2023年08月27日

人間は生まれつきですべて決まらない


人間は生まれつきですべて決まらない

(一つの行為でも変貌してライオンにもなる)

「What do you do?」か「What are you?」か
欧米のビジネスの場では、初対面の相手に英語で素性を尋ねる際に、「What do you do?」という質問の仕方をよくします。一方、日本では多くの場合、「What are you?」という聞き方をします。

「What do you do?」は「あなたはどんな行動をして、どんなパフォーマンスをあげていますか?」という意味です。つまり、「人にどんな価値を提供できるのか」という可能性を聞いています。

●人間の特徴−動物との相違ー生まれつきで決まらない

人間の特徴とは何なのか。動物なら生まれた時からすでにその未来は決まっている。猫に生まれたらネコであり犬に生まれたら犬でありネズミに生まれたらネズミである。
そして別に生まれてすぐにも自ら立って本能でも生きてゆく。確かに親に教えられ餌を取る能力を身につけるがそれも短い期間である。本質的には本能によって教えられなくても自ら生きる力を持っている。

では人間はどうなるのか。確かに人間でも生まれつきの才能は大きく作用する。だから生まれつきの才能でその将来も決まるとかも言われる。それも現実ではあるが人間にはそれがすべては当てはまらない。人間の特徴はその生まれた家族とか環境の影響が大きいのである。
どんな家に生まれたのか。どんな場所に生まれたのか。どんな人々と交わって育ったのか。そういう環境因子が人間を作る。
そして人間は生まれつきとかですべてが決まるわけではない。確かにその生まれつきの性格とか才能は後々まで影響する。でも人間の特質はその生まれつきのものを超えて人間自体が変わることができる。

極端に言えば自然界ではネズミはネズミであるネズミがライオンになったりはしない。でも人間の場合はネズミのようなものであってもあることをきっかけに行動によってライオンにもなるのである。人間っていうのはだから生まれつきで決まって決められないのである。一つの行為で人間は変わる。
だから聖書の不思議は理屈ではないし理論でもない。神に選ばれた人間が奇跡を示す。それが聖書の基本的な物語である。その神に選ばれた人は人間として特に優れた人でもなかった。
だからなぜそのような人が神に選ばれたのかという不思議がある。優秀な人がいるのだからその人を選べばいいとなる。でも天才とかなると確かに人並み優れたものとしてありそれも稀であるがそういう人は神に選ばれなかったのである。

●一つの行為でも神に選ばれて人間は変わる

人間の特徴はこうして生まれつきでは決まらない。人生を生きる中で一つの行為でそれがその人を変わることがある。つまり人間にとって大事なのは必ずしも生まれつきではない。何か一つの行為がきっかけとなりそれで神に選ばれるということが聖書を読めばそういう何かを神に選ばれた人が何かを成すということを記したのである。

その神に選ばれた人はその人自身が何かを成したのではない。神の力はその選ばれた人に加わったのである。だからこそその選ばれた人が何を成すことが出来たのである。それはそこに神の力が加わったからである。そこに人間のと動物とかと違う。
とてもネズミがライオンになったりはしないからである。ネズミはネズミとして生まれ死んでゆく。しかし人間はライオンに龍にすらなる。だから人間は確かにお生まれつきとか環境とかの影響は大きい。でも人間は一つの行為でも変わることができる。そして壁に選ばれて神の力が加わり大きなことを成すこともできる。

動物の特徴はネズミから生まれればネズミであネズミの親から生まれればその子はネズミである。猫から生まれればその子も猫である。猫のの子から虎になったりはしないのである。でも人間の場合はもともとネズミでもあってもライオンや虎にもなる。
それは一つの行為によってそうなるのである。その行為というのは生まれてから生きる中で起きてくる。自らの意志で行為した時それはその人を変えてしまうのである。そこに神の力が加わりその人は前とは違った人となってしまうのである。
だから人間というものは神と結びつくことによって本当の力を得るのである。そして人間はどんなに能力があってもその人が優れていてもそこに限界がある。いくら優れていてもやはり全能の神からすればわずかな能力だとなってしまう。全能の神がなすことと人間のなすことの差が大きいからである。

●人間は神に選ばれない限り満足しない

そして人間は決してノーベル賞をもらったとしても満足することはない。どんなに優秀でも満足できないのである。でもたいして才能もない優秀でなくても神から認められるその人は満足するのである。それが聖霊であり永遠の命を神から与えられることである。
とにかく人間は自分が優秀だと相手と比べて常に競っている。学歴でも競っている。俺はお前より優秀なんだと常に競っている。そして他者と比べて必ず劣等感を持つのである。
だから人間の間で俺はお前より優れているとか比べているのは全能の神から見ればおかしなものになる。人間の持っているわずかな才能で俺はお前より優秀だとかするのは滑稽だとなってしまうのである。全能の神に比べれば人間などはとるにたりない能力しかないのである。

だからむしろそうして比べてどっちが優秀だとか言うのではなく赤い色があり黄色い色があり青い色がある。それぞれに個性がありどっちが優秀だということはないのである。ただ色が違っていて個性を持っている。でも赤も黄色も青も一緒になって決して争うことはないのである。返ってさまざまな色がありその個性が調和するのはこの世界である。それは花を見ればわかる。花は青いからといって赤い花より劣っているとか赤いから優れているとか競わないからである。さまざまな個性の花の色がありただ調和しているだけなのである。

●親と子、世代間対立は人間の宿命−時代が変化するから

また人間の問題としてネズミの親がネズミなら子もネズミとはならない。どんな親に生まれるにしろ親と子の人生は別なのである。
むしろ親と全く違ったものとなることがその人なりの人生を生きたということにもなる。だからカルト宗教団体の二世というのは全くその親の言うとうりになりその団体のいいなりになり身も心も一つの色に染められて自らの人生を生きることはしないロボットになる。そうしていれば親からも褒められ親の言いなりになって親に尽くしたとして褒められることになる。

でもそこで自分の人生は失っていたのである。そもそも人間の特徴として親の言いなりになって生きることがなぜその人自身の人生を失ってしまうのか。
それは人間というのはその社会でも常に変化している。価値観でも変化している。だから私の親が酒屋の丁稚であり私を丁稚にしてしようとしたのかもしれない。それでそらソロバンを習わせたり店をしていたから配達ばかりさせられていたのである。そういう環境にしかなかったからである。

でもはなぜか親は大学に上げろといっていた。それは親自体がそうして下積みで苦労して生きてきたから大学を出せば楽できると思ったのかもしれない。ただその時大学とは言っていない。そもそも大学ということを知らなかったと思う。明治生まれでおそらく学校も出てない人だったからだと思う。ただ上の学校に行けば楽できると見ていたのである。でも父親は中学のとき死んだのである。だから私の場合全く父親とは違う人生を送ったのである。それは旅の人生でありそれは遊びといえば遊びである。

でも不思議なのは団塊の世代はみんな企業戦士とか働くことしかなかった。でも最近なぜ自由に生きるとかみんなアーティストになれとかただ働くばかりの人間がいいものとみていない。そこに大きな価値観の変化がおきたのである。ただ働き詰めの人生が良くは見なくなったのである。

もし明治生まれの父親が生きてたら決して私のように旅ばかりして遊んでいたりしたらそこで衝突が起きて悲惨なことになった。それは時代によって価値観が変わってしまうからである。そこで親と衝突するのである。だからどうしても親と子は衝突する。それが普通なのである。親の言いなりになる時全てではないにしろその人自身の人生を失ってしまう。
それは特にカルト教団の二世に起きているのである。カルト教団にとってその言いなりになる人は親孝行でもあり親にとっては一番いい子なのである。それは既にその人生が親によって決められてしまったのである。それが宗教になっているから宗教は絶対だから余計に始末悪いものとなってしまったのである。

また親子の対立は世代間の対立であれこれは時代が変わってくるから起きる。でもこの世代間の対立があって次の時代が作られるのかもしれない。今までの古い時代の価値もあるが新しいものを作るときやはり前の古い価値も継続されるとしてもまた否定されなければなれない。
そういうことは明治時代におきたのである。古い日本の伝統的価値も継続されてまた新しい価値を外国から取り入れたからである。和魂洋才というのがそうである。だから不思議に明治時代に一番漢詩が興隆したのである。それができたのは江戸時代300年の蓄積がありそれが明治になって開花したのである。
それで明治時代は偉大な時代であった時代になったのである。だからすべて古いものを否定するということではない。でもどうしても親と子が対立するというとき世代世代間の対立はあるというときそれは当然のことなのである。それが人間の宿命でもあるわけである。

人間という存在は固定しては見れない。常に変化する存在なのである。社会自体も常に古いものを尊んでも新しいものを取り入れる新陳代謝しないと停滞してしまうのである。そこで少子高齢化というのは自然の理にも反している。古い伝統的なものも継続されるべきだがまた新しいものも取り入れて社会を刷新しないと遅れてしまうのである。今日本は貧困化して何か社会全体が停滞して危機的な状態にもある。それを変えようとやはり次の世代の若い力が必要である。どうしても老人は保守的になってしまうからである。また新しいものを取り入れない。だから老人はIT社会に馴染まないのである。すると日本社会全体が世界から遅れてしまうのである。