2023年07月20日

金閣寺と平泉の金色堂(光堂)の相違の評論鑑賞(続編)ーイメージクリエーターの写真


金閣寺と平泉の金色堂(光堂)の相違の評論鑑賞(続編)ーイメージクリエーターの写真




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五月雨の降り残してや光堂

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イマージクリエーターでは金閣寺が出てくる、平泉の金色堂ではない、平泉の金色堂は鎌倉時代に作られていたのである。

金閣寺より古いのである。それができたのは奈良時代に涌谷の黄金山で金がすでにとれていた。他でも陸奥では金がとれていたからである。

ともかくこの絵を見ると不思議になる、椿が散ってはいないが金閣に向いて真っ赤に咲いている、そんな絵がつくられたことに驚くのである







松に寄り椿散り赤し金閣寺

苔に散る椿や赤く金閣寺

夏日射し金閣映えて京都かな

春光やみちのくの栄金色堂

風騒ぎ花も散りなん義経堂

平泉旅人去るや秋の蝉

秋深む弁慶松に金色堂

みちのくの枯野のかなた金色堂

雪の野に金色堂映え夢の跡




義満の贅を尽くして金閣寺民は苦しみ恨みも残る

金閣寺池に写りつまばゆしや千年の都に訪ふ人絶えじ

金閣寺池に写りつまばゆしもその後映る月の涼しも




平泉訪ねてあわれ春の日や虹の切れ端消えにけるかな

五月雨に朽ちず残れる金色堂みちのく遠く旅人去りぬ

金色堂心に写し帰るかなみちのくの空秋の夕映え

氷張る池に雪降り金色堂眩く映え雪踏み帰る

雪の野に幻ならじ金色堂みちのくにさらに雪は積もりぬ




1394

足利義満太政大臣となる

1397

足利義満が北山に金閣寺(鹿苑寺 - ろくおんじ)を建立

1401

明(中国)と国交の開始。明からの国書では足利義満が日本国王

1404

勘合貿易(かんごうぼうえき)の開始。

との貿易で倭寇対策に勘合(かんごう)を使用した。輸入品は銅銭(永楽通宝)・織物・書物など。輸出品は硫黄・銅・刀剣など。治安対策として倭寇の取締りを強化。


京都の金閣寺と平泉の金色堂の相違は何なのか?京都の金閣寺は足利義満が建てた別荘だという。とういうことを権勢を誇るものとして建てた。それで一階は公家式であり二階は武家であり三階は禅宗の御堂でありそこに義満は皇位継承を巡り分裂していた天皇家を統一した。南北朝の統一である。更には有力守護大名の勢力を抑止し不安定だった幕府権力を確たるものとした。

圧倒的な権力を手に入れた義満はさらなる高みを目指す。

長男・義持(よしもち)に将軍の座を渡し、次男・義嗣(よしつぐ)を天皇の子と同じ形式をもって宮中で元服させた。このことは義嗣が次期天皇になる事を示唆している。

義満は何を狙ったのか?

そう、将軍と天皇の上に立つことつまり日本に存在する権力の頂点に君臨しようとしたのである。そしてこの構図が金閣寺の建築様式に表現されているのだ。


このように金閣寺はとても仏教に帰依するとかではない。権勢を誇るものとして見せるものとして作られた。その時代は京都の中にも。応仁の乱とか争いがあり権力闘争がありその争いの後は寺に残ったりしている。柱に刀傷があったりする。京都はどうしても政治の中心でもあったからそこで権力争いの場となり明治維新でも薩長と幕府側と戦ったのである。その幕府側だった新撰組や会津を恨んで会津が悲惨な結果になったのである。




大風洪水万民憂  

歌舞管弦誰夜遊  

法有興衰劫増減  

任他明月下西楼  


暴風に 洪水に民衆は苦しんでいる

歌舞かぶ 管弦 誰か夜 遊ぶ  

こんな時に歌舞音曲 いったい誰が 今宵遊んでいるのか

仏法に盛衰があり 天変地異もそれに応じて増減する

明月が西の高楼に沈むなど どうでもいいことだ 


「大風洪水万民憂 歌舞管弦誰夜遊 法有興衰劫増減 任他明月下西楼」は、唐代の詩人白居易の詩「赋得古原草送别」の一節ですね。この詩は、白居易が長安を去る際に、友人の元凶となった罪を償うために、草原に向かって詠んだものです。この一節は、人生の無常さを表現しています。



ただ京都はそういう権力闘争の場であってもまた文化発祥の場でもある。だから中国の明からいろいろなものを取り入れたのである。この時期に日本文化と言われる猿楽・狂言・連歌などは都市・農村問わず愛好され、喫茶の風習も茶の湯として広がった

だから禅宗は文化もたらしたのである。金閣寺にもそれがとりいれられていたのである。 ただ金ぴか文化は常に権力者が作り出す秀吉の黄金の茶室でもそうである。ヨーロッパでもスペインなどは南米のインカとかから黄金を略奪して持ち帰り黄金の教会を作っているからである。信仰というより権力者の権勢を誇るものとして作られたとなる。 

一方で平泉の金色堂は民の平安とか戦乱の無き平和な社会を願い建てられ権勢を誇るものはあった。でも金閣寺と違って 仏教により平和もたらされることを願ったのである。

中尊寺の建立にあたり、「中尊寺建立供養願文」で争いのない平和な世の中にすることを誓いました。平和な世の中を目指した国造りをすること自体は、歴史の中でも極めて珍しいことです

命あるものたちの御霊は、今、あの世に消え去り、骨も朽ち、奥州の土塊となり果てたが、中尊寺のこの鐘を打ち鳴らすたびに、罪なく命を奪われた者たちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願う

それで漢詩にあるように民は苦しんでいた。 それでその頃から一揆が起きていたのである。楼閣など必要ないとその時代の権力者を批判する人なっていたのである。

金閣寺もまたそういう面があった。でもその美には魅せられる。現代で欠けているのは美なのである。東京にいた1000万人住んでいてもそこに美がないのである。だからこそ殺伐としているのである。 

なぜ金閣寺が魅力あるのか?それはお堂の中でなく寺の中でなく外に作られたからである。だから自然の風光の中で映える輝くのである。その美に魅せられるのである。だから私が訪ねたとき苔庭に真っ赤な椿が一輪散っていた。それが金閣寺にもあっていたのである。

だから不思議なのはイメージクリエーターなのである。椿は散っていないが鮮やかに金閣寺に映えている写真になっている。もう一つは五月雨の降り残してや光堂であるがそれは金閣寺をみちのくに移した感覚になる、あきらかにこれは金閣寺である。でも五月雨が降りそれが金色堂にもなる不思議がある。このAIの技術は驚くべきものがある。


ともかく、私は東北に住んでいるから平泉は近い?だから春夏秋冬と行っている。そこで違った趣がある。ただ、それは京都の金閣寺とは違う。金閣寺は豪華に潤沢に輝いている。ただ、そこには他人の平安を願うというより。権勢をを誇るものとして建てられたし義満の別荘でもあったからみちのくの平泉の金色堂とはまた違ったものである。

金色鐘声寺門開、 花香滿路春將來。 雲山四面皆明月、 水田十方是秋雷。

一休の漢詩でもあるが水田とあり秋雷は秋である。ともかく金閣寺の辺りは水田だったとなる

鎌倉時代だったらみちのくといえば奥の細道でさみしいがそれ以上に寂しい場所だったのである。平泉とは小さなみちのくの都であり京都は比べようがない。だからそれは枯野の中にあり。雪にも埋もれていたのであ。そして旅というとき目的地に真っ直ぐ行くより遠回りがいいのである。方向を定めない旅が発見の旅となる。

だから分か道がありどっちに行こうかとかなるのが旅である、そこが分かれ去りになる。それは歩く旅だからそうななった。車だったらそうはならないのである。だから現代は旅がなくなったのである。

芭蕉は石巻からどういう風にして平泉まで来たのか?それは今の石巻線を行けば分かる。その石巻線は人もわずかしか乗らない線である。その時枯野が広がっていたのである。

涌谷とは黄金が取れたとして奈良の都にも知られて万葉集に乗っているのである。だから東北というのはもともと金が多くとれていた。それで金売り吉次の伝説が生まれた。ここに金が取られると知られたのはそれは天平時代であった。黄金山があったところに御堂があり天平の字が記された瓦が発見されて話題になった。涌谷から発見されているからである。それだけみちのくというのはそれなりに古い歴史がある。奈良時代から既に奈良の都と行き来があったからである。


石巻から石巻線に乗るとみちのくでも東北でも広いと感じる。でも東北線とか新幹線で行くとそんなに感じないかもしれない。だから旅というのは途中が問題であり。その目的地になるべく早く着くということではないのである。かえってと遠回りした方がその土地のことがわかり旅になるので。そしてそういう旅のほうが記憶されているのである。本当の旅は歩く度が一番いい。そしてそこに分かれ道がありどっちに行こうかなと思案する行き先もわからないた旅が未知なる道への旅となる。だからこそ分かれ去りとかと言う地名が残っているのである。

道分かれどちに行こうか日永かな

これも時間の余裕がないとこうはならない、まず急ぐ旅は旅にならないのである。車で飛ばしても後で振り返ると記憶から消えているのである。

こうして近くだと四季折々の風情を楽しむことができる。でも。京都となると今遠い。もう介護になってから15年位旅していないのである。そして旅するにも何か外国人が多くなって混雑してそういう人混みがいやになった。もともと自分は都会の人込みなどが嫌だった。若い時はよかったとしても老人になるともうそういう人混みがいやなのである。だから早い時期に関西の方に何回も旅したのはよかった。やはりいくら時間が与えられていても金が与えられて与えられていても何かするということは限られている。時間がその前になくなってしまうのである。

そしてまた状況も変わってきてコロナウイルスとか様々なことで変化して行きづらくなったのである。やはり人が多いということは古都の京都の風情が失われるのである。それは修学旅行生が来て騒いでいた時も感じた。そこで京都の風情が失われる。京都ではしずしずと着物姿の女性がが歩いている時あっているのである。それが派手な若い女性がギラギラの服を着て肌丸出しで歩いていると何か幻滅するのである。だからインバウンドで外国人がまた増えたが京都の風情は失われる。すると日本人は京都に行かないとかなる。そこに現代のグローバル化の問題がまたあるある。金になるからと受け入れるとそこにまた問題が起きるのである。