には、ソバを茹で柔らかく溶いた団子が入っています。
そして翌日の朝食には、前日に抜いた平家カブの味噌汁と、平家大根のおろしが添えられていました。椎葉さんの言葉通り、大根おろしはピリッと辛く、ヒエご飯が進む力強い味がしました。

。第一は大陸との交渉が著明でなく,農業の痕跡のない期間,第二は大陸との著明な交渉を持ち,農業の一般化した期間である。前者は縄紋土器の文化に相当し後者の最初の段階が弥生式の文化である」として,特筆すべき事項に@大陸との交渉とA農業による新生活手段の二点をあげた[山内 


暖流の影響を受ける東北南部の海岸部や関東地方の平野部まで照葉樹林はひろがり,また照葉樹林の中にも二次林としてコナラなどの落葉樹林が成立するエリアも存在するのである。この状況は安田氏の森林帯気候の分布図でも明らかに示されている〔安田 1982〕。
落葉樹林帯ではカタクリやウバユリ,ヤマユリなどの野生種を利用するデンプン採集が存在したが,そこからは重要な栽培植物は出現していないという。また照葉樹林帯のタロ系統やヤム系統のイモ類は東アジアの暖温帯に起源があり,そこで品種分化したもののうちわずかな系統のものが列島に伝播した栽培植物だといわれているので縄文時代に存在した可能性は少ない。イモ類は熱帯では主食として利用されるのが多いのに対し,暖温帯ではおかずとして利用されることが多い。

生業からみた縄文から弥生 藤尾 慎一郎

秋田縣の北部より青森縣に亘るマタギ聚落に嶢畑が多いのはマタギを主生業とし焼畑を副とした時代の名残とも見られる。
北上山地の名子と焼畑とは密接な關係がある。この關係は山形縣や幅島縣の一 部に於てもみられた。貧窮者が山小作にて一 部を
焼畑とし,凶作に供へ、生活を支へるのである。

東北地方の焼畑

稲作は前一万年頃縄文時代に種子島ルートで焼畑陸稲耕作が伝わり、前五世紀頃縄文時代後期に北部九州から水田耕作の文化が入ってきた。

対馬の豊玉の津を拠点にする「安曇族」の「豊玉彦命」は島根半島を拠点にする「安曇族」の「穂高見命」と一体化し島根半島から糸魚川(めのおの原産地)に移動入植し、さらに糸魚川を遡上し穂高岳に降臨し、安曇野、信濃の諏訪(黒曜石の原産地)を開拓し、「穂高見命」と兄弟の「振魂命」はさらに日本海を北上し新潟へ移動、入植して阿賀野川を遡上し会津若松に降臨し、猪苗代湖盆地を開拓し、兄弟共に東北の渡来弥生人として活躍した。

縄文・弥生文化を運んだ海人族と渡来先住民(鴨族)の共生

わが国の山地には、古くから、おそらく縄文期以来、伝統的な農耕形態として焼畑が広く営まれていた。近世以前には面積にして20万町歩(約24万ha)を超え、昭和25(1950)年ごろでも5〜6万haにおよんでいたとされている。「むさし」の「さし」をはじめ、東京付近にたくさんある「さす」「さし」のつく地名はいずれも、かつての焼畑の存在を示すといわれるほど広がっていたのであり、近世に確固となる小農自立の重要な基礎となっていた

日本人は焼畑民族だった説


そもそも焼畑はどこから伝わったのか、それは図を見るとミャンマーとかから中国の山岳地帯の雲南から揚子江地帯になる、その揚子江地帯から稲作なども伝わったとされている、気にかかるのはミャンマーの言葉と日本語が似ているという、実際にここにきたミャンマーの人は日本語が上手に話していたのである。やはり日本語と似ているからなのかとなる

●飯館村の山津見神社と佐須の地名解読

文化的には照葉樹林帯の文化になりそれが焼畑をしている人たちであり稲作をしていた揚子江の地域から日本に伝わった。
その橋渡しをしたのが航海などにたけた海人族でありその氏族が安曇族であり日本の山中深く入ってきて土着した
それを証明しているのが綿津見と山津見神であり移動してその地名を残しているのである。
松川浦には和田と山津見という地名がありそれは和田とは綿津見であり二つが対になっているのである。。
この神は一体であり安曇族が奉じる神でもあった。
その移動する経緯が地名化していたのである。
まず南相馬市の原町区は綿津見神社が多い、なぜこんなに多いのかとなる。。
そして山の方の大原にも綿津見神社があった。そこから八木沢峠に行くのだがその八木沢とは安曇氏の後継となる八木氏なのである。その八木氏から矢木沢となったのである。
他にも宇多川を上ると八木原がありこれも八木氏のことなのである。
他に霊山の近くに犬飼という地名がありこれも安曇族の後継者なのである。だから古代の氏族名は地名化がしやすいのである。最初の入植者だからである。
そして焼畑をしたのは佐須であり焼畑地名として残されている。

万葉集」巻13の3270に「さし焼かむ、小屋の醜屋」とある。「さし=焼き畑」。武蔵国の国名も、古くは「ムナザシ」で、焼き畑地名と考えられている。【中世の村のかたちと暮らし 原田 信男 角川選書】

柳田邦男の「地名の研究」によると、「そり」「そうり」は焼き畑を林に戻した所の意味
【かの・かのう】: 「鹿野」「叶」
・ かの(かのはた): 山形県、新潟県、福島県、栃木県。
・ かんの: 新潟県北部、大分県北部(大分県では「さし」とも言うんじゃないか?)

焼畑を示す地名は他にかのとかいろいろありこばというのもそうである。小林のコバである。
だから安曇族の後継者の八木氏が八木沢をのぼり飯館村に入った。
また真野川をのぼり飯館に入ったのである。もう一つは宇多川を登り霊山の方に出て石戸村に入った。そこに犬飼(犬養)という地名がありそれはやはり安曇族の後継者であるからだ。
このように安曇族の後継者の跡が神社や地名として明確に記されているのである。
そして佐須とかは焼畑地名であり他に比曽とかもそうである。飯館村は森が多いから焼畑には適していた。まだ山津見神社の祭神が狼なのは焼畑と関係していて焼畑で作られる根菜類が他の動物にイノシシとか猿とか鹿に食べられるが狼は食べない。狼は肉食でありむしろ鹿とかお食べるから焼畑の芋でも食べられることから守る役割になったので崇められたともなる

●照葉樹林帯の海岸地帯と寒冷地帯の飯館の相違

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飯館村は標高が400mくらいと高い。南相馬市となると海岸沿いであり津波に襲われたように低い倒置である土地である。
飯館村は涼しい高原地帯でもある。でも冬は寒冷地タイとなり稲作には適していない。その植生も寒冷地隊の者であり気にしても寒冷地タイの落葉樹とかになる。
一方で浜通りは照葉樹林の限界地点でもある南限の地でもある南の限界の地でもある。それで奄美大島からなど種が流れ着いて丸葉シャリンバイが海老村に自生したのである。
それは暖かい地域だからである。その気候は人間に大きく作用して風土を作り文化を作るのである

それでみちのくの真野の萱原の万葉集の歌はその風土の気候の境界線だったのである。照葉樹林帯の境界線だったのである。
真野川の上流で栃窪の奥からサンゴの化石も発見されている。
その相違がありこの地域の変化を作り出しているのである。
飯館村は森が深く縄文時代から人が進み縄文中期の遺跡も発見されているから相当に古い時代から人が住んでいた。
海岸地帯は貝とか魚とか恵まれていたがむしろ縄文時代になると森の中で暮らしていた人が多いなる。。
森の中にはどんぐりとか栃の実などがあり他にも山菜などがありまた百合の根とか食べるものがあった。
ハマグリの語源・由来 ハマグリは形が 栗 の 実 に似ており、浜辺に生息していることから「浜栗」の意味が定説。

栗からイメージされたことは山の住民が浜にでて」なずけたともとれる、その起源は山に暮らした人が名付けたからそうなった

植生的にも飯館村は寒冷地帯になり浜通りとは違った違っていたのである。森が深いし樅の木などが育ち北方的要素がある
ただ寒冷地帯になるから稲作にはむ向いていない。それで飢饉になったりもした。どちらかというと焼き畑による根菜類の栽培にも向いていたともなる。山の幸で暮らしていたとなるからだ。
ともかく飯館村の魅力は森が深いことでありだからこそ山野草でもギンランとかが咲いていたのである。
人間が生きるということは食糧の確保が第一である。
それで彼岸花がありその根を食べられるとしても毒にもなっている
その毒を抜くことに苦労する。でもどうしても食べたいから苦労しても死ぬことがあっても食べていたのである。
はまなすでも名前は実が取れるということでその名がある
花より実の方が大事である。花より団子になるのである。それだけいかに食べることに苦労してきたかである。ただ風流からなど自然を観ていないのである。風流から見るということはそれだけ心に余裕ができたときそうなったのである。






posted by 天華 at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2023年05月12日

夏の日に八木沢峠を上り飯館へ

夏の日に八木沢峠を上り飯館へ

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八木沢峠の入り口 御堂が裏にある

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緑陰に御堂隠され滝響く
新緑や二段の滝のひびきけり
藤高く風にそよぎゆれ触れえじも
汗かきて峠を越ゆや別世界
までい館飛び交い巣作り夏燕
復興や飯館村の張田かな

銀蘭を見つけしと語る飯館の老いにし人や案内するかな

八木沢峠の上り口の滝は二段になっていた。そこには隠されるように小さな御堂がある。新緑に映える、ただ滝は隠れているのではっきりは見えない
そこから飯館へ自転車で上るのは苦しい、かなりの坂が続くからである。標高が400メートル以上あることは鹿狼山の標高くらいあるから高いとなる。そのくらい登ることになるからである。
だから飯館は高原になり夏でも涼しのである、森も寒冷地帯の植生にもなる。

までい館には燕が盛んに飛んでいた。巣作りするためらしい、新しい建物であり復興のシンボルにもなったからふさわしいとなる。
草ぼうぼうだった田んぼも水が張られて蛙も鳴いていた。ここでもそうだったがカエルが鳴いて復興を感じた、でもまだ鷺は飛んでこない、鷺が飛んでくればさらにいい、水田には餌となるものがあるから鷺も来るのである。
ただ溜池でも干上がっていたから今年は干ばつになるのか?
雨が強く降らないからである、少雨になっているから気になっていた、それで心配だとなる

あいの沢で花に詳しい管理人に話を聞いたのは良かった
やはりそこに長く住んでいないとその土地のことはわからない、というのは飯館村だと森が深いし山菜も常食としていた、それで自ずと森に入るからである、私は森深くは入っていないからである。森の中のことがわからないんである。
でも丸森で森に入り抜け出れなかった恐怖を経験している。
だからなかなか森に入ることを躊躇するのである。
次は森に入り花を探して見よう



2023年05月11日

飯館村のあいの沢の管理事務所の人と山野草について語る (ギンランという蘭の花を見つけたことを語る―ため池は干上がっていた)

飯館村のあいの沢の管理事務所の人と山野草について語る

(ギンランという蘭の花を見つけたことを語る―ため池は干上がっていた)

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橲原の川の水害で削られた道は直したが去年の地震で崩れた道は直していない?

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ここで盛んに燕が飛んでいた

巣をつくろうとしていた

干ばつになるのか?

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真野川上流も川床が現れている



あいの沢の管理事務所の人がいろいろと山野草について語った。
その人は地元の人であり前のように外部から来た人ではない。
飯館村には外部から来た人が多いのである。
キコリの宿のフロントの人も女性も外部から来た人であった。その人と語ろうとしたがその女性は何か語りたくなかったようである。
でもあいの沢の今日事務所の人はいろいろと語った。
「銀蘭を咲いていました、これはなかなか見れない」
「聞いたことないな、私の庭にはエビネランが咲いていますが・・・銀蘭ですか・・・」
「これを咲いている場所知っていますが教えたくないです
取ってもってゆく人がいますから・・・」
飯館村は標高が高いんです、400メートルくらい高いです
温度でも5度違います、それで高山系の花が咲くんです、木でも寒い地域の木が育つんです」
「浜通りは海に面していてここよりあたたかい、照葉樹林帯になり鹿島地区の海老村は丸葉車輪梅の南限の地として有名ですから
スダシイ神社もあり南国系統の木も育つ、椿の木でもいわきの浜に自生していますから」
他にも珍しい花が群生しているとか語った。サワギキョウなども咲いているとか語った。サワギキョウは尾瀬に行った時見たとか私も花に興味があるので答えた

クルマユリも咲いていると言った、その名前の由来が葉が車の形をしているからだという
「クルマユリも咲いています」
「私も見ました、橙色で花に点々の模様があった」
「飯館村の花は山百合です、でも山百合が見かけなくなっている、イノシシでも」サルでもその球根を食べるんです」
原発事故以後サルとかイノシシがふえましたから、山には動物でも食料になるものがあるということですね、山芋などは栄養がありますから」
なにかこんなに花について話すことが不思議だった、それも飯館村の森に咲いている自生している花の話を聞いて興味を覚えた
そして銀蘭を探して見たいと思った、でも森が深いので迷うことがある、それで丸森の森で森から抜け出れなくなった恐怖を経験した。それだけ森が飯館村でも深いのである。
市の花とかあるけど相馬市は藤の花が似合う、鹿島区は草深く咲く藪甘草が似合う、原町市はひまわりが似合うとかなる

花の魅力というと栽培する庭に植える花もいいが森であれ自生している花は神秘的であり魅力がある。でも森が深いから簡単に見つけられない、だから神秘的になる。
飯館村では結構半分以上水田にして田植えをはじめる
だから復興しているのかともみる。前は草ぼうぼうだったからである。この辺でも田が回復してカエルがなき鷺がもどってきたとき復興を感じたからである。米でも自前で作り食べないとしたら
外部から買うだけならその土地に住み続けることはできない
自前で食料でも生産して食べればその土地で生きることができる。なぜならそうして縄文時代から江戸時代から戦前でも戦後でも継続した生き続けてきたからである。

でも飯館村では6000人いたが今は1000人だという、一時は9000人も住んでいたことがあった
「飯館村はこれからどうなるでしょう」
「まあ 補償金もらっているうちはなんとかなるけど
もらえなくなるもらった金でもなくなると終わりになる」
それが現実なのかもしれないとも思った
若い人たち流出してしまったから村を継続するのが難しくなったのである。残されたのは老人ばかりになっているからである。
「飯館村はなぜ南相馬市と合併しなかったんですか」
「飯館村のブランド、飯館村の名前を消したくないことがあった」
「でも今は合併した方がいいのでは・・・・」
「南相馬市で合併したくないと思う、ここには利益を生むものもないから負担になるだけだから・・・」
「・・・・・」
なにも飯館にはないとはならないと思うが現実に経済的に利益を生むものがないとなる。木材と石でも売れる時代なら小言うことはなかった
それで道の駅のまでい館で地元の人が作った、凍み餅を買った
それにはもち米にごんぼっぱという野草を入れて作ったものなのである。

かつては、救荒植物といって、凶作のときにも収穫できる貴重な植物でした。今も乾燥させた葉を
餅のつなぎにしたり、生の葉を天ぷらにして食べたりします。

飢えた時は山に行けというのは山には何かしら食べるものがあったからだとしている、山百合の球根は食べられる、それは栄養がある、それを食べれば飢饉でもしのげたのかとなる。
ただ飯館村の問題は放射性物質に汚染されたことである、それで山菜でも山野草や球根とかでも食べれなくなったことである
原発事故でも12年過ぎてもその影響がある、ただ老人は放射線でガンになることなど気にしないで山菜でも食べていたのである
老人は十年でもすぐれば死んでいるからどうでもいいともなったのである。

までい館には燕がしきりに飛んできて巣作る場を探していた
盛んに何羽か飛んでいた、それで何かそこでは人が交わり交流の場ともなっていた。
そこは復興していた、でもすぐ近くでも空家化して荒廃している場も多い、ただ田を始めることみたので前よりは復興して前進しているように見えた
でもため池が干上がっていた、干ばつのこと土地の人が言っている。鹿島区では干上がったため池をみていない、飯館村で干上がったため池を三つくらい見ている、真野ダムもかなり水量が減り下の土がむき出しになっていた、これもどうなるの?
なんか地震があり水害があり今度は干ばつなのかなるのも怖い
飯館村が干ばつになればその下に南相馬市である影響するからである


posted by 天華 at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2023年05月10日

夏の夕暮れに相馬市に行く (張田、植田、藤の花、桐の花)


夏の夕暮れに相馬市に行く

(張田、植田、藤の花、桐の花)

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新築の家の玄関燕来る
満月を張田に映し灯のともし

夕方に相馬市へ行く

鹿狼山張田に映り夕暮れぬ
植田にそ夕日輝き農家暮る
田植え終え映して静か桐の花
松に藤街道静か夕暮れぬ
奥の庭藤の垂れ咲き古き宿
夕藤やおみなしとやか奥に待つ
月幽か藤長く垂れ籠る人
夕月や相馬の城下藤の花
白藤の闇の包むも知りし道

橙の三輪の薔薇咲き朝日さしあまた蕾や夏は来にけり

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5時ころまで片付けがあり本の整理に苦しんだ。それから相馬市に行った。張り田に満月が映っていたのは昨夜だった、今日は月は出ていなかった。
鹿狼山が張田に映る、この山は400メートルくらいでもこの辺では一番高いから結構遠くからも見える。原町の雲雀が原からも見えたからである。

この辺で物足りないのは高い山がないことなのである。
今は張田の季節である。その張田に昨夜かその前に満月が映っていた。田舎だから灯はともしくも満月だけは輝き映っていた
田舎だと月の方が明るくなる、大都会だと月も電気の明かりで美しく輝かない、思うに現代は電気を使いすぎる
夜までそれより眠らない都市とかなる、夜までこんなに活動して電気を使いすぎる、そのために原発が必要となり大事故になったのである。

田植えを終えた田の面に桐の花が映っていた、そして夕日が輝き映り山に沈んでいった。
そこは松並木が残る浜街道である。桐の花が植田に映している風景は常に見る。桐の花不思議な花である。静寂印とか賢治が童話で表現した花と似ている。なにか自分の性格と通じるものがある
自分は引きこもりであり長い間30年とか家に引き籠っていたからである。

藤の花が似合っているのは相馬市である、一応城下町だからである。残念なのは中村喫茶店がなくなったことである。
藤棚があり藤の花のトンネルの庭があったからある、それは城る町に相馬市に似合っていたのである。
夕方から夜になり六号線を帰る、そこに白藤が咲いているのを知っている、それは常にその道を行き来しているからである。

庭には橙の薔薇が今年もあまた咲く薔薇の花なぜかこんなに咲くのか不思議である。三輪開いたが蕾があまたありこれだs家また裂くのである。
このように人間でも子供でも増えればいいとなる。次の代を継ぐ人が少なすぎる、老人ばかり増えるからである。
とにかく夏になればいろいろな花が咲く、燕も新築の家の玄関に飛んで来た、この辺は原発事故で避難区域から移住してくる人が家を建てているからいいのである。
家の片づけと修理は終わていない、また傷んでいたところがあり修理が必要なのである。





2023年05月09日

去年の地震で破れた障子がなぜまだ直していない家があるのか (障子があけたてできないージャッキを使い敷居をカンナで削る)

去年の地震で破れた障子がなぜまだ直していない家があるのか

(障子があけたてできないージャッキを使い敷居をカンナで削る)

家との格闘はまだ続いている。去年の地震で壊れた屋根の修理をまだしていない家がある。
そして不思議に思っていたのは障子が破れたままの家が結構見かける。私自身の家も障子が破れて直していなかったが大工さんが来て今日やっと障子を直した。
それがめんどうだったのは障子の破れを直すのではなく開けたり閉めたりすることができなくなっていたことである。
地震で重さが加わりそうなった、だからまずそれを直すこと障子がはずせないからそうすることがまず第一となる
それでジャッキを使い持ち上げてとりだすことやカンナで敷居を削ったりしたのである。これは大工さんでないとできないのである。
それでなぜ去年の地震からいまだに障子を直していない家がまだあるのは障子だけを直すのではなくあけたてができないことでそうなっているのかと思った

家でも一部分だけを見てもわからない、障子でも敷居があり上の横の柱があり全体と関係しているのである。
だから修復するには一部分だけを見てもできないのである。
でも家でも家全体を見れる人は大工さんでもできないとなる
私が接した大工さんは家全体をみれるのである。瓦まで直したとか言っていたからである。そもそも家全体を見れる人はいないだろう。部分的にはみても家全体を知ることはむずかしい

そこには電機関係と水回りとか配管とかいろいろあるからである。
トイレの配管も壊れて小便が外にもれだして直してもらった
水道屋、電気工事する人、瓦屋、畳屋、障子張る人、箪笥でも昔の家は箪笥がはめ込みになっていて桐の箪笥であった。
箪笥職人がいて建具職人がいて他にも専門の職人がいた
家にはいろいろな職人がかかわるのである。

そして地元の大工さんが直接かかわるとき地元に地域に共に生きるという共同するという感覚になる。
茅葺屋根の家を農家でつくるとき村の人総出で働き作るというときそれは村全体の人がかかわるとなる。
共同性はこうして共同して働くときに感じる。そこに農村社会の強固な連帯が培われたのである。

ともかく人間は働かないと共同意識が持てない、共に働くことによって共同体が育まれてきたのである。
障子張りでも共にするときそこに共同性が生まれる。その土地で共に生きるのだという共同体意識を持つのである。
だから昔は機械ではなく村人総出で田植えするときそれが祭りにもなったのである。祭りは何かしら共同性があり生まれて育まれてきたものだからである。

つつじ赤く村総出の田植えかな

その協働する共同体もグローバル化して広域化すると失われる。
そもそもに日本の神社が社(やしろ)が無数にあるけど極めて狭い範囲の神だからである。

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

奈良という一地域の木で作った家というとき外材ではないその土地土地でとれたもので作っていたからである。
その家を作った人も地元の大工さんであり村人であったとなる。
現代から共同性が失われるたのグローバル化とか広域社会とかのためである。日本国内なら文化共有することがある。でもグローバル化するとグローバルに協働することが無理なのである。

posted by 天華 at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年05月07日

なぜ危険な原発がやめられないのか (政治権力利権の判断と科学的合理的判断)


なぜ危険な原発がやめられないのか

(政治権力利権の判断と科学的合理的判断)


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地震があっても岸田は原発マネーがやめられない

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科学の判断ではなく政治利権の判断が優先される



青森の核燃料処理施設の危険を指摘するユーチューブを見た
活断層の上に作られていて非常に危険なものだと指摘している。
その影響は北半球に人が住めなくなるほどの悲惨なものとなると指摘している。それは想像を絶する最悪なものとなる。
人類滅亡にまでなるとまで指摘している。

福島原発の大事故の惨事があっても依然として原発をやめない。今回の能登方面の地震でもそこに原発があった志賀原発があった。それも危険があった。
青森の核燃料処理施設でも危険なのは耐震設計がされていない。それが内部に入れないほどの放射線量があり耐震設計をして建物を直すことができないのである

ではなぜそんな危険なものを作り福島県発のような事故があったのに依然として原発を再稼働してやめることがない
このユーチューブでは福島原発の場合津波の結果大事故となったのではなくその前に地震の揺れで原子炉が故障した。また配管などが破損して津波の前にすでに総称した損傷したものがありそのために大事故になった。そのことは専門の科学者も明確に資料が出たので指摘している。

つまり原発は巨大地震が来ればこのように巨大事故になる。津波が来たから巨大事故になったのではない。そうしているのは政府やその命令に従う原子力ムラがあって御用学者がそう言っているのである。
ということはここに科学的合理性から判断しないで政治的思惑や経済的利権から原発は危険を無視して作られたのである。
科学技術というのは必ずしも科学技術を優先して決めるのではない。そこに政治的思惑や経済的利権がかかわり科学の合理的な判断を無視するのである。

それは御用学者は政治家の命令に従い公正な合理的な科学技術の判断を弱めるのである歪めるのである
だから原発は科学技術の問題としてだけ見れない。極めて政治的経済的理由が優先されているともなる。その視点で見ないとなぜこんなに危険なものが再稼働されやめることができないのかが分からないのである。
まず人間の社会は利益が優先される。利権が優先される。それはあらゆるものはそうなのである。カルト宗教になればそこはもう御利益追求であり利権の追求であり本来の宗教などゼロなのである。誰でも金になるとなれば目の色を変える。
原発が建てられたのも地元に金が入るということでそうなった。

事故後でもわかったようにその利権は金はとてつもない巨大なものだったのである。除染だけに6兆円とかもかかるつぎ込んだのにも驚いた。それは庶民に取って想像を絶するものだったのである。
そして原子力村はその利権を握り政治家の命令でその危険性も隠す事ができた。安全神話を作ったのもそうした御用学者が集まり専門家が集まり実ははそれで危険を隠蔽したのである。

だからこれは科学技術の問題だけではなく政治的な問題でありまた経済的な問題であり科学は確かに合理的な公正を追求している。でもその科学の真理も公正さも政治的な問題になり歪められたのである。
必ずしも科学技術社会でも科学が優先されるわけではないのである。政治的思惑経済的利権が関わりそれが優先されるのである。
また科学にしてもそれが全部正しいとはならない。いくら専門家が科学者が言ったとしてもこの地球であれ宇宙であれすべてを知り得る人はいない。それは全能の神しかありえない。
それでいくら科学者が専門家がいても実際はわからないことがある。だからまた科学者を専門家の言うことでもすべて信じられないのである。

地震になるとそれはできないように予知できないように地下のことが地球の地下のことが海の底のことが宇宙のことでもわからない。科学者が専門家がすべてをわかっているわけではない。それはコロナウイルスでもそうだった。
専門家が正しい判断ができるとはならなかったからである。
そこには必ず政治的思惑や経済的利権が絡み科学的合理的公正な判断になるとは限らないのである
政治的判断というとき時の権力を持ったものが判断する、でも権力を付与するものは何なのか、誰なのかとなる、民主主義社会では選挙で勝ったものが権力を得る。

今なら自民党であり公明党ともなる。でも選挙で負ければ別の政党が権力を得るのである。ではその民主主義社会でも何が優先されるかとなれば科学的合理性とかではない。やはり利権であり金になることが優先される。そのために地元には金をばら撒き原発を作ったのである。地元でも金になればいいとなっていたのである。
そこに民主主義がまたすべて正しい判断をするとは限らないのである。数が多ければそれが正しい判断になるかとなればならない。そこに民主主義にしても限界がある。
ではどうして正しい判断をすることができるの?
そこに人間の限界がある。必ずそこに過ちが生まれるのである

人間は地の底のことをまたは海の底のことを
果て無き宇宙のことを知りえるのか
人間は全能の神の知恵には及ばない
人間はいかに科学技術が進歩しても
依然として知りえないことがあまたある
人間はこの世界のことをすべて知り得るとはならない
そこに人間の限界がある。
そしてその人間の技は崩壊して砕かれる
文明もまた砕かれて廃棄されるのである
人間のバベルの塔のように崩壊する
人は終始つかなくなり散りじりになる
posted by 天華 at 14:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年05月05日

清涼飲料水は体に良くないー栄養を吸収するにも時間がかかる (人間は何をするにも時間がかかる、即製できない)


清涼飲料水は体に良くないー栄養を吸収するにも時間がかかる

(人間は何をするにも時間がかかる、即製できない)

食べ物が胃に入ると、炭水化物なら3時間、脂肪なら7時間ほどかけて消化されます。ドロドロになったものが腸に送られ、ゆっくりと体に吸収されるのです。ところが液体に消化は必要ありません。ジュースは胃を通り越して一気に腸に入ってしまいます。血糖値が急上昇し、血管の内皮が傷ついて、やがて血管が硬くなってしまいます。野菜や果物ジュースより清涼飲料水のほうがたくさんの糖質を含んでいますから、悪性度が高い

●栄養を取るにも時間がかかる

直感的に本能的に清涼飲料水は体に悪いことを感じる。清涼飲料水を飲むと返って運動した後に疲れるというのも分かる。
本来清涼飲料水には何か返って体を疲れさすものがある。疲れを取ろうとしてエネルギーを補給しようとしても返って疲れることになる。それは科学的にも証明される。ほとんど栄養はないのである。ただ汗をかくから塩分が不足するからポカリスエットなどは効果があるとなる。それはただ塩分を補給するというだけである。
後のジュース類とか炭酸飲料とかコーラでも返って体を疲れさせるものになる。

やはり栄養は生のものジュース類ではなく果物そのものを食べるのがいいのである。ジュース類では果物でもその栄養分をとることはできない。
ここで述べているように消化する時間が必要だったのである。
徐々にしか時間をかけてしか栄養分は取れない。即効的に栄養分を取ろうとすれば返って体に悪影響するのである。
ここで問題なのは人間は即効的にに体を健康にできない。
何をするにも時間がかかり時間を無視することはできない

現代文明の問題はこの時間を無視する時間を待てない即効的に効果があるのを求める。でもここで述べているように人間の体でもやはり時間をかけて食べ物の栄養分を吸収する
それが植物でもあらゆるものでもそうである。どうしても植物が育つには時間がかかる。種蒔いたらすぐに育ち食べられるわけではない。必ずそこには時間がかかる。それではつか20大根とか40日大根とかが生まれた。それだけ必ず成長するにわ時間がかかるからである。その時間だけは短縮することができないのである。
野菜とか果物とかでもそうだが木とかなると成長するのに50年とかかかるのである。その長さはあまりに長いのでとても一人の人間の一生でその木が成長して木材として利用することはできなくなる。次の代の人がその成長した木を利用することになる。。つまり一代では利用できないのである。

●自然を相手にするには時間がかかる

自然を相手にするということはそれだけ時間がかかるということである。即製的には何もでもできないのである。それが本来自然を相手にする仕事であった。
ただ空間的には距離は交通の発達で狭められた。外国でも飛行機があればその空間は縮められたのである。でもどうしても時間だけは縮めることができない。徐々にしか栄養は体に吸収されない。野菜でもやはり成長するにわ栄養を徐々に吸収して大きくなる。その時間を縮めることはできないのである。
そこにいくら科学技術が蚊が発達しても限界を感じる

空間は交通が発達して縮めることができた。でも時間を縮めて成長さすことはできない。何か一つの分野でも極めることは相当に時間がかかる。何か習得するにも時間がかかる。
この時間は空間を縮めるようにはできない。時間の交換は空間はある程度縮めることができたが時間はできない。
木は一気に成長したりしない。徐々に徐々に栄養分を取り成長してゆく、それを早めることはできない、人間も自然にリズムにさからうことできない。いくら科学技術が発達してもできない。
そこに人間の科学技術でも限界があるのである。

●人間も成長するには時間がかかるー高齢化社会のいい点

それは人間でも同じであり人間というのは成長するにも何かを習得するにも時間がかかるものである。何かを即座に覚えることは上達することはできない。ただ学び方で上達が早くなることはある。でも基本的に人間は何でも促成できない。
やはり人間は特別時間をかけて成長するものである。なぜなら動物は生まれてすぐ歩いたりして本能的に行動して生きることができる。人間はとにかく成長するにも何かを習得するにも時間がかかるのである。もちろん天才的な人はさほど時間をかけなくても会得する。でも一般的にはどうしても時間がかけないと成長しないのである。
つまり自然のリズムは人間より百年単位とか千年単位とか億年単位とかで図る。図るそれだけ時間の感覚が大きいのである。
その自然のリズムに人間はとても合わせられない。それで津波でも400年前に巨大な津波があった。でもそれもこの辺でわ全く忘れられていたのである。

ともかく高齢化というのはマイナス面だけが語られるは人間の成長がこのように動物より時間がかかるという時百歳まで生きるということは健康で生きるということは人間を成長させる。
人間は成長することをやまない。肉体は衰えても精神的には成長することがある。脳の成長は病むことないかもしれない。時間の中で脳も作られてゆく、細胞と細胞が結びついて時間の中でその人なりのものが結晶してつくられてゆく。
だから人間は長生きすることは悪いことではない。
ただ長生きの問題で延命治療とかもう健康に生きられない状態で長く生きることが問題になる。別に健康なら長生きすることが悪いとは思えない。それだけ長生きすれば人間は成長するからである。
知識の量も増大して知恵もまして人間は成長する。ただ長生きがマイナスになるのはそうして成長しない人なのである。
ただ迷惑をかけるばかりでその人なりの成長を遂げ無い人が問題なのである。そういう人が多ければ当然高齢化社会は良いものとならないし若い人から見れば高齢者とはただお荷物になっているマイナスのものとしか見れなくなるのである

2023年05月04日

藤の花、菖蒲、桐の花(夏になり近辺を回る)

藤の花、菖蒲、桐の花(夏になり近辺を回る)

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ジャーマンアイリスだから日本の菖蒲ではない、写真にすると違っているとなるが
言葉だけだったらそれぞれイメージするからいいのである。ただ写生が基本になるから問題にはなる
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これは相馬市のイオンの近くの農家で撮った、桜なのか。4月のはじめか三月に撮ったから

夕月や相馬の城下藤の花

荒らし風痛くな吹きそ藤咲きぬ日陰の道行く心静かに
木の下に菖蒲の咲きぬ変わらずにその色染みて日影の道行く
藤の花そよゆれ静かこの道に鳥鳴く声や行く人もまれ
変わらずにここに石あり菖蒲咲き心静まる家への道見ゆ
藤棚をしつらい咲かす落ち着きて老いの身労りここに住みなむ
留守にせし我が家の庭の花探し黒揚羽の舞い去りにけり
桐の花今年もここに咲きにつつひそか散りにき音もなくして

夏になった、藤の花が咲き菖蒲が咲き桐の花が咲いた。すでに桐の花は散ったのもある。
近くに森があり木陰が深い、田舎だと今は田植えになり季節を感じる。

何か家に整理とかたずけで相当に疲れた。重い本を持ったので疲れたのと階段が急なので何回も上り下りして疲れた
老人になると後になて疲れが出やすいのである。
それでつくづく藤棚がありその藤棚を作るのは大工さんであり老人はそこに藤の花を観賞するのが向いているとなる。
老人は住み心地がいい家とか場所が大事になる。家にいる時間が長くなるからである。
何か老人は変化しないことがいい安心する。ここに前から石があり菖蒲でも咲いていたとかなり安心する
認知症になるとそうして見慣れたものや見知った人としか通じあうことができなくなる。
遠くに住んでる実の子供でも忘れたりするからである。つまり認知症でなくても老人はそういう傾向になるのである。

藤の花は相馬の城跡に藤棚に咲いている、藤の花が似合っている。一応城下町でもあり似合っている。それで中村喫茶店に藤の花の庭があったが閉店したのが残念だったとなる。
喫茶店はどこでも維持できなくなって減少した。残ったのはドライブインの喫茶店というとき車社会だからそうなったのである。
街中の店でも車の駐車場がないと利用しにくいからである。

近くに森があり木陰が深く鳥が鳴いている。今日は風もなくいい天気であり気持ちがいい、遠くに行くにもいいと思ったが疲れたので行けなかった。







2023年05月02日

なぜ本が捨てられないのか (本は物体ではなく言葉であり精神を表象化したものだから)


なぜ本が捨てられないのか

(本は物体ではなく言葉であり精神を表象化したものだから)

●カメラより撮った写真の方が貴重だった

本が捨てられなくて困っている。例えば古いものカメラなどはほかの危機でも機械でも機器でも古くなったものは捨てられる。
別にそれは新しくいいものを変えればいいからである。
新しいもの新しい機器の方が性能も良くなっているからである。
そのカメラより機器より大事なものはカメラだったらその記録したものであった。それはビデオカメラでも記録したものが実際は大事なものであった。
なぜなら津波の前と津波の後の景色がまるで変わってしまったからである。となると津波の前に写真としてでもビデオとしてでも残した風景画の記録として貴重なものになったのである。

ただカメラはそのの風景を残すものとして記録するものとしてあった。カメラ自体は古くなったので捨てた。
カメラよりその写したものが貴重なものとなっていたのである。
それは外国旅行の写真でもそうだった。もう私の場合年をとりとてももう外国旅行することができないと思ったからである。
そして外国旅行というのはなかなか記憶に残りにくい。それは日本と風景でも歴史でも変わっているからなかなか印象として記憶として残りにくいからである。
日本だったら一回でわからないことでも2回行くと理解が深まる。
そのの歴史でも後から調べて理解を深めることができる。
でも外国になると一回くらいしかいけないから印象が時間とともに薄れて記憶することが難しいのである。

●本で家が傾きずれた―本は重いが電子本は重さがない

そして本でも家が沈むとか傾くとか大工さんが言った。どうしてもその重さで2回大きな地震を経験して家が歪んでしまったのである。その原因は二階に置いた本の重さが影響していたのである。
本の重さによって下に影響して地震があり柱がずれたのである。
それだけ本というのは重いからそうなる。本はは本当に重いのである。厚い本がありそれを運ぶのも重いのである。
そして本がなぜ捨てられないのか?それは本が紙というものにしろものと違っているからである。紙に書かれたものは別にものではない言葉なのである。紙はものであり表紙でも装丁で紙である。つまり本というのはもののようにも思うが実際はものではない。文章であり絵も描かれてたり写真でもある

だからものではないから電子化すればいくらでも本を手元に置き参考にできる。重さはそこでなくなるのである。電子本には本の重さがなくなっているからである。実際の本と電子本の違いは重さがなくなり物として手に取ることができないことなのである
でも本というのは何か物として物体としてあると思う
でも本を読んだ本に書かれたものが文章がその本体でありその文章は電子化すれば重さがなくなるのである。本は持ったり触ったりページをめくったりと何か物体としてある感じになるが実際は文章が大事であり本でなくても紙でなくても文章が本体であるから電子本でも読むことができるのである。
それは絵でも写真でもそうである。それが紙に描かれていなくても電子化すれば映像になり本がなくても絵がなくてもいくらでも表現ができて重さもないからかさばることもないから保存できるのである。

●電子化で怖いのは一瞬ですべてが記録が消えること

でも電子本だと何かの調子で故障があったりすると一瞬にして消えるという恐怖がある。
本だとそういうことはない。何か物として残り続けるという感覚になる。それで石に文字を刻む時それは石はなかなか消えたりはしない。だから石に刻まれた文字はなくならないという感覚になるのである。
それで江戸時代の元号のが記された石碑がありそれは200年であり300年であれ消えずにその場所にあり残っているのである。
でも電子化された文であれ絵であれそれは残るのだろうかという疑問になる。

なぜなら一瞬で全部消えるということもあるからである。だからせっかく創作したものでも電子がしても一瞬で消えて何も残らなくなってしまうのかと不安になるのである。
だから電子本とか電子化したものに何か不安を感じる。でも本だとがさばり重いしそれを一個人が所有することは限界がある。
本は膨大でありとても所有しきれないのである。電子本にすれば重さもないからいくらでも所有できるのである。ただ弱点は電子本の場合一瞬にしてすべてが消えてしまうという不安なのである。

●一冊の本でも理解することがむずかしい

とにかく本は捨てにくいし整理するのも容易ではない。そして本は若い時であれ読んだものを理解していない。でも年を重ねて経験を積み老人になると理解力が深まる。それはそういうことだったのかとおのずと理解できるようになる。
だから老人は批評に向くようになるのである
それから30年前頃買った本がの作者がすでに死んでることが多いのである。するとその人が残したのは本でありそれ以外にその人を知るすべがなくなる。
大概の人は本など残せない。本を残せたのは限られた人でしかなかった。それほど本は簡単に出版できないし作れないものだったのである。でも今になれば一冊でもアマゾンで本を作れるらしい。それで自分も試してみようとしている。でも手間がかかり時間がないのでなかなかやれないのである。

今ならインターネットで電子化して誰でも発表できる。ただ読まれることは本当に難しい。出版というのは簡単にできない。たとえ本を作ったとしても書店になど勝手に置けないのである。
でもインターネット化すると誰でも別に表現することができる。
それができたとしても読まれることが至難なのである。インターネットが普及しない前は田舎の本屋など本当に本が少なかった。専門書など置いてない。仙台市まで1週間に一回も言っていたのは本を買うためだった。でも仙台市でも実際は本は少なかったのである。インターネットが普及してわかったのはアマゾンなどで分かったのは信じられない量の本があり古本もあるからその膨大な本があることに驚いたのである。
もしそうしてそれだけの中から自分の追求している本を買ったらもっと自分の知識は広がり深められていたのである。

●くだらない本が百万部も売れていた時代

例えばどんな本が売れていたかというとベストセラーになったかというと冠婚葬祭とかいう本は百万部も売れていたのである。
そんな本がなぜそんなに売れたのかそれはその本の内容とは何の関係もない。ただベストセラーとして宣伝され田舎の書店にも置かれたことで売れたのである。全国の書店に置かれただけで別に内容がなくても売れた時があったのである。
また出版社が宣伝して全国の書店におくことで内容はなくてもベストセラーになって売れていたのである。それでしょぼい田舎の書店でも商売が成り立っていたのである

今や本屋は田舎の市町村では消失している。あまりにもアマゾンとかに比べると本が少なすぎるのである。また古本の量もインターネットでわ膨大であり買えないものはない。すると新刊の本でもすぐに古本になり安くなり帰るのである。そうなると本屋から買うということは損だとなってしまったのである。だから書店は大きな書店ですら消滅しているのである
依然として私の家の中の整理は続いていた。特に本の整理は簡単にできない。簡単に捨てることができないのである。というのは読み返してみるとほとんど理解していない。初めて読んだようにする思えるのである。それだけ本というのは理解することが難しいのである。それでびっしりど印をつけているのだが実際はそのしるしをつけたことを理解してないし忘れてしまっていたのである。

つまりその本を読んだことは読んだのだが理解していなかったとなる。ただ本を集めたというこうとうがすることになる。
だから本というのはほかの品物と違ってそもそも買っても理解力がなければ利用していないとなっていたのである。
それだけ本というものは内容はありそれを理解する方が相当な力量がないと理解できないのである。
それで本は30年過ぎても40年過ぎてもその本の内容を深く知るということができていない。たいがいものだったら機械でも古くなり捨てることができる。本はその内容を理解できていないからまた理解しようとして読む。年取ると理解力が深まるからそういうことだったのかと理解するからである。まだ芸術でも鑑賞力がついて深く理解するようになるのである

今や最後の総決算として本でも創作でも自分の成果をまとめようとしている。やはり最後にその人の成果が本に残す。ほんでなくてもインターネットの中でも残すとなる。それは出版できなくても残せるからである。

2023年05月01日

ドニエプル川を挟んでウクライナとロシアの攻防戦 (地理が変わらないから同じことをカルマを繰り返す)


ドニエプル川を挟んでウクライナとロシアの攻防戦

(地理が変わらないから同じことをカルマを繰り返す)

●ドイツとのドニエプル川の戦いの再現

Dnieper) とは第二次世界大戦中の1943年に行われた戦いのことである。この4か月の戦いの間、ドニエプル川東岸はソビエト赤軍5個方面軍によってドイツ国防軍から取り戻され、さらに西岸にいくつかの橋頭堡を築くために幾筋かの攻撃渡河の先導となった。その後、キエフは別の攻撃(英語版)により解放された。
戦争の中でも損害の大きな戦いの一つであり、犠牲者は双方で1,700,000名から2,700,000名と推測されている
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ウクライナが5月に大攻勢をかけることを宣言している。その衝突する場所がドニエプル川なのである。
テレビで見たら幅が広い。 3キロくらいあるというから日本にはない大きな川なのである。その川をめぐってウクライナとロシアの攻防戦がある。
それはドイツとロシアですでに第二次世界大戦の時激しい戦いがあった場所なのである。今回もと渡河作戦が実践されようとしている。でもそこでかなりの激戦となり犠牲者が出ることが言われる。
それはまた同じドニエプル川を挟んでウクライナとロシアは対立する。それはまさに歴史の繰り返しである。
なぜそうなるのかというとそれもカルマなのである。それは地理としてのカルマ宿命としてある。

ドニエプル川が境界線となり争うことになる。だからriverはライバルのことなのである。川を挟んでライバルとなるのはあらそうのが歴史だったからである。
つまり川というものはそもそも川ができてから何千年とも変わらない。川が埋まってしまってなくなることもないからである。
それが宿命を作り出しカルマとなり同じことが繰り返されるのである。地理的宿命から人間は依然として逃れられない。
確かにミサイルなどは自然の地理的障害を超越して飛んでくる。でも実効支配するにはどうしても陸に上陸して支配しなければならない。そうなると地上戦になり犠牲は大きくなるのである。何か今回のウクライナ戦争はこれまでしてきた戦争と変わらないことがありカルマの繰り返しに見えた

●変わらない地理の宿命

つまり地理そのものは変わらない。山が平地になったり平地が山になったりしない。川が埋まったりもなかなかしない。流れが多少変えても川自体は変わらないのである。
その地理が地勢が変わらないということがやはり今回のように戦争でも変わらないものがあったと見えた。
核戦争にのようになる時代でも依然として川が障害となりライバルとなり対立する。それが変わらないということがつくづく実感したのである。(riverはライバルのこと)
何かこれほど科学技術が発展してもこの戦いが古典的なものにも見える。それはドニエプル川を挟んでの攻防戦が最大の山場になっているということでもある。
それだけドニエプル川というのは自然の境界となり互いに二つの国を分ける働きをしている。そのことは変わらないのである。

だから大陸を見るときは川を知らなければ歴史もわからないのである。そもそも四大文明が川から生まれたというのもそのためである。日本にはそういう大きな川がないから大陸の川のことを理解できないのである。
でもドニエプル川を挟んでウクライナ側ウクライナ側ウクライナが大攻勢をかける。それに対抗するロシアがある。それはまさに川を挟んでの攻防戦なのである。
狭い川幅のところがありそれがとか80mとかの幅でありそんな狭いところでも渡ることは危険であり死んだとかなる。
それだけ川を渡るということは危険なのである。

●地形は変わらない障壁となる

ともかく今回のウクライナとロシアの戦争は近代戦争とも思えない。何か古典的なものであり川をめぐっての戦いの再現だったのである。だから人間は基本的に変わらないということもある。それは地理が地形でも変わらないからその宿命から逃れられないのである。
だから世界でも日本でも地歴を知ることが基本にある。ただ日本の弱点は大きな川や平原や砂漠がないので理解しにくいのである。
とても川の大きさとか平原とかとか砂漠とか森でも平地に延々と続く森を理解できないのである。

人間はどうしても地理的宿命から逃れることはできない。身近なところでわ福島県は浜通りがあるが阿武隈山脈に遮られてどうしても一体感が感じられないのである。
むしろ仙台のほうが海岸沿い太平洋岸沿いで連続しているから地理的には宮城県にも入っているのである。福島市は阿武隈山脈または高原によって遮られて一体感が感じられないのである。

ただ不思議なのは南相馬市の鹿島区から蔵王がみえ見える。それで山形県と通じているというふうにも見るのである。
なぜならあっ吾妻山などは見えないからである。もちろん会津の山などは全く見えない。それで福島県は地理的に一体感は感じられないのである。
大陸になると境界になるのは川であり川の役割が大きいのであ場る。その大きな川がが日本にはないからどうしても大陸を理解できなくなる。
ただ今回のウクライナ戦争で実況放送したので川が依然として大きな戦争の勝敗を決する障害となり戦争の勝敗を決する場となっている。それは人間の歴史が始まって以来変わらないと見たのである。
posted by 天華 at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層