2023年08月08日

村は大きな家族だった (広域化グローバル化で心の繋がりは消失―モノが入っても心は繋がらない)

村は大きな家族だった


(広域化グローバル化で心の繋がりは消失―モノが入っても心は繋がらない)


●家族の範囲が狭すぎる―昔の村は大きな家族だった


今家族に何が起きているのか?家族のつながりが弱くなっている。それはなぜか?家族だけの繋がりでは足りないからである。ファミリーとはは大きな集団のことであり夫婦とか子供とか祖父母とかの家族ではない。もっと大きな集団のことである。それは村社会と似ているかもしれない。村というのはある意味でファミリーであり家族とも似ている。だから何かあると助けあうのである。農村社会であるとどうしても互いに助け合わないと仕事もできないしその共同体も維持できないからである。そのために村に生まれた子供は村全体の子供となる。


出生〜幼年期では、「帯の親:オビノオ ヤ/取上げ親:トリアゲオヤ/乳付け親:チツケオヤ/抱き 親:ダキオヤ/名付け親:ナツケオヤ/拾い親:ヒロイオヤ /守り親:モリオヤ/養い親:ヤシナイオヤ」の 8 つの事例 を取りあげる。次に、成年期以降では、「烏帽子親:エボシ オヤ/鉄漿親:カネオヤ/仲人親:ナコウドオヤ/職親:シ ョクオヤ/草鞋親:ワラジオヤ」の 5つの事例を取りあげる。 仮親制度には、親が子どもの成長を願う思いの表れとして、 呪術的な要素と社会的な要素の 2つの意味合いをみることが


これだけ村で生まれた子供には周りの人が村人が関わっていたのである。それは明らかに村という集団のコミュニティの一員として育てるためにそうなったのである。


現代の問題は家族の範囲が狭くなりすぎたのである。核家族化がそうである。ついには親一人、子一人とかになってしまった。シングルマザーが子育てするにも一人なのである。また老人でも孤独死が多くなるのはこうしたコミュニティが喪失したからである。ファミリーの語源が。実はかなり広い範囲の意味であり集団のことだった。


そうなったのはまた社会経済の構造があまりにも変化してしまったからである。今や村と言う500人くらいの単位の社会ではない。広域化してさらにグローバル化して世界の経済の中に組み込まれる。すると別に村の中でそうしたコミュニティとかに入らなくても暮らしていける。物でも世界から入ってくるのからなんでも買える

かえって村の自給自足的な生活だったらものも買えないし。生活すらできなくなる だからこそ村八分にされることは一番厳しい罰だったのである。村のの自給自足的な生活では物が買えないし、入ってこないからである。だからこそそういう背景があり村のつながりとか小さなコミュニティーの人間の繋がりは消失したのである。


だからしきりに戦後間もなくまでは醤油がないとかでも味噌がないとかでも隣の人にくれとかあり助けてくれと言えばもらえたとかいう人がいる。それは物がない時代でありみんなが貧乏だから、かえって助け合ったのである。

今は金がないとどうにもならない。隣に何かそんなものをくれと言ったら応じる人はいない。醤油もないのかとなって馬鹿にされるだけになってしまった。何か助け合うということがなくなり常に金だけが問題になるのである。


現代では金がないということはどれだけ苦しいことかわかる。隣近所する無関心であり何も金で買えばいいとなってしまうからである。

そしてあとはに福祉に頼れと言うだけなのである。奇妙なのは福士に世話になっていた人は私が困った時その人自体が福祉に頼れと言っていたのである。その人はまともな人ではなかった。でも助けたことがあったし、その母親にの親は助けられたので助けたのである。その人は死んだ。


●広域化グローバル化で地域の繋がりが希薄化


現代とはあらゆるものを買う社会である。水すら買っている。だから金がなくなれば生きていくこともできなくなる。でも子供の時使っていた態度が井戸があり今も水が出ている。夏でも冷たい水が出ている。

天然の冷蔵庫から出ているのである。

それはこの辺の原発事故でも放射性物質に汚染されていないと持ち主が言った。検査したのでそれは確かなのだろう。その水が無料だということに感心した。無料で使っていいと言われたからである。子どもの時もそうだった。それは子供の時から持続して水が出ていたのである。その時は風呂場でその水を利用して使っていたのである。だから金わからなかったのである。今は水を飲むにしろ使うにしろ金がかかるから金なしではもう何も出来なくなってしまったのである。


何か近くに味噌屋がある。前だったら必ずそのみそや辛味噌を買っていた。味噌はそこで作っているからである。でもそこから今は買っていない。一人であり出しつきでないので買っていない。スーパーでいろいろだしつきの味噌があり。味噌でもいくらでもどこの味噌でも日本中から入って来て買える。こうして近くは重要なものとならないのである。また近くと関係しなくても金さえあれば何でも買えるそこで田舎からだと言って何か助け合うということもないし。身近で何かを賄うというよりただ金を出してさえいれば何でも買える。通信販売も発達して商品の量が種類が莫大に増えたのである。金さえあれば別に近くにいなくてもなんでも買えるとなる。


ただ自転車とかは後の修理とかあるので困るのである。この辺の街の一軒の自転車の人は死んだから誰もその後見てくれる人はいない。そこでなかなか金だけでもあらゆるものが使えるとはなってはいない。こうして経済が広域化してグローバル化すると近くは大事にならない。それは交通の発達にもよる。なぜなら近くの人が梨を作っていたが相馬市まで運ぶのに15キロぐらいありリやカーで運んでいたからである。そうなると運ぶこと自体が大変な苦労になるしそれを売って金にするにも大変な労力が必要になっていたのである。でも今なら運ぶことはいくらでも簡単とは言えなくても車で運べる。その変化も大きかったのである。


なぜ無縁化社会といわれるようになったのか?無縁化社会になったは神社で無縁の場を作りそこで外から入ってくる人に商売させた。それは外から入ってくる人がいると村のコミュニティがつながりが壊されることがあるからである。それでそのような外から入ってくる人を限定するために、そうしたのである。

それは確かにそうだったのである。もはや外国からでも食糧でもなんでも入ってくる。すると村だけで何かを賄うという社会とはまるで違っている?でも実際は外国からいくらものが入ってきてもその人とつながるわけではないのである。ただ物だけが入ってくるのである。でもその物が欲しいとなれば、金が必要になってくるのである。そこで金がますます重要になってくる。人のつながりより金の方が大事になってくるのである。


ただ昔からの切れ目が縁の切れ目ということあり貨幣経済がひろがるとそうなるのが必然なのである。 外国からいろいろなものが入ってきてもそれでその外国の人間とつながりが共同ができるというわけでもない。その人は直接会うこともないしただ物を通じて外国と関係しているからである。だから何かあるとその関係も切れて戦争になったりする。人間と人間の繋がりが必ずしもものを通じて行われていないからである。

ただ、人間は金だけを頼っては生きていけない。金で全部まかなえるということはない。それは介護の時如実に表れてくる。金が物を言うということはある。でも金だけで親身になった世話はできない。そこに心が伴わないとどうしてもうまくいかない。


●物が世界から買えても心は繋がらない


でも逆に今親子でも必ずしも子を育てるより虐待したり子供でも大人になると親を虐待するようになる。老人になると力逆転してくるからである。親が虐待されているので。何かその息子は親をこき気使うというか他人のようにしか思ってない。

それで親は泣いていたのである。息子から虐待されていたのである悲しいとなる。でもそういうことは今の時代に起こっている。誰に頼るかということがそれで問題となる。その女性は息子に頼ったのだが虐待されているのである。言葉の暴力であるババとか親を病気をした親を虐待しているのである。ただ他者も家族はわかりにくい、どうしてすなるのかとなると外から見tてわかりぬいからである。


こういうことは自分も親の介護で嫌というほど経験した。 私のところに来たのは事業で失敗した人とかで金がないという人である。頼ったのはそういう人たちであり一人はれっきとした泥棒であった。それで家探しされて大金を失った。ほかの人もなんら助ける気持ちなどなかった。多少はあったがただ金が欲しいというだけできたのである。つまりそういう人にしか頼れなかったというのも自分のカルマだったのである。


ほかの人も誰に頼るかということは、老人にとって大きな問題なのである。家族がいれば息子がいれば娘がいれば兄弟がいればとなるがその人たちが助けるとは限らない。かえって嫌がられうとまれる。親が捨てられるそういう事例を知っている。その娘はひどい娘であり親が私に最後にひどい娘だと言って来てまもなく死んだのではある。その娘は介護などできない。だからそんな娘に頼ることはできないから、死んだ方がよかったのである。

こうして誰に頼るかが最後に問題になる。でも家族の範囲が小さくなるとなかなか大家族のように人手に余裕がないから介護でも面倒見れなくなるのである。 これは肉親でも同じなのである。


別に遠くから外国でも物が入ってくることは悪いことではない。でもそこで人の繋がりが出来るわけではない。だから何かあると物が入ってこなくなる。そして戦争にもなる。だから物が入ってきても互いに貿易してもそれで繋がりができるとは限らないのである。食料不足にな自分の国が最優先となり食料は入ってこないのである。 そこにグローバル化の問題がある。ただ物が入ってきて悪いということではない。問題は人間の繋がりが物が入ってきても。生まれるわけではない。それはあくまでも物のやり取りだけであり。心のやりとりは交流は無いのである。だから、金の切れ目が縁の切れ目になりやすいので。それは今の社会でどこでも起きていることである。


親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ (親より今は金が大事な時代): 今日の一句一首(小林勇一) (musubu.sblo.jp)




posted by 天華 at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題