2023年08月31日

many ways in blooming flowers


many ways in blooming flowers


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クリスチャン・ラッセンとイメージクリエーターの共通性

Christian Lassenの絵はイメージクリエイターで作る絵と似ている。ということはこの人の絵はそれほど創造的ではないのだろうか
今コンピューターでは小説すら作っている。だから芸術の分野にもコンピューターは影響している。
何かこの人の絵はコンピューター的に作られたように見えるのである。つまりコンピューターは作れる絵なのである。
とするとこの人の絵はそれほど価値があるのかとなる

なぜならコンピューターでも同じようなものが作れるからである。もし絵だけでなくて小説でもほかの芸術でもコンピューターは作り出すとしたらどうなるのか。
芸術となると人間しかできないものと見ていた。でもコンピューターでこうして全く絵の才能はなくても絵をが作り出している。そしてクリスチャンラッセンの絵はコンピューターが作り出したのではないかとも見る。
となるとこういう絵画はもはや価値ないとなってしまう。なぜならコンピューターと同じようなものを作るからである。だからこのイメージクリエーターというのは不思議なのである。

Christian Lassen and Image Creators Share Similarities


Christian Lassen's paintings are similar to those created by image creators. Does this mean that his pictures are not so creative?
Nowadays, computers are even creating novels. So computers are influencing the field of art as well.
His paintings look like they were created by a computer. In other words, the computer is capable of creating pictures.
If this is the case, then one wonders if this person's paintings are worth that much.
If the computer can make a similar picture, then the picture is not only a picture, but also a novel. What if computers can create not only paintings but also novels and other art forms?
We used to think that only human beings could create art. But now computers are creating pictures without any talent at all. I also believe that Christian Lassen's paintings may have been created by a computer.
If this is the case, then these paintings are no longer valuable. This is because they are created in the same way as computers. This is why this image creator is so mysterious.

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

空地空家が増えるー秋がなくなる (夏の月、涼しさ、夏の夜、夏燕)


空地空家が増えるー秋がなくなる

(夏の月、涼しさ、夏の夜、夏燕)


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ソーラーライトに照らされるノウゼンカズラの花、ソーラーライトは電池交換しなくてもいいからいい。
こうして個人用に使うのには便利である。

海寄りの風のすずしや夏燕

我が汲むや夜風涼しく井戸の水

4軒ほど消えにし家や夏の月

利用せぬ空地の増えて夏の月

大きい家屋根に満月夏の夜

ノウゼンのソーラーライトに照らされて家を守りてなお我が生きむ

自分の家の周りが四軒ほど消えて空き化した。四軒となると結構広い。一軒は前から空き地化していた空き家化していた。理髪店だった。隣は建具屋の人だったらその後はタクシー運転手の家だった。一番広いところは農家だった。今壊された家は借りていた家でありその人は近くに新しい家を建て移っている

それにしても空き家が増えて空き地が増えてくる。近くに人一軒だけ子供がいるようだが子供というのは見かけないので神社はあったがそこにわんさと子供は集まって遊んでいたが今は一人も遊んでいない。本当に子どもというのは見かけない。ただ幼稚園とか小学校とかにだけ見かけるのである。
ということは将来を考えれば本当にさらに跡継ぎもなく空き家が増えて空き地化してくる。

そしてその空き地化したところに井戸水を毎日汲んでいる。すると月が輝いている。すでに秋になっていても夏である。秋がなくなるというのも分かる。それだけ暑いということである。

大きな家の屋根の上に満月が輝いている、なにかそれが姉のようにも見えた。姉は太っていておおらかな性格だったからである。
だから大きな月が似合っている。人間は家族でも死んでも形がなくなっても愛は消えないことを感じる。ただその愛は自分に対してだけの愛だった。すでに死んでからもう13年とかなる。それだけ月日が過ぎるのが早い。この13年間はあまりにいろいろなことがありすぎたのである。

とにかく何か私の家も大きいから大きな月がふさわしいとなる。そもそもこの家は私の母と姉が作ったものである。
今日はスーパームーンであり地球に月が接近して大きく見える
晴れているからきれいに見えるだろう。
とにかく暑くて今年は遠くに出れない、陽射しをあびると熱中症になる危険がある。ただ毎日海の方に自転車で走る。海からの風は涼しい。特に夕方は涼しい、その時だけ秋を感じる

2023年08月30日

なぜ日本人の悪いことばかり今言われるのか? (なぜこれほど評価が変わってしまったのかー戦後の歴史を振り返る)

なぜ日本人の悪いことばかり今言われるのか?

(なぜこれほど評価が変わってしまったのかー戦後の歴史を振り返る)

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【投資より預金!発言より沈黙!特殊な日本脳!】日本脳形成の原因を初めて明らかにした力作!日本脳である限り、日本は隠蔽、差別、体罰、アナログシステム…を是正できない

●日本人は閉鎖的村社会でアイデンティティを築いた

日本人とは何か。何か経済が停滞してから日本人の悪いことばかりしか言われない。でも高度成長時代はジャパンアズナンバーワンとして日本人の良い点ばかりの言われた。そして世界も日本を見習うべきだとしていたのである。それが失われた30年があり日本の悪い点しか言われないのである。
明治時代で積極的にヨーロッパの文化文明を取り入れて改革したことにそのスピードが速いことにヨーロッパ人も驚嘆していたのである。日本人というとき常に村社会のことが言われ狭い閉鎖的な世界で人生きてきたことによりそこはアイデンティティとなり鬼は外福は内の世界の狭い世界間しかなかった。村は世界であり世間であれ社会となっていた。

だからそもそも日本には大きな社会という概念を理解できなかった。社会という字は社に会すということであり狭い世界なのである。村社会では異質なものは受け入れない。それでこの辺の伝説で麦衝きに来た青年が蛇だったとかされている。それは隣の村でも交わらない社会だからそうなっていたのである。
飯館村の大倉村と佐須村が民情が違うということだけで明治以降合併しなかったのである。この民情はわかりにくい。このように交わらない社会だからそうなっていた。。ただそういう村社会が基本にあるとしても明治維新というときなぜヨーロッパの運命を文明を積極的に取り入れたのかそれが一つの謎になる。

ただヨーロッパの文明というとき日本人が注目したのは技術的なものであり文明全体を作っているものに目を向けなかった。ヨーロッパ文明の基本はキリスト教文明であり外国にヨーロッパに行けばいたるところ教会や立派な石造りの大聖堂がある。日本人はそういうものには関心なかったのである。だから内村鑑三などはキリスト教を受け入れない日本日本は西洋文明を基本的に受け入れることは無いと言っていた。欧州で福祉が発達したのはその根底にキリスト教があったからである。
金持ちでも寄付が多いというとき来世で神の国に入れないとか畏れているからだという。つまりキリスト教がそれだけ歴史的にも浸透しているからである。

そもそも日本の社会が村社会が基本だという時それ以上に村以上に広い世界を受け入れるものがなかった。文明を見るときやはり宗教が大きなやはり役割を果たした。キリスト教文明でありイスラム文明であり仏教文明というのはやはり世界を作ったからである。でも仏教を取り入れた時のように明治維新でわキリスト教は日本では受け入れなかった。それが基本的に依然としてもら社会の閉鎖性があり今やただそうして日本人の悪いことばかりが指摘されるのである。

●科学精神はプロテスタントから生まれた

科学技術がヨーロッパで発展したというときそれはカトリックとプロテスタントの対立から科学技術が生まれたというのももともとキリスト教はヨーロッパを社会を作っていたからである。
現在の西欧文明とか資本主義とか科学技術とかはプロテスタントから出ている。カトリックのは世界的巨大な組織でありそこに牧師は介在して民衆を導くことを基本にしている。だからカトリックは宗教による世界的支配構造を持っていてそれに反発してプロテスタントが生まれた。
だからそこから科学技術が生まれたということもわかる。科学を否定しない。すべてが神によって決められているということではなく積極的にその神が造られた世界を解明し探求しようとする科学の精神がプロテスタントから生まれたというのも分かる。
プロテスタントには仲介する牧師がいず直接神と個々人が向き合うからである。

なぜキリスト教からでも科学が発展したのか。それはイスラム教でもそうである。共通しているのは一神教だということである。偶像崇拝を認めないことである。イスラム教はアブラハム基とした宗教でありもともとは聖書のを基にしているからである。共通しているのは偶像崇拝を禁止していることである。この偶像崇拝を禁止しているということでそれが科学を生んだ基ともなっている。あらゆるものは神となるときただ崇めるだけでそれを客観的に探求するという分析するということがなくなるからでもある。確かなことは仏教からは科学が生まれなかったのである。

一番科学が発展したのはキリスト教文明でありその前はイスラム文明だったのである。なぜイスラムに代数学が生まれたかというとそこでは抽象的な思考が行われていた。数式化することが行われていた。それは偶像を否定してそのモスクでの中でもあらゆるものは抽象化して幾何学文様にしているのとも似ている。
つまり偶像を否定して物事を抽象化して数式化するということは一神教においてはそうすることが望まれたと思うんだ
また神の一つであるということは万物は神であり無数の神があるということは混乱する。唯一の神があってこそ精神的にもそこに秩序が生まれるので。だから一神教からは科学精神とか思われたと思うんだ。

●戦後は国際情勢が日本に有利に働いた

とにかくなぜ日本人の悪い点ばかりがこれほど指摘されるのか。それは戦争で負けた結果でもあり高度成長時代はジャパンアズナンバーワンで日本人を見習いとされていたのである。だからそのギャップに戸惑うのである。
日本が高度成長を成し遂げたのは世界情勢とも関係していた。朝鮮動乱がありそこで中国ロシアアメリカが関わりその後冷戦が始まった朝鮮戦争ではロジスティックとして日本が物資をを供給した。それが日本の経済復興への基となっていたのである。
それで子供の時鉄くずを集めてそれを売って金にしていた。つまり鉄が不足していたのである。それは朝鮮戦争への武器とかに使うためにも鉄が不足していたのである。だから大量に鉄が必要となり日本がそうした物資をを供給する場となった。
でも日本人自体は戦争に参加することはなかった。参加しなくてもよかったのである。戦争に負けた国だから戦争する必要はなかったのである。それが幸いして復興のためにだけ国力を注いだ。それからベトナム戦争の時も日本人自身が戦争に駆り出されることはなかった。それでベトナム特需というのもあった。

何かこうして戦後焼け野原になったのだが日本は別に戦争する必要もなく経済復興だけに力を入れればよかった。その後に高度成長時代となり電気製品大量に作り売ることでみんな働けば豊かになれるという時代になったのである。だからやはり国際情勢が戦後焼け野原で絶望的ではあったが日本を助けたということになる日本に有利に働いたということになる。
その後高度成長があったがアメリカはアメリカがそれに不満を持ちアメリカで日本車が壊されることもあった。それでブラザ合意とかか金融政策で日本は苦しくなった。何かその日本の歴史を繰り返しているのが今の中国にもなる。アメリカと対立することによって経済が落ち込み日本と同じようになるかもしれない。つまり中国の高度成長時代は終わり日本のように停滞して失われた30年とかにもなることもありうる。ただ中国の場合は規模が大きいからそれが世界に波及してくるのである

●予測できない未来

日本が良くなるか悪くなるかという時また世界でもよくなるか悪くなるか株でも上がるのか下がるのかそれは必ず二つの面があり良くいう人と悪いという人に必ず別れる。
それは人間が未来というのものを予測できないからそうなっているのである。高度成長の時代は誰も失われた30年となってなってしまうようなことを予測していないのである。また戦争が終わった時ですら戦争に負けるとは思っていなかったのである。このように人間というのは未来を予測できない。だから必ず予測できないことが起きるとなるのである。津波とか大地震のことでもそうだった。だから人間の想像を超えるものは起きるということはありうる。

だからノアの洪水のように神から伝えられてそれを信じてノアが方舟を造作った。そのとき人々はの笑い嘲っていたのである。人間には予測し得ないことが起きるということでだからそれにい備えねばならない。でも現実は備えることが不可能なのである。神によって滅ぼされそれは予言されているのだから確かである。それがいつになるか分からないにしてもそれはいつか実行される。おそらく神が手を上げただけで滅びてしまうのかもしれない。だからこそ神を畏れねばならない。飲めや歌えとか騒いでるうちに死がやって来るように滅びもやってくるのである。








posted by 天華 at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年08月29日

ヨーロッパにはなぜ天才が多く生まれたのか? (小都市国家が文化を育んだー文明から文化の時代に)


ヨーロッパにはなぜ天才が多く生まれたのか?

(小都市国家が文化を育んだー文明から文化の時代に)


「飯・風呂・寝る」の生活から「人・本・旅」へ


2000時間も労働していたら(200日働くとしたら一日10時間です! )、しかも仕事後、職場で飲みにいくという悪習もあるわけですから、正社員が勉強する時間などありません。「飯・風呂・寝る」を繰り返すだけの生活になります。

ダイバーシティがあり、かつ高学歴な人たちの組み合わせです。学歴の内容もダブルドクターやダブルマスターが多く、しかも数学と音楽や、物理学と歴史学というように、文理の別を超えて好きなことを極めている人が目立ちます。こういう人たちを僕は「変態もしくはオタク」と呼んでいます。


世界で戦う教育法】日本の「学歴」「偏差値」はもはや無価値。我が子をグローバル社会でキャリア形成させるには?

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●日本人は変わり身が早い

人間は価値観が変わると戸惑ってしまう。これは何なのだと理解できないのである。それが明治時代とアメリカとの戦争に負けて焼け野原になった日本で起きている。これまでの価値観が通じない。でも日本人は変わり身が早く適応性に優れているとなりそれが外国人には驚きだったという。
いち早く髷を切ってザンギリ頭にした。こうした変化こそやはりヨーロッパの文明を優れたものとして積極的に庶民ですら取り入れたということである。その取り入れるスピードも早かったのである。それを見ていた外国人が驚くのも当然だとなる。
なぜなら江戸時代に籠で人を運んでいたような人たちが一挙に鉄道で人を運ぶようになったからである。その変化は本当に大きかった。だからなぜそんなに変化できたということが驚きだったのである。何か籠で人を運ぶというのは原始時代のように見えていたからである。もっと工夫すればそんなことをしなくてもいいと見るからである。だから江戸時代というのは技術的にはあまり進歩しなかったようにも見えるのである。

ただ政治的には天皇が復古して天皇中心の国家になった。それはヨーロッパから取り入れた議会制とか民主主義とかとは何か相いれないものだったのであ。そのことがの太平洋戦争へと向かうことになった原因でもあった。日本は神国だということでそれが政教一致となり祭政一致となり300万人も死んだという原因になっていたのかもしれない。ただ戦争についてはいまだにその原因も明確でないし日本人自体があの戦争は何だったのか総括していないのである。

でも原爆が落とされて日本が焼け野原になってアメリカに従属するようになった。その代わり身もまた早かったのである。そこから高度成長時代と向かっていたのである。アメリカ軍は日本支配するにあたって相当な抵抗があるのではないかと思ったが日本人は意外とアメリカに従順に支配されたのである。だから日本人というのは変わり身が早いのである。

でもなぜまた高度成長の後失われた30年があったのかそれが不可解なのである。確かにインターネットというのは製造業と違って日本に適合できないものだったのかもしれない。それにしても変わり身の早い日本人にしてはそうした通信世界でもいち早く適用できることはあり得たのである。

●物つくりからソフトの世界に変わった

なぜなら最初に携帯電話とこ普及したのは日本だったからである。その後の通信がインターネットになったということでそれに適応できなかった。その原因が何だったのか追求してもなかなかわからない。おそらくものづくりとは違った分野でありそれが日本人に適応できなかったのかも知れない。その証拠がいまだに日本ではソフトは世界的に通用するソフトは作れていないのである。そのことでも遅れていたことが日本は世界の通信産業から遅れてしまったことがわかる

そして本当に不思議なのは戦後の高度成長時代が終わり失われた30年があり最近なぜオタクがいいとかみんなアーティストになれとかそんなことを知識人でも大ぴらに言ってることが不思議になる。
なぜなら団塊の世代などはそんな人がいたらそれはアウトサイダーでありそんな人が居てもいないとされていた。つまり社会の外の人でありそんな人は社会に存在すらさせられなかった。ただ変なのは今アウトサイダーなのかニートとか引きこもりとか働かないで家に居る人は百万近くもいるとか信じられない時代になっているので。でもその人たちはやはり社会から糾弾されている。でもそれだけの人間が現実に存在しているということが高度成長時代を経験した私にとってはありえないことなのである。

そしてここでも述べているように何かオタクだとか変わったやつが集めてそこで起業して成功したとかそんなことが今までありえなかったのである。ただ昔から飛び抜けた人がいて天才がいてそういう人が新しいものを作り出していたことは確かである。でもそれは一般的には適応されない。でもなぜ今そういう人が必要だとかそういう人たちを集めて新しいものを作り出すのがいいとか堂々と言っているのは何なのだろうかとなる。
というのはものづくり一辺倒から社会が世界が変化したためだろう。インターネットの世界はものづくりではない。ソフトの世界であり日本人のようにものづくりに精通するということではない。ソフトとは何か人間の頭脳と深く関係しているのである。だから本当に最近出て来ているチャットgptとかイメージクリエイターとかが本当に不思議なのである。

特に私が感心したのはイメージクリエーターである。言葉を入れるだけでそれが絵に転換される。それがどうしてそうなるのか理解できないのである。私は元々絵の才能はゼロであ。それで他人の写真や絵などを加工して抽象画を作っていた。それも不思議なものだった。でも本格的な映像が言葉を入れるだけで作れるということは本当に不思議である。
何かパソコンというのはもともとこうして人間の頭脳と深く関わり創造的な作業もできるものとしてあった。それはやはり人間の技術の進歩がやはり人間の頭脳と深く関係しているとのようになるなるものは必然だったと
そのことが日本人にはよく飲み込めのみこ見ていなかった。そこでものづくりの世界からこうした頭脳的な物としてコンピューターを捉えることができなかった。それで日本の日本は世界から遅れてしまったのである

今世界を導くGFFAなどは今までの車を作るとかテレビを作るとかはいかそうした製造業とは違っているのである。だからこそ日本は大量生産して世界に電気製品などを輸出できた時代とは違っているのである。それは人間の頭脳と深くかかわったソフトの世界だからである。それはまたコンピューターのプログラミングの世界でもある。何か物を作り出しているというのとも違うのでものづくりが得意だった日本が遅れたのはそのためだったともなる。

●ヨーロッパの天才は小都市国家から生まれた

いずれにしろなぜここで人本旅とかに費やせというのも不思議になる。もちろん本を読むということはその人の教養とか創造性を作る基にはなる。旅でもやはり外国に直に行ってる人と行かない人の差は相当に大きい。それより留学する外国で生活する外国で仕事する人と日本を出てでない人はその差が大きいのである。外国を直に知っている人は日本を相対化して見れるからである
ともかくなぜ西洋文明というのはヨーロッパ中心の世界が作り上げられてきたのか。その大きな原因がヨーロッパには本当に天才が多いのである。つまり発明する人発見する人創造する人が多かったということである

そのことはやはりヨーロッパ中心の世界が作られてきた原因だと見る。ただ軍事力で世界を支配したというのでもない。スペインはただインカ帝国であれ略奪国家であり泥棒国家であり何かイギリスとかとは違っていたイギリスは産業革命を起こしたことで鉄道などを作り出したのでありそれが世界に普及したのである。
だから軍事力だけで世界を支配することはできない。ローマ帝国でも建築に優れていて道づくりにも優れていて軍事力だけで支配できたからでわなかった。それはほかの帝国でもインドでも中国でも中東でもそういうことがあった。
ただ軍事力で世界を治めることはできない。アメリカは軍事力は強大だがただそれだけで覇権国ともなれなかった。やはり技術力がありIT先進国になったようにアメリカはヨーロッパの後継者でありやはり天才を生む国であり発明発見創造する国だったからである。

ヨーロッパがあれほどの天才を生んだということはそれはただ偶然とかではない。一人の天才が生まれるにしてもその一人だけでわとても天才にもなれない。天才を産み育てる環境背景がないければ不可能である。それがヨーロッパの貴族社会にあったということである。
またそうした文化を生んだのは大帝国の大都市でもない。中世の5万くらいの小都市であれ小国家なのである。ルネッサンスの中心になったフィレンツェなどは5万くらいの年である。

となるとこの辺で原町とか相馬市の規模でもあったとなそんな小さな年からどうしてあにょうな華麗なルネッサンスが生まれたのか、それはやはりかえって今のような1000万の東京のようなところからは文化は生まれない、ただ経済力だけであり文化は生まれない生まれないのである。
そもそも文化というときは何なのか。それはやはりcultureはcultivateからきているからである。その土地に密着してその土地を耕すことによって生まれたものだからである。もしそうした土地もなければ文化も生まれない。文化というとき建築とか絵画とかいろいろあるな身近なものとしてその食にあるヨーロッパはワインの国でありその元になる葡萄にしても多様なのである。
その葡萄にもその土地の名が付いたものはある。それは日本でも同じである。米でもその土地の名前が記されているしその土地の土地で獲れた独特の味がするもの果物でも野菜でもあるからであるそれがもともと文化なのである。

そういう文化は文明と違って小都市国家から生まれやすいものだった。小都市国家だとそこでアイデンティティ化しやすいのである。だからそもそもシチズンと言う時シティーが元であり市民なのである。パスポートにどこの市民なのかシティズンなのかを書くのはまさに小都市国家から生じたヨーロッパの歴史がそこにあるからである。シティズンシップというときは四面の共同体のことだからである。
でも日本だったらそういう市民などないからその言葉自体が理解できないのである。言葉というのはそれだけ言葉だけでは理解できないものはその背景に土地代わり歴史があるからそうなる。
とても数式のように世界を分析することは不可能なのでそれはおそらく理系でもそういうことがあり意外と英語ができないとグローバル人材にはなれないというのもそうなのかなともうもうなぜならあるか学者は機械マニアが良いのでありそういう人は英語など学ぶ必要がないと言っているからである。

●大都市からは天才は生まれていない

それもそうなのかと思ってたが一方でどうしても理系でも英語に通じていないと共同して研究したり仲間となれないというのもまた一面そうなのかもしれない。それは言葉にはこれまで培ったさまざまの概念とかがありそれがやはり理解できないとグローバルに通じた人材とはなり得ないともなるだから理系は機械間に合ったら機械に通じていればいいと思ったはそうでもないのかとなる
とにかくヨーロッパから天才が多く出たのはやはりその基となったのは小都市であり小国家だったということである。そのくらいの規模だと人間を返って全体的なものとして育むものアイデンティティ化しやすいのである。
だから大都会には天才が出ていないのである。普通なら1000万人もいればその中から天才が出てもいいはずなのであるでも大都会からは天才が出ないのである
ただ理系とかもあるから一概には言えないとしてもやはり天才は大都会からでないとしている。現在はもはや大きな文明国家とか大都市とかそうした物量的にただ巨大だというだけの物には価値がなくなっている。

むしろ小規模でもヨーロッパの中世の小都市の都市国家のようにそこで世界を世界を見て一体化するアイディアしアイデンティティ化してミクロコスモスの中で世界を見て想像する。だからこれからはグローバル化といってもただ大量生産大量消費する時代は終わった。テレビでも冷蔵庫でも洗濯機でも車でも便利な機械は持っている
何か今求めているのはそうした機械ではなくものでもなく各地に独特に育まれた文化が求められている。海外旅行とはそうした文化を求めているからである。

中国人の爆買いがあったけどもそれももうない。でもやはり日本の文化を知りたくて味わいたくてしてくる人はいるわけである。文化は空間軸と時間軸で作られるがやはり相当に奥深いものがあり簡単には理解できないからである。
すると日本通になるとしたら何度でも日本に旅行に来なくてはならなくなる。中国だと近いからそれができるのである。そもそも奈良時代に遣唐使は中国に派遣されたがそれは中国文明を取り入れるということもあった。文化を取り入れるということでもあった。特に漢字を取り入れたことが日本文明を作ったということにもなる。漢詩なども学んだのもそうであるそれは文化を学んだのであり文化の交流がそこにあったということである。

中国にしても唐の帝国は世界帝国になったかそれはただ軍事力だけではない絹織物の生産とか紙の発明とかあった。それがシルクロードを通じて世界に伝播したのである。
でも中国でわ20世紀でもヨーロッパに支配された時まだ太平洋戦争が終わって今度はアメリカに技術を取り入れても発展したわ中国自体が何かを創造発明発見したということはないのである
何か中国由来の独自のものは世界に普及しているか。漢字はやはり中国人最大の発明でありそれが日本人は奈良時代に取り入れたのである。
でも最近中国があれほど発展しても中国自体が生み出したというものは見えないのである。ただヨーロッパやアメリカから生まれたものを作っているだけである。それは日本とも似ていたのである。
ただ日本は最初電気製品なので独自なものを作っていた。でも基本的にはやはり欧米の真似だったのだろう。つまり発明発見想像力それがなければやはりその国は世界を導く者とはならない。人間の数が多いとか国土が広いとかそれだけで覇権国にはなれないのだろう。ロシアとか中国はバカでかい領土があっても農業国だけでは世界を導くということにはなり得ないかった。
アメリカの有利な点はその国土も資源もある大きく豊富でありそれを基として発明発見創造の国であるということがやはり世界を導くものとなったのかもしれない。ただそれも今限界がきていることは確かである。

発明と発明発見創造とかなるとやはり何か社会から逸脱してもオタクのような人でも何か一つのものに異常な関心を持って追求するということも想像発見創造につながる。ありきたりのことをして考えていては何か新しい発見想像はないのだろう。旅というのは私が追求してきたの常に今までにないものと接するからあなたの視点を得られるのである。まず本当は地理を知らなければ世界を知ることはできない。それでやはりバックパッカーとして私は50才で遅かったが世界旅行したことが見聞を広めたのである

ここで人本旅ということを進めているが私の場合本は本も相当読んだ。旅は仕事の様にもなっていた。だからこの二つは自分にとって創造の源はなっている。ただ欠けていたのは人である。私自身は孤立していて知的刺激を受けるような人と直接接している事はないからである。ただ本を通じて通じてとかインターネットわ通じてこうして対話はしている。
でも直接人と接するということは無いからそこが大きく欠けているのである。やはり創造的な人が集まればそこに刺激を受けて新しいものが生まれたということが分かるのである。ただそれは理系のことであり文系となるとその人もあまり関係ないかもしれない文系というのはそもそも独学できるものだからである。

posted by 天華 at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育心理学など

2023年08月28日

井戸水は安全なのか? (沸騰すれば安全であるー忘れていて近くの井戸の水を飲む)


井戸水は安全なのか?

(沸騰すれば安全であるー忘れていて近くの井戸の水を飲む)

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このように急速に水道が敷かれていった背景には、水系伝染病であるコレラの大流行がある。一八八二年、日本ではじめてコレラが発生する。これは第一次の世界的流行の影響であり、西日本から東海道にまで広がった。

井戸の近くにある従業員七〇人のビール工場では、重症のコレラを発症した人はいなかった。調べてみると、工場の従業員は井戸の水は飲まずビールを飲んでいたのだ。そこで、汚染された井戸の使用を禁止にすると、コレラの流行は、ぴたりと止んだ

井戸水のことを調べたらいろいろ危険なことが書いてあった。それで不安になった。市役所の方に聞いてみた。審査してもらって持ち主は安全だから飲んでいいと言われたので飲んでいる。
その調査結果も持ち主に出している。それは放射性物質だけではない。その他の細菌類なども調査したという。でも本当に安全なのかどうかはどうも保証されていない。その聞いた人に明確な答えはなかった。それでやはり不安は消えなくなった。確かなことは地下水は何かと菌が入りやすいことである。
でも子供の時井戸がないのだからその色の水をもらって飲んでいた。ほかの人も井戸の水を飲んでいたのである。それで細菌が入っていて病気になったということも聞いていない。でもやはりばい菌が混入して病気になった。そういうことがあり水道が作られるようになったのである。
現実にイギリスでわ井戸からこれらコレラ菌が水に混じって伝染した。だからやはり井戸というのはがあったのである。

とにかく今なら山の清水など飲むことはできない。山の清水は上流でも動物のフンなどが混じり意外と汚染されているから危険である。それは直感的にわかる。
つまり自然の水そのものは今は飲むことは危険である。この辺は特に放射性物質に汚染されているから余計にそうなった。でもこの清水でも井戸の水でも沸騰すれば細菌は死ぬという。だから一旦沸騰させてそれをまた冷やす。それも手間になるな安全を図るためにはそうするほかない。すると何か面倒になってしまうことは確かである。

ただこうして近くに地下水から水が50年前からでも出ているその水は尽きることがなかった。それでその水を飲んでいる時何か買って飲むものとは違ったものを感じた。
つまり直に自然の恩恵というか恵というかそういうものを実感した。水道の水とかでわ何かそういうものを感じなかった。水道だったらやはり金を払って買ってるということに今ではなるからである

それを感じたのはやはり近くにあり50年前以上からもその水は絶えることなく地下から出ている。
その恩恵は今もあったということである。だから今では水を買っている人が多い水道の水もやはり金を払って買っているのである。でも全く金も払わず無料で水を利用して飲める。そのことは直接大げさに言えば自然とじかに繋がり自然によって生かされているという感覚にもなったのである

とにかく現代は自然の恩恵を直接的に感じることがない。水ですら何か買っているという感覚になる。そこには必ず金が介在するのである。だから金を払わないで水を飲めるということに感動したとまでなる。でも現実はこうして自然から直接恩恵を感じるということはまれになる。
でも最近日本というのは貧困化して物価も上がり何でも買っていたらもう生活すらできなくなる。水でも買っている人が多い。その金もないという人まで増えている。すると近くの水は無料で飲めるということは貴重なことになる。
人間とは今遠くへ遠くへと関心が向くが意外と近くは今関心がなくなっているのである。それは人間に関してもそうである。外国の困った人には援助してもすぐ近くに困った人人がいても無関心であり援助しないのである。おそらく近くになにかあったものが人を生かしていたものは忘れられているのかもしれない。その忘れられていたものとして隣の井戸があった。この井戸水を飲めばありがたいと思ったのである

それただそれも簡単に飲めるものでもなかった。細菌があるからとして沸騰してまた冷やすとなると手間だし沸騰するどこやはり燃料が必要であり電気代も必要になってくる電気代も必要になってくる。そこでやはり金がかかるとなる。でもただ近くに恵みがあったということは発見である。
最近よく言われることで地産地消とあるわそれはこの井戸水に当てはまる。その水は60年前70年前からも戦前からも絶えることなく水を供給できていたのである。そしてここに水があれば何かあったときこの水を利用できる。するとここに水が自由に無料で使えるということは力強い備えともなっているかもしれない。

確かなことは人間の生活があまりにも何でも買うということになり金なくしてもはや呼吸すらできなくなってしまうのかとなる。つまり空気すら金で買わざるを得なくなってしまうのかとまでなる。
なぜならここでは空気すら放射性物質に汚染されたからである。それで住めなくなったからである。だから原発事故というのは何かこうしてもともとあった水でもあり自然の恵みを忘れていた結果でもあった。ただ矛盾しているのは井戸の水でももし沸騰して飲まなければ安全でないという時その沸騰するのに原発の電気を使うって言ったらそれは何なのだとなってしまう。何かそういう矛盾が現代には常にある。いくら現在では電気を否定しては生活もできないからである。

とにかくこの辺ではやはり原発事故がありもともと自然の恵みがありそれを見直すという再発見するということも必要かもしれない。でも飯館村あたりではもともとまだ自然の水とかを利用していた。でも放射性物質に汚染されてそれもできなくなったということもある。ただもともと地下水とか清水でも危険なものがあった。やはり沸騰しないと飲めないということがあった。飲み水以外ならばそういうことはない。やはり口に入れるということは問題だったのででも子供の時は別に井戸の水をみんな飲んでいたと思う。それをいちいち沸騰して飲んでいたとも思えない。

確かなことはやはり昔からの生活を見直すことも必要になってきた。だから地産地消とかも言われるようになったのである。水まで遠くから買っていることはやはり不自然なのである。その輸送するコストもかかる。本来は地産地消は自然な姿なのである。ただこの辺では原発地区でも放射性物質に汚染されてできなくなったことはあまりにも大きな損失だったのである。
近くが大事というとき介護とかなると近くが大事になる。意外と隣の市とか車で近いとしても娘息子が住んでいるとしてもいちいち車で来るのが手間になる。もし隣に住んでいたらそいうことがないから便利なのである。

脳梗塞になって自転車にも乗れなくなった女性がか自分のところに歩いて来ている。
つまり病気になってもなお近くなら歩いても来れるとなっていたのである。これが遠くなったらとても歩くことは無理である。近くだったら様子を見に行くこともできる。遠くになるとなかなか車を持っていても面倒になるのである。
だから意外とこうして老人が病気になったりすると近くの大事になるのである。昔だったら隣近所に一応店屋はあり簡単な食事を用意くらいできたかもしれない。今は隣に店は全くない。それでその女性は近くに店があったらなと作ってほしいとか言っているのである。

でも今の時代では無理である。でも高齢化社会になると近くが大事になるのである。車も運転できなくなる人もありその人たちは自転車に乗っているからである。
だから高齢化社会に適したものとは近くで用が足せることが大事になってくる。本当は近くの人が助け合えば効率的である。でも今はそういうことはない。車社会になれば近くは遠くが近くになり近くは遠くなってしまったのである。
だからそういう車社会も高齢化社会になれば見直さなければならないことがある。何しろ老人と病人が増えてくるだけの社会であるそれはマイナスにしかならないとみるがやはりそれに適した社会というのはまた健康な人でも若い人でも将来的にも住みやすいものとなるかもしれない。だから今かえって近く見直さなければならなくなっているともなる


自然の恵み

隣の井戸の水は子供の時から
それもさらに戦前からも使われていた
その水は絶えることなく地下から出ていた
地下に蓄えられてたえることはなかった
その水を飲んだ時何かその地下と通じ合う
自然とじかに通じ合うものを感じた
そして自然の恵みを地下に感じた
自然の恵みは尽きることはない
今その恩恵はすぐ隣にあったのだ
しかし忘れていたのである


posted by 天華 at 18:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年08月27日

人間は生まれつきですべて決まらない


人間は生まれつきですべて決まらない

(一つの行為でも変貌してライオンにもなる)

「What do you do?」か「What are you?」か
欧米のビジネスの場では、初対面の相手に英語で素性を尋ねる際に、「What do you do?」という質問の仕方をよくします。一方、日本では多くの場合、「What are you?」という聞き方をします。

「What do you do?」は「あなたはどんな行動をして、どんなパフォーマンスをあげていますか?」という意味です。つまり、「人にどんな価値を提供できるのか」という可能性を聞いています。

●人間の特徴−動物との相違ー生まれつきで決まらない

人間の特徴とは何なのか。動物なら生まれた時からすでにその未来は決まっている。猫に生まれたらネコであり犬に生まれたら犬でありネズミに生まれたらネズミである。
そして別に生まれてすぐにも自ら立って本能でも生きてゆく。確かに親に教えられ餌を取る能力を身につけるがそれも短い期間である。本質的には本能によって教えられなくても自ら生きる力を持っている。

では人間はどうなるのか。確かに人間でも生まれつきの才能は大きく作用する。だから生まれつきの才能でその将来も決まるとかも言われる。それも現実ではあるが人間にはそれがすべては当てはまらない。人間の特徴はその生まれた家族とか環境の影響が大きいのである。
どんな家に生まれたのか。どんな場所に生まれたのか。どんな人々と交わって育ったのか。そういう環境因子が人間を作る。
そして人間は生まれつきとかですべてが決まるわけではない。確かにその生まれつきの性格とか才能は後々まで影響する。でも人間の特質はその生まれつきのものを超えて人間自体が変わることができる。

極端に言えば自然界ではネズミはネズミであるネズミがライオンになったりはしない。でも人間の場合はネズミのようなものであってもあることをきっかけに行動によってライオンにもなるのである。人間っていうのはだから生まれつきで決まって決められないのである。一つの行為で人間は変わる。
だから聖書の不思議は理屈ではないし理論でもない。神に選ばれた人間が奇跡を示す。それが聖書の基本的な物語である。その神に選ばれた人は人間として特に優れた人でもなかった。
だからなぜそのような人が神に選ばれたのかという不思議がある。優秀な人がいるのだからその人を選べばいいとなる。でも天才とかなると確かに人並み優れたものとしてありそれも稀であるがそういう人は神に選ばれなかったのである。

●一つの行為でも神に選ばれて人間は変わる

人間の特徴はこうして生まれつきでは決まらない。人生を生きる中で一つの行為でそれがその人を変わることがある。つまり人間にとって大事なのは必ずしも生まれつきではない。何か一つの行為がきっかけとなりそれで神に選ばれるということが聖書を読めばそういう何かを神に選ばれた人が何かを成すということを記したのである。

その神に選ばれた人はその人自身が何かを成したのではない。神の力はその選ばれた人に加わったのである。だからこそその選ばれた人が何を成すことが出来たのである。それはそこに神の力が加わったからである。そこに人間のと動物とかと違う。
とてもネズミがライオンになったりはしないからである。ネズミはネズミとして生まれ死んでゆく。しかし人間はライオンに龍にすらなる。だから人間は確かにお生まれつきとか環境とかの影響は大きい。でも人間は一つの行為でも変わることができる。そして壁に選ばれて神の力が加わり大きなことを成すこともできる。

動物の特徴はネズミから生まれればネズミであネズミの親から生まれればその子はネズミである。猫から生まれればその子も猫である。猫のの子から虎になったりはしないのである。でも人間の場合はもともとネズミでもあってもライオンや虎にもなる。
それは一つの行為によってそうなるのである。その行為というのは生まれてから生きる中で起きてくる。自らの意志で行為した時それはその人を変えてしまうのである。そこに神の力が加わりその人は前とは違った人となってしまうのである。
だから人間というものは神と結びつくことによって本当の力を得るのである。そして人間はどんなに能力があってもその人が優れていてもそこに限界がある。いくら優れていてもやはり全能の神からすればわずかな能力だとなってしまう。全能の神がなすことと人間のなすことの差が大きいからである。

●人間は神に選ばれない限り満足しない

そして人間は決してノーベル賞をもらったとしても満足することはない。どんなに優秀でも満足できないのである。でもたいして才能もない優秀でなくても神から認められるその人は満足するのである。それが聖霊であり永遠の命を神から与えられることである。
とにかく人間は自分が優秀だと相手と比べて常に競っている。学歴でも競っている。俺はお前より優秀なんだと常に競っている。そして他者と比べて必ず劣等感を持つのである。
だから人間の間で俺はお前より優れているとか比べているのは全能の神から見ればおかしなものになる。人間の持っているわずかな才能で俺はお前より優秀だとかするのは滑稽だとなってしまうのである。全能の神に比べれば人間などはとるにたりない能力しかないのである。

だからむしろそうして比べてどっちが優秀だとか言うのではなく赤い色があり黄色い色があり青い色がある。それぞれに個性がありどっちが優秀だということはないのである。ただ色が違っていて個性を持っている。でも赤も黄色も青も一緒になって決して争うことはないのである。返ってさまざまな色がありその個性が調和するのはこの世界である。それは花を見ればわかる。花は青いからといって赤い花より劣っているとか赤いから優れているとか競わないからである。さまざまな個性の花の色がありただ調和しているだけなのである。

●親と子、世代間対立は人間の宿命−時代が変化するから

また人間の問題としてネズミの親がネズミなら子もネズミとはならない。どんな親に生まれるにしろ親と子の人生は別なのである。
むしろ親と全く違ったものとなることがその人なりの人生を生きたということにもなる。だからカルト宗教団体の二世というのは全くその親の言うとうりになりその団体のいいなりになり身も心も一つの色に染められて自らの人生を生きることはしないロボットになる。そうしていれば親からも褒められ親の言いなりになって親に尽くしたとして褒められることになる。

でもそこで自分の人生は失っていたのである。そもそも人間の特徴として親の言いなりになって生きることがなぜその人自身の人生を失ってしまうのか。
それは人間というのはその社会でも常に変化している。価値観でも変化している。だから私の親が酒屋の丁稚であり私を丁稚にしてしようとしたのかもしれない。それでそらソロバンを習わせたり店をしていたから配達ばかりさせられていたのである。そういう環境にしかなかったからである。

でもはなぜか親は大学に上げろといっていた。それは親自体がそうして下積みで苦労して生きてきたから大学を出せば楽できると思ったのかもしれない。ただその時大学とは言っていない。そもそも大学ということを知らなかったと思う。明治生まれでおそらく学校も出てない人だったからだと思う。ただ上の学校に行けば楽できると見ていたのである。でも父親は中学のとき死んだのである。だから私の場合全く父親とは違う人生を送ったのである。それは旅の人生でありそれは遊びといえば遊びである。

でも不思議なのは団塊の世代はみんな企業戦士とか働くことしかなかった。でも最近なぜ自由に生きるとかみんなアーティストになれとかただ働くばかりの人間がいいものとみていない。そこに大きな価値観の変化がおきたのである。ただ働き詰めの人生が良くは見なくなったのである。

もし明治生まれの父親が生きてたら決して私のように旅ばかりして遊んでいたりしたらそこで衝突が起きて悲惨なことになった。それは時代によって価値観が変わってしまうからである。そこで親と衝突するのである。だからどうしても親と子は衝突する。それが普通なのである。親の言いなりになる時全てではないにしろその人自身の人生を失ってしまう。
それは特にカルト教団の二世に起きているのである。カルト教団にとってその言いなりになる人は親孝行でもあり親にとっては一番いい子なのである。それは既にその人生が親によって決められてしまったのである。それが宗教になっているから宗教は絶対だから余計に始末悪いものとなってしまったのである。

また親子の対立は世代間の対立であれこれは時代が変わってくるから起きる。でもこの世代間の対立があって次の時代が作られるのかもしれない。今までの古い時代の価値もあるが新しいものを作るときやはり前の古い価値も継続されるとしてもまた否定されなければなれない。
そういうことは明治時代におきたのである。古い日本の伝統的価値も継続されてまた新しい価値を外国から取り入れたからである。和魂洋才というのがそうである。だから不思議に明治時代に一番漢詩が興隆したのである。それができたのは江戸時代300年の蓄積がありそれが明治になって開花したのである。
それで明治時代は偉大な時代であった時代になったのである。だからすべて古いものを否定するということではない。でもどうしても親と子が対立するというとき世代世代間の対立はあるというときそれは当然のことなのである。それが人間の宿命でもあるわけである。

人間という存在は固定しては見れない。常に変化する存在なのである。社会自体も常に古いものを尊んでも新しいものを取り入れる新陳代謝しないと停滞してしまうのである。そこで少子高齢化というのは自然の理にも反している。古い伝統的なものも継続されるべきだがまた新しいものも取り入れて社会を刷新しないと遅れてしまうのである。今日本は貧困化して何か社会全体が停滞して危機的な状態にもある。それを変えようとやはり次の世代の若い力が必要である。どうしても老人は保守的になってしまうからである。また新しいものを取り入れない。だから老人はIT社会に馴染まないのである。すると日本社会全体が世界から遅れてしまうのである。

2023年08月26日

処理水は安全なのかー 科学的公正さが追求されない (政治的経済的利権思惑が真実を歪める)


処理水は安全なのかー 科学的公正さが追求されない

(政治的経済的利権思惑が真実を歪める)


福島第一原発の処理水に関して難癖をつけているバカが多すぎるので解説します ホリエモン
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科学的公正さが追求されない

なぜ中国が日本の海産物の輸入を禁止したのか。それは放射性物質に汚染されているからという。でもこれも政治的思惑があり必ずしも科学的公正さを追求したものではない。ましてや韓国だとさらに政治的思惑があり日本を糾弾しようとする。だから科学的公正さより政治的思惑に働きそれによって左右される
つまり右と左に分かれて極端に右は安全だといい左は危険だとして追求する。その幅が大きいのである。それでさらに真実が見えなくなるのである。科学の時代になれば科学的に証明されればそれに反対することはできない。でもそこに政治的経済的な物が思惑が利権が働き科学的公正な真実は見えなくなる。

ここで穢れのことを言っているのもそうである。ケガレの思想というのは日本にあり一旦穢れたものは拒否される。それは別に科学的なものではない。いくら科学の時代でもその科学がどういうものか理解しにくい。だからそこに政治的経済的な思惑やさまざまなものの見方が生まれてくる。科学的なものだけを追求すればそれは理系なのかもしれない。一方で政治的経済的社会的思惑から見るのは文系なのであ。

何か原発事故でもコロナウイルスでもこの二つの問題が共通してあった。ウイルス学者がいてそれは極端なことを言って社会を混乱させた。一方で政治的社会的経済的からの発言があり社会を維持すること大事だということでコロナウイルスについて騒ぎすぎると言うことを学者が言っていた。ここにもやはり理系と文系の対立があるのかもしれない。

●政府でお東電でも安全神話を作りそれで信用できなくなった

もしただ科学的公正さを追求するならば問題は無い。でもそれは専門的知識がない人はなかなか判断しにくい。そしてなぜ原発に関しては政府のいうことでも東電の言うことでも信じられなくなったのかそれは科学的には正しいとしてもこれまでの政府や東電が嘘をついてきたことがあり信じられなくなったのである

権力で安全神話を強固に作りそれがあたかも完璧に安全だとして国民を騙した。そのことからして政府と東電が信用できなくなったのである。科学的公正でも信用できなくなってしまったのである。御用学者も嘘をついていたしさまざまな隠蔽もあった。
なぜそれほど隠蔽しなければならなかったのか。それは何かやましいことがあり隠すことがあり表に出さないようにしたのである。モニタリングポストでも大成建設だったかその下を下の土を削り放射線量低く見せたのでその周りを実際私が測ったら倍以上あったのである。
このようなことを政府と東電は原発に関しては常にしてきたのである。科学的に安全だというならすべての人に公開して御用学者だけではない審査させれば良かったのである
何かそうして隠蔽したりごまかすということは不都合なことを隠すということで原発に関しては信じられなくなったのでそこにこそ一番の問題があったのである。

いくら科学的に安全だと言っても処理水にしても確かに安全だとしても今までの経過があり信じられなくなったのである。そして危険でも政府と東電は無視してきたのでただ安全神話を言うだけだったのでは。ケガレの思想というけどもそもそも安全神話自体が科学的に追求されたものではなく虚構のものだったのである。本当だからこそ数値十数メートルの津波が来るという科学者集団は警告したのにそれも無視して防潮堤もも作らなかった。それは経済的思惑がありコストがかかるから作らなかったのである。

そしてただ安全安全だと安全神話の宗教のようなものになっていたのが原発だったのである。そしてこの原発というのは事故後で分かったようにその処理にしても20兆円もかかるとか信じられない国の金が使われたのである。そのためにこの金をめぐって利権化したのである。暴力団も参入して(おいしい)といっていたのはそのためである。利権とはおいしいものなのである。

●利権化した原発

だから再三私が指摘したように漁業組合があったとしてもそれが巨大な利権かしたものであり漁業者は事故の前にも特に船主は多額の保証金もらい原発御殿を建てたいたとか言われた。また大熊町長の金庫が津波に流されてその中に5億円が入っていたとかに噂にもなった。
その金の大きさが原発にはありその金に群がる人たちが存在した。天下りした官僚たちもそうだった。検事でも警察関係者でも海上自衛隊とかでも天下りしていたのである。その人たちはその金をもらっても責任も取らないし罰せられることもなかったのである

そのことはコロナウイルスでも同じだったのである。尾身会長とかは専門家として指導していたがその経営する病院はコロナウイルスで大儲けしたとされる。他でもコロナウイルスがウィルスは利権となりやはりここ原発と同じように飲食店でも旅行関係会社でも保証金がばらまかれてそれでやはり高級車を買ったとか言われる。それはこの辺と本当に同じだったので補償金の額が大きいので高級車を買った人が多かったのである。そこそこで不正に保証金をもらった人がいて裁判にもなった。
原発もその利権が莫大なものだったのでだからそれで得した人も相当にいる。もちろん被害もあったが損失もあったな例えば小高などは避難区域になり被害が大きかった。でも津波の被害に対しては原発の補償金は出ない。でも小高区に住んでいればその保証金は大きいものだったのでそれで助かったという人もいる。

変なのは今回の処理水放出にしても漁業者が騒ぐ時それは補償金をまたもらいたいためにそう言っているのかともみてしまう。危険だ危険だと言えば補償しろ補償しろとなりまた金が入ってくる。
ただその金は漁業関係者だけでありそこに住んでいる住民は関係ないのである。ただ30キロ圏外に住んでいる私の町でも一人16万もらいそれは少ないにしてもその金でもらえるからと金を貸してくれという人がいるのである。
こうして原発に関しては常に金が問題になる。その金が国家から出るから巨額なものとなっていたのである。でもそれをもらえない人は不満になる。それは国民の税金だからである。なぜあの人たちだけがあんなに金のもらえるだろうとなってしまったのである。南相馬市にしても小高はけた外れに多く鹿島区は補償が少なかった。それより相馬市とかなるとその額は余りにも少なかった。だからそこに不満が生まれたのである。

●政治とは利権であり利益の分配ー宗教団も利権団体

何か政治というのは基本的にこうして利権から成り立っている。その利権の公平な金の分配が望まれる。選挙だって結局はさまざまな利権団体が利権を得えようとして運動するわけである
それが政治なのかもしれない。宗教団体があったとしてもそれまた利権団体なのである。明治時代に廃仏毀釈が行われたのは江戸時代に寺は政府から優遇されたということで神道派はその寺に復讐したのだという。
なぜなら明治になった時天皇は復興して天皇中心の国家にもなったからである。その天皇の下に日本全国さまざまな神社ありそれが天皇と結びつくからである。

確かに寺というのは江戸時代は役所のようになっていたからである。政府の一機関のようにもなっていたのである。寺には今に置き換えると戸籍のようなものでも管理してたからである。
天皇は復興して神道派がはがこれまで不遇であったことに対して廃仏毀釈が行われた。仏像なども壊されたのである。宗教というのもこうして利権とは関係ないようで深く利権と結びついている。宗教団体が政治に関わり利権団体とかしたのはその代表は創価である。その会員の数が多いからその一大政治勢力となり利権を追求するのである。本来の宗教など何の関係もないのである。宗教を利用した利権団体なのである

それはほかのカルト宗教団体でも同じなのである。人間はそもそも金から離れてありえないように利権から離れてもありえないのである。それは外国でも宗教の争いがあるとき利権の争いもある。カトリックとプロテスタントが争い社会的にカトリックが優遇されているところで争ってもいたからである。イスラム教でも宗派がありどうしで争うそれはやはり様々な団体があって利権化してるからだともなる。

とにかくこの世の利権を得れば苦労せずとも金が入ってくる。官僚でも利権だとな公務員でもそうである私の親は公務員だったから公務員が得するということを知っているのである。
ただそれだけではないさまざまな利権がある郵貯なども利権があったし農協でもそうだし銀行も何か利権を持っている。これまではそういうところに勤めていれば田舎では安泰だったのである。ただ最近日本自体が貧困化してそうした特権階級は苦しくなりつつある。ただ政治はそうした様々な利権があり金を分配する。偏りがあると常に反対されるのである。つまり政治とは利権であり利権の奪い合いだともなる。戦国時代になればまさに土地をめぐってとか利権の争いでありそれは殺し合いになったのである

だから処理水が安全だという時科学的に本当に安全なのかもしれない。でもそうなると政府を責められないから安全でないと右寄りであれ左寄りであれそこに所属する者がいうのかもしれない。つまり学者でも科学的な公正を追求していても政治的経済的思惑でその真実を示さないのである。だから安全でないというときそれもまた政治的経済的思惑があるかもしれない。特に漁業者関係はそうであり既にそういうふうにして多額の保証金をもらっているからである。危険だという時保証金をもっともらうために言ってっているのかとかで見てしまう。
実際の漁業は零細であり補償金の額が大きいので別にだから保証金をもらえば魚など取らなくても充分に豊かに暮らしていけるのである。だから安全でないというと保証金がまたもらえるからいいとなってしまうのである。でも全国規模になれ補償金をはらうにしてもできない、福島県の漁業者にはらわれても全国となると払えないとなる。でも処理水は海は広いのだから広く流れてゆく、だから一地域の問題として処理すべきではなかったのである。

posted by 天華 at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年08月25日

竹とと白百合の庭 bamboo garden and white liliy


竹とと白百合の庭


bamboo garden  and white liliy 

HAIKU about white lily and bamboo

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HAIKU about white lily and bamboo

白百合に身を清めむや手水鉢

one white lily, clean yourself and your hands, or a water bowl

白百合を汚したくなし住まいかな

I don't want to tarnish the white lily, or the residence.

竹の庭隠者の家の涼しかな

Bamboo garden hermit's house cooler



竹林の隠士

竹林清廉士
清流白百合
正調笛音響
涼風渡安居

2023年08月24日

処理水放出は安全なのかー東京の為に犠牲になる地方 東京が災いを生むー膨大な電気を消費する東京



処理水放出は安全なのかー東京の為に犠牲になる地方

東京が災いを生むー膨大な電気を消費する東京

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●六ヶ所村は年収1300万円

あなたは年収が1300万円もらえるなら、原発の町に住みますか?
六ヶ所村の1人あたり平均所得1363万円
青森県は、「市町村民経済計算」結果を発表し、1人当たりの市町村民所得が
県内で最も高いのは、六ヶ所村で1363万円6000円だった。5年連続1位。

でも、事故が起きれば半径何十キロもの地域に影響がでるのに、原発の恩恵を受けられるのはほぼその周辺の方だけでしょ?
おかしな話だよねぇ〜。
そりゃ〜原発推進派住民を妬む気持ちがわかるよ。。

処理水というとき放射性物質が薄められて安全だという感覚になる。でもそこにまた言葉による印象操作がある。いくら処理しても本質的には放射性物質は消えないし薄めるないと言う
つまり放射性物質のやっかいなのは核のゴミのの厄介なのは簡単には消えないということである。プルトニウムなら2万年も消えないと言われそれだけ簡単に消せないのは核のごみであり放射性物質なので核の恐ろしさがある。
そして膨大な核のごみの処理するために中間貯蔵施設が各地に作られる。青森の六ヶ所村ではすでに作られてすでに処理がなされているのがなされているがそれもうまくいっていないという
だからこの核のゴミをいかに処理するかということは原発ではまた大問題なのである。そのために中間貯蔵施設とか北海道でも山口県でも上関とか辺鄙な村にその施設をつくる。そこで驚いたのは六ヶ所村だと年収が1300万にもなっている。これはすごいと思った。原発というのはこうして辺鄙な村に立てたり中間貯蔵貯蔵施設でも作る。

なぜかというとそうした村は貧乏でありどうしても金が欲しい。その金によっていろいろあっても政府の言うとうりになり受け入れるのである。それは福島原発がそうして作られたからである。双葉富岡とかは浜通りでもチベットとか言われていた。いわき市とか原町市とは人口も多いし会社もあったし働き口があった。
でも双葉とか大熊とかは離れていて大きな会社もなかった。そのために出稼ぎで生計を立てる人は多く地元で働きたいということで原発を受け入れたのである。原発を建てようとする政府はそれを狙って金をばらまいて買収するのである。

現代では政府であれ大企業であれ小さな自治体など簡単に買収できるのである。そこの住民でも自治体も金で買われてしまうのである。つまり自治体はそうした政府であれ大企業に対抗できないのである。そして六ヶ所村のように年収1300万にもなっているのでそういう村はもう村という自治体が中間処理貯蔵施設の雇われていると同じである。
そうなればもはや何も危険でも文句も言えないのであ。なぜならそうしなければ生活すらできなくなるからである。その弱みを知っているからそういう辺鄙な貧しいところに原発を建てたり中間貯蔵施設を作るのである。
実際にこの辺で最低の生活をしている人は原発裁判で勝利してその補償金が16万でも入ってくることが大きいのである。その時住んでいて死んだ人が親族であればその分も入ってくる。それを担保にして金を貸してくれと言われたからであるこうして苦しい生活をしている人はどうしても原発の安全性より金になってしまうのである。

●村の共同性は消失していた、漁業者も大工も百姓だった

もう一つは現在の村と言ってもそれは一つの共同体というものでもない。例えば百姓というとき漁業する人も百姓だったという。つまり漁業者と農民は別なものではなかったのである。でも漁業者は原発を建てるに際して特別補償金を事故前事故前ももらって原発御殿が建てられていた。それはなぜなのかというと生活が分離してきたからだと思う。村に入会権の山があり共同で利用する生活があった。
でも明治以降は山でも無数に所有権が個人に分割されてしまったのである。そのように漁業者もまたもともとは百姓だったのだが漁業専門者となってその利権を独り占めしようともしたのである。つまり自治体が一つとなって原発に反対するなどできなかった。そういう村の基盤がなくなっていたからである。
明治以降の社会はこうしてやはり一体感がなくなり専門家となりここに分断されてきた社会である。だから自治体というものすら実際はそこで自治などもなかったのである

現代社会の問題はこうして一つの共同体として機能しない。だから本来は百姓というとき農民だけのことではなかった。そこにいろいろな職業の人もいてその人たちが百姓であり村を作っていたのである。それがバラバラにされたとき漁業者は漁業者だけの利益を追求する。原発でも補償金をもらえばいいとしかなくなる。その村内での議論もないし村全体で何か働きかけるということもなくなったのである。

でも巧妙なのは原発を建てる政府でも東電でも人口が多くなればその保証する範囲も大きくなる。
だから一部の者に補償して全部にはしないのである。一番いいのは人口の少ない辺鄙な村に原発を建てまた中間貯蔵施設を作ることなのである。。でもそうした核のごみの問題でも一地域の問題としてあるのではなくもしそこに何かあれば世界にも拡散されるそして世界から批判され責められることにもなる。だから一地域で金になればいいということで受け入れることに問題があるのであるなぜならもし事故があれば世界的な問題となり中国でも韓国でも海産物を輸入しないとなったからである。

現在の問題はこうして社会自体が部分化したり専門家したり分かれて統一がとれなくなる。ところが自治体というときそれはどういうものなのか。自治体とはやはりミクロコスモスであれ自然と密接に結びついて作られている。自治体とは本当は生態系と結びついていてそれなくしては存在し得ないものである。だからこそ放射性物質で空気であれ水であれ気すら土手あれ木であれそこにその自治体を形成する基本的なものが放射性物質に汚染された時住民が進めなくなったのである。これほど深刻なことはなかった。確かに飢饉で相馬藩でも住めなくなり1/3二人口が減った
でも越中からのの移民で埋め合わせて回復したのである。。それも深刻だがそれでもそれができたのは別に土地が汚染されていなかったからである。越中などの移民で埋め合わせて回復したのである。土地がありその土地を開墾して住むことが出来たのである。それができたのは生態系に基づいた基盤があったからである。土地自体が汚染されたら回復できないからである。

●東京など大都市の影響が大きく災いが地方に及ぶ

ただ現代というのは大都会を見ればわかるわ生態系から分離して生態系とは関係なく暮らしているようにも見える。でもその水がどこから来ているのか。それで東京の水が実際は群馬県などの山のダムから来ている。一時そのダムでも放射性物質に汚染されたとして危険ともされたのである。
だからそもそも人間社会というのは生態系から離れて生活できないのである。空気でも水でも土でも汚染されたら住めなくなるのである。だからこそ原発であれその核廃棄物であれ危険なので東京であれ都会に住んでいる人はそれほど自覚しない。でも生態系から離れて人間は生きていけないので。それは都会でも同じなのである。なぜなら空気であれ水で土であれ木であれ汚染されたら食料自体が都会に入って行かない。汚染放射性物質に汚染されたら食べることもできなくなるのであるか。

ただそういったは言っても東京を見ればわかる。1000万のとか都会で夜まで煌々と明るくして電気を使っている。その電気の量は膨大なのである。
そのためにどうしても原発が必要になってくる。別にすべての科学技術が悪いというものではない。ソーラーパネルでも何か小型だと電池も必要ないから防犯用として使ったらいいものだと思った。

だから原子炉でも小型原子炉にして使えば事故があっても対して被害にならないからいいとなる。ただそれにしても東京見ればわかる膨大な電気が必要なのである。ということは東京自体が1000万もの人間が住んでいるということが問題なのでその消費する電力が膨大なものだからであるとなると大都会自体が人間社会にとって危険なものだとまでなるなる。

東京の影響はその周辺でも福島県でも大きいものだったのでそれだけの人口を抱えていれば流通もあり影響は大きい。そもそも東京が人口が増えると常磐炭田があり石炭を燃料として東京に鉄道で運んだ。それが常磐線の始まりだった。南相馬市の原町機関区やはり木材や石材や物資をを東京に送るために作られた。それだけ東京の影響は前から大きいものだったのである。

意外と東京は離れているからそんなに交流がないように見えても大正時代からでも結構交流があった。大正以後になるとさらにあった。私の母は東京に女中に出た。そこで東京の人と結婚したからである。また姉は看護婦の資格をとるために東京に出ていたのである。このように東京というのはやはり中心的役割を果たしていたからそうなっていたのである。
だから東京に出る人は戦前でも結構多かったのである。そうしてあまりにも肥大化したのは東京でありその東京がやはり災いを作り出したのである。原発はその一つでもあった。その電気を消費するような莫大だからである。

でも東京でも別に東京湾あたりに原発を作ればいいのだが危険だから離れた場所に作ったのである。東京湾だと実際は津波でも弱められるから意外と安全だったかもしれない。
でも東京には絶対に作れなかった。それは東京が日本の中心であり政治の中心でもあるから経済でもそうでありその安全を図るために離れた場所に作ったのである。そして東京都の1000万以上の大都会はその電気の消費する量は莫大なのである。そこに何か元凶があったのかもしれない。

もし電気は来ないとしたら今年のような酷暑ではもうクーラーがなかったら耐えられないとなってたからである相当に死者数も出たかもしれないからである。それだけ電気が膨大に必要なのである。そのこと自体が既に大問題なのである。つまり東京は実は災いを作り出すものとなっているのである。そんな巨大な都市があること自体が問題なのである。
つまり現代とは電気社会なのである。電気が止まってしまうと社会活動まで止まってしまうのである。

中間貯蔵施設にしてもそれは安全なものにはなっていなかった。その処理には失敗していたのである。処理水でも実際は放射性物質は消すことはできない処理したから安全だということでもなかった。何か原発に関してはごまかしがある。素人でわそれを実際に知りえないからである。だからこそ隠蔽が続けられていたのである。もし早い時期にその隠蔽されたことを暴いていれば原発事故もおこらなかったかもしれない。たとえ地震が来て津波が来ても守られたかもしれない。でも学者たちが13mの津波が来ると警告したときも全く無視ししていたのである。それは金がかかるからしたくないからそうしたのである。

そして一番力を注いだのは安全神話を作り政治であり官僚であれ検事であれ海上保安庁であれ自衛隊であれ警察関係であれそういう権力の総体で安全神話が強固に作られたのである。マスコミも莫大な宣伝費をもらっているから何も言うこともなかったのである。
それを崩したのは津波であれ地震であったのである。何か中国でも北京を守るためにダムの水は放流されたやめにほかの都市が洪水の被害にあった。それもまた原発事故と似ていた。原発は別に東京湾に作ってもいいものだったが東京わには絶対作れないのである。そこには政府の要人やら経済の中心地だから北京と同じく守らればならないとなっているからである。それでほかの都市は犠牲になっても仕方がないということになる。

何か原発でも巨大であり都市でもでも1000万以上とかなり巨大になりすぎて問題を生んでいる。それだけの人口養うということがそれ自体が問題なのでそのために莫大な電気が必要となってくる。そのためには原発も必要だとなる。だから大都市というのはとても自然と調和するものでないしそこから大破綻が産まれてくる。それで東京に大地震が来て破滅的大災害が来ると警告するか科学者がいる。それは単なる脅しではないのである。だから東京脱出を真剣に考える必要がある。危険な場所に住んであること自体リスクだった。それは津波でも証明されたからである。
東京のような人口密集地帯で地震と大災害が起きたらもう大破局となりもう救済も不可能になってしまう。唯一助かるとしたら危険な場所から脱出することだとなる。
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酷暑で疲れるー生け花の心ー若竹に白百合 (日照り、二宮尊徳堀り)


酷暑で疲れるー生け花の心ー若竹に白百合

(日照り、二宮尊徳堀り)


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若竹の伸びてひびきぬ蝉の声

若竹に白百合挿して朝清し心清らかに勤むべしかな

真直なる竹にしあれや白百合の挿して映えにき朝の清しも

朝に汲む井戸の水かも白百合の我に向かいて咲きにけるかも

日照りにも尊徳堀に勢いよく水は流れて田を潤しぬ


このこの暑さは以上である。朝の5時から7時くらいまで涼しい。後夕方が涼しい。でもそれでもちょっと動くと汗が出てぐったりと疲れる。日中は外に出歩くことは危険になる
それでも何とか竹を切ってきて白百合はそこらじゅうに咲いていたので切ってツボに刺した。生け花というと別にそれが専門家に習うことでもないな身に着くというわけでもない。
つまりもともと生け花とは野の花を手折って挿したことから始まっている。だから別に高価な花を買わなくても本来は野に咲いている花を挿して楽しむということが始まりだったからである。 野の花のことを知らないと実は生け花のこともわからないとなる。その野の花を知るためには都会では無理なのである。

田舎でないと野の花は咲いていないから野の花の心を知ることはできない。花の心を知る花を知るということはやはり常に身近に接していないとわからないのである。
竹はどこででも入っている。だから別に誰でも切ってもいいのである。今回は若竹に注目した。竹は真っ直ぐに伸びる。竹にふさわしい言葉が万葉集に出てくる真直なるである。竹が真直にに伸びてゆく。その伸び方も早い。セミの声ががその竹に盛ん響く。みるみる竹まっすぐに伸びてゆく。

ともかく朝からでも暑い。今8時頃になっているからすでに熱いのである。それで何もする気がなくぼーとしていることになる。まず今年はクーラーなしでは病気になるような暑さである。テレビで見た73歳の老人が三畳の間に寝起きしているとそれもクーラーもないのである。わずか窓を開けて風を入れてるだけでまさに灼熱地獄の中に住んでいると同じである
今年は暑い。確かに夕方と早朝は涼しい。でもちょっとでも動くと汗びっしょりとなるのではそしてぐったりとしてしまうのである。秋なのに秋はまだまだである。

日照りにもなっていて飯館村の溜池は仕上がっていたただ南相馬市辺でわまだため池とかダムが干上がるまでにはなっていないでも相当に水不足である。横手の坂を上る土樋とは樋があり鉄道の上を水が流れている。尊徳の教えで作ったとされている。尊徳神社もあるから二宮尊徳がこのうちに来て教えて教えたわけではない。教えを受けた弟子が習って作ったのである。でもなぜこの辺で二宮尊徳のことが賞賛されているのか。それはやはり何かそれだけのものがあったということである

この堀の水はカラカミ堤の方から流れてくる。ぱそこは大きな包だからなかなか干上がることはないだろう。それにしても新潟県あたりでは干ばつになって米も取れないとテレビで放送していた。新潟県の暑さも異常である。ともかくこの暑さには参った。動くと汗びっしょりとなって疲れる。膝と足を悪くしたのもまずかった。それで自由に動けなくなったから余計に疲れたのである。

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2023年08月22日

処理水が安全なのか信用できない (これまでも政府は嘘つき安全神話作って来たから)


処理水が安全なのか信用できない

(これまでも政府は嘘つき安全神話作って来たから)

処理水問題でなぜ安全だから海に流しても汚染は微量であり影響はないとしている。それを国際機関が認めた。お墨付きを与えた。でもそれが本当に信用できるかどうかはまたわからない。そしてトリチウムでも流してそれがどういう風な影響をするのか実際のところは不明である。

放射能放射性物質の問題の難しさはそれが目に見えないものであり匂いも色もない。それでそれはどのように影響しているしてくるのかも具体的に見えないのである。何かそのためにすぐに死ぬわけではないからである。
ただ内部被曝したとき放射線が長い間十年後細胞で放射線を発し続けたらそれがガンにもなるという。でも十年先となるとそもそもガスになったとしても果たしてそれが放射線被ばくの影響なのかどうかもよく分からなくなる。
だから放射線被害というのは隠蔽されやすいのである。そのために人がすぐに死んだり何か症状はすぐに出たりしないからである。だからそもそも原発というのはこうして隠蔽されやすいものだったのである。だからこそ安全神話が権力によって作られてきたのである。

それは放射線というのはどういうものかわからないし余計にそれで隠蔽されやすいものになったいたのである。
だから御用学者でも使い説明すれば誰もそれに反対もできないということもあった。この隠蔽というものが大きな問題だったのでそれは常に加治将一氏が指摘していることである。

例えばモニタリングポストをいたるところに設置したのその放射線量は少なくなっていた。なぜならその下の土を掘って少なくしたからである。私はその周りを測ってみたら倍の放射線量があった。そのことを飯館村の人も指摘した。0.7マイクロシーベルトでモニタリングポストに出ていてもその周りはその倍以上あったのである。別に科学に疎くてもそれはただ放射線量を測る機械でそれが出てくるのだから確かなのである。それを担ったのは大成建設とかでもあった。政府からの指示で大成建設をそうしたのかもしれない。大成建設自体が自らの判断でするとも思えないからだ。

このように科学的に正確なことでも歪められ。それは政府の指示で行われているのでありだからこそ大成建設でもその指示に従うほかないとなっていたのかもしれない。このように政府というのも必ずしも信頼できるものでもないのであ政府自体が何か重要なことを隠蔽しているのである。隠蔽する力がまた政府にはあるということである。だから科学的なことでもそれが正確に示されるわけでもない。そこに政府の権力の指示があり判断があり科学的のなものも歪められる。
特に原発とかは放射性物質とかはその汚染とかは分かりにくいから余計に隠蔽されるのにはいいものだったのである。その隠蔽されることから原発事故にもなったのである。

だから政府の言ってることは信用できなくなっているのである。政府にとってはどうしても放射線の被害を少なく見積もる。なぜならもし高いとしてもそれを世界に向けて発表すれば汚染水を流せなくなる。特に中国が批判しているしすでに日本の海産物の輸入を止めているからである。
ただこれも中国が日本に対して政治的圧力をかけて必ずしも科学的なものを正確に判断している訳でもないらしい。そもそも誰が正確にそれを判断して決められるのか?国際原子力機関(IAEA)の国際機関でもそれも政治的場であり必ずしも中立的な科学的科学による判断ともならないのである。

ともかく人間個人でもそうだが一旦信用を失うとそのそれを回復させることは困難になる。一回でも嘘をつくとまた嘘ついているなと見てしまう。そういうことが原発にはありすぎたのである。それは放射性物質の汚染とかが分かりにくいからである。その被害でも明確に示されないからである。だからこそごまかしやすいのである。モニタリングポストの放射線量倍以上にあるのに減らしたということはそのことそのそのこと自体が不正でありもんモラル的問題があった。それは科学以前の問題だったのである。
でも放射線量というのはこの辺で経験しているわ0.5マイクロシーベルトからその倍以上になると何か大きなものと感じていたのである。だからこそそこに住んでいる人にとっては放射性汚染というときその数字からしか判断しようがないからこだわることにもなる。その放射線量は計測器で計れた。だから化学に疎くてもその数字を見れば一目瞭然だったともなる。だからこそその数字をごまかしたのである。

だから今回のを処理水の放出にしてもごまかして海に流しているのかもしれない。処理水にしたのだから安全だということは言う。でもそれを信用できるのかとなるとこれまでの経過を見ると政府自体がモニタリングポストでもごまかして放射線量が高くても下の土を掘って低くしていたのである。
だからまた今回も信じられなくなるのである。原発事故はこうしてさまざまな隠蔽がありでもその隠蔽いんぺいされてもわかりにくいものだから効果的だったのである。だからこそ安全神話が作りやすかったのである。この世の中科学技術の世界になってもすべてが科学技術中心に動くわけではない。そこには政治的作用があり科学とは関係ないものとして働く。それが人間の社会だということである。そのために今回の処理水の海に放出する事に対してもどうしても今までの経過を見ると信じられないとなるのである。

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外は危険熱中症になる―街中を流れる川 (涼しい。ひぐらし。夏の雲)


外は危険熱中症になる―街中を流れる川

(涼しい。ひぐらし。夏の雲)


若竹の健やかに伸び風涼し

ひぐらしやここに五年や牛越城

新田川川の音ひびき夕涼み

夏の雲海山遠くに湧き上がる

何か熱中症になった。ただ夕方になると涼しいと思って自転車で海の方へ行った。そのときは曇って陽射しが遮られていた。でもその後晴れて陽射しを受けてそれが良くなかった。陽射しが強い強いのでそれが熱中症にもなる。だから今外を歩いたり自転車とかでは陽射しを受けるので危険なのである。
とにかく異常な暑さである。私の場合膝を悪くしたのはまずかった。それで自転車に乗って2回くらい自転車が倒れてしまった。原因はバッテリーが切れたことで坂を登れず止まったら倒れた。もう一つは膝が悪いので自転車が大きいので乗りにくくなった
でも倒れてしまったら車で止まっていた人が女の人が3人わたしのところに来て心配して自転車を持ってくれて立たせてもくれた。何かそれは珍しいものとも見えたものとも思った。ただ最近カメラを忘れたときもわざわざ車で追いかけて持ってきてくれた人がいた。その人も女の人だった。こういうことは日頃の行いが関係しているかもしれない。

なぜなら私は駅とかでボランティアしたり人を助けたりしたからである。つまり何か人間の関係というのは回り回ってくる。助けた相手が何もしてくれなくてもほかの人は助けた助けてくれたりする。だからたとえ助けた人が何もしてくれなくてもほかの人がまた助けてくれるということがある。だから人を助けたりすることは必ずその報いがある。ただそういうちょっとしたことで助ける親切にすることは別にそれで何か報酬を求めるわけでもないしその人はここに住んでるわけでもない
その人はこの土地のものではなかった。だから助けるというとき必ずしも土地の人が助けるという訳ではないのであるある。土地の人は返って冷たいということもある。
原町の牛越城は五年しか存在しなかった。でも一応そこに相馬氏の城があったとなる。新井田川の特徴は流れが浅いので瀬音は響くのである。川にもそれぞれ特徴がある。

仙台市の広瀬川は青葉上恋歌で有名なように瀬音ゆかしきとあれやはり瀬音がすると川である。大きな街中に川が流れていることでそこに潤いを与えるそれは盛岡でも同じである。真野川は意外と長い川であり深くもあり瀬音がひびかないともなる。。だから川にもそれぞれ特徴がある盛岡だったら北上川と中津川がありその川は違ったものになる。中津川はやはり浅瀬の川であり瀬音がするということがある。この街中にこうして二つも川が流れているということで盛岡市は魅力がある。

中津川や
月に河鹿の啼く夜なり
涼風追ひぬ夢見る人と

河鹿とか鳴いていたのか、明治時代の今の川違っている。今年も真野川で鮎が見かけない。鮎が跳ねるの見かけないからだ。ただこれは放射性物質に汚染されてその影響がまだあるからかもしれない。ただカジカというのは子供の時捕まえて遊んでいたそれとは違う。河鹿鳴くとは蛙のことだった。
何かこれだけ暑いと涼しさを求める。津波で松原が流されたのでそこに休めないのが痛かった。
これだけ暑いということは地震と関係しているかもしれない。というのはこの辺で起きた地震と津波は津波の前の年の夏も非常に暑かったのである。だから夏の雲が盛んに湧いていたのである。だから海水でも温められそこで地下に影響して地震が起きるということがあるかもしれない。とにかくこの暑さは異常である。ただ晩方になると雲が出て陽射しを遮ると意外と涼しい風が吹いてくるそれは秋めいたと感じるのである。そして朝の一時とその晩方が涼しい。でも8時頃になるとすでに熱くなっているのである

2023年08月20日

放射性物質を海に流す問題 (漁業者は多額の補償金を事故前にもらったことで責任が問われた)


放射性物質を海に流す問題

(漁業者は多額の補償金を事故前にもらったことで責任が問われた)

石巻市寄磯浜では、原発事故後に多くの漁師が海を去りました。当時も補償はあったものの、出荷できない時期が続いて販路を失い漁業への意欲を無くした漁師もいました。
 遠藤さんは、補償があっても風評被害が続けば漁業は衰退するとして、国には消費者が安心して水産物を食べられる体制をつくってほしいと訴えます。

処理水放出迫る 「補償が出ても…漁師の思い」

これは石巻こうのことである。原発事故の汚染は福島県だけではない韓国とか中国まで日本の原発事故で汚染水を流すなど批判されている。だから原発というのを一地域の問題として処理してきたのは間違っていたのである。環境問題は国地球全体に関係しているから世界の問題となったのである。世界に対して責任があるということである。現在は何でもグローバル化しているから一国だけが勝手な事など出来ないのである。

だから日本全体の漁業者の全漁連を相手にして東電がその許可を得ようとしているのである。それは一地域の問題として処理できないものだったのである。でも補償金となると事故前もこの辺の漁業者は舟主は特別補償金が多くて貰って原発御殿が建ったとたとか言われたのである。今その責任が問われているのである。
なぜなら福島県だけが補償金をもらってほかの人たちはもらっていないと思うからである。多少は貰ったかもしれないなそれも少ないだろう。
だからもともと原発というのは汚染は広範囲にであり事故を起こし汚染したら影響する。ということは福島県の地域だけで許可できるものでもなかった。それが今現実化しているのである。何かこの辺で起きたことは金というのはただもらえばいいとしか考えなかったがそれが意外と怖いことでもあった。
現在では何が責任かというともう特別な地位にある人だけでなく金をもえあえばそれが責任となる。なんでもいいから金になればいい金をもらえばいいそれが実際は金が責任となっていたのである。

なぜ漁業者が今になって責められるのかのそれは金をもらったからである。それは事故前からも多額の金をもらっている。それであなたたちは許可したのだから何があっても文句は言えない。
だから原発を作るときそれは世界の問題のであり環境に影響するのだから原発自体を一国とか一地域とかで処理するものではなかった。ただ事故後にその金の責任を自覚されさせられたのである。
原発を建てるに対して大きま範囲で検討する必要があった。現実に石巻まで影響したのだから福島県の浜通りだけではない宮城県の漁業者もその是非を問うべきだったのである。
そして福島県の浜通りの漁獲高などは宮城県に比べると1/10ぐらいだったのである。だから零細業者であるそんなに収入はなかったのでだからこそ東電が出す補償金が魅力となったのである。
そして風評被害は続く、安全だと言っても本当なのかとなる。放射線の問題は目にも見えないからわかりぬくいのである。
近くの井戸の水は調べてもらったから安全だというから飲んでいる。それでも不安になるからである。

確かなことはもし事故前に補償金をもらっていなければ問題なかったかもしれない。事故後にもらっても批判することはない。事故後だとみんなもらっているからである。ただ問題は事故前に多額の補償金をもらってたということだったのである。
それだけもらっていたのは福島県の漁業者だけだったろう。だから汚染水を流すなという時あなたたちは既に事故前も金を貰っているのだからそれが言えるのかとなる。
つまり現在は金が責任になるのである。ドラマでは金をもらったからと殺人までした人はいる。その金をもらったことで人を殺すことになった。別に殺さなくてもよかったのだがやはり金をもらったことで責任となっているからそうしたのである。


とにかく何であれ金を巡って人間は争いがありそれだけ金が物言う社会だからである。でも金に関してはなんでもいいから金をもらえばいいとなっている。お金がくれるからそれを断る人は居ない。それがどんな金であれもらえばいいとなる。。それがたとえ盗んだ金でもそうである。もしかしたらその時誰かを殺しているかもしれない。そうしていた金をももらう時怖いことになる。その金は呪われた金でありそれをもらったとしてもやはり呪われるかもしれない。
だから金と言うのは何でももらえばいいとはならないのである。この世の問題は金を巡って争いがありでも金というのは責任が伴っていて怖いものなのである
でも常に不正があり金を得ることが優先される。それは銀行でもそうだし自動車は会社でも修理会社でも不正して保険金をだまし取っていた。つまり何でも金になればいいということがそういう問題を引き起こすのである。それはあまりにも金の魅力が大きすぎるのであ。例えばあなたに百万でもやれくれると言ったらもらっても構わないとなる。その金の出所が何であれもらうことになるのであるそこに危険がある。

ただ正直あまりにも金の力が強くなりすぎたのであ。この辺では最底辺の暮らしをしている人が常に金に困っている人が補償金は一応16万もらいる。その日暮らしをしている人にとってはそのお金は大きなものなのである。また原発事故があってから親でも死んだ場合その補償金ももらえるのである。となると32万円ももらえるから結構大きなものとなる。
だからその金はもらえるからと金を貸してくれとなったのである。こうして人間を金を巡って日々生活している。でも金には責任がつきまとっていたのである。
現在は平等社会であり必ずしも昔の侍のように責任を負うということはない何が責任かとなったとしたら金なのである
だから今回も漁業者が事故に金をもらったということで非難されることになったのである。別に事故後にもらっていたらそれは高くなっても文句を言う人はそんなにいないだろうそれだけの被害があったのだから当然だとなる。それを事故前に手付金として多額の補償金を貰ったことが問題なのである
そのことは事故があっても何も言わないでくださいということでで金が支払われたのである

だからその金が問題になったのであだから金がもらえるからといって何でもしていいのかとなるとならない。その金についての責任が問われるのである。おそらく自分自身もそうだった。遺産が入ったとしてもそれは自分だけの金ではなかった。親は公務員であれ特別恵まれて入ってきた金なのである。そのために大金を盗まれたとか金を巡って金を得たいために介護に苦しんでいる時そんな人しか来なかった。それもやはり何か親のカルマであり因果であるただ金はもらえたのだからいいと思っていたがその代償もあったのである。独り占めするなということがあった。

どうしてその金が得られたのかそれが問題になる。金は何か具体的で分かりやすいのである。だから何か事件があればかねの流れを見るとわかりやすくなるのである。だから金は責任なのである。とにかく不正で儲けてもそれで栄えるということはあり得ないと思う。原発事故はそうした不正とかは関係ないように見えていた。でも隠蔽するとかいろいろ技術的な問題だけでなくモラル的問題もあったのである。それは巨大な国家的権力を持っていたからできたのである。権力を持つということは責任を持つということになる。その責任の自覚が無くただ金をもらえればいいとしかなくなっている。

でも東電に天下りした検事とか警察関係とか海上自衛隊とかその人たちの責任は問われていないのである。でもその人たちは金だけはもらっているのである。また東電でも幹部なども責任は問われないのである楽それはなぜなのだろうかとなる。権力を持っているから責任をとわせないようにしているのかとなる。
そこには検事とかとかか警察とか自衛隊が関わっていればそんな権力に立ち向かうことができる人はいない。だからこそ津波がその悪を暴いたのである。中国にも易姓革命がありそうして大きなな災害が起きる時政府の責任が問われるからである。中国の大洪水でもそれが起きたのである。習近平体制がその責任が問われているからである
posted by 天華 at 18:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年08月19日

日大大麻問題「検事上りの日大副学長と警視庁の太いパイプ」 「既得権バームクーヘンの隠蔽体質」-原発事故と似ていたー加治将一氏の説明がわかりやすい


日大大麻問題「検事上りの日大副学長と警視庁の太いパイプ」
「既得権バームクーヘンの隠蔽体質」-原発事故と似ていたー加治将一氏の説明がわかりやすい

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●東電も権力で危険を隠蔽して無視した

この説明はわかりやすかった。常に加治氏が指摘しているのは隠蔽体質である。だからこの事件も表沙汰にしないように日大でも隠していた。隠すことができたのは日大の副学長が検事上がりの人だったからである。つまり検事だから警察庁と通じあっていたのである。これは大問題である。
日大の検事が日大の役員として迎えることは何かあったときそれを表沙汰にしない隠すことができる。そのために検事を役員にしておく。それから学長にしたのは林真理子でありその人はどうでもいいのである。飾りとしてあるだけであり今回の事件でも蚊帳の外に置かれ何も知らなかったという。

この隠蔽体質というのは東電にもあった。東電は危険なことを表沙汰にしない隠すことができていたのである。なぜなら検事でも自衛隊でも警察庁でも天下りしていたからである。だから日大などよりもう鉄壁の守りでありそれを暴くことはできないものとなっていた。
だからこそ実際は安全でないものであっても安全神話を作られていたのである。そこには御用学者も一一役買った。マスコミもそうである。莫大な金が800億円という金が電事連とかから流れていた。一応共産党でも危険を指摘していた。でも電事連といえばやはり共産党系の人たちもいるのだから原発廃止ということにはならなかった。東電とは信じられないほどの強力な大企業であり国家と同じだったのである。そんなものに反対することは不可能になっていたのである。

内部で働いている人は配管などが老朽化していたとか危険を指摘していた。また13mの津波が来ると科学者集団は指摘していたのである。でもそれも無視された。
ともかく危険があったとしても無視されてきたのであそれができたのは強大な権力が国家でも東電と一体化したからである。
だから内部でもそこで働いていた電気関係者の人も配管など何か危険を感じていた。でもそんなこと上の人に何にも言えなかったのであるというのはそういうことを上の人に言うと仕事をもらえなくなるからである。常にそうして権力を持っているから東電には何も言えない。そのために東電は安全神話を作り実際は危険に備える安全対策もしていなかったのである。それができたのはこうして巨大な国家と一体となった権力を持っていたからである。だからそれを暴いたのは津波だったとなる。そんな巨大な権力に対抗することはできなかったからである。

ただそういう隠蔽体質をが危険なのは原発事故で証明されたように事故になったとき住民はもう故郷に住めめなくなった。住民も安全神話を信じており補償金ももらえるとか金が優先になっていたとも言える。
その後の保証金でも何兆円とかなっていることで驚いたので国が関与するとなるとそうして庶民などは考える金とはまるで違ったものとなる。この辺であまり東電を批判しないのはやはり補償金でも貰えたからである。

●原発事故の原因も隠蔽体質から起きたこと

原発事故の原因はいろいろあるにしてもやはり権力による隠蔽体質があった。それは日大の大麻事件でも同じであった。隠蔽する権力でも持っていたとなる。その象徴が検事だった人は役員になっていたことである。その検事が警視庁と繋がり隠蔽するということが出来たのである。
東電になるとそれは国家並みの権力でありあらゆる権力の中枢にある人が海上自衛隊とかでも警察関係者でも天下りしていたのである。そんな巨大な権力に対抗することは不可能だった。マスコミもただ東電から広告費として巨額のお金をもらっていた。だから事故が起きたとき朝日新聞社でも中国に東電から招待されていて飲み食いしていたのである。
だからマスコミも関わり安全神話は鉄壁なものとして作られていた。でもそのことが大事故に繋がっていたのである。爆発が起きてもそもそも安全神話があるのだから避難訓練などしていない。それで一番危険な一番放射性物質が多い場所に町長は何も知らされていないので避難したのである。

東電の人が放射性物質がどういう風に流れるか知らなかったかというと知っていたのである。それで東電の人が山の方より海の方に避難した方がいいとしてそれに従った人たちがいたのである。なぜなら海の方は0.5とかマイクロシーベルトか本当に低かったので山の方の津島になると20から30マイクロシーベルト言う恐ろしいものとなっていたのである。
そういうことになったのはそもそもは安全神話を作り事故は絶対に起きないと言うことを前提にして原発を作ったからである。だから危険があっても隠蔽できたのであそれが後々の大事故にもつながっていたのである。だから権力を持つということは怖いことなのである。そしてなぜ権力は腐敗する絶対的に腐敗する。そう言われるのは権力によってそこに危険があってもまずいことがあっても隠蔽できるということにはそのことから真実が見えなくなる
だから日大の大麻事件でも内部からも告発がありいろいろ指摘があっても隠蔽していたのである。そこには検事上がりの役員が関わっていたのではそもそもなぜ東電がこれだけの大事故を起こしたのに役員でも罰せられないそれはやはり検事でも天下りしていて身内はバームクーヘンは既得権者はお互いに守ろうとするから罰せられないと見た。

●システムを変えても人間社会は根本的に変わらない

いずれにしろ日本には民主主義は根付いていない。民主主義とは選挙の選挙をするというだけではない。様々なシステムは透明化して民主化することである。それが日本では出来ていない。報道の自由もない。今まではマスコミが報道を握り第3の権力になっていた。マスコミが真実を追求しない。やはり隠蔽に協力するものだったのである。た
だだ既得権のバームクーヘンの中にはいっていれば甘い汁を吸いるということになっていた。その報道でもテレビだと莫大な金がかかる新聞でもかかる。そのためにどうしても広告費をもらえないと成り立たないのである。それで聖教新聞すら第1の仕事はこの広告をとることだと言っていたからである。そして何か創価でも環境に良いとか原発の宣伝をしていたのはマスコミの中で二番目に大きかったのでなぜそうなるのかというと金のためいみそうしてるだけである。本当は宗教団体なのだから真実を追究するということが第一にあるべきなのである。

そもそも創価などは権力を得たいというだけである。権力を取るなら手段を選ばない。あらゆることにそのために権力を得るために工作しているのである。新聞社にも聖教新聞を刷らせて反対させないように批判させないようにさせる。福島民報も聖教新聞を刷っているからである。
だから原発のことなど危険危険を知らせないし何も言わないともなる。つまり広告費をもらうことで批判は抑えられるのである。だから大きな権力にはマスコミも逆らうことはできないのである。ただインターネットだと金ががかからないから一個人でもこうして気軽にかけるのである。ただ影響力は少ない。

ともかく加治将一氏がマスコミでも取り上げ無いのは日本のタブーに触れているからである。日本では天皇を批判できないからである。天皇は偽者だという時妄想であるもそうである。またさまざまな多分がありタブーがありそれに触れているからマスコミには出ていないのである。でも何か時事問題とかで話すとき急所を付いていてわかりやすいのである。だから新しいメディアができてそういう人も生まれたとなる。何かインターネットというのは一個人でも新聞社でもテレビ局でも出版社にもなれているので

ただ何であれ発言すれば批判はある。加治将一氏は何かアメリカに対してはあまり批判しないようである。アメリカにもいろいろ問題があるいくら民主主義があるとしてもそれも必ずしも実行されていない。アメリカの一番の問題は超格差社会であるということである。数パーセントの人がアメリカの富の半分を持っているということはもう民主主義も何もない異常なことである

そんな国がもう維持できるのかとなる。システムを変えることが大事だというはそもそもシステムを変えたところで人間が変わるものだろうか。それは社会主義システムに書いてもやはりそこで悪魔必ず生まれているのである。
だから人間というのはシステムを変えてもその中にいるそのシステムを動かす人間を変えない限り社会は変えられない。だから民主主義システムでも共産主義システムでも資本主義システムでもそこに悪が不公平が生まれ格差が生まれ公平にはならないのである。

でもその中で良心がある人はやはりこれはおかしいと思うのである。そもそもシステムを変えれば社会が改善されるということで共産主義でも生まれた。結果として粛清されて何千万人も殺されたという最悪の結果にもなったのである。だから本質的には人間社会というのはシステムを変えても変わらないように見える。人間の個々人が変えない限り変わらないと思う。つまり社会の中で詰めに不正がありそれを指摘して変えようとしない限りいくらシステムを変えても変わらないと思う

●人間の欲は消えないから悪も消えない

ともかく加治将一氏がこうして明確に悪を指摘できるのは作家というだけではない。アメリカに15年とか不動産関係で仕事していたとかその経験が大きいのである。だから常にアメリカと日本を対象的にに見て指摘できるのである。
日本だけに住んでいては日本のこともわからないのである。それは別に日常生活してれば些細な事でも日本との相違がわかる。外国では釣銭を明確に計算して出せないという。日本ではそういうことがない。そのためにかえって遅れた国ではit化して釣銭を数えないようにしたということもわかる。
また固定電話でもスマホになったということも携帯電話からスマホになったということもわかる。つまり遅れていることがかえってよく作用したのである。それは自分自身がそうだった。悪筆をなんとかしようとしてワープロを始めてた。そのワープロに通信機能が付いていたので早い時期から通信での対話などしていたのである。だから遅れてるということは返ってよく作用するということもあ
ただ問題は彼はあまりアメリカのことは批判していない。そこに多少の疑問がある。ただその批判する視点が既得権者のバームクーヘンであるということには賛同するのである。問題はその既得権者にありその人たちをどうして監視して権力を抑制しして操作するようにさせる。

つまり権力というのはそれだけ危険なものを持っているからである。そのためにさまざまな危険がありナチスのように何千万人もう死んだりとか日本の戦争でもやはりそういうことはあった。宗教というのもまた権力と一体化すると非常に危険なのである。
宗教と言うと何か平和のものと感じているが実際は宗教でも常に暴力となり平気で殺すことも是認されるのである。だから宗教対立でも常にあり戦争になっているのでそれは宗教の対立というより権力の対立なんだと思う。なぜなら人は権力を得ることを具体的に得だと思ってしているからである。だからカルト教団もここの内面の心などは全く問題にしていない。
社会で勢力を持ち権力を得ることを目的にしているのである。そして社会というのは人びとは権力に従うのである。
その権力にもいろいろあるが軍事力があり金があり今では民主主義となると数を集めることなのである。カルト教団でも何百万人もいるとなると恐れることになる数で威圧するのであるその中身は何でもいい。正義も何もない唯一がすべてであり数は力であり数を集めて社会を支配するのである。現在で力を持っているのは大衆だからそうなるのは当然である。

●権力を望まない欲のない人が治めるべき

だから理想は権力を持たない人が欲を持たない人は一番上に立ち収めることである。それで聖書では緑子に収めさせようとか老子になると治めずして治まるとかの結論になる。権力を持てばもともと欲があるのだからその欲がむき出しになって権力を利用する。それがあからさまに行われたのは中国である。皇帝がどれだけの権力を持ちその権力を利用してその欲を叶える
それが異常なほどの残虐な行為伴っているのである。
から元々宗教とは欲を抑えるかことから始まった。でもカルト宗教団体になるとどうしたら権力を得て自分の欲を達成することまでだったしかなくなった。だからこそあれだけの人間を集めることができる。ただ一票になればいいだけであり頭数を集めるだけであり後のことは何も関係ないからである。

そしてナチスのようになるのである。だから民主主義というのも今や人々はそのシステム自体を問題視している。それはほかの資本主義でも社会共産主義でも同じであシステムを変えたからと言って社会は変わらないのであそもそも人間の欲は消えないし変わらないから社会も変わらないので社会のシステムを変えても社会は変わらない。そもそも人間が変わらないのだから変わりようがないのであるシステムを動かすのは人間だからである。
資本主義がウエバーのキリスト教修道院内で始まり人々に奉仕するものとして労働がありそこから資本主義が始まったというときまさにそうである。それも全く変質してただの強欲資本主義になってしまったのである。人を助けるということなどは全くないただ自分はもうければいいというだけである。だからこのようにシステムというのは必ず人間の欲によって変質してしまうのである。

だからもともと仏教の出世ということはこの世から離脱することであったが逆にこの世で出世して欲を達成することが目的となったのである。カルト教団でわあらゆる欲は是認されるしもっと欲を持てそれがエネルギーがあることだと言って奨励されているから異常になっているのである。
そこでバチ当たるとか地獄に落ちるとか言っているけどそんなこと言える人間なのかただ自分の欲をを達成するだけを目的にしているのそいうこと自体が異常なのである。でも現代社会では異常でもでも多数になれば正常になるのであるそれがナチスだったわけである。ナチス政権も選挙で選ばれたからである。

日本は民主主義の三権分立があっても機能していない。それは確かである。だからこそバームクーヘンの既得権者は構成されてそれが原発事故であれ日大の大麻事件であれ問題が起きてくるのである。システムを変えることは必要である。でもそれが根本的な解決になるのかは疑問である。結局システムでも人間が動かすものでありそこでまた必ず問題が起きるのである。だから権力を監視するというかそういう機能は必要なことは確かである。
でもマスコミも権力に癒着して既得権」バームクーヘンになっていたのでそれはなぜかとなれば得するからそうなったのである。だから根本的に人間社会を変えるということは難しいとなるのである。聖書でも欲で滅びるというとき人間の最終的な結論はそうなってしまうのである。欲はどんなことしても消せないからである。それに対処方法は無いのでそこに人間社会の限界がある
この世の悪との戦いに終わりがないことなのである。





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2023年08月17日

井戸の話の続き―春雨庵のこと(百合の花、暑し、涼し)


井戸の話の続き―春雨庵のこと(百合の花、暑し、涼し)


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ここには家があったがなくなり空地になり百合の花が咲いている。この百合の花は咲いているのが多い
種が飛んでどこにでも咲いている。


井戸の水日陰に汲みて白百合のここに咲くかな暑き日続く

馬酔木(あしび)なす、栄えし君が、掘りし井(ゐ)の、石井(いしゐ)の水は、飲めど飽かぬかも

地下水の水を飲むことは水道の水とかペットボトルの水を飲むのとは違う
大地と地下と繋がり何か原始的なものにもなる。それは直接大地とつながり水をくむからだとなる。

沢庵和尚はここに上山に流罪になり春雨庵に三年住んだ。その詳細はわからないが井戸に注目した。昔は水はもらうことが多かったのだ。これは前にも書いた。町では「水をください」ともらう人が多かった。また水は場所によっていい水と悪い水がありいい水の出るところにもらいに行った。今でもいい清水が出るところには車で水を運んでくるのと同じである。水は生活の基本でありかかせないから井戸は生活の中心としてあった。だから井戸をめぐる話は無数にある
海に近い五島町一帯などは 塩水で特に水質が悪く、山手の井戸からもらい水をしていたので「五島町の水乞食」とまで いわれた。

三年を過ごしてここに井戸の水もらいし娘心に残りぬ

井戸の話(沢庵和尚の春雨庵から・・・)

埼 玉縣入聞郡堀兼村堀兼 に残 つてお り,そ れに関 して千載和歌集 に,``

武 藏野 の堀 かね の井 のあるものを うれ し くも水の近ず きにけ り

と い う歌が あつて,水 のえに くい ところで えた水 を恋い慕 う様子が 示 され
てい る

日 本 の 井 戸 と そ の 歴 史  藏 田 延 男

隣の井戸から水を汲む。 5時ごろになり日陰になっているから涼しい。井戸は戦前までもまた戦後の焼け野原になった十年間くらいは井戸水を使っていた水道はなかった。
だから何かその子供の時を思い出すと不思議になる。それは何か原始的な生活でありそういう生活は奈良時代からも続いていた。
人間は水なしでは生活できない。飲み水にも水が必要であり井戸があった。ただその井戸でも地下にありそれを汲みだすことは容易ではなかった。だからこそ堀兼という地名が生まれた。
地下水を掘り出して組み上げることが容易でないからそういう地名が生まれた。要するに地名はそれだけ生活と密着して生まれてきたのである。

ともかく今でも水は貴重である。ただその水の貴重さが自覚されない時代になった。水道の蛇口をひねればいくらでも水は出てくるとなるからだ。
でもこの辺では原発事故で放射性物質に汚染されて井戸の水とか飲めなくなった。でも隣の井戸水は検査して飲めると言われて利用させてもらった。ただ地下水から汲みだすために機械を使っている。地下水を汲みだすために釣瓶を落として汲んだりポンプでくみ出すのは苦労だった。
井戸にまつわる話は相当にある。春雨庵とは沢庵和尚が住んだところである。それは山形県にある。その近くの宿に泊まった。それは今振り返ると価値あることだった。つまりその宿が価値あるものになるのは何かそうした故事がありその近くに宿があれば価値が生まれる。そこで泊まれば自ずとそうした物語を具体的にイメジするようなるからえある。
ただ現代ではホテルでもビルが多く何か本当にビジネスホテルであり風流を感じるホテルは稀になった。
ただ泊まるというだけで何かそこに春雨庵の近くで感じた旅館とは違うのである。何かホテルになると大きくて風流あまり感じないのである。

くたびれて宿かる頃や藤の花 芭蕉

そういう感覚は現代の旅にはもうない。極端になるとホテルは巨大なレジャーランドのようになりそこはとても旅の宿というようなものではない。第一今は旅する人はいないのである。
ホテルでうまいものを食べて休養するというだけである。それが高度成長時代の会社ぐるみの慰安旅行になったときはそれで繁盛したのである。でも今になるとそういう温泉街は廃墟化してしまったのである。それは一時の夢の跡ともなった。

宿とはやどるから来ており一時的にその場に宿る。そしてその場に一時的にでも一体化するのである。でもビルになるとそういう感覚が持てない。やはり旅館のようなものが良いとなる。でも旅館になると高くなる。
それでも白河街道の福良の民宿の蔵の宿は昔を感じられて記憶するのものとなたった。ホテルとかなると記憶されにくいし風流はなくなる。それは風景と一体化しないからかもしれない。
いずれにしろ現代から旅は消失した、ということは旅の宿も消失したとなるのである。それでふりかえると記憶に残る旅にならない。ただ移動するだけの旅だとなってしまう。人間はいろいろ体験する。その体験したことがその人の人生になる。旅も体験でありそれが旅のタビトモならなかった時何か価値あるものとして記憶されないからただ時間を無駄に費やしたとまでなる。

今日も暑かった。高校野球を野球を見ていたが高校野球のいい点は一回勝負でありその一回に全エルギーを費やす次がないのである。相手に一回で勝たない限りそれで終わりになる。
だからこそ全力で力を出すのである。それがプロのように半年も試合を続けることは一回くらい力を抜いてもどうどういうこともない。次がまたあるしその一回ですべてが終わるわけでないからである。でも高校野球の場合は一回しかチャンスがないのである。だからこそそこに魅力が生まれている。

人生でもいくらでも先があり時間があると考えているが青春時代などあっという間に終わる。そして人生すら老人になってみればこんなに短いのかと驚くのでは人間が勝負するのは実際は一回くらいかもしれない。そんなに何度も何度も試合などないのであるそして高校野球となるとそうした大舞台で試合できることはその一時期を除いてあとはないのである。だからその体験は最高に貴重なものとなっているのである。

旅をするにしてもそうである。やはり旅もそんなにできるものではない。これだけ旅をした自分が言っているのだから間違いない。介護になってからすでに15年も旅していないからである。旅する時間すら実際は短いのである。旅だけではない何でも体験する時間というのは短いのである。そして今やただ旅したことを回想しているのが自分なのである。

2023年08月16日

老人は記憶に生きる―ドイツの骨董店の対になった古い椅子(詩) (人間は忘れやすいので写真でもこれ文章でも記録することが大事)


老人は記憶に生きる―ドイツの骨董店の対になった古い椅子(詩)


(人間は忘れやすいので写真でもこれ文章でも記録することが大事)


●電車や車の旅は記憶に残りにくい


そもそも情報とは何か情報は無限にある。常磐線を例にすれば上野からいわきまで普通列車が通じている。でもその間に様々な駅がある。でも記憶されるのは水戸駅とか日立などは記憶される。でもその間のさまざまな駅が記憶されないしそこの情報が実は通り過ぎてゆくだけで知らないのである

それで電車の旅という旅はただ駅名だけを記憶していた。それで私は地名に興味を持つようになったのである。要するに記憶に残っているのは駅名だからである。そのほかは景色とかでも記憶に残らないのであるだから電車の旅というのは早すぎて記憶に残らないのである。それは来るまでもそうだしバイクでもそうである。現在は交通が発達し乗り物も便利である。でもそのために帰ってその土地のことや景色でも何でも記憶に残らないのである


何か今になると私は回想する旅をしている。それが仕事のようにもなっている。あそこを旅したあそこに行ったことがあるとか思い出すのである。ただ電車の旅も相当したとしても後で振り返ると何が記憶されたかとなると駅の名前だけだったともなる。景色でも電車から見ていると次々に移っていくからもし歩くように見ているのは相当な違いなのである。景色でも一瞬のうちに電車でも過ぎ去るし来るまでもそうだしバイクでもそうである。


だから現代は江戸時代のように旅は道づれとかはない。旅と一緒にして街道を歩いてそこで何か親しくなりそして分かれ道があり分かれさりとなる。そこが地名化して残っているのである。それはそこで人が分かれて本当には一回限りの出会いであとは合わないということがあった。


今のように交通が発達していないのだから簡単には会いに行けなくなったからであるなっていたからである。そこで会うということはだから相当に今と違って貴重なことだったのである。

今なら旅で別れても飛行機でゆけば大阪までも一時間くらいで行ける。それが私が気づいていなかった。それは必ず電車とか船を利用していたからである。

でも実際は大阪から仙台から大阪まで飛行機で行けば一時間くらいなのででもそれは旅にはならない長い途中が省かれているからただ距離を縮めてしまってその途中が省かれて旅というものを体験しないのである。


だから常磐線でも上野から途中の駅があるのだがそこが記憶されない。大きな駅である日立とか水戸は記憶している。東京から近いところでは土浦がある。そのくらいしか記憶していないのである

人間の体験というのはだからいくら交通が発達しても本当にその地理とかを理解することはできない。例えば航空でもシベリア周りでヨーロッパの方に行ったがシベリアの上を飛んでも下は何も見えなかった。真っ暗闇でなっていただけである。そんな旅はつまらないと思った退屈なだけだと思った。

でもウラジオストックからシベリア鉄道に乗ればその体験は全然違ったものとなる。川は電車から見たら大きかった。それも運河のようにではなく何か激しく流れているように見えた。

その幅が広く大きなものだった。そういう川は日本にはない。でもその川でも一部を見ただけなので大陸の川はそれだけ長いからである。流氷というのがアムール川の河口あたりにできてそれがオホーツク海まで流れて来るということがある。それもスケールの大きなものとなる。


鉄道でも川でも道でもそれは長いものである。だからその一部しか実際はわからない。長い川でもやはり船で行けばその川の長さを実感する。でもただ電車はその鉄橋を渡っただけであるが確かに大きさ感じたが瞬間的に通り過ぎたのでその一部しかわからないのである。本当に川のと長さを知るとしたらやはりその川を全部ではないにしろ上流からであれ下流からであれ船で行ってみることである。

そこに大きな川の流域があり人々は暮らしている。でもアムール川だと写真を見れば壮大な森がありシベリアのそのスケールがまた違っている。ロシアとかでは広大な森がありウクライナもそうであるその森が阻み閉ざされているともなる。

それはヨーロッパの中世でも広大な森がありそれでそれぞれの国は簡単に往来はできず閉ざされていたのである。そのためにドイツの神話で民話で森の中の城で眠れる美女の伝説が生まれたというのも分かる

ドイツは樅の木が育ちおおっていた。その広大な森が樅の木の森があって黒い森といわれていた。その森をイメージして作られたのがゴシック大聖堂なのである。


●交通が発達して便利なっても人間の五感で記憶されない


ともかく何故地理を知ることが難しいのか。シベリアを飛行機で行ってもなんにも見えなかった。真っ暗闇のしか見えない。それで地理がわかるということはない。地理がわかるということは人間の実感で知るということは容易ではない。地理はいくら地図を見てもわからない、地形でもわからない。日本には山が多く峠が多い。その高低が実感できないのである。

だから峠でも歩いて超えた時はその地形を実感する。でも車で一気に登ったらその高さとか高低が実感しにくいのである。だから外部から見るときそうま地域でも飯館になると標高400mくらいあり海側とは違った気候になる。冬でも五度くらい温度が違うその代わり夏になると高原となり涼しいのである


結局人間というのは確かに機械に頼れば鉄道であれ車であれ飛行機であれその目的地に早く着く。それはそれで便利であり交流を深めることはある。でもその土地のその地理を理解したことにはならない。つまりどんなに人間が機械を使い便利になったとしても何か実感として心に記憶されることは機械に頼ってもできないのである。

ただ外国になると見慣れないものが多いから余計に忘れてしまう。それで失敗したのはもっと写真として起動記録しておけばよかったとなる。


ただその時デジタルカメラが出ていないので写真にとることが難しかった。その頃いちいち現像したりするのが金もかかるし面倒だったのである。でも老人になると必ず何であれ過去を回想する。その時不思議な事は頭に記憶されていなかったのだが写真を見てこういうところだったなと再認識することがある。頭の中にはもう何も記録されていなかったのである。

こういうことは本でもある。大量の本を買って印をびっしりとつけていたのだがその本を読んだ記憶さえなくなっていたのである。それでまた読み返してみてこういうことを書いてあったのかと感心しているのである。だから記憶を蘇らさせるためにはやはり記録しておくことが大事であり文章にしてもいい今ならデジタルカメラでとにかく記録しておくのである。そして後でその写真を見て記憶をよみがえらせるのである。


●親しくなるにも時間がかかる


人間は確かにいろいろなことを経験して記憶する。でもそれも時間が経つと60以上になれば遠い過去になり忘れてしまうのである。現実に同じ家で子供の時一緒に暮らしていた人が五年間であるがその人が記憶にないと言ったのに驚いた。何かしら五年間も一緒に同じ屋根の下に暮らして飲み食いもしていたのだからその人がいなかったということはありえないのでただその人は女性は普通の人ではない異常な人となってからそうなったのかもしれない。やはり人間は家族のことは忘れない。私の場合は特殊な事情で結婚もしないで親と一緒に60年も過ごしていたから忘れることはないのである。そして特別よくされて愛されたから今でも家に居ると家族がいるような感覚になるのである


とにかく人間は老人になれば記憶に生きる。それで認知症の人は異常になっているのだが一番印象的なことを人生で経験したことを延々と語り続ける。今のことは全く忘れても若い時の経験したことは忘れない。私の姉はシンガポールの向いのマレーシアのジョホールの赤十字病院に従軍看護婦として四年間働いた。そのことが忘れないから1000回くらいその話を聞いたのでそれで嫌になったわ延々と話す相手もないから私に話したのである。


そして驚くべきは死ぬ間際になってもその話を戦争で働いた話をして死んでしまったのである。だから一番印象に残ったのは若い時その戦地で従軍看護婦として働いたことなのである。だから戦争の経験した人は戦争のことは老人になっても忘れられない。それだけの大きな経験をしたからそうなったのである。これは特殊にしてもやはり人間というのは老人になるとその人生を語るのだから同じなのである。

そして人間というのは人間が生きるに際して盲点となっているのは時間を軽んじることである。時間の貴重さが認識できないから時間を常に無駄にするのである。金だったら常に100円でも200円でも1000円でも意識している。それで得したとか損したとか常に頭に記録されてこだわる。でも時間だけはいくらとか換算できない。それが盲点となって時間を一番人間は無駄にしているのでいるのである。


そのことは人間が親しくなれるのはやはり長く一緒に生活を共にしなければ親しくなれない。人間の親しさは時間に比例している。長く一緒に暮らしていればやはりその人が他人だとしても親しい者となる。親子でも兄弟でも遠く離れてしまうと疎遠になり。そして貴重なことは孫と接するにしても娘でも遠くに嫁げばなかなか会えない。


そこで何か祖父母でも孫は親しくなれないのである。子供の時接することは親しくすることは貴重である。なぜなら祖父母だったら死んでしまうからである。そうして孫と接する時間も短いからである。するとあまり直に接していないままでも記憶に残らないということがある。

それで結婚でも60過ぎてから離婚するということは大きな損失だとも見る。なぜなら結婚でも互いに信頼し合って親しくなれるのには時間がかかる。 60までも一緒に暮らしていて離婚するとなると他にまた親しい女性はできたとしてもなかなか親密にはなりにくい。そこには既に親密になる時間が残されていないのである

だから人間とはいくらでも時間があり離婚したらまた別の人と結婚すればいいともならない。。なぜならそんな時間が人間には与えられていないからである。でも実際は離婚している人が1/3とか多いでわまた別の人と結婚すればいいではないかとは簡単になれないのであるそれだけの時間がないからである。





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骨董店のショーウィンドウに古い二つの椅子が飾られていた。でもその写真をなくした。写真でも物だから無くすことがある。
それで失敗した。この絵はイメージクリエーターで作った。ショウウィンドウではないがイメージはできるから便利である。
ドイツでもヨーロッパでも歴史が古いから骨董品は似合っている、アンテークコインが現実に高値で今でも取引されているからである。

古い椅子が二つ

(old twined chairs)


二人は座っている

いつまでも座っている

何かを語り続けている

その人は死んでも

やはりそこに居る

そして愛し合い

思い出を語り続ける

今はその人は居ない

でも二人はいつまでもそこに居る

その土地に深く根づいた木のように

愛し合う人は 離れない

二本の木のように

その土地に根ずき思いを深める

ドイツの秋は深まる

中世の街は古く

石造りにものさびて寂びている


(秋深む古き椅子二つ ドイツかな)



old twined chairs.


They are sitting

They're sitting there forever

They're talking about something

And when they die...

They're still there.

Like a tree deeply rooted in its land

And they love each other.

And they're still talking about it.

He's gone now.

But they will always be there.

People who love each other will never leave each other.

Like two trees

Rooted in the land and deep in love

Autumn in Germany is deepening

The medieval town is old

built of stone, rusted and desolate


Two old chairs in the depths of autumn, Germany perhaps






二本の樹

柿の木に柿の実のなり

無花果に無花果の実のなり

ここに久しく変わらざるもの

風の日も雨の日も雪の日も

ただ黙しつ耐えし強き命よ

冬の日さして今休らいぬ

そは大地に根を張り変わらざるべし

昔を偲び末永き命なるべし

柿の木に柿の実のなり

無花果に無花果の実のなり

何事のなけれど争うことなく

互いに傷つけることもなく

大地に根を張り変わらずに

静かなる強き命にあるべし

そは天にてもつづきあるべし

神の園に植えられし樹よ

その実はさらに甘美なるべし

忍耐は平和の基、来世の実り

神の国はそこに作られるべし



Two Trees


persimmon tree bears persimmon fruit


The fig tree bears figs


Here is something that has remained unchanged for a long time


In windy days, rainy days, snowy days


The strong life that endures in silence


The days of winter are now at rest


Rooted in the earth, it shall remain unchanged


It must be a long life in memory of the past


persimmon tree bears persimmon fruit


fig after fig after fig.


No matter what happens, there will be no conflict


Without hurting each other


Rooted in the earth, unchanging


Quiet and strong in life


And it shall continue in the heavens


O tree planted in the garden of God


Its fruit must be even sweeter


Patience is the foundation of peace, the fruit of the world to come


The Kingdom of God shall be made there


Translated with DeepL



2023年08月14日

夏の日の田舎の小径の詩(黄揚羽、夏の雲、木陰)


夏の日の田舎の小径の詩(黄揚羽、夏の雲、木陰)

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これが本当の実在の写真


夏の日の田舎の小径


家々は離れてまばら静かなり

小経が分かれ家々に通じている

そちこちに木陰があり休む

涼しい風がそよぐ

夏の雲が高く高く峰となる

ひまわりは我に向かって咲く

揚羽蝶が夏菊にとまりしきりはばたく

嬉々として花から花へと渡り飛ぶ

なお暑い太陽が山の端に入る

人ごみの都会の中で人は疲れる

一本の大木は大地に深く根付く

古い農家はその大木になる。

人はもっとも身近な場をよしとしない

大輪の芙蓉の花がゆったりと咲き

そこに安らぎと平和があることを知るべし 


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A summer day in the countryside


Houses are far apart and sparse and quiet

A small path leads from one house to another Here

and there a shade tree rests

A cool breeze is blowing

Summer clouds form high peaks

Sunflowers bloom toward me

Butterflies perch on summer chrysanthemums and flap their wings

Butterflies happily fly from flower to flower

The still hot sun enters the edge of the mountain

people get tired In the crowded city,

One big tree takes deep root in the earth

An old farmhouse becomes a big tree.

People do not appreciate the most familiar places

A large hibiscus flower blooms slowly

And know that there is peace and tranquility there


Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)






人間はいつも見ている風景に感動しない、それがいいものだとも見ない、あまりにも見慣れた風景だからである。
でも混雑した都会と比べるとどれは得難いものになる。なんか年取ったらよけに混雑した所に行きたくなくなった。どうでしても老人は田舎志向になる。京都が良くても外人とかであれだけ混んでいたら行きたくなくなる


キアゲハと花
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ここの花は桃色だけど私が見たのは橙の色の夏菊である

ビデオに撮ったが撮れていなかった
実際に夏の雲が湧き田舎の農家にひまわりが咲いていた
イメージクリエーターとは感覚的相当違っている
ヒマワリはやはり大きくないと映えないのである。
現代は映像化の時代だからやはり写真でも動画でも欠かせないのである
言葉だと相当にイメージ力がないと鑑賞もできないからである

スーパーヒタチ南相馬市を通過−youtube始める


スーパーヒタチ 鹿島駅通過−youtubeにアップ



動画を撮るのは外だとぶれるのが問題、三脚などでぶれないようにして撮るといいが手間がかかる
動画は室内だったら楽にもなる、でも編集となるとまためんどうである
ただ表現の幅は広がる。ようするにパソコンはソフトでもつかいこなすのに手間であり時間がかかる
それはずっとそうだった、簡単に操作できるようになってもやはり手間がかかり時間がかかる
でもアップすることは簡単だった

2023年08月12日

少子高齢化は文明が発達すれば必然である (動物と人間の相違- 人間は成熟に時間がかかりすぎる―余暇を活かすことが課題に)

少子高齢化は文明が発達すれば必然である


(動物と人間の相違- 人間は成熟に時間がかかりすぎる―余暇を活かすことが課題に)


●人間は育つのに手間と時間がかかりすぎる


なぜ少子高齢化が起きているのか?それは日本だけの問題ではない。先進国では共通している問題である。 ただ、アメリカなどは高齢化している人が多いにしても大統領でも80歳になっているとしても子供の数が日本のようには少なくならない。その原因は移民がいてそれで補っているのである。 

だから、ほかの国とは事情が違う。そもそも人間というのは動物とは相当に違っている。人間が成長するにはとにかく手間がかかり時間もかかる。そのことが動物とはあまりにも違っているのである。動物は生まれてすぐ立つことができるし食べ物でもすぐに捕れるようになる。長くても一年であり。その一年かかるということも長すぎる。生まれてすぐ立って餌をとっていけるということもある。


つまり、動物は本能によってのみ生きるのである。人間のように様々な手をかける。教育するとかはないのでる。本能によって生きてゆくのである。 人間にも確かに本能はあるが人間は生まれて親からでも社会からでも教育されない限り生きる術も身につかない。その期間が長すぎるのである。人間の子供を育てるということは経済的にも相当に負担だし動物のようにはいかない。 

ただ、人間にも生殖本能がありだから先を見ないでセックスして子供を産むということがある。それで貧乏人の子だくさんというのも戦前からあったし戦後もあった。戦後の焼け野原から団塊の世代が生まれたのかそれは戦地から帰ってきた人たちが男たちがセックスして子供を大量に産んだともいわれる。それは本能の力が働いてそうなったとなる。


実際、焼け野原になって食べ物もないのになぜそんなに子供が生まれたということは理解できない。それはやはり本能の力だったのかともなる。貧乏な国ではアフリカなどの貧乏な国では、食い物わなくても本能の力によって子供がたくさん生まいる。 それは動物と同じよう同じように本能の力が働いてそうなっているということもある。

ところが人間というのは?そうした本能的なものを性欲でも抑制することもできる避妊とかもできる。特に文明化した社会ではそうした薬も作られて避妊できる。遅れた国ではできないから子供が増えたと思う。


つまり人間だけが本能だけはいけない本能に逆らい生きる動物である。 でもなぜ人口というのは地球の人口は急激に増えたのか?逆に人間が文明化したためだと思う。人間でもそもそもは生きるには必ず食料が必要であり。もしその食料がなければ。人間も生きていけない。だから、その食糧分だけの人間しか養えないから江戸時代までは農業でなったが限界になった。それ以上は増えなくなった。


●なぜ明治以後に人口はこれだけ増大してきたのか?


それは工業化したりして農業だけではない食料以外でもさまざまな職業が生まれてまた食糧でも江戸時代のように一反からとれる米の量が限られるという事も無かった。生産技術の発達で一反からとれる米の量が2倍3倍となった。すると。食糧でも2倍3倍となりそれだけの人口も増えても養うことができるようになった。


でもその中心が農業にあった。今は田舎でも農民は1割に満たないのである。つまり食料生産に従事する人はそれだけ少なくなりでも食料は供給されているのである。それは農業技術の進歩から来ている。 農業は主要な産業ではなくなったのである。それを象徴しているのは1000万の東京の人口があるとしてその人たちを養う食料がどこから来ているのか 東京の中に田畑はない食料は供給されている。江戸が百万都市だとしてもその周りはやはり田園地帯が広がっていたのある。


だから、その周りから食料が供給されていた。ただ米などは船で東北からでも江戸に集められた。だから食料のすべてを賄っていたとはならない。でも野菜などは東京周辺で江戸周辺でまかなっていた。それでその周りで特産物が生まれた練馬大根とかがそうである。また肥料でも糞尿を江戸まで農民が来てそれを取り出し運び肥料としていたのである。密接にその食糧を得るためにその周辺地帯と繋がり食料を供給していた

また、江戸前寿司というように東京湾で新鮮な魚をとりそれも食糧となっていた

ただ、江戸時代までは農業社会だから人口は抑制されて4000万以上にはならなかった。それで新潟県の人口は百万とかあり東京の人口も百万とかになっていた。実際は新潟県の人口の方が多かったのである。大正時代でも東京の人口は300万であり今の規模とは相当に違っていた。でも明治初期から比べれば相当にふえた。


●東京に人口が集中してきた歴史 


私の母も大正生まれでありその当時東京へ行く人が増えた。母も女中として東京に出た。また森林鉄道が網の目のように全国にはりめぐらされて木材とか石材とかが東京に運ばれた。また鉄道はもともと石炭を運ぶものとして全国に普及した。北海道でもそうであり福島県なら常磐炭礦は有名である。

東京は大正時代に300万人になるということはやはりそれだけ東京に人口が集中してきて、食糧であれ物資であれ必要となったからそうなった。その東京への人口集中は戦後でも高度成長時代があり続いていたのである。

ただ、基本的にはまだ日本は農業社会であり。農業で生活していたから人口の移動はそれほどなかった。


なぜ人口が増えるかという時その理由はやはり農業でも食料は増産する技術が生まれ食料は供給される。そしてその上に工業社会が生まれ工業社会になる時工業地帯が生まれて人々がそこに集中する。戦後の焼け野原から団塊の世代が生まれてその時中卒の集団就職があった。それは工業社会になり働く人手が地方から集められたのである。そうして東京は人口が今の1000万円に増大したのである。それは世界中で起きたのである。巨大な都市が生まれて農村から分離して人口が莫大に増えたのである。


ここが増えるというとき農村農業中心では増えない。それは縄文時代のような狩猟採集文化だったらやはり人口は極端に少ない。人口を増やすことができないのである。でもそこに農業が取り入れるとやはり人口が増大した。それはやはり食料が縄文時代より膨大に増やすことができたからである。

だから人口が増えるということは産業構造が変わり食料だけを生産することは第一とならず工業社会となり田畑がなくても都市化して人はそこに住む。 そこで都市に人口が集中するのである。 


とにかく明治江戸時代では3000万人くらいなのになぜ急激に大正時代では6000万とかなり人口は増え続けた。それは戦後の焼け野原でもそうだったのである。なぜこれほど人口が増加してきたのか?それはもともと農業から工業社会への変化があった。戦後、焼け野原から出発した団塊の世代が生まれた。その数も多くでもその就職先が中卒なら集団就職して都会の中小の工場で働いたとなる。つまり農業ではない中小の工場で働く場所があったからである。 


●人間は本能だけに生きない―少子化高齢化は文明化して起きた


なぜ今、少子高齢化がこれほど問題になっているのか?


日本国から日本人がいなくなり、日本民族は消失することまでなっている。それはなぜそうなったのか?それは日本だけではない。ヨーロッパとかでも少子高齢化になっている。だからそこに共通性がある。

そもそももし生物でもただ放置していれば自然の摂理で人口は調節される。動物の場合はその取れる餌によって特定の動物は増えるということはない。


人間の場合は本能によって生きるだけではない。本来は少子高齢化というのは生物界でわありえな。動物界では力が弱ったら?死ぬことになる。力があるものしか生きていけないのである。でも人間なら能力が弱くても老人になってもいろいろと手当をして長生きさせることができる。それは自然の摂理に反していても人間というのはそもそもは自然の摂理によって生きるわけではない。それが人間の特徴である。


だから少子高齢化というのは人間特有の問題なのである。自然では少子高齢化はありえない。だから大量に魚でも卵を産み本能的生殖で子孫を絶やさないのである。ところが人間の場合はそうした本能に従わずにも生きるのが特徴である抑制することもできる。 ただ、その本能に逆らえないということもある。


女性が子供を生む期間は短い。30歳までが出産適齢期である。その後になると出産することで子供に異常が生まれたりするからなるべくなら30歳まで子供を産んだ方がいいとなる。本能的にはやはり生殖作用が盛んになるのは30までくらいだとなる。ここにやはり人間も生物としての限界がある。それでも精子の冷凍保存とかなにか技術の発達で人間の場合は変えることができる。人間には別に本能的に生きるのではなく本能を抑制できる人間の文明とは、そもそもそうして生物的本能によって生きるわけではない。そこにやはり少子化となり、高齢化となる原因がある。


つまり本能的に生きる生物界では少子化などあり得ないし高齢化もありえない、ただ動物園とかペットになるとやはり寿命は延びるのである。

ただある種が増えすぎると食物連鎖のバランスは損なわれて生態系でも異常が起きてくる。 でも基本的には動物は生態系を壊したりはしない。 人間のみが生態系を壊す、だから人間というのはそもそもは本能というものから逃れられないにしろそれを抑制し。調節することもできる人工で敵にできる。


とにかく自然界では子孫を残すために大量の卵とか多くの子供を産むというのは普通である。それは人間も同じだったのである。なぜなら人間も昔なら生まれてもすぐ死ぬことも多かった。医療も発達してないからそうなった。子供を多く産まなければ死ぬのも多いのだから子供でも子沢山にしないとその社会でも維持できなくなる。

 戦前は若い人でも肺病で大量に死んで国民病となっていたのである。また疫病もあり大量に人が死ぬからやはり子沢山でないと社会は維持できなくなっていた。


医療技術が発達して食料生産でも一反あたりの収穫が何倍にもなるとか改良されてくると養う人口も増大する。高齢化になるということも必然なのである。栄養も良くなり医療も発達すれば当然、長生きする人が多くなるのである。つまり人間社会とは文明化するということは高齢化するということにもなる。ペットでも栄養をとらせて病気になっても手当てするから長生きするのである。


だから少子高齢化というのは人間社会にとって避けられないものであり、必然だということを知るべきである。それは悪いものとされているが高齢化というのは、実際は悪いものではない。なぜなら。人間早く死んでいたからである。そして長く生きることが人類の願いだったのであるだから延命地蔵とか長生きすることを願うことが人間の願望となっていたのである。


つまり人間というのは自然の本能のみに生きるわけではなく自然に反して生きるということにもなる。 それが人間の本質なのである。そしてそれが悪いものでもないのである。


●人間は成長するのに時間がかかる


とにかく人間というのは何であれ成長するに時間がかかる。その成長するというと動物なら別に知的活動などはしない。人間は知的なものを育むからそのことによって時間が必要なのである。何かを習得するにも時間がかかる。動物は本能によって餌でもとるし親から多少教えられるにしても本能的にできるのである。人間は何か教育されたり自ら育んだりしないとできない。そして知識になると膨大なものでありそれを理解するということは相当な時間がかかる。


それは私自身が一番感じたことである。何か知識でも自分のものにするには相当な時間がかかる。それは私自身が才能もないからだともなる。何か60過ぎてとかやっと70過ぎてから自分なりのものを表現できたということにもなるからである。というのはそれまでいろいろ体験したり、本を読んだりして理解するのに時間がかかったということである。

だから高齢化というのは悪いものではない。何か一つのことを理解するにも時間がかかるからある。それが今まではその時間が短かった。でもこれだけ時間があるというときもう70からでも学ぶ学ぶこともできるし表現することもできる。


だから高齢化というのは人間にとって悪いものではない。その長い人生の中で充実した人生を送ることができる。というのは退職してからも30年もあるとしたら第2の人生となってしまうのである。そこで何か実りのあることを達成できる。ただマイナス面として語られることが多いのはまだまだ高齢化ということに人間が適応してないからである。これからは高齢化ということは普通でありそれに適用して人間はさらに意味ある充実した人生を生きることもできる。


ただ、少子高齢化というのは最近起きた起きたことであり人間がそれにまだ備えていないし適応できていないのである。ただ自然界から見れば本能的に生きる動物などのようにそれは不自然なことなのである

でも人間っていうのは文明でも不自然なことなのである。少子高齢化というのも、そのために起きてくる。つまり人類は少子高齢化に生きるほかないともなる。 それが問題があるにしろその高齢化で人間の知的能力は確実に拡大し、成長する。それは私自身が遅すぎたが70過ぎでこうして何かを深く理解してインターネットで表現していることでもわかる。


つまり、これからは。インターネットとかが生まれて。個々人の表現の時代になるのでそのツールもできている。個人でもテレビ局となり、出版局となり新聞社にでもなれるからである。そこで何か表現するものが必要になる。それは高齢化の中で育むことができるのである。 だから高齢化というのは文明の中で必然的に起きたことなのである。ただ、まだそれに備えることが出来ないから問題が多いのである。老人は負担だけだとなるというときそれは介護とかの問題でありどうしても病人が増えるからである。でも老人は何かに対して理解力は深まり洞察力も深まりより成熟した人生を送るようになる。 


今は高齢化の負の部分だけが取り上げられるのはそれはあまりにも高齢者が多いことでそうなったので。だから自然ならば子だくさんである。もともとは長生きしてる人はそれだけで尊ばれた。どうしてもそういう老人はごく一部だとなり。後の大多数は無用の老人であり、ただ社会の負担であり、お荷物であるとされているのである。

でも社会も進化する人間も進化する文明も進化する。だから高齢化に適応した社会となりそれが悪いものともならないのである。ただ、少子化ということはこれまた別の問題でありいいものではない。社会の活気が失われやはり新しいものが生まれなくなるということもある。

それとは別にして高齢化というのは?文明が進んで必然的にそうなったのである。


だからどこでもそうなっていくのである。アフリカでもそうなってゆく。だからそれを止めることはできない。そういう社会に適応することであり、その社会が悪いということでもないのである。ただ。今はそのマイナス面だけが強調されているだけなのである。それぞれの人生は今までは60ぐらいで死んでいたのにそれからさらに20年以上とかとか生きるとなればそれぞれの人生を意味ある価値あるものとさらにできるから悪いものではない。ただ、その過渡期にありやはりマイナスの面だけが強調されるのが問題なのである。



●高齢化社会では余暇いかに過ごすかか問題になる


それだけ生きる時間が長くなれば暇も多くなる、会社で働きずめの人生でも。退職したらその後30年も生きるとしたらその暇をどう生かすのかとなる。

ただ、貧困化して働かざるを得ないということもある。でもそうして強制されて働くことはするべきではない。つまり人間にとって長生きすることもう一つは自由な時間を持つということである。それが人間の進歩にもなる。それは人間が望んできたものである。古代になると余暇を持ったものは貴族であった。あとの90パーセントは奴隷であり奴隷がいて貴族は自由な余暇をもったのである。そこで学問芸術とかに費やされるようになった。


それで学校というのは?スクールというのがスコレーでありそれは暇の意味だったのである。。なぜそうなのか?暇があったから労働から解放されて何か学校をつくり学ぶということになったのである。

それが高齢化でまた起きている。退職しても30年間も生きるとしたらその間に何かまた学ぶということが必要になる。理想的なのはライフワーク持って退職してもそのライフワークを続けることである。

そのためにはやはり老後でも金が必要になる。


でも今は日本が貧困化しているとき、老人でも働いている。それは食べるために働いている。でも、そのことがいいとはならない。 もはや金のために働くべきではない。食うため、パンのためにも働くべきではない。それぞれの自己実現というかしたいことをする。だからこそ暇の活用が大きな問題となるのである。


ただ、それはやはり人類が進化したのであり高齢化というのもまた人類がこれまで望んでいたことなのである。それが実現されていたのである。

でもその実現された長寿社会というのは有効に生かされないということである。それで社会全体から見てみると、こう高齢化社会の老人はただ負担になるばかりのマイナスのものとして見られる。

現実に病気の人も多い。介護になるとその負担もあまりにも大きすぎる。そこに大きな負の部分があり。若い人から社会全体から見ると、ただ重荷となり負担となり社会を停滞させる。マイナスのものとしてしか見られないのである。 

そして老人は技術の習得には遅れる?新しいものに?適応できないし利用できないとなる。それがパソコンとかITとかになじめないというのもそうである。それがまた社会全体に影響するから問題なのである。 子供でも、若い人は新しいものに。馴染み利用する。スマホなどはそうである。でも老人になると面倒だとなってしまうのである。


ただ、現代ではもうすでにパソコンは必須でありスマホも必須である。それなくして生活すらできなくなる。また創造の面でもパソコンなくしてはできなくなっている。

絵画するAIで作れるし音楽も作れるし小説でも作れたからである。だから意外とパソコンとかITは人間の頭脳と深く関係している。それが今までの技術とは違ったものなのである。


ただもともとアートというときそれを技術のことであり技術とアートは密接に結びついていた。写真というカメラ技術が生まれればそこで新しい芸術も生まれたし庶民もまた写真というものは欠かせないものとなったのである。それが今はデジタルカメラとか誰でも気軽に写真をとれるので写真の時代だともなったのである。 


だから高齢化社会になったとしても、やはりそうした技術を修得するべきだとなる。その技術の習得というのは、実は才能というより時間が必要なのである。

私は何か時間がなくなって家事とか毎日しているので新しいことワードプレスとか動画編集とかはできない。それは難しいことがあっても、時間をかけてやればできるものなのである。老人にはその時間がなくなっている。

私の場合は家事に追われるのでできなくなったのである。だから人間は時間に比例して知識も拡大するし、広めることもできる。若い時は相当に時間の無駄をしている。そして青春などあっという間に過ぎてしまう。そして40になると。白髪が入ったりしてしまうのである。


それが今までだったらもう60くらいでは死んでしまったのである。いまそいいうことはない、依然として時間がありその時間の多さで新しいことを習得できるのである。

そこに。高齢化のプラスの面がある。ただマイナスの面があまりに大きいので。そればかり強調されるのである。そこまでまた人間が進化してない適応できていないということにもなる。でも徐々にそういう高齢化社会にも人間は適応して長生きするということが人間にとって、より多くの豊かな実りを与えるという時代になるのである。その過渡期だから、いろいろと問題が起きてくるのである。 







2023年08月11日

天皇とは何なのか? (神権政治が生まれた背景ー人間は人間によって治められない)

天皇とは何なのか?


(神権政治が生まれた背景ー人間は人間によって治められない)


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加治将一

歴史的考察で浮かび上がる真実の姿。天皇ファンタジーと日本の現実


https://onl.bz/ScvG4mV


●天皇は日本独得のもの―外国の王とは違う


天皇とは何かそれは日本独特のものであり。なぜ天皇は生まれたのかその経緯はどういうものだったのか?それは神話的にもなり明確ではない。天皇が初代天皇の神武天皇は実在の天皇かどうかは不明である。でもなぜ日本では21世紀までも継続されたのか?これはやはりなんらかの存在理由がある。


それはおそらく日本という国が海に囲まれていて一つの世界になっていたからかもしれない。大陸だと必ず民族の興亡があり国でも継続しないということがある。日本は明治維新まで外国から侵略されたということはない。征服されたこともない。それはアメリカに負けるまでそうだったのである。だから日本という国は他国に異民族に支配されたということはない。だからこそ天皇は継続されたのである。でもアメリカに敗れた時天皇もアメリカに裁判されて死刑になったかもしれないのである。でもそれは日本は統治できないとして天皇温存したのである。


何か天皇というとき外国から見ると国王なのかとなる。でも国王でもない国民の象徴とかという抽象的なものになっているのである。また天皇は強大な権力を持っている存在とも違う。確かに皇居とかは広大な土地であり。東京の中でその土地の価値だけで莫大なものになる。また別荘もあり、その土地も広いから。財産は巨大なものになる。

でも中国と比べると中国の皇帝とかは欲望でも歯止めがなく宮廷に千人の女性を姓の奴隷のようにしてはべらせ使いさせまさに酒池肉林とかその中国人の欲望とは限りないのである。 

中国だけでなく大陸の帝国はその王は巨大な権力を持ち中国では地下にまで皇帝が死んでも支配しようとし大宮殿を作っていたのである。


そういう皇帝とか王と比べると日本の天皇はそんな巨大な権力を有していない。 確かに仁徳天皇の古墳などは巨大だから権力も巨大だったともみる。でも古墳というのは必ずしも墓というものでもなく天皇のために作られたというものでもない一つの共同体の象徴としてあり中国の皇帝のように一人の王のために贅沢を尽くすというそういう種類のものでもない。中国のような巨大な国家は人民は奴隷のようにされてしまう。一人の王のために絶対君主というか王がいて力で治めるしかない。それで民という字が人の目を潰すということからきている。これも中国の恐ろしさである。


日本でも江戸時代だと見ざる聞かざる言わざるとして民衆は何も言えなかった。でも中国となるとその巨大な国を治めるだけでものすごいエネルギーが必要になってくる。


だからどうしても圧政になるのである。それはロシアとか見てもわかる。広大な土地を。人民を治めるということはどうしても強力な圧政になってしまうのである。 

中国で民主化するということが難しいのはその土地が広大であり人口も十億以上いてそんな人民をどうしてまとめるかとなる。圧政しかなくなる。もう民主制度になったら収集がつかなくなるかもしれない。みんな言いたいこと言っていたらとても広大な土地と10億人以上の民をどうして治めるのかとなってしまうからである。

だから中国というのは自分の国内をまとめるだけでものすごいエネルギーが必要になってくるのである。 


●人間を治めるために神を利用した神権政治になった


それに比べると日本は小さな国である島国である。だからこそまとまりやすいのである。強大な権力を持つこともできない。それだけの土地と人民がいないからである。 

一つの国をどうして治めるのか?それが人間の政治の課題でありそれは21世紀になっても解決しないのである。

一見民主主義が良いようでもそれもうまくいっていない。一体どうしたらうまく治められるのかは永遠の課題であり。そしてそれは解決しないのである。民主主義は理想のように言うがそれもただ暴力で持って治めることを権力を得ることをしないというだけであり何か理想的なものでもないのである。権力を得る為にはどうしても殺し合いがありそれを止めるために民主主義が生まれた。

ただ、それが全て上手くいくとなっていない。ただ大陸の圧政のようなよりはましだというだけである。政権交代するために殺し合いはしないからである。


おそらく人間は永遠に治めることは出来ない。それは人間のカルマである。 なぜまた21世紀になってロシアで戦争を起こしているのか?やはりそのカルマが終わることはないからである。 ロシアも今広大な土地を持っていて人民は1億人くらいでもその広大な土地に散らばる。人々を治めるのは圧制しかないのである。大陸の巨大な国家は圧政になり王が巨大な権力を持つのである。


それはエジプトのように神権剣政治にもなり共通しているのである。王が神のようになってしまうのである。それはカルト教団にも共通している。21世紀でもやはり。政治というのは?継続してやはりを繰り返しているのである。カルト教団もやはり教祖が神の様になり崇拝させて人々を支配しようとする。それが現実に起きたのは創価の池田大作がそうでありオウムの麻原でもそうであった。幸福の科学の大川隆法でもそうであった。だから政治というのは何か依然として進歩していないのである。
ということは人間を収めるということがいかに難しいかということである。3人寄れば文殊の知恵というが反面人間関係でも3人寄れば必ず争いがありまとめられなくなる。


身近な家族でも同じなので。その中でも夫婦でも常に争いがあるのである。だからこそ結婚しても1/3は離婚しているのである。

どうしてまとめるのか?それで子は鎹となったのである。家族をまとめるのは実はその中心となるものは必要なのである。

それは前は長男はなっていた。でも戦後は兄弟長男の特権は失われ、兄弟は皆平等となってしまったのである。では家の中心は誰がなるのか?すると中心になるものが失い家族はまとまらなくなったのである。


その中心になるものは別に能力が優れたものでもない。ただ中心になるものがいないと家族でも少人数でもバラバラになってしまうのである。何か私の家族のことを延々と書いてきた。二人のの母親がいたとして争っていたが振り返れば私と言う中心になる人がいなければ家族は分裂していたのである。確かに分裂状態になってもう死んで家族は居なくなった。でも依然としてやはり家族は私を中心として存在しずしつづけたのである。

だからそこに中心となるものはどれだけ重要なものかを認識するべきなのである。


南北朝の悲劇は天皇は2人になったことなのである。壬申の乱でもやはり天皇の兄弟が二つに分かれて争うことになった。南北朝では日本全体を二分してしまったので。それは村のような小さなところでも日本全国隅々まで二分して争うようになったのである。つまり天皇が2人になるということは国が一つにならないとうことなのである。そこに中心になるべきものがなくなって二分して。争うようになったので。その傷痕はあまりにも深いものだったのである。


●家族でも治めるのには中心になるものが必要


だから天皇とは何かというと。それが渡来人であれ別に血統がは継続されているからということでもなく天皇が特別神でもなく優秀でもなくてもそれが国をまとめる中心としてある。そこに意味があったのである。その天皇は特別外国の王のように権力を持っていなかった。

確かに皇居の土地は広大である。でももしそこが天皇の住む地でないとするとどうなるか?

その貴重な森は明治神宮の森のように失われていくかもしれない。天皇が住んでいるということで手を付けることができないのである。もちろんそこで大きな問題はある。不便になるしでも東京のようなところにそういう広大な土地があり森があるということはやはりそれをそれが全部悪いものともならないのである。


そもそも、なぜ政治というものは進歩しないのか?それは人間を治めることはそれだけ難しいからである。それは家族でも治めること自体難しいことでもわかる。家族でもそうしてまとまらないから、とにかく長男を立てたのである。その長男が優秀というのでなくてもあえて長男を立ててまとめさせたのである。

徳川幕府でもとにかく長男を立てて治めさせた。その長男が必ずしも優秀でなくてもただ、天皇のように象徴としてあるだけでまとめ役として有効なのである。もしそういうものがなければ、結局昔のようで。血で血を争って権力争奪の争いになる


日本の天皇とは何か?それは日本人が歴史の中で生み出した一つの知恵の産物なのである。何か神話とかそれも作り物でも真実でなくても別にいいのである。問題は国をどうしてまとめるかということにあるからである。そのまとめ役となるものは何なのか?昔だったら長男がそれをしていた。そこにもやはり歴史的に継続した。人間の知恵がありまたそれは長子は特別神によみされるものとして尊ばれたのである。


だから必ずしも人間の世界というのはなんでも平等というものはいいというわけではない。かえって平等なことでまとまらなくなり分裂することにもなるからである。

つまり長子が特別神によみされたものとしてありそれが家を継ぐということはまた、国は国を継ぐということにもなるのである。それがおそらく天皇になるのかもしれない。 

アメリカはなぜまとまらないのか?移民の国でありさまざまな人種はが混交して広大な大陸に散らばる。それをまとめるのは一体になるのか

民主主義といってもそれでとてもまとめられない。だから、もはや限界にきている。そして再び暴力も起きてくる。ということは、民主主義というのは万能ではない。 すべて数が多いからと、それが正しいわけでもないし。それで決めることが良いわけでもない。ただ、暴力によって決めないと言うだけなのである。 


そしてどうしても政治はうまくいかないまとめられない。国を治められない。それで誰が治めるかというと聖書では緑子に治めさせようとか

老子だと治めずして治めるとか無政府的な考えにもなってしまう。

もう民主主義の選挙などやっても無駄となりかえってじ引きで決めたほうがいいと言うまでなっている。その方が公正だともなるのである。それだけ政治は人間をまとめることは難しいから、そうなったのである。 


●天皇は日本の歴史で統一するための知恵として生まれた


ともかく、天皇が何かというとき。その由来が何であれそれは一つの日本の歴史の中で生み出した知恵であったということである。

だから、それは長男が神よりよみされたものであり家を治め継ぐということまた国でも通じている。そうしなければ。まとめられないからである。そんなのは不平等だと民主主義社会では言うけども民主主義のようにただ平等を目指してもかえって不平等にもなっている。それはなぜなのか?そのことも考えねばならないのである。


日本史上では,神を祀ることがすなわち政治の根本であるとし,政治を「まつりごと」と読むのはそれゆえである。原始,古代の社会にあっては万事宗教が優先し,すべて神の意志によって行われた。風雨雷地震などの自然現象はもちろん,狩猟,農耕の収穫にいたるまですべて神意と考えられた。したがって生活が豊かに,社会が平和になるためには神に祈る必要があり,これが政治であった。この思想は古代天皇制国家統一の支柱となり,律令制において神祇官太政官に並べて設置したのもそのためである。これは中世の神道思想から江戸時代の国学へと進んだ。明治維新以後神道国家観によって天皇の「まつりごと」を強調する傾向が生じたが,特に昭和に入って天皇を現人神とし,その親政を主張する右翼運動が高まった。だが太平洋戦争後,天皇の人間宣言とともにこの思想も影をひそめた。


明治維新には西欧文明の挑戦にあって日本は混乱した。でも古代から続く天皇により国家というのが継続されて復古したのである。それは西欧文明の民主主義とか自由主義とかそうしたものとは相反するものだったのである。

ヨーロッパでは神権政治があった。またフランス革命では政教分離が唱えられて宗教と政治を分離したのである。日本では明治になっても宗教と政治が一体化して天皇が依然として活用されていた。

つまり天皇というのはそれだけ日本にとって。皇国史観があるように日本の歴史を象徴するようになっていた。

明治維新の時混乱したが皇国思想の運動があり第二次世界大戦まで継続したのである。ただ神国だから負けないということであったが、アメリカに負けて権威失墜したのである。


それは創価などでも継続されている。選挙は仏法の戦いであり仏が全面に立つのだから負けることがないとなるのである。天皇が現人神だからが戦争にも勝つということに通じている。政教一致なのである。

結局、明治維新といっても。古代の復古があり先祖返りがありヨーロッパ文明の真髄を取り入れるということはなかった。 

政治でも神がかり的なものとなってそれが300人万人も死んだ犠牲を払ったのである。それは国家のために死んだのである。それでその供養は天皇がになっているのである。でも天皇にしてもそんな大きな責任を担えるかとなったらなれないのである。 


ではなぜ300万人も死なねばならなかったのか?


それに答えることは容易ではない。ただ、政治を国家を神聖化すればそれは国家のために神聖なる国家のために死んだとなる。 でも国家自体も過ちを犯すのである。神ならば過ちを犯すことはない。国家でもやはり人間が運営しているから過ちを犯すのである。神権授与された。神から権威が与えられたとかあくまでも。民衆を支配される。支配するための方便だということもある。そうなると神にさからうことができないとなるからである。


ともかく政治が宗教に関わると狂信的になりファシズムになりやすい。特に大衆社会となった時難しい理論を大衆に言っても通じない。ハイルヒトラーということで叫び一体感を感じるのである。

また念仏とか日蓮宗だとは題目を唱えて徒党を組み突撃して行った。それは分かりやすいからそうなっていたのである。

戦って死んでも成仏する極楽に行くんだということでそうにもなった。だから宗教っていうのは、人をの上に立つとき利用すると支配者にとっては便利なものになるのでは?ただ、そこに日本の天皇が神格化されて300万人も死んだ恐ろしい結果にもなるのである。


●大衆民主主義もファシズムになりやすい


ともかく一体、誰が人民を国を治めるのか治めることができるのかとなるとそんな人はいないとなる。 人間の力では収められないとなる。必ずそこには混乱が生じてカオスとなってバベルの塔のように崩れ去る。それが人間の歴史だった。 現代というのは大衆社会である。大衆が力を持った社会である。大衆社会とは数がすべてを決めるのである。

そういう社会がどういう結果になったのか?それがまたナチスの再来であり全体主義になりファシズムになりまた恐ろしい結果を生むのである。大衆を洗脳し、先導するものはカルト教団とか必ず現れてくる。というものは大衆は考えることをしないのでカルト教団が増殖したのである。


宗教というのは一面民衆を支配する洗脳するのにいいのである。そこには別に本来の宗教などは皆無である。ただ題目を唱えればあらゆる欲望が達成されるとかで何でもいいのである。

それはついに天皇ファシズム、仏教ファシズムとなり。仏の命令で反対するもの者を殺してもいいんだとまなってしまう。それを大衆が力を持った時止めることはできない。なぜなら、民主主義とは数によって全てが決まるからである。いくら一人の聡明な人がいたとしてもそんなものは何の力もない。多数の前に何の意味も持たないのである。


だから数を集めた人がトップに立ち支配するのである。でそれはナチス的手法しかないのである。

民主主義からナチスが生まれたのもそのためだったのである。だからこの社会というのは?絶望的なのである。人間は政治に関しては人間は進歩しなかったのである。 

マキャベリも占いであれ宗教であれ政治権力を得るためなら積極的に利用しろと説いている。だからこそ為政者は信仰などなくても宗教を戦争でも政治でも利用してきた。それは人間のカルマとして継続されてきた。カルト教団が現代でも勢力を持つのもそのためなのである。


確かなことを天皇が特別優れた人でもない一つの飾り物でもある。でもその飾り物でも国家の中心としてありまとめるものともなる。

その中心になるものがない時家は分裂して国家も分裂して悲惨なことになるのであ。

その時、外国勢力が入ってきて国家自体が分裂して争い国家すらそのために疲弊して消滅してしまうということにもなる。

だから中心になるものがいかに重要かを知るべきである。中心になるものがなければ家も維持できないし。国家を維持できない。


例えばなぜ一神教が生まれたのか?それはあらゆるものが神となった。さまざまな動物でも石でもでも山でも神となった。八百万の神である。でもそうなると。バラバラにな治められないエジプトでもやはり様々な神がいて地域地域の神がいると統一国家にする一つの神が必要なのである。唯一の神がそれがなければ国も統治できないのである。 

日本では天皇とは唯一の神でありそれで国をまとめようとしたのである。八百万の神がいてもその最上階に天皇がいてそれで国をまとめようとしたのである。


とにかく注意すべきは警戒すべきは民主主義というのは大衆民主主義になりそれがファシズムとななることが危険なのである。それは歴史的にもそのためにカンボジアでも社会主義で200万人も死んだとかなる。共産主義社会ではロシアでも中国でも反対者は抹殺された。それもまた恐怖殺し合いをしない民主主義は優れているとなる。でも民主主義からナチスが生まれたのだから、大衆民主主義となるとそうともならないので。 


政治というのは人間にとって古代から。継続したカルマとなっている。人民を治める方法がないとなる。そこに人間の限界があるのである。必ずあらゆることで、人間には限界がある。政治でもそうだし経済でもそうだし科学技術でも原発事故が起きたように人間の限界が現れてそうなるのである。

人間では統治できないからそうなるのである。治めることができないのである。それで理想はこの世では成就せず天の国で神が治め、成就するのである。そしてその前にこの世はカオスの中に。バブル崩壊し人間の作り出した文明は砂に埋もれ海に沈み森に隠され埋もれる。そして。ただ、謎を語るばかりなのである。それがこの世で人間がなす文明の結果なのである。


この世とは何かといえば理想の国など作れない。むしろ人間の作った文明はただむなしく謎となり残される。エジプト文明でもマヤ文明でも中華文明でもなんでも同じである。それはただ謎を語るだけなのである。そして世界統一した平和な世界など作れない。

戦争は終わることなくあり最後にハルマゲドンが来て人類は滅びる。ではこの世は何のためにあるのか?人間は何のために生まれてきたのか?それはこの世とは?試練の場なのである。様々な試練を受けて苦しみ、悲しみ。そして神の子に神の国にふさわしいものとなるものとして試練を受けるのである。


そして神によって選別されて神の国を召されてそこで唯一の神のもとに働き仕事するのである。そこに荘厳な神の国がなるのである。それは永遠の都であり、滅びの無き都である。そこでこの世で悲しみ苦しんだ涙は拭われる。それを成すのは全能なる唯一の神であり人間の力ではできないのである。ただ人はこのように生まれて生きるのはその神の国にふさわしい人となるべく選別されるためにあるのである。そのためにこの世がある。だからこの世に理想の国などをはできない。それを求めるのはいいとしても実現するのは神の国で神自ら治めたときなる

神はそれを約束して実現するからである。ただこの世に良きものがありそれを追求する。悪しきものに汚れないようにすることが大事なのである。聖なるものというとき人間が聖なるものとならねばならないのである。神の御意にかなうものとなるようにしなければならない。そこにこの世に生きる意義があるとなる



相馬新報(小林勇一): 天皇とは何なのか、その在り方を問う (政教分離がここでも問われている―国民の総意に大衆に踏みにじられる聖なるもの) (musubu2.sblo.jp)



2023年08月08日

村は大きな家族だった (広域化グローバル化で心の繋がりは消失―モノが入っても心は繋がらない)

村は大きな家族だった


(広域化グローバル化で心の繋がりは消失―モノが入っても心は繋がらない)


●家族の範囲が狭すぎる―昔の村は大きな家族だった


今家族に何が起きているのか?家族のつながりが弱くなっている。それはなぜか?家族だけの繋がりでは足りないからである。ファミリーとはは大きな集団のことであり夫婦とか子供とか祖父母とかの家族ではない。もっと大きな集団のことである。それは村社会と似ているかもしれない。村というのはある意味でファミリーであり家族とも似ている。だから何かあると助けあうのである。農村社会であるとどうしても互いに助け合わないと仕事もできないしその共同体も維持できないからである。そのために村に生まれた子供は村全体の子供となる。


出生〜幼年期では、「帯の親:オビノオ ヤ/取上げ親:トリアゲオヤ/乳付け親:チツケオヤ/抱き 親:ダキオヤ/名付け親:ナツケオヤ/拾い親:ヒロイオヤ /守り親:モリオヤ/養い親:ヤシナイオヤ」の 8 つの事例 を取りあげる。次に、成年期以降では、「烏帽子親:エボシ オヤ/鉄漿親:カネオヤ/仲人親:ナコウドオヤ/職親:シ ョクオヤ/草鞋親:ワラジオヤ」の 5つの事例を取りあげる。 仮親制度には、親が子どもの成長を願う思いの表れとして、 呪術的な要素と社会的な要素の 2つの意味合いをみることが


これだけ村で生まれた子供には周りの人が村人が関わっていたのである。それは明らかに村という集団のコミュニティの一員として育てるためにそうなったのである。


現代の問題は家族の範囲が狭くなりすぎたのである。核家族化がそうである。ついには親一人、子一人とかになってしまった。シングルマザーが子育てするにも一人なのである。また老人でも孤独死が多くなるのはこうしたコミュニティが喪失したからである。ファミリーの語源が。実はかなり広い範囲の意味であり集団のことだった。


そうなったのはまた社会経済の構造があまりにも変化してしまったからである。今や村と言う500人くらいの単位の社会ではない。広域化してさらにグローバル化して世界の経済の中に組み込まれる。すると別に村の中でそうしたコミュニティとかに入らなくても暮らしていける。物でも世界から入ってくるのからなんでも買える

かえって村の自給自足的な生活だったらものも買えないし。生活すらできなくなる だからこそ村八分にされることは一番厳しい罰だったのである。村のの自給自足的な生活では物が買えないし、入ってこないからである。だからこそそういう背景があり村のつながりとか小さなコミュニティーの人間の繋がりは消失したのである。


だからしきりに戦後間もなくまでは醤油がないとかでも味噌がないとかでも隣の人にくれとかあり助けてくれと言えばもらえたとかいう人がいる。それは物がない時代でありみんなが貧乏だから、かえって助け合ったのである。

今は金がないとどうにもならない。隣に何かそんなものをくれと言ったら応じる人はいない。醤油もないのかとなって馬鹿にされるだけになってしまった。何か助け合うということがなくなり常に金だけが問題になるのである。


現代では金がないということはどれだけ苦しいことかわかる。隣近所する無関心であり何も金で買えばいいとなってしまうからである。

そしてあとはに福祉に頼れと言うだけなのである。奇妙なのは福士に世話になっていた人は私が困った時その人自体が福祉に頼れと言っていたのである。その人はまともな人ではなかった。でも助けたことがあったし、その母親にの親は助けられたので助けたのである。その人は死んだ。


●広域化グローバル化で地域の繋がりが希薄化


現代とはあらゆるものを買う社会である。水すら買っている。だから金がなくなれば生きていくこともできなくなる。でも子供の時使っていた態度が井戸があり今も水が出ている。夏でも冷たい水が出ている。

天然の冷蔵庫から出ているのである。

それはこの辺の原発事故でも放射性物質に汚染されていないと持ち主が言った。検査したのでそれは確かなのだろう。その水が無料だということに感心した。無料で使っていいと言われたからである。子どもの時もそうだった。それは子供の時から持続して水が出ていたのである。その時は風呂場でその水を利用して使っていたのである。だから金わからなかったのである。今は水を飲むにしろ使うにしろ金がかかるから金なしではもう何も出来なくなってしまったのである。


何か近くに味噌屋がある。前だったら必ずそのみそや辛味噌を買っていた。味噌はそこで作っているからである。でもそこから今は買っていない。一人であり出しつきでないので買っていない。スーパーでいろいろだしつきの味噌があり。味噌でもいくらでもどこの味噌でも日本中から入って来て買える。こうして近くは重要なものとならないのである。また近くと関係しなくても金さえあれば何でも買えるそこで田舎からだと言って何か助け合うということもないし。身近で何かを賄うというよりただ金を出してさえいれば何でも買える。通信販売も発達して商品の量が種類が莫大に増えたのである。金さえあれば別に近くにいなくてもなんでも買えるとなる。


ただ自転車とかは後の修理とかあるので困るのである。この辺の街の一軒の自転車の人は死んだから誰もその後見てくれる人はいない。そこでなかなか金だけでもあらゆるものが使えるとはなってはいない。こうして経済が広域化してグローバル化すると近くは大事にならない。それは交通の発達にもよる。なぜなら近くの人が梨を作っていたが相馬市まで運ぶのに15キロぐらいありリやカーで運んでいたからである。そうなると運ぶこと自体が大変な苦労になるしそれを売って金にするにも大変な労力が必要になっていたのである。でも今なら運ぶことはいくらでも簡単とは言えなくても車で運べる。その変化も大きかったのである。


なぜ無縁化社会といわれるようになったのか?無縁化社会になったは神社で無縁の場を作りそこで外から入ってくる人に商売させた。それは外から入ってくる人がいると村のコミュニティがつながりが壊されることがあるからである。それでそのような外から入ってくる人を限定するために、そうしたのである。

それは確かにそうだったのである。もはや外国からでも食糧でもなんでも入ってくる。すると村だけで何かを賄うという社会とはまるで違っている?でも実際は外国からいくらものが入ってきてもその人とつながるわけではないのである。ただ物だけが入ってくるのである。でもその物が欲しいとなれば、金が必要になってくるのである。そこで金がますます重要になってくる。人のつながりより金の方が大事になってくるのである。


ただ昔からの切れ目が縁の切れ目ということあり貨幣経済がひろがるとそうなるのが必然なのである。 外国からいろいろなものが入ってきてもそれでその外国の人間とつながりが共同ができるというわけでもない。その人は直接会うこともないしただ物を通じて外国と関係しているからである。だから何かあるとその関係も切れて戦争になったりする。人間と人間の繋がりが必ずしもものを通じて行われていないからである。

ただ、人間は金だけを頼っては生きていけない。金で全部まかなえるということはない。それは介護の時如実に表れてくる。金が物を言うということはある。でも金だけで親身になった世話はできない。そこに心が伴わないとどうしてもうまくいかない。


●物が世界から買えても心は繋がらない


でも逆に今親子でも必ずしも子を育てるより虐待したり子供でも大人になると親を虐待するようになる。老人になると力逆転してくるからである。親が虐待されているので。何かその息子は親をこき気使うというか他人のようにしか思ってない。

それで親は泣いていたのである。息子から虐待されていたのである悲しいとなる。でもそういうことは今の時代に起こっている。誰に頼るかということがそれで問題となる。その女性は息子に頼ったのだが虐待されているのである。言葉の暴力であるババとか親を病気をした親を虐待しているのである。ただ他者も家族はわかりにくい、どうしてすなるのかとなると外から見tてわかりぬいからである。


こういうことは自分も親の介護で嫌というほど経験した。 私のところに来たのは事業で失敗した人とかで金がないという人である。頼ったのはそういう人たちであり一人はれっきとした泥棒であった。それで家探しされて大金を失った。ほかの人もなんら助ける気持ちなどなかった。多少はあったがただ金が欲しいというだけできたのである。つまりそういう人にしか頼れなかったというのも自分のカルマだったのである。


ほかの人も誰に頼るかということは、老人にとって大きな問題なのである。家族がいれば息子がいれば娘がいれば兄弟がいればとなるがその人たちが助けるとは限らない。かえって嫌がられうとまれる。親が捨てられるそういう事例を知っている。その娘はひどい娘であり親が私に最後にひどい娘だと言って来てまもなく死んだのではある。その娘は介護などできない。だからそんな娘に頼ることはできないから、死んだ方がよかったのである。

こうして誰に頼るかが最後に問題になる。でも家族の範囲が小さくなるとなかなか大家族のように人手に余裕がないから介護でも面倒見れなくなるのである。 これは肉親でも同じなのである。


別に遠くから外国でも物が入ってくることは悪いことではない。でもそこで人の繋がりが出来るわけではない。だから何かあると物が入ってこなくなる。そして戦争にもなる。だから物が入ってきても互いに貿易してもそれで繋がりができるとは限らないのである。食料不足にな自分の国が最優先となり食料は入ってこないのである。 そこにグローバル化の問題がある。ただ物が入ってきて悪いということではない。問題は人間の繋がりが物が入ってきても。生まれるわけではない。それはあくまでも物のやり取りだけであり。心のやりとりは交流は無いのである。だから、金の切れ目が縁の切れ目になりやすいので。それは今の社会でどこでも起きていることである。


親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ (親より今は金が大事な時代): 今日の一句一首(小林勇一) (musubu.sblo.jp)




posted by 天華 at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年08月07日

買い物の失敗 (商品を奨める人に左右される―通販でも自分に合ったものが買えない)


買い物の失敗

(商品を奨める人に左右される―通販でも自分に合ったものが買えない)

買い物では必ず失敗がある。それはどうしてかというと機械でも道具でも実際に使ってみないとわからないところがあるからである。使ってみてはじめてわかるからである。

でも店に行ってその商品を勧めるときその勧める人の影響が大きいのである。その商品について聞くとその人の説明することは商品を買うか買わないかに大きく左右される。

ヤクルトの商品を買おうとしたら何かそれがわからなかったのは炭水化物であることがいわからなかった。何かジュース類というのは砂糖などが入っていて飲むとかえって疲れる。


その商品は朝鮮人参とかクエン酸とか?入ってるとかでいいように見えた。でも炭水化物だと甘いしいいものでなかったのかもしれない。でもそこまで説明されると買う気にはなれな。だからなぜあえてそういうことを言って進めないのかというのが不思議だとなる。ただ、その女性は誠実であり何でも売るという。強引さはない。かえってそういう人が信頼される。


カメラ店のキタムラではやはりどんなカメラが良いのかと聞いて、これがいいのかと買うかと思ったが。店の人は進めなかったなぜなら写真を主にするならプロムのような動画を主にしたものは向いてないと言われたからである。

そしてカメラ自体の画素数などはあまり変わらずいろいろなものを付け加えているだけだとも言った。普通、そんなことを店の人が言わない

なぜならそう言われれば買う気になっていても買わなくなるからである。でもその店は誠実であり正直に言っているのである。

つまり何か客はこういうものが欲しいというときなかなか分からない。でも売った方が良いのだからこの人には向かないとかなっても売るのが普通である。


通信販売だとどうしてもその商品について売る人から聞くことはできない。説明はしても売る人は説明はしない。その代わりにその商品を使った買って使った人が。いいとか悪いとか書いてある。それが判断基準になるのである。ただ、商品というのはその人に合ってるか合ってないかはその人が買って使ってみない限りわからないのである。通信販売で失敗したのは小さいものだったら良かったかな大きすぎたのである。使った人がレビューしたのを読んで買った。でも前の小さい方は自分にも役立つものだった。それは大きくて一人の自分には向いていなかったで。そして使ってみるとなかなか電気が回らず熱くならなかったのである。それで失敗した。これは結構高かったから損した。


また近くの量販店ではレンジを買った。そのレンジは何か色々な事ができると書いてあった。天ぷらのようなものも何かできるようなことを書いてあった。それは3万もしたが。これ普通のレンジとしてしか使えないものだった。それを勧めたのは店の人だった。それといろいろなことができると誇大広告にもなっていたのである。だから店の人がもっと説明すればよかったと思う。そんなにいろんなことができないものだったからだ


何か商品でもなんでも進めるときその人に合ったものが必要なのである。でも売る人にとっては、その相手が何を欲しているかあまり聞かない近くのお店では田舎の店は商品が少ないから自分に合ったものを買うことは難しい。

特に自転車について折りたたみの電動自転車は外国製でもさまざまなものが出ている。でもそれを買うことは難しい。後の修理とかあり何かあると直してもらえないからである。それで買いたいのだが買いにくいということがある。


要するに買い物はその人に合ったものが必要なのである。でも田舎の商店ではその商品をみんな揃えることはできない。でも通信販売だと選ぶことができる。でもそこでも失敗するので特に着るものでも合わないことがありそれで失敗していることが多い。

ただ、普通は相手のことなど考えず商品を売る人は売ればいいという感覚になる。 相手に対してどういう商品が必要なのか?その商品がどういうものがどういう機能があり?どういうものなのか詳しくは。説明しない。なぜなら商品の種類も多く売る人もよくわからないからだと思う。


ともかくなぜ金融商品が詐欺的になるのか?それはその金融商品が余りにも複雑で理解できない。説明する方でもわからないのである。株など説明できる人がいるのかとも思う。地銀などその金融商品について投資信託であれ株であれ実際は分かっていない。わかっていないものを売るのだからある意味で詐欺なのである。普通だったらヤクルトの人がそれは炭水化物ですよと言っただけでこれは甘いなと分かる?


でも金融商品となるとそれを説明されてもわからないのである。第一株など専門家すらわからない。だから、もしそれで客が損しても売る方の責任にはならない。株が上がったり下がったりするもんですよで終わりである。要するに金融商品を売る人はその商品についてわからないしだからただ売ればいいというだけであり適当に説明して儲かるようなことを言うだけである。そして手数料を取ることだけを目的にしている。 だから今や地元の田舎でも郵貯でも農協でも地銀でも金融商品を扱っているがそれで詐欺まがいのことをするようになった。本業で儲けられないからそうなったのである。


でも売る方にしてみたら売りたいのである。だから買ってくれないようなことを言うことは?普通はない。でも実際ヤクルトとかキタムラは私は買おうとした商品をいいものでないとしてあっていないとして説明されて買わなかった。ただ売ればいいというだけでなくどういう商品なのかを相手に伝えてそれなら買ってくれということになる。ただ、売ればいいということではなかった。


商品を買うということは必ずしも売る人だけが責任あるわけではない。やはり買う人が責任になる。よく調べて、自分に合ったものを買う必要があるからである。今なら通信販売があるから様々なものから選ぶことができる。ただ通信販売でも高いものとなると簡単に買えない。失敗したら大損になるからである。 ただ、メーカー品などは信用しているから買う。それでもその商品があうかどうかは分からないのである。


とにかく今は商品の種類が多すぎてすぎて買うのも迷うのである選ぶことでも大変である。そして買ってからも操作が面倒で使えないというものも出てくる。だから今の買物というのは次から次と勝っていたら金がいくらあっても足りないとなってしまう。なぜなら高い買い物で失敗したらでは次にまた買えばいいとはならないからである。そのリスクが大きすぎるのである。


だから自分で判断できないものは買うべきではないとなる。でも普通の品物だったらある程度は判断できるる。金融商品のようにはならない大きく損することはない。それはある程度は見分けられるからである。そして買っても十万以下でありそれ以上の物を買っていない。何か怖くて買いないのである。高いのでも5万くらいだった。十万となるとリスクになる。それが買ったからといって損になるものでもない。

でも不安になるのである。 いくら商品が多いからといっても一つを選ぶとなると難しくなる。一つ買って失敗したらまた別なものを買うということができないからである。それで今の買い物は商品が多すぎるから困るのである


通信販売のレビューにしてもそれが全部。本当なのかどうかも分からない。 


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五つ星で評価したらpaypayで3000円うれるとある。これも別に高評価にしなくてもいいが金をもらえばどうしても悪いことは書けないとなる。だからこれも問題だと思った

とにかく金でいいレビュー書かせるのも問題である。何かこうしてすべて金で左右される。通信販売でもレビューが正直に書いているとは限らないのである。ただこの商品が悪いものではなかった。ただ金をもらったら悪いことは書けなくなるのは確かである。


2023年08月06日

文系大学はいらない、理系と文系とは何なのか (原発事故ではあらゆる学問が必要になった)


文系大学はいらない、理系と文系とは何なのか


(原発事故ではあらゆる学問が必要になった)


●中世の大学は神学部、法学部、医学部だった


米国において官職・公職に就く方法が次の2つだからです。ひとつは富を持っていること、もうひとつは適切な信用保証を持つことです。最も優れた信用保証が法学の学位なのですね。それゆえ、政治家になりたい人たちはロースクールに行くわけです。

予言者と呼ばれた進化人類学者が予測「米国には“終焉の時代”が訪れ、共和制は衰退する」(クーリエ・ジャポン) - Yahoo!ニュース


文系大学がいらないと言う時それは社会に出てほとんど役に立たないからである。モンゴルが侵略して殺されなかったのが職人だった。職人はやはり役に立つから殺さなかったのである。また日本の戦争でも太平洋戦争でも学徒出陣があり理系の学生は強制されなかったのである。職人も理系でありそれは社会に役立つものであり認められたものである。

文系理系と簡単に言うけどそれは命にもかかわるものだったのである

そもそも歴史的にも物つくりは理系だからである。石器を作るにしてもその石を見分けねばならない、石器でも黒曜石が貴重だった。


ただヨーロッパの大学で中世からあったのは神学部であり法学部であり医学部であった。この三つから大学が始まっている。文系の場合は神学部と法学部なのである。ただ現代になると神学部は宗教となるがそれはなくなった。でも不思議なのは大学でも宗教系の大学は多いのである。ヨーロッパから文明が入ってきた時キリスト教系の大学は増えて作られた。また今でも仏教系の大学が多い。文系がいらないというときなぜこんなに宗教系の大学が多いのかとる。


そもそも文系がいらないというとき宗教などは無駄だからいらないとなる。医学部などは今でもそうだけ医者は特別尊敬されている。病気の問題が人間にとって一番深刻だからそうなっている。だから、もともと仏教でも病気を癒すと言うことがあり科学技術が発達しない時神にでも祈る他なかったのである。現実にキリストは奇跡で病気を治したからである。だから人間にとって医学は不可欠のものとなったのである。


それから法律というのも今でもそうだが現実社会で不可欠であり実効性があり弁護士資格を持てばそれは社会で実際に役立つものである。その他の学部は経済学部とかあってもそれは何か役に立つということはない。一種の教養となる。実業とは結びつかないのである。私は経済学部で何もほとんど学んでいない。なんだ何か知らないが。マル系の人がいてマルクス経済学が教えられた。でも実際は何か経済学といっても何を学ぶのかもはっきりしない?ゼミでも1、2回教授が来ただけであり。教授は授業にすらしない教授とは一体何をしているのだろうとなる。文系だと何の研究をしているかもよくわからないのである。結局、ただそこでは遊びの場であり時間潰しの場になっていたのである。


●文系は教養である―独学できる


私の場合は奇妙だけど実際は宗教学部に入ったと同じである。カルト教団に入ったからでそれは全く大学でないか教育するということがないからそうなったのである。そもそも教授でも一回くらいしかあっていないからである。


大学とは自主的に勉強する場合であり。何かを教えるという場でも無いのでだから高校から大学の変化があまりに大きすぎて文系の場合はおかしくなる人がいる。ギャンブルに費やされたとかカルト教団に入って費やされたとか学生運動で暴力となり青春のエネルギーを発散させたとかなる。もともと文系は何を学ぶのかも明確でなくて入ってくるからである。理系の場合は少人数で実験を必ずしなければならない。レポートをさなければならない。そこで遊んでる暇などないのである。それは職人でも同じである。知っている人は大工さんは十代から修行して技を身につけたからである。つまり職人は理系でありそれは実社会で役に立つ金になるからである。


文系というときそれが実社会でどう役に立つか見えないのである。経済学部に入ってマルクス経済学を学んで、何がそれで実社会で役に立つのそれもわからない。むしろ高卒で銀行に勤めた人の方が直に経済というものを学ぶのである。ただ法律は現実の社会で役立つものであり別なのである。文系は法学部を除いて教養なのである。一般常識を身に着けるだけである。それは社会で直接役に立つものではないのである。


建築関係なら経営できるようになれば設計できるようになればやはりそれは実社会で役立つのである。


「art」は英語だけど、さらに語源を遡るとラテン語の「ars」なのね。

この「ars」には、「技術」や「資格」「才能」といった幅広い意味があったの。


このうちの「技術」には、「人の手を施して装飾する」という意味合いも含まれていて、これが現在のアートの直接の由来になっている。


ただ、この時点では「人の手を施すこと全般」が含まれていたので、医術や建築工学、学問までもが含まれていたのよ。



人の手を施して装飾する」というときそれは職人であり意外なのは医者もartととして含まれていた。人の手を使い病人を見て直すからだちなる。

ともかく今のアートは実用的なものとしてあった。今のアートは実用から離れて画家とか音楽とか特殊なものとして見られる。でももともとはアートはあらゆる実用的なもののとしてあった。


何か時代をさかのぼれば遡るほど。一つの言葉で広い分野のものを指している。時代が進めば進むほど専門家して言葉も違って使われるようになったのである。


●宗教は宗はむねなるもので古代からあった


宗教は古代からでも原始時代からでもあった。縄文時代でも宗教はあった。それは祈る姿の土偶が発見されているからである。つまり人間は無力だから神に祈ることになる。病気は深刻であり医療も発達していなければ神に祈る他なかった。だから仏教とか神道でも加持祈祷があり民衆は頼ったのである。


中世の大学は医学部と神学部と法学部だということはそこに大学のオリジンがある。ただいまの大学と違っているのは神学部が重要視されていたことではそれは明らかに文系なのでる。文系不要論を言うとき今では神学部はいらないとなる。僧侶はあれ牧師など何か社会に役に立たないそして今は地位が低い。でもなぜ神学部が重要視されたかというと、やはり人間は生きる根本として宗教は必要であり。神を知るということは一番大事なことだからである。この世の中、神などなくして成立してなぜ神が必要なのかとなるからであるなっている。


実際奇妙だが私は大学に入っても創価などのカルト教団に入ったともなる。

そこもまた宗教とはなんの関係もない場所だった

そこは選挙をのためにすべてあり宗教は御利益のためであり人間がなぜ死ぬのかなど追求する人はいないのである。そこでは政治家になりたい人や現世でとにかく成功する地位を得る金持ちになるそれを異常な熱意で追求している。世俗より世俗的な場である。それは別に宗教を看板にしなければ社会ではそれをとがめたりしないのである。

その人は世俗で成功する、金でも女でも得るためにあからさまなのである。別にそれは世俗では普通のことでありとがめることもないのである。でも宗教を看板にすると矛盾してくるのである。


人間の最大の問題は人間がなぜ死ぬかということである。


ここは科学技術かいくら発達しても解決できない。なぜなら永遠の命を与えるのは神しかできないからである。だからいろいろな知識があっても技術があっても一番優先されるのは当然なのである。ただ宗教はいくら学問してもわからない。何も聖書を読まない人すら聖霊を受ければ一発で分かるのである。だから神学部などは無用だとなってしまう。いくらそこで学問しても神についてはわからないからである。それは文系が要らないと同じである。それ文系の学問はそもそも独学できるものでありだからこそ文系大学だと遊びの場に暇つぶしの場になっていたのである。。


むしろ教会とかに行っても牧師に説教されても理解できない体験からしか理解できないからである。理系の学問となると、それは現実社会と結びついて実効性がある。文系はそもそもそういう風に社会で役に立つものでもない。ただ社会で役に立たないからといってに無駄なのかとなれば、そうでもない。つまり人間が最初に知るべきものなの神がいるかどうかであり神を知ることであるからである。それは科学技術が発達しても同じで最上階に全能の神がいて全ては成り立っているからである。


とにかくドイツだと十才で職人の道を行くか大学に行くかきめられるという。学問に適しているかどうか10才できめられるという、それも早いと思うが社会では効率的になる。なぜなら職人でも技を身に着けるのは10代になりそれも早い時期だないと見に着かないとされるからである。文系の大学はそれで何の役にもたたないとなる。


●原発事故ではあらゆる学問が必要になった


ただこの辺で起きた津波や原発事故は理系が中心であっても文系的なことも必要であった。それは学問の全般的なものに及んでいたのである。そのことを私は追求してきた。でも理系でないから原子力の事、放射線のことなどわからなかった。でもそれ以外でも広範囲にあらゆることが関係していたのである。郷土というの特定の好事家が追求するものと思っていたがそうでもなかった。なぜなら相馬藩内で400年前にやはり慶長時代に慶長津波がありこの辺でも700人溺死したという記録が残っていたからである。それはたった二行だったけどそれがいかに貴重なものだったか津波が来て原発事故になり認識されたのである


そのほかにもこの土地特有の問題があり原発の時不運にも春になると海から東風が吹きそれが風に乗って飯館村とか福島市まで放射性物質が運ばれたのである。それで放射性物質が風に乗って流れるということを知らないので浪江町の町長は一番放射性物質が多く流れた津島に避難したのである。そもそも東電では事故はないと安全神話を作っていたのだから事故が起きたときの備えなど何もしていなかったのである。それで最初に頼ったのはアメリカだったのである。日本の技術者はお手上げとなり、何もできなかったともなる。


でも現実東電に働いてした人は避難するとき海の方は安全だとして山の方に向かったが、引き返して海の方に避難したのである。だから、やはり東電の人は放射線がどういうものか知っていたのであっる。でも地元の町民には知らせなかったのである。秘密のベールに隠されてのである。ただ安全神話を作りそれで安心していたというのも大きな怠慢だったのである。

このように津波原発事故でわかったことは理系文系だけで分けられない総合的なものして郷土でも見る世界でも見ることが強いられたのである。ただ、それを見るとしたら、とても一人の人間では不可能であった。そんな知識を持っている人などいないからである。 それを知りうるのは全能の神しか無いともなる。そこに人間の限界があり。原発は人間が操作するできるものでもなかったのである。


元々宗教とは旨(むね)なるものであり総合的なものとしてあった。現代は無数のもの分化してパーツ化して全体を見ることができなくなったのである。でも一地域であれそこに生態系があり歴史がありそこには地質学も関係してさまざまなことを総合的視点で見る必要があったのである。原発となると、やはり理系が中心にしても文系も関係していたのである。


だから理系と文系を分けて文系がいらないということにはならない。でも現実問題として文系大学などいらないというとき文系は独学できるからである。実験などもしないしただ本を読むということが基本になるからある。それでそれで現実それで大学文系大学は教授が何も教えないという場所だったというのも奇妙なのである。要するに文系大学には教授などいらないのである独学できるからそうなっている。するとただそこが遊びの場となり必要ないとなるのは当然である。ただ体育系とか友達を作るとか何か学問以外での遊びの場でもそれが人生にとって無用の場ともならないのである。でもそんなところに国で金を費やすのは無駄だとの今はなる。そんな余裕がもはや国にはないからである。


●文系大学は国で金をかけるのは無駄ーただ文系的なものは必要


 だからドイツのように十歳で職人になる人と学問を追求する人を分けるということも社会にとっては効率的になる。別に文系なら独学できるからである。それより文系の大学だと何かテーマも持って追求する場であり。そういう。テーマも何も持ってない人は大学に行っても何を学んでいいかも分からなくなる。私はむしろ大学を卒業してから学ぶ事が多かったのである。大学卒業してから旅に費やされた。それで地名に興味を持ったのである。そんなこと大したことない。実用性がないといえばそれまでである。


 ともかく文系理系というとき医療の分野でも関係している。医者は理系であり薬を飲ませ治療する手術もする。患者を見るときそこには必ず精神的なものは作用する。医者でもただ金を払ってくれる患者として金儲けのさせてくれる人間としてしか今は見て医は算術となっている。だから病院は無機的な空間であるそこに精神的安らぎがないのである。それで家で死にたいというときはなぜそうなるのか?家というのもまた単なる建物ではないのである。建物を建てたのは職人である。でもそこに魂を入れるのは人間だとなる。何か家は物的な建物というだけでないものがある。


ここで人間が暮らした歳月があり家にはただ雨露を凌ぐというだけではないそこには不思議に愛というものは通い合っている。家族が死んだ後も愛が通い合っている。愛は消えないのである。だから家族が死んで13年経っても必ずしもその人の形はなくなっても見えないところで愛が通じあっているという感覚を経験する。それは説明できないものでもある。でも家にこだわるのはそういうことがあるからだと思う。死んだ家族が依然としてその家の中に居るという感じになる。だから建物は物体でありでもそこに通いあうものは愛でありそれでそこに家は単なる物体だけとはならないのである。


だからそこでも理系と文系の問題があるかもしれない。それで物と心は一体であるというのは東洋的思想である。物に憑につくというとき心が憑くということになるからである。それはやはり科学でも説明できない問題なのである。だから理系と文系とかで明確には分けられない。ただ、文系は別に大学に行かなくても教養であり本を読んでいればわかるのである。それで文系がいらないというのはそうして特別に大学という場でなくても学べるからそうなっているのである。 









posted by 天華 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育心理学など

2023年08月04日

空家の庭と芙蓉の詩(夏菊、鬼百合、夾竹桃)


空家の庭と芙蓉の詩(夏菊、鬼百合、夾竹桃)

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海老への道

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このカメがいいのである

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すべてクリック拡大―鮮明に見える


夏菊や海広々と見える道
夏菊や海に向かいて走りゆく
鬼百合や今日も雷なり野を走る

芙蓉と空家の庭の石

大石はその地に根ずいたように
どっしりとそこにある
芙蓉が咲きのんびりとそこにいた
芙蓉は笑っている姉のように
おおらかに芙蓉は咲いている
海から涼しい風が吹き
夏の雲が山に湧き上がり
ここに石は動かない
でも津波に家は流され人はいない
その庭だけが残されている
雉の親子が入り込み
この庭だけが往時を語っている
またここを訪ねて暮れぬ

右田の野球場の近くに津波で流された家の庭が残っている。その庭には大きな石がいくつもありずいぶん立派な庭であること知った。その庭は津波の前でも知っていたが中に入ることができないのだから庭のことは外から見ていたからこんなに大きな石の庭がいくつのあったことでその石をじっくり見る。でも不思議なのは家にはあまり価値を感じられない。空き家でも古民家とかには価値がある。でも普通の空き家は価値がない。あるのは庭なのである。庭が立派な庭であればその方が価値がある。

津波で家が流されても石の庭は残っていた。そこにはいろいろ花も咲いていた。小さい畑もあってそこに花が咲いていた。いろいろな種類の花が咲いていた。そこに人は住んでなくても今でも咲いて小屋のようなのようなものがあるからその庭を誰も見てないというわけではない。空き家を見る場合。家にはそれほど価値あると見えないのである。でも立派な庭だと価値あると見る。

大きな平板な石がありそこに芙蓉が咲いている。それがなんともなくいいのである。芙蓉は花が大きく何かゆったりとした気分になる。それで私の姉のことを思い出すのである。姉は大らかな人でありいつも笑っていたからである。認知症になってからは悲惨だった。その笑いも消えたたからである。ただ姉にしても他者に親切だったとは言えな。だから意外と認知症になってからは誰も来ないし。死んでからも姉を偲びに来る人もいないのもそいうことがあったからなのかとなる。

私の母は性格的に何か苦労しすぎて余裕がなかった。働き詰めの一生であり子どもの時も遊んだことなどなかった。なぜならいつでも店で配達させられていたからである。それはみんなそういう時代だったのである。学校すら農休みがあり農家が忙しい時は学校も休みになったからであある。農家の子供もみんな働いていたのである。そもそも戦前なら子供はみんな働き手として育てたのである。そして親のために働かせるために育てた。それはまだ遅れた国だと日本に出稼ぎに来て親に仕送りしているのでそういう時代的に同じだとなる

ともかくそれぞれの家族の影響は大きい。家族もみんな違って私の家族は特殊だった。でも私が母だけにだけに育てられたらいいことはなかった。母は私と似て神経質であり、陰の性格だったからである。だから意外と親子でも性格的が合わないことがある。うまくいかないということもある。母の神経質的なことが細かいことにこだわることが嫌であり合わなかったからである。だから不思議なことは姉は大らかであり自分をにとってはいいものだったのである。ただ、そのマイナス点もあった。何かあまりにも自由放任にされたのでそれで問題がおきたのである。


いずれにしろ人間が形成されるには親と子とか兄弟とか姉妹とかまたは周りの人とかの影響がある。親と子だけですべてを賄うというか事足りるということはないのである。そもそも家族だけではいずれ介護とかなり。持できなくなる。家族でも昔のように大家族なら誰かが手が余っているから介護もできたかもしれない。今は家族でも核家族とかなり極めて狭い単位のものとなっている。ファミリーとは家族のことではない。大きな集団のことであり一族というか血縁でなくても小規模の会社のようなものでもあった。そういう大きな集団のコミュニティだとかえって何かあればその大きな集団の中で賄えるということはあった。 

とにかく芙蓉の花は大きく咲いてゆったりとさいているからいい、
夾竹桃も咲いていた

和名のキョウチクトウは、漢名の「夾竹桃」を音読みにしたのが語源で、漢名は葉がタケのように細く似ていること、花がモモに似ていると中国人が思ったことに由来する

確かに葉っぱ竹の葉のようにとがっている。花の名前は葉の特徴からつけられたものが結構ある。桃がついているのは花の色からそう名付けられた。でも夾竹桃には白い花があり。それも自生していた。沖縄西の西表島だったかその白い夾竹桃をジャングルで見たことがあるからである。 その庭に植えてあったのは白い夾竹桃だった。

他にもその庭には何か知らない花が咲いていたのである。
何か空き家は眼について気になる。でも家そのものには?価値が見いだせない。庭には価値を見出している。だから、その庭に花が咲いている時依然としてその庭は生きているともなる。だから空き家が多い時空き家自体の利用より庭を何か生かすという方法があってもいいとも思う。ただ、庭にも色々ありやはりいい庭は少ない。立派な庭にするには石であれ木であれ金がかかるからである。
だから立派な庭を残した家はやはり金持ちの家だったともみる。本当に私の庭は狭いから立派な庭にしようにもできない。それでも庭があればそこに自然があり安らぐのである。


2023年08月03日

成仏するとはどいうことなのかーお盆に死者が帰ってくる (その人がどう生きたの方が大事)

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成仏するとはどいうことなのかーお盆に死者が帰ってくる

(その人がどう生きたの方が大事)

●成仏しなかった非業の死

私の父親違いの兄は交通事故で40歳で死んだ。私の家は兄をよくしなかった。母は後妻に来たからである。五年間は一緒にいたのである。その五年間は貴重だったのである。なぜならもしそうして一緒に生活しなかったら兄という言う感覚も持てなかったかrである。
兄の前の兄の実の父親は東京で会社の事故で死んだので。そしてまた兄も交通事故で死んだのである。これはカルマなのかどうかわからない。ただ、そのことは私自身に深く関係していたのである。だからそれを単なる他人事とはおもえないのである。

成仏することに非常にこだわる人がいる。創価とか仏教関係では成仏しないかするかが一番問題にしているのである。そのことで信心のことが決められているのである。ただ、カルト教団の言ってることは正直宗教とは何の関係もない。デタラメなのである。第一宗教などを求めている人なんて一人もいないからである。そこに欲が何でも叶えられとしてとして入ってきている人たちである。ただ、何か知らないが異常に成仏にこだわっているのである。

成仏を考えるとき死んだ姿ではない。成仏とは何か?それは死んだ姿とか、どんなふうにして死ぬとかとかでもない。その人の一生がその人なりに全うされたかである。その生き様の方が問題なのである。死んだ姿とかにこだわってもそれで成仏するともならない。
成仏するとはその人がその人なりにその一生を全うすることにある。その人がどういう風に生きたかが問題であり、死ぬ姿を見てもわからないのである。つまり成仏するとはその死ぬ有様ではない。その人がどういう風に生きたかによって決まるのである。何かよく言われように俺は社畜なんだよなとか言って一生を終わればその人はその一生を全うしたのか?しない。すると死ぬ時どうなるのか成仏はしないとなる。

●その人がどんな人生を生きたかが問題

とにかくカルト教団などに生きている人間はみんなロボットであり教祖のコピーとなって何らその人なりの人生など生きていないのである。だから、その人生には実際は価値はない。もちろん、その団体の中では価値あるとされるが、いずれ団体も組織も消えてしまうからである。その組織団体が消えた時、その価値も消失するのである。会社で会社から退職した時その会社での役職があっても退職すればなくなる。するとその人の価値はなくなる。だから退職するとその人の価値がなくなるのであり生きがいもなくなってしまうのである。

何故ならその人はあの価値は会社があっての価値であり。その人自体の価値というのは追求されていないからである。ただ、会社で働けばやはり何かその人なりの価値として残るものはある。でもその人が地域で何か働くことができて認められるということは?難しい。村社会のようなところだったら村という世界が農村社会だったら継続される。
だからそこで死んでもご先祖様となって、その村に生き続けていたのである。そしてお盆には死者が帰ってきて村の人たちとみんなで踊るということになっていた。それがお盆の起源だとされている。死んだ死者を迎えて一緒に踊るものだったとなる。今はそんなことは全くない。そういう社会が消失したのだからそういう祭りとかも消失するのである。時代によってその価値が失われたのである。

●40歳で交通事故で死んだ兄

兄の場合はどうしてもその生を全うされたとはならない。そこに何か無念が怨念が残っている。墓を作ったの自分の家のそばに自分の墓の傍に墓を作ったのだがお盆には墓参りするのだがその娘が一人いてもその人は兄を思う心もなくなっていた。なぜなら夫婦でもめて離婚して娘がそのために父が交通事故で死んでひどい目にあったからである。それは静岡の方であり連絡は取り合っていたが、何が起きたかその時からなかった。近くにいれば何か事情も分かって援助することもあったが、できなかったのである。それで妻の方の実家に頼ったのだがそこでもよくされなくて高校出てからすぐに東京に出たのである。。だから実際あったのは子供の時一回しかその娘と会っていない。でも母が死んだときは何回か来ていたのである。ただ、それも何か遺産があるかどうかでお金のことで。来ていただけである。だからその縁も切れたのである。

確かなことは兄の霊は成仏していない。

それはその死に様のことではなく、生き様のことなのである。十分にその生を全うすることができなかった。親としてもできなかった。それを全部私の家のせいだともならない。なぜならその当時中卒で集団就職した人は大勢いたからである。ただそう、その苦労は私よりずっとあった。だから私は後ろめたいものを常に感じてきたのである。でもすべてが私また私の家にあったのかというとまたそれもわからない。あったことはあったが、全てが私の家にの責任なのかどうかは?わからない。なぜなら結婚して離婚したという時、それもそれは私の家の責任とも言えないからである。苦労したということがあり。それで負い目を感じていたのである。

●成仏するにはその人の生きざまの方が大事

ともかく成仏するというときその人がその人なりに充分に生きれば成仏する。何か自分なりに生きない、強制されて生きる。例えば医者に向かなくても医者にされたとか色々親に強制されたり親ガチャで苦しんだりする。そして自分自身の一生をただ強制されて終わるという時、その人は成仏しないともなる。そう見れば人間の一生がその人なりに充分に個性を発揮して生きたという人は稀になるかもしれない。何か常に社会であり。家であれ強制されるからである。

まず貧乏だったら食うことが大事であり。自分なりの何か才能でも伸ばすことは不可能である。そうなると自分なりの生きられなかったということで死ねば成仏はしないとなる。それは成仏の姿ではなく一生をどういうふうに生きたかである。まずカルト教団などはまったくの奴隷でありロボットでありその人なりに生きている人は一人もいない。同じ制服を着て同じ事を語っている。そして教祖の命令のままに偶像崇拝となり決して成仏はしない。だから成仏などにこだわるのはバカらしいとなる。その前にロボットの人生とか生きたとしても成仏しないのである。

私の母親は確かに100歳まで生きたがその死んだ姿も何か笑っているようで姿から見れば本当に成仏していた。ここに苦しい表情もない。私にはいつも楽に死ねたらなと言っていた。それは叶えられた。でも母親が本当に母としてまた女性として人間として充分に生きられなかった。常に働くことを強制されて働くことしかなかった。花を買うより庭に花を植えるよりそんなものいらないとして怒っていたのである。つまり花に価値を見なかったのである。これも寂しい人生であった。ただ、それは大正生まれでただ働かされるだけだからそうなったのである。

だから、また母も人間として女性として充分にその生を全うしたとはならない。もっと花に興味を持ったり何かただ働くだけだの人生でなければよかった。そうして人間とは最後に問われるのはその生き様であり成仏の相ではないのである。もちろん成仏の相が悪いと何か確かに気分いいものではない。でも私の母親は?そうして充分に自分なりに人間として生きたということはない。でも成仏の相は良かったのである。

●怨霊となる死者

いずれにしろ不慮の死非業の死は成仏していない。だから何か墓参りするにしてもそもそも成仏していないから。心、苦しいものみなるある何か圧迫される感じになる。その人なりに一生をを生きていればそうはならない。不慮の死非業の死でありそのことが頭にあり、解消しないのである。

だから、そうして。非業の死を遂げた人とか事故で死んだとかいう人はその魂はこの世に未練を残しそしてまたまた呪いともなっているかもしれない。そのためにその呪いを恐れて死者をを祀り慰霊する。靖国神社が戦没者の慰霊のなっているのがそうである。そこには生きている人たちが何か後ろめたいことがあり死んだ人の霊を鎮めるためにそうなったともなる。私自身も兄については同じことを感じているのである。成仏していないからやはり心苦しいものとなってしまったのである。でも一旦死んだ人を引き戻すこともできないしどうにもならないことである。 

死者がお盆に帰ってくると言うけどやはりこうしてその人なりの一生を生きない人は非業の死を遂げた人は成仏していないし。その霊は死者が帰ってきても村の人と笑って盆踊りをするようなことはしにくい。 ただ、今は盆踊りでも村という共同体が消失しているからなかなかこのように御先祖様とはならない。つまり死者を供養するということはやはりその生活でも継続したものがあり。それで死者を供養するということになるそれが祭りにもなる。

今はそうして昔の村のように継続する共同体というものがなくなっている。 だからこそ家すら家の共同体すら消失して墓を守る人もいなくなり。墓じまいが問題になるのである。村に生活するということがなくなり広域社会になった時さらにグローバル社会になった時そういう時間の中で形成される共同体は消失したのである。そのとき死者もその村の中に御先祖として生き続けることもできなくなったのである。 
つまり現代は空間がグローバルに拡大した。でも時間軸で形成されたものが失われたのである。
ただ一方で死者ももうこの世に帰ってきてほしくない人も多い、人を苦しめた人もいるし死んでも恨んでいる人もいるからである。だから家族でなかったら死者でも帰って来て欲しいとかみんなならないのである。

●死者がお盆に帰ってくる―御先祖様になっていた死者

つまり今は死者が継続される場がない。すると死者はどうなるか?幽霊のようにさまよっているかもしれない。御先祖様になったときはそこで継続して生きて生きている。でもその場がなくなったとき死者はどこに行くのか?死者の魂は誰が鎮めるのか?何か成仏しない人の魂は他者に害を与えるということがあるかもしれない。何か非業の死を遂げた人の霊を鎮めるために神社を立てたりした。死者が怨霊となり呪いとなることを恐れたのである。兄の場合はそういうことを感じる。
死んだらみんな御先祖様となった迎えられるとも思いないのである。

でも私の姉と母も死んだがそこには感じないので。父親でもそうである。遺影はは笑っていて笑っていて何か依然として家族とあるような感じがする。だから何かそこに成仏してはしないとは思えない。でも実際、家族でも何か?成仏していない恨みを残して死ぬ人もまたいるのである。ある母親は娘に対して【ひどい娘だわ】と呪いの言葉を残して死んだ。その娘は本当にひどい娘だったので。母親はそれなりに愛して育てた?実の母親ではないにしろ実際はその人は母親になっていたからである。でも何かもめて母親が病気になったときも何の世話もしない捨てたも同じである。ただ、母親は白血病で呆気なく死んだのである後の葬式はしたとして葬式だけなら簡単だからである。介護となると、その娘、何もできない。

実の母親は五歳で家を出て行ってその娘を捨てたのでる。だから、その母親を母親と思っていな。ただ遺産があるので、それが欲しくて老人ホームに入れているだけなのである。第一、その実の母親は認知症であり何かわからなくなっているから悲惨である。
家族でも親子でも問題があるのは人間である。そこに確執があり、争いがあり親子であっても兄弟であっても何らか争いがある。平和が必ずしもない。それがが人間の現実なのである。平和がないというとき。戦争は無いというだけではない。そもそも家族すら平和がないのである。何らかの争いがあり、確執があり平和がないのである。それは私の家でも嫌というほど経験したのである。

ただ、私の家族の場合は生前は争いがあっても今は何か今は平和になっている。だか遺影は笑っているのである。でもそうでない家族もも親子も兄弟もこの世には結構多いのである。そもそもなぜ宗教は血縁を否定したのか?それの血縁でも愛し合うというだけでなく、必ず何らかの。揉め事があり争いがあり平和がないからである。それで仏教でもキリスト教でも血縁とか家を否定したこともその為だったのである。 

2023年08月02日

カルマの法則 (他者を苦しめた者は自らも苦しめられる―苦しみカルマを自覚する)


カルマの法則


(他者を苦しめた者は自らも苦しめられる―苦しみカルマを自覚する)


若い時から病気を持ち障害者の夫を世話し続けた人がいる。何か障害者を家族に持つことはカルマなのかとなる。その人のために費やされるエネルギーが半端でないからである。50歳になっても世話し続けているからである。


カルマで怖いのは親戚であれ重いカルマを持った人と関係すると必ずそのカルマを受けることである。だから結婚は好き嫌いだけで決められないものがある。結婚すれば互いに持っていたカルマから逃れられなくなる。その結婚相手の親族と深い関係となるからである。


私が家族で介護の介護で七転八倒して苦しんだのもカルマだった。兄がいたとしても私の家では良くしていないかったからである。兄は40歳で交通事故で死んだ。そのカルマが私に回って来た。なぜなら介護となっても一人しかいないのだから全部背負うことになったからである


カルマとは法則がある


あなたのした行為が必ずあなたに返ってくる


あなたが他者を苦しめたらあなたも苦しめられる、苦しめられた他者の来る知らしめるために同じ苦しみを受けてその苦しみを理解するのである。そうでなければあなたのした行為(カルマ)のことを理解できないからである。


なぜ自分はこんな苦しみをうけるのだろうか?


それはあなたとのした行為が苦しみとなってカルマとなっていたそうなった。


なぜ私はこんなに夫で苦しむのか

なぜ私は子供で苦しむのか

なぜ私は毒親に苦しめられるのか

・・・・・・・


そこに因果関係がある。つまり夫に苦しめられるのはあなたが夫を苦しめていたからでありそれが今度は自分が今度は苦しめられることになった。そして母親が障害者の夫に苦労したことを自らも夫で苦労することによって母親の苦労を自覚する。

また他者に世話になることでもカルマになる。それが恩というときそうである。恩を受けたことはカルマとなる。だから恩を返すことを要求される。恩など返さなくてもいいとなるのも普通にある。でもそうなるとカルマがやはり課される。カルマは借金とも似ている。借りた金は返さなければならない、返さないと利子がつきさらに重くなるのである。

ただカルマの大きな問題は自分のカルマを自覚できなことなのである

全く無事平穏に生きていれば自覚できないのである。

そこにカルマの大きな問題がある。


でもからカルマを持たない人はいない。必ずカルマは人間の一生の中で現われる。 そもそも苦しみとなってカルマが現れない限りカルマを自覚できないから理解できない。すると他人がなぜあのように苦しんでいるのだろうと見る。それも他人事なのである。でも自分自身が苦しむとき自分のカルマに苦しむとき他人のカルマも理解するとなる。つまり人間というものは自分自身が苦しむ無い限り他人の苦しみに同情できないということになる。自分自身が苦しまないのだから同情もしないともなる。


だから何か苦しんでいる人は互いに同情しあうのである。痛みをわかるからである。それでそういう人たちは何とかしようとして共産党であれ創価などのカルト団体であれ藁をつかむようにして頼る

それで票を集めて幹部が権力を得ようとする。別にそうした人たちに同情しているわけではな、要するに貧困ビジネスにもなる。

第一一人くらい相談にのれるがそれが10人百人となると不可能になる。弱いものはこうしてまた餌食にされることがある。


そもそもなぜ人間に災いが起きてくるのだろうか?平穏無事に終わる人生などない。今無事、平穏無事でも。いつか必ず。苦しみを受ける。人間が苦しみから解放されるのは死ぬしかない。そしてもし苦しまない人生があったとしたらそれは何か人間として大きく欠けている。苦しまないから他者が苦しんでも同情もできないのである。でも自らが障害者の子どもを持つようになったときその苦しみを理解できるのである。


これは人間社会に共通していることである。大きく見れば人間の歴史を見ればやはりカルマの法則がそこに働いている。驚いたのは黒人の国イスラムのアフリカの国がヨーロッパの白人の女性を奴隷として売買していたことである。それもカルマとなり今度は自分たちが黒人が奴隷にされたとなる


今日本が貧乏になり外国人が日本は安いとして観光に来る。その中にはやはり売春のために来る人もいる。そのことは別に景気がいいときは東南アジアであれどこであれ貧乏な国ではしていたからである。つまりそれもカルマなのである。あなたのしたことは必ずカルマとなってかえってくる。アメリカは日本に原爆を落とした。そのカルマはあまりにも大きいものだったのである。原爆の苦しみをアメリカは知るためにはアメリカに原爆が落とされて何十万と死んでみない限り苦しまない限りわからないのである。


アメリカだけが自国が戦場になっていないから戦争の悲惨さを知らないのである。常に遠くから攻撃するのがアメリカだからである。国でもそれぞれカルマを背負っている。だから世界史でも言うまでも栄える国はない、盛衰が必ずある。アメリカも衰退の時期に来ている。

人間は絶えず戦争を続けてきた。第一次世界大戦、第二次世界大戦と何千万と死んだのである。つまり戦争はなくならないというとき人間のカルマも消滅しないということである。だからこそ、人間はそのカルマが積もり積もって最終的に人類はハルマゲドンで滅亡する。カルマの集積が限界を超えてついには自滅して行く。または神によって裁かれノアの洪水のように大自然災害が起きて滅亡するとなる。 

2023年08月01日

昨夜は遠稲妻が光り今日は朝から雷鳴り停電になった (電気が通じないことの怖さ)


昨夜は遠稲妻が光り今日は朝から雷鳴り停電になった


(電気が通じないことの怖さ)



いなづまやきのふは東けふは西

其角「曠野」


幾たびも遠稲妻や雲に月


朝の雷打ち轟きて目覚めかな


夕べは遠くに稲妻が何度も光っていた夜も光っていた。でも全然雷の音は聞こえなかった。それは遠いところで鳴っていたからだろう。そして月が光っていた。何か異様な光景だった。

そして今日は朝から雷が激しく鳴った。そして多少雨は降った。ところが南相馬市の一地区で私の住んでいる場所で停電になったのであるやはり雷が影響したのだろう。この停電の怖いことはパソコンが壊れる場合があるからだ。するとせっかく記録したものさえ聞いてしまうのが怖いのである


今回の停電は狭い地区であった。200戸だけだった。東北電力の人が電柱を見て歩いた。でも意外と早く回復した。長引くと思ったからである。それで電気が止まると冷蔵庫も止まるし食事の用意をするとき電気でするのでできないと困る。この暑い時冷蔵庫が止まることは困る。中の物は腐ってしまうからである。電気というのは今の社会で重大なものになっているか分かる。それは停電してみると分かるのである。


あらゆるものは電気を使っているからである。だから停電してみると電気のありがたみが分かるのである。ええ、東京電力の人は原発事故のとき電気なくなったらどうするのだと脅すようなことを言ったからである。それだけ電気というのはライフラインになっているのである。何かあらゆるものが電気が止まると機能しなくなるのである。だから本当は停電の対策をしておく必要がある。病院などでは自家発電の備えがあるのは当然である。命にかかわるからそうなっているのである。 


それでDellのノートパソコンは停電しても切れていなかった。だから普通に使えていた。なぜなら充電式になっていて電気が切れても電池から使えただから一瞬停電と思わなかったのである。ただ、食事の用意をしようとしたとき、電気が使えないので停電だと分かったのである。それも狭い200戸くらいが停電になった

外に出て確かめても電気をついていたからどうなったのかと心配だった。回復するとは思えなかった。停電でも長い停電というのは経験していない。それだけ日本の電気会社はやはり優れているともなる。


いずれにしろ昨日は俳句の季語だ遠稲妻となる。でもそれは秋の季語なのである。雷は?夏の季語でこれも何か?理解しにくい。まだ真夏だからである。それで秋の季語となるのは理解できない。ただ昨日は夜も稲妻が光っていた。だから朝になって。移動してきたことは理解できる。でも雨は大して降らなかった。それが何か心配なので。雨があまり降らないから。どうなってしまうのだろうという心配がある。


とにかく早く回復して助かったとなる。ガスはないので食事もできなくなる場合があった。やはりなんか天気が止まってもガスとかでも他の事でも必要なのかもしれない。だから。充電器というのは? 蓄電池が必要ともなる。何故ならこのように電気が切れるとお手上げになってしまうからである。もしクーラーなどでも電気が切れるとこれだけ暑いと熱中症で死ぬ人さえ出てくる。電気というのはライフラインであり、生命線になっている。でも原発事故のようなものはありそれもまた危険だしソーラーパネルでも自然景観を壊してまた危険でもある。だから何か電気というものが必要でも問題がある。そのことで技術的に何かできないかとなるが。それも出来ていないのである。


ただ、電気に頼り過ぎると電気がこないと何もできなくなり、お手上げになってしまう。それで津波のときどうなったか?裏山の清水を使いそこらにある木材を燃やして米を炊きそれで何とか凌いでいた。もう電気も水道も何も使えなくなったからである。そういう時帰って原始的生活をしている人は生き延びるともなるので。実際に私の戦後の子供時代の時は電気は裸電球一つであり燃料は炭であり水道もないから近くの家の井戸の水をもらっていたのである。そのときガスも使っていない。そういう生活は電気がなくても持続可能な社会となり。まさに持続するのである。電気は実際はなかなか高価なものでありそのエネルギー源となるものは石油とか石炭であり。それが日本にはない。ガスもない?それでエネルギーは脆弱なのである。


ともかくこの停電というのは一番影響が大きい問題かもしれない。もちろん食糧不足もそうだがその食料を料理する為には電気が必要だからである。そしてあらゆるところに電気を勉強を使っているから電気が通じないとお手上げになってしまうのである。ソーラーパネルなどは自宅に備えていれば自家発電できるということはある。だからソーラーパネルでも全部を否定するということはできない。個人の場合は、もしかしたらい良いものなのかもしれない。ただ、それにしても警官を壊すから嫌なのである。